邪馬台国畿内説を斬る最終更新 2023/11/14 20:241.名無しさんr6RBv畿内説終了のお知らせです2023/10/09 11:37:3211コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.名無しさんr6RBvその①寺澤薫「「径は百余歩」が実数だとして、後円部の直径ではなく、墓域(兆域)の広さを指していると考えたらどうであろうか。」—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著※ 箸墓の径百歩は証拠にならないとハシゴを外された畿内説2023/10/09 11:38:373.名無しさんr6RBvその②寺澤薫の試算する奈良盆地の戸数は7000戸「王都を擁する「磯城下」と「磯城上」の二つの大共同体をあわせてもせいぜい四〇〇〇人。ならばヤマト国(邪馬台国)全体でも最大に見積もって一万五〇〇〇人ほどだろう。奈良盆地全体なら三万五〇〇〇人、戸数にして七〇〇〇戸ほどだ。」—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著※倭人伝の邪馬台国7万戸の1割が実数とハシゴを外された畿内説2023/10/09 11:39:254.名無しさんr6RBvその③「纒向遺跡が形成された初瀬川上流の「纒向川扇状地」小共同体(図 7の L)には、弥生時代の拠点的母集落はおろか、集落といえるほどの遺跡がない。自然林に覆われた空閑地に突如として纒向遺跡は出現したのである。 纒向遺跡の第一の特徴は、弥生時代にはほとんど人の手が入らなかった地域に、三世紀になって突然、人が集まりはじめて巨大な集落を形成し、一〇〇年もたたないうちに急速に衰退する点にある。」—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著※卑弥呼共立の2世紀の纒向には邪馬台国の痕跡が無いとハシゴを外された畿内説2023/10/09 11:39:555.名無しさんr6RBvその④モモソヒメの実在を疑う寺澤薫「実在性の不確かな崇神紀の倭迹迹日百襲姫像が、実在性の確かな『魏志』倭人伝の卑弥呼像と重ね合わされていった。」—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著※モモソヒメ=卑弥呼説を唱える畿内説はハシゴを外されてしまった2023/10/09 11:40:266.名無しさんr6RBvその⑤箸墓=卑弥呼の墓に疑問を呈する寺澤薫「第一に築造年代の問題である。箸墓古墳の築造は布留 0式古相期にはじまり、同じ布留 0式古相期のなかで終わっている。布留 0式古相期の暦年代を三世紀後葉とする私の考えでは、卑弥呼の墓の第一候補からは外れることになる。それに卑弥呼の墓が寿陵であった可能性を考えると、墓の基礎部分の造成は、卑弥呼が共立された三世紀初めの庄内式の早い時期にはじまっていなければならない。可能性はますます薄らぐ。」 —『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著※箸墓は卑弥呼の墓では無いとハシゴを外された畿内説2023/10/09 11:40:537.名無しさんr6RBvその⑥第二に墳形の問題である。箸墓古墳の後円部の径は約一六五メートル、高さは約二八メートルだ。これに対して前方部の長さは約一三五メートル、高さは約一八メートルに達する。側面からは双子山のようにみえる。はたして箸墓古墳を目撃した当時の魏の使者が、前方部(方丘)を無視して後円部(円丘)の大きさのみを記録するだろうか。日本独特の墳形である前方後円墳は、彼らの目にも異様に映ったはずなのである。 この疑問点を解消するために、後円部が先行して築造されたと主張する研究者もいる。本来は円墳であったが、のちに前方部が付加されたというのである。この手法は前方後円墳の築造手順としては存在する。しかし円墳であったものを、ある年月の経過後、あらためて前方後円墳に仕立てたというのであれば、その時間差を証明する考古学的根拠が必要だ。」—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著※ 箸墓は中国人が見た卑弥呼の墓では無いとハシゴを外された畿内説2023/10/09 11:41:288.名無しさんr6RBvその⑦「私が本書で提案したのは、そろそろ「邪馬台国」という一部族的国家に拘泥した議論はやめにしようということである。中国の史書のどこを紐解いても、卑弥呼が邪馬台国の女王であるとは明記されていない。」—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著※邪馬台国にこだわる畿内説は完全にハシゴを外されてしまった2023/10/09 11:42:099.名無しさんr6RBvその⑧「邪馬台国連合」からヤマト王権へという二段階論者には、私の主張の根拠の一つ一つに対して納得のいく反論を期待してきたけれど、議論はかみ合わないかスルーされるのが実情である。それどころか近年では、暦年代をさらに前倒しする説まで提出されている。「邪馬台国連合」の原型を「ヤマト国」と称し、大和川水系に起源をもつこの国が、弥生時代後期中葉の一世紀後半には畿内圏に求心力をおよぼし、纒向遺跡が出現する後期末(庄内式期)の二世紀前葉以降には西日本各地に影響力を拡大していったというものである[岸本、二〇一四年/岸本、二〇二〇年]。 こうした見方に触発されてか昨今、「邪馬台国連合からヤマト王権へ」というフレーズは概説書や博物館の展示解説などであとを絶たない。それはこの半世紀の考古学の成果や研究の蓄積を反故にするような、三〇年前の過激なヤマト優越史観への回帰としか思えない。はてさて、読者の方々はどのように受け止められるだろうか。」—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著2023/10/09 11:42:4710.名無しさんr6RBv寺澤薫の間違った認識「また写真 2は、李氏朝鮮の一四〇二年に作成された『混一疆理歴代国都之図』である。そこでは倭地が北部九州から南へと長く延びた島国として描かれている。正しい方位の地図がすでに存在する一五世紀でも、こうした地理観は残っていたようだ。朝鮮半島から最初に到達する九州島が日本列島の北端にあたるという認識は、唐の賈耽の『海内華夷図』(八〇一年)にまでさかのぼることができる[海野、一九九九年]。倭国に対する中国人のこのような地理観は、それ以前はより普遍的だったとみてよいであろう。」—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著https://i.imgur.com/afsL9NF.jpeg2023/10/09 11:45:1111.名無しさん6XqkE> 『混一疆理歴代国都之図』である。そこでは倭地が北部九州から南へと長く延びた島国として描かれている。正しい方位の地図がすでに存在する一五世紀でも、こうした地理観は残っていたようだ。朝鮮半島から最初に到達する九州島が日本列島の北端にあたるという認識は、唐の賈耽の『海内華夷図』(八〇一年)にまでさかのぼることができる『混一疆理歴代国都之図』である。そこでは倭地が北部九州から南へと長く延びた島国として描かれている。日本を正しい位置で正しい向きで書くと日本が地図内に収まらなくなるからだ。ただそれだけの事である。2023/11/14 20:24:45
寺澤薫「「径は百余歩」が実数だとして、後円部の直径ではなく、墓域(兆域)の広さを指していると考えたらどうであろうか。」
—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著
※ 箸墓の径百歩は証拠にならないとハシゴを外された畿内説
寺澤薫の試算する奈良盆地の戸数は7000戸
「王都を擁する「磯城下」と「磯城上」の二つの大共同体をあわせてもせいぜい四〇〇〇人。ならばヤマト国(邪馬台国)全体でも最大に見積もって一万五〇〇〇人ほどだろう。奈良盆地全体なら三万五〇〇〇人、戸数にして七〇〇〇戸ほどだ。」
—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著
※倭人伝の邪馬台国7万戸の1割が実数とハシゴを外された畿内説
「纒向遺跡が形成された初瀬川上流の「纒向川扇状地」小共同体(図 7の L)には、弥生時代の拠点的母集落はおろか、集落といえるほどの遺跡がない。自然林に覆われた空閑地に突如として纒向遺跡は出現したのである。 纒向遺跡の第一の特徴は、弥生時代にはほとんど人の手が入らなかった地域に、三世紀になって突然、人が集まりはじめて巨大な集落を形成し、一〇〇年もたたないうちに急速に衰退する点にある。」
—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著
※卑弥呼共立の2世紀の纒向には邪馬台国の痕跡が無いとハシゴを外された畿内説
モモソヒメの実在を疑う寺澤薫
「実在性の不確かな崇神紀の倭迹迹日百襲姫像が、実在性の確かな『魏志』倭人伝の卑弥呼像と重ね合わされていった。」
—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著
※モモソヒメ=卑弥呼説を唱える畿内説はハシゴを外されてしまった
箸墓=卑弥呼の墓に疑問を呈する寺澤薫
「第一に築造年代の問題である。箸墓古墳の築造は布留 0式古相期にはじまり、同じ布留 0式古相期のなかで終わっている。布留 0式古相期の暦年代を三世紀後葉とする私の考えでは、卑弥呼の墓の第一候補からは外れることになる。それに卑弥呼の墓が寿陵であった可能性を考えると、墓の基礎部分の造成は、卑弥呼が共立された三世紀初めの庄内式の早い時期にはじまっていなければならない。可能性はますます薄らぐ。」
—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著
※箸墓は卑弥呼の墓では無いとハシゴを外された畿内説
第二に墳形の問題である。箸墓古墳の後円部の径は約一六五メートル、高さは約二八メートルだ。これに対して前方部の長さは約一三五メートル、高さは約一八メートルに達する。側面からは双子山のようにみえる。はたして箸墓古墳を目撃した当時の魏の使者が、前方部(方丘)を無視して後円部(円丘)の大きさのみを記録するだろうか。日本独特の墳形である前方後円墳は、彼らの目にも異様に映ったはずなのである。 この疑問点を解消するために、後円部が先行して築造されたと主張する研究者もいる。本来は円墳であったが、のちに前方部が付加されたというのである。この手法は前方後円墳の築造手順としては存在する。しかし円墳であったものを、ある年月の経過後、あらためて前方後円墳に仕立てたというのであれば、その時間差を証明する考古学的根拠が必要だ。」
—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著
※ 箸墓は中国人が見た卑弥呼の墓では無いとハシゴを外された畿内説
「私が本書で提案したのは、そろそろ「邪馬台国」という一部族的国家に拘泥した議論はやめにしようということである。中国の史書のどこを紐解いても、卑弥呼が邪馬台国の女王であるとは明記されていない。」
—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著
※邪馬台国にこだわる畿内説は完全にハシゴを外されてしまった
「邪馬台国連合」からヤマト王権へという二段階論者には、私の主張の根拠の一つ一つに対して納得のいく反論を期待してきたけれど、議論はかみ合わないかスルーされるのが実情である。それどころか近年では、暦年代をさらに前倒しする説まで提出されている。「邪馬台国連合」の原型を「ヤマト国」と称し、大和川水系に起源をもつこの国が、弥生時代後期中葉の一世紀後半には畿内圏に求心力をおよぼし、纒向遺跡が出現する後期末(庄内式期)の二世紀前葉以降には西日本各地に影響力を拡大していったというものである[岸本、二〇一四年/岸本、二〇二〇年]。 こうした見方に触発されてか昨今、「邪馬台国連合からヤマト王権へ」というフレーズは概説書や博物館の展示解説などであとを絶たない。それはこの半世紀の考古学の成果や研究の蓄積を反故にするような、三〇年前の過激なヤマト優越史観への回帰としか思えない。はてさて、読者の方々はどのように受け止められるだろうか。」
—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著
「また写真 2は、李氏朝鮮の一四〇二年に作成された『混一疆理歴代国都之図』である。そこでは倭地が北部九州から南へと長く延びた島国として描かれている。正しい方位の地図がすでに存在する一五世紀でも、こうした地理観は残っていたようだ。朝鮮半島から最初に到達する九州島が日本列島の北端にあたるという認識は、唐の賈耽の『海内華夷図』(八〇一年)にまでさかのぼることができる[海野、一九九九年]。倭国に対する中国人のこのような地理観は、それ以前はより普遍的だったとみてよいであろう。」
—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著
https://i.imgur.com/afsL9NF.jpeg
『混一疆理歴代国都之図』である。そこでは倭地が北部九州から南へと長く延びた島国として描かれている。
日本を正しい位置で正しい向きで書くと日本が地図内に収まらなくなるからだ。ただそれだけの事である。