平安京は朝鮮半島からの渡来人が作ったアーカイブ最終更新 2019/07/25 11:231.日本@名無史さん「京都らしさ」の虚像と実像 祇園祭も平安京も渡来系 /京都 仲尾さんの著書は、古代から近世にいたるこの国、とりわけ京都の文化が朝鮮半島や中国大陸など東アジアの文明や文化と濃密に結合していること、 そして、それらの地域から渡来してきた人々やその縁に連なる人々に大幅に負っていることを詳細に明らかにした労作です。 ここでは、もう一つ、千年の都とか1300年の古都といわれる京都の始まり、すなわち平安京建都の話題を取り上げます。平安京はまさに“渡来人による都”でありました。 周知のように、平城京から長岡京そして平安京に都を移したのは桓武天皇ですが、この時代、 天皇の近親者の間では主に皇位の継承をめぐって血を血で洗う争闘が繰り広げられ、即位後の桓武も身の危険にさらされていたといわれています。 桓武としては、陰謀渦巻く平城京から、より安全で、かつ旧勢力の影響が少ない他地域に政治の場を移したかったはずです。 桓武が長岡京、そして平安京を目指したのは、桓武の母・高野新笠(たかののにいがさ)が山背国乙訓郡に生まれた百済王家につながる存在だったからでしょう。 また、山背国にはそれ以前から新羅系の渡来人・秦(はた)氏や高句麗(こうくり)系の狛(こま)(高麗)氏など有力豪族が存在し、 そうした渡来系の人々が桓武政権を支えたはずです。 仲尾さんは、「特に秦氏の財力は織物や灌漑(かんがい)技術を中心に農耕技術に支えられた膨大なもので、桓武はこれらによって政権基盤を安定させました。 また、桓武が行なった人事を見ても、ほとんど“依怙贔屓(えこひいき)”とみえるほどに渡来系の人々を重視しました。 たとえば、文官では百済(くだら)系渡来人の菅野真道(すがのまみち)が『続日本紀(しょくにほんぎ)』を編纂して従三位に昇進しましたし、 武官では征夷大将軍にまで上り詰めた坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)も渡来系の人物です」と。 つまり、平安京をつくった人々の大半は、朝鮮半島から渡来した有力者だったことになります。 http://mainichi.jp/articles/20190720/ddl/k26/070/372000c?inb=ra出典 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/15640214162019/07/25 11:23:361すべて|最新の50件
仲尾さんの著書は、古代から近世にいたるこの国、とりわけ京都の文化が朝鮮半島や中国大陸など東アジアの文明や文化と濃密に結合していること、
そして、それらの地域から渡来してきた人々やその縁に連なる人々に大幅に負っていることを詳細に明らかにした労作です。
ここでは、もう一つ、千年の都とか1300年の古都といわれる京都の始まり、すなわち平安京建都の話題を取り上げます。平安京はまさに“渡来人による都”でありました。
周知のように、平城京から長岡京そして平安京に都を移したのは桓武天皇ですが、この時代、
天皇の近親者の間では主に皇位の継承をめぐって血を血で洗う争闘が繰り広げられ、即位後の桓武も身の危険にさらされていたといわれています。
桓武としては、陰謀渦巻く平城京から、より安全で、かつ旧勢力の影響が少ない他地域に政治の場を移したかったはずです。
桓武が長岡京、そして平安京を目指したのは、桓武の母・高野新笠(たかののにいがさ)が山背国乙訓郡に生まれた百済王家につながる存在だったからでしょう。
また、山背国にはそれ以前から新羅系の渡来人・秦(はた)氏や高句麗(こうくり)系の狛(こま)(高麗)氏など有力豪族が存在し、
そうした渡来系の人々が桓武政権を支えたはずです。
仲尾さんは、「特に秦氏の財力は織物や灌漑(かんがい)技術を中心に農耕技術に支えられた膨大なもので、桓武はこれらによって政権基盤を安定させました。
また、桓武が行なった人事を見ても、ほとんど“依怙贔屓(えこひいき)”とみえるほどに渡来系の人々を重視しました。
たとえば、文官では百済(くだら)系渡来人の菅野真道(すがのまみち)が『続日本紀(しょくにほんぎ)』を編纂して従三位に昇進しましたし、
武官では征夷大将軍にまで上り詰めた坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)も渡来系の人物です」と。
つまり、平安京をつくった人々の大半は、朝鮮半島から渡来した有力者だったことになります。
http://mainichi.jp/articles/20190720/ddl/k26/070/372000c?inb=ra