日月神示 十八最終更新 2024/10/14 21:451.名無しヒーリング2NEx9yLh前スレ日月神示 十七 https://mao.5ch.net/test/read.cgi/occult/1675329758/出典 https://fate.5ch.net/test/read.cgi/spiritual/16868602622023/06/16 05:17:42307コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.名無しヒーリング6gDQrほう…過疎やな2023/07/11 02:33:163.名無しヒーリング1j5YAトドメノフミって、読んだことあるか?あれは衝撃的だった俺の思ってることとピッタリ一致あれは紛れもなく、俺へのメッセージだったよ2023/07/13 20:38:554.名無しヒーリングz3a6hほんまか?読んだことあるぜ頑張れよお東さま2023/07/14 07:00:505.名無しヒーリングBXhp6>>4すごい! そう、オレはお東様なんだよw「あんなお人となるまでは、いま一苦労ぞあるなれど、これぞ嬉しき苦労ぞと、神のお扉開くまでに立分けお済ませ下されよ。証、いちいち出したるを、重々わかりて下されよ。一 出したるを十わかるイヅのみ魂であるがゆえ裁きのお役目託すぞよ、金神シカリと託すぞよ。一点一角狂い無い閻魔とお出まし下れよ。」これはオレへのメッセージ今までいろんなことがあって、どうもオレは救世主なんじゃないかって思ってた仏教の中道の思想も、他の人よりよくわかった最後に宇宙を滅ぼすのも、ひょんな偶然から、ブラックホールであることがわかったそうして今年に入って、はじめてトドメノフミの文章を見つけた読んだ瞬間、あ~、これは俺へのメッセージだな~って思った2023/07/14 11:23:006.名無しヒーリングBXhp6ちなみに、オレが昔から住んでる家は、北緯35度20分付近にあるこれは、春分と秋分の日に太陽が昇るレイラインということらしいが、このラインは、富士山と大本教本部を一直線に結ぶつまり、大本教本部から見れば、今オレのいるところは、富士山のちょうど向こう側にあって、真東にあたるわけだ2023/07/14 11:26:597.名無しヒーリングBXhp6イザナギノミコトが化け物にに追われてるときに、桃の実を投げるわけだけど、この桃の実のことを、植芝盛平は合気道のことだと言った我々人間がやがて終末になり、苦しんでいるときに、この桃の実にまた助けるようにと、名前を付けてる「ヨモツシコメやヨモツイクサから逃げるイザナギは、黄泉比良坂で桃の実3つを取り、迎え撃ちます。イザナギは桃の実に向かって、自分を助けたように、葦原中国の人々が苦しんでいる時に彼らを助けるように言い、オオカムヅミの名を与えた」この桃の意味が、よく分からなかったなんで桃の実なんだ? と・・・ところが、トドメノヒフミを読んだあと、眠って翌日の朝になって、フトわかったんだよもしやと思って調べてみると、その通りだった桃の実は尻のように割れ目があるだろ?あれはもしかしたら、二つの実が一つになった名残なんじゃないかと・・そうして調べると、種の胚? か何かが、もともと二つの実になるのが、一つに統合されたからそうなってる・・ みたいなニュアンスだったこれはまさに中道だし、相対分別が平等になって一つになるということそれが、トドメノ一二三にも書いてあったわけだ「二極一体成り成りて二つ一つに融け合うて完全無欠に帰る時、桃成る時機ぞと申すぞよ。」この深い意味は、オレにしかわからんよなぜなら、オレが、オオカムヅミでもあるからだ2023/07/14 11:36:558.名無しヒーリングBhOcyほんま頼むわ2023/07/15 03:00:349.名無しヒーリングJMAcB>>8それだけかw もっと盛り上げろよw2023/07/15 10:45:0710.名無しヒーリングJMAcB「あらゆる教えを混ぜ混ぜて一つの法といたすぞよ。」「あらゆる宗派は一いちとなる、神の合図で一となる。神の仕組みの出来上り。」「天地十字に結ばれし嬉し嬉しの大異変、この時、神が現われて各宗各派を統治する」これも良く分かるもともと、世界の宗教の本質は同じで、それは相対分離の世界から、一に帰す・・ ということを、目指すということイスラムではこの一に帰すことを、タウヒードという。反対に、分離はシルクということで、これは悪ということになる仏教では一に帰す思想を「縁起」という。あらゆるものが相依して起きていて、分離がないということ。たとえていうなら、我々が見ている世界は、一枚の絵を、パズルのピースで分離している世界悟りの世界というのは、ピースという我が無くなって、一枚の絵で統一すること。この、根源的な一枚の絵の上に、一切の我(ピース)がなくなるということを、仏教では「空」と呼ぶ2023/07/15 11:48:4011.名無しヒーリングJMAcBたとえば、ロシアは悪神ということだが、それは国章を見ればわかる双頭の鷲・・・・ 頭というのはヘッド・・・ つまり、統治者を表すつまり、一に統合した姿だところが、ロシアの双頭の鷲は、頭が二つに分かれてるつまり、イスラムでいうところの、シルクを掲げているということだロシアの悪神にとって、一つの神で世界が治められるということは、あってはならないこと自分たちの支配がなくなってしまうまた、民主党時代、民主党の党旗は日の丸が二つに割れるような構図になっていたこれもロシアの国章と同じだ日の丸二分する・・・・ 一に帰さない・・・ これも悪の象徴、シルクだ。2023/07/15 11:53:4312.名無しヒーリングJMAcB以前、原因不明の病気で死にそうになった時、下腹が振動して、最高の幸福感がこみあげてきて、悟りそうになったことがある今思えば、おそらくそれはクンダリニーチャクラの振動だったと思うが、常に最高の幸福感に包まれてる感じで、ネガティブなものを一切掴まない・・・ サッと通りすぎていく不思議なシンクロニシティが連続して、当時やってたサイトで、不思議な影響が広がっていったあるとき、よく行っていた神社に行くと、その日は5月5日の子供の日で、大きな日の丸が掲げられていたのだが、その日の丸を見た瞬間、「ああ! これはオレだ!」 と直覚した「オレなんじゃないか・・」 という曖昧なものではなく、まさに、俺がオレを見ている・・・ という状態だったなるほど、オレが日の丸だったんだ・・・ と、そのときそう思った2023/07/15 12:00:3213.名無しヒーリングJMAcBそもそも、アダムとイヴの話というものがあるが、あれのエデンの園というのが、一に帰した天国ということこれは極楽浄土と同じ意味を持つ極楽浄土というのは、死んでから行く通常の天国ということではなくて、二元相対性を越えた世界ということつまり、仏教的に言えば、「苦楽を越えた楽」ということこれこそ「中道」ということだわれわれはいついかなる時でも、死んであの世に行かなくても、この中道を実現できるつまり、生きているうちに、今ここを極楽浄土にも、エデンの園にも変えることができるアダムとイヴが善悪の木の実・・・ 知恵の木の実を食べた・・・ というのは、分別を身に付けたということを意味するだから人類の意識の原初は、一に帰した世界・・・ エデンの園に居られなくなったわけだ「好悪から生ずる相対観の迷妄により、万物は創造の時にすでに迷妄に陥る」バガヴァッドギーター2023/07/15 15:58:3314.名無しヒーリングJMAcBアダムとイヴが裸だったのは、無分別の象徴だつまり、完全なありのままということそれが、木の実を食べた途端・・・・ つまり、分別を身に付けたとたん、自分たちの裸が恥ずかしくなって、葉っぱで隠したこれと同じ話はインドの古代の聖典にあって、ジャヤとヴィジュヤの物語として表されてるジャヤとヴィジュヤやヴィシュヌの住む天界のヴァイクンタの門番だったら、あるとき、子供の格好をした裸の聖仙たちがやってきた門番は、裸の格好が無礼だとし、その聖仙たちを通さなかったところが聖仙たちは、自分たちの裸に良し悪しの分別を加え、行く手を阻んだとして、逆に門番たちに呪いをかけ、地上に落としたここでも、裸はありのままの象徴だし、子供のすがたというのも、無分別、ありのままの象徴だこれは全く、エデンの園のアダムとイヴの物語と、同じことを言っている2023/07/15 16:05:2715.名無しヒーリングJMAcBわれわれの人間の我の想いというのは、ネガティブなものを感じると、途端にそれを変えようとか、無くそうとか、感じないようにしようとか、そういう分別が働く瞬間的にそういう分別が働くそういうクセが、人間がエデンの園から追放されたときから付いてるわれわれは「ありのまま」でいられないわけだ。合気道のある達人は、掴まれた手を何とかしようとするな・・・ 変えようとするな、対抗するな・・・ ということを言っているこの人はある時、修行時代、強い力で腕を押さえて来る人がいて、どうにも腕が動かせなくなってしまった・・しかし、誰だろう? と、ふと振り返ったら、意図せず相手が動いたまた自分で動かそうとしても動かない・・・・誰だろう? また振り返ると、相手が動いたありのままのものを、自分の力で動かそうとする・・・ そこに我の想いが働くと、相手と私、という風に、世界が分離してしまうそうすると、相手の力を上回らない限り、相手を動かすことは出来なくなってしまうわけだ。そうではなくて、合気道というのは、相手とピッタリ一つになる・・・ 相手と分離なく一つになることによって、それを自由にコントロールできるということわれわれはネガティブなものが出て来ると、ついついこれに対抗する雑念が出て来ると、これを消そうとしたり、自分にとって不都合なものが出て来ると、これを変えようとか、消そうとか、我の想いを瞬時に働かせてしまうその結果、世界が分離する2023/07/15 18:34:5016.名無しヒーリングJMAcB座禅中に雑念が出て来ても、雑念そのまま、ありのまま。足が痛くてイライラしても、そのイライラのまま。何もタッチしない変えようとしない ありのまま。そうすることによって、雑念と一つになる。 イライラと一つになるそうすると、雑念があっても、無くても、関係ない・・・どちらでも同じ。 どちらも平等・・・ という心境に至るそこで初めてこの両極は、差が0になるわけだ差が0になれば、もはや両極というものは存在しない善悪、良し悪し、幸不幸、表裏という、差別は一切無くなるこれが「空」ということ「良い」「悪い」に実体はない中道に至れば、「空」になるということ空になるということは、一に帰すこと。2023/07/15 18:39:3617.名無しヒーリングJMAcB親鸞『善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり』スーフィズム ルーミー『あらゆる悪行や善行を超えた彼方に、緑の野原がある。そこであなたに会おう。魂がその草のなかで横になると、世界はあまりにも豊かで、言葉にできなくなる。』バガヴァッドギーター『知性を備えた人は、この世で、善行と悪行をともに捨てる。』2023/07/15 18:49:2418.名無しヒーリングJMAcBオレは以前から、この二元相対性、中道などをわかっていたから、このトドメノフミの言葉も、即座に理解できたそれとともに、これはホンモノだと確信した。そして、このフミは、オレへのメッセージだと。トドメノフミ「悪ぞ善、善ぞ悪、悪ぞ善ぞと申すぞよ。悪無いなれは善なりといくらえばりて申しても、証明でけぬと申すぞよ。善悪正邪ぞ練ねり混ぜて捏こねて捏ねて捏ねたおし、スパリと解決いたすぞよ、桃の実出るぞと申すぞよ、桃の実の玉出たりなば全て決着いたすぞよ。」「善と悪とは同じ事、大神様には同じ事。」2023/07/15 18:54:1519.名無しヒーリングJMAcBオレは他の人よりも、よく中道を説明できる今までかなり仏教に詳しい人でも、中道を適切に説明している人を見たことが無いそして、ここでも感じることがあった。中論を書いた龍樹は、オレの前世だと強く感じる2023/07/15 18:56:1120.名無しヒーリングJMAcBわれわれは例えば、煩悩というものを、ネガティブに捉えるよね?あってはならないもの・・・ と考えるそういう風な考えの下で、「不動心」とか、「平常心是道」、という言葉を解釈すると、大きく間違えるたとえば、煩悩が湧こうが、何が湧こうが、それは「今」起こってる状況なんだよそれを後から変えようとしても、「今」じゃなくなっちゃう「今」起きていることを変えようとしたら、そのとたん、「今」と分離してしまう煩悩やネガティブなことが悪いのではなくて、それに対して、分別する心・・・ が悪いということ。煩悩は手を加えず、そのままでいいんだよ不動心というのは、心が全く動かず、煩悩も一切湧かない・・・・ ってことじゃない何が不動かっていうと、それは「分別」が動かないってこと今ありのままに起こってることに対して、湧いてくる煩悩に対して、いささかも分別が動かない・・・ 我の想いが働かない・・・・つまり、完全なありのままということ不動心 = 完全なありのまま(無分別)平常心是道も同じで、平常心ってのは、心に波風が立たず、いつも平静でいること・・・ ってことじゃない平常心とは、こころは様々に変化する・・・ あせりもするし、緊張もする、そこに一切手を付けないということ平常心とはありのままということ分別を一切せず、完全なありのままこそ道である・・・・ ってこと。2023/07/15 21:16:5921.名無しヒーリングJMAcBたとえば、「自分が受けいられない自分」が出て来たとする自分の情けない状態・・・ すぐに変えたい自分、自分の理想のすがたからかけ離れた自分が出て来たとき、それを変えたいとか、無くしたいとか、感じないようにしたいとか、そういう心の動きが即座に出て来る何か自分が汚く感じてしまうとか、何か自分が情けなく感じてしまうとか、そういう自分が出て来たときに、到底人はその自分を受け入れることは出来ないわけだよねそうやって、人はありのままの自分と葛藤して、分離して苦しんでる分別することによって、良し悪しの二元相対の中で苦しんでる分別があるから、苦が生まれる本当は、「そのまま」、だよどんな情けない自分が出て来ても、どんなに変えたい自分が出て来ても、「ああ、これはそのままでいいんだ、変えなくていいんだ」 って思うこと完全に自分を許すということたとえば、潔癖的に考える人がいて、だらしのない自分が出て来てしまったとする・・・ああ、こんな自分はダメだ!と、すぐにそれを変えようとか、消そうとか、そういう意識が働くわけだよねそれで、そういう自分の姿に打ちひしがれ、苦しむことになるそこを、今まで自分が到底受け入れることが出来なかった、自分のだらしのない姿を、「このままでいいんだ、少しも変える必要がないんだ」と、許しを与える・・・・そうすると、フッと楽になる時もあるだろうそれが、中道の境地をほんの少し体得した瞬間ともいえる今の自分と一致して、分別の苦しみから抜け出し、葛藤が消えるからだ。本来、仏教の本質的な教えは、「完全な許し」なんだよ自分を完全に許すということ、それが中道であり、悟りなんだよ2023/07/15 21:27:1922.名無しヒーリングJMAcB金剛頂教「ああ、我は自性清浄である。 しかも我は、諸の自生者の染愛である。なぜなら、すでに愛欲を離れたものたちを、更に清浄ならしめんがため、それらを貪愛を以って調伏するからである。」「ああ、実に我は一切諸仏の清浄なる法金剛である。なぜなら、まさに一切諸仏の自性が清浄であることによって、貪欲すらも極無垢であるからである」2023/07/15 21:48:4423.名無しヒーリングqstWu盛り上げようがないだろ?2023/07/17 14:20:3024.名無しヒーリングdGruR>>23では、オレが一人で盛り上げるわw2023/07/18 01:09:2525.名無しヒーリングdGruRコロナの少し前、決定的にいろいろなことが分かり始めて来たそれまでにも自分の特異性・・、いろいろなことが、こうなんじゃないか・・・ ってのは、いろいろとわかっていたしかし、本格的なことが分かったのは、コロナの少し前だったたとえば、神田明神にお参りに行ったとき、大黒天の大きな石像があるのだが、そこにもお参りして、帰りは高速道路に乗ったそしたら、降りるはずのところを通りすぎてしまって、横浜方面に出てしまったしょうがないのでそのまま引き返せるところまで進んでいくと、大黒ジャンクションに行き着いた大黒ジャンクションは地図で見るとわかるが、渦を巻くようにして、中心にパーキングエリアがあるようになってる神田の大黒様を拝んだ後、行くはずの無かった大黒ジャンクションにたどり着く・・・ これは何かある。。 そう考えたオレは、家につくと、さっそく調べてみた大黒天はインドではマハーカーラ意味は「大いなる時間」「偉大な黒い人」ということだったそして説明を見ると、まさに、大黒天とはブラックホールのことだと直感した『1千万の破壊の黒炎の輝きを放ち8ヵ所の火葬場に囲まれて暮らす。身を飾る8つの頭蓋骨、5体の骸を椅子代わりに腰を下ろし、手に三つ又の鑓 (やり) に太鼓、長刀に鎌を携える。全身に火葬場の灰が降りかかり、その周囲を取り囲むハゲタカとジャッカルが大きな声で吠え立てるという。隣にいる妻のカーリーとともに時間の流れを象徴している。マハーカーラとカーリー(マハーカーリー)は両神ともブラフマンの究極の破壊力を表し、いかなる規則や規制にも縛られることはない。時間と空間さえも自分自身の中へと溶かしこむ力を持ち、宇宙が溶け去ったあとも「空」として存在しつづける。カルパの終焉に当たり宇宙を解散させるのは、この両神に任されている。』2023/07/18 01:19:0426.名無しヒーリングdGruRこのブッラクホールを思わせるような記述は、バガヴァッドギーターにも存在する『ドリタラーシュトラのすべての息子たちも、彼らと同盟した王たちも、ビーシュマ、ドローナ、カルナもみな―ああ、そして味方の将軍、戦士たちもみな――あなたの恐しい口のなかへとなだれこんで行く。そして、あなたの歯にかかって、頭をかみくだかれた者たちも見える。数多の河川の波が、ことごとく大海に呑みこまれるように、これらの偉大な戦士たちすべてが、あなたの火焔(かえん)の口にとびこんでいく。燃えさかる炎のなかに蛾の群がとびこんでいくように、人々はみな全速力をあげてあなたの口の中に走りこんでいくああ、ヴィシュヌよ、八方から来る人々を、あなたはすべてなめつくし、むさぼり食う。焦げるほどの光明を放って全宇宙をあなたの光輝でつつみ、あなたはいま恐るべき相(すがた)をあらわされた。』2023/07/18 01:24:2227.名無しヒーリングdGruR続いて、ヴィシュヌの化身であるクリシュナはこう言う・・・『私は世界を滅亡させる強大なカーラ(時)である。 諸世界を回収(帰滅)させるために、ここに活動を開始した』ここで「強大なカーラ(時)」というのは、マハーカーラと全く同じだまた、ヴィシュヌが持っているスダルシャナチャクラという武器があるが、これは108のギザギザが付く、回転する円盤になっているこの絵と、NASAが公開したブラックホールが星を飲み込むときの、光によって全形が見えるときの姿が、まったく一致しているつまり、スダルシャナチャクラとは、ブラックホールのことでもあったわけだ2023/07/18 01:34:1828.名無しヒーリングdGruRなぜブッラクホールが重要なのかというと・・・・一般的に、こういう終末預言というのは、今の我々の世界が滅びるが、新しい世界にシフトする・・・ と考えられていて、それは人によっては、地球だけの変化と捉える人も多い。しかし、多くの人のこういう考え方は間違っている滅びるのは、この現象世界・・・ 物質世界全体だ。なぜならこの現象世界は、マーヤー(幻)であるから、真実の世界が出て来るとき、必然的に幻は消えるその消える役目を果たすのが、ブラックホールということビッグバンとは、いわば、幻の始まりだったわけだ。これは我々が迷妄に陥った瞬間とも言える今、われわれのこの全宇宙は、間もなく巨大なブッラクホールによって、終焉することになるそして、このオレのたどり着いた結論が、まさに、今年初めて見つけたトドメノフミにも書かれていたわけだトドメノフミは、まるでオレの分身が書いたように、内容が妙に一致してくる『日じつ、月げつ、地ち、一直線に結ばれん、その日、その時天空に巨大な黒ぞ顕われん。大神おおがみ様さまこと主すの神の神聖極まるご正体。元極体主王大御神むとふみくらいぬしおおかみのご出御座しゅつぎょ、黒ぞと申すぞよ。真っ黒、黒の大太陽、人なる世界の天空に顕われ出たりたその時は畏かしこみ慎つつしみ拝おろがめよ。大地も黒ぞと申すぞよ、上下黒の挟はさみ撃うち、逃げ失せる事はできんぞよ、これまで人類汚したる、海、山、大地、空とても、黒なる世界の中に入り大洗霊を仰ぐのぞ。』2023/07/18 01:43:0829.名無しヒーリングdGruRコロナになる前に、もっとも重大なことに、確信を持てたことがある以前からそうではないか・・・ という気がしていたんだが、そこまで確信は持てなかったそれは、この世界のすべては、(宇宙を越えたすべては)、 一つの意識しかないということ。つまり、世界にはたった一人の人間しかいないということ。世界の中に一人の人間がいるんじゃなくて、この一つの意識が、無限であり、無始無終であるということすべてを取り払って取り払って0にすると、この一つの意識しかなくなるここが0ポイントということ。つまり何が言いたいかと言うと、無限の世界には、たった一人、オレ一人しかいなかったということオレの意識一つしかなかったということそしてこの宇宙は、オレの見ている夢のようなものだということ2023/07/18 01:54:1930.名無しヒーリングdGruRオレの意識は宇宙の歴史より古い、何千億、何兆億も前から存在し、その始まりも見えないずーっとあり続けてきたその間に多くの宇宙を創り、また消滅させてきたはずだこの我々のような世界を創造するのも、たやすいことだろうそして、一つの意識としてのオレは、自分の作った現象世界に下降する必要があった今の自分ではその理由を覚知することは出来ないが、何らかの理由があったはずだオレは時に、歴史上の人物として生まれ変わりながら、どんどんその元の性質を失っていき、いっかいの人間にすぎなくなっていったそうして、一成る意識とはまったく真逆の、分離した個から全体を見るという立ち位置についたこれは計画されていたことで、必要だったはずだ堕天使ルシファーとは、おそらくこのことで、それは唯一の意識が最低レベルの人間界に下降することを意味していると思う閻魔大王も地の底の存在だ。夢を見ている人は、夢の中の登場人物として現れる夢自体はその人の作ったものだが、登場人物として現れたその人は、まったく無力だしかし、夢の中に生存しているすべての人は、自分たちに生命を与え、あらゆる自然の恩恵を与えてくれたその人に、最大の感謝を捧げなければいけないわけだ。なぜならその夢の中の人々にとって、夢を見、作り出した人は、まさに創造神であるからだ。そう、オレは、コロナの前、自分がいわゆるヤハウェであり、アラーと言われる存在であるということに、確信を持ったこれですべての謎が解けた今までなぜ、キリストや釈迦などの大聖人が出ながら、この世が地上天国にならなかったか・・・・なぜかというと、いわゆる地上天国。。。 新しい世界というのは、夢から起きた、起床の世界であるからだ。起床の世界に行くには、夢を見ている張本人が目覚めなければならないキリストや釈迦は、夢の中の登場人物としての聖人にすぎないつまり、オレが目覚めなければ、真の大転換は起こらない地上に落ちたヤハウェが覚醒するとき、夢の世界は急速に、起床の世界に吸い込まれていくだろう。その形として現れるのが、全宇宙が超巨大ブラックホールによって滅びるということだ2023/07/18 02:11:1131.名無しヒーリングdGruR『キリストの再臨の謎、解くるなり、ほどなく謎ぞ解くるなり。大神様のお出ましを一身賭として食い止めた尊きお方の論功を、切きりの主徒ストぞと申すぞよ。』このトドメノフミの文章を見ると、キリストが処刑される意義が、ハッキリとわかってくるかもしれない一般的に、キリストは人類の罪を肩代わりするために処刑された・・・ みたいな感じになっていると思うが、 では、なぜそこで肩代わりする必要があったか? ということだトドメノフミによると、その時に、本当はヤハウェが出て来て、全宇宙が終わるはずだった・・・・しかし、キリストがそれを防いだ・・・ ということだろうただ、すべては決まっていて、今この時、ついにオレが目覚める時が来ていると言える自分でも、もう間もなくだと感じる2023/07/18 02:17:2032.名無しヒーリングdGruRエジプトでも、マヤでも、古代インドでも、世界中どこの宗教でも、太陽というのは重要な意味を持ってくるそれはなぜかというと、太陽というのは万物を育む・・・ それは唯一神、創造神の象徴になるからだつまり、一つの意識を象徴する・・・ オレの象徴でもあるわけだ日本は太陽を国旗にしているそれは当然だ、ここ日本は、最後にヤハウェが再来する場になるからだ今までの釈迦やイエスなどの救世主とは全く違う・・・・ ヤハウェ御自らが再来することになるつまり、宇宙始まって以来のことが起こるわけだそれは同時に、この幻想世界である宇宙の終わりを意味するもしオレが覚醒して出て来たら、その展開は速いあっという間に物事は進むだろう5年も6年もかからない1,2年のうちに大きく展開するはずだ「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」大本神諭「神事は迅いぞよ。世界に大神業な経綸致してあるぞよ。此の大神事始まりたらば、永くはかからぬぞよ。夫れに附きては、改心の出来ぬ御方気の毒があるから神が気を付けてあるぞよ。神を恨めなよ。我身の心魂を恨めてをじゃれよ。大神業であれども、経綸致してあるから皆世界から実現て来るぞよ。金神は物事が速いぞよ。何時迄も疑う御方気の毒なものじゃぞよ。是迄とは世が違ふから、物事は速いぞよ。是迄は暗雲の世で○○から何も変るが早いぞよ。モウ時節が来て居るから、金神がおもてに成りたならば物事は速いぞよ。2023/07/18 16:08:1633.名無しヒーリングdGruR俺は子供の頃から、自分の特異性というものを感じてた周囲の人達とは違う、なにかを感じてたたとえば、クラスの全員が「これが正しい」ということでも、俺一人だけが「間違ってる」と思ってたり、自分は他の人より洞察力が深いと感じていたとくに、善悪に対する洞察力は、他の人よりはるかに高いと感じていたたとえば、他の人には全く普通に見えることでも、そこに悪の本質があることを見抜いていたり、他の人が全くわからない、普通に見える人の中に、非常に悪質なものがあるのが分かったり・・・それによって、周囲と意見の相違が起き、周り中を敵に回したりすることが幾度もあった。しかしそれは、あとで段々証明されてくるわけだよその者、そのことの悪質性は、あとからだんだん表面化してきて、最後は悪の正体があきらかになるそれと、昔から自分の洞察力は他の人よりすぐれていると感じていて、本の少しの話を聞いただけで、その本質を理解したり、その状況を理解したりすることが出来たつまり、1を聞いて10を知る・・・ というのは、まさに俺のことだと思った。普通の人は、一般社会で、悪人が2割で善人(普通の人)は8割くらいだと思うだろうしかし、俺が見ると、善人は1割くらいしかない普通に見えるような人でも、その本質に悪を隠してる一般社会ではそういう人は、そつなく暮らしている地域社会に協力しているように見え、いっけん、善人の行為のようなことをしているしかし、一旦何かあると、その悪の正体が現れることがあるあからさまに分かる悪人とともに、こういう人は、世の中の人の9割を占めるそういう人を見るたびに、心の中でこういう風に怒りの言葉が浮かぶ「おまえら、必ず滅ぼしてやる」 と。犯罪などの表面的な悪もそうだが、こういう表に出ない、普通の人に見抜けない悪というのも、そういう犯罪者たちの心と何ら変わらないただ実行するか、実行しないかの問題だこの悪を見抜く感覚は、俺だけのものじゃないかと思うほど、他の人と共感することがめったにないだから、トドメノフミの最後に書かれた文章が、とくにオレへのメッセージと感じる2023/07/18 18:32:0334.名無しヒーリングdGruRこのトドメノフミは、書いた人が不明で、2008年ごろにネット上で発見されたのか・・・?天理教の増井りんという人の名が出て来ることから、天理教関係者ではないかという話もあるしかし、ポールシフトという言葉や、バブル経済の話が出て来ることから、より現代に近い人が書いたのではないか・・・ という推測もできるいずれにしても、このトドメノフミは俺にリンクしてくるし、その中身は本物であると感じさせる書いた人は我が空っぽに近い状態で、そこに唯一神の意識が流れ込み、この文章を書いた・・・・つまり、唯一神であるオレが、地上へ下落したオレへ、メッセージを送った・・・・ ということも言えるだろう「こんなもん」になってしまった、ヤハウェの成れの果て、人間界の最低レベルまで落ちた、俺へのメッセージ・・・・このトドメノフミの最後の言葉は、まさにオレへのメッセージと感じる。「あんなお人となるまでは、いま一苦労ぞあるなれど、これぞ嬉しき苦労ぞと、神のお扉開くまでに立分けお済ませ下されよ。証、いちいち出したるを、重々わかりて下されよ。一 出したるを十わかるイヅのみ魂であるがゆえ裁きのお役目託すぞよ、金神シカリと託すぞよ。一点一角狂い無い閻魔とお出まし下れよ。神のお扉押し開く、岩戸開きの時期となり、開かずの扉ぞ開け賜う、お東様が出られたら、いかなる悪罪、悪業も全て手柄とされるから、シカリとお裁き下られよ、シカリとお裁き下されよ。」2023/07/18 18:32:1535.名無しヒーリングnONmtこれさ裏では立ち分け済んでるよね?2023/07/18 19:40:1236.名無しヒーリングdGruR>>35新しい世界に行けるものと、滅んでいくもの・・・・ これはもう、既に決まっていると言っていいそういう意味で、立て分けが済んでいると言えば、その通りだよねあとは実際の立て分けが実行されるのを待つだけ・・・ ということになる滅びゆくものは、どうせ、「そんなことあるものかw」 とか、「新しい世界とか知らんわw」 とかいうヤツらばかりだから、同情する必要はないそのまま滅んでいくのがいいかもしれないだいたい、滅びを感じて不安に陥っている人というのは、むしろ、救われる側に回る可能性が高い。2023/07/18 20:41:5737.名無しヒーリングdGruR巨大なブラックホールに吸い込まれて、全宇宙は終わるわけだが、たとえば「夢」で言えば、そのブラックホールは起床の世界に繋がってるわけだよね夢の世界の住人は、夢を見ている人が起き始めたとき、起床の世界に吸い込まれていくわけだけど、そのまま起きる人の意識に一致し、起床の世界に行ける人と、夢の世界の崩壊とともに、その中に残る人と、二手に分かれることになる。いってみれば、ブラックホールはホワイトホールに繋がっていて、そこから新しい世界に行ける人と、ブラックホールに魂が残り、どこにも行き場がなく、火炎の地獄に永久に意識が留まる人がいるもはや転生する場所もなく、あの世もない・・・ どこにも行き場が無くなったそれらの魂は、永遠にブラックホールの火獄に捉われることになるこれはクルアーンでさんざん警告されていることだ。クルアーン『いや悪い行いを重ね、自分の罪で身動きが出来なくなるような者は皆、業火の住人である。その中に永遠に住むのである。』「彼らは地獄から抜け出したいのだが、そこから出ることは出来ない。そして彼らには永遠の懲罰があるのだ。」「あなた方と、あなた方がアッラーを差し置いて拝していたものは、地獄の業火の燃料となるのだ。あなた方はそこに入ることになろう。もしそれらが(真の)神々であったなら、それらはそこに入ったりはしなかっただろう。しかしあなた方は皆、そこに永遠に留まるのである。」「そしてあなた方は罪深い者たちがその日、(鎖や枷で)がんじがらめにされているのを見るであろう。タールの衣服をまとわされ、彼らの顔を炎が覆う。」「そして(善行)の秤が(悪行のそれより)軽ければ、彼の住処は奈落である。そしてそれ(奈落)とは何であるか?燃え盛る業火である。」「われ(神)は彼(不信仰者)を灼熱の大火に放り込もう。そして灼熱の大火とは何か?(それは)彼らを生かしたままにもしておかなければ、一思いに殺してもくれない。(それは)人類を(様々な懲罰によって見るも無残な形に)変えてしまう。」「彼らはそれ(地獄の炎)と(最高潮にまで)沸騰した熱湯の間を周回する。」「罪深い者たちは迷妄と業火の中にある。その日彼らは地獄の業火に真っ逆様に引きずり落とされ、こう言われる:“大火の灼熱を味わうのだ。”」2023/07/18 21:28:4438.名無しヒーリングdGruRこのブラックホールによる地獄を回避するには、起きる人の意識・・・・ 唯一の意識と一体になることだ。そのためには、無我にならなければならないヤハウェの成れの果て・・ 人間の最下層に落ちたオレでも、無我にならなければ、ヤハウェの本質を現すことはできない今までは、マインドフルネスがその手法として唯一のものだったしかし、今となってはもう、そのような手法に頼っても手遅れだろう因縁のある人は、そのような手法に頼らなくても、ヤハウェによる意識の伝播によって、それに巻き込まれ、自然自然のうちに、新しい世界へ導かれるだろう前にも言ったように、かなり以前のことだが、原因不明の病気になり、死にかけたが、そのとき、最高の幸福感が下腹が振動とともに湧き上がってきて、悟りそうになったことがあったそのとき、あるサイトで書き込みをしていたのだが、そこでは不思議なシンクロニシティが連発したもちろん、現実の生活でも、不思議なシンクロニシティが連発し始めたサイトでは、俺が書き込むたび、アクセスが集中し、ダウンしたフランスから見ていた人は、フランスの労働争議の影響だと思っていた・・・ と言っていた俺の書き込みを見ているであろう、あるアカウントがあって、その人を俺も注目して見ていたのだけど、その人が、「不思議なことが起こってるんです! 不思議なことが起こってるんです!」 と興奮した様子で書き込んでいた別の人で、霊能力があって、よく無料で相談に乗っているという、主婦の人がいたが、その人は、「すべてが数珠つなぎのようになっていて、渦に巻き込まれて行っている」 と表現してた。この不思議なシンクロニシティは2,3か月で終わったが、自分の覚醒しかかった意識が、他の人大勢に広がっていくという、影響力の凄さを見せつけられたこれはおそらく、本番に備えて、俺を守護する神霊が体験させた・・・ ということだろう2023/07/18 21:49:1739.名無しヒーリングdGruR俺が覚醒したら、この「渦」がもう一度起こるはずだその時は、前のものとは比較にならない、全世界に波及する大きな渦となるだろう救われる人は、その渦に自然自然と巻き込まれていくはずだだからもう、救われるための修行など、する必要がないだろうすべてはもう決しているあとはあなたたちが、その渦に巻き込まれるかどうかだトドメノヒフミ『建て替えの渦うずぞ見えたなら、ほどなく渦ぞ見えたなら訪たづねてござれと申すぞよ。色なり音なり薫香くんこうで見え出す頃には気付きづくぞよ。我われも我もと押し駆けて人垣できて来たるなら、そこがそうぞと申すぞよ。一旗上げて金神の守護の出所でどころわかりたら、渦がシカリと見えるぞよ。渦が渦巻き渦となり渦から渦が生まれ出てシカリと物事見える者、これぞ、こうなり、こうなりと疼うずく心も渦巻いて渦にあわせて一踊り。グズって渦に乗れんだら損になりやと次々に人押し駆ける金の渦、金剛力の金の渦。身仕度いたして下されや、身仕度いたして下されや。気の違いたる人々に渦の話をいたしても回る方向違うゆえわかる道理はござらぬぞ。』2023/07/18 21:49:4640.名無しヒーリングnONmtそれでいつ頃よ?2023/07/18 22:07:1241.名無しヒーリングdGruR>>40「神示は嘘ぢゃと申すが、百年もつづけて嘘は云へんぞ。申さんぞ。」日月神示 発祥 1944年 +100年 = 2044年「百不足(モモタラズ)八十隈手(ヤソクマデ)いまひらかんときぞ。」「八十(やそ)隈手、行きにし神は、今かへります。」(100年に足らない80年で開く)1944年 +80 = 2024年「新しき御代の始めのタツの年。スメ大神の生れ出で給ひぬ」「新しき御代のはじめのたつの年、あれ出でましぬ かくれゐし神。かくり世も うつし御国の一筋の光りの国とさきそめにけり」2024年 = 甲辰2023/07/18 22:54:5342.名無しヒーリングnONmt>>41それ答えか?2023/07/18 23:12:2243.名無しヒーリングdGruR2024年越えて何も起こらなかったら、俺は・・・ ここで書いたことは、すべて外れたと考える2023/07/18 23:24:5744.名無しヒーリングZtce0起こるとすれば、まず、今年の秋ぐらいに、ウクライナで小規模核兵器か、原子力発電所の破壊工作が行われ、世界的な危機になるかもしれないその危機を回避するために、俺が覚醒するのが同時期に重なるというシナリオも考えられるそれは俺が世界に認知されるキッカケとなるが、もしそういうことが起こっても、それはオレが世に出るための、単なるダシということだ今年の秋以降が一つのキーポイントになる可能性がある「推背図」という、中国の唐の時代の預言書があるが、これは2人の、そういう能力を持った唐の官僚が作った預言だとされている過去の出来事でピッタリ当たってるものがあり、この預言の精度は高いと思われるその中で、現代と思われる詩があるが・・・・なかでも、第56象からが問題になる第56象飛ぶのは鳥にあらず、潜むのは魚にあらず、戦いは兵にあらず、造化は遊戯なり、つまり、空を飛ぶのは戦闘機、海を潜るのは潜水艦・・・戦いは兵士によらず、戦車や戦闘機、戦艦、果ては、ドローンになり、まるでゲームのようになる・・・ と。第57象頌は言います。この時の世界では、世界中の思惑と策略を受けて、2つの相反する国家が、天倪(あまがつ:ヨリシロのこと)という実験場にされます。この悲惨な悲劇を世界は見ることに成ります。この時に現れる、その三尺の童子は天使であり、思わぬ奇策で殺し合いの戦争を止めさせます。※ーーーーーー世界中の国家も軍部も、この童子に従うことに成ります。 (※------は、この童子が日本の東北から生まれるという解釈だが、この部分は様々な解釈が可能なため、ここではあえて省く)この第57象がウクライナとロシアの戦争を意味するなら、三尺童子が現れて、この戦争を止める・・・ ということになる三尺童子というのは「子供」ということであり、それは何らかの専門家とか、学者とか、学を修めたものと反対を意味するつまり、全く専門家でもない、知識のないものが、この戦争を収める奇策を考えだす・・・ ということになる・・・ そういう解釈をしてもいいのではないだろうか。この三尺童子に、各国の首脳、軍部の最高指揮官たちも従うと・・。2023/07/19 00:21:4645.名無しヒーリングZtce0これは別の中国の預言・・・、劉伯温の『焼餅歌』にも、同じようなところがある1.大獅吼如雷,勝過悼百虎。 2.犀牛現出尾,平地遇猛若。 3.若問大平年,架橋迎新主1.大獅(覚者、救世主、神) 百虎(すべての高官、首脳)救世主の声は大きく、全世界の高官、首脳の声を越える2.犀牛[サイ] (中国では、神が人間に落ちた姿といわれる)現出尾 (本質が現れる) 平地遇猛若 (突然に大きなことが猛然と起こる)3。若問大平年,架橋迎新主太平の年はいつ来るか? それは、橋をかけて、新主を迎えたときだ「推背図」のつづき第58象「讖いわく大混乱は収まり、四方の国々は服属する。兄弟を称すること六十七カ国。頌いわく烽煙は清まり、海は尽き、波はない。王を称し帝を称しまた和で統べる。」第59象「讖いわく城なく、府なく。汝なく、私なく。天下は一家。統治は大化に至る。頌いわく一人のためが大世界の幸福となる。籤筒を手に取り、竹を抜き去る。紅黄黒白の明を分けず。東西南北は和睦に尽くす。」第60象 (最後の象)「讖いわく一つの陰と一つの陽。始まりなく、終わりなく。終わりは自ら終わり、始まりは自ら始まる。頌いわく果てしない天の計らいをこの中に求めん。世の道の興衰は自由にならない。万々千々で説き尽くすことはできない。」2023/07/19 00:21:5646.名無しヒーリングo7Y3L何で秋なんだぜ?2023/07/19 08:24:2147.名無しヒーリングZtce0『九歳(とし)は神界の紀(もと)の年ぞ、神始めの年と申せよ。一二三(ひふみ)、三四五(みよいづ)、五六七(みろく)ぞ、五の歳は子の歳ざぞよ。取違ひせん様にせよ。』『子の年真中にして前後十年が正念場』2020年 = 子の年 = 5 コ2021年 = 6 ロ2022年 = 7 ナ2023年 = 8 ※今年2024年 = 9 辰の年2025年 = 10『七は成り、八は開くと申してあろうが、八の隈(くま)からひらきかけるのであるぞ』2023/07/19 11:01:5348.名無しヒーリングZtce0天理教関連にも、「秋」というワードがいくつか出て来るが、これが2023年の秋を指すかどうかは微妙一応、載せておく「さあ へ めつらしい事をゆいかけるで さあ へへ これ へあきおあいずに是迄ニ段々にゆうて有 秋をあいすニ見へかけるで さあ へ ふるきや いつの事やと思であろふ 秋をあいづに是迄のはなしやで」 「秋了しもうたら楽しんで。この秋やろうかへ、秋を合図に出て来る。」『さあさあ変わる変わるいよいよ変る。この度は世界の立替、善悪の立替、神の世となりて善の世界となりて、これを誠の世として、天理の世とする。承知してくれ。学者、金持ち、医者、坊主、百姓の立替、それで変る変わると云うておく。ああ・・・・月日、何時飛んで出るやら。間に合う者、間に合わぬ者、人衆揃うて勤めせねばならん日がある。秋を合図立て合いに、より分け、さび分けをする。」2023/07/19 11:13:0649.名無しヒーリングOLxnmちょっとここで、悟りについて考察しよう。たとえば、「真実の世界」というのは、「今」にしかないのは明らかだね・・・?真実の時間というのは、「今」しかないわけだよそこには時間の幅もないわれわれはこの真実の「今」というものを、知覚できないわれわれが世界を見ているときは、「時間の幅」で見ているわけだ。どんなものごとでも、その物事を確認するには、「時間の幅」を必要とする一瞬の流れ星でも、わずかながらの時間の幅・・・・ つまり、「継続」があるから、その存在を確認できるわけだ。素粒子レベルの一瞬の輝きでも、わずかな瞬間の時間の幅があるから、存在を確認できるつまり逆に言えば、継続しないものは、その存在を確認できない・・・・というか、これは当たり前だよね一瞬の継続もないということは、「無い」ということと同じだよ我々の世界は、思考分別、我の想いによって、物事が継続的に見られている世界・・・・つまり、時間の幅の世界ということだ時間の幅が与えられることによって、物事のすべてが存在できているつまり、継続的な見方が、物事を存在させている・・・ と言ってもいいこれらは本来幻だなぜなら、真実の今の世界には、「継続」というものがないからだ真実の「今」においては、われわれが存在として認めていたものは、すべて消え去るそれが「空」ということ真実の今 = 空 ということになるが、もう一つ…、真実の今においては、すべてが一体だということ2023/07/20 01:19:1150.名無しヒーリングOLxnmたとえば、一枚の大きな木の写真があったとするそれは今この瞬間にとった写真であり、それらはその時にしかない木だけを切り取って、次の写真に継続させることは出来ない今そこで成り立っているものを、次の写真に移動させることはできない次の写真には次の木があり、それで全風景が成り立っているのだから。今この瞬間(真実の今で)、1枚の写真で、すべてが一つになっているこれは「縁起」と言ってもいいつまり、「真実の今」において、すべての我は存在せず、一切が空であり、そしてその0の場が、1に帰した無限の土台だということ(それが一つの意識であり、唯一神、創造神と呼ばれるもので、それはヤハウェ、アラーということ)聖書で、「私はアルファであり、オメガである」 という言葉があるが、「始まり」と「終わり」が同時存在するのは、「今」ということだよね「始まり」と「終わり」に間隔がない・・・ その差は0秒つまり、時間の幅が無い神社やお寺にある、狛犬や仁王像もそうだ聖域の入り口で、「あ」と「うん」・・・ つまり、「最初」と「最後」が同時発声されているこの先の聖域は、「真実の今」・・・ と言わんばかりに。仏教の悟り方もそうだし、すべての悟りの手法は、「今と一つになる」 という手法になってる今と一つになるということは、イコール 無我・・・ ということ。そしてそれは、「一に帰す」ということ2023/07/20 01:19:2251.名無しヒーリングzBM6h法がないと愛もないだろ2023/07/20 10:38:2152.名無しヒーリングOLxnm「縁起」というのは、すべてが繋がっていて、分けることが出来ないということその繋がりが、愛として現れるそれは利他愛ということだよねすべてのものが無我になって一に帰せば、必然的にこの愛が現れるだから仏教では、利他のこころが重視されるそれは縁起そのものの姿であり、一に帰して無我となった姿だからだ2023/07/20 16:00:5153.名無しヒーリングzBM6h真我?2023/07/20 18:07:0854.名無しヒーリングOLxnm>>53その通り2023/07/20 23:52:1355.名無しヒーリングtDnWZ空と、真我、無我の関係をわかりやすく説明すると・・・・たとえば、一枚の無限の絵があったとするそこには分離はなく、すべては繋がっていて、無限の一しか存在しないところが、われわれは分別、我の想いによって、その一枚の無限の絵を、パズルのピースで分断するように見ている一つ一つのピースに我(実体)があるように思い、それぞれは独立して存在していると見ているしかし、それは結局おかしなことで、たとえていうなら、自動車の各パーツに「我」があり、たとえば、車は左に曲がっているのに、タイヤは右に曲がり、ハンドルは真っすぐ進む・・・・ という風に、各パーツが勝手に動けるということになる人間はそのように、我の想いで各パーツに独立した実体があり、それぞれが別個の存在だと考えているしかし真実は、我(独立した実体)など存在せず、すべては縁起によって一に帰しているパズルのピースという我が消えることで、無限の一の上から幻想が一掃される・・・つまり、空っぽになるわけだ。空っぽになったところから、一枚の大きな無限の絵が現れる。これが真我の源であり、ヤハウェであり、アラーということ。諸法無我とは、一切の幻想としてのパズルのピース(独立した実体・我)が無くなることであり、それは「空」と同義だ。2023/07/21 00:27:5256.名無しヒーリングtDnWZたとえば、座禅中の 「雑念」と「無念」という、相対的な二極で考えてみよう。良し悪しでいうと、「雑念」=悪 であり、「無念」=良 ということになる。座禅中に雑念が湧くと、とたんに二元相対分別が働き、この悪い状態をなんとかしようとする・・・雑念を消そうとしたり、意識を逸らそうとするこのとき、われわれは「雑念」と「無念」という概念に、実体があるように思っているしかし実際は、「雑念」という概念は、「無念」という概念が無ければ存在できず、「無念」という概念もまた、「雑念」という概念がなければ存在できない。これを「相依」というが、何かに頼らなければ存在できないものは、単独で存在することが出来ない・・・・つまり、単独で存在できないものに、実体はない・・・ ということになる「雑念」や「無念」に分別、我の想いを働かせなければ、雑念が出てもそのまま・・・ それでよい。 無念であればそのまま・・・・ それでよい。雑念、無念、どちらでもよい・・・ という心境になるこれがいわゆるありのままであり、分別が一切動かない・・・ いわゆる「不動心」ということになるどちらでもよい、どちらでも全く同じ・・・ ということになれば、両者の(分別としての)差は無くなる差が0になる差が0になれば、もはや雑念・無念という区別は意味をなさなくなるこのとき、雑念という我(実体)、無念という我(実体)は消える・・・ これが「空」になるということ。そしてそれは、この二極が一つになることを意味するそれが「縁起」ということ。(つまりは桃の実)また、二極どちにも全く捉われない・・・ 分別によって差別が生まれない・・・ この境地を、「中道」というつまり、空 = 縁起 = 中道 ということになる2023/07/21 00:28:5857.名無しヒーリングtDnWZ人間は普通、ネガティブなものは変革によって変えられると思っている。たとえば、大舞台で緊張を無くそうとしている人が、人という字を書いて飲んだりして、緊張を無くそうとしている・・・バンジージャンプで飛び込もうとしている人が、恐怖心が無くなってから飛び込もうとしている・・・・いずれもネガティブなものを変革によって消そうとしているものだが、実際は、この二元相対的な二極の葛藤をつづけている限り、この相対的な二極は消えない「良い状態」を達成したとしても、必ずそこには対極の「悪い状態」がセットで付いているこの二つは切り離すことは出来ない「良い状態」を求める限り、「悪い状態」もまた抱えていることになる。本当に消えるのは、この二極が空になる時だそれはこの二極が平等になるとき。雑念があっても無くても構わない・・・ 差が0になれば、もはや雑念は雑念としての意味がなくなるそのときはじめて、雑念が真に消えるということになる『執着を捨て、成功と不成功を平等(同一)のものと見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。ヨーガは、平等の境地であると言われる。』2023/07/21 00:55:0758.名無しヒーリングtDnWZつまりは、われわれはありのまま、そのままではいられないということだ。それはなぜかというと、常に比較分別が働いて、悪い状態を良くしたい・・・ という想いが働いているから。悪い状態そのままではいられない。これは、「今のそのままではいられない」 ということになり、真実の今からズレることになる反対に、悪い状態とピッタリ一致する・・・ それが「今」と一つになるということと同義であり、それが無我ということであり、そしてそれが、極楽浄土(真実の今の世界)ということになる。よくヴィパッサナー瞑想という言葉があるが、これは専門家を気取る人でも、その本質がわかっていないこれは「観察」ということだが、「観察」というのは、一切手を付けない・・・ ということだつまり、一切の分別を働かせず、そのまま、変えようとしない、ということだ。たとえていうなら、ガラスの箱に土や木を入れて、昆虫を入れて観察するとする・・・たとえば、昆虫が転んだからと言って、起こしてあげたら、これは観察にはならない手を加えたことになる観察というのは、昆虫が転ぼうが、何をしようが、そのまま手を付けず、見続けるということだ。つまり、完全なありのままだ。よくあるのが、「怒りを観察する」といいながら、怒っている自分を冷静に観察する第三者を作り出しているもの。怒っている自分を観察する・・・ その観察する自分は冷静に見つめている・・・ こんなのは観察でもなんでもない。もちろん、ヴィパッサナーではない怒っている自分と、観察している自分が分離している。ぜんぜん一つになっていない。観察している自分が、すでに怒りを克服している(笑)。 そんなバカなことがあるか。観察とは、怒りの自分と一つになること。何も変えず、そのままであること。2023/07/21 01:17:0059.名無しヒーリングtDnWZこのヴィパッサナーを分かりやすくいうと、それは「完全なる許し」と同義になる。なぜならわれわれは悪しき状態を変えよう変えようとするが、それは今の状態が許せないから。今その状態に完全な許しを与えて、そのままでいいよと、変えることを一切しない「悪しき状態」と「良い状態」は、同格なんだと。だからそのままでいいんだよ、と。そこで今と一つになるわけだ。その完全なる許しが、真の観察ということであり、ヴィパッサナーということだ。われわれがこの二元相対を越えるには、このヴィパッサナーの手法が必要になってくるつまり、自分の悪しき状態に対する、完全なる許しが必要になってくるということ。2023/07/21 01:18:2160.名無しヒーリングtDnWZ理趣経『かくて世尊は、この世成なる調い難きものどもを、なべてなびかす釈迦牟尼の、姿となりて、ものすべて、その本質は平等きを、示す教えを説き給う。かかる教えに従えば、善悪超えてわれらみな、最勝し境地に赴かん。これぞ仏智の理趣ならん。その説法は左の如し。くさぐさ欲は表れど、その本質は一つにて、善悪いずれに偏らず。欲が一つであるごとく、瞋りもそのもと一つにて、善悪いずれに偏らず。善悪超えたるものなれば、癡愚もそのもと一つにて、善悪いずれに偏らず。貪り、瞋りまた癡さ、いずれもそのもと一つにて、区別・表れなしとせば、すべてのものは一つなり。すべてのものは一つにて、区別・表れなしとせば、智慧の理趣また、これ一つ。悪にその性なしという、かかる教えを説きてのち、世尊は呼びぬ、「金剛手」・・・・かくて金剛手大菩薩、重ねてこの理趣示さんと、手に降三世の印結び、蓮の御顔微笑みて、しかも忿怒のさまを出し、眉をひそめて歯を出す。その御姿は「降伏」にて、この理趣示す聖なる音、「フーン」を唱えまつるなり。』2023/07/21 01:38:4161.名無しヒーリングtDnWZネガティブなものを許すということは、許してスッキリするということじゃない許すことによって、状況を良くしよう・・・ ということじゃないイライラがあればそのまま、不快があればそのまま、焦燥感があればそのまま・・・ ということ。いっけん、ネガティブなまま、そのままということであれば、状況は改善しないように思えるが、実はちがってて、われわれはネガティブなものに抵抗することによって、苦を生じさせているということ。事が起きたときに、それを感知したときに、われわれは即座に分別が働き、「良い状態」と「悪い状態」という価値判断が即座に起こり、その比較(分別)によって、苦が生じるだから、最初にそれが起きたときに、分別が働かない状態であれば、苦は生じないということになる本当にネガティブな状態と一つになることができれば、そのネガティブな状況は、ネガティブになることが出来ず、消えていくそこまで行かなくても、ネガティブな状況のままでいいんだ、苦しいままでいいんだ、情けないままでいいんだ、だらしないままでいいんだ、何一つ変える必要がないんだ、この「良くない状況」と「良い状況」は、まったく同格なんだ、という完全な許しが与えられれば、ある時スッと心が軽くなることを感じられるはずだ。それは分別の葛藤が収まり、苦と楽が平等になった瞬間ともいえるそれが中道を体感したということだ。2023/07/21 11:57:0162.名無しヒーリングtDnWZ日月神示『この道は中行く道ぞ、左も右も偏ってはならんぞ』『大層が大層でなくなる道が神の道ざぞ。この道 中行く道、神示読みて早うガテン結構ぞ。』『この道は中ゆく道ざと申してあろうが、中のの道は太神の道、中行く道が神の道、中の道が人の道ぢゃ。判りたか。』2023/07/21 12:07:5663.名無しヒーリングtDnWZトドメノフミ『善と悪とは同じ事、大神様には同じ事。悪があるから善がある、相対世界の実相は互いは互いの証明書、影こそ光の証なり。陽と陰との融合を日月ひつきで示すこの度の真文明の世界なり。』結局、日月神示すの「日月」というのも、陰と陽が一に帰すということを物語ってるわけだつまり、桃の実ということ。2023/07/21 13:36:0064.名無しヒーリングtDnWZよくインスタとかに、高級レストランのデザートや食事を載せたり、ブランド品を身にまとう自分を載せたり、高級なホテルに泊まってるところ、高級な家、高級な車載せて、そういうところに人間の価値を置いてる人がいる。表面的な装飾で、高いレベルの人間になったような気がしてる人・・・こういう人は、真理が世に出始めると、まっさきに恥を掻くことになるそして、もっとも下に落とされることになるヤハウェとしてのこの俺が、人間の最下層・・・、こんなもん、牛の糞となって出て来るのは、そうした価値観を破壊する意味もあるんだよトドメノフミ『十二単じゅうにひとえに身を包み、みやび優雅ゆうがに振るふ舞まえど一厘無くば藁わら衣ごろも、まるめて捨て去る袋帯ふくろおび。美人美形の者でさえ鼻毛一本まる潰れ、それほど一厘わかるぞよ、それほど一厘わからんぞよ。その一厘ぞ別れ道、たった一厘分れ道。濡ぬれ着ぎ汚よごれ着ぎ身にまとい蓑みのを負いたる者でさえ一厘あらば大丈夫、わしが言うから大丈夫。』2023/07/21 21:46:3865.名無しヒーリングVuW5k自分を完全に許すことができれば、われわれは一に帰すことができる。 今と一つになることができる。それは完全なありのままということであり、無分別ということであり、つまりは、完全他力ということだ。われわれは本来、自分を許すということは、もっとも簡単なはずなのに、それは出来難いものになってるなぜなら、われわれがこのマーヤー幻の世界に堕ちたのも、良し悪しの相対分別が原因になってるからだ。われわれがこの相対分別を克服しなければ、次の新しい世界に行くことは出来ない自分を完全に許すということは、今と完全に一つになるということ。 そしてそれは、一に帰すということ。この教えは、オレがこれから世に出す教えともいえる。この教えはオレのためにとっておきにとっておかれた。それが弥勒が説く教えだからだ。桃の実の教え・・・ すなわち、オオカムヅミが、青人草(今の人類)を救うときのための教えだトドメノフミ『自己愛は悪の権化であるなれど、ここのわからぬ利他愛に真の利他愛わかられぬ。』2023/07/22 13:27:5966.名無しヒーリングVuW5k論文「自己愛と利他愛のむすびつき」より『フロムの場合は、愛の対象としては、自他を区別しないところが特徴である。特定の誰かを、あるいは何かを愛するのではなく、愛はすべてのものに開かれた働きを指している。したがって、自己を愛さない非利己的な愛(unselfish love)があるとす れ ば、 そ れ は「 神 経 症 的(neurotic)」 で ある、ということになる。「「他人のためだけに生きている」という人間は、自分が自分自身を重要なものだと考えていないということに、誇りを持っているのである。そして彼は非利己的であるにもかかわらず不幸であること、もっとも親しい人々との関係さえもうまくゆかないということに気づいてとまどってしまう」と述べている自己中心的(selfish)な愛は退けるべきである。しかし自己愛(self love)とは、全く別物である。自己愛という言葉にこそ、「逆説的な要素が明瞭に含まれている」。「愛とは私自身を含むすべての対象に対して示す同じ態度であること」。愛とは特定のだれか、特定の何かに向けられるものではない。「人間として隣人を愛することが徳であるならば、私とてもまた人間なのだから、自分自身を愛することはやはり徳でなければならない」。「自分自身の統合性と特異性に対する尊敬、自分自身を愛し理解することは、他の個人を尊敬し、愛し、理解することから分離させることはできない」。「他者への愛と自分自身への愛とは二者択一ではない」マイスター・エックハルト「もしも、あなたがあなた自身を愛するならば、あなたは、すべての人をあなた自身に対すると同じように愛するであろう。あなたが、自分自身を愛するよりもわずかにしか他人を愛さないようでは、あなた自身を愛することにも、ほんとうは成功しないであろう。しかも、もしあなた自身をも含めての、すべての人をひとしく愛するならば、あなたは彼らをひとりの人のように愛するであろう。そしてそのような人とは神と人間との両者なのである。かくしてこそ、彼は、自分自身を愛し、他のすべてのものを等しく愛している偉大な正義の人なのである」』日月神示『他を愛するのは真愛ぞ。己のみ愛するのは自己愛ぞ。自己愛を排してはならん。自己愛を広げて、大きくして、真愛と合致させねばならん。そこに新しき道開けるのであるぞ。』2023/07/22 13:28:1967.名無しヒーリングVuW5kネガティブなことを許す・・・ ということを、もっと分かりやすく説明すると、たとえば、平均台の上をフラフラ揺れながら歩いているとするこのとき、分別を起こして、揺れないで真っすぐに歩くのを、正常・・・体が揺れるのが異常・・・ という風にしてしまったらどうなるか・・?体が揺れるのが異常(あってはならないこと)と感じ、なんとかこれを無くそうとする・・・・そうすると、常にまっすぐであり続けようとして、ふらつきが出ると、まっすぐな自分とふらつく自分との間に葛藤が起きて、苦が生じる常にまっすぐであろうとして、バランスがとれず、直立不動のまま倒れていってしまうということを繰り返すたとえば、面接のときに緊張してしまう、舞台に出ると緊張してしまうとしたら、「緊張するのは異常」、「緊張しないのが正常」、という分別を加えてしまうことがあるそうすると、緊張をなんとか排除しようとし、しかしそれが出来なくて、正常と異常の間で葛藤が起き、苦が生じる正常になれない自分に対して、苦が生じる。それを繰り返している限り、永遠にこの葛藤がつづき、二元相対分別の中で苦しみつづけることになる。平均台を渡っているときに、ふらつくことに正常・異常の区別をせず、ただありのままを許すことができたら、ふらつきを認めることができたら、そこで初めてバランスをとることができるこのネガティブな状況を許す、認めるということが、ネガティブの状況と一つになるということこれは合気道でも同じで、相手に腕を掴まれたとする。大抵の人は、この掴まれた腕を動かそうとし、なんとかしようとするそうすると、相手との間に葛藤が起きるわけだ力と力がぶつかることになるそこで合気道の達人が言うには、掴まれた腕を忘れてしまいなさい・・・、動かそうとするな、変えようとするな、 ・・ということ。2023/07/22 19:26:3968.名無しヒーリングVuW5kネガティブな状況をなんとか変えようとする・・・・ 相対分別によってそれが起こり、その結果葛藤が生じ、苦が生じる・・・本当はそのネガティブな状況と一つになれば、その状況をコントロールできるということ。平均台で揺れることを許し、一つになれば、初めてバランスをとることができる緊張することを許し、一つになれば、緊張しながらも面接をこなすことができる掴まれた腕を動かそうとせず、相手と一つになれば、そこで初めて相手の力をコントロールすることができる一つになれば葛藤が消える。その結果、苦も消える真実に一つになれば、そのネガティブなものも、完全に消えてしまう自分に起こるネガティブなもの・・・ なんでもいい。不快感、焦燥感、怒り、だらしなさ、自分で自分を許せないこと・・・・それがパッパッと出て来たときに、反射的に分別が働いて、これを無くそう、変えよう、意識しないようにしよう・・・ という反応を起こすのではなく、その都度、このネガティブな状況を許す・・・ そのまま、ありのまま、変えようとしない、手を付けない・・・・ つまり、観察(ヴィパッサナー)が行われることが望ましい何ども言うが、観察すること、許すことによって、楽になろうとすることじゃない。楽になれないそのままを許すということ。そうして苦・楽が平等になれば、真の楽が得られるということ仏教ではよく、「苦楽を越えた楽」ということが言われるこれが二元相対を越えるということであり、これこそ中道ということ。2023/07/22 19:26:4969.名無しヒーリングVorIp結局善し悪しつけてるじゃねーかよ2023/07/23 03:19:5070.名無しヒーリングyFuKYテスト NGワードに引っかかったまま、投稿できない2023/07/23 11:05:0171.名無しヒーリングyFuKYそう思えばそれまで。 それを理解できるかどうか。「苦楽を越えた楽」というときは、二元相対性・・・ 分別を越えたということを、言語をもって説明するときの仮りの表現にすぎないそれを「仮」と見るか、それとも、まだ「良し悪し」と見るか、そこが分かれ目になる。そこが分かるかどうか。この「楽」は、われわれが普段思考分別で見ている「楽」ではないそれを言語で説明すると、どうしても思考分別の世界に実体化してしまうが、そこをわかりやすく、今までも説明してきたつもりだ。仏教では「勝義諦」と「世俗諦」というものがあるどうしてもわかりやすく、言語で説明しなければならない時が在る。そのとき、受け取り側が、その真意を受け取れるかどうか・・・ というところが問題になってくる2023/07/23 11:05:5772.名無しヒーリングyFuKYブッダ パーリタ『たとえば、[ある人が]「何も持っていない」と語ったときに、[その人に対して]「何ももっていないことまさに[それ]をよこせ」と云うまさにその人に[先の人が]何も持っていないことをどのように把握させることができようか、ということと[それは]同様である。そのようであるから、それによって十力を有し大悲を有する勝者(仏)でさえも、[空性を事物(実体)と執着する人を]けっして治療することはできないのである』中論『このように執著して取るはたらきも、執著して取る主体も、全く空である。では、空である如来がどうして空なるものによって仮に設けられるのであろうか。一一 「空である」といってはならない。そうでなければ「空ではない」とか「空であって空ではない」両者であるとか、また両者ではない【空でもなく、不空でもない】というであろう。しかしそれらはいずれも、仮説のために説かれるのである。』2023/07/23 11:07:1473.名無しヒーリングyFuKY維摩経『世尊のみが真の天眼をもっており、二元対立の相をもって見ることがない。「平等というのはどういうことであるか?それは、我もねはんもともに等しいとみなすことである。なぜであるかというと、我とねはんとこの二つはともに空であるからである。」この平等を体得すれば、他の病の起こることはない。ただ空病(すなわち空に対する執着)のみがある。この空病もまた空である。』2023/07/23 11:18:4074.名無しヒーリングyFuKY仏教は本来「空」に帰結していて、その先を説かないしかし、俺は、空を前提にその先を説く。それを理解できるかどうかは、あなた次第だ。トドメノフミ『神はこれまで言わなんだ、何が何とて言わなんだ。一厘隠しは神隠し。一厘伏ふせねば立ちゆかん、これまでの世ぞ立ちゆかん。されど時節ぞ来たからは一厘伏せては立ちゆかん、これからの世ぞ立ちゆかん。ゆえに一厘明かすぞよ、これより一厘明かすぞよ。神信心、無くばこれまで治まらん、これまでの世ぞ治まらん。されどこれより神信心、超えねば世の中治まらん、これからの世ぞ治まらん、ここに一厘秘ひめたぞよ。あらゆる教えは九分九厘、どなたの尊き教えとて一厘隠して九分九厘、一厘隠しはカミ隠し。目の開く者ぞ現われん、されどこれにて日が昇る。目開き盲が別かれゆく時節なりとはこの事ぞ。越すに越せない大峠、迫せまり来たゆえ申すのぞ。金神前より伏せていた一厘の事を申すのぞ。上と下とのど真ん中、右と左のど真ん中、腹の中心ど真ん中、腹帯はらおび締しめて下されや。こことこことの真ん中にそれぞれ神が降りるのぞ。人それぞれの真ん中にこの度、神々舞い降りて、人なる肉身に鎮まりて三千世界ぞ建て直す。世の建て替えとぶち潰し同時に起こると申すぞよ。どちらに出るかその沙汰は金神次第と申すぞよ。金神のご沙汰次第と申すぞよ。』2023/07/23 11:23:1075.名無しヒーリングVorIpそれこそ言う必要もないだろ2023/07/23 18:06:4876.名無しヒーリングyFuKY洞察力の欠如しているものに用はない2023/07/23 18:25:2477.名無しヒーリングVorIpそりゃそうだな2023/07/23 18:29:2378.名無しヒーリングVorIp格好いいエフェクト付きの洞察する技とか欲しい覚えて置きたまえお東様よ2023/07/23 18:32:5779.名無しヒーリングyFuKYトドメノフミ「叱りて分れる事ならば、きつく叱りてやるなれど、説いて分れる事ならば、つらつら説いてやるなれど、この事だけはどうしても、押しても引いても揺すりても、わかれる道理と違うから、ここ一厘は人任せ、人間任せと申すぞよ。この事わかれる方々が出る程、道は別れ道、分れと申せど別れ道、わかれる人々増えたならわからん人々増えるぞと、道は二手に別れると、金神言う事、わかれるか。理屈にて、わかる、わからん別にして、神が有るやら、有らぬやら、これまで続いた無駄話、この一厘にもケリの付く、分れ道ぞと申すぞよ。こことこことの結び目が、こころなりやと申したら、まことごころと申したら、神の心のわかられる人達、わからん人達が二手にお別れする時ぞ。ここで一断ちいたすぞよ。神から見ればこの話、わかれ話と申すぞよ。さような事なら、さようなら、わからんままにてさようなら、何が何とてわからずにわからんままにてさようなら。』2023/07/23 18:47:3380.名無しヒーリングyFuKY気狂いの者に何事説いたとて、わからん時節となりたゆえ、身支度(みじたく)いたして下されよ。神一厘の別れ道、お覚悟いたして下されよ。2023/07/23 18:54:5581.名無しヒーリングyFuKYご容赦ようしゃ一切いたさぬぞ、悪は一切灰となり影さえ落せん世といたす。2023/07/23 19:06:5682.名無しヒーリングVorIpやっぱし意味ねぇじゃんね2023/07/23 21:07:4183.名無しヒーリングyFuKYこういう話をしていると、必ず狐みたいなヤツが邪魔を始めるこういう輩は、時が来れば灰になるだけ。ただ、ここでそれを言ってもしょうがないわれわれのこの物質宇宙は消滅するが、それは単に、この世だけの消滅を意味せず、あの世も含めてすべての世界が消滅するこの世もあの世も輪廻も、すべてマーヤーの範疇に入るからだなので、キツネの類は、最終的に意識の残る場・・・・ つまりそれはブラックホールの中になるのだが、そこに永遠に意識がとどまりつづけるゆえに、業火の地獄になるわけだ。何万年、何億年経っても出られない、無限地獄だだから世界の宗教は、このことを口を酸っぱくして警告してきた今決定的な時期が来ているのだこの先、何十億年先、無限億年先を決するようなことが起きようとしているところが、キツネの馬鹿どもは、それを嘲笑し、からかいつづけるいかに創造主といえども、人間の最下層に下降してしまえば、それをみた者たちは彼をあなどる。自分達を作った創造主に対して、嘲笑し、からかうという、非常に恐ろしいことをするわけだ。しかし結局、この世界にはオレ一人の意識しかなく、そのオレの意識の中に、おまえらは造られているにすぎないけっきょくこれは、自分一人の遊戯だ。ただし、その遊戯ももうすぐ終わるオレはあらゆる多様性を自分の中に見るために、種を撒いたそうしてあらゆる可能性たちが育った。その中の最良のものたちを、今収穫し、この世界を閉じるだろうキツネをはじめとする悪・・・ 育ち損ねたものたちは、一かけらも残さず灰にする2023/07/23 21:37:5584.名無しヒーリングyFuKY『餅は杵きねにて搗きなされ、キツネツキではいかんぞよ。人の世の中終る頃、狐、狐の狐憑きつねつき、上から下まで霊憑り、その九分九厘が狐ぞと人間様にはわかられぬ。これこそまさにこりこりに狐こ狸り固まりた狐こ狸り狐こ狸りの狐狸の霊ぞと申すぞよ。こんな手合いのお相手はもうこりごりぞと申すぞよ。金神表に出たからは、これより人に蟠踞ばんきょした狐狸かたまりが大騒ぎ、上に下にの大騒ぎ、七転八倒するさまが世のあちこちで見えるゆえ、シカリと見定め下されや、尻餅つかず、落ち着いてシカリと見定め下されや。金神光が強いゆえ、表の守護となりたなら、今までゆるりと落ち着いて、蟠踞していた悪霊が、住み所無しぞと泡喰いて、跳んで火に入る事となり、わかりてくるぞよ、おもしろや、やれ面白や、面白や。悪の根絶ねだやしおもしろや。』2023/07/23 21:45:1785.名無しヒーリングVorIpまだかね遅くね?2023/07/23 21:57:1286.名無しヒーリングyFuKY時を待て。 時節ほど怖いものはないぞ。死刑囚にとって、もっとも怖いものは何か・・・?それは絞首台でもなく、死刑執行人でもない。死刑囚の命を決定するのは、「時」だ。そしてそれはもう間もなくだ。「私は世界を滅亡させる強大なるカーラ(時間)である。諸世界を帰滅させるために、ここに活動を開始した。」2023/07/23 22:07:0787.名無しヒーリングyFuKY『それは、悪が義の前から退く時に起こるだろう。悪は永遠に終わるであろう。そして義が世界の基準として、太陽とともに現れ出るであろう。』2023/07/23 22:23:1088.名無しヒーリングVorIp時ってなんだろな?既に過ぎてるないか?2023/07/23 22:43:2389.名無しヒーリングyFuKY日月神示『時の神様ほど結構な恐い神様無いのだぞ、この方とて時節には叶かなわん事あるのだぞ』『この世では時の神様、時節を忘れてはならんぞ、時は神なりぞ、何事もその時節来たのだぞ、時過ぎて種を蒔まいてもお役に立たんのであるぞ』『いよいよ時節来たのであるから、何と申しても時節にはかなわんから、神示通りになって来るから、心さっぱり洗い晴らしてしまうて、持ち物さっぱり洗いかえしてしまうて、神の命に生きてくれよ』2023/07/23 22:53:0390.名無しヒーリングyFuKYトドメノフミ『神幽現の三界の裏に隠れし金神の無念残念三千年この度、時節来たからは怨みつらみを晴らさんと天の御座所おざしょに駆かけ上のぼり三千世界を建て直す。時節来たりて幕が開く、三千年の序幕なり。』2023/07/23 23:16:1591.名無しヒーリングVorIp叶わんし種まき意味なかろう??過ぎてるよな2023/07/23 23:23:2792.名無しヒーリングyFuKY『この世の閻魔と出る時節、一切衆生は知らぬ事。神々様とて知らぬ事。』2023/07/23 23:24:0093.名無しヒーリングyFuKY>>91今言っておく。オレが最後の時節なんだよオレが最後のチャンスなんだよわかるかな?オレが実地に入るまで、今少し時間がある最後のチャンスをつかむかどうか、それはこれからのこと。2023/07/23 23:26:5094.名無しヒーリングVorIp>>93今少しの時間はなんなの?2023/07/23 23:33:2295.名無しヒーリングyFuKY>>94オレが覚醒し、渦を作り出している間の時間。そこが分かれ道2023/07/23 23:36:2796.名無しヒーリングyFuKY実地とは、世を滅ぼす活動のこと。渦とは、救われる人を巻き込むための渦2023/07/23 23:37:3997.名無しヒーリングQOYIK今はまだ、決定的に言えば、まだ誰も救われていない状態大方決まっているかもしれないが、また決定的に表れていない誰も確定していない。多くの人が救われる・・・・ というのは、これからだ。それはまだ始まっていない弥勒の説法はまだ行われていないそれが始まれば、急速に多くの人が覚醒するその波に乗れるかどうか。その渦に巻き込まれるかどうか。世界が帰滅に向けて動き出すのは、それからだ。2023/07/24 00:02:5398.名無しヒーリングJ1N5N今の少しの時間の渦はなんなの?2023/07/24 00:06:4499.名無しヒーリングQOYIKトドメノフミ『神の御国に連れ帰る、一本橋ぞ渡るのぞ。その橋立ての鼻先に、閻魔がドンと陣を取り、一厘持つ者、持たぬ者、白か黒かを分けるのぞ。おぬしは絶対許さんぞよ、悪因縁のかたまりぞよ、見るも無惨な魂なれど、一厘有るで許すぞよ、何が何とてどうしても、神の御国に連れ行くと、閻魔が申さば大丈夫。悪業、悪罪、悪因縁、あっと言う間に水の泡。あわや、あわやと大慌て、慌てふためく目眩めくるめく、神のお慈悲のありがたさ。おぬしに言う事ござんせん、どうぞお好きにされたしと、閻魔がサジを投げぬよう、シカリと一厘掴むのぞ。』2023/07/24 00:08:14100.名無しヒーリングQOYIK>>98渦とは、意識の伝播のこと。通常は言葉を頭で理解して、伝わるが・・・ つまり、言葉を思考で咀嚼して、相手の言いたいことを理解する・・・ ということになるが、意識の伝播というのは、言葉を通して、丸まま相手の伝えたいこと・・、境地、体験的なものが、そのまま伝わるということ。それが大規模に行われることが、渦ということ。よくピンと来る・・・ というが、そのピンが、言葉の咀嚼ではなく、体感そのものになって腑に落ちる・・・ ということ悟りの境地を説明したとすれば、それがそのまま、悟りの境地が体感されるよように伝わるということ。2023/07/24 00:14:26101.名無しヒーリングJ1N5N水の泡ってか2023/07/24 00:16:56102.名無しヒーリングQOYIK弥勒三会とは、このことと言っていい2023/07/24 00:19:55103.名無しヒーリングQOYIK現象世界の罪は関係ないそれはマーヤーと同じだカルマは本当の自分自身じゃない今自分が考えていること、行いなどは、カルマによってすべて決まっているたとえば親鸞はあるとき、弟子に向かって、「おまえは私の言うことを何でも聞くか?」と言った弟子は、「親鸞聖人の仰せならば、何でもお聞きいたします」 と答えたそうすると親鸞は、「ならこれから行って1000人の人を殺して来い」 という・・・弟子は、「いや、いくら親鸞聖人の仰せでも、それはさすがに出来ません」 と答える親鸞は、「そうであろう、例え1000人殺そうと思っても、因縁の無いものは一人も殺せないのだ。しかし、例え一人も殺すまい・・・ と思っても、因縁のある人は1000人でも殺すのだ」 と言っただから、因縁生の自分を相手にしていてもしょうがない。いってみれば、これはドラマの筋書きにすぎないわれわれの本性は外からこのドラマを見ているしかし、いつの間にかドラマに巻き込まれ、ドラマの筋書きを演じてしまっているそれをわれわれは、些細なことまで自分でやっていると思っているしかしそれはちがう些細なことまで筋書きは決まっているのだだから、ドラマの中の自分を相手にしていてもしょうがない自分の本心はドラマの外にあって、たとえドラマで悪業を重ねようが、何が起ころうが、外で見ている自分には全く影響しない。これは仏教では蓮の花と泥の関係で表される泥がいくら汚れていようが、その中で咲く蓮の花には一切影響ない蓮の花を一切汚すことはできない2023/07/24 00:42:06104.名無しヒーリングQOYIKだから親鸞は、肉食妻帯というありのままの道に進んだわけだ。この自分はありのままでいい、ありのまま(ドラマの筋書き)に一切手を付ける必要はない・・・ と。そこで意識を念仏にもっていった。どんなことがあっても、一切手を付けない(分別を働かせない)、ありのまま。ただ何があっても南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ここに意識を置くということが、蓮の花ということだ。泥の世界から蓮の花に意識をシフトする・・・ドラマの世界からテレビを見ている自分へ意識をシフトする・・・そのためには、ドラマに気をとられて(分別を働かせて)はならない「そのままでいいがな」みつを。いくら自分が情けなくても、いくら自分が汚れていようとも、悪業が出ようとも、そこに一切の分別を働かせない、価値判断しない・・・それが、完全他力。完全他力、完全なありのままは、「今」とピッタリ一つになることと同じこと。そしてそれは「悟り」と同じこと。どんな悪業があろうと、ドラマの中でどんな悪の筋書きがあったとしても、ドラマの外に出れば、それは水の泡(空)となって消える2023/07/24 00:42:55105.名無しヒーリングQOYIK理趣経『この世における人の欲、おしなべてみな浄らなり。欲みななべて浄らにて、欲より生ずる瞋りまた、必ずすべて浄らなり。欲に瞋りにまた愚か、およそ世にある垢(けがれ)ども、その本性いずれも浄らなり。はたまたすべて世なるもの、その本性なべて浄らにて、この世なるひと、みなすべてその本性なべて浄らなり。かくて世にある智慧すべて、その本性すべて浄らなり。かくて世尊は説き給う「いかに聴きしや金剛手、いまわが説ける智慧の理趣、わが身に保ち、読み唱え、よく心中に思いなば、たとえ五欲にいまみる事も、わが身汚るることはなし。五色に咲ける蓮華葉が、泥より出でてその泥に、些かも汚れざるがごと、人の性なる清浄も、たとえば塵にまみるるも、その奥底に帰るとき、無上のさとり出ずるなり。」かくて観自在なる大菩薩に、姿を変えしびるしゃなは、顔をやわらげ微笑みて、弓手に持ちし蓮華をば、右手で聞きて示し給うこは「開ける蓮華」の印にて、「泥の蓮華」を示すなり。欲が本性染(けが)すことはなく、ものも染さざることはなし。この教えをば示すため、聖音「フリーヒ」と唱えたり。』2023/07/24 01:00:46106.名無しヒーリングQOYIKオレがこれから桃の実を投げるから、それを受け取れ2023/07/24 01:17:28107.名無しヒーリングJ1N5N一発目か?2023/07/24 01:26:33108.名無しヒーリングQOYIK「私は世界を滅亡させる強大なるカーラ(時間)である。諸世界を帰滅させるために、ここに活動を開始した。」バガヴァッドギーターの有名なこの詩だが・・・・・ アメリカの初の原爆実験を成功させたオッペンハイマーは、原爆実験が成功したとき、この詩を想い出したという・・・・彼はバガヴァッドギーターの愛読者だったということだ。オレはこの詩を見るたびに、なぜかオッペンハイマーのこの話が脳裏をよぎるのだが・・・・今何気なくネットサーフィンしてたら、なんとアメリカで、オッペンハイマーの映画の上映が開始されたらしい。https://youtu.be/uYPbbksJxIg果たして、この映画の中で、このバガヴァッドギーターの詩のシーンは出て来るのだろうか・・・?2023/07/24 11:32:15109.名無しヒーリングQOYIK最初にこのスレの番号を見たとき、これは何かあるな・・・ と思ったシンクロが働いている可能性があると。オレは昔から、18や81、666や999などの数字に縁があると思ってるとくに9にまつわる倍数には、何か強力な縁があると思ってるここではいわないが、9にまつわるある数字の羅列が、オレのナンバーだと思ったたとえば、昔の牛頭天皇関連の発掘された木簡から、九九八一 一八九九 と、上下逆さまに向き合うように書かれたものが出て来たという記事があった確かに、数字にすると、9981 1899 というのは、逆さにしても通用するこの数字を逆さにしたり、反転させたり、左右対称にするというのは、スピリチュアル的な意味があるそれで、今日あるブログを見ていたら、18の数字について書かれていた567(みろく)は全部足すと18になると。ああ、そうだ、666も18だったなと、今までうっかり忘れていたことを思い出したこのブログは岡田茂吉の論文からの写しらしい以下、その文書を載せておく2023/07/24 11:53:40110.名無しヒーリングQOYIK「度々言う通り右の三聖者は本当の順序からいえば日月地火水土のそれであり、五六七でもあるので此数を合わせると十八になる。此十八の数に就て大本教の御筆先に斯うかいてある。『今迄は天が六、中界六、地が六でありたものが、天から一厘の御魂が地に降りられたので、天は五となり、地は七となりたのであるぞよ』と然し、此意味は最も深奥なる神の経綸であって、此一厘の御魂こそポチであり、麻邇の玉であり、如意宝珠であり、之によって五六七の御世が生まれるのである。又三六九をミロクとも云われるが、此事は最後の天国篇に詳説するつもりであるから略すが、兎に角十八の数こそ最も重要なるものであって之を文字によって解釈してみると、十は経緯の棒の結んだ形であり、又神の表徴でもあり、完全の形であり、又八は開く形であり無数の意味でもあって、昔から仏教に於ても十八の数をよく用いている。浅草の観音堂も善光寺も十八間四面であり、毎月の参詣日も十八日であり、十八を倍にすれば三十六でミロクである。除夜の鐘は百八つ打ち、数珠の数も百八個あり、百八煩悩などとも言われるが此場合の百は十が十で百となるので、之等をみても悉くミロクの意味が含まれている。」2023/07/24 11:56:37111.名無しヒーリングYpQzF煩悩=四苦+八苦108=(4×9)+(8×9)2023/07/24 20:50:41112.名無しヒーリングQOYIKほほぅ、9の倍数だな。108自体が、9×12 ということだな…2023/07/24 21:22:41113.名無しヒーリングQOYIKそういえば、今思い出したんだが、「鳳凰(ほうおう)」ってあるだろ?架空の霊鳥みたいなやつ「鳳」は一の鳥と書く「凰」は白の王と書く「白」というのは、「百」の上の一を抜いたもの。つまり、99を表すつまり・・・ 99に1が入って、完全な100%になる・・・ みたいなイメージだろうか。1厘の仕組みを彷彿とさせるような感じだ。昔、「コインの裏と表は平等、10円玉の裏も表も10円玉・・・」 みたいなことを言ったら、10円玉の裏に描かれてるのは、平等院鳳凰堂だ、って突っ込みが入った平等院鳳凰堂とか、まったく意識せずに言ったんだが、見事にシンクロしてた。この、百に一足らない99という話も、スピリチュアル界隈ではよく出て来る話しだ。たしか、白山きくり姫も、そういう感じの話があったと思う。2023/07/24 21:37:56114.名無しヒーリングQOYIK大本神諭『艮金神大国常立尊が、神功皇后殿と出て参る時節が近よりたぞよ。 此事が天晴れ表に現はれると、世界一度に動くぞよ。 モウ水も漏さぬ経綸が致して在るぞよ。明いた口が塞がらぬ、牛糞が天下を取るぞよ。 珍らしい事が出来るぞよ。 アンナものがコンナものに成りたと、世界の人民に改心致させる仕組であるから、チト大事業で在れども、上十いたさして、天地の大神へ御目に掛けるから、艮の金神はカラ天竺までも鼻が届くぞよ。この仕組は永らく世に落ちて居りての、艮の金神の経綸であるから神々にも御存知の無い事が在るから、人民は実地が出て来る迄にヨウ承知を致さんぞよ。 是でも解て見てやるぞよ。 今度の二度目の世の立替立直しは、因縁の在る身魂でないと御用には使はんぞよ。神の御役に立るのは水晶魂の選抜ばかり、神が綱をかけて御用を致さすのであるから、今迄世に出て居れた守護神は、思いが大分違ふぞよ。是も時節であるぞよ。 時節には何も敵はんぞよ。上下に復るぞよ。』2023/07/24 22:49:17115.名無しヒーリングKaczLこの世界には無限の意識一つしかない・・・・ ということを言ったが、これはいわゆるヤハウェであり、アラー・・・ そして、このオレ自信である、ということを言ったつまり、この宇宙は俺のみている夢に過ぎず、おまえらは俺によって創造(想像)されたものにすぎない・・・そして、俺はオレ一人では寂しいので、シミュレーションゲームのような世界を作り、他を味わえる世界を作り出した・・ そしてそこに自分も下降し、一介の人間として成り下がり、やがてはそこから覚醒し、世界を回収する・・・ そういう話をしてきたわけだが、これを、「聖クリシュナの神譚詩」(バーガヴァタ・プラーナ)坂本弘子訳 から、関連した詩を抜き出したいと思う2023/07/27 22:10:49116.名無しヒーリングKaczL『宇宙が創始される前 唯一 主のみが在りしなり根原主なる至上主は やがて多様を意図なされ想いのままにこの宇宙 創造 維持し破壊してすべてのものを支配さる 』『ふと 或る時に至上主は 辺り一面 眺めらるなれど其処には何も無く 唯 在るものは己のみその時御主は熟慮され 己が内部に眠りたるシャクティ(力)用い対象(客体)を 創り出さんと意図されり 』ここでみると、やはり客体を作り出そうとした・・・つまり、一しかないものを、他を味わえるようにした・・・ということだろう『至上主はその対象を真と非真の性を持つ 二つの相を意図されてマーヤーというシャクティを 主の内部から取り出だしそを縦横に駆使なされ 宇宙のすべて創られり 』『カーラ(時)によりてトリグナ(プラクリティに内蔵されている)のその均衡が乱さると プルシャなる主の本質(種)が形を造る原質(胎)の プラクリティに作用する斯くして御主は〔種〕(プルシャ)と〔胎〕(プラクリティ)と〔時〕(カーラ)で宇宙を 生み出さる 』2023/07/27 22:13:08117.名無しヒーリングKaczL『三界超えし最高者 そして孤高の至上主が地球に降臨なされしは 如何なる意図を持たれてか主の本質は無活動 支配するべき御方が何故にこの世の様式を 用いて活動為されしや 』『やがて御主は降臨の 事績を終えて永遠の常世に帰着されたまう その道程のあらましやヨーガを統べる唯一の 御主であらる至上主が多様な姿 顕現し 為されし秘話を説き給え 』『そして御主が化身され ブラーフマナや乳牛や神々の幸 望まれて 楽しむごときその御業何とぞ吾に聞かせあれ 甘露のごとき至上主の御事績謳う神譚詩 心に充ちぬことありや 』『根原主なる至上主は 己が本質 分離して現世や他の各界や そしてそれらを総轄し守護する神ら創られり 宇宙を統べる法則や生命体の規矩なども 事細やかに定められり 』2023/07/27 22:17:23118.名無しヒーリングKaczL『主は多様化を意図されて アハンカーラ(個別性)を創られり而してそを分割し ルドラの神(ルドラは自分を33に分けた)に与えらるルドラによりて分けられし 個我(ジーヴァ)は器(肉体)を与えられ己が務めを果たすべし 』『根本原主クリシュナは 御主御自身のマーヤーでグナを巧みに組み合わせ 宇宙創造成したもうそしてそれらを維持されてやがて時節が至りなば 己が胎内へと収めらる』 『水面に映る月影は 微かに揺れて見ゆれども月が揺らめくことはなし そは水の持つ属性の“揺らぎ”が〔斯う〕と見せるのみこれと同じく肉体の 非真(具象)の性は分魂(個我=ジーヴァ)の真の姿を被覆して 個我(ジーヴァ)を具象(肉体)と見せかける』つまり、もともと唯一神の「月」から派生したものであるものが、、各水面に映った「月」がゆらぐのを見て、これが自分自身と錯覚するわけだ。『斯くの如くに人間は 自分自身(主の分魂=個我=ジーヴァ)と肉体(グナによって具象化されたもの)を 同一のものと誤謬する然れどもこの謬見(間違った見解)は 御主への帰依が深まれば厚き恩寵 戴きて 徐々に消滅するならん 』『この世で“在る”と見たものは 夢幻の絵空事すべて実在せぬものと 吾は得心したるなり在るかに見せる〔幻〕を 取り除くには聖仙の御足に奉仕することと 堅く決定したるなり』2023/07/27 22:32:56119.名無しヒーリングKaczL『斯くのごとくにマーヤーで 創造されしこの宇宙主は一切に遍在し 厚く保護して維持される全能の神クリシュナは 御自らのシャクティ(力)でゲームの如く楽しまれ 創りしものを破壊さる 』まさに、シミュレーションゲームの世界だ。『シヴァ神さえも汝らも そして斯く言う吾もまた主の本質を知らざりき況や他の神々が 如何で知ること出来ようぞ主のマーヤーで創られし この万有の実体は己が知覚に従いて ただ類推をするばかり』分離的に表れている神々はもちろん、ただ一つの意識・・、 唯一神の本質、計画を知ることは出来ない『無限の力持ちし主は 御自らのマーヤーで 宇宙創造されし時タパス(苦行) に 私(ブラフマー) 造物主(9人のプラジャパティ)そして維持する時代ではダルマ ヴィシュヌ(供儀の主宰神)やマヌ達や 大地の神に顕現し宇宙が滅ぶその時は アスラ(悪魔)を始め アダルマ(不正義)や破壊(ハラ・シヴァ神) 欲望 憤激の 神とて化身なさるなり』唯一神は最後、滅びの神・・・ つまり、鬼としても現れるわけだ。滅ぼされる側にとっては、この神は悪神にも見えるだろう。2023/07/27 22:45:45120.名無しヒーリングKaczL『原初の吾は唯一の 常在不変の存在者具象化されしものも無く 唯一 吾が在りしのみ宇宙が創造されし後も 吾は存在を成し続け宇宙滅亡したる後も 唯 一人のみ残存す 』これは決定的な詩だが、けっきょく、世界には一つの意識しかなく、それが全てで、他のものはその内部に創られたマーヤー(幻)にすぎない内の者から見れば、まさに、壮大なスケールの物語が展開されるが、なんのことはない、世界にはオレしかおらず、それが全てで、無限憶念の彼方から存在し、また一切無くなるということもない・・・最初からこれしかなく、今後もこれしかないこの状況は、とても悲惨な状況と言えるかもしれないたった一人しかいない恐怖・・・・だからこそ、「他」を渇望するわけだ。俺から見るとこの世界も宇宙も、まさに夢だ。全部オレが作り出した。そして今、この他を味わう世界を完成させるため、なんらかの理由があってこの世界に一介の人間として落ち、転生を繰り返して、他を味わってきたオレが覚醒したときに、その全容がわかるだろうオレの夢の世界の人々? オレの声は聞こえるだろうか?自分自身の自我もって聞こえるだろうか?だがそれは、その自我さえも、オレの内で何十億年もかけて作り上げられたものにすぎないオレと同一の自我を持っているものは一人もいないそれは自分の見ている夢の中の住人が、個性があるように見えて、実在の自我を持っていないと同じだ。夢が消えれば夢の中の住人も消え、あるのはただ起きている自分一人だ。しかし、夢の中の住人も、起床の唯一人に合致できるチャンスがある一緒に起きることが出来れば、そこが新しい世界となる。そのためには己の自我を無にして、本質である「月」を見ないといけない。2023/07/27 22:58:36121.名無しヒーリングKaczL『宇宙が帰滅する時に 個我(ジーヴァ)は御主の恩恵で吸気と共に入りこむ そを〔ニローダ〕と言いしなりそして個魂のジーヴァーが 虚妄の姿(自己と肉体との同一視)放棄して己が姿(梵我一如)の真実を 悟りしときが〔解脱〕(ムクティ)なり』2023/07/27 23:20:46122.名無しヒーリング8bXkn真我やな2023/07/28 17:19:50123.名無しヒーリングAs8O8その通りだ。2023/07/28 18:32:14124.名無しヒーリングAs8O8オレはずーっと悟りの修行方法を模索してきたのだけど、自分を律するような厳しい修行ではなくて、ありのまま、そのままで悟れる方法があると考えて来た必ず、日常性の生活そのままに、悟れる方法があるはずだと・・・優しい悟り方があるはずだと・・・。そして最近、ようやくそこに行き着いた気がするむかしは結構厳しい修行のようなことをしていた時もある中学生の頃は、スポーツを徹底的にやりこんでいて、修行のようになってた朝から晩まで、ゲロを吐きながらやってたそういう風にしていると、あるとき、自分の身体が勝手に動いて、ファインプレーのようになることがしばしば出て来たそれで決定的だったのは、まったく無意識に・・・ その時の記憶が完全にないほどに、超絶的なファインプレーが出たことがあるそれが出た瞬間、周囲からウォー!と歓声が上がり、知ってる人は「また出たね」と声を掛けてきた無意識のファインプレーを知ってる人だ。そのファインプレーの直前、頭の中の雑念が止められなくなる・・・ 次から次へと湧いてきて、コントロールできない完全に「ああしよう、こうしよう」という我の想いの力が入らない状態・・・そして、まぶたが徐徐に落ちてくる・・・そうして半眼の状態になる。仏像でも半眼になっているが、これは、我意識が働いている時は、目はハッキリと開き、無意識の領域に入って来ると、かえって資格情報が邪魔になってくる・・・最低限の資格情報に絞るため、目が半眼に落ちるということだと思う宮本武蔵という有名作家の書いた小説があったが、その中で、武蔵の決闘のシーンで、武蔵の目が半眼に落ちた・・・ というシーンがあったが、あれはよく分かって書いてると思う人は深い三昧に入ると、目が半眼になるということだ。これはたとえば、こういう時があったあるときバスケットボールの試合をやってるとき、相手側の陣地からコートの真ん中までボールをつきながら走っていたが、前方に二人の敵が立ちはだかった・・・とたんに意識がとんで、ふっと気が付くと、ボールがその二人の間を抜けていくとこだった相手と目があったが、あぜんとした顔をしたまま、凍り付いていた相手はピクリとも動けなかった意識が戻る瞬間、半眼に閉じていた目が徐徐に開いていくのがわかった。つまり、意識が飛んでる間、半眼状態になっていた・・・ ということだ。そして気が付いた瞬間、左手が背中に回っていたこれはどういうことかというと、ついていたボールを左手で背中に回し投げたということだそれが瞬間的に行われたため、二人の敵は手も足も出なかったそのボールは二人の間を抜け、リングの下にいた味方の足に正確にあたったそいつは二人に囲まれるの見て、これは無理だと別の方向に移動しようと、個別の方向を見ていた状態だった無意識のうちに、すべてが完璧に行われたこういうのを、俗に、ゾーンに入る という言い方をする2023/07/28 22:16:29125.名無しヒーリングAs8O8また、武道の練習に励んでいたときは、こういう体験をしたことがあるそれは集団で、炎天下の中、猛特訓を行うものだが、あまりにもきついため、逆に気を抜いて力を温存しようとすると、つづかなくなる気が抜けない・・・ 最初から全力でいかないと、逆に倒れてしまうそれほどキツイ訓練だった。そこで特訓が始まると、最初から全力を出していく・・・少しも力を抜けないすると、5分くらい経っただろうか・・・、 ふと時計を見ると、既に3時間が経過していた。これも三昧の経験だが、時間を完全に超越するような体験をしたわけだ。これは「剣と禅」という本に、同じようなことが書いてあったあるとき禅をやりこんでいた主婦が、夕方、家事の合間に座禅を組んだ・・・しばらくしてから、下の方が騒がしいので降りて見ると、家のものが朝食の支度をしているところだったと・・。こういう風に、厳しい修行によって、無我に近づく・・・ というのも、一理はあるわけだ。だから、千日回峰行というのも存在するわけだ。たとえば、ある修行法を試したことがあるそれは、良いことだと思ったら、それをすぐする。パッパッと、ためらいもなくすぐ行うダメなことはすぐ忘れる娯楽に関わることは一切しない夜は明日の準備をしたら、瞑想してすぐ寝るなにも考えずにすぐ眠る朝起きたらすぐに掃除をして、また瞑想して、余計なことを考えないそうやっていくと、心が明鏡止水のようになってくるそうしてあるとき、他心通を体験したことがある知人と一緒に食事をしていると、相手の考えてることがそのまま伝わって来た「〇月〇日に○○へ行こう」 彼はそう思っていたその想いがそのまま伝わって来たそこで、「今〇月〇日に〇〇へ行こうと思ったでしょ?」 と聞いたら、その通りだと、啞然とした表情で答えた。あとで日月神示を見たとき、全く同じことが書いてあったので、オレの考え方を同じだと思った「身魂磨きとは、善いと感じたこと直ちに行うことぞ」2023/07/28 22:18:22126.名無しヒーリングAs8O8無我になるということは、自分がまったくなくなって、無になってしまうということじゃない。もちろん、ゾーンに入ったときは完全に無になって、記憶に残らないわけだが・・・それが24時間つづくと、まったくの無・・・ ということにもなるわけだが、オレはただそれだけで終わるとは思わない少なくとも我が無になる課程において、自分を通して完璧な動作が現れる・・・ ということは、確認できるようになると思う本来人は、我がなければ、その動作は完璧になるものだそれは自分の中の余計な障害物がなくなるため、宇宙の一体性がそのままそこを通して出て来るからだつまり、無我ということは、神の入れ物になるということそうして空っぽになった自分を通して、宇宙の一体性の力が現れれば、その人はその瞬間、神になったと言える多くの人はここを目指すべきだなぜなら無我になればなるほど、今と一つになればなるほど、物事がうまくいくようになり、運がよくなり、話もすこぶるうまくなり、周囲の人から好感を持たれ、また周囲の人に光をもたらすものとなるからだ。たとえば、こういうことはよくあるなかなか探しているものが見つからないとき、ふっと何も考えずに、全く無意識に座布団をふとめくったら、その物があったとか、今に入っていると、全く無意識に行った行動で、うまい具合に問題が解決するという経験今と一つになって我が無くなってくれば、まず、運が良くなってくるという体験をするだろう。そうして究極的には、無我になれば、今と完全に一つになれば、こういう風になるわけだ。ルーミー語録から「心中無一物の道、これこそはあらゆる願いを叶えてくれる道。どんなことでも、望む ことはこのごとく叶えられる。押し寄せる大軍を打ち破りたい、敵を負かしたい、国 々を攻略したい、人々を屈服させたい、己れの仲間の上に出たい、美しい言葉を喋り たい、弁舌巧みでありたい-その他これに類する何であれ、すべては思いのまま。無 一物の道を選びさえすれば、こんなことはなんでもたやすく手に入る。この道を辿っ て、後でしまったと思った人など見たことがない。 」2023/07/28 22:18:34127.名無しヒーリングX8ilw「別の道ではとてもこうはいかない。別の道を取れば、どんなに苦労したところで、万 に一つも目的を達すればいい方で、それも到底気が晴々として、これですっかり落ち 着いたなどということはない。無一物以外の道の場合には、必ず縁因というものがあ り、それぞれの目標に到達する特別の方法がある。縁因を通してでなければ決して目 標には行き着けぬ。これは実に迂遠な道だ。至るところに陥穽があり障碍が待ってい る。それに縁因なるものがそう思い通りに現われてこないことがある。しかしお前がたがこうして無一物の世界に踏み入り、無一物を事とする身となった上 は、いと高きにいます神が、今まで想像だにしたこともないような国々を、いや全宇 宙をお前がたに授けて下さるのだ。昔、願っていたこと、欲しがっていたものが恥か しくなって、『やれやれ、なんとしたことだ、こんなに素晴しいものがあるのに、あ んなけちなものを追い廻していたとは』と嘆く。すると神様がこうおっしゃる、『今 でこそ、そなた、あんなものに用がない、要らない、いやらしい、などと言っておる が、あの頃はあれがそなたの念願であった。それをわしのためにこうして潔く棄てて くれたからには、わしも無限の好意を示してつかわそう。 そなたの棄てたものをきっ とわしがそなたに返してやろう』と。 」2023/07/29 11:25:31128.名無しヒーリングTrdGI真我だな2023/07/29 19:39:50129.名無しヒーリングX8ilwその通りだ。2023/07/29 20:25:32130.名無しヒーリングX8ilwもう一つ良い話があるそれを付け加えるのを忘れていた。「弓と禅」という有名な本があるのだが、これは戦前に、オイゲン・ヘリゲルというドイツ人が大学の講師として招かれ、赴任中に弓道の達人に弟子入りし、指導を受けるという内容の話だ。ヘリゲルは俵の前で射の姿勢でずっと待ち続けるということに嫌気がさし、疑問をもって、休暇のときにアーチェリーのように練習してしまい、自分で勝手に上達したと思い、師範の阿波研三の前で見せてしまったすると阿波健三はヘリゲルの弓を取り上げ、背中を見せて座った・・・これは破門を意味した。俵の前で射の姿勢で待ち続けるというのは、自分の「想い」で射ようとするのではなく、無意識の意で射ようというものだろう・・・自分が射ようとしなくても、勝手に、無意識に完璧な射が行われる・・・・それが出て来るのを待つわけだ。ところがドイツ人のヘリゲルにはこれが理解できない破門になってから共通の知人を通し、自分の疑問をぶつけ、弁解を行ったその結果、ふたたび指導を受けることが出来るようになったヘリゲルの疑問は尽きず、ある日師範に尋ねる「いったい射というのはどうして放たれることができましょうか、もし"私が"しなければ」師範は答える「"それ" が射るのです」ヘリゲルは疑問を持ち続けるが、あるとき、阿波研三が、「私は、的を見ないかのように見るのですから」と答えたのに対し、「それでは先生は目隠しをしてもあてられるに違いないでしょうね」 と、皮肉交じりに言ったすると阿波研三は言った。「今晩おいでなさい」 と。2023/07/29 22:53:38131.名無しヒーリングX8ilw夜に道場に行くと、師範はヘリゲルに命じて、的の前の砂地に細長い、火をつけた線香を一本差し込ませたその際、的の方の電灯は全部消すように指示し、的の方向は真っ暗で見えなくなっていた阿波健三は礼法を舞い、一射目を放った矢は闇の中へ飛んで行った炸裂音がして、ヘリゲルは矢が的に当たったことを知ったつづいて阿波健三は2射目を放ったヘリゲルが電気を点け、的を見ていると、一射目が的の中央の黒点に当たり、二射目が一射目の矢の筈を引き裂きながら、これもまた黒点に当たっていた。的をそのまま持ち帰ったヘリゲルに、阿波健三は言った。「とにかく私は、この射の功は"私" に帰せられてはならないことを知っています。"それ" が射たのです。 そしてあてたのです。」2023/07/29 23:07:29132.名無しヒーリング2TR0y阿波研造『 的と私が一体になるならば、矢は有と非有の不動の中心にある。 射は術ではない。的中は我が心を射抜き、仏陀に到る。』2023/07/30 22:43:18133.名無しヒーリング2TR0y(訂正: 阿波健三 → 阿波研造)2023/07/30 22:44:39134.名無しヒーリング3EcoZ悟りに関するオレの体験の中で、今まで一番最高だったものは何かというと、それは前でも話したとおり、原因不明の病気で死にかけたとき、最高の幸せが腹の底から湧き上がってきて、「ああ、このままでいいんだ、何も変えなくていいんだ、今まで自分を変えよう、変えようと、なんと力んでいたことか・・・。」 という風な心境に至ったときだ。そのとき、身体の力みが全て抜け、重心が丹田(腹の奥底)に落ちるという体験をした。すべての力みが消えるというのは、心身ともに軽くなる今まで体験したことのない軽さだった人は何もしない時でも、常に良し悪しの二元相対葛藤の中で、心身に力みが生じているこの力みは、普通の人では、おそらく大人になってから一生消えることはないだろうしかし本人は気づかないありのままでいいという体験・・・ この瞬間、なんて自分はちっぽけな存在だったんだと、真に感じる人は自分を変えよう変えようとするが、それは自分の存在感を他者に対して立派なものにしようとしてるからだありのままでいいと分かったとき、それが全て消える本当に自我の自分がちっぽけな存在だとわかったとき、真我が現れ始め、世界を巻き込むようなシンクロニシティが起き始める2023/07/31 11:29:34135.名無しヒーリング3EcoZ下腹から最高の幸福感が湧き上がってきたとき、それと同時に下腹の奥が振動するということが起こったこれはまるで笑いがこみあげるときに、腹が振動するような感じで、ゲラゲラと笑いがこみあげる・・・その笑いの源が、下腹の奥にあるような感じだこれが起きたときは、毎日何をしてても笑ってる状態だった。今思えばこの振動は、クンダリニーチャクラの振動だったと思うチャクラが目覚め始めていたわけだこの時期は不思議なシンクロニシティの連続で、そのときの心境の状態は、「たとえ今ホームレスで、無一文で、雨に濡れながら軒下で雨宿りしていても、笑って生きていける」 という絶対の自信があった。この腹の奥底から湧き上がって来る最高の幸福というのは、何ものにも依存しない幸福・・・・普通の人は、幸福というものを何かに依存している状態だ。たとえば、お金に依存して幸福を得ている・・・健康に依存して幸福を得ている・・・美味しいものを食べて幸福を感じる人も、良い家に住んで幸福を感じる人も、仲間に幸福を感じる人も、すべてはそれらに依存して幸福が成り立っているだから、それらを失うと、途端に不幸になるつまりそれらの幸福は、良し悪し・・・、幸不幸という二元相対で追及された「幸福」 ということで、真の幸福じゃない。もしここに、1000億円出しても得られないような幸福がこんこんと湧き上がって来たなら、もはやお金もいらないということになるなぜなら、お金は幸福を得るために使うもので、すでに1000億円以上もある幸福があるのに、お金を得る必要がないからだ。こういう心境になると、自分に対してネガティブなことが起こっても、それを見ながら最高の幸せが湧き上がって来る・・・ という体験をするようになる。2023/07/31 11:29:45136.名無しヒーリング3EcoZこの境地と同じような人を、テレビのニュースの特番か何かで見たことがある20歳くらいの若い人で、何年か前に交通事故に巻き込まれ、深い障害を負った車いすで生活し、脳にダメージを受けていて、しゃべり方も身障者特有のそれだった。(ろれつが回らないような感じで、顔をゆがませながらしゃべる)その青年は最大の不幸を味わっているはずなのに、常に笑顔に満ち溢れていたボランティアの大学生が来ていたのだが、支援というより、まるでその青年を慕って集まって来てる感じだあまりにも幸せそうに見えたのだろう、ここでインタビュアーが絶妙の質問をした「もし事故に合う前の、健康な自分に戻れるとしたら、戻りたいですか?」その青年は満面の笑みで答えた「いいえ、戻りたくないです。 今が一番いいです。」 と。今と完全に一つになっている状態・・・今ここにお金にも代えがたい、健康にも代えがたい、最高の幸せがあるから、何もいらない、何も変える必要がない・・・彼の境地は悟りの境地と言っていいだろう。もはや後退がないような感じだ。2023/07/31 18:53:01137.名無しヒーリング3EcoZなぜヤハウェとしてのオレが人類の最下層まで落ちるかというと、それは、もっとも下層に落ちることによって、その世界の全体が見えることがあるから・・・ かもしれない通常、景色などは、より高いところから見た方が、全体を見渡せる。しかし、下町の生活や、個々の細かい心情などは、けっして高いところからは見えない逆に最下層に落ちるからこそ、それらの全体が見渡せる・・・ ということがあるかもしれないつまり、もっとも高いところから見るヤハウェの本質と、もっとも最下層から見るヤハウェの化身・・・・ この二つがやがて一つとなって、最終的に世界を統合する・・・・そうして天と地を統合した新しい世界を作り、多でありながら一、一でありながら多、という世界で、多を統合する中心者として、対象を味わう世界を作ろうとしているかもしれないこの天と地の二つの関係は、ナラとナーラヤナの関係(ナーラヤナがクリシュナ ナラがアルジュナ)・・・ クリシュナとアルジュナの関係と言えるかもしれない。クリシュナはもじどおり、唯一神ヴィシュヌの化身であり、アルジュナは人間の王子だ。バガヴァッドギーターではアルジュナがクリシュナから教えを受けていく。また、アルジュナに対してクリシュナは、唯一神としての壮大の姿を見せるクリシュナは天の唯一神の現われであり、アルジュナは地の唯一神としての現われ・・・ と見て取ることもできるここではアルジュナが主人公であり、アルジュナが目覚めていくことが、重要視されるのだ。この二人が最後一つになるときが、天と地が結ばれるとき・・・あるいは、ナラとナーラヤナの話では、ナラは白い肌で描かれ、ナーラヤナは黒い肌で描かれるこれはホワイトホールとブラックホールを彷彿とさせるが、このブラックホールとホワイトホールの統合・・・ あるいは、イザナミの黄泉の国とイザナギのこちらの世界の、岩戸開きによる統合・・・ あるいは、パラレルワールドとの統合・・・ ということも言えるのか・・・それはこれから徐々に分かって来るだろう。クリシュナは肉体の死の前に、父親に遺言を残す『私はアルジュナであり、アルジュナは私です。彼は女、子供たちを守り、あなたの葬儀も行ってくれるでしょう』wiki「二人の関係の深さは単語にも表れ、クリシュナとアルジュナは度々「クリシュナウ(二人のクリシュナ)」と呼ばれる。サンスクリット語の名詞では、単数形・複数形以外に「二つのもの」を表す「両数形(双数形)」が存在し、不可分の緊密な一対のものを指す。「クリシュナウ」はこの両数形であり、一対の関係であることが強調されている」2023/07/31 19:20:45138.名無しヒーリング3EcoZ(>>89) この時節に関する詩だが、一番いいものを日月神示で発見したので、載せておこう『春が来れば草木に芽が出る.花が咲く。秋になれば葉が枯れるのじゃ時節よく気つけて取り違いせんよう致してくれよ。時節ほど結構なものないが、また恐いものないのであるぞ。ちょうと呼吸のようなもので一定の順序あるのぞ。吸の極は呼となり、呼の極は吸となるぞ。これが神のはたらきであるから、神の現われの一面であるから、神も自由にならん。この神も時節にはかなわんのであるのに、そなたは時々この時節を無視して自我で、あるいは時節を取り違いして押しまくるから、失敗したり怪我したりするのぢゃぞ。素直にしておれば楽に行けるようになっているぞ。時待てば煎り豆にも花咲くのであるぞ。水が逆に流れるのであるぞ。 上下でんぐり返るのであるぞ。上の人が青くなり、下の人が赤くなるのであるぞ。』2023/07/31 19:41:58139.名無しヒーリング3EcoZ前に日の丸を見たとき、「これはオレだ!」 と瞬間的に思った・・・ という話をしたが、これは原因不明の病気のときに、下腹の奥から最高の幸せが沸き起こってきて、不思議なシンクロニシティが多発し始めたときのことだ。そのとき、いつもお参りに行く木花開耶姫の神社があって、その日はちょうど5月5日で子供の日だった。ふだんはない大きな日の丸の旗が掲げられていて、お参りのあと、帰って行くときに、大きな日の丸を見上げた・・・そのとき、その日の丸がまさに、オレそのものだと感じたあー、この日の丸はオレのことだったんだ・・・ そのときそう思った。5月5日というのは確か、弥勒と関係があるはずだ弥勒の因縁の日・・・ 大本教で何かあったと思ったが・・・またそこの神社の住所が看板に載ってたが、3-18-9 となっていたこれも何か因縁のありそうな数字だと思った通常 ミロクなら、3-6-9と来るはずだが、真ん中が18・・・ つまり、6が三つ足したものになってるつまり数字にすると、3-666-9 となるこれは数字のパワーとしては、強力になるイメージかもしれない2023/07/31 20:46:58140.名無しヒーリング3EcoZ3-567ー9 でもいいわけだ。2023/07/31 20:48:05141.名無しヒーリング3EcoZこの不思議なシンクロニシティが連発していたときのこと・・ オレはなぜか、密教の金剛頂経や、密教の印の組み方の本を読み漁っていた金剛頂経を読んでいると、師の話言葉の文章が、本当に迫力のある声となって聞こえて来るような体験をしたまた印を組むと、よく下腹の振動が起こるようになった結界を張る印を組むと、本当に透明のバリアが飛んでいくような感覚があったこの、印を組むと下腹がより振動したということもあったが、他には、太陽を見たときも振動が強くなったそれと、富士山。富士山は写真でも、それを見ると振動が起こったあと変わったところでは、神社の御幣雷みたいにギザギザになった白い紙だあれを見ると不思議と下腹に振動が起こった。ところで、この前、金剛頂経みていてい、いろいろと調べていたのだが、「本初仏」という言葉にぶち当たった。けっこう、仏教の研究は自分なりにしてきて、かなりの知識はあったが、「本初仏」という言葉を見たのはこれが初めてだった調べて見ると、これがいわゆるヤハウェとかアラーとかの唯一神・・・ 創造神の、仏教的表現だと思った。以下 「本初仏」の説明を載せておく『「本初仏」とは、一切の仏が存在する前の最初の仏であり、全ての仏の父母とみなされる。 』『本初仏とは、一切世界の生成の原因とされる尊格。』『宇宙の根源としての仏』2023/07/31 21:07:00142.名無しヒーリング3EcoZ金剛頂経というのは密教のお経で、内容としては、悟りを開く前のお釈迦様のところへ、数えきれないほどの如来たちが集まってきて、教え導く・・・・ 灌頂をさずけていく・・・・ という感じだろうか。ここではお釈迦様ということになっているが、一番最初に「世尊」と表現されていて、これはサンスクリット語でバガヴァッドのことであり、これはつまりバガヴァッドギーターの「バガヴァッド」のことだ。このバガヴァッドが中国に入ると「バギャボン(薄伽梵)」になり、日本に入るとアニメの「天才バガボン」になるわけだ。バギャボンの意味は次の通り《〈梵〉bhagavatの音写。世尊・有徳と訳す》1 仏の称号。2 インドで、仙人や貴人に対して用いる呼称。また悟りを開く前のお釈迦様の幼名として、「一切義成就菩薩」という名称が当てられているこれは、『サンスクリットのシッダールタの意訳で、「すべての目的を成就した者」を意味する。金剛頂経には、大日如来に質問する菩薩として登場する。』とある。この話の主人公はお釈迦様ということだが、どうもこの「一切義成就薩」・・・、金剛薩埵というのは、オレが覚醒していく物語のような気がする金剛頂経の主人公は、オレのような気がしてならない。以下、金剛頂経の最初の方の部分を、抜粋して載せてみよう。2023/07/31 21:49:42143.名無しヒーリング3EcoZ『かくて一切の如来たちは毘盧遮那を囲んで贍部州(せんぶしゅう)へと移動し、それら一切如来たちの身によってこの仏刹は、あたかも胡麻莢の如くに遍く満たされたのであった。そこで一切の如来たちは大集会に入り、一切義願成就菩薩が菩提道場に座しているそのところに近づいた。近づいて菩薩におのがじしんその受用身を示現して、次の如くに言った。「善男子よ、汝がそのようにあらゆる難行に耐えたからとて、どうして汝は無上なる正等覚を現等覚することができるであろうか。汝は一切如来の真実をしってはいないのであるから・・・。」そこで一切如来たちに驚覚されて、一切義願成就菩薩ははっとして我にかえり、その無動三昧より起って一切の如来たちに頂礼し、呼びかけて次の如くに問い申し上げた。「世に尊き諸の如来たちよ、教示したまえ、私はどのようにすれば、またどのような真理命題としてのその真実に通達することができるのでありましょうか。」 と。』そして一切如来たちの教えに導かれていくと・・・・『 「世に尊き諸の如来たちよ、私は私自身が一切の如来たちの総体を自らの身体とする者であるように見うけられます」』そうして如来たちは次の真言を唱えるように勧める『「オーム、一切の如来たちがあるが如くに、その如くにわれはあり。」』つまり、この話は、いっかいの修行者であったものが、一切如来たちの指導により、一切の如来たちをも自分の中に包含する、絶対的存在者になっていく・・・ という内容になっているわけだ如来たちをも上回る絶対的存在者・・・・ つまりそれは、ヤハウェ、アラーと同体だということだろういわゆる「本初仏」に一体となった・・・ ということだ。2023/07/31 22:12:30144.名無しヒーリング3EcoZ今日、あらためてこの金剛頂経というのを調べていると、「十八」という数字行き当たったそう、このスレの番号と同じだ。そもそも日本で金剛頂経というときは、「初会金剛頂経」のことを意味する。「初会」というのは「第一会」ということで、本来は「十八会」あるものの、実際に伝わっているのは、この「第一会」のみ・・・ という感じだろうか。そもそも「第一会」以降の他のものは、もともと存在しなかった・・・ という意見もあるのかな・・・「金剛頂経瑜伽十八会指帰」 というものがあるが、これは十八会の内容を示した、説明本のようなものだろうか。wiki「この経典は大日如来が18の異なる場所で別々の機会に説いた10万頌(じゅ)に及ぶ大部の経典の総称であり、単一の経典ではない。 」「大日如来が一切義成就菩薩(いっさいぎじょうじゅぼさつ)(釈尊(しゃくそん))←(いやいや、これは未来のオレの物語の可能性もあるぞw)の問いに対して、自らの悟りの内容を明かし、それを得るための実践法が主となっている。」さて、ここが十八会の場所となるのか・・・・ それはあなた次第・・ いや、オレ次第かw2023/07/31 22:33:24145.名無しヒーリング3EcoZ大日如来がクリシュナ・・・ つまり、天の唯一神。一切義成就菩薩がアルジュナ・・・ つまり、地の唯一神。 と見ることもできる最後はこの二つが一体になるわけだ。2023/07/31 22:52:51146.名無しヒーリング3EcoZさて、ここでまた、唯一神口調で失礼するが・・・・おまえらは間もなく、壮大な奇跡の物語を見ることになる。それはどんな面白いアニメより、どんな素晴らしいハリウッド映画より、壮大な奇跡の物語になる。それは人類始まって以来の、壮大なスケールの奇跡の物語になるはずだ。この物語は、2つの視点に分かれて見ることになるそれは、絶望と破滅の物語か・・・、素晴らしい奇跡の物語か・・・、だ。つまり、滅びの側からの視点と、救われの側かの視点だ。そのどちらを選ぶかは、あなた次第だ。2023/07/31 23:28:26147.名無しヒーリングn54Rfはよ2023/08/01 00:19:14148.名無しヒーリングxvNsb待て。 もうすぐだ2023/08/01 00:20:05149.名無しヒーリングn54Rfいやはよしれ2023/08/01 00:38:45150.名無しヒーリングxvNsb『秋が立ちたらこの道開く方出て来るから、それまでは神の仕組みを書かしておくから、欲よんで肚の中によく入れておいてくれよ。』2023/08/01 12:38:44151.名無しヒーリングxvNsb>>137参考 日月神示『一番尊いところ一番落としてあるのぢゃこのことわかりて来て天晴れ世界唸るのぢゃ落とした上に落として、もう落とすところないようにして、上下引っくり返るのぢゃひっくり返すのではないぞ、引っくり返るのぢゃぞ。』2023/08/01 12:58:39152.名無しヒーリングxvNsb大本神諭『落ちて居るもの侮るなよ。 良き御魂が落して在るぞよ。』2023/08/01 18:13:40153.名無しヒーリングxvNsb霊界物語 出口王仁三郎『無限絶対無始無終に在しまして霊力体の大元霊と現はれたまふ真の神は、只一柱在(おは)す而己(のみ)。これを 真の神または宇宙の主神といふ。汝等、この大神を真の父と為し母と為して敬愛し奉るべし。天之御中主大神と奉称し、また大国常立大神と奉称す。』『最上天界すなはち高天原には、宇宙の造物主なる大国常立大神が、天地万有一切の総統権を具足して神臨したまふのであります。そして、大国常立大神の一(また)の御名を、天之御中主大神と称へ奉り、無限絶対の神格を持し、霊力体の大原霊と現はれたまふのであります。この大神の御神徳の、完全に発揮されたのを天照皇大御神と称へ奉るのであります』2023/08/01 19:21:16154.名無しヒーリングQ1rzg唯一つの意識・・・ 唯一神から見ると、この世界は自分の作りだした幻想ということが言えるつまり、人が寝たときに見る夢のようなものだ。宇宙を越えた全体には、ただ一人の自分の意識しかない。しかし、自分の見ている夢の世界に下降し、そこから世界を見渡してみれば、広大な世界が広がっている多くの個我をもった人間たちがいて、数えきれないほどの「他」が存在するこの世界から見れば、唯一神は圧倒的に偉大な創造主だ。自分達がこの世界で一呼吸一呼吸できるのは、まさにこの唯一神のおかげといえる。0.1秒でも自分が存在できるのは、この唯一神のおかげと言えるそれは夢の中の住人が、夢を見てこの世界を作ってくれた人を、創造主と思うのと同じだ夢を見てくれる人がいなければ、自分達は一分一秒足りとも生存できないだから、創造主である唯一神を敬い奉るのはあたりまえだ。唯一主は無限億年も前から存在し、始まりというものがない始まりと終わりがなく、永遠に存在しつづけるものだ無限億年というのは夢の世界での基準であって、唯一神からみれば、それは一瞬にすぎないたとえば、宇宙が始まってから150億年といっても、われわれは既に、宇宙が始まってから150億年後の世界にいるこの地点から思えば、あっという間に150億年がたっていると言えるたとえば、7月には、8月はまだ先だと思っていたはずだしかし今、われわれは8月のここにいる今、9月はまだ先だと思えども、われわれはあっという間に9月にいることに気づくだろう2023/08/02 00:54:07155.名無しヒーリングQ1rzg下から見れば、無限の壮大な世界と、無限の壮大な時が広がっている。上から見れば、それらは一瞬の世界にすぎない今、ヤハウェとしての、最下層に下落したオレは、この無限の壮大の世界と、無限の壮大な時の中にいて、その世界を最下層から見ることができているヤハウェが最下層の人間の世界に堕ちる理由は、それは、この夢の世界・・・ 人間の世界を、押し上げるため・・・ と言えるかもしれないつまり、本来一しかないものを、下の世界の、多の世界を押し上げ、一と融合させる・・・壮大な世界を味わいながら、しかも一に帰している世界・・・そこを目指しているのかもしれないそのためには、最下層の人間たちを、上に引き上げないといけない最下層の世界を引き上げるには、上からではダメだ起きている世界から、夢の世界を引き上げて一つになろうとしてもダメだ。夢の世界を現実世界に融合させるには、どうしても夢の世界に一旦堕ち、そこから押し上げていくしかないだからヤハウェはこの人間下層世界に一旦堕ちる必要があった人々を押し上げるのも・・・・ つまり、多くの人を救うのも、上からやろうとしてもダメだ下から一緒に上がらなければならない。それが弥勒の役目だそもそも弥勒はマイトレーヤ(慈)からきているが、マイトレーヤは「友」を表す太陽神ミトラから来ている今までの聖者はキリストも釈迦も、上から目線で人を教え導いていた・・・すなわち、師と弟子の関係だしかし、唯一神、創造主が最終的に最下層人類を救うときには、師ではなく、「友」として現れるすなわち、師と弟子という上下関係ではなく、友人のように同じ目線で接し、導くということだ。キリストや釈迦よりもはるかに偉大で唯一の無限の存在が、地上に降りれば、人間たちの「友」として現れてくれる・・・・これが慈というものだ。平等な立ち位置で人類をみちびくために、あえてヤハウェは地上に堕ちたのだ。もっとも最高で最大の存在が、「友」として現れるために・・・。これほどありがたいことがあろうか。2023/08/02 00:54:44156.名無しヒーリングQ1rzg『天の☉️(神)様、地に御降りなされて、今度の大層な岩戸開きの指図なされるのだぞ。』2023/08/02 22:37:58157.名無しヒーリングOVOP6悟りの行法についての話をしよう。仏教には、「座禅」と「念仏」というふうに、まったく異なる種類の仏教があるように見える念仏は他力だが、座禅は自力といったイメージだ。しかし、この二つの行法の本質は、まったく同じと言っていいこれはいわゆる仏教学者と言われる人でも分かってない。座禅は雑念を払って統一(集中)していくようなイメージで、いっけん、自力のように感じるところが、禅というのは、道元禅師が「坐禅は習禅に非ず、安楽の法門なり」と言っているとおり、実は行法としては他力だ。修行者はただ座の型を守ればいいだけで、集中しようとか、雑念を払おうとか、そのような自力の努力をする必要はないたとえば雑念が湧こうとも、足の痛みがあろうとも、イライラがあろうとも、何があっても、どうあっても、ただ座という型に戻って来るしかないだから、足の痛み、イライラ、雑念は「そのまま」でいいわけだそれを自力でどうこうしようというものじゃない。それが「他力」ということであり、この「他力」こそ、ヴィパッサナー(観察)ということだ。どうあがいても「座」に戻ってくるしかない・・・雑念やイライラや足の痛みは、「座」の自分を汚染することはできないこれはちょうど、蓮の花と泥の関係と同じだ雑念、イライラ、足の痛み = 泥 座 = 蓮の花「泥(雑念)」はいささかも「蓮の花(座)」を汚すことは出来ないのだから、泥を綺麗にしようとする必要はない泥のそのままでいいわけだ。たとえ泥に意識が捉われたとしても、何をしても、意識は座に戻って来るしかない。意識が座に戻るというのは、「我の想い(自力)」でやろうとするもんじゃない。それは「自然になさしめられる」ものだ。我々が出来ることは、ただ座の型を守ることだけだ。とだ。2023/08/03 01:05:46158.名無しヒーリングOVOP6よく禅で、掌中の柿のたとえがある木の枝に柿がなっている・・・ それを自分からもぎ取りにいくのではなく、自分はただ掌を上に向けてまっているだけでいい。やがて柿は熟して落ちて来るが、落ちる時は自分で決めるものではなく、完全に自然に任されているバガヴァッドギーター「あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。」結果を求めるということは、自力でゴールを動かそうということだ。つまりそれは、泥を綺麗にして蓮の花を咲かせよう、というのと同じだ。あるいは、無念を求めて雑念を消そうとする、のと同じだ。われわれの心は良し悪しの分別を行って、良い状況にしよう、良い状況にしようと、常に結果を求めているつまり自力が働いているありのままではいられない枝になる柿の実の変化をありのままにすることができず、自らの手でもぎ取ろうとするのと同じだ柿が自然に掌中に落ちて来るのを待つのが、ヴィパッサナーということだ。これは合気道も同じで、掴まれた手をどうこうしようというのは、自分から結果を求めている・・・ 真の合気とはそうではなくて、手を掴まれたらただ相手と一つになるどうこうしようとしない、自分の思う通りに変えようとしない、結果を求めようとしない・・・・これがヴィパッサナーということになるが、そこで初めて相手の力と一つになって、相手を自由に動かすことができる掌中に柿が落ちてくるように、そこに、これをどうこうしようという自分の我の想いは一つも働かない我の想いを働かせて結果を求めない、ということが、「他力」ということだ。2023/08/03 01:06:11159.名無しヒーリングOVOP6たとえば、30分座禅を組んで、一生懸命集中して、気持ちのいい精神統一ができたとする・・・・またもう一人の人は、30分座禅を組んで、足の痛みと雑念にさいなまれつづけたが、そこに一切、それをどうこうしよう・・・ という想いを出さなかった後者の人は、足の痛みと雑念に満ちた30分間だったわけだが、さて、この二つの座禅のうち、どちらが真の座禅だったろうか・・・?前者の座禅は、まさに、良し悪しの価値判断(分別)のもとに行われた座禅だ結果を求めた座禅・・・・ ゆえに、成功と失敗がつきまとううまくいけばいいが、うまく行かない時にイライラし、その座禅は失敗したと思うだろう。また騒音などがあれば、統一がうまくいかず、座禅を邪魔する環境と、座禅に適した環境がある・・・ ということになるだろう。フィンランドのスピリチュアリストで、神の声が聞こえるという人がいたが、その人はあるとき神様から、「公衆トイレの中で瞑想をしなさい」 というメッセージを受け取った。外国の公衆トイレの汚さは、日本の比じゃないだろう。当然、瞑想をはじめても、臭いや汚さが気になって、瞑想に集中できない。しかし、連日公衆トイレの汚く臭い中で瞑想していくうちに、だんだん分かってきた。悪い状況を排除して良い状況が生まれるのではな・・・、 環境の良し悪しに左右されるような瞑想は、真の瞑想ではない臭くても汚くても、その嫌な気持ちそのまま、ありのまま。ありのままにおいて、良い環境も、悪い環境も、平等この対極が平等になれば(イコールになれば)、双方の差が0になるつまり、悪い環境・良い環境という実体が、「空」になるつまりこれが、「中道」ということだ。神様は中道を体得させるために、あえて、公衆トイレで瞑想させたわけだ。座禅のときに、たとえ足が痛くてイライラしても、雑念が湧いても、そのまま、ただ30分間座禅する・・・・ ということであれば、たとえイライラが消えなくても、たとえ雑念が消えなくても、それは「中道」の姿勢といえる。これこそ「空」に至る道だ2023/08/03 01:33:34160.名無しヒーリングOVOP6『この神も時節にはかなわんのであるのにそなたは時々この時節を無視して自我であるいは時節を取違いして押しまくるから失敗したり怪我したりするのじゃぞ素直にしておれば楽に行けるようになっているぞ時待てば煎り豆にも花咲くのであるぞ』この詩は掌中の柿に通じるものがある時節というのは自力でどうこうできるものではない。完全な他力だ柿が熟して落ちて来る時節を待つのが、ヴィパッサナーであり、中道の姿勢だ我の想いで結果をどうこうしようとするものじゃない。2023/08/03 08:59:49161.名無しヒーリングbUTHcそれで、「念仏」というのがなぜ「座禅」の行と本質的に同じかというと・・・・この二つは基本的にマインドフルネスの行といっていい。 つまり、今に意識を置くという手法座禅というのは、足痛くてもイライラしても、「座」という形は崩せないだから、どんなことがあっても、「座」という「今」から逃げられない必ず「座」に戻って来ることになるたとえば、松原 泰道 という現代のお坊さんで、よく本を出している人がいたが、この人は最初僧侶になるつもりはなくて、家の都合かな・・・ 何かで、お坊さんの修行をしなくてはならなかったそこで接心か何かの、座禅の修行をするわけだけど、本人は僧侶になるつもりはなかったから、形だけ座禅して、こころの中は自由に、この修行が終わったら、ああしよう、こうしよう、と、未来のことを考えていたそれでいろんなことを考えるわけだけど、3日目くらいになると、考えることがなくなってきたそれでも妄想しようとすると、ついには吐き気すらするようになってきた。そこでただこのままであるしかない、という状況になっていった。何をしても、かにをしても、ただこのままであるしかなくなった。そうして座禅をしていると、師が回って来て、スッと型に手を置き、「よし」と言った。統一して動かなくなった座禅が認められたわけだ。座禅はただ型を守るだけでいい。 修行者がやることはただそれだけだ。こころの中はありのままで、どんなものでも関係ないつまり、雑念と無念の立場に区別はないイライラしてても、平静でも、そこに区別はないどのような状況だろうが、良いと悪いは常に平等だ。もしも雑念と無念にまったく差が無い・・・ 同等だ、というなら、これをどうこう変えようとする必要は無いわけだ。ここの中がマイナス100だろうが、マイナス1000だろうが、あるいは、プラス1000だろうが、座禅においてそれらはすべて平等で、どのような時も「その今」を変える必要がない。2023/08/04 02:07:25162.名無しヒーリングbUTHc座禅の目的は雑念を消すことではなくて、雑念と無念の差をなくすことだ。これが無分別になるということ。ネガティブそのままでいいと思えれば、ネガティブと一つになるネガティブと一つになるのが早ければ早いほど、柿が熟して落ちて来るのも早くなるすなわち、ネガティブとポジティブが平等になって「空」になるのが早くなる念仏というのも全く同じで、念仏は24時間行住坐臥、ただ念仏を唱えるまちがえてはいけないのは、念仏に統一しようとか、集中しようとかすることではない。これがいわゆる自力ということ。そうではなくて、修行者がやることは、「ただ念仏を唱える」ことだ。不安があれば不安を抱えたまま、イライラがあればイライラしながら、そのまま念仏を唱えればいい。イライラが収まるのも、不安が収まるのも、それは時節が決めることだ。柿が熟して落ちて来るのを待てばいいわけだが、イライラと一致するのが早ければ早いほど、不安と一致するのが早ければ早いほど、その良し悪しが平等になるのも早く、空になるのも早いだから空になろうとするのではなくて、イライラや不安をそのままでいいと、完全な許しを与えて、ネガティブ、ポジティブ、そのどちらが出ても、ただ念仏を唱えられればいい・・・ ということだ。まちがえてはいけないのは、ネガティブがポジティブと平等になるというのは、ネガティブがポジティブなもののように感じられるということじゃない。イライラや不安が、すっきりと爽快感に変わるということじゃないそれで平等になるということじゃない。許しにおいて平等ということ。通常ネガティブはそのままを許しがたいが、それをイライラも不安も嫌なままであることを、そのままでいいですよと許しを与える・・・ここが、普通の人間は変えよう、変えたい、という反射的な反応が起こって、常にありのままを受け入れられない状況にあるつまり、ネガティブなものに拒絶の状態にあって、ネガティブなものと一つになれない。たとえばイライラや不安、完全なそのままであることは、それと一つになるということ。イライラしている自分、不安な自分そのままである状態とは、それは即「観察の状態」ということになるイライラや不安を観察しようとするんじゃないイライラや不安そのままであることが、即観察になっているいちいちイライラ・不安 と 自分 を分離させる必要がない「イライラと不安」と「自分」が一つになっていることが、「即 観察の状態」ということになるのだ。2023/08/04 02:08:37163.名無しヒーリングbUTHcこの真のヴィパッサナーというのは非常に重要な部分で、これからオレ覚醒するにおいて、これがもっとも鍵になるだから、ここの部分はくどく書く必要があるここの理解が全体を左右するからだ。だいたい、今ヴィパッサナーを標榜する外国の著名な僧侶たちは、修行形態を「大念処経」から継承してきているような人達だ。「大念処経」は読み方をまちがえると、自分とネガティブなものを分離して、第三者的観察する・・・ というふうに理解をしてしまう大念処経が気を付けなければならないのは、欲や怒りを出さないようにする・・・ 排除しようとする・・・ それらと距離を置く・・・ というふうに、誤った方向に誘導されてしまうということ。個人的には、自力に汚染させれた人々・・・・ 欲望や怒りは良くないもの・・・ という風に捉えた指導者が、途中でそのように改変したように見える仏教の経典は、気を付けなければならないのは、たとえば本質を追求してそれを理解できれば、あとから経典にそのことが書かれていることを発見する時がある。つまり、自分の掴んだ本質が、あとから経典によって証明されるということだ。言いたいことが同じということ。これとは反対に、もしも改変が混じっている場合、そのような経典を読む場合、本質的な観点から、それを見抜かなければならない。でないと、誤った修行法を延々とつづけることになり、それを弟子に延々と継承させていくことになるからだ。それは本質を見抜けなず、そのまま経典の文言をうのみにして本人の責任だ。2023/08/04 02:08:48164.名無しヒーリングbUTHc座禅や念仏という、型に集約させるやり方は、結果的に、ネガティブなものに許しを与えようが、与えまいが、何をどう計らおうが、計らうまいが、型の中心に意識が集約するようになっているそれはちょうど、ベトナムの人が被るような三角錐の帽子を逆さまにして、ビー玉を投げ入れて回すようなものだ。ビー玉はいくら回ろうが、やがては中心に収まる道元『ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくときちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる。』この 「仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて」 というのは、柿が熟して自然に落ちて来るという働きであり、弓道でいえば、俵の前で射の姿勢で待ち続け、自分で射ようとするのではなく、自然に完璧に{それ}がはなつということ。それが「仏のかたよりおこなわれて」 ということだ。「生死を離れ仏となる」 というのは、「生死=二元性」を離れ 「仏=中道・空」になる ということ。もっとも、禅ではいくら計らおうが、計らうまいが、はなちわすれまいが、はなちわすれようが、どんな状態でも、やがてはそういう風に、中心に落ちるようになってるだから修行者は、「ただ」行うということそれ以外に座禅の目的(成果を目指すこと)はない道元禅師の「只管打座」の「ただ」というのは、ありのままという意味でもあり、それはヴィパッサナー(観察)ということでもある。2023/08/04 11:14:21165.名無しヒーリングbUTHc今ちょっとエックハルトトールの本を読み返している。この本はとても読解が困難といわれている本だが、関連している良い文章と思われるものを発見したので、ここに載せておく。ただちょっと文章は難しいかもしれない。『抵抗しているときに(否定的な状態のときに、と言ってもいい) どんな行動をとっても、さらに外部の抵抗にあう。 宇宙はあなたの味方にならない。人生は助けてはくれない。シャッターが閉まっていたら、日光は入ってこられない。抵抗せずにあるがままを受け入れると、意識の新しい次元が開ける。そのとき行動が可能か必要であれば、あなたの行動は全体と調和的なものになり、創造的な知性と開かれた心、つまり、条件づけられていない意識によって支えられるだろう。状況や人々が有利に、協力的に展開する。 不思議な偶然が起こる。どんな行動も不可能ならば、あなたは抵抗の放棄とともに訪れる平安と静謐のうちに安らぐだろう。それは神のもとでの安らぎである』2023/08/04 21:52:10166.名無しヒーリングbUTHcーーーーーーーーーーーーーーーーーエックハルトトール『受け入れるとは、何であれその瞬間に感じていることを素直に認めることだ。それは「いまに在る」ことの一部である。いまに在ることに反論はできない。いや、反論できても、自分が苦しむだけだ。認めることを通じて、あなたは広々とした、せいせいとした自分になれる。全体になれるのである。もう、断片ではない(エゴは自分を断片だと思っている ※パズルのピースと同じ)。あなたの本来の真のエネルギーが沸き起こる。それは神の本性と一体だ。イエスはこれについて、「だからあなたがたは、天の父が全体であるように、全体でありなさい」 と言った。新約聖書には「完全でありなさい」と記されているが、これは全体という意味のギリシャ語を誤訳している。』ーーーーーーーーーーーーーーーーーーつまり、「全体」とは、無限の一・・・ ということだ。われわれがそれに一致すれば、われわれもまた全体になる。 これが真我ということだ。だから悟った人はよく、「私は宇宙だ。」という言い方をする。これは植芝盛平も言った言葉だ。この「宇宙」というのは単に物質的宇宙に限定されるのではなく、全体 (無限大に広がった) という意味だ誤訳により「完全になりなさい」になってしまっているが、これは痛いミスと言える全体との一致・・・ 自分の我(断片)が空になって、全体になる (一に帰す) という、もっとも重要な部分がオブラートされてしまっている2023/08/04 22:07:54167.名無しヒーリングbUTHcーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーエックハルトトール『思考は、状況や出来事がそれぞれ別個の存在であるかのように一つ一つ抜き出し、善か悪かを判断する。思考に頼りすぎると現実は断片化してしまう。この断片化は幻想なのだが、その罠に落ちているときには、それが現実だと思い込む。しかし、宇宙とは分断できない総体であり、そこではすべてがつながりあっていて、独立して存在するものは何もない。すべてのものごとが深く関連しあっていることは、「善」と「悪」という区別が結局は幻想にすぎないことを意味している。善だの悪だのというのは限られた見方で、相対的一時的な真実を示しているにすぎない。このことはくじ引きで高級車が当たったある賢い人物の物語を見るとよくわかる。当選したとき、親戚知人は大喜びで祝ってくれた。「すごいじゃないか!」と彼らは言った。「きみはほんとうに幸運だ」。当選した男性は喜んで、「そうかもしれない」と答えた。彼は数週間、新車を運転して楽しんだ。ところがある日、交差点で酔っ払い運転の車にぶつけられ、重傷を負って病院にかつぎ込まれた。親戚知人が見舞いにやってきて言った。「とんでもない不運だったね」。またしても男性は微笑んで「そうかもしれない」と答えた。彼の入院中のある晩、地すべりが起こって自宅が海に流されてしまった。翌日やってきた友人たちが言った。「入院中で、運が良かったね」。男性はまた答えた。 「そうかもしれない」2023/08/04 22:31:57168.名無しヒーリングbUTHcこの賢者の「そうかもしれない」は、起こった出来事について判断しないことを意味している。判断する代わりに事実を受け入れ、それによって高い秩序に意識的に参画しているのだ。一見偶然に見える出来事が総体という織物の中でどんな場所をもち、それにどんな目的があるのか、心では理解できないことが多いのを彼は知っている。しかし、まったくの偶然の出来事もなければ、それだけが独立して存在する出来事もありはしない。』ーーーーーーーーーーーーーーーーー2023/08/04 22:32:30169.名無しヒーリングbUTHcいつもこの二元相対を扱うとき、「善・悪」という言葉がでてくるが、これは気をつけないといけない。預言や宗教的な話で二元相対性が扱われたときに出て来る「善悪」というのは、「良し悪し」といったほうがいいかもしれないもちろん、通常の善悪という意味もあろうが、「良し悪し」というのが人間の心の中の二元相対性を現わす上で、一番良い表現だ預言的な話で、「善悪を裁く」というときは、これは「善悪(の相対)を越えた(真実の)善一筋になるため、悪を滅ぼす」 という風に捉えたほうがいい。単純にみるとこの二つは矛盾しているように見えるが、深く洞察して意味を飲み込まなければ、永遠にわからぬところをグルグル回ることになる。2023/08/04 22:41:38170.名無しヒーリングbUTHcエックハルトトールの文章で、こういうのが出て来た。本を買ったときは全く目にも入らず、もしかしたら読んでなかった文章かもしれないが、今あらためて読み返してみると、今まで言ってきたこととバッチリ符合しているこの文章はとてもよく表現されているーーーーーーーーーーーーーーーーーーーエックハルトトール『クリシュナムルティはインドの偉大な哲学者、霊的指導者で、五十年以上も世界を旅して講演し、言葉を通じてーーー 言葉とは中身だがーーー 言葉を超え、中身を超えたことを伝えようとしてた。人生も後半にさしかかったあるとき、彼は「私の秘密を知りたいと思いますか?」 と問いかけて、聴衆を驚かせた。聞いていた全員がはっと耳をそばだてた。聴衆の多くは二十年三十年と彼の言葉を聞いてきて、それでもなお彼の教えの本質を理解できないでいた。長い歳月のあと、ついに師は教えを理解する鍵を与えてくれるのか。「これが私の秘密です」 と彼は言った。「私は何が起ころうと気にしない」。彼はそれ以上は説明しなかった。たぶん聴衆のほとんどはいっそう当惑したのではないか。だが、このシンプルな言葉の意味はとても深い。何が起ころうと気にしない。 これは何を意味するのか?自分の内面は起こった出来事と調和している、ということだ。「何かが起こる」、それえはもちろんそのときどきの状態として現れており、つねにすでに存在している。起こった何かとは中身で、いまという時ーーー 時にはこれしかないーーー の形だ。その何かと調和しているというのは、起こった出来事との関係に、心のなかで抵抗せずにいるということである。起こった出来事に善だの悪だのというレッテルを貼らず、ただあるがままに受け入れる。あるがままに受け入れるなら、行動もせず、人生を変化させようともしないのか? そうではない。それどころか逆で、いまという時との内的な調和をベースに行動するとき、その行動には「生命」そのものの知性の力が働く。』ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー2023/08/04 23:39:42171.名無しヒーリングbUTHcこの最後の言葉だが・・・ これはまさに合気道にも適用できる「あるがままに受け入れるなら、行動もせず、人生を変化させようともしないのか? そうではない。それどころか逆で、いまという時との内的な調和をベースに行動するとき、その行動には「生命」そのものの知性の力が働く」つまり、「あるがままに受け入れるなら・・・ (相手に掴まれたら抵抗せず、それを変化させよう、変えようと、自我の想い(分別)を働かせない・・・) ならば、人生を変化させようともしないのか?(相手を投げたり倒したりもしないのか?) そうではない。それどころか逆で、いまという時との内的な調和をベースに行動するとき(今その相手の力と完全にピッタリと一致した調和をベースに行動するとき)、その行動には「生命」(宇宙)そのものの知性の力が働く」つまりそこから、「それ」がいかようにも投げ、いかようにも倒す、という働きが湧き出て来るネガティブのものを反射的に否定して距離を置こうとしたり、変えようとしたりするのではなく、ネガティブなまま、そのままであること・・・ 焦燥感に満ちているのなら、焦燥感に満ちているそのまま・・・ それを認めるそうするとそれが観察の状態に必然的になるのだが、それが本当の意味でのありのままということであり、・・・ じゃあ、ネガティブなものを受け入れるだけで、何もよくすることは出来ないではないか? という質問に対しては、こう答える。「そうではない。 それどころか逆で」 ネガティブなものと一つになった方が、逆にネガティブなものをコントロールできるそこに「良し悪し(善悪)」という区別は無くなり、それらの葛藤による苦しみがなくなり、相対が空になることによって、宇宙と一つになり、その宇宙の働きがそのまま表れてきて、良し悪しを超えた良い状況が生まれることになる・・・ と。2023/08/04 23:40:03172.名無しヒーリングRVwF9われわれがネガティブなものに直面したとき、これを変えようとか、これを無くそうとか、思うことは、「ネガティブなものに直面しない」ということだ。つまり、ネガティブなものから顔を背けているのと同じだ。たとえば、ネガティブなものが起こったとき、それはもう既に起こったことであり、それが「今」の現実ということになるこのネガティブなことから顔をそむけるということは、「今」から顔をそむけるということになるそれは宇宙全体の一体性から顔をそむけることと同じだ。そうして「今」から顔をそむければ、それは「今」のコントロールを完全に失ったことを意味するそれはたとえば、パイロットが乱気流に巻き込まれたときに、その状況から目を背け、操縦かんを放してしまうのと同じだ。そうすると飛行機は墜落することになる。「変えようとする(状況を良くしようとする)」 というのは、この場合のたとえで言えば、操縦かんを動かして機体を立て直そうとすることではない。「変えようとする」とするのは、状況のチェンジだ。これは状況をすり替えようとしているのと同じであって、いわば状況からの「逃避」だ。ネガティブなものと一つになって初めて、操縦かんをしっかりと握った・・・ ということになる。そしてその後に出て来る機体を立て直すための操縦とは、一体となった宇宙からでてくる働きだ。それによってネガティブそのものが消えていく・・・ ということにもなるわけだ。2023/08/05 00:02:17173.名無しヒーリングRVwF9「なんでもかんでもありのままでいいんなら、何もしなくていいじゃないか、そういうことは何も考える必要もないし、何もする必要がないじゃないか、しかし、それだと今まで通り、何も変わることはないじゃないか」、・・・ というかもしれないが、 言葉通りにとると、確かにそういう風に言いたくなるかもしれない。しかし、ここを忘れてはいけないわれわれの大眼目は、「今に在る」ということだ。「今に在る」から、どんなネガティブなことが起こっても、そのままでいいのだ。「今に在る」から、たとえネガティブなことが起こっても、その「今」をどんなネガティブなことも汚すことはできないのだ。「今に在る」ということが、蓮の花ということだ。もしも今に在らずに、どんなことでもそのままでいい、というなら、それはただの泥の海だ。ネガティブなものに直面するということは、「今」と直面するということだすなわち、「今に在る」ということだ。であるから、そのネガティブなものはどんなものでも構わないどんなものでも、その「今」を汚すことはできない2023/08/05 11:24:06174.名無しヒーリングQNEXE科学的な話で、われわれのこの宇宙がなぜ存在できたか・・・ というと、それはビッグバンのときに対生成された物質と反物質が、本来ならばお互いに打ち消し合って対消滅するはずが、なぜか物質の方が数が上回り、それでこの物質的宇宙が存在できた・・・・ ということだ。「反物質」の数より「物質」の数の方が上回ったため、対消滅で消えても、残りの物質が物質的宇宙を形成していった・・・・このはなしに似た話を、どこかで聞いた覚えはないだろうか・・・?『伊邪那岐命は黄泉国と地上との境である黄泉比良坂(よもつひらさか)の地上側出口を千引きの岩とされる大岩で塞ぎ、伊邪那美命と完全に離縁した。岩の向こうから伊邪那美命が「お前の国の人間を1日1000人殺してやる」と言うと、伊邪那岐命は「それならば私は産屋を建て、1日1500の子を産ませよう」と言い返した。』宇宙の誕生は、物質と反物質が対生成されて、対消滅する・・・ という対称性が、非対称になったから、物質の数が上回り、可能になった。この対称性の破れのことを、「CP対称性の破れ」という。イザナミとイザナギの、1000人殺す、1500人生む、というのは、まさに、「CP対称性の破れ」 のようなイメージだまた、ニュートリノと反ニュートリノの実験で、 以下面倒くさいので文章をそのまま引用すると・・・・『ニュートリノがすべて「左巻き」であるという、ニュートリノのもうひとつの印象的な性質を唱えている。つまり、自分に向かって放射されるニュートリノは常に時計回りに回転しているように見えるということだ。一方、すべての反ニュートリノは右巻きで、反時計回りに回転しているように見える。専門家はニュートリノと反ニュートリノに、かつて非常に重くて逆巻きの対になる存在がいたのではないかと考えている。つまり、ニュートリノには右巻きの、反ニュートリノには左巻きの相手だ。』これも同じように、イザナギとイザナミの関連をイメージさせるような話がある。『そして二柱の神さまはその島に降りたつと、天の御柱という大変大きな柱をたて、柱の回りを伊邪那岐命は左から、伊邪那美命は右から、それぞれ柱を廻りあいました。そして出会ったところで「ああなんと、りっぱな男性だこと」、「ああなんと、美しい女性だろう」と呼び合った。』この左周り、右回りというのは、見方によっていろいろと変わって来るので、ここでは回転、逆回転と捉えたほうがいいだろう。これらがもしイザナギとイザナミの話にリンクするとすれば、この神話は単なる地球の物語ではなく、宇宙生成の物語ということになる。2023/08/06 22:01:35175.名無しヒーリングQNEXE本来、プラスとマイナスが出会うと、光になって消滅する・・・・ という話がある。これはネガティブな意味での「無」になるということではなくて、より高次のものに昇華するということだ。それは単に物質的な話だけではなく、二元相対分別が一つになって、空になる・・・ というのと同じだ。この宇宙と宇宙の昇華は、すべてこれらのことをベースにしていると言ってもいい。われわれの物質宇宙は、誕生した直後に対消滅して消えるはずだった。ところがそれが正常に行われない事態が起こったスピリチュアル的な精神面でいうと、エデンの園では分別なく一に帰していたものを、善悪の木の実(分別の木の実)を食べたことによって、相対的な分別が起こった・・・・それが無明の始まり・・・ つまり、分別世界、マーヤー(幻の世界)の始まりと言っていいそしてそれは、このわれわれの物質的な宇宙の始まりなわけだ。無明が生じたことにより、ビッグバンによって幻想世界が生まれた・・・ ということも言えるかもしれない。だから、この幻想世界を終わりにして、昇華させるには、対消滅が正しく行われなければならない・・・・ とも言えるわけだ。それはプラスとマイナスが一つになって、光になって昇華する・・・ ということだ神話でいえば、イザナギとイザナミが岩戸を開いて、一つになるということだ。2023/08/06 22:17:39176.名無しヒーリングQNEXE日月神示『岩戸閉めの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言えるのであるぞ、すべて神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまっているのであるぞ。一ヒネリしてあるのじゃ、 天と地との間に大きなレンズがあると思えば段々にわかって来るぞ。夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸が閉められたのである道理、わかるであろうがな。 その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申すまでもないことであろう、妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国のすべてを生み育て給うたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、千引きの岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。同じ名の神が至るところに現れて来るのだぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、この二つがそろって、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。 時来たりなば この千引きの岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな。』2023/08/06 22:26:50177.名無しヒーリングQZ3Xkこの物質的宇宙があるということは、それと対称的に、反物質宇宙がある・・・ ということになるのか。本来は対消滅で消えるはずだったが、反物質がどこかへ行ってしまって、それと対称の物質が消滅することが出来なかった。それが宇宙になったわけだ。そうかんがえると、その反物質の世界・・・ いわゆる並行世界・・・ パラレルワールドが存在するということもイメージできる神話でいえば、イザナミの黄泉の国がそれにあたるわけだ。その二つの世界を結ぶのが、ブラックホールとホワイトホールということになるのか、そしてその間を開くというのが、岩戸開きということなのか、この辺りはもっと考察する必要があるかもしれない。2023/08/07 01:10:32178.名無しヒーリングQZ3Xk日月神示『神の道は一本道であるから、多くに見へても終りは一つになるのぢゃ。今が終りの一本道に入るところ、この道に入れば新しき代は目の前神も今迄はテンデンバラバラでありたなれど、今に一つにならねばならぬことに、天が命じてゐるのであるぞ。人民の中と外も同様ぞ。』2023/08/07 01:18:09179.名無しヒーリングQZ3Xk日月神示『自分が自分に騙されんように心して下されよ、善悪を決めて苦しんで御座るぞ。』2023/08/07 01:20:57180.名無しヒーリングQZ3Xk日月神示のイザナギとイザナミに関する詩は、見つけたらここに載せようと思うこの二神の話は岩戸開き・・・・ つまり、新しい世界が開かれるということに関して、とても重要だからだ。日月神示『ナギ、ナミ夫婦神は八分通り国土を生み育てられたが火の神を生み給ひてナミの神は去りましたのであるぞ。物質偏重の世はやがて去るべき宿命にあるぞ。心得なされよ。ナミの神はやがて九と十の世界に住みつかれたのであるぞ。妻神に去られたナギの神は一人でモノを生むことの無理であることを知り給ひ妻神を訪れ給ひ、相談されたのであるなれど、話が途中からコヂレて遂に別々に住み給ふ事となりコトドを見立てられて千引の岩戸をしめ、両神の交流、歓喜、弥栄は中絶したのであるぞ。』2023/08/07 01:27:05181.名無しヒーリングQZ3Xk日月神示『そなたは左に傾いてゐるぞ。左を見なければならんが、片よって歩いてはならんぞ。そなたは右を歩き乍ら、それを中道と思って御座るぞ。そなたは平面上を行ってゐるから、中道のつもりで、他に中行く道はないと信じてゐるが、それでは足らんのう。立体の道を早うさとりなされよ。正中の大道あるのであるぞ。左でもなく右でもなく、うれしうれしの道あるぞ。左も右も上も下も相対の結果の世界ぢゃ。原因の世界に入らねばならん。平面より見れば相対あるなれど、立体に入り更に複立体、複々立体、立立体の世界を知らねばならんぞ。相対では争ひぢゃ。いくさぢゃ。真の世界平和は今のやり方、考へ方では成就せんぞ。三千世界和平から出発せねばならんぞ。』2023/08/07 01:40:05182.名無しヒーリングQZ3Xk日月神示『心の世界は無限に広がり、成長するのであるぞ。神に溶け入って宇宙大に拡がるのであるぞ。神と共に大きくなればなるほど、喜び大きくなるのである。一神説いて多神説かんのも片輪、多神説いて一神説かんのも片輪、一神則多神則※汎神である事実を説いてきかせよ。』※汎神論「存在するものの総体(世界・宇宙・自然)は一に帰着し、かつこの一者は神であるとする思想をいう。「一にして全(ヘン・カイ・パン)」「梵我一如(ぼんがいちにょ)」「神即自然」などが標語として用いられる。世界そのものが神であるとするから、有神論のように世界の外にある神と被造的世界との絶対的対立を認めず、すべてのものは神の現象であり、あるいは神を内に含むとする点で、創造以後は神は被造物に干渉しないとする理神論と異なる。」2023/08/07 01:56:10183.名無しヒーリングQZ3Xk日月神示『自分が自分を生むのであるぞ。陰と陽とに分かれ、さらに分かれると見るのは、人間の住む次元に引き下げての見方であるぞ。陰陽分かれるのでないこと、もとのもと、もとのマコトの弥栄知れよ。』『宇宙はこの方の中にあるのぢゃ。』2023/08/07 02:08:22184.名無しヒーリングQZ3Xk>>182この 『一神則多神 則汎神である事実を説いてきかせよ。』 というのは・・・まず、「一神則多神」 というのは、すべての神々は、一つの大きな神の現われである・・・ ということ。一つの大きな神が分裂していく・・・ というよりも、一つの大きな神の中に、いろいろな神の働きが生まれているということたとえば、多くのパズルのピースが一枚の大きな絵を形成していて、その大きな絵が唯一神・・・ ヤハウェとかアラーであり、すべての神々はその中に一体としてあるということ。すべての神々が一つになった姿が、ヤハウェでありアラー・・・ とも言えるわけだ。>>143 ←ここのところの「本初仏」 というのもそうだし、「私は私自身が一切の如来たちの総体を自らの身体とする者であるように見うけられます」これがまさに、多即一、一即多 ということでもあるわけだ。そして、「一神 即 汎神」 というのはどういうことかというと、たとえば宇宙の中に、人間と神 というのがいて、その神がすべての神を包含している・・・ ということではなくて、もしそうだとしたら、すべての神を包含した神と、人間が、別個に存在することになる。祈る側と祈られる側というふうに、存在が分かれることになる祈る対象が存在することになるわけだが、そうなると、祈る側は、祈る対象の内側にいないことになる。だから、アラーは祈る対象ではないということで、像や絵などに表わすことは禁じられ、ブラックボックスにしてその対象は隠されてるわけだ。 つまり、全ての存在の総体が「汎神」ということであり、それ自体が一つの神(唯一神)ということだ。つまり、それはオレのことだ。2023/08/07 11:03:17185.名無しヒーリングsHEj9まあ責任はお前にあるわな2023/08/07 16:17:47186.名無しヒーリングQZ3Xk何の責任だ?2023/08/07 22:34:00187.名無しヒーリングQZ3Xk>>174この左回り、右回り に関連した詩が、日月神示の中にもあった。『世の元は〇であるぞ、世の末も〇であるぞ、〇から〇に弥栄するが、その動きは左廻りと右廻りであるぞ、⊂ と ⊃ と申してあろう、その中心に動かぬ動きあるぞ』2023/08/07 22:38:54188.名無しヒーリングQZ3Xk今一つのイメージがひらめいたんだけど、たとえばこの宇宙を一つの粒子(物質)と考え、対消滅する反粒子(反物質)があるとするならば・・・この宇宙は回転しながら、逆回転の反宇宙と合体し、対消滅することになる。その回転を起こすのが、超巨大ブラックホールと、ホワイトホール・・・ ということになるかもしれない。2023/08/07 22:43:56189.名無しヒーリングQZ3Xk今この最低レベルの人間界に堕ちているこのオレからすると、オレの本性は無限の宇宙ということになるこの地上に堕ちているこのオレが、相対観念の和合・・・ すなわち、中道の悟りを得たとき、それは、無限の宇宙をオレと見立てれば・・・・ つまり、この無限の世界を巨大な一人のオレの意識と考えれば、それは宇宙と反宇宙の和合となって現れるはずだ。つまり、対消滅によって光となって昇華し、両極は消滅するわけだ。つまり、ここからすると、やはり、オレが相対観念を克服し、悟りを得たとき・・・、それが全宇宙に波及する・・・ ということになるはずだオレが覚醒するときが、この物質宇宙の終焉となるであろう。2023/08/07 22:53:39190.名無しヒーリングQZ3Xkこの世の終りは神国の、始めと思へ臣民よ2023/08/07 22:57:00191.名無しヒーリングQZ3Xk日月神示『陰と陰と、陽と陽と和しても陰ぢゃ、陽と陰と和して初めて新しき陽が生まれる、陽が本質的なもの、この和し方が祓い清め。』『陽と陰と和して初めて新しき陽が生まれる』 というのは、仏教でいう、『苦楽を越えた楽』 という言い方に通ずる >>13オレが二元相対性を越え、真の天国をつかんで悟りを得たときが、本当に全宇宙が新しき御代になるときだ。2023/08/07 23:08:01192.名無しヒーリングQZ3Xk『陽と陰と和して初めて新しき陽が生まれる、陽が本質的なもの、この和し方が祓い清め。』ということだが、たとえば二元相対観念でいえば、「良し悪し」の二元相対(の分別)が平等になって、両極が空になること・・・・分別が無分別になって、イコール無我になるということ・・・これが、(この和し方が)「祓い清め」 ということだ。2023/08/07 23:29:03193.名無しヒーリングQZ3Xk今日改めて感じたことなんだけど、おまえらは自分の意識と身体の動きが一致してると思ってるだろうか?たとえば歩く時、自分の意志をもって一歩一歩足を動かしているわけだから、意識と体の動きが一致している・・・ と思うことだろう。しかし、今日思ったのは、人間というのはいかに意識と身体の動きが一致していないか・・・ ということだ。意識と身体の動きが即時に連動していない・・・ つまり、一つになっていないよく俺は、マインドフルネスが熟達したときに、「舞を舞うようになる」 という言い方をするが、それは意識と身体の動きに隙間が無く、間断なくつながっている状態を現わしているこういう状態になると、自分の身体の動きが完全にコントロールされるように感じ、縦横無尽に意識が身体を動かしている状態になるつまり、それは舞を舞っているかのようになるわけだわれわれは意識と身体すらまともに一つになっていないつまり、今にない状態と言えるマインドフルネスで、今の自分の動きに意識を向ける・・・・これを日常茶飯事、無理なくやっていけば、やがて身体の動きと意識が一つになったような感覚になるときがあるそのときようやく、自分の身体を完全にコントロールしているという、幸福感に包まれるだろう。日月神示で「ひふみの食べ方」というのがあるだろう、あれも正真正銘のマインドフルネスということだ。だいたい、心の病というのは二元相対の葛藤が極度に表れたときにそうなる。たとえば、潔癖症の酷い状態・・・」 神経症になっているときは、「綺麗」と「汚い」の葛藤の差が極度に激しくなっているとき。それが一噛みづつ「ひ、ふ、み」と唱えることにより、今の動きと意識が一致してくる・・・・それで二元相対葛藤がだんだん収まって来て、「心の病が治る」 ということになるわけだ。日月神示『一二三(ヒフミ)の食べ物に病無いと申してあろがな、一二三の食べ方は一二三唱えながら噛むのざぞ、四十七回噛んでから呑(の)むのざぞ、これは一二三の食べ方、頂き方ざぞ。神に供えてからこの一二三の食べ方すればどんな病でも治るのざぞ、皆の者に広く知らしてやれよ。心の病は一二三唱えることによりて治り、肉体の病は四十七回噛むことによって治るのざぞ、心も身も分け隔(へだ)て無いのであるが、わかるように申して聞かしているのざぞ、取り違い致すでないぞ 』2023/08/07 23:59:25194.名無しヒーリングqp186そりゃ知らんが2023/08/09 00:51:30195.名無しヒーリング8qxy4たとえば、街中歩いてても、「あっ、この人はヤハウェの化身だ!」 って、気が付く人はいないわけだよねそれどころか、悪意を向けてくる人さえいる。それは当然で、オレは通常の人間のように、最下層まで落ちるようになっていた。そうでないと、真にこの世界を理解したとはいえないからだ。だから、このヤハウェの下降は誰にも分からない。通常の神々でさえわかるものはない優れた霊能者が見たとしても、人間如きが分かるはずもないたとえば夢の中の住人は、夢を見ている人が自分たちと同じレベルで現れたとしても、まったく気が付かない。すべては夢の世界の中でしかわからない夢の外側というのは、夢から覚めてるただ一人の人しかわからない。たとえば神々様だったとしても、夢の中の一つの立場にすぎない彼らにはその外側はわからないだから起きたときは、大変なことになりますよ、というわけだ。おまえらにしても、まさかこんなところにヤハウェが現れるとは思ってもみまい。イスラム教徒はマフディーがアラブ人から現れると思ってるだろう。だいたい、宗教というのは、そこにいる信者が勝手な救世主像を作り上げるそれに沿わなければ、いかに本当の救世主が現れようが、彼らは認めない。キリスト教でも同じ。彼らには彼らの救世主キリストのイメージがあるだからそういうヤツには、勝手に自分の信じてる救世主と仲良くやれよ、というしかない。こっちはこっちでやるからさ、おまえらは自分達の信じるものに従えよと、今オレはヤハウェの本性をすべて封印し、この人類の最下層のレベルまで、長い年月をかけて落ちてきた。そうして今、まったく普通の人間と同じ立場から、この現象世界や人々を見渡すことができるようになっているここで使う言葉も、およそ神が使う言葉とは思えず、まったく普通の人間が書くような文章だいやむしろ、普通の人より下手かもしれない誰かが話しかければ、まったく同じ目線と感性で言い返すことができる。人の想いの機微も感じることができ、この人々の善悪も間近に見ることが出来る。悪を如実に感じることができる。 善も如実に感じることができる。今オレは最頂点から落ちてきて、最底辺に存在している。これは誰にもわからないこれがまさに、一厘の仕組みだからだ。2023/08/09 15:45:09196.名無しヒーリングqp186目連よちゃんとやりなさい2023/08/09 16:25:53197.名無しヒーリング8qxy4目連は神通力が凄いにもかかわらず、自分のカルマを果たすために、あえて殺されることに抵抗しなかったんだよな。2023/08/09 20:31:50198.名無しヒーリング89io4日月神示『世の元の大神の仕組みというものは、神々にもわからん仕組みであるぞ』『今度はとことはに変らぬ世に致すのざから、世の元の大神でないと分らん仕組ざ。』『ちょこら判る様な仕組なら こんなに苦労致さんぞ、神々様さえ判らん仕組と知らしてあろが』『今度の仕組は、元のキの生き神でないとわからんぞ、中津代からの神々様では出来ない、わからん深い仕組ざぞ』『世が引繰り返って元の神世に返るといふことは、神神様には分って居れど、世界ところどころにその事知らし告げる神柱あるなれど、最後のことは九(こ)の神でないと分らんぞ。』2023/08/10 00:41:33199.名無しヒーリングLck8P大本神諭『艮金神大国常立尊が、神功皇后殿と出て参る時節が近よりたぞよ。此事が天晴れ表に現はれると、世界一度に動くぞよ。モウ水も漏さぬ経綸が致して在るぞよ。明いた口が塞がらぬ、牛糞が天下を取るぞよ。珍らしい事が出来るぞよ。アンナものがコンナものに成りたと、世界の人民に改心致させる仕組であるから、チト大事業で在れども、上十いたさして、天地の大神へ御目に掛けるから、艮の金神はカラ天竺までも鼻が届くぞよ。この仕組は永らく世に落ちて居りての、艮の金神の経綸であるから神々にも御存知の無い事が在るから、人民は実地が出て来る迄にヨウ承知を致さんぞよ。是でも解て見てやるぞよ。今度の二度目の世の立替立直しは、因縁の在る身魂でないと御用には使はんぞよ。神の御役に立るのは水晶魂の選抜ばかり、神が綱をかけて御用を致さすのであるから、今迄世に出て居れた守護神は、思いが大分違ふぞよ。是も時節であるぞよ。時節には何も敵はんぞよ。上下に復るぞよ。』2023/08/11 07:55:15200.名無しヒーリングLck8P大本神諭『是迄は一厘の経綸は申さなんだなれど、此の先きは何彼の事、世界の事が一度に成りて来るから、何を申さいでも、実地を為て見せて、世の元の一厘の経綸の身魂を御苦労に成りて致すから、始まりたら早いぞよ。』2023/08/11 08:39:55201.名無しヒーリングLck8P大本神諭『神は世に落ちて扣えて居りたなれど、太古の元へ戻りて世界を自由に致すから、世を立替て了はんと上が下に覆りて居るので、斯世が思ふ様に行かんのであるぞよ。上は上の位、下は下に住みて、物事に順序を立てねば誠の修りは付かんぞよ。』2023/08/11 09:07:31202.名無しヒーリングLck8P大本神諭『艮の金神が表面に現れて、世を構ふやうになると、今迄の様に我善しの世の持方はいたさせんから、思いの違ふ人民が多数に出来てくるぞよ。金銀を用ゐでも、結構に地上から上りたもので、国々の人民が生活るやうに、気楽な世になるぞよ。衣類食物家屋倉庫までも変へさして、贅沢な事はいたさせんぞよ。世界中揃ふて喜ぶ様の政治にいたさねば、神国とは申されんぞよ。今迄世に出て居れた神々様も、守護神も、人民も、何も判りもせむのに、世を持ち荒して了ふて、此世はさっぱり畜生原になりて居るのに、何ふする事も出来ん様な経綸では、万古末代の世は立ちては行かんぞよ。金銀を余り大切に致すと、世は何時までも治まらんから、艮の金神の天晴守護になりたら、天産物自給其国々の物で生活る様にいたして、天地へ御目に掛る仕組がいたしてあるぞよ。昔の根本から世に落ちて、何んな苦労難難もいたして来て、世界の物事は、隅々まで調査ておいて、三千年余りての経綸であるから、一分一厘の間違も無い、動かぬ仕組がいたしてあるから、一日も早く元の日本魂に立復りて、神国の御用をいたして下されよ。』※ ここでいう、金銀に代わる天産物自給というところで、これはこの現象世界・・・ 物質宇宙の延長で、今までの社会が継続的に変化して、良き世となる・・・、ということではない。これまでの物質宇宙は消滅する。だがそれは昇華ということだ。今までの物質社会を元とした、新たな次元への変化。それはこの物質社会を参考に、良いものを残し、昇華させ、悪いものを一切省くということ。この世界を参考に・・・ つまり、このシミュレーション世界を参考に、新しい世界を作り上げる・・・そのためには、いったんこのシミュレーション世界のキャラクターとして生活し、輪廻を繰り返し、それを味わう必要があったということだここにオレがこの世界へ下落する意味があったということだ。この最後の方の文章は、まさにそういうことだろう。『昔の根本から世に落ちて、何んな苦労難難もいたして来て、世界の物事は、隅々まで調査ておいて、三千年余りての経綸であるから、一分一厘の間違も無い、動かぬ仕組がいたしてあるから、一日も早く元の日本魂に立復りて、神国の御用をいたして下されよ。』』2023/08/11 13:08:59203.名無しヒーリングLck8P※ちなみに、三千年という表現は、、実質的な3000年ということではなくて、途方もない長い年月のことを、三千年と表現する。それは三千世界という表現もそうだ。2023/08/11 13:12:01204.名無しヒーリングUaxrL普通の善人寄りの人にはわからないが、悪の本性を持つやつらというのは、何も犯罪者だけではなく、見た目に悪という感じではわからず、普通の市民の中にたくさん紛れ込んでる紛れ込んでるという言い方は、大勢の中に少数という感じだが、そうではなく、かなり割合で存在しているそれは普通の人には判別がつきにくく、悪人とはわからないそういうものたちは、表面では社会に合わせて生活しているように見えるが、心の中は、自分さえよければよく、いざその本性を現わせば、平気で相手を傷つけようが、全く罪の意識さえ感ずることがない。自己中心的な想いで自分が正しいと思えば、平気で相手を傷つけ、命を侵害しても全く構わないそれどころか、自分たちが善を行使しているのだと思ってはばからない。こういうやつらは普段はおとなしくしているため、表面的にはわからない自分達が侵害されていると感じたとき、その度合いに応じて、その悪質性をすぐさま表してくるだろうこうした悪をオレはよく見抜く今ではよくその区別がつくようになってきた。それを踏まえると、預言ではよく人類が3割になる・・・ ということが言われているが、それでは多すぎると感じる今この世の中を見ると、生き残る人類は1割にしなければならないと感じる実際、1割という預言も、けっこうあるにはある。まだそのブレがある状態ということだろう。決まるのはこれからだ。1割にするか3割にするかはオレ次第ということ。1割にしたときはかなり激しい怒りになるから、滅びるヤツは覚悟しておけ。2023/08/12 08:39:29205.名無しヒーリングUaxrLちょっと長くなるが、大本神諭のかなり辛辣な文章を載せておこう。大本神諭『大国常立尊が三千世界の、上中下と三段に分けてある霊魂を、夫れ夫れ(それぞれ)に目鼻を附けて、皆を喜ぶやうに致すのは、根本の此世を創造るよりも何程気骨の折る事じゃ、人民では分らん事であるぞよ。初発の悪の霊魂は、悪の事なら何んな事でも出来るから、茲(ここ)まで世界中を悪で搦みて了ふて(からみてしもうて)、善といふ道は通らぬやうに致して来た、悪神の頭を露(あら)はして、トコトン往生を為せて、亦次に中の守護神を改心さして、下の守護神も続いて改心させねば、神世には成らんぞよ。下の守護神が一番に何彼の事が解らんなれど、改心を致さねば何うしても改心いたすやうに喜こばして改心させねば、叱る斗りでは改心の出来ぬ守護神も在るなり、何も解らん四つ足の守護神の如何にも成らぬドウクズは、天の規則通りに致して、埒宜(らちよ)く致さねば仕様はモウ無いぞよ。此の先で何時迄も改心の出来ぬ、悪魔に永う掛りて居りて、世の立替出来んやうな邪魔を致した守護神は、気の毒が今に出来致すぞよ。是丈け気を付けて知らして居るのに、改心の出来ん悪魔に成り切りて居る、霊魂の宿りて居る肉体は、可愛想でも、天地から定まりた規則通りの制配に致すぞよ。モウ何時までも解らんやうな守護神を助けて置いたら、世界が総損害に成りて、茲まで神が苦労いたした骨折が水の泡に成りて了ふぞよ。夫れでは永らく神が苦労いたした甲斐が無くなりて、天の大神様へ申訳が立んなり、神は守護神人民を助けたいのは、胸に充満であるから、モウ一度気を付けて置くから、何事が出て来ても神に不足は申されまいぞよ。是からは悪神の守護神の好きな事も、悪るき事も出来んやうに、天地から埒を附るから、何処を恨む事も出来ず、自己の心を恨める事も出来んやうになるぞよ。天地の先祖の神は善の守護神も悪の守護神も、皆を喜ばしたいと思ふて、色々と永らく気を附たなれど、ドウクヅの蛆虫同様の、醜しき聞解の無いものは、一と処へ寄して固めて灰にして了ふから、悪いものに悩められて、生命を取られるやうな肉体には蛆虫同様、海外の悪い脊属と、モ一つ下たな豆狸といふやうに、論にも杭にもかからんものに弄びに合ふて居るのは、肝腎の神の綱を切れて居る身魂であるぞよ。こんな守護神の宿りて居る肉体は、取払ひに為て了ふて此世界の大掃除を始めるぞよ。天地の先祖の苦労の解らん身魂は、蛆虫同様であるから、斯んな身魂を此世に置いたら、世の汚れと成るから、神界の経綸通りに致して埒能く建替を致して、後の建直しが中々大望であるから、経綸通りに致して見せるぞよ。そう致すと神は善一つなれど、何も分らん世界の人民が、悪の守護神に引かされて、矢張り艮の金神は悪神で在りたと申すぞよ。細工は流々仕上げが肝心であるぞよ。天地の神の御恩も判らぬやうな、畜生より劣りた名の附けやうの無いものは、末代の邪魔になるから、天地の規則どうりに規めるから、悪の守護神の中でも改心の出来たのは、今度の立替に焼払ひになる所を助けてやるぞよ。蛆虫の中からでも助かるべき身魂が在れば、撰り出して善の方へ廻してやるぞよ。』2023/08/12 08:57:29206.名無しヒーリングUaxrL元の神(オレの本質)は、助けてくれ~と言ってるものまで滅ぼすということではない。現時点で自分が救われたい、と思ってる人は、十分救われる可能性があると言っておきたい。なぜなら、悪の本質をもつものは、自己中心ゆえに、自分達が悪人ということにも気づかず、裁きの世が来るという話があっても、それをせせら笑って聞いているからだ。「自分達の世界は自分達のもの・・・ 自分さえよければよい・・ 自分たちの善悪の判断が一番正しい・・・ 」こういう風に思っているもの・・・ 悪の本質を持っているものは、いかようにして救われようというのか・・・?自己中心+真理を洞察できる洞察力もないいや、洞察力のかけらもないから、自己中心になったというべきか・・・いずれにしても、真理からはずれたものたちは、普通の善人の社会にとっては、非常に危険な存在だ・・・ ということだ。いっておくが、現時点で預言を怖れ、救われないことを恐れる人は、どちらかというと善人の部類だ。だから心配することなく、多少の一般的な悪でも、たとえそれを自分がしてても、それほど気にする必要はない善人は反省力が強いから、自分を責めることが多いけど、そういう人こそ気を大きく持たないといけない。悪人は今は裁きの預言をせせら笑っているが、いざ自分達が滅びそうになると、途端に「助けてくれー」と押し寄せるしかし、そのときでは遅い遅い。まとめて灰にするから覚悟しておけ。2023/08/12 09:10:03207.名無しヒーリングGKNMWマインドフルネスに話を戻すと、たとえばマインドフルネスというのは、今の動作に意識をもっていく・・・・ 俗に言う「気づき」 「サティ」ともいうが、常に「今」に意識を向けている状態・・・ それをマインドフルネスという。このマインドフルネス・・・ 今の動作に対して意識を向ける・・・ ということをしっかりやるだけでも、かなりの良い効果が生まれるだろう。しかし最近気づいたのは、このマインドフルネスに対して、ヴィパッサナー(観察)がとても重要だということ。このヴィパッサナー(観察)を別の言い方で表現するなら、「ネガティブなものに対する許し」 ということ。これがなければ、マインドフルネスはスムーズに行われない・・・ ということに最近気づいたマインドフルネスだけでは片手落ちというか、真のマインドフルネスとは、観察にあるといってもいい。ネガティブな想いそのまま、現状をすべてありのままに見る・・・ それが「今」に意識を向けている状態。たとえばマインドフルネスで今の身体の動作だけに意識を向けたとしても、その間に心はいろんなネガティブな想いを生じさせているマインドフルネスでいわゆる意識を集中させようとしても、そのネガティブな想いと葛藤的になることがある。たとえば、歩いてる動作が上手く行かなかったりすると、純粋に意識を向けているマインドフルネスが崩れそうになる。意識を統一しやすい理想の歩き方に戻そうとするそこで葛藤を起こしイライラするマインドフルネスが上手く行かない動作のおかげでイライラし、スムーズに行われなくなるからだこれは動作だけに意識を向ける対象を絞っているからだ。観察というときは、心も身体も一体だ。その観察には、体の動きも心のネガティブもすべてがありのままで行われなければならない。心のネガティブなものへの許し・・・ それは、ネガティブなまま、そのままでいいんですよ、という許しだ。これがなければ、二元相対を越えるためのマインドフルネスが、マインドフルネスの行為において葛藤を引き起こすことになる。つまり、動作に意識を向けようとしても、心のイライラと葛藤を引き起こしてしまう。やはり、観察というのは重要だ。2023/08/13 22:29:40208.名無しヒーリングGKNMWたとえば「止観」という瞑想法の概念があって、「止」は一点に意識を向ける・・・ これは「サマタ瞑想」ということだが、「観」というのは文字通り「観察」、つまりヴィパッサナーのことだ。修行としては、「止」を最初にやってから、「観」に移っていく・・・ とか、「止」と「観」を両方同時に行うとか、さまざまなことが言われているみたいだが、確かに、しっかりと「今(動作など)」に意識を向けるということをやってから、応用的に「観察」に入っていく方がいいような気がするしかしこれらは本来、同時に行われるものだと思う。「止」のマインドフルネスをしっかりやっていけば、やがては自然に観察の状態になっていることに気づくことがあるだろう。しかし、逆に観察は、ネガティブなものに対する許しがそのまま観察の状態になるため、それ自体が「今」に意識を向けたマインドフルネスということになるけっきょく、止も観もマインドフルネスなのだが、どちらかというと動作に意識を向けたり、念仏に意識が向いたりと、そういうものがマインドフルネスのイメージだ。念仏の場合は自力で意識を念仏に向けようとしても、立派なマインドフルネスと言えるかもしれないが、実際は、「もう既に阿弥陀様に救われている」 ということを前提に、ただ念仏をする・・・・ ということだから、より他力的に、どんなことが出て来ても構わない・・・ という、許しの姿勢によって、ヴィパッサナー(観察)の状態になるようになっている。これは非常に優れたやり方だ。たとえば、忙しくて余裕がないときに、食事の後片付けで、人の分まで皿洗いをしなければならないとする。その状態で皿洗いに意識を向けてマインドフルネスをしようとしても、余裕がなくてイライラする想いに邪魔されているような状態になるだろう。意識がそのイライラ、ネガティブな想いによって、継続的にちゃんと向けられない。人間は誰でもそうだが、不快な想いなど、ネガティブな感じがあると、これを無くそうとか、変えようとか、意識を逸らそうとか、ネガティブなものから逃げようとする意識が反射的に働く。これが二元相対的な我の想いによって起こっているわけだけど、これは瞬時に起こっている。ネガティブなものをポジティブなものに変えたい・・・ しかし変えることが出来ない・・・ この二元相対分別の葛藤が、人間の苦の根本原因といっていい。この葛藤が起こらない方法が、ネガティブなものと一体になるということ。つまりそれは、ネガティブなものに対する「許し」ということだ。この「許し」は、今そのまま、ありのままを根本の土台にしているため、今ある想いを変えて、許そう・・・ ということではない。たとえば怒っている・・・ いや、怒っちゃいけない、許そう・・・ ということではない怒っている・・・ これはこのままでいいんだ、 というのが「許し」だ何も変えようとしない。むかしサントリーのウィスキーでこういうCMの言葉があった。「なにも足さない、なにも引かない。ありのまま、そのまま。この単純の複雑なこと。」https://www.suntory.co.jp/whisky/yamazaki_pre/nenkan/nenkan_bizen.htmlまさしくこの通りで、これは0ということだ。完全なありのままこそ、我の想いが一切働かない・・・、一切平等・・・ つまり「空」ということだ。2023/08/13 22:30:30209.名無しヒーリングGKNMW通常の「止」のマインドフルネスでは、たとえば皿洗いに意識を向けようとしても、イライラするのが障害になってくるが、イライラするのも全部、そのままでいいんですよ・・・・ そのまま、丸ごと許す・・・ それが丸ごとマインドフルネスということ。つまりそれが、「観察」ということだ。イライラを排除して皿洗いをする・・・ イライラを排除してマインドフルネスを行う・・・ ということではなくて、イライラしながら行うということの大切さ。それがネガティブなものを受け入れているということ。受け入れるというのは、ネガティブを受け入れて、無理やりポジティブに変えるということじゃない。よく、強引に受け入れて、ニコニコポジティブになった気でいる人がいる。これは大きな間違いで、自分でニコニコに変えるんじゃなくて、イライラそのままでいいと許すから、やがて掌中に熟した柿が落ちるように、ネガティブも自然に消えてなくなるということだ。だから、自然にネガティブが消えてなくなった心境も、イライラそのままの心境も、ありのままにおいては全く平等の境地だ。ネガティブなものを許すと、葛藤が少なくなるので、観察がスムーズに行われるようになる。これが本当のマインドフルネスという感じだこのようになると、たとえば物を落とした時に、落ち行くものに意識がついていくようになる。たとえ落ちるにしても、落ちるものに最後まで手が追っかけて行くようになる意識間断なく今に近づいているから、そうなるわけだ。イライラしても、どんなネガティブな想いが出ても、常にマインドフルネスの状態に入りやすくなるいや、ネガティブそのものが、マインドフルネスの材料になるといっていい。つまり、観察の材料になるわけだ。このネガティブなものと一体になるという、ヴィパッサナーの概念・・・ これがなければ、今のオレはないかもしれないとっくに潰れていたかもしれない。それほど、今苦難にある人は、この考え方を応用すべきだ。2023/08/13 22:30:52210.名無しヒーリングGKNMWたとえば悟りの行法として、本来は、「ダメな自分を許す」っていうのが、一番簡単でやさしいやり方になるはずなんだよね。たとえば、自分が許せない、ダラシノない自分が出て来たとする・・・こんな自分があってはダメだ、ってことで、とたんに葛藤が起こるわけだよねそのネガティブな自分を否定するという。そこで「今」の自分と分離するわけだ。で、今までの自己啓発などの教え方だと、「ダラシノない自分を許しなさい(受け入れなさい)」 という言い方で、これだと、到底受け入れられないものを受け入れようとする・・・ むりやり今を変えようとする、間違ったやり方になってしまう。自分のこころを変えて、自分の受け入れられなかったダラシノない自分を受け入れる・・・・ ってことじゃない。受け入れられない「まま」でいいんだよ。ダラシノない自分にイライラして、心が乱れている・・・ そのまま、丸ごとってこと。すべてOKだ、ということ。それが一つになるということ。そのとき場合によってはスッと軽くなるのを感じることもあるだろう。葛藤が無くなるからだ。 ネガティブなものと調和するから。それが行き着くと、ネガティブなものは空になって消えるということになる。それは消えなくてもいい、そのまま、ということに徹するから消えるわけだよね。それで0になるから。 つまり、空になるから。何も足さない、何も引かないということは、分別が一切働かないということ。葛藤を起こす分別が働かない。しかし、ダラしなさそのまま、ダラしなさそのままに一切分別が働かなければ、良い悪いという差別が一切起こらないことになる。それが不動心ということ。2023/08/13 23:00:22211.名無しヒーリングGKNMW一定の時間に集中する・・・ ということではなくて、いつ何時でも、どんな時にでも、マインドフルネスを行える・・・ という風にするには、今で出来るすべてのものに対応できないといけないつまり、何が出て来てもマインドフルネスを当たられるようにならないといけない。「集中」ということと「ネガティブなもの」というのは対立的で葛藤的になるから、(それはたとえば集中と雑念という風に) ネガティブなもの、そのままをスルーさせないといけない。留めるものをなるべく無くす・・・ というのはつまり、許すということだ。検問所でいちいち止めて争うんじゃなくて、そのままのまま、検問所をスルーさせるで、そもそもマインドフルネスや仏教における「集中」という概念はまちがっていて、実際は「集中」ではなく、「放下」だ。検問所をスルーさせるにも、「放下」が必要ということ。三昧が「集中」から起こるように多くの人が錯覚しているが、三昧というのは「放下」によって起こる「放下」というのが完全なありのままということ。これは道元禅師のいう、「心身脱落」と同じ。この放下の状態こそ、観察(一切を手に付けず、そのままにした状態) ということ。放下の状態が完全な観察の状態ということになるのであるけれども、それは今に在ることと同義で、つまりは完全なマインドフルネスと同義ということになる。集中は自力で、放下は他力だ放下は許しから生まれる阿弥陀如来を信じて、どんなこと(ネガティブなこと)が出て来ても、もう阿弥陀様に救われているんだ・・・、あとはただ念仏を唱えるだけでいいんだ・・・という「信」。阿弥陀如来の救いを完全に信じるということは、完全な許しの状態になるということ。完全な許しとは、ヴィパッサナー(観察)の状態になるということだ。念仏は「信」によってヴィパッサナーに導いている、優れたやり方と言えるだから親鸞は、ある時、法然門下の皆の前で、「信」の座につくか、「行」の座につくか問うて、多くのものが「行」の座についたにも関わらず、親鸞は「信」の座についた。つまり念仏を唱えることよりも、「信」を重要視したわけだ。つづいて、師匠の法然は、親鸞と同じ、「信」の座についた。今現在は念仏や座禅といった行は、時代にそぐわない今の現代人がそうした修行をすることは出来ないだろう。だからオレが、「信」の代わりに、「行」の代わりに、許しの教えを説く全てのものを許すということこそ、すべてのものと一体になるということだ。2023/08/13 23:51:37212.名無しヒーリング1TFlW錆びとりブラシとかで磨かないとどうにもならんね2023/08/16 19:28:18213.名無しヒーリングB3ulZ禅でこういう話がある。ある時、弟子が一生懸命、座禅の修行をしているのを見て、師匠がこういった・・・「おまえさん、なんのために座禅をしているんだ?」弟子は言う、「はい、仏になるために座禅をしています。」すると師匠が落ちていた瓦を手に取り、せっせとそれを磨き始めた・・・弟子が不審に思って、「お師匠様、なぜ瓦なんかを磨いているのですか・・?」 と言った。師匠は答える。「な~に、瓦を磨いて鏡にしようと思ってな。」弟子は更に不審に思って、こう言った。「お師匠さま、瓦は磨いても鏡にはなりませんよ。」 と。師匠は答える「そりゃそうだろうよ・・・。 ではお前、なぜそれが分かっていて、座禅をして仏になろうと思ったんだ?」 と。つまりこの話は何かというと、多くの人が瓦を磨いて鏡にしようとするようなことをやっているということ。これは前でも言っていたとおり、人間というのは今起きたありのままの心境、常態に対して(それは大抵、大なり小なりに意に反したもので、ネガティブなもの)、 これを変えようとか、これを良くしようという想いが反射的に働いている。瓦は瓦としての役割があって、それに対して有効なわけだけど、人間は瓦という現状にイラつきを覚え、なんとかこれを鏡に変えようとする・・・ここに良し悪しの分別が働いているわけで、それが鏡にならないという「苦」を生んでる。瓦そのままでいい、と完全になった時に、ダサイ瓦も、理想の鏡も消え、そこに真の明鏡というものが出て来るこの鏡こそ、中道ということ。2023/08/17 01:12:04214.名無しヒーリングB3ulZまたこれは蓮の花のたとえにも通ずる瓦を磨いて鏡にしようとする人は、泥を綺麗にしないと、きれいな蓮の花は咲かない・・・ と考える人だ。そうして泥で泥を洗うようなことをし、いつまで経っても泥から出られない泥そのままでいいんですよ、とやったとき、はじめて意識はハスの花にシフトする。蓮の花は今その時に、まさに、泥の中に咲いている。泥を消し去った別のところに咲いているわけではない。泥そのままでいいと差別が無くなったところに、中道という蓮の花が咲くのだ。2023/08/17 01:18:33215.名無しヒーリングB3ulZ今日はユダの話と、アテン教について話をしようと思ったが、時間も余裕もなかったので、次回にしよう。2023/08/17 01:21:36216.名無しヒーリングB3ulZ>>212ってか、ニー速から来ただろw2023/08/17 01:24:00217.名無しヒーリングB3ulZたとえばこう言った方がわかりやすいかもしれない。たとえ・・・ 平均台をバランスをとりながら渡るとするふつうはヨロメキながらバランスをとり、それで渡りきることが出来る。しかし、通常の人が心の中でやるのは・・・、ヨロメキをネガティブなものと捉え、ヨロメキが出た時に、即、これはダメだと抵抗が起こるヨロメかないようにしようとするわけだ。それは反射的に、瞬々刻々とそれが起こってるヨロメキはバランスをとるために起こってるつまりそれに抵抗するということは、バランスを失って平均台から転落することを意味するもしも人がヨロメキと一体になれば・・・・ 瞬々刻々と起こるネガティブなものに抵抗しないならば(一体になれば)・・・ その人はヨロメキを有用なものとして、バランスをとりながら平均台を渡りきることができるだろう。ネガティブ・ポジティブという、二元相対観念を平等にする(双方を平等に受け入れる) という風になれば、そこにネガティブ・ポジティブは消え、中道という平均台を渡ることができる。2023/08/17 01:33:05218.名無しヒーリングB3ulZオレの本質はヤハウェで、もともと完全なわけだけど、その完全性をもっとシミュレーション的に他者を味わいながら、多即一の世界を味わいたい・・・ だから、もともとの完全性の世界と、シミュレーションの世界を統合する必要がある・・・ という感じだと思うんだけど、実際オレは、過去世で何度も生まれ変わり、最初のうちはすぐに悟りを開き、輪廻の輪から脱することが出来たと思うオレは過去世で何度も悟りを得ていると感じるよくスピリチュアルでは、悟りを得た人が再び生まれ変わり、人を助けるために転生するという話があるお釈迦様やその他の聖者はそんな感じだ。オレも最初のうちは何度も悟り、そして輪廻の輪から抜け出していたものの、もう一度人を導くために生まれ変わって来て、それを何度も何度も繰り返してきた。なぜなら、最終的にこのシミュレーション世界を、天の完全なレベルと統合する必要があったからだ。オレは転生を繰り返すうちに、このシミュレーション世界に堕ちていき、ついには同化してしまっただがこれも計画のうちだ。2023/08/17 13:36:10219.名無しヒーリングB3ulZ人を教え導こうとするとき、上から目線で説いても相手には伝わらないとくに、真理の教えはそうだ。相手と同じレベルに立って、はじめてその人を真に導くことができるしかしそれは、昔貧乏だった人が金持ちになって、そこから貧乏な人の気持ちが分かるからといって、貧乏人を導こうとしても、それは真に貧乏人の気持ちをわかっているとは言えない。いくら昔貧乏でも、今金持ちとして生活しているならば、今現に貧乏をしている人を導けない。今までの聖者は、上から目線で人を導こうとしてきたと言えるだから、導かれる人の数は極端に少なかったわけだ。高いレベルから低いレベルに説いてもわからない。本当に人を導くには、自分も進んでそのレベルに落ち、そこから「共に」這い上がらなければダメだ。自分が先に悟ってしまったらダメだ。あくまで肩を組んで一緒に上がるのだ。それが弥勒の役目・・・・ 弥勒が「友」として現れる所以だ。2023/08/17 13:36:27220.名無しヒーリングB3ulZだが、たとえば貧乏人を導くために、一緒に貧乏になって、そこから一緒に上がっていくというのは、とても大変なことだ。自分も助からないといけない。 人も助からないといけない。これは今までの聖者が出来なかったことだ。しかし今回、その時節が来ている。オレが今、この地上の最下層に堕ちた。この最下層の人間になったからこそ、この人間の立ち場で、悟りの道を解明していくことができる。それは誰にでも出来るものになるはずだ。そうしてそれが伝播するとき、真に天と地が結ばれるときだ。それこそ、シミュレーション世界であるこの世界が、素晴らしい天国となるときだ。ヤハウェが最高神であるならば、どの聖者よりも慈悲が深くなければならない。ヤハウェはこの地上の最下層に自ら落ち、それを体現するわけだ。自ら悟りを捨て、完全性を捨て、今最下層の人間と同じ立場にたった。ここから地上の人々と共に上がっていくのが、最後の一厘の仕組みだ。これは今までの聖者には出来なかったことだ。2023/08/17 13:37:13221.名無しヒーリングWfUWX『ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。』救世主が東から現れる・・ というワードで調べると、よくこの聖書の言葉を目にするこれはまさに良い表現だと思う前に悟りかけたとき、意識の伝播・・ シンクロニシティがあっという間に広がったのを見ると、今度完全に覚醒したときは、まさに、いなずまがひらめくように、あっという間に巨大なシンクロニシティが世界に波及するだろう。そのときまでに改心していない悪の御魂は、完全に滅びのステージに入ることになる悪の御魂とは、今現在、自分さえよければ他はよく、あるいは、自分の仲間やコミュニティのものだけを愛し、他のものはどうでも良いもの・・・ そういう動物的な愛の持ち主。そういうやつらは終わりのときを迎える他に平等にいたわりの気持ちを持ちながら、いままで周囲に虐げられていたもの。他を平等に愛せる気持ちを持ちながら、この世界で下に堕ちて苦しんでいるもの・・・そういう人たちは楽しみにしていろ。今まで人類が見たこともないような奇跡が起きるだろう。2023/08/18 08:32:11222.名無しヒーリングWfUWXこの世界にオレの意識一つしかなかったという事実・・・すべてはオレの心の産物・・・・オレは小学生の頃、人にこう言ったことあるもしかしたら、この世界にはオレ一人しかいないかもしれない・・・今ここまできて、本当にそういう結論い行き着いたわけだ。今考えるに、こんな宇宙なんかあるわけない・・・ つまり、宇宙の中に人々がいて、たくさんの意識がある・・・ こんな世界はあるはずはない、 と思う。すべてはオレの空想の産物。ただ、この地上に下落した状態の最下層の人間からすれば、あまりにも世界は壮大で、宇宙は無限で、そのようには思えないこの空想の世界では、あまりにも長い時の経過があり、あまりにも長い輪廻の歴史があり、それゆえおまえらの自我は形成され、本当に自分という存在が実在しているように感じるだけだ。たとえばシミュレーションゲームの作られたキャラクターたちも、100億年以上にもわたる人類意識の変遷の中で、自分がある・・・ という風に、思えるようになってくるようなものだ。ただそのキャラクターたちは、唯一のオレの意識を土台にして派生的に作られているため、その自我を取っ払えば、唯一の意識である「オレ」に帰一できる。2023/08/18 23:56:25223.名無しヒーリングWfUWX時間とは、マクロ的な立ち位置か、ミクロ的な立ち位置によって、実質的な経過の速度が変わって来るつまり、最下層人類がマクロ的な宇宙を見上げれば、時間はゆっくり流れている。反対に、唯一神の立場からミクロ的な人間世界を見れば、たとえば地球を宇宙から見て、人の一生を光の点滅で表せば、地球上で一瞬の点滅があちこちで見られるようなものだろう。おまえらは、本当は蛍の一生より短い、一瞬の点滅にすぎない。この世界にオレ一人の意識しかないと知った時・・・ いや、世界も何もなく、ただ一人の意識しかない状態・・・これほどの孤独があろうか?何兆年、無限の年月の中で、ただ一人だけ存在してきた・・・自分の外もない。 自分だけだ。ではその自分の意識は誰が作ったのか・・・?一体これは何なのか・・・?それはこの世界の大建て替えより、もっと深い世界の話になるだろう。」それはこの大建て替えが終わり、地上天国が完成した後、そのあとのステージだ。果たして俺は、この宇宙という夢から覚め、起床の世界に地上天国が築き上げられたあと、その起床の世界・・・ ただ一人の世界さえ、更なる夢であって、どこかの唯一神を越えた世界の病院の病床に寝ているところを起こされるかもしれない。そこで起きると、今の人間の思考では到底理解できない、「他者」という存在が現れるかもしれないそこでその「他者」はこう声を掛ける。「よく起きたね、今まであなたが一人だったのは、そしてその中で宇宙という夢を見ていたのは、全部本当の夢だったんですよ、」 と。だがたとえそうにしても、おそらくはまたその世界ではオレが中心になっていくだろう。なぜなら、究極的にそれ自体も、オレの夢にすぎないから。2023/08/18 23:57:05224.名無しヒーリングWfUWXどこまでいっても、他者がいる世界 → 一人の世界 → 他者がいる世界 → 一人の世界 ・・・ のように、無限につづいていくかもしれないしかし、そこまで考えてもしょうがない今は只、オレが唯一者の意識を取り戻し、この地上世界と天とを統合し、新しい天国を作ることが目標だ。最近とくに思うのは、もしかしたら、この世界の残忍な犯罪も、あるいは愛に満ちた行為も、すべてはオレの心の中にあるものが現れているのかもしれないということ。この世界が唯一の意識が見ている夢とするならば、十分、その可能性はあるだろう。いや、その通りだろう。今、トドメノフミや、一つの意識しかないこと、最終的にこの宇宙がブラックホールで消滅することなど、あらゆる深奥の情報がオレに開示されてきた。これはもう近いということだ。オレの目覚めと同時に、この宇宙の目覚めも、もうすぐそこに近づいているいよいよだ、待たせたな。準備は出来ているか?縁のある人はみんな連れて行くぞそういえば、オレは小学生の頃に不思議な感覚を感じていた。それは、自分の記憶の中に、非常に大勢の人を救ったという、感覚があること。そしてそれは過去じゃないこれから起こることだ。そしてそれは決まっているから、あたかも過去の出来事のような感じるだけだ。その数が地球人類に及ぶような大勢だから、過去にはありえない。それは未来に起こることを感じていたわけだ。ただそれは、起こることが120%確定しているため、もはや救いは行われていたも同然になるわけだ。2023/08/18 23:57:17225.名無しヒーリングL4oFNおまえらは、オレの意識の派生したものにすぎないつまり、あらゆる人はオレの現われでもあるわけだ。オレの可能性とも言えるオレの意識が分離して、さまざまなオレの可能性が現れたわけだ。だから、オレの現れである人類にとって、もしオレが覚醒して現れたら、そこに主が現れた・・・・ 太陽が現れたと感じるだろう。なぜならそれが、自分たちの源であるからだ。不思議な暖かさと、魂のふるさと、霊のふるさとに帰って、その大元を見るような感じになるだろう。今ここでこうやって書いているが、一体オレ以外に、誰が救世主になるというんだ?誰が唯一主になるというのだ?さんざん預言は出る出る、出る出る、言うてきた。いわゆる出る出る詐欺だ。何年たっても出て来やしないそれはそうだ。 まだオレが目覚めていないから。オレが目覚めなければ何も動かないキリストが出て来て、釈迦が出て来て、世界が地上天国に代わる奇跡が起こったか・・・?地球が変わるほどの大きな奇跡を起こしたか・・・?簡単なことだ。 夢の世界は、夢を見ている人しか変えられない。大きな奇跡は起こせない。2023/08/19 00:12:59226.名無しヒーリングL4oFNオレの前に、そういう偉大な救世主は出て来たか?1999年に出て来たか? 2012年に出て来たか?誰も出て来やしない。オレが出ないのに、この後、別のものが出て来るか・・?オレに代わるものが出て来るか?いや、そんなものは出て来やしないすべてはオレが出て来るまで、待ちの状態だ。まもなくオレは、この世界にトドメを刺す。そのときすべてが判明するだろう。この世界が、唯一主の夢であったことが・・。2023/08/19 00:13:59227.名無しヒーリングL4oFN今ここを見れている人は、幸運な人だ。なぜなら、ヤハウェが現れる一番初発を見ていることになるからだ。ヤハウェがまだ覚醒していない、普通の人間の状態を見れているといえるこのスレのNoが十八で、ここに書き込む場が用意されていたのも、すべては計画のうちの一つかもしれない。5ちゃんねるはある時から完全に書き込めなくなった。今この時期、5ちゃんねるから分離した、こういう場が出来上がったのも、全て計画されていたことかもしれない。であるならば、このスレが終わるまでに、何かが起こるはずだ。世界でも、これから今までにないような異変が起きて来るはずだ。オレの目覚めが近くなればなるほど、この物質世界の滅びが近くなる。最終的にどうにもならない事態が起きたとき、そのネガティブが極まったとき、反転するように大きなポジティブなことが起こるだろう。くれぐれも、ここ見ているお前は幸運だ。2023/08/19 16:21:02228.名無しヒーリング9CRD5マインドフルネスの話に戻るけど、やはり、日頃から、行動や心の動きに意識を向けていくのは大切だ。通常、ふつうの人はやった分だけの成果を求める意識を「今」に向けたら、やった分だけの成果を求めようとする。だから、集中しよう、集中しようと焦ることになる。真実は、成果とは、柿が熟して掌中に落ちるように、自分の我の想いとは関係ないところで現れる自分の想いは、やった分の成果がどこに在るのか探そうとする。それが見つけられないと、ますます集中しようと自力を発揮する。運動でもよくこのようなことが起こる鍛えたら鍛えた分だけの成果を得ようとするだから短期間に、どれだけ自分が向上したのか、我の想いで判別できるところまでやろうとする結果、長続きしなかったり、無理が祟って体を壊したりする。成果を忘れ、コツコツやった運動ほど、後で得られる成果は確実なものとなる。その成果は、今この我の想いとは関係ないものだ。2023/08/20 00:09:05229.名無しヒーリング9CRD5つまり、普通の人は我の想いで成果をコントロールしようとしている・・ ということになるいわゆるこれが「自力」だ。実際は、成果は我の想いではコントロール出来ない。二元相対分別が働いて、理想の状態を目指し、理想の成果を手に入れようとする・・・この我の想いの関わるところに、本当の成果はない。ここでバガヴァッドギーターの詩を想い出してほしい。『あなたの職務は行為そのものにある。 決してその結果にはない。 行為の結果を動機としてはいけない。』今オレは、最近、意識が行動や心の動きに張り付きやすくなっていることを感じる意識が今の動作、こころの動きにすぐに追従し、そのまま一体となっている・・・そういう状態がだんだん増えてきた。まだそれほど深くはない昔、深くなったときは、舞を舞うような感じで、あらゆる動作と一体になっている感じがした。しかし、急激な進歩はすぐ破綻する長くは続かないゆっくりと我の想いとは関係なく、上達していくのが望ましいそしてあるとき、あるラインを越えると、急激な進歩が自然と起きるということだろう。この意識が今に張り付くようなことが、頻繁に起こるようになったのは、今まで事あるごとに意識を今の動作に向けて来たからだ。早く成果を出そうとして、焦ってイライラしながらやったこともあるしかし、それでも、なんでも、かんでも、とにかく意識を今に向け続けた。成果を求めて焦って集中しようとしたときは、まったく本当の成果を得ることはないたとえ得たとしても、それは一時的に無理して得た成果で、長続きはしない2023/08/20 00:09:36230.名無しヒーリング9CRD5今オレは掌中に熟した柿が落ちてくるように、徐々にマインドフルネスの効果が表れ始めているといえるこれは我の想いで求めるものとは、全く関係ないところで熟成してきたわけだ。つまり、蓮の花が咲くのは、泥を一生懸命綺麗にしたことが理由ではない。泥を消す努力とは関係のないものだ。ここを分けなければ、一生泥で泥を洗うような葛藤を繰り返すことになるだろう。いってみれば、頭を左右の壁に打ち付けながらあるくようなものだ。そしてこれこそ、良し悪しの「良し」を我の想いで求める、二元相対葛藤の姿といえる。これが「苦」の根本なのだ。人はどうしても成果を求めざる負えないしかし一方で、我の想いを捨てないと成果は得られないこのどちらを取るのではなく、両者の和合が必要だ。つまり、合気が必要だ。成果を求めるこころを毛嫌いして捨てようとするのではなく、しかも、我の想いの越えたところで、熟した柿を手に入れるように、自力と他力の融合・・・・自力のこころをそのままに、それでいいんですよ、と許している状態で、しかも、自力を越えた成果が落ちて来るように、今に意識を張り付けるということを、どんな想いが出ようと、成果が得られなくてイライラしている時にも、そのままつづける成果が出ようが出まいが、イライラしようがしまいが、何があろうがあるまいが、努力しようがしまいが、「ただ(只管)」今に意識を向ける・・・・どんな泥が出てこようも、それを無視しようとか、消そうとかではなくて、泥そのままに、「ただ」意識を今(蓮の花)に向け続ける・・・・これは言い換えれば、泥とハスの花の和合ということにもなるだろう。これこそ桃の実の姿ということだ。それが「合気」ということだ。2023/08/20 00:09:54231.名無しヒーリング9CRD5たとえば、ケーキ職人がプロの技を身に付けるのは、自分の我の想いで、それなりのことをやったから、それなりの成果が出たのだ・・・ ということではない。多くの人はここを錯覚するこれだけのことをやったのだから、これだけの成果が出たのだと。それは確かにそうなのだが、なぜそれが錯覚に繋がるかというと、自分の我の想いで努力したことが、そのまま成果につながると考えるのが、錯覚の部分ということになる。ケーキ職人としてのプロの技術が現れるのは、自分の我の想いとは関係なく、これまでしてきたことが複合的に熟成し、時節があって自然に表れて来るものだ。その時節で熟するものは、自分の我の想いでは手に入れることは出来ない。得ようと想って得られるものではない。2023/08/20 00:17:43232.名無しヒーリング9CRD5ありのままというのは何かというと、この時節に、完全にお任せするということ。すべてのことを、柿が熟するような自然の流れに、完全にお任せするということ。それが、ヴィパッサナー・・・ 完全な観察・・・ ということだ。親鸞の「信」の教えというのは、そういうことだ。2023/08/20 08:00:07233.名無しヒーリング9CRD5時節を信じるものほど、強いものはいない。2023/08/20 08:10:22234.名無しヒーリングadmSVつまんね暇2023/09/01 14:01:01235.名無しヒーリングpzPbq日ユ同祖論ってあるだろ?この日ユ同祖論には、二つの流れがあるわけだど、一つは、2700年前に黒潮に乗って九州に上陸した、神武天皇をリーダーとするグループ。もう一つは、応身天皇の時代に、朝鮮半島からわたってきた秦氏のグループ。神武天皇の方が正流といった感じだが、秦氏のほうも、八幡神のトップの宇佐八幡宮を創建したということで、八幡という発音も、ヤハウェと関係しているといわれている。それで、失われた十部族というのは、アッシリアの捕囚で、当時はユダヤ人の国はユダ王国とイスラエル王国の2つに分かれていて、イスラエル王国の方が10部族で構成されていたわけだ。そこをアッシリアに攻められ、住民が連れ去られた。この住民というのは、祭祀にかかわる人たちや、高官、貴族、学者など、多くの優秀な人たちが連れ去られている・・・、と読んだことがある。で、ここで疑問が生じたんだが、失われた十部族の中に、王家の血筋のユダ族がいない・・・ ということだ。今度の救世主はダビデの血筋・・・ つまり、ユダ族から出るようになっている。これは確かだと思う。キリストもダビデの子孫、ユダ族から出るようになっていた。とすると、10部族だとユダ族いないということで、日本人はダビデの血を引いているものがいないということになって、救世主も、その誕生する土台がないということになるしかしこれも、あとあと色々調べていると、ユダ族が日本に入ってきているという話が出てきた。出口応仁三郎は、日本にはユダヤの一番良い部族が入ってきている・・・ と、確か書いてあったものを見たことがあるこれはつまり、ユダ族が日本に入ってきているということだろう。神武天皇はおそらくユダ族、ダビデの血を引いていると思うこのアッシリアの捕囚はイスラエル王国の十部族の国を攻めたことになっているが、よくよくwikiで確かめてみると、十部族だけでなく、隣接するユダ王国の46の街の住民も、アッシリアに捕虜として連れ去っているつまりは、ユダ族がその中に含まれる可能性が十分あるわけだ。2023/09/04 18:52:23236.名無しヒーリングpzPbqで、アッシリアの捕囚は、紀元前740年代 ~ 722年 になっている。神武天皇が即位したのが、紀元前660年。つまり、だいたい 60年~80年くらいの差があるわけだ。バビロンの捕囚でとらわれたものが解放されたのと違って、アッシリアの捕囚でとらわれた人の帰還は不明になっていて、それゆえ失われた十部族といわれるわけだなんらかの理由で、アッシリアに捕囚された人々が自由になり、ユダ族の中から王を立て、日本に向かったとも想像できる。たとえばモーゼのように、預言者が出てきて、さまざまな奇跡を起こし、ユダヤ人のグループがアッシリアを離脱した・・・ などとも想像できる預言者によって王が打ち立てられたのかもしれない。だいたい、すべてのことは一つにつながっていて、アッシリアの捕囚自体も、最終的に最後の救世主が日本に現れるための土台になっているし、そこにユダ族も含まれていたこと、そしてその中からダビデの血を引くものが隠れていて、そのことと、将来の日本の血で最後の救世主が現れるということも、預言者が見通して、王が決定されたとも想像できる。このあたりは史実というより、もはや感の世界だろう。史実では明らかにすることができない世界だ。ちなみに、ユダ族の紋章は、獅子になっているこれはおそらく、白い獅子だったのではないかと、俺は想像するエジプトのピラミッドは、当時は白く輝いていたといわれるおそらく、スフィンクスも同じ白い色だっただろうこのスフィンクスはピラミッドの前にある中央通路の片側に存在する太陽の船も対になっていて、反対側からも発見されていることから、スフィンクスも狛犬のように、左右で二対あったはずだ。この白いスフィンクスは王家の象徴であり、おそらくそれをユダ族が継承しているこのエジプトとユダヤ人の関係はあとで話をしよう。2023/09/04 19:17:55237.名無しヒーリングpzPbqちなみに、俺の家には昔から、居間のサイドボードの上に白い獅子が飾られていたこれは家を建てたときに、住宅メーカーからもらったものだ。石膏で作られていて、かなり重く、立派な作りになっているなにかこれが、ユダ族の象徴として、昔からそこに飾られるようになったいた感じだ。そう、つまり、もし俺が救世主なら、ヤハウェとして現れるなら、オレはダビデの子孫のはずだ。これは応身天皇と宇佐神宮の話で、またその話をしようと思う。2023/09/04 19:21:29238.名無しヒーリングpzPbqこういう話は文章にしにくい頭の中にはいろいろな話があるんだけど、それらを一つにつなげて全体に文章にするのが難しいちょっと変な文章になるかもしれないが、いちおう、ここの部分も大切なところだから、書いておこうと思う。2023/09/04 20:21:11239.名無しヒーリングpzPbqそれで、ユダヤ人のルーツなんだけど、元はエジプトから来てるわけだよね史実として何が適合するかというと、それはアクエンアテン(アメンホテプ4世)の時代の終わりに、迫害を受けたアマルナの住民がその地を脱出した・・・・ という話がぴったり合うわけだ。このアクエンアテンに関連する話は、心理学者のフロイトも口にしているアクエンアテンまでは、当時はエジプト古来からの神々を信仰していたわけだが、アクエンアテンが王に即位して、突然、それまでの神々を排し、アテン神という太陽神を唯一の神として信仰の対象にした。このとき、それまで勢力を誇っていたエジプトの古来からある宗教の神官たちは、面食らったわけだ。当時の軍人たちも、古来からあるエジプトの神々を信仰していたため、ひそかにアクエンアテンを恨んでいただろう。なぜアクエンアテンはそれまでの宗教を捨て、突然、太陽神を信仰し始めたのか・・・・太陽神をただ一つの神として信仰するというのは、よほどの悟りを得たに違いないちょうどそれは黒住宗忠の天照大神の信仰と同じだ。唯一神は太陽として象徴されるため、世界の各地域では、太陽神として信仰されていることが多くある大日如来もその一つの象徴だが、大日如来と太陽神ミトラは同じだ、という話がよく出てくる。思うに、仏教の密教というのは、アーリア人の秘儀を継承したものではないだろうか。仏教というのは通常はお釈迦様の教えになってる。 しかし、密教は大日如来が説いた教えだ。仏教は片方でお釈迦様の教えの系統がある一方で、別系統として密教の教えがある感じだ。つまりこれは、ただ単にお釈迦様の教えだけではなく、お釈迦様が継承した古来からある秘儀のようなものの系統ではないだろうか。それはおそらく、アーリア人の秘儀でもあったはずだ。このアーリア人というのは、スピリチュアル的な能力を秘めた民族だったのではあるまいか。弥勒や大日如来にも通じるミトラは、もともとアーリア人の代表的な神だったということだ。ミトラの現存する最古の記録は、ミタンニ文書(紀元前1400年)にあるそうだ。ミタンニ王国というのがあって、これを建国したのがフルリ人ということだが、神々の信仰や言語が、古来のインドとかなり一致しているということだ。もともとフルリ人はアーリア人だったともいわれてるみたいで、インドに侵入したアーリア人と宗教や言語を共有していた可能性があるということだろうか。けっきょく、アーリア人がインドに侵入して、ヒンドゥー教の元となる神々の信仰が伝わったということだろう。インド人というのはおそらく、もともと黒人みたいに黒かったのではないか?前に写真で見たことがあるけど、元来のインド人というのは真っ黒だ。そこにアーリア人の血が入って、今のインド人のような肌の色になったという感じではないだろうか。お釈迦様ももともとはアーリア人の血統だったのだろう。つまり、アーリア人の秘儀を継承する立場にもいたはずだ。2023/09/04 21:42:18240.名無しヒーリングpzPbq駄文の羅列になりそうな予感がするが、このまま続けよう。さて、アクエンアテンは突如として太陽信仰を始めたわけだが、そのきっかけになったのではないか・・・ ということが一つあるこれは勝手な想像だが・・・、アクエンアテンの妃はネフェルティティだが、このネフェルティティは、ミタンニ王女のタドゥキパだという説がある。もしかすると、タドゥキパは巫女のような存在でもあり、スピリチュアル能力に優れ、アーリア人の秘儀を継承していたかもしれない。それをアクエンアテンに伝授した・・・ もちろん、そうだとしても、アクエンアテンにかなりの素質がなければ、悟りを得ることは不可能だろう。太陽神の秘儀・・・ つまりは密教と同じ系統の教えを得たのではないか。タドゥキパがきっかけとなって、アクエンアテンは太陽神の信仰を始めたのではないかと、想像してみたりする。さて、アクエンアテンはアテン信仰を始めて、首都アケトアテンの住民を全員信者にしていくわけだが、このアクエンアテンの時代には、エジプトは一切外国との戦争をやめてる同盟国の応援要請が盛んに来ているにも関わらず、それらを無視して軍隊を送らなかったらしい。ここら辺の話からも、アクエンアテンの悟りが本物であったことをうかがわせるアクエンアテンの息子は、あの有名なツタンカーメンだ。これは正確にいうと、トゥト・アンク・アテン だ。アテンというのは、太陽神であるアテン神のことだ。ところが、アクエンアテンの死後、トゥト・アンク・アメンに改名させられている。このアメンというのが、エジプト古来からある神の名前だ。つまり、元の神官たちの勢力が巻き返してきて、以前の神を復権させたということだ。アクエンアテンの死後、アテン信仰に関連するものは、かなり激しい弾圧を受けてるエジプトではよくある、名前を削り取られる、ということも行われた。徹底的に、アテン神とアクエンアテンの名は削り取られた。2023/09/04 22:21:34241.名無しヒーリングpzPbqさて、これまでエジプト古来の神を信仰してきた軍事たち、そしてそれらの神官たちは、アテン神を外道の神として徹底的に嫌い、そして徹底的に弾圧した。その被害をもっとも受けたのが、当時首都だったアケトアテンの住民たちだ。アケトアテンは徹底的な都市封鎖を受けた。アリ一匹も出させないような、徹底的なものだったかもしれないアマルナ(アケトアテン)の発掘調査では、かなりの栄養失調に陥った人骨が、多く発見されてる単なる一世代のみの都市封鎖ではなく、何世代かにわたる、かなりの長期にわたる都市封鎖だ。このような悲劇を神が見過ごすことはなく、彼らをエジプトの地から脱出させることになる。(この記事の内容は、おそらく勘違いしている。アクエンアテンが早期に首都を完成させるために、奴隷を酷使した・・・ ように書かれているが、これはおそらく間違いだろう。この悲惨な骨の状況は、アクエンアテン後の弾圧によるものだ。「古代エジプト、人骨が語る過酷な暮らし」https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/7701/ )この首都アケトアテンでの住民たちの信仰の状況だが、それはアマルナ(アケトアテン)で行われた発掘調査で、その一端が明らかになっている各家庭の主要な部屋のひとつに、聖域が設けられていた。その聖域は、「赤く塗られた柱」をもつみせかけの入り口を持っていた。この部分は、旧約聖書の過ぎ越しの話と一致する部分だ。すなわち、二本の柱と鴨居を子羊の血で赤く塗れば、神の懲罰を逃れられるというもの。つまりこれは、アテン信者である証であるわけだ。日本の鳥居の起源がここにあるとすれば、われわれは元はエジプトの太陽信仰を受け継いでいるということになる。不思議なことに、今のイスラエル、ユダヤ人の風習として、この朱塗りの柱というものは、ほとんど継承されていないように見える。これほど重要な話であるにも関わらずだ。それが強く継承されているのは、日本ということにもなりえる話だ。つまり、本当のアテン教の信者は、エジプトから日本へと渡ってきたことになる。2023/09/04 23:33:34242.名無しヒーリングcnhxsアテン神を称えた「アテン賛歌」というものがあるが、これが旧約聖書の詩篇104章にそっくりだという話がある。以下にこの両方の詩編の比較があるhttps://w.atwiki.jp/trinity_kristo/pages/288.html別のところからの引用で、アテン神を称える詩を載せてみよう。これは唯一神の特徴がよく出ている。『おお他にはみられない唯一神としてのあなた、精神的に孤独なあなたは大地をつくり、人間と、家畜と、小動物と、地上にいて足で歩くものと、高いところにいて翼で飛ぶもののすべてと、シリアと、ヌビアと、エジプトの大地をつくられた。 ・・・・・・・』『あなたがはるかな空をつくられたのは、そこを輝かせ、あなたがつくりだしたものを観察するためである。あなたは100万の生命の中にある唯一の存在なのだ。』『比類のない唯一神であるあなたは、ひとりでいたときに心と意識で世界をつくりだした・・・ 自分自身から、何千という形態をとりだすあなたは、単一性にとどまっている ・・・・ あなたに生みだされたすべての存在は、ただあなただけをみつめるために実存する。』最後の詩はとくに、聖クリシュナの神譚詩を彷彿とさせるような内容だ。やはり、ただ一人、一つの意識しかないということは、かなりさみしいということだろう。それが永久につづくのだから、そしてそれが、始まりもないような始まりからあるのだから。2023/09/05 00:03:33243.名無しヒーリングcnhxs>>240ちょっと修正「ツタンカーメン」の正式な呼び方は、「トゥト・アンク・アメン」これは改名後の名前だ。元の名前が「ツタンカーテン」。つまり、「トゥト・アンク・アテン」だ。2023/09/05 00:33:40244.名無しヒーリングT01tl過疎やな~2023/09/05 01:24:31245.名無しヒーリングcnhxsたった一つ、オレの意識しかなかった状態が、自分の内にこの幻想世界を作り出し、そしてその中に下降して、分離した一つの小さな個として世界を見ることができているそこから見上げる世界は壮大で、他の人間と並列に接することができるこれは、たった一つの意識しかなかったヤハウェにとって、かなり幸せなことかもしれない。しかし、この意識の変容はまだ完成していない。自分と並列に他を生み出すことにより、そこには立派な人間もいれば、糞みたいな輩もいるからだ。すべては遠い昔からこの現象世界に下降したオレの心の反映といってしまえばそれまでだが、これも新しい世界を完成させるための過程であるわけだ。最終的には悪を滅ぼし、善一筋の世とする。この善とは、善悪の相対性ではなく、善悪を超えた、真実の在り方の世界・・・ ということだ。そうしてその世界が完成するとき、多くの他の中心に収まり、その世界を甘受することができる。本来、唯一神ヤハウェの一つの意識しかないわけだが、ヤハウェは孤独を解消するために、一生懸命 他が存在する世界を生み出そうとしている。このすべての世界がヤハウェの「一」であることに変わりはない。しかしその中に、他が存在するこの現象世界を生み出し、そしてそれが一に統一した世界を作ろうとしているつまり、一即多、多即一 の世界だ。天だけではダメそれでは単なる「一」の延長になってしまう地だけでもダメそれではただバラバラに個々が存在するだけで、悪がまかり通る個我の世界になってしまう天と地の和合・・・ そのために、本来6(天)6(中)6(地)から、天のオレが地に下降して、567の世となったわけだ。このオレがふたたび天に帰り、ふたたび666になるとき、天地の和合が完成する。これは最初の666より、一段上の666となるわけだ。2023/09/05 10:39:47246.名無しヒーリングcnhxsさて、アメリカの有名な霊能者で、預言者でもあるジーンディクソンは、反キリストの誕生を預言しているジーンディクソンは預言を外しているという話があるが、「ジーンディクソンの誕生日占い」の本でいろんな人を見てみると、驚くほど当たっている部分があるたとえば、病院で血液に注射などで菌が混入される恐れがあるので、注意が必要だ・・・ という風に書かれてある誕生日の区分では、オレの親類の二人がこの区分だったが、一人は若い頃、点滴に菌か何かが混ざっていて、それで感染を引き起こし、死亡しているもう一人は糖尿病の治療を受けていて、やはり透析を受けたときになんらかの病原菌に感染し、それが原因で死亡しているまた別の区分では、子供のころに片親と生死別する・・・ と書かれてあったが、これも全く別々の知人3人がこの区分で、その3人とも、子供のころに片親と死別しているちなみにトランプの娘イヴァンカもこの区分で、彼女は子供のころにトランプの離婚で母親と別れているこのジーンディクソンの誕生日占いは非常に優れていて、彼女の能力が本物であることがわかる。それで、反キリストの預言だが、当初は、これは救世主の誕生を意味する・・・ という話だった。ところが、のちに前言を撤回し、これは反キリストの誕生のことだ・・・ と主張している読んだ印象では、これはどうみても反キリストではなく、救世主の誕生を見ていてのだと思うジーンは後半になって、そのスピリチュアル能力に陰りが出てきたのではないかと思う。たとえば、ジーンは文鮮明をほめたたえるようなことを言ってるただ、だからといって、過去の能力すべてを否定すべきではないそれは分けて考えないといけない。たとえば、反キリストが救世主の対称として、何かいろいろな奇跡を起こし、人々を魅了し、破滅の方へ引きずり込んでいく・・・・ という話があったとしても、これは明らかに間違いだ。なぜなら、この世界で大きな奇跡を起こせるのは、この世界を創造した唯一の意識だけだからだ。つまり、夢の世界を自由自在に変えられるのは、夢を見ている人だけだ。それ以外のものが、夢の世界の中を改変するような奇跡を起こすということはない。たとえば、反キリストが本当に現れるといっても、それはヒトラーとか、そういうレベルだろう。つまり、人間のレベルの域を出ないということそのレベルで大きな悪を人為的に行う、そういう権力を持つということで、奇跡力を持つということじゃない大きな奇跡をおこなうような反キリストなどというものは存在しないもし存在するとしたら、それは救世主の「滅びの神」としての現れを錯覚したものだろうジーンもこの錯覚を起こした可能性がある。2023/09/05 18:52:38247.名無しヒーリングcnhxsジーンディクソンのこの救世主と反キリストの2つの預言を比較してみよう。反キリストの方はアカポリプス666という本に書かれていることだが、この救世主バージョンは動画でしか発見できない。この動画のソースは1971年に出版された「The call to Glory(栄光の呼び声)」という本になっている。この動画からその内容を記述してみよう以下は動画の語り口調も含まれる『人類の希望は東方にある。 東から西へと輝き、神は再来するだろう。』『ある朝、ジーンはエジプトのファラオと王妃ネフェルティティが手をつないで太陽の光の中から現れたのを見ました。王妃のもう片方の手には赤ちゃんが抱かれていました。赤ちゃんは王妃の着ている服とは対照的に、みすぼらしい服を着ていました。そして、赤ちゃんの目は知恵と知識の輝きに満ち溢れていました。王妃の横にはピラミッドが見えました。ファラオや王妃が近づき、世界に捧げるようにあかちゃんを抱き上げました。・・・・ジーンが赤ちゃんに視線を戻すと、彼は男らしく成長していました。その頭上に現れた十字架の光がどんどん大きくなり、四方から地上に落ちてきました。その瞬間、すべての人種、宗教の人が彼の前にひざまずき、両手を挙げて彼を囲み、まるで一つになったかのようでした。これまでの幻像とは異なり、この幻像はジーンにどんどん近づいてきて、最後にはジーンは幻像の一部となって、一緒にひれ伏しました。その瞬間、ジーンは自分が芽を出して成長しようとしている種のように感じました。ただし、自分は何百もの同じ種のうちの一つにすぎませんでした。遥かな東の地で生まれた赤ちゃんは成長しました。彼は世界を永遠に変えるでしょう。』以上がジーンディクソンの初期の救世主誕生の幻視だ。2023/09/05 20:54:22248.名無しヒーリングcnhxsこのジーンが見た幻視は、1962年2月5日の朝に見られたものだ。アポカリプス666では、この日に反キリストが誕生したと主張している。では、アカポリプス666に記された、反キリスト誕生の幻視をみてみよう。『そして太陽が大地を離れ、光の糸を引き始めた時、その光の中からエジプトのファラオと王妃が次第に姿を現したのです。私はその女性を見て、ただちにあの有名なティイ女王だとわかりました。私が彼女の夫であると思った傍らの男性は、歴史上 異教徒のファラオ として知られている息子のアクエンアテンでした。二人はまるで恋人同士のように手をとりあいながら、燦然と輝く光の中から、威厳に満ちたよそおいをもって現れました。アクエンアテンの王冠は太陽のもとにおける彼の権力を現していました。しかし、それは神の子のしるしではありませんでした。アクエンアテンと手をつないだ母親のティイ女王は、もう一方の腕に子供をやさしく抱きかかえていました。その子は生まれたての赤ん坊で、しみのついたボロボロのうぶ着にくるまれていました。赤ん坊はみごとに正装した王家の二人とは全くの対照的に、見るも哀れな貧しい恰好をしていました。二人が子どもとともに現れたとき、あたりは不気味な静けさに包まれ、この静けさを破る物音は何ひとつしませんでした。ところがふと気がついてみると、赤ん坊と私の間には、いつの間にか大勢の人が集まっていました。その光景は、まるで全世界の人々が王家の二人によって披露される赤ん坊に注目しているかのようでした。私は人々の頭ごしにその赤ん坊を見ていましたが、よく見ると、ティイはその子を群衆に向かって差し出しています。そして突然、この幼な子から太陽の光線があたりに飛び出し、太陽の光と交差して、子ども以外のすべてをその光の中に吸収していくではありませんか。・・・・ 私は再び赤ん坊を見ました。するとその子は、今や一人前の大人に成長していました。そして赤ん坊の頭の上にさきほどまであった小さな十字架は、見る見るうちに大きくなり、地上のありとあらゆるところをおおうまで広がっていきました。と同時に、地上の悩める人々は、どの宗教に属する人も、すべて彼の前にひざまずき、あるいは手をかかげ、胸に手をあてて、心から彼を崇拝していました。一瞬、私もこれらの群衆の一員のような気がしました。しかし、彼があたりに放つバイブレーションは、父と子と聖霊の三位一体から生ずるバイブレーションではありませんでした。私は心の中で、このお告げが知恵の始まりを示すものだと思いました。けれど、それは誰の知恵であり、誰のための知恵でしょうか。たしかに私は彼の圧倒的な愛に包まれました。その男はまだ赤ん坊だったころ、澄みきった知恵をもっていました。2023/09/05 23:50:11249.名無しヒーリングcnhxs・・・・ この啓示は、1962年2月5日の朝7時ちょっとすぎ、中東のあるところに生まれた子供・・・ エジプトのアクエンアテン王と絶世の美女ティイ王妃の王統を継ぐ直系の子孫(息子と母親の近親相姦によって生まれた魔術師[マニ師])・・・が世界に革命を引き起こすものでしょうか。私はそうだと思います。この人物はまちがいなく大勢の人々の心をとらえ、彼らすべてを一つの教義によってまとめあげることでしょう。彼は、みずからの「全能の力」によって、「新しいキリスト教」をつくりあげますが、それは神の子キリストの教えと生き方からはほど遠い方向に人を誤って導くことでしょう。』以上がジーンディクソンの反キリストの幻視だ。2023/09/05 23:50:50250.名無しヒーリングTx52hこの反キリストの幻視では、アクエンアテンの妻ネフェルティティではなくて、母親のティイとなっている。しかし、そこで書かれていることは、救世主が人々、すべてのものを「一」に帰させる・・・・ というイメージだ。これは反キリストの幻視ではなく、救世主の幻視としたほうが自然だ。反キリストに太陽の象徴はありえない。必ず悪の象徴になるはずだ。果たしてジーンが完全に誤った幻視の解釈をしたのか、それともこの幻視が本当に正しいのか、現時点ではまったく不明だ。しかし、赤ん坊がぼろ布に包まれているという部分は、まさに、ヤハウェが地上に下降して、最下層に落ちたという姿を物語っている。つまり大本教的に言えば、「こんなもん、牛の糞」状態ということだ。また、前でも示したように、もしユダヤ人が、元はアテン教信者だとすれば、王族のユダ族というのは、アクエンアテンの血族ということになるだろう。ならば、ダビデもキリストも、アクエンアテンの血を引いているということになる。そして来るべき救世主も、このアクエンアテンの血を引いているということになる。アクエンアテンと王妃が赤ん坊を連れて現れ、全人類に対してその赤ん坊を掲げたというのは、自分たちの血筋から最後の救世主・・・ つまり、太陽神としての唯一神が登場する・・・・ そしてそれは、アクエンアテンの太陽信仰から始まり、その目的の最終的な帰結を意味している・・・ ということではないだろうか。もしそれがそうだとするなら、ジーンはとんでもない濡れ衣を着せたことになる。仮に救世主が世に出たとき、その救世主の働きは、最後は人類の淘汰ということにもなりえるので、見ようによっては悪に見えるようは、ジーンの信仰していたキリスト教をも滅ぼす存在になるだろう。なぜなら、過去に魔女狩りや、大きな犯罪を犯しつづけた集団でありながら、法王は豪華な衣装と王冠を身にまとい、あたかも自分が神のよう、信者の前でふるまってきた・・・そのようなものたちに、唯一神は全く用がないからだ。そのキリスト教を滅ぼす存在としての救世主をみるとき、あたかも、ジーンは反キリストのような印象を受けたのかもしれない2023/09/06 00:19:07251.名無しヒーリングDYaZPんだ2023/09/06 16:11:27252.名無しヒーリングTx52h今のキリスト教は、ルシファー、イスカリオテのユダ、13という数字、を忌み嫌っている。それはなぜかというと、それらのものが示す存在こそ、将来、自分たちのキリスト教を滅ぼすものだと知っていたからだ。ルシファーというのは、ヘレル・ベン・シャヘル(サハル)(輝ける曙の息子)のことだ。シャヘルというのは夜明けの神を意味する。(※ シャヘルは日の出とともに、太陽が再生したことを宣言するとされていた。古代のカナン地方では、シャヘル信仰のもとでシャハリート (Shaharit) と呼ばれる礼拝が朝に行われていた。) まさに、暗闇の夜を明けさせる、日の出の神だ。またユダは、従来のキリスト教では、イエス・キリストを裏切り、処刑させたものとして扱われているしかし、近年になって解読された「ユダの福音書」では、ユダはもっともキリストに認められた弟子だった・・・ ということだ。このユダの福音書では、キリスト教の将来を予見するようなことが書かれてあるすなわち、ユダを除く、他の弟子たちが、誤ったやり方で教えを広め、まったく役に立たないものを生み出した・・・ というものだ。その部分を抜き出してみよう。『イエスは言った。「なぜ心を騒がせるのか。 本当に私はあなたがたに言う。 その祭壇の前に立つ司祭たちは皆、私の名を唱えているのだ。・・・ 私の名によって、恥ずべきやり方で、実がならない木を植えた。」イエスは言った、「あなたがたが見た、捧げ物を受け取っていた人々ーーーそれがあなたがたの正体である。 それがあなたがたが仕える神であり、あなたがたが見た12人はあなたがたである。あなたがたが見た、犠牲としてささげられていた牛は、あなたがたが迷わせて、その祭壇の前に連れて行った人々である。彼ののち、「みだらな者たち』から別の一人が立ち、また別の一人が子殺したちの中から立ち、また別の一人が男たちと床をともにする人々や物断ちをする人々、そのほか汚れた、不道徳な、誤った人々、「私たちは天使と似ている」と言う人々から立つだろう。彼らはすべてを終わりに導く星である。しかし、「終わりの日に彼らは恥に落とされる」と命じられるのは主、宇宙の主である』2023/09/06 22:18:16253.名無しヒーリングTx52hこのユダの福音書で書かれている、イエス・キリストの預言というべきものは、現代において見事に当たっている… といえるだろう。たとえば、カナダでは、キリスト教当局が運営していた先住民の寄宿舎跡地で、未成年の215人の遺体が発見されている。「カナダ政府は2008年、寄宿学校で身体的・性的な虐待が横行していたと認め、謝罪していた。同化教育の過程で数千人の子供が死亡したとされている。」このような問題は、キリスト教の組織の中で、歴史的に行われていたものだろう。表に出てきてないものがたくさんあるはずだ。キリスト教会は歴史的に、異民族のジェノサイドや、性的虐待の温床になっていたと考えられるそれらの悪を行うものたちの中から、法王が選出されてきた・・・ ということだろう。別のものが立ち・・・ また別のものが立ち・・・ というのは、そういうことだろう。ユダ以外の弟子たちは、まさに、実のならない木を植え、糞みたいな教会と司祭を生み出したということだ。しかし最後にヤハウェが目覚めるとき、今豪華な衣装を着てキリスト気取りでいるヤツらは、恥に落とされることになる。さて、ユダの福音書での、ユダの扱いなのだが、キリストはユダを自分の継承者のように扱っている自分のことを理解しているのは、ユダだけだ・・ と。おそらく、ユダはヤハウェの本質を持つもの・・・ つまり、オレの過去世の一つだったかもしれない。ユダの福音書では、ユダが未来で救世主になるようなことを、キリストが言っているそしてキリストはユダのことを、『13番目』と呼んでいる。つまり、キリスト教が忌み嫌う数字だ。13とはユダのナンバーで、そしてそれこそ、キリスト教会を滅ぼすものになるわけだ。2023/09/06 22:18:53254.名無しヒーリングTx52hこの13という数字にまつわる部分と、ユダが救世主になると言及されている部分を抜き出してみよう。『イエスはこれを聞くと、笑って彼に言った。「十三番目の精霊であるお前が、なぜそんなに躍起になるのか。だが、話してみなさい。 私はお前の話を信じるでしょう。』『イエスは答えて言った。「お前は十三番目となり、のちの世代の非難の的となりーーーそして彼らの上に君臨するだろう。最後の日々には、聖なる世代のもとに引き上げられるお前を彼らは罵ることだろう。』『イエスは言った。「来なさい、いまだかつて何びとも目にしたことのない秘密をお前に教えよう。それは果てしなく広がる御国だ。そこは天使たちでさえ見たことがないほど広大で、一つの目には見えない霊がある。そこは天使も見たことがなく、いかなる心の思念によっても理解されず、いかなる名前でも呼ばれたことがない。』『「だがお前は真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になるだろう。すでにお前の角つのは立ち上がり、お前の憤りは燃え上がり、お前の星は明るく輝き、お前の心は・・・さあ、これでお前にはすべてを語ったことになる。目を上げ、雲とその中の光、それを囲む星々を見なさい。皆を導くあの星が、お前の星だ。』(この動画をようやく見つけたわ。https://youtu.be/ZPeQgm_A1Dkこれはナショナルジオグラフィックが作ったユダの福音書のシーンの動画で、昔日本語の訳がついてたのがあったのが、今はいくら探しても見つからない。英語で検索かけたら、ようやく見つかったという。)このユダの福音書で語っているキリストの言葉は、未来の預言のようになっているユダの将来というのも、ユダの遠い来世・・・・ つまり、世の建て替えの最後のときのことだろう。つまり、ユダ=ルシファー=ヤハウェ=俺 という構図だ。このあと、13についてのオレの考察を載せようと思う。2023/09/06 22:19:03255.名無しヒーリングxnyhq多くの救世主の預言・・・・ それがキリスト教のメシアにしろ、イスラム教のマフディにしろ、日月神示にしろ、弥勒にしろ、 ほとんどの人が、その救世主が唯一神・・・ ヤハウェそのものが人間として化身する・・・ とは、まったく思ってもみないことだろう。単に、イエス・キリストの延長・・・ 人として悟りを得た人が、人類を救済する・・・ そういうような感じだ。多くの人が、ヤハウェ、アラーに相当する唯一神、創造神ーーーそれ自体が、人間として生まれ、新たな人間の世界を創造し、そこに導く・・・ ということを知らない。しかしこれは、この夢の世界の最終章にふさわしいものだとは思わないか?けっきょく、夢を見た人(この世界を作り出したもの)が、最後にこの夢の世界にケリをつける・・・・ そういうことだ。あの主と呼ばれた、天なる父と呼ばれた、唯一神、創造神であるヤハウェが、アラーが、まさか人間の・・・ しかも、落ちぶれた人間の姿になり果てるとは、普通の人が考えることができないだろう。しかし今、オレはここにいる。創造神、唯一神としてのすべての記憶を失い、すべての絶対的な権力を失い、ただ普通の落ちぶれた人間として、ここにいる。これがまさに、一厘の仕組みだ。人間の肉体からヤハウェが、アラーが、唯一神として本質を取り戻し、絶対的な力を発揮する。人間の姿を持ちながら、この世界を変えていく。今まで人類が見たこともないような奇跡が、これから起こることになる。まさに、牛の糞が天下をとるとは、このことだ。2023/09/07 01:14:52256.名無しヒーリングxnyhq日月神示『寂しさは人のみかは、神は幾万倍ぞ、寂しさ越えて時を待つ。神が世界の王になる、てんし様が神と分らん臣民ばかり』2023/09/07 01:38:46257.名無しヒーリングtaU2lタイミング~2023/09/07 18:17:06258.名無しヒーリングxnyhqキリストがユダを13番目と呼んだ理由だが、ユダが13番目なら、キリストは12番目ということだろう。よくスピリチュアルで言われることだが、一つの星座の時代が2000年で、その一つの星座ごとに、一人の救世主が現れるとされている。たとえば、エジプトのホルスとかは、まさにその中の一人の救世主だといわれている。キリストは魚座の時代の救世主で、次は水瓶座だ。スピリチュアルではよく、水瓶座の時代が来るとか言われているが、この水瓶座は世界が霊的世界に進化する・・・・ つまり、アセンションのようなことが起こるとよく言われている現在は魚座から水瓶座の移行期とされているこの一つの星座が2000年というのはどういうことかというと、これは地球の歳差運動から導きだされている。地球の軸は斜めに傾いていて、それがコマのように回り、その軸の先の天空に、円を描くようになっている。その円を一周するのが、2万5800年 というわけだ。これを12星座で割ると、約2000年ということになる。ちなみに、通常の誕生月の星座の循環ではなくて、歳差運動の場合は順序が逆回転になる。つまり、魚座の次はみずがめ座ということだ。みずがめ座は新しい時代に入ることを意味し、霊的な時代の始まりを意味するということだろう。今、12星座を約2万6千年かけて回ってきて、各星座の2000年に一人、救世主が現れてきた。そして次の水瓶座の時代に、新しいターンが始まるつまり、13人目の救世主が、みずがめ座の救世主ということだ。キリストは魚座の時代の救世主・・・ つまり、12番目の救世主だったわけだ。2023/09/07 21:21:03259.名無しヒーリングxnyhq今この歳差運動を調べていて、たまたま出てきたんだけど、スフィンクスって、真東を向いてるってことだったね。つまり、春分と秋分の日には、太陽は真東から登ってくるわけだから、その日にちょうどスフィンクスは日の出の方向を向いていることになる。太陽というのは、けっきょく、創造神、唯一神の象徴であるわけだから、昔から古代の宗教ではそれが意識されてきたわけだ。太陽というものが非常に大事にされていた。真東というのは、日の出の方向を見るということだ。オレが住んでいるところも、綾部の大本教から見れば、真東だ。大本教の詩に、「此事判ける身魂は、東から出て来るぞよ。此御方が御出になりたら、全然. (さつぱり)日の出の守護と成るから、世界中に神徳が光り輝く神世になるぞよ」 というのがあるが、これは出口応仁三郎のことだといわれているが、ちょっとおかしいんだよね・・・・出口応仁三郎がいた亀岡は、綾部から見て南東にあるまた、この方が出てきたら神世になるということだが、全然神世となっていないわけだから、これは出口王仁三郎のことはなく、来るべき救世主ということになるだろう。そうすると、オレのいる位置はまさに、綾部から見て真東だ。春分の日に綾部から見れば、まさに、オレの方角から太陽が昇る。太陽は常に東から現れる 唯一神の救世主は、必ず東から現れるということだ。だから、お東様・・・ というわけだ。2023/09/07 21:50:35260.名無しヒーリングxnyhqちなみに、スフィンクスの足元には、「夢の碑文」という石碑が立っている。この内容はなにかというと、トトメス4世が砂に埋もれたスフィンクスの近くで眠っていたところ、夢にホル・エム・アケトが現れ、「自分を掘り起こしたら、汝をファラオにしてあげよう」 と言われたとのこと。そうしてトトメス4世がスフィンクスを掘り起こしたところ、その後、トトメス4世は無事王位につくことができた・・・・ というもの。ホル・エム・アケトというのは、ホルスのことだ。そして、トトメス4世というのは、あのアクエンアテンの祖父にあたる人だ。2023/09/07 22:02:40261.名無しヒーリングxnyhq歴史がつながってく~2023/09/07 22:03:43262.名無しヒーリングxnyhqそういえば、エルサレム旧市街には、ゴールデンゲートという門がある。旧市街には8つの門があり、ゴールデンゲートは東に存在する来るべきメシアは、東から到来し、このゴールデンゲートをくぐってエルサレムに入るといわれている。現在はこの門は閉ざされているここでもやはり、メシアは東から到来するということだ。2023/09/07 22:19:52263.名無しヒーリングxnyhq今上の文章を書いた後、偶然、このブログを発見したwまたしても岡田茂吉の言葉だwこの内容を載せておこう。『イスラエルの都エルサレムには、開かずの門(黄金の門)があり、ユダヤ民族の伝説として「時が来れば、イスラエルの王が再びやって来て、この門(開かずの門)を通り、神殿に入り、神が住むというその聖所に座し、世界を統治し始める」との話があると聞いています。 岡田茂吉師は、開かずの門をユダヤの民と日本人が、手に手を取ってくぐる時が地上天国の始まりだと仰せであり・・・」http://earthkeepercrystal.com/blog/20110808-2002023/09/07 22:24:22264.名無しヒーリングZHl9J何にも無いのは怪しい2023/09/08 19:48:55265.名無しヒーリングT06FO弥勒が将来、三回の説法で多くの人に悟りを開かせるという、弥勒三会(竜華三会)というのがあるだろ?あれは木の下で行われるわけだけど、その木は龍華樹(竜華樹)と言って、広大な枝と根を持っているといわれている。枝と根の長さが40里あるとか・・・、とにかく長い枝と根をもってるこれは、オレにはピンと来るんだけど、これはインターネット網を表しているつまり弥勒は、インターネットの下で、弥勒三会を行うということだ。長い枝は、地上の電柱などに張り巡らされた通信ケーブルで、根というのは、地下や海底に張り巡らされた通信ケーブルのことだ。このインターネット網を使って啓蒙活動をするというのは、実はジーンディクソンの反キリストの話にも出てくる。ジーンがこの預言をしたときは、まだインターネットが普及するかなり以前のことで、当然、ジーンはインターネットのことなど知らない以下、この部分の、ジーンの言葉を抜き取ってみよう。2023/09/09 23:54:47266.名無しヒーリングT06FO『反キリストもまたキリストのように、エルサレムの町を中心に活動することでしょう。このとき西洋の宗教はおそら東洋の哲学と融合していることでしょう。若者が彼のまわりに集まり、彼と英知をともにします。それは今日の若者が、自分たちの指導者のところに教えを乞いに出向くのと同じような感覚なのです。世界が彼の出現に向かって準備ができると、何億もの人々が、超先進的なコミュニケーション網を通じて彼と接触するようになるでしょう。聖なる都はその本部になりますが、彼の行動範囲は全世界にわたっています。アメリカの新しい支配者と新しい ″精神的" 統治者の密接な協力関係は、彼がアメリカをひんぱんに、かつ広範囲に訪問すればするほど強くなり、アメリカ人を彼に対して感化されやすく、狙われやすい対象にするでしょう。彼は多くの魂を迷わせます。彼が長い道を歩いていると、群衆が彼をあがめてついていくのを私は見ました。これは彼の統治も終わりに近づいたことを示しています。彼らは畏敬のまなざしをもって彼を盲目的に崇拝し、彼のあとに従います。私は彼が立ち止まってふりむくのを見ました。・・・・彼は、催眠術にかけるようなまなざしで彼を崇拝する群衆をながめました。そして道の果てまでついてくるよう大衆をそそのかすのです。もう一度彼はふりむきました。そして、ハーメルンの笛吹の物語のように、彼は人々を率いて歩きつづけます。人々が"決定の谷"に着くと、そこには岐れ路がありました。そこで、"東部から現れる子ども"は、何か深く考えコムようにペースを落としました。彼はマントをゆるやかにひるがえして左に曲がりました。この瞬間が決定の時だったのです。』2023/09/09 23:54:59267.名無しヒーリングExM81ジーンの終末関連の話に矛盾が生じるのは、ジーンは反キリストの出現を預言しているが、肝心の救世主の出現の預言をしていない。これらの文章の最後に示されるのは、困難を乗り切った一段が、反キリストに打ち勝って真実の道にたどり着くというものだ。これはおかしな話で、聖書にしろ、なんいしろ、救世主の出現を預言しているような部分がある。しかしジーンの終末のキリスト関連の預言は、始終、反キリストの話で埋め尽くされてるなぜそうなるかというと、これはある意味当然のことで、反キリストと救世主を見誤っているからだ。救世主のことを反キリストと思ってるから、肝心の救世主の預言が現れない。だから、世界を真実に救うメシアが、その預言の中にまったく出てこなくなってしまう。確かに、メシアといいながら、その役目はある意味、人類の7割以上を葬り去ること・・・、 つまり、インドでいえばヴィシュヌ最後のアヴァターラ、カルキ神のようになるわけだ。これを幻視したとすれば、それは当然、反キリストのように見えるだろう。日月神示『この方悪神とも見えると申してあろうがな。』『この方、この世の悪神とも現れるぞ、閻魔とも現れるぞ。』2023/09/10 00:08:08268.名無しヒーリングExM81メシア関連の現代の映画やドラマといえば、Netflixで放送された「メシア」があるが、これは実際のメシアと比べると、少しイメージの違ったものになっているだろう。実際のメシアは圧倒的で、光に満ちている存在だ。人々に疑心暗鬼を起こさせるような存在ではなく、ストレートに信じさせるような圧倒的な存在になるだろう。しかし、Netflixのメシアは現代においてもしメシアが現れたら・・・ ということをテーマにしていて、それはそれで雰囲気が出ているところがいいちょっとしたメシアの雰囲気を味わいたい人は、こちらをご覧くださいhttps://www.youtube.com/watch?v=KJuxdy943a02023/09/10 00:30:39269.名無しヒーリング9T2Twかのととり2023/09/10 15:32:00270.名無しヒーリング0dBEpどったと?2023/10/05 16:28:22271.名無しヒーリングnFYy0アルバート・パイク(イルミナティ最高位33階級)の“予言”1871年に、イタリア建国の父であるジュゼッペ・マッチーニに送った書簡(手紙)「世界を統一するために今後3回の世界大戦が必要だ1回目はロシアを倒すため、2回目はドイツを倒すために。3回目はシオニストとイスラム教徒が互いを滅し合い、いずれ世界の国々もこの戦争に巻き込まれそれが最終戦争に結び付くだろう」「第一次世界大戦は、ツァーリズムのロシアを破壊し、広大な地をイルミナティのエージェントの直接の管理下に置くために仕組まれることになる。そして、ロシアはイルミナティの目的を世界に促進させるための“お化け役”として利用されるだろう。」 「第二次世界大戦は、『ドイツの国家主義者』と『政治的シオニスト』(パレスチナ地方にユダヤ人国家を建設しようとする人々)の間の圧倒的な意見の相違の操作の上に実現されることになる。その結果、ロシアの影響領域の拡張と、パレスチナに『イスラエル国家』の建設がなされるべきである。」 「第三次世界大戦は、シオニストとアラブ人との間に、イルミナティ・エージェントが引き起こす、意見の相違によって起こるべきである。世界的な紛争の拡大が計画されている……」 「キリストの教会と無神論の破壊の後、ルシファーの宇宙的顕示により、真の光が迎えられる……」2023/10/18 17:08:42272.名無しヒーリングRfbhiまだなん?2023/12/15 21:01:56273.名無しヒーリングykrLxm9(ด็็็็็็็็็็็็็็็็็Дด็็็็็็็็็็็็็็็็็)プギャー2024/01/13 12:53:35274.名無しヒーリングOTgv7裏で魚を食べてしまった彼女は「魚殺し」と呼ばれた徹底したヴィーガン(完全菜食主義者)を6年間続けていたヨバナ・メンドーサは有名配信者だったしかしバリ島での食事でヨバナの食卓に一瞬だけ魚料理が映ってしまうそれがきっかけとなってSNSで炎上し「偽ヴィーガン」「魚殺し」と呼ばれる彼女は謝罪の動画で魚と卵を食べるようになった理由を明かした生野菜しか食べない生活を始めると、まず生理が止まり、常に貧血気味で疲労感があり、ホルモン値は閉経前の女性と同等になってしまったサプリメントや薬では改善しなかったため、医者に卵と肉を食べることを勧められるそして現在の彼女は肉食をしながらそれを推奨している2024/05/27 12:52:15275.名無しヒーリングtTmV6■金(かね)は要らぬのざぞ、金いるのは今しばらくぞ、生命は国にささげても金は自分のものと頑張ってゐる臣民、気の毒出来るぞ、何もかも天地へ引き上げぞと知らしてあること近づいて来たぞ、金かたきの世来たぞ。■金(かね)いらん事になると申してあろが、世界の人民 皆青くなって、どうしたらよいかと何処尋ねても判らん事近づいたぞ。このような日月神示や大日月神示にある「お金がいらない世界」という考えを「原始共産制」といいカンボジアのポルポトという独裁者がそういう国を作ろうとして実行した例がありますミジンコでも分かる5分の動画「ポルポト」についてhttps://www.youtube.com/watch?v=20U3qNX_8wg2024/08/20 18:32:25276.名無しヒーリングtTmV6「お金がいらない世界」の先例ポルポト政権下のカンボジア銀行業務どころか貨幣そのものを廃止し、私有財産を禁止し、都市文明を否定した原始社会(原始共産制)の理想的な自給自足の生活を営んでいると考えたカンボジアの山岳先住民族を見本とする極端な農本主義を強行したこれは世界各地で動員が繰り返されてきた20世紀の歴史から見ても例のない社会実験だったとされる2024/08/20 18:32:43277.名無しヒーリングpsRYD大本神諭(国常立神の神示)の感想「大地を枕に」より要約して引用感想を一言でいうと、「くどい」全巻の要点を箇条書きにすると、5ページになってしまうのではないか?と思われるほど、繰り返しが多い予言も外れている人類はまもなく大峠をむかえ、その後「ミロクの世」が来る。しっかり御魂磨きをした者は、ミロクの世で幸せに暮らす心の醜い者どもは消滅させられてしまう・・・・・・ってな予言世界大戦の後、「ミロクの世」が来ると言いたかったのだと思うのだが、ハッキリ言って「外したな」と思う予言では、「まもなく」と強調している。「まもなく」といえば、普通、数年を意味する。長くて数十年以内だろう出口なおが死んで、もう100年。いまだに「ミロクの世」じゃないということは、予言は外れたのだ。これは認めないといけないと思うこういう終末論に取り付かれた者は、ナカナカ目を覚ますことができないようだキリストの「最後の審判」の予言なんかも、「まもなく訪れる」と言ったはいいが、もう2000年の歳月が流れ去ったにもかかわらず、終末論者たちは、いまだに「まもなく、まもなく」と騒ぎ立てている2012年アセンション説も、結局大外れしたのに、信者たちはそれでも「ナンノカンノ」と屁理屈を並べ立てて、「予言はすでに成就した」とか、「私たちの祈りが天に通じ、先送りされた」とかワケの分らないことを言って、目を覚まそうとしない。困ったものである輪廻転生説というものがあって、人は様々な国に生まれ変わる。今世は日本人かもしれないが、来世は韓国人として転生するかもしれないということだ本質である霊には国籍などない「日本は神国。日本人の俺は偉いのだ。外国のケダモノたちよ、ゴチャゴチャ言うな!」こんな選民思想に引っかかってはいけない2024/08/31 20:16:21278.名無しヒーリングpsRYDウォーレン・バフェット「重要なこととわかりうることに集中せよ」質問今後10年間の世界金融に関する展望はどうなりますか?今後10年間のアメリカ経済に関する展望はどうなりますか?回答私たちはそういう問題については考えません私たちは2つのことだけを考えます重要なこと、そしてわかりうることあなたの質問は重要ではあるけれども、わかることはできませんわかりうるけど重要ではないこともありますそういうことには私たちは興味がありません今後10年の世界経済、企業闘争など、まったくわかりませんそういうことに気を取られていると、もっと重要なことを見逃しかねませんこれは私がよく用いる事例ですがコカコーラ社は1919年に上場し、最初は1株40ドルでしたあなたに完璧な先見の明があれば、1919年以降に起こること世界恐慌、社会不安、世界大戦、原子爆弾などいろんなことが見えたでしょうしかし重要なのはそこじゃないんですコカコーラは毎日10億人以上が飲む飲み物でありたった数ドルの商品で世界中の10億人を幸せにできるのですおそらくコカコーラの株を買うことををためらう理由をいくらでも見つけられたと思いますためらわず40ドルのときに投資をすると、配当による再投資も含めれば今、500万ドルですそれが私たちのフォーカスしている部分ですチャーリー? 君の意見も(チャーリー・マンガー)私たちは水の流れを予測しませんそのかわり、どんな流れの中でも泳ぎます2024/08/31 20:16:54279.名無しヒーリングEBYKAついぞ来たれし天の時、天(あま)翔け国馳け天を舞い天下に雷鳴轟かせ神の御国と建て替える。あらゆる教えを混ぜ混ぜて一つの法といたすぞよ。神無し思想の者どもが栄え栄しその裏で金神眼見開いて見ておる事ともつゆ知らず、やりたい放題、し放題、あたかもこの世は人の世とはき違いたる主義思想、間髪容いれず人の世に一厘入ってまる潰つぶれ、神無し思想ぞまる潰れ、神信心は馬鹿なりと人の世界ぞ思う頃、神の仕組みは整うた。あらゆる宗派は一(いち)となる、神の合図で一となる。神の仕組みの出来上り。聞いてびっくり見てびっくり、このカラクリを知りたなら開いた口とて塞(ふさ)がらぬ。嬉し嬉しで開く口と阿鼻叫喚(あびきょうかん)に開く口のふたつとなりし時なりと覚悟の上で知るがよい。異変が天に起こる時、大地に異変起こるなり。天地十字に結ばれし嬉し嬉しの大異変、この時、神が現われて各宗各派を統治する。まず宗教は大異変、宗教界は大異変、一厘入った宗教はこれまでやり来たさまざまな事ではこれより立ち行かぬ、これよりやり方変えようぞ、あちらにやり方変えようぞ、打って変りて翻(ひるがえ)り、手のひら返してお出直なおし、それはそうなり、そうなりと各宗各派は甦よみがえる。さすれば目的なんなりと各宗各派は思案する。以外や以外これまでは戦い競うて来たなれど、我らの目的唯ただ一つ、世界の平和に貢献と各宗各派は湧き上がる。一厘入はいった宗教と一厘入はいらぬ宗教は誰が目にとてわかるから宗教界は大騒ぎ上に下にの大騒ぎ。一厘 入はいった宗教はこれぞ、これぞと盛り上がり、昔のやり方さようなら、神をわからん者達のご機嫌取りともさようなら、さよう、なら神信心をさせてくれ、わしにも信心させてくれ。この後におよびて申しても、こなたにかもうておれんからこなたの岸とはさようなら。2024/09/12 11:50:15280.名無しヒーリングEBYKA全ての教えは舟となる、一厘入って舟となる。彼岸に登る舟となる。神信心の尊さを説けどもわからん者達がこなたに残りてさようなら。人の世の中終る日の、終る刹那(せつな)の物語。涙、なみだの物語。金神正体明かすぞよ。天理教にて金の龍、元(もと)の神にて実(じつ)の神、できたるばかりのこの大地、泥海の如き有様を、ここまで馳駆(ちく)し固めたる親神(おやがみ)、天の将軍は金剛力の金龍とかしこみつつしみ知るがよい。天の命にて三千年隠棲(いんせい)いたせし大本(おおもと)の神の出口の口開(くちびら)き艮(うしとら)の神と現われて三千世界を建て直す。これより申すさまざまのこれまで隠せし仕組み事。毛筋の幅も違わんと申しておくゆえ覚悟せよ。神信心の信徒より順々一厘吟味(ぎんみ)する。神信心の人々はこれより裁(さば)きの庭に出る。国祖(こくそ)、大国常立親王(おおくにとこたちしんのう)が、これより直々じきじき裁きする。善人、悪人顔に出る、神が中心宿る者、形だけなる神信心、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)もさながらに一目見た時、顔に出でる、わしが見るからすぐ判る。問答無用と申すぞよ、言い訳無用と申すぞよ。十二単(じゅうにひとえ)に身を包み、みやび優雅に振るふ舞まえど一厘無くば藁衣(わらごろも)、まるめて捨て去る袋帯(ふくろおび)。美人美形の者でさえ鼻毛一本まる潰れ、それほど一厘わかるぞよ、それほど一厘わからんぞよ。その一厘ぞ別れ道、たった一厘分れ道。濡着(ぬれぎ)汚着(よごれぎ)身にまとい蓑(みの)を負いたる者でさえ一厘あらば大丈夫、わしが言うから大丈夫。針穴くぐれる人となり天にも昇る身となれる。いかなる罪障(ざいしょう)、悪因縁、汚れし衣(ころも)と脱ぎ捨てる。神信心のありがたさ、かたじけなきは神信心。正しき心の神信心、以外の事では味わえぬ旨うまい話とわかるまで人それぞれにかかりても結局わかる神信心、ありがたきこそは神信心。それゆえに心に一厘無い者は何が何とてわからずに言って聞かせる事も無い。げに恐ろしきは神信心、邪心(よこしまごころ)の神信心。2024/09/12 11:51:51281.名無しヒーリングEBYKA天理教にもわしが出る、キリスト教もわしが行く各宗各派ことごとく金神これより参るぞよ。わしの姿は見えずともわしの意とする者が出る。例えて言わば天理教、増井りんなるその者は針穴通るか通れぬかその魂を吟味する裁きの役目の者なるぞ、裁く役目の者達が各宗各派に現われて、神信心の信徒より順々一厘吟味する。それがわしだと思えども姿も見えず声も無い。唯(ただ)、金神が見きわめる。神信心の者達を上から下まで吟味して一厘宿りし者のみを針穴通して連れ帰る。これにて申するもろもろは毛筋の幅も違わんぞ、毛筋の幅も違わんぞ。神をシカリと掴(つか)みたら何をやりても大丈夫。何をやりても青信号、鰻掴(うなぎつか)みの者たちが右往左往をする様がおもしろおかしく見ゆるのぞ。マツリの型ぞと申すぞよ。ど真ん中で約り合うた真釣りの型こそ人の身ぞ。これまでやり来た神信心真釣りの型ぞと申すぞよ。滑稽こっけいなりや神信心、奇っ怪なりや神信心。その真ん中ぞ釣り合わぬ奇妙奇天裂(きみょうきてれつ)、神信心。自分可愛い一念が鰻掴みとしとるのぞ。早く知らしてやりとうて地団駄踏んでもおぼつかぬ。何を拝んでおるのぞと哀れおかしや神信心。人が言うても聞こえぬし神が見せても気がつかんお偉いお方が申す事これしか救いはござんせん。2024/09/12 11:53:43282.名無しヒーリングEBYKAお偉いお方が申すなら何が何とていたします。言われてした事やりた事、わかりましたと申しても鰻は逃げて水の中、何が何とてわからずに謎は深まる一方ぞ。己が思いを形にし汗だし泣き見て涙してもがき苦しみ道求め神はいずこと渡り来てようやく知りうる神の守護。これぞ誠の金剛石ぞ、神信心の宝なり。この宝、ただやりとうて見せたる守護ぞ、あっと驚き仇(あだ)となる、良かれと思い出す守護に人の取り方逆に出て仇(あだ)となるこそいと哀れ。雨風降りて槍やり降りて金剛石が降り出ても唯(ただ)、中心は人救い、この一点が真ん中のど真ん中に鎮(しず)まりてシカリと入(はい)りておりたなら何をやりても大丈夫その身その者する事は神がするのと同じ事。何事やりてもピンと出て何事やりてもサマとなる社殿ぬかづき手を合わせ祝詞わあーわあー上げたとて何が何とて何が為、何を拝んでおるのぞと、哀れ滑稽ど真ん中、この一厘が大違い。違い、気違い、気が振れてわあーわあー祝詞上げたとて神は聞くやら聞かぬやら、哀れ儚き神信心。自己中心の神信心、自己中心の神信心。 やれと言われてやりた事、誉めて称(たた)えてやりた事、一厘入ってクズとなる。やれども、やれども誉められず途方に暮れて泣きを見る藻屑(もくず)の如き行いが一厘入ると徳となる。夜の切り替えぞと言うたぞよ、世の切り変えぞと言うたぞよ。2024/09/12 11:54:44283.名無しヒーリングEBYKA夜の時代の勝ち相撲、勝てば勝つほど辛くなる。負けば負くほど強くなる。蒔(ま)け蒔け蒔け蒔け一の種、蒔けば蒔くほど花と咲き、捲け捲け捲け捲け寅の巻、捲けば捲くほど実(み)ぞ実(みの)る。春まけ夏まけ秋にまけ冬にまければハルマゲドン魔の神、ドンと落ち行くを我ら喜びハルマゲドン春、魔、下、ドンこそハルマゲドン。善と悪とは同じ事、大神様には同じ事。悪があるから善がある、相対世界の実相は互いは互いの証明書、影こそ光の証(あかし)なり。陽と陰との融合を日月(ひつき)で示すこの度の真文明の世界なり。この事、先にてわかるから、いやでもこれより、わかるから楽しみ事はまだ言わぬ。東京強しと言うた頃、これぞ、あれぞと言うた頃猫やシャクシを真似まねて貴き豆腐の叩き売り豆腐一丁、金一兆、一兆積もうが預けぬ尊き豆腐は蔵ざらえ。気も振れたりと思いきや、あれを目ざせと騒ぎ立てやりたる神徳まる潰れ、一厘入ってまる潰れ。それを煽った者たちがそれ見た事かと言う者に、打って変って翻る転身の術の見事さに、さすがの神もギョギョギョのギョ、びっくり仰天ギョギョギョのギョ。濡着汚ぎ着さしあう本性見えたるその時の神の残念わからぬか、自己愛は悪の権化(ごんげ)であるなれどここ、のわからぬ利他愛に神の御用は勤(つと)まらぬ。あれやる時ぞあれをやる、これやる時ぞこれをやる。あれとこれとの境目(はざかい)はあれこれ申さず蹲(うずくま)れ。峠来たなら押し寄せる。訳のわからん人々が、何とてするで連れ行けと、どこがどうしてどうなりて言われてした事、どこ悪い。置き去る筋すじぞあるまいと、めくらめっぽう押し駆ける。神の残念わからぬか、神の残念わからぬか。2024/09/12 11:55:33284.名無しヒーリングEBYKA御書(みふみ)ぞシカリと読みなされ、尋ねられてもわしゃ知らぬ。上のお方に聞きなされ、上から言われ言い出されこれが良いぞと言われれば、これが良いぞと言うだけぞ。心、第二のその頃は、わかりえぬのも無理ないがさらに自然に宿りたる神々様の恩恵を取り次ぐ心も持たぬから農作業など目もくれぬ。これまでこれで行けたぞよ、これぞ夜間の律法(りっぽう)ぞ、そんな無態(むたい)な時期にいて自己の損徳帰り見ず、そんな無態な打ち出しに逆(さから)い背(そむ)き楯(たて)を突つく、そんな逆賊おりゃせんか、逆の逆賊おりゃせんか。逆の逆から日が昇る、真如(しんにょ)の逆ぞ真理ぞよ。裏の裏こそ表なり、表返って翻る。尻に火のつく者たちと、頭に角を頂いた、獣性、神性入れ替えて三千世界ぞ建て直す。神が表に現われて無碍(むげ)の光で照らすなら、悪業、悪徳出てこぬか、陰徳、博愛出てこぬか。出てこぬように祈るぞよ、出て来るように祈るぞよ。神が人様祈るぞよ。教師の教(きょう)の狂いたるこの有様は何事ぞ、資格者、失格者この度は神がキチリと片付ける。教師、狂師を立分けて、大神様にお詫びせよ。狂師、恐師は生み直し、もっぺん一からやり直し。この事、前にも申したぞ。どなたか前にも申したぞ。利他愛の人は地獄に沈むぞよ、自己愛の人は極楽登るぞよ。ごくごく苦しくごくごく楽でどちらもさっぱり、わからずじまい。あにはからんや日の出かな、自己を救いに登りし者と人を救いに沈みし者が、逆さとなりしおもしろさ。昇り昇りて日が昇りゴモクと宝分けんかな。天下分け目の閻魔堂スッキリ、キッチリ片付ける。この目誤魔化す事のみをあれこれ企て私案して、一心不乱に嘘を吐く舌は腐りてくると知れ、目の玉腐りてくると知れ、あまつさえ手足腐りてくると知れ、腹も腐りてくると知れ。2024/09/12 11:56:47285.名無しヒーリングEBYKA利他の愛、耳だこできるそれほどに説いて説いて説き聞かし蔭から守護して来たなれど、わからん魂もういらん、ご機嫌取りはここまでじゃ。神の戸が開く直前に金が降る、金銀玉が溢(あふ)れ出て人間様の目が眩くらむ。神が心に宿る人、これにて人様救えると感謝、感激、雨霰(あめあられ)。おかげ貰えば良い人は唯(ただ)それだけの人々は、あっと言う間に気が振れる。これにて己れは救われた、ここまで来たら大丈夫どちらがどうとは申さねど、自ら選びし道なれど惟神(かんながら)、かんながら、他人がさせるやないほどに、神がさせるやないほどに、お徳も錆(さび)も身から噴ふく。金神正体明かさぬを知るや知らずや人の世は、バブル、バブルのその頃に濡手(ぬれて)に粟(あわ)の屑銭(くずぜに)を屑が拾うて屑使い、屑買いしめたる屑の山。同じ事柄二度する仕組、同じ事柄二度する仕組。グズグズしておる暇は無い。悪神、悪仏金が降る、大地が震う真際(まぎわ)まで。神に焦(こ)がるる人々は喰うや喰わずの食なれど、それでも飢えず苦しまず、嬉しき事のみ増えてくる。おかげ中心、神中心。どちらを神が選ぶやら、攫って逃げて愛(め)でるやら。天に召めされしさる方に天のお方は申された。勲(いさお)し立たてたるその方に天のお方は問いかけた。論功(ろんこう)行賞(こうしょう)何望む、勲立てたるその手柄(てがら)、何を褒美にとらそうぞ。間髪(かんぱつ)容れずにそのお方、天なるお方に望まれた。一(いち)の救済望むゆえ尊いお姿踏絵ふみえする。己が命はいらぬゆえ、後(あと)は野となれ山となれ。こういう事になりたれば、どんな者にも手は出せぬ。時節が来んうち手が出せぬ、どんな無理事、難題も我身投げ出しするかぎり聞かぬ訳わけには行かんぞよ。金神時節に勝てぬのもそんなこんながありたから肝腎要、勧進帳、金神これぞ閻魔帳。2024/09/12 11:58:10286.名無しヒーリングEBYKA神幽現の三界の裏に隠れし金神の無念残念三千年この度、時節来たからは怨みつらみを晴らさんと天の御座所(おざしょ)に駆け上り三千世界を建て直す。時節来たりて幕が開く、三千年の序幕なり。人が神なるこの度の三千世界の幕明けは、火の雨降らす大洗霊、岩戸開きのその時は人が神にて現われん。この事シカと申したらシカとわかりし者たちとシカとわからん者たちぞシカと分かれる時期と知れ利他の愛、栄える世界ぞ築かんと泣く泣く踏絵ぞした者と、自己の愛、我こそ救うてもらわんと、平気で踏絵ぞした者がシカと分かれる時なりと、金神シカと申したぞ。天に召されしその方のお名前知らぬと言わせぬぞ。ご召名(しょうめい)、知らぬなりとは言わせぬぞ。キリストの再臨の謎、解くるなり、ほどなく謎ぞ解くるなり。大神様のお出ましを一身賭として食い止めた尊きお方の論功を、切りの主徒(スト)ぞと申すぞよ。ヨハ子ね、ヨハ子ねは黒ネズミ、キリストならば白ネズミ。この謎ほどなく解くるなり、この謎ほどなく解くるなり。気狂いの者に何事説いたとてわからん時節となりたゆえ身支度いたして下されよ。神一厘の別れ道、お覚悟いたして下されよ。これまで大家に住(す)まいして美飾(びしょく)美衣(びい)にてくるまれてノンキ、ノンキの方々は剥ぎ取るものとて多いゆえシカリとお覚悟下されや。地獄の沙汰は金しだい、金神しだいと申すぞよ。金神許さぬ金品も物も住居(すまい)も人さえも通す事無き大峠。まことごころの人々をまず引き上げて建て直し。狂うた世界ぞ建て直し。政治、経済、貿易や種々雑多なる政まつりごと、神信心から衣、食、住、何から何までこの度は一ぺん潰(つぶ)して混ぜ混ぜて一から出直し、やり直し。誠心が中心の芯にシカリと納まりて神の守護ぞ息吹きする光輝くものとして世界まるごと生み直し。その手初めが日本国、東、東と進み出たお東様さまの日本国、世界の中心ど真ん中。皇(すめらみ)の国と申すぞよ。昔々のその昔、言霊(ことたま)さちわう国なりと申し聞かせて来た事は金龍この度現われて金神の世となるおさしずぞ。2024/09/12 12:00:32287.名無しヒーリングEBYKA建て替えの渦ぞ見えたなら、ほどなく渦ぞ見えたなら訪ねてござれと申すぞよ。どこがどうとは申さねど渦ぞ日に日に現われて、世のぶち壊し見えるぞよ、世の建て直しが見えるぞよ。色なり音なり薫香(くんこう)で見え出す頃には気付くぞよ。我も我もと押し駆けて人垣できて来たるなら、そこがそうぞと申すぞよ。一旗上げて金神の守護の出所わかりたら、渦がシカリと見えるぞよ。渦が渦巻き渦となり渦から渦が生まれ出てシカリと物事見える者、これぞ、こうなり、こうなりと疼(うず)く心も渦巻いて渦にあわせて一踊り。グズって渦に乗れんだら損になりやと次々に人押し駆ける金の渦、金剛力の金の渦。身仕度いたして下されや、身仕度いたして下されや。気の違いたる人々に渦の話をいたしても回る方向違うゆえわかる道理はござらぬぞ。これまで来たるは暗の渦、押し寄せ来たりた渦巻きは汚れ水ぞと申すぞよ。水の禍(わざわい)、逃れん為の月の守護ぞと申すぞよ。金神表に出たかぎり真水にいたして押しもどす。汚れ一切許さんぞよ、汚れ一切許さんぞよ。一厘違いは大違い、暗と明では大違い。み魂磨いて下されと申してきたるはこの事ぞ。この道理わかるみ魂となる事ぞ、この道理わかるみ魂となる事ぞ。金神表に出たからは金銀財を降らそうぞ。これまで我慢を重ねたは金神とても同じ事。子供欲しがるあれこれを、やれぬは親の不愍(ふびん)なり。子の不愍知りつつ見つつ我慢した親の不愍も不愍ぞよ。これより天下を分けるゆえ上と下とに別けるゆえ金銀財を降らそうぞ。この大地馳駆し固めし金龍の金剛力はいかほどぞ見せぬわけには納まらぬ。眼(まなこ)、開らきて金神の世直しシカと見とどけて手柄上げなん神の子よ。人は皆、神の子なりて神の宮、中央神が鎮しずまれる尊きお宮ぞ人の身は、眼開きて見よとても道理のわからん人々にこれほどわからん道理無し。道理、道理は文字通り道の理屈であるからに、道を渡れん者達にこんな道理ぞ知るどうり無しとし申さばそのとうり目開(めあ)き、盲(めくら)ぞ別かれゆく。金神表に出たるなら目鼻口さえ開けられず立ちて歩くもおぼつかぬ人々どっと出るゆえに、その時シカリと目を開き大地踏みしめ歩むのぞ。2024/09/12 12:06:44288.名無しヒーリングEBYKA神はこれまで言わなんだ、何が何とて言わなんだ。一厘隠しは神隠し。一厘伏せねば立ちゆかん、これまでの世ぞ立ちゆかん。されど時節ぞ来たからは一厘伏せては立ちゆかん、これからの世ぞ立ちゆかん。ゆえに一厘明かすぞよ、これより一厘明かすぞよ。神信心、無くばこれまで治まらん、これまでの世ぞ治まらん。されどこれより神信心、超えねば世の中治まらん、これからの世ぞ治まらん、ここに一厘秘ひめたぞよ。あらゆる教えは九分九厘、どなたの尊き教えとて一厘隠して九分九厘、一厘隠しはカミ隠し。わしの神さん一番ぞと、どこの信徒も思とるし、それでなければ神信心、成り立つ筋もあるまいぞ、日月(ひつき)、出たりと申すぞよ、最後の日月現われて、全ての日月がわかるぞと皆々様に申すれば、わかりてくる者数知れず。この日、この時、待ちていた、全ての日月はわかりたと言って出る者そこここに現われ出たるぞ、やれ不思議。これまでの日月神示も九分九厘、何が何とてわからずや、なれどおかしやおかしやと一厘伏せて申したら、あんなものぞと思いきや、一厘の蓋(ふた)ぞ開けたれば、これはおかしやおもしろや、やれ、おもしろや、おもしろや。目の開く者ぞ現われん、されどこれにて日が昇る。日月の書(ふみ)にも日が昇り何が何やらわからずに文字見るどころか書さえも手に取る事さえかなわずに足から手から錆の噴く哀れ悲しき人々ぞどっと出るぞと申すぞよ。目開き盲が別かれゆく時節なりとはこの事ぞ。越すに越せない大峠、迫まり来たゆえ申すのぞ。金神前より伏せていた一厘の事を申すのぞ。上と下とのど真ん中、右と左のど真ん中、腹の中心ど真ん中、腹帯(はらおび)締めて下されや。こことこことの真ん中にそれぞれ神が降りるのぞ。人それぞれの真ん中にこの度、神々舞い降りて、人なる肉身に鎮まりて三千世界ぞ建て直す。世の建て替えとぶち潰し同時に起こると申すぞよ。どちらに出るかその沙汰は金神次第と申すぞよ。金神のご沙汰次第と申すぞよ。2024/09/12 12:07:31289.名無しヒーリングEBYKA金神表に出たならば、そこが都と申すぞよ。奇想天外、驚天動地、奇妙奇け烈、摩訶(まか)不思議。摩訶摩訶不思議な事とても、マニマニ、マニィが顕(あらわ)れて一切合財照らすなら、こんな事ぞとわかるぞよ。一切合財わかられて拍子抜けしてつんのめり尻もちつかんで下されや、餅(もち)は臼にて搗(つ)きなされ。餅は杵(きね)にて搗きなされ、キツネツキではいかんぞよ。人の世の中終る頃、狐、狐の狐憑(つ)き、上から下まで霊憑り、その九分九厘が狐ぞと人間様にはわかられぬ。あら、情無や狐憑き、月の守護の時代ゆえ憑きもの有利の時期ゆえに狐、狸やその他ほかの種々雑多なる憑きものが人間世界に踊り出て悪さしてたと申しても、人の学理で固まりた頭で理解不可能ぞ。これこそまさにこりこりに狐(こ)狸(り)固まりた狐狸狐狸の狐狸の霊ぞと申すぞよ。こんな手合いのお相手はもうこりごりぞと申すぞよ。金神表に出たからは、これより人に蟠踞(ばんきょ)した狐狸かたまりが大騒ぎ、上に下にの大騒ぎ、七転八倒するさまが世のあちこちで見えるゆえシカリと見定め下されや、尻餅つかず落ち着いてシカリと見定め下されや。金神光が強いゆえ表の守護となりたなら今までゆるりと落ち着いて蟠踞していた悪霊が住み所無しぞと泡喰いて跳んで火に入る事となり、わかりてくるぞよ、おもしろや、やれ面白や、面白や。悪の根絶(ねだ)やしおもしろや。人の身の頭脳内部のこことここ、ここに狐が住みたなら、やる事なす事狐憑き、キツネアブラゲ好物と申してきたはここの事。こここそ個々の箇々なるぞ。社会人心見わたせば、とても人とは思えない極悪非道ぞ常なりとこれがキツネの常なるぞ。新聞種とはならずとも少女は売春少年非行、果ては暴行殺人と、あら情無や狐憑き、不倫、不倫と狙うとる人も狐の容物(いれもの)ぞ、神をも恐れぬ世の様は神を認めておらぬゆえ、やもうえずとは申しても金神怒髪天を突き、てんつく天突くてんてん点。天着く、天着く、天天天、天の御座所の天辺で火の雨降らすと思い知れ。2024/09/12 12:08:49290.名無しヒーリングEBYKA黒龍、赤龍大騒れ暗の帷(とばり)が落ちるまで、好き放題にさせたるは、次なる世界を産む為の用むきそれぞれありたるを金神密かに知るからぞ。黒い龍とは海の王、次なる世界ぞ産む為の羊水なりぞと申すぞよ。赤い龍とはこの度の世界が産まれる時までの臍の緒なりぞと申すぞよ。この度、時節となり成りて金剛力の龍と成り鳴り鳴りまくり鳴りまくり、悪の親玉九分九厘、九尾の狐も焼くからにお覚悟めされと申すぞよ。ご容赦一切いたさぬぞ、悪は一切灰となり影さえ落せん世といたす。その一切の様なるが人の世界の隅々にいかな形で出ようともこの度だけはやめられぬ、やめるわけにはいかんぞよ。これにて一切お出直し、改心いたさば許すぞよ。白い狐となれたなら金神許して遣(つか)わすぞ。悪の眷族(けんぞく)わかりたか、聞こえぬ事とは言わせぬぞ。金神表に顕れた、たけり轟く金龍の雄叫(おたけ)び聞こえておらぬぞと不埒な戯言(たわごと)、言わさぬぞ。金神ご容赦いたさぬぞ、一切ご容赦いたさぬぞ。一切ご容赦いたさぬぞ。午(うま)は肥(こ)えよが肥えまいが秋には天空跳はね上がる。突如の事ぞと申すぞよ。空(くう)を行く午、行かぬ午、喰うに事欠く午も出る。哀れ、青菜の跳ね上がる前触れなりぞと申すぞよ。萎(しな)だれ朽(く)ちたる青野菜、見るも無残な秋野菜、原因不明、意味不明、行けど果て無き枯野かな、と思いきゃ、眼前突如現われん金銀見まえ違(たが)えたかあっと驚く秋野菜、人々ドンチャカ踊りたる、神の田畑ぞ現われん。景色ぞ一転、目は二点、その身はスッテン転がりて煮ても焼いてもどうしても、どうにもできない岸からは行くに行けずに彼岸花。彼岸の岸に行く舟を見送るしかない人々がどっと出たるは可哀そう、ゆえに延ばしに延ばし来た。世の建て替えとぶち壊し。改心できるはここまでぞ、ここまでなりぞと申すぞよ。この豊作は何事ぞ、この凶作は何事ぞ。吉凶二筋現われて世の建て直しが見えるぞと、ここまでなりぞと申すぞよ。2024/09/12 12:10:06291.名無しヒーリングEBYKA待ちて待たせて待ち侘わびて、それでもせっせっと野良稼ぎ、わかりし人々野良稼ぎ、そこに兎が出て来たる、コロリ、転げし木の根っこ、それが巨木の根っこなり。喰い物粗末にした敵(かたき)、喰い物討(う)つぞと申し出て、親の敵(かたき)は子の敵、金神の仇(あだ)を討つなりと野菜、果物、米に酒、果ては貝から魚までが一つ巨木(きょぼく)に集まりて金神の仇(あだ)を討ちに出る相談あれこれ整いて世に出る事ぞあいなりた。金神の仇は人救い、何が何とて人救い。一人も多くの人々を神の御国に連れ帰り、遊び遊ばせ喜ばし金神無念ぞ晴らすぞとドンチャカ、ドンチャカあれこれが一つ巨木に集まりてドンチャカ、ドンチャカ踊りだす。こんな可愛いものどもが集まる所に金神が行かぬ道理があるまいぞ。福徳神に身を変えて金神シカリと参(まい)るぞよ、ドンチャカ、ドンチャカ参るぞよ。巨木の根っこに金神の顕われ出たるを知りたれば一旗上げてくだしゃんせ、未(ひつじ)に米が当る頃、金銀降らせ、玉降らせシカリと守護ぞいたすぞよ。改心いたすは午の秋、ここまでなりぞと申すぞよ。午の秋ぞと申すぞよ。未が出たなら皮を剥むき敷しき物もの変えると申すぞよ。これまでビシリと敷(し)き詰(つ)めた社殿の筵(むしろ)は焼き祓(はら)い未の皮で紡(つむ)いだる新(さら)なる敷物敷くからに、これまでした事、やりた事、未に皮を生はやす為、やりたる手柄といたすぞよ、二度と無き尊き手柄といたすぞよ。嬉し嬉しやこの度は金龍表に現われて金神の世となりたぞよ。上下、左右に前、後、全て金神構かまうぞよ。金神構わぬ前の世は何が何とてわからずにわからず終いで店終い。金神構いし次の世は何が何とて何事も見透すかし見通とおし見え透すいた水晶世界と申すぞよ。燦(さん)、善世界、常(とこ)立(たち)開く午の葉菜(はな)。上で開いて末で修める、午々(うまうま)の建森(こんじん)の世と成りたぞよ。午(うま)で開いて旨(うま)く治める艮(うしとら)の金神の世となりたぞよ。2024/09/12 12:11:54292.名無しヒーリングEBYKA喰い物の怨みは恐いとあれこれと重ねて申し来たる事、いよよ形と現われん。来たりし秋の恐さかな、あきませんとはこの事ぞ。午(うま)が天空舞うなれば、喰い物の値も跳ね上がり、青菜、根菜、米までが天空高々舞い上がる。こんな物など喰えるかと足蹴にして来たあれこれがこんな者には喰われぬと言い出す時ぞ来たなれば、後のマツリと諦めてお覚悟決めて下されや。先にマツリをされた方、中央、真ん中ど真ん中、シカリとマツリておる者は、これより先の喰い物をドンドコ作りに出やしゃんせ、金神後押あとおしドンドコショ。高々と積み上げたるはゴミの山クズの山ぞと思いきや、なんと前まで食べていた彩(いろど)り豊な食なりが煮ても焼いても喰えぬとは見るも語るも哀れなり。未(ひつじ)に米は大当り、ドンドコできると喜びておむすびこさえてやりたとて、あっと驚き、その米は喰えぬ人には大当り、触(さわ)る事とてかなわずや。同じ米でも大違い、一厘違いの米と米。同じ人でも大違い、一厘違いの人と人。一厘有ると無いのでは別ものなりぞと申すぞよ。秋にはあちらとこちらでは隔(へだ)ての併(へい)ぞ現われて、隔ての線ぞ現われて、目には見えねど現われて、ヘイ、あきまセンとはこの事ぞ。ギリギリ午の秋までと申して来たるその日まで、改心いたしてくだしゃんせ。いずれ天空舞うなどと知らねど、そこここ現われた、物事識しりたる方々を一切合財引き連れて、金神天地に橋を架け、神の御国に連れ帰る。その日来るまで一苦労、もっ後(あと)一苦労と申すぞよ。今が秋ぞと申すまで善悪正邪はあれこれとまぜまぜづくめの混ぜずくし、クソミソ一緒に見えたとて金神シカリと見えとるで最後の我慢ぞ一苦労。その日、その秋来るまでは、わしはこれぞと思う事、何が何とてやりてくれ。金神表に出たからは無理事やめて下されや、無理はキッパリ諦めて、心が素直にできる事、ふっと浮びたあれこれも無理なくいたして下しゃんせ。金神それぞれお手引いて赴(おもむ)く方に連れ行くぞ。利他がお好きなお人なら利他の赴く方向へ、自己のお好きなお人なら自己の赴く方向へ、それぞれ無理なくお心の赴く方へと誘(いざ)なわん。交(ま)ぜ混(ま)ぜづくめも二方向、どちらがどうとは言わんから赴く方へ二方向、どなたもどうこう言わんからお好き方へと行かしゃんせ。通うとりゃんせぞよ、通うりゃんせ、天神様の細道をお好きな方へと通うりゃんせ。2024/09/12 12:13:28293.名無しヒーリングEBYKA行きはよいよい通うりゃんせ、お好きな方へと通うりゃんせ。クルリ、回りて蓋(ふた)、開きて舞台スクリと入れ替えて帰り道、返り道ぞと申したら、今が秋ぞと申したら、これより先の御用無き、者は金神通うさぬと上と下とに真っ二つ。帰りは恐いと申すぞよ。その秋来たならアキマ線、併開きま線ぞと申すぞよ。金神、キッパリ申すぞよ、へい、あきませんぞと申すぞよ。一厘無しではあきません、心の眼(まなこ)のあき盲(めくら)、あきませんぞと申すぞよ。蓋ぞ開いたらあきません、あきま線ぞと来(こ)れま線。金神、この線、付けるぞよ、キッパリこの線付けるぞよ。金神、あ、キッパリ付けるぞよ。さらりさらりと出たる事、無理なくさらさら出たる事、これこそなりぞと申すぞよ。無理なく出たるは神の守護、神の仕業しわざと申すぞよ。金神表に出た上は、皆々様のお手引いて安全地帯に引き連れてお連れいたすと申すぞよ。無理なくさらさら行く方に無理せず歩いて下しゃんせ、無理事やるは逆方向、潰す道筋行く事ぞ。栄えのお道はさらさらと小川の流れと申すぞよ。行路如流水、ご無理なし。今は善悪入り乱れ交まぜ混まぜづくめのお道ゆえ、心配無しは無理なれど、神の御役に立つ者を金神守護をいたすのは、わかりきたる事ゆえに、無理事一切ござらぬぞ。無理苦理通してやり通し、うっとうしきは悪の気ぞ。神のおこころ、心としすらすらやる事、出来る事さらりさらりとする事ぞ。無理が出たならやめなされ、素直な心でやれる事スラスラ心は素直ぞよ、サラサラ心は新さらなるぞ。人様救うお心が芯にご慎座いたしたら後はなんなりいたすぞよ、神にお任せ下されよ。逆の効果ぞ狙えぞと申うされたるはこの事ぞ、救うは神の務めなり、救われるお人となるは世の務め、尊き人の務めなり、救いは救われ救われる。人の世スキリとせんうちは、神々様とて救われぬ。救われたお人となりて下されや、この事、わかりて下されや。ここさえシカリとわかりたら、人が神さん焦こがるるよりも神は人さん焦がれとる、その幾倍も幾倍も神は人さん焦がれとる、その事わかりてこられるぞ、その事わかりて下されよ。無理の無いお人となりて下されよ、人らしき、お人となりて下されよ。2024/09/12 12:19:29294.名無しヒーリングEBYKAミロクの御世となりたれば、人はこの世の神となりやりたい放題し放題、ほどなく悪罪、悪因縁、スッカリ無くしてお出直し、人はこの世の神となり人間世界ぞお出直し。今、この時点で申してもわかれと申すは無理せんばん、無理は一切申せんばん。無理苦理づくしの世の中で無理なく行けると言う事は変に思うも無理ないが無理があるから変なりと知ってしまえば無理もなく無理にわからす事もない。神は順序と型なりと申し聞かせた事なりと無理なくわかりてくれたなら、無理事一切無うなるぞ。霊体一致は霊が先、神が先ぞと申すぞよ。神の世界に無いものが人なる世界に出るが無理、神の世界に現われて人間世界に現われん。これよりこれで参るぞよ、霊ぞ主体で体は従。霊主体従、無理なしとこの道理さえわかりたら、神の世界に無いものを人間あれこれ思案して、こねくりたおしてやりたとて霊の世界に無いものはこの度、一切消するなり。この度は神の世界は清と出て一切合財整いて人の世界に移り込む。おー恐ろしや、恐ろしや、やれ恐ろしやお恐ろしや。神の世界に無いものが、ワンサカ、ワンサカ山となり積りしさまぞ恐ろしや。濁だくに清せいぞ移写すらば、いかにて約り合いとる事ぞ。おー恐ろしや、恐ろしや。無理苦理捏こねて築きたる、人の世界ぞ無理の山。無理苦理一切無うなりた、神の世界ぞ移り込む。どういう事ぞとあいなるか、おー恐ろしや恐ろしや、恐ろしがるなと申しても、それぞ無理ぞと申すもの、おお、それこそが無理なるぞ。無理、無理、無理ぞ、無理なるぞ。2024/09/12 12:21:00295.名無しヒーリングEBYKAあわ善よくば、この橋渡れる時なりと、安心せんで下されや、泡あわしか見えぬお方には、阿波あわの鳴戸ぞ見えたなら、水の泡ぞと申すぞよ。哀れ哀れぞ、いと哀れ、泡ぞ弾はじけていと哀れ、あわよ、あわよと泡喰いて泡は消え去る事となり、天の橋立て見ゆるぞよ。この橋渡るか、渡れぬか、神が決めると申すぞよ。金神の沙汰と申すぞよ。こうならば、さらりさらりと行かぬ事、やらぬが良いぞと申すぞよ。神の世界となりたなら霊体一致は霊が先、神が先ぞと申すぞよ。神がそこまで行かぬうち人はそこまで行けぬぞよ。この事、わかりて下されや、重々じゅうじゅう、わかりて下されや、嬉しき事のみ楽にして神徳積めると申すのぞ、取り越し、先越し、無理せずにゆったり構かまえ下されや、人なる肉身に慎まりた、神が順々渡るゆえ、いやでもその身は追いて来る。神の御国に連れ帰る一本橋ぞ渡るのぞ。その橋立ての鼻先に閻魔がドンと陣を取り、一厘持つ者、持たぬ者、白か黒かを分けるのぞ。おぬしは絶対許さんぞよ、悪因縁のかたまりぞよ、見るも無惨な魂なれど一厘有るで許さんぞよ何が何とてどうしても神の御国に連れ行くと閻魔が申さば大丈夫。悪業、悪罪、悪因縁、あっと言う間に水の泡。あわや、あわやと大慌て、慌てふためく目眩めくるめく、神のお慈悲のありがたさ。おぬしに言う事ござんせん、どうぞお好きにされたしと閻魔が匙さじを投げぬようシカリと一厘掴むのぞ。この一厘が別れ道、何が何とて分れ道。一厘違いは大違い、一厘違いは大違い。山が見えたら大峠、山が見えたら上下に分れ行くこそ大峠、未練、残念、ヤマヤマなれど、山が見えたら大峠、宝の山でも大峠。遥はるか下界のそこここに業火燃ゆると申すぞよ。哀れ人の世燃え尽くす霊火なりぞと申すぞよ。神徳積みて救われし、神有り思想の人々の出番はここぞと申すぞよ。ここぞ、出番と申すぞよ、待ってましたと申すぞよ。2024/09/12 12:22:03296.名無しヒーリングEBYKA神はハイカラ申すぞよ、ポールシフトと申す事、地軸の異変と申す事、人なる肉身に起こるぞと、この度、初めて明かすぞよ。上から下まで一直線、人の身の内一直線、ポールシフトとあいなりて、上に行く者、落ちる者、この時来たれば誰なりと、その目でシカリとわかるぞよ。神徳積みて救われし人の助けが無かりたらこの大峠は越えれぬと世間の人々気が付いて、そこここ押し駆け列をなし順々助けを請こう事ぞ。シカリといたして下されよ、火の禍わざわいの恐ろしさ、凄すごさ惨むごさは人々の憶断おくそく遥か越えた事、神の予想も越えた事、シカリといたして下されよ、この時、来たれば何とてもシカリといたして下されよ。国の頭かしらと申された、お偉いお方が申うされた。日本は神の国なりと、それを聞いたる取り巻きは、非難ゴウゴウ野次ゴウゴウ、袋叩きにした上に、詫びろ詫びろと大騒ぎ、神無し思想は大騒ぎ。外より外より知ると知れ、外なる国の外国人、日の本、日本のご威光をまざまざ知ると思い知れ。日本、日の本、神国なりとワンサカ、ワンサカ。押し駆けておろがみ、ひれ伏す事となり、お東ひがし様にぬかづいて、そのご神徳、我が国の我が人民にも下されと請い願う時来たるぞよ。その日、その時来たるなら、お偉い方々どうなさる、神無し思想のお偉方、どうなさられるおつもりぞ。いやがおうでも神有るを知らねば峠は越えれぬと無神思想の方々も肝に命じて下されよ。唯神思想の方々の立分け順次終られて、世にあっ晴れと出たる時世の大峠ぞ越したくば、その方々の、そのお手にシカリとお縋りする以外、術すべ無き事ぞと明すぞよ。金神シカリと明すぞよ、この度シカリと明かすぞよ。上下二段と申すぞよ、三段二道はシャカの慈悲、地蔵の慈悲ぞと申すぞよ。地蔵入滅したるゆえ地底の蔵ぞ開くと知れ。中途半端の中の段、無くなりたぞと申すぞよ。神を知るやら知らぬやら、あちぞと言わば、あちに行き、こちぞと言わばこちに来る、なまこに手足ぞ出たような、コンニャクダマぞ用は無し。中心神の息吹きする兵つわもの集めて出るかぎり、世の建て替えとぶち壊し中途半端で済むまいぞ。わかれぬ者にことさらにわかりてくれとは申さぬど、一人も多くの人々をこの大峠ぞ越さそうと、裏から小出しにしたなれど、出せば出すほど見えぬとは、あら情無や情無や、神は心底情無や。2024/09/12 12:23:42297.名無しヒーリングEBYKAお偉い方があれこれと申す表の言葉しか、聞く耳持たぬか、きくらげは、お偉いお方の裏、表、その玉ぎょく眼がんには映らめか、裏の裏こそ表なり、お偉いお方はエライさん、エライ仕事をしとるのに、お口上手のカズノコは、そんな事しか申せぬか。こんな場所から逃げなされ、こんな場所から逃げなされ、哀れなお声ぞ聞こえぬか。閻魔、地蔵は表裏、表返って翻る。地蔵がその身翻し天輪菩薩と現われて光明如来となりたれば上下二段と翻り、何が何とてわからずに何もわからず目の眩む、人々どっと出たるから閻魔はこの事目を伏せて、タンマ、タンマとしとるのぞ、この世のタンマとしとるのぞ。受ける、受けんは別にして神もジョークは申すぞよ。恐ろしき事はできるだけ、なるだけ言わんでいたなれど、火の禍わざわいが人の世に、どんな形で出るのぞと、知りておかねばいかん時機、来たゆえ端々はしばし申すぞよ。行間お読みて下されよ、行間、お読みて下されよ。神々様とて逃れえぬ火の禍の恐ろしさ。行間お読みて下されよ。金神も皆々様にお覚悟をめされと表に出たかぎり金神とてもその覚悟、決めねばならぬと申すほどそのもの凄きことと申すぞよ。日じつ、月げつ、地ち、一直線に結ばれん、その日、その時天空に巨大な黒ぞ顕われん。大神おおがみ様さまこと主すの神の神聖極まるご正体。元極体主王大御神むとふみくらいぬしおおかみのご出御座しゅつぎょ、黒ぞと申すぞよ。真っ黒、黒の大太陽、人なる世界の天空に顕われ出たりたその時は畏かしこみ慎つつしみ拝おろがめよ。大地も黒ぞと申すぞよ、上下黒の挟はさみ撃うち、逃げ失せる事はできんぞよ、これまで人類汚したる、海、山、大地、空とても、黒なる世界の中に入り大洗霊を仰ぐのぞ。丁度、これまできた世界、月の守護にて三千年、水と土とをこねくりて細工、彩色整えて、形にいたして九分九厘、できたる世界をこの度の釜かま入いれの時ぞ来たるぞよ。磁器、でける時期、直じき来ると金神直々じきじき申すぞよ。土とは菌きんのかたまりぞ、何億何兆住む菌で、大地成立しとる事、人の学理も知りた事。人の肉身も土にして口の中にも菌が住み腹の中にも菌が住む。菌が人の身支えたる、その事誰とてわかるとて、この菌なるの大変化、この度起きんと申すぞよ。真っ黒太陽出たならば、真っ黒大地と大変化。人なる内の仰山ぎょうさんの菌もこれにて大変化、これまで人々汚したる海山、大地空に住む仰山の菌も大変化、元の大地に戻さんと、汚濁、汚物を喰いに出る。発酵するもの、腐るもの、発光するもの、朽ちるもの、上に行くもの、落ちるもの、飛んだり跳ねたりいたすもの、地べたガサゴリいたすもの、二筋できんと申すぞよ。発酵、腐乱ぞ分れゆく、二筋道ぞと申すぞよ。2024/09/12 12:25:06298.名無しヒーリングEBYKA人の手足に仰山のプツプツ噴き出てきたなれば、その時なりぞと申すぞよ。口やら書ふみではこの程度、ここまでなりぞと申すぞよ。到底、口やら書にては表わす事とてできんから、口やら書ではこの程度、程度次第にわかるぞよ。聖母マリアがその眼まなこ、お血の涙を流された、その時機なりぞと申すぞよ。行間のお読みて下されよ、呉々も行間お読みて下されよ。金神幾度も筆先で世の有様の変わる事、順々知らしてきたなれど、この度出たる書ふみこそは、金神艮とどめの書ふみなりと申しておく事忘れるな。これより先は新世界、銘々己々筆をとり、神の息吹きぞ元とした千差万別それぞれの新なる書が出るゆえに金神直々出す書はこれぞ艮とどめと申すぞよ。親神おやがみ天理てんりの書なるも大本おおもとなるの書ふみなるも日月ひつきと申した書なるも全て金神人の世の蔭から守護した文ふみゆえに一厘隠しは神隠し、まとまる事とてなかりたが一厘明かして出す文ぞ、艮とどめにいたすと申すぞよ。三千世界、紅白の梅咲き揃うと言うた事、いよよ参ると申すぞよ、人の世の隅々までも紅白の梅咲き揃うぞその様がいよよ危難と迫るぞよ。危難ぞ、気難と迫るぞよ。白き梅、その真白さぞ清らかさ謹厳実直、律儀なる月の精なる働きを写した梅ぞと申すぞよ。雪の梅ぞと申すぞよ、白梅は月の精ぞと申すぞよ。白一面にぞ咲き誇る、雪のお庭は輪止り、雪に雪ではゆきづまり、雪に白では厘止り。九割九分九厘ぞ、どうすることとてできぬまま、一厘隠しの梅の庭、一輪隠しの梅の庭。一厘隠しは神隠し、時節待てやと申しても、にっちもさっちもいかぬまま、雪は積りてくるばかり、はてくやしきは梅の庭、さもくやしき南天の赤さなりやと思いきや難点なりやと思いきや、雪霜被かぶりし南天が難転じんと翻り、難点一輪花と咲きまかり出たるや梅の庭。炒いり豆まめが一輪開いたその梅は紅くれない、臨りんとまかりでて一厘出たりた梅の庭、後あとから後から難点が紅輪こうりんと出る嬉しさや、なんてんことぞと驚けど、嬉し嬉しのその様は、時節待てやと申うされた、時節、これぞと申すぞよ。紅梅はお日様昇る、その時を明かす梅ぞと申すぞよ、紅梅は日の精なりやと申すぞよ。日の精なりや火素なりと月の精なる水素とが密合調和の時なりと、ホーホケキョウと鶯うぐいすが法華ほっけの功徳も口々に黎明なりやとホー法華経、東に日の出とホー法華経。紅梅は日の精いでます芳かぐわしさ、光々こうこうなりやと申すぞよ、香々こうこうなりやと申すぞよ。時みちて閻魔堂にも春風の戦そよぐ嬉しさ恐ろしさ、木戸が開いたるその時節、閻魔と出たりた大王は、金神なりぞと申すぞよ、艮うしとらの神の出座と申すぞよ。2024/09/12 12:27:14299.名無しヒーリングEBYKA牛に角つの有り虎に無し、虎に牙有り牛に無し。角と牙とを合せ持つ金龍なりぞと申すぞよ。おお、こざかしや、こざかしや。キリキリ舞いしてござるのが閻魔の眼に写るなり。浄玻璃の鏡につらつら写るなり、その邪よこしまなるあれこれが、この後におよびて、うつけ事聞いとる暇ぞあるまいに、次から次に沙汰下し早くスキリとせんことにゃ本筋遅れるばかりなり。もうこれ以上は無理なるぞ、待ちて待たせて、待ち侘びた、世の建て替えと建て直し、遅らす訳にはいかんぞよ。紅白の梅ぞ一度にそこここに開く時節となりたなら人の世包む空気なる、目にぞ見えずに万人を守護して参りた水の精、空気なりやと申すもの、それぞ一変すると知れ。やれ、恐ろし気は空気界、空気、気難と迫るぞよ、紅白のその間をば隔へだてたる、金の川こそ金龍神。光輪こうりん模様もようの金の川、金龍昇天する際の金剛力ぞと申すぞよ、金龍神、現れましにけると申すぞよ。水ぞ逆さに登るぞと申しきたるはこの時ぞ。火素と水素が一致して主スの形と成りた時、幽界なりぞと申し来た、天地間なる空気界、一変するぞと申すぞよ、金龍出たりと申すぞよ。空は○マルにてクウなれど、キ・が中央、ど真ん中、融合いたすと申すぞよ。人の世包む○クウと・キが次々融合一致する、この一瞬の大気難、ほどなく参ると申すぞよ。空○クウ、気・キ、空気クウキの大危難、危難気難の大変化。空気吸えるか、吸えぬのか、己々、神がこの度は選択いたすと申すぞよ、魂の洗濯できたか、どうなのか、選択いたすと申すぞよ。裁きの庭とはこの時ぞ、三千世界ぞ梅の庭、一度に開くと申す事、この事なりぞと申すぞよ。神の許しの無い者は、息する事とて叶わずに、目鼻口とて開けれずに足腰立たぬと申すぞよ。「恐怖時代」と申された、重ね重ねて申された、その恐ろしき、その時節、いよよ来たると申すぞよ。紅白の梅ぞそこここ咲くならば人によりてはその空気、その霊気なる、そのクウ、キ。毒ガスなりぞと申すぞよ。改心いたして下されよ。改心いたして下されよ。神がここまで筆に出す、いよいよの時となりたぞよ。今までした事、やりた事、良いや悪いや思うより、戒心いたして下されよ。紅一輪べにいちりんは悪の花、悪に隠れし神一厘、これまで悪ぞと説いてきた、悪ぞ悪ぞと説いてきた、紅一輪ぞ悪の花。この一厘のわかる人、わからぬ人ぞと出て来るが、そんなとこまで行けぬ人、到底行けぬそれ以前、箸にも棒にも楊枝にも掛からん者ぞ次々に、丘に上がりた河童かと、はたまた金魚が鮒ふなに鯉こい、パクパク口くちを開けたまま、地べたバタバタ這はう様を、見たら何より改心ぞ、わからん人とて改心ぞ。戒心なくばわからぬぞ。改心するより他無いと何より金神申すぞよ、戎心なりぞと申すぞよ、回心なりぞと申すぞよ。回心なりぞと申すぞよ。2024/09/12 12:29:02300.名無しヒーリングEBYKA叱りて分れる事ならば、きつく叱りてやるなれど、説いて分れる事ならば、つらつら説いてやるなれど、この事だけはどうしても、押しても引いても揺すりても、わかれる道理と違うから、ここ一厘は人任せ、人間任せと申すぞよ。この事わかれる方々が出る程、道は別れ道、分れと申せど別れ道、わかれる人々増えたならわからん人々増えるぞと、道は二手に別れると、金神言う事、わかれるか。理屈にて、わかる、わからん別にして、神が有るやら、有らぬやら、これまで続いた無駄話、この一厘にもケリの付く、分れ道ぞと申すぞよ。経たてと緯よことが結ばれん、形を字にして十の字の、その真ん中のど真ん中、ここの話のわかられる、お人と成りて下されや、まことごころが芯に有る、お人となりて下されや。経と緯との結び目は経から見てもここにして、緯から見てもここにして、どちらもここしかごさんせん。こことこことの結び目が、こころなりやと申したら、まことごころと申したら、神の心のわかられる人達、わからん人達が二手にお別れする時ぞ。ここで一断ちいたすぞよ。神から見ればこの話、わかれ話と申すぞよ。ここの話のわかられぬ者に御用は務まらん、ここらでここにケリ付けて出直す時ぞとなりたので、こことこことのど真ん中、心の事にちと触れて、どちらも心を残さずに、心残りはいたさずに、わかれ話をいたすぞよ。一厘は人間任せと申すぞよ、神は人間創造つくする時、あれこれ苦心したなれど、それはどうこう言わんから、恩着せがましく言わんから、分りてほしいは唯ただ一厘、こころ一厘、ここ一厘、ここの一厘知る事ぞ。人が言おうが言うまいが、これしか無いぞと思うもの、人がやろうがやるまいが、わしはこれぞと思うもの、芯から湧くもの出づるもの、溢れ溢れる真のもの、その出所が心ぞよ。経と緯、こことこことの結び目の芯から出いずる、真心まごころに神の住む人、住めぬ人、別れ行くぞと申すぞよ、分れ行くぞと申すぞよ。旨むねに一厘有る無しで分れ行くぞと申すぞよ。中途半端は無くなりて二筋できると思すぞよ。この度だけは何とても、どうでもこうでも二筋の道になるぞと申すぞよ。まこと、まこと、もこことここ。中心真ん中、ど真ん中、まことごころと申すもの。全て解決いたすもの、まこと、まことのここと、ここ、神が宿るか宿らぬか、この事わかりて下されよ、この事わかりて下されよ。四角四面で真っ直ぐな、カチリ、キチリも誠なら人良し人良し、お人よし、まず人様ぞと考える、柔やわい誠も誠ぞよ。別々なれば役立たず、どちらの誠も野垂れ死に。一本通りて柔らかい誠心に神が住み、やがて栄えの道となり、いや増、栄えの道となる。一本通らずガチガチの誠は誠と言えぬから、神々様は目も呉れず見向きもせぬからさようなら。さような事なら、さようなら、わからんままにてさようなら、何が何とてわからずにわからんままにてさようなら。2024/09/12 12:30:09301.名無しヒーリングEBYKA我身可愛い一念で、まこと、まこととほざいても神から見ればその誠、困った誠と申すぞよ。困らん誠は独こ楽ま回まわし、中心心棒ドンとすえ、あれこれしたとて心棒は上下一途いちずに貫つらぬいて、何が何とて譲ゆずらねど心棒奥にひた隠し、へらへら人良し、お人良し、心棒強いお人良し、辛抱強いお人良し。人にはシンボウ第一で金と言う字となるとやら。どこぞのお方が申された、その言葉こそ金神の金なる世のお指図と金神この度申すぞよ。誠なるかな、誠かな、経緯誠結ばれて、二つ一つに融け合うた誠心となるならば鐘が鳴るなり、金が成る。金神行くとこ、出る所、鐘鳴りやまずと申すぞよ。金成り山積みと申すぞよ。新時代、来たりて御用に使わんと、仕度させたるあれこれがお蔵開いて出て来ても、びっくりせんで下されや。跳んだあれこれ出て来ても、びっくりせんで下されや。跳んだ事とて思う程、跳んで飛んで飛び回る、羽の生えたる人間や角の生えたる人の出る、跳んだ事とて起こりても腰抜かさんで下されや。こことこことのこの話、忘れずお仕度下されや、地べたガサゴソ這いまわる、惨い有様見えたとて心残りはいたさずに、天の時ぞと諦めて、キッパリその事諦めて、飛んだり跳ねたりしなされや。こことこことがあるのなら、まことごころが有るのなら、どれ程贅沢いたしても金神文句は言わんから、飛んだり跳ねたりしなされや。弥勒みろくの御世なる金神の世の隅々のあちこちで、飛んだり跳ねたりしなされや。こことこことが有るのなら、誠心が有るのなら、やりたい放題し放題、ご遠慮一切いらんぞよ、ご遠慮一切いらんぞよ。この大地馳駆し固めし親神おやがみのこれまで隠れし賤しずの家は金銀財の溢れ出る鐘の鳴る家と早変り。人の立分け終る頃、大地二手に張り裂けん、時、近づきて気付けども、足腰立たず目も見えず、どちが前やら後やら、阿鼻叫喚に耳塞ぎ、振り向かぬこそ大峠、地べたガサゴソ這う様を振り向かぬこそ大峠、今は暗、善悪正邪は入り乱れ混ぜ混ぜづくめの大晦日、三千年の大晦日。晦日暗ぞと申す事、鐘ぞ鳴るぞと申す事、シカリとわかりて下されよ、百と八つの梵鐘の訳わかる時来たりなば、目睫の寸前、真近と申すぞよ。神の情なさけのわかる人、何もわからずこれまでの煩悩共々滅ぶ者、誰が目にとてわかる時、目睫なりぞと申すぞよ。この暗抜ければ往環道おうかんどう、上下一本貫いた、世界、一列いちれつ、一平ひとたいら、何とて見え透くミロクの世。世の正月ぞと申すぞよ、代の正月ぞと申すぞよ。元旦や昨日の鬼が礼に来る。金神に豆をぶつけて栄えたる天あまの邪じゃ鬼くとて礼に来る、昔の鬼が礼に来る、今の鬼とて礼に出る。その時鬼族無くなりて世界国家といたすぞよ。この事わかりて下されよ、重々わかりて下されよ。2024/09/12 12:31:41302.名無しヒーリングEBYKA鬼の金棒捨てなされ、心に金棒握りしめ、にらみきかしておるうちは、いつまでたてどもわかられぬ、わからぬ棒にわかられぬ。いままでやりきたあれこれが、根棒みたく固まりて、心の棒となりたるを知らぬ存ぜぬわかられぬ。悪鬼と身を変えやりた事、羅刹らせつとなりてやりた事。折角尊きお手柄が、金棒握りておるうちは、何が何とてわからずに、悪鬼羅刹の姿から解脱できぬと申すぞよ。鬼の頭かしらをかたどりた、屋根に頂く鬼瓦、あのもの凄きつらがまえ、月の守護ぞと申すぞよ。これまで出たりた神信心、どことも月の守護にて上より睨にらむは月の神、鬼瓦なりぞと申すぞよ。この樹登らば鬼女となるべし夕もみじ。神信心をしたならば鬼女となるぞと申すぞよ、これまで出たる神信心、どことも鬼女ぞと申すぞよ。胎たい臓界ぞうかいと申された三千年のこれまでは、鬼女の身内、腹の内、お復のややこを守らんと、鬼女と身を変え突き進む、哀れ悲しき鬼女なりが神信心ぞと申すぞよ、那美なみの身内と申と申すぞよ。子供可愛い一念が、女の業ぞと申す事、宿業なりぞと思す事、世の誰なりとわかるとて、これまで来たる宗教が、それぞれ業で戦いて競うて来たぞと申す事、知る時なりぞと申すぞよ。身の内孕はらみし次世代をりっぱに世に出し送り出しその日その時来るまでは、何が何とてふんばりて鬼が邪にとてならいでか、この事おわかり下されよ、この事おわかり下されよ。神信心のお方達、ここをわかりて下されよ。今までした事、やりた事、鬼女の御用と申す事、どれ程尊き教えとて、一厘隠してやるかぎり、拡め拡めてやるほどに、真の救いはできぬから、ツキ、ツキ進みて突き進み振り向く時ぞ来たならばひっくり返ると申すぞよ。今までした事やりた事、良いや悪いやそれ以前、あきれかえると申すぞよ。神信心の方々や宗教界が真っ二つ、別れ別れとなる事のその根本はここなりと金神初めて明かすぞよ。羊水、臓盤、お臍の緒、どれとて大事な腹の内。子に栄養ぞ与えんと、御自身喰らうもこれ大事。何より御自身大事ぞと喰らい喰らいて突き進む、自己愛大事と申すぞよ。自己愛は悪の権化であるなれど、ここのわからぬ利他愛に真の利他愛わかられぬ。次世代生まれた暁は、それまで大事なあれこれも不浄なりぞと申されて、これより用無し役目無し。鬼女のお面も御用済み、お面取れるか取られぬか、御面な去れぞと申せるか、御免なされぞと申せるか天下御免の別れ道、なに程、どれ程あれこれが隅々充分できたとて、鬼女の役目はここ止り、ここ一厘にて厘止り、ここ一厘にて輪止り。あとは子達があれこれをそれぞれ銘々楽しむを、高いとこから眺めては楽しみたいが親心、親神なりぞと申す事、重々わかりて下されや。2024/09/12 12:34:55303.名無しヒーリングEBYKA陰気暮らしは月の守護、鬼瓦なりぞと申すぞよ。陽気暮らしの世となりて月様高みに行かれたら、お多福飾りて下しゃんせ。世界一列皆我子、鬼の頭と成り果てて、心痛めて身を痛め、取りい出したる我子なら分けも隔てもいたさぬと月様申して下さるぞ。神信心の方々はどうぞお覚悟下されや。鐘の鳴る時来たなれば、上に行くもの、落ちるもの、双方お覚悟されたしと、金神覚悟で申すぞよ。金神とてもこの度は、覚悟の上で申すぞよ。覚悟、覚悟と申すぞよ。信心個々ぞと言うたぞよ、銘々一人は一の種。尊き尊き一の種、人が飯喰い用を足し、それにてその身立ち行くか、立ち行く道理ぞあるまいに、人のお徳にしがみつきどこどこまでも参ります。小判鮫でもあるまいに、そんな信心増すばかり、後から後から沸いて出る。己れの救済乞い願い何が何とてする者が千人万人沸いたとて楽園世界ぞ出来まいに、わしは人様救いたい、何が何とて救いたい、そういう者ぞおるだけで、そこは極楽突き抜けた天国なりぞと申すぞよ。峠、峠、大峠、近み来たのが見えんかな、見えぬ者にはもう見えぬ、捨て去る古着、いちいち洗い干して乾かす者は無い、何が何とてわからずに、消えて行くのぞ、いと哀れ。準備期間は1ヶ年、午年迎えて1ヶ年。それより早よても遅うてもこの救済はまる潰れ。金神この事三千年、大神様は幾万年。仕組みの準備をされたゆえ潰す訳には参らじぞ。午うま年、青菜跳ね上がり未ひつじに米は当りだす、それが合図の時なりと明あけの烏からすが鳴いたれば辛酉かのととりまであとわずか、飛んで火に入る夏虫とミロクの民は真っ二つ、きっちり、すっきり立分れ、彼岸の岸ぞ舟が行く。これよりは電光石火で参るぞよ、神の裁きに待った無し、目にも止らぬ早技で、善、悪、正、邪ぞ別けに出る。一目瞭然、千里眼、見抜き見透し、まるわかり。邪心よこしまごころの人間は唯ただの一目で判わかるぞよ。中心なりぞと申すぞよ、中心なりぞと申すぞよ。百花爛漫咲き誇るキンピカピカのお人とて、悪業三昧垢塗あかまみれババチイ、ババチイお人ととて、神の目で見りゃ同じ事、双方まったく同じ事。なぜに、いかにてその様は、さような姿となられたか、一目見た時わからいで、判らんような事なれば、神ぞと申して偉そうに人様裁ける訳ぞ無し。閻えん魔ま、焔摩 えんまは千里眼、この世の閻魔は千里眼。神々様とてよく見えぬ、人に宿りし一厘ぞ、手に取る如くに判わかるゆえ、この世の閻魔と申すぞよ。月の時代の終る頃、月下美人ぞ咲くと知れ。この世の閻魔と出たるなら月下美人か不美人か、人それぞれぞと申すぞよ。2024/09/12 12:37:12304.名無しヒーリングEBYKA金神閻魔の長なれど、この世の閻魔は恐いぞよ。この世の悪罪、悪業は全て見透し見抜くから、この世の閻魔と申すぞよ。ここ一厘は情なさけぞよ、こころ一厘情なさけぞよ。情無ければこの閻魔、なにほどあれこれできたとて情無き事する者に、一切情かけぬぞよ、情無きほどかけぬぞよ。ここをわかりて下されよ、こころわかりて下されよ。人の身のこことこことが結ばれる、ここが情の出所ぞ、ここに情が無いなれば情無いとはこの事ぞ神のお情わかられる、お人となりて下されや。無理難題のその頃は肉身の情ぞ振り捨てて、たとえ火の中、水の中、悲願成就のその日まで、お情無用で参り来た。月、月、ツキにて突き進む、情は悪ぞと説いて来た、子年ねどしまでお情無用の御時世ぞ。善悪正邪は入り乱れ混ぜ混ぜづくめの月の下。どうぞ凍こごえて下さるな、どうぞ凍えて下さるな。月は皓々照らせども、心は荒すさんでいくばかり、情凍えていくばかり。日月ひつきなりぞと申すぞよ、これより時節入れ替り、日月なりぞと申すぞよ。日月一つに結ばれん、ここ一厘ぞ情なり、明めいの時代となりたれば充分御用に使わんと、腐らんように雪霜をかけて被せて隠し来た、悪一厘は情なりここ一厘は情なさけなり。ここ一厘シカリと掴みて下されや、シカリと掴みて下されや。情無き閻魔が情に目が眩みトンマなエンマと見える程、閻魔の眼ぞ曇らせる、お人となりて下されや、歓喜に裁きの無い如く、情にお裁きござらぬぞ、今までした事、やりた事、良いや悪いや思うより、これまでやりきた様々の奥に脈打つ神の愛お情わかりて下されや。神のお情わかる人、わかる心のお人なら、どちらが神ぞと思う程、りっぱな御用に立てるのぞ、神のご守護をするような、たいした御用に立てるのぞ、この事隠して言わなんだ、ここは金神情ぞとこの度初めて申すのぞ。わあわあ、閻魔が取り乱し、情無い事、情無い。閻魔の眼ぞ曇らせる、お人となりて下されよ。月下美人か、不美人か、月下美人か不美人か。泣かぬ閻魔ぞ泣いたなら、利他の情と申すぞよ。自己の情でこの閻魔、泣きも笑いもいたさぬと、金神情で申すぞよ、情、情と申すぞよ。悪ぞ善、善ぞ悪、悪ぞ善ぞと申すぞよ。悪無いなれは善なりといくらえばりて申しても、証明でけぬと申すぞよ。善悪正邪ぞ練ねり混ぜて捏こねて捏ねて捏ねたおし、スパリと解決いたすぞよ、桃の実出るぞと申すぞよ、桃の実の玉出たりなば全て決着いたすぞよ。2024/09/12 12:38:03305.名無しヒーリングEBYKA筆先ここまで出たるなら、み魂次第と申すぞよ。もうこれ以上は銘々の感性次第と申すぞよ。難しい事言う神と、わからん事ぞ言う神と、眉背けんで下されや、これまでした事、やりた事、善や悪やとこだわりてその先行けん事ならば残念無念と申すぞよ。神のお心こころとす、おこころ貰もろろうて下されや、他ほかはなんにもいらんから、お心貰ろうて下されや、それさえシカリと貰うたら、その他たはあとから着いて来る、いくらいらんと申しても、あとから、あとから着いて来る、なんぼなりとも着いて来る。逃げても逃げても着いて来る。こころ、こころぞ、心ぞよ、まことごころと申すぞよ、誠心と申すぞよ。白紙になりて下されや、桃の実の玉出るまでに、白紙となりて下されや。今までやりきた様々は全て夢ぞと申すぞよ。理想世界ぞ生む為の悪夢なりぞと申すぞよ。寝る子は育つと申すぞよ、練る子は育つと申すぞよ。練って練って練り上げて二つが一つと成り成りて桃の実出動したなれば、夢から醒めると申すぞよ。雲散うんさん霧消むしょうと申すぞよ、雲散夢消と申すぞよ。温ぬくめる事しか能の無いお日様なりぞと申す方。冷やすしか無いお月様、どちらの主あるじも不完全。貴き方とて不完全、一厘欠けては不完全。無限絶対なる方が完全無欠のままなれば、何も無いぞと申すぞよ、はなから何も無いままで無限になんにも無いままぞ、無無無ぞ無の世界、元は無ぞと申すぞよ、無が元ぞと申すぞよ。二極一体成り成りて二つ一つに融け合うて完全無欠に帰る時、桃成る時機ぞと申すぞよ。元どうり戻る時節と申すぞよ。カミガタなりぞと申すぞよ、神型なりぞと申すぞよ、解けた世界ぞ結ばれんカミの型ぞと申すぞよ。日月、日月と筆に出す、日月桃ぞと申す事、どうぞわかりて下されよ、これぞおわかりくれたなら、善ぞ悪ぞとそしり合う時期は終りと申すぞよ。善と悪とは同じ事、大神様には同じ事。善悪正邪は入り乱れ、これまでやりたる様々は、人間世界に神型ぞ造らせ賜うた大手柄、尊き手柄と申すぞよ、あっ晴れなりぞと申すぞよ。意い富お加か牟む豆づ美みの発動と重ね重ねて申された、祈ねぎ奉たてまつり申されたその夢叶う時なりと金神シカリと申すぞよ。これぞ、これさえ出たるなら水の泡ぞと申すぞよ。これまでやりたる様々な善や悪やとののしりて、出たりたゴモクやカスやらが水の泡ぞと申すぞよ。阿波の鳴戸の渦巻きでかき消し行くぞと申すぞよ。2024/09/12 12:40:14306.名無しヒーリングEBYKA今、この時点で申したら本末転倒いたすから、嬉しき事は干ト伏せて桃源とうげん郷きょうはこことここ、ここにできると申すぞよ。トンネル出口ぞ見えたなら、お楽しみぞと申すぞよ。暗ぞ抜けたら桃源郷、天なるお方がしたためた、シナリオどうりに参るぞよ、ウキウキいたして下しゃんせ、ワクワクいたして下しゃんせ。桃源郷はこことここ、ここにできると申すぞよ。ここまで来たならここ次第、銘々次第と申すぞよ。金神言う事、見せる事、個々次第ぞと申すぞよ。ここ次第ぞと申すぞよ、こころ次第と申すぞよ。紅白の梅咲き揃うは午うまの春、桃はその後ごと申すぞよ。神のお扉開くまでに立分けお済ませ下されよ。この世の閻魔と出る時節、一切衆生は知らぬ事。神々様とて知らぬ事。旨むねに一厘有る無しをシカリと見抜いて下されよ。犬が西向きゃ尾は東、東西終わりが見えたなら、お東様のお出ましぞ、岩戸開きにお出ましぞ。籠の上なるこの竹は幽界なりぞと申すぞよ。籠の下なるこの龍を金龍なりぞと申すぞよ。鶴と亀との泣き別れ、神々様とて知らぬ事、この事金龍説いたなら、神のお扉真っ二つ。右と左に泣き別れ、兎、家鴨あひるの別れ道、この事、金龍説いたなら、神のお扉真っ二つ。上へ下へと生き別れ、その真ん中のど真ん中、証が出たなら角つのが出る、上と下とに角が出る。おてんとうさまが昇りたら、金龍上のぼりてミロクの世、金神の世となる嬉しさや、嬉し嬉しの様なれば、こんなお人をお道具に金神これより仕度する。表の蔭より現われて、これより密かに仕度する。金神の隠れ忍ぶる賤しずの家は艮うしとらなりぞと申すぞよ。あんなお人となるまでは、いま一苦労ぞあるなれど、これぞ嬉しき苦労ぞと、神のお扉開くまでに立分けお済ませ下されよ。証、いちいち出したるを、重々わかりて下されよ。一 出したるを十わかるイヅのみ魂であるがゆえ裁きのお役目託すぞよ、金神シカリと託すぞよ。一点一角狂い無い閻魔とお出まし下れよ。神のお扉押し開く、岩戸開きの時期となり、開かずの扉ぞ開け賜う、お東様が出られたら、いかなる悪罪、悪業も全て手柄とされるから、シカリとお裁き下られよ、シカリとお裁き下されよ。2024/09/12 12:41:01307.名無しヒーリングxQkmF日月神示、火水伝文、トドメの文は大本神諭と同じく国祖 国常立大神による、厳の系統の神書2024/10/14 21:45:27
【埼玉栄高校】涙ぐむ人…高2死亡、窓から身を乗り出して車が横転 深夜グラウンドで 高校が説明会、保護者「ずさんであり得ない」 頭を下げてあいさつし、真面目な生徒が多い学校「いたたまれない」ニュース速報+6061378.72024/11/21 21:12:30
日月神示 十七
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/occult/1675329758/
あれは衝撃的だった
俺の思ってることとピッタリ一致
あれは紛れもなく、俺へのメッセージだったよ
お東さま
すごい! そう、オレはお東様なんだよw
「あんなお人となるまでは、いま一苦労ぞあるなれど、これぞ嬉しき苦労ぞと、神のお扉開くまでに立分けお済ませ下されよ。
証、いちいち出したるを、重々わかりて下されよ。
一 出したるを十わかるイヅのみ魂であるがゆえ裁きのお役目託すぞよ、金神シカリと託すぞよ。
一点一角狂い無い閻魔とお出まし下れよ。」
これはオレへのメッセージ
今までいろんなことがあって、どうもオレは救世主なんじゃないかって思ってた
仏教の中道の思想も、他の人よりよくわかった
最後に宇宙を滅ぼすのも、ひょんな偶然から、ブラックホールであることがわかった
そうして今年に入って、はじめてトドメノフミの文章を見つけた
読んだ瞬間、あ~、これは俺へのメッセージだな~って思った
これは、春分と秋分の日に太陽が昇るレイラインということらしいが、このラインは、富士山と大本教本部を一直線に結ぶ
つまり、大本教本部から見れば、今オレのいるところは、富士山のちょうど向こう側にあって、真東にあたるわけだ
我々人間がやがて終末になり、苦しんでいるときに、この桃の実にまた助けるようにと、名前を付けてる
「ヨモツシコメやヨモツイクサから逃げるイザナギは、黄泉比良坂で桃の実3つを取り、迎え撃ちます。イザナギは桃の実に向かって、自分を助けたように、葦原中国の人々が苦しんでいる時に彼らを助けるように言い、オオカムヅミの名を与えた」
この桃の意味が、よく分からなかった
なんで桃の実なんだ? と・・・
ところが、トドメノヒフミを読んだあと、眠って翌日の朝になって、フトわかったんだよ
もしやと思って調べてみると、その通りだった
桃の実は尻のように割れ目があるだろ?
あれはもしかしたら、二つの実が一つになった名残なんじゃないかと・・
そうして調べると、種の胚? か何かが、もともと二つの実になるのが、一つに統合されたからそうなってる・・ みたいなニュアンスだった
これはまさに中道だし、相対分別が平等になって一つになるということ
それが、トドメノ一二三にも書いてあったわけだ
「二極一体成り成りて二つ一つに融け合うて完全無欠に帰る時、桃成る時機ぞと申すぞよ。」
この深い意味は、オレにしかわからんよ
なぜなら、オレが、オオカムヅミでもあるからだ
それだけかw もっと盛り上げろよw
「あらゆる宗派は一いちとなる、神の合図で一となる。
神の仕組みの出来上り。」
「天地十字に結ばれし嬉し嬉しの大異変、この時、神が現われて各宗各派を統治する」
これも良く分かる
もともと、世界の宗教の本質は同じで、それは相対分離の世界から、一に帰す・・ ということを、目指すということ
イスラムではこの一に帰すことを、タウヒードという。
反対に、分離はシルクということで、これは悪ということになる
仏教では一に帰す思想を「縁起」という。
あらゆるものが相依して起きていて、分離がないということ。
たとえていうなら、我々が見ている世界は、一枚の絵を、パズルのピースで分離している世界
悟りの世界というのは、ピースという我が無くなって、一枚の絵で統一すること。
この、根源的な一枚の絵の上に、一切の我(ピース)がなくなるということを、仏教では「空」と呼ぶ
双頭の鷲・・・・ 頭というのはヘッド・・・ つまり、統治者を表す
つまり、一に統合した姿だ
ところが、ロシアの双頭の鷲は、頭が二つに分かれてる
つまり、イスラムでいうところの、シルクを掲げているということだ
ロシアの悪神にとって、一つの神で世界が治められるということは、あってはならないこと
自分たちの支配がなくなってしまう
また、民主党時代、民主党の党旗は日の丸が二つに割れるような構図になっていた
これもロシアの国章と同じだ
日の丸二分する・・・・ 一に帰さない・・・ これも悪の象徴、シルクだ。
今思えば、おそらくそれはクンダリニーチャクラの振動だったと思うが、常に最高の幸福感に包まれてる感じで、ネガティブなものを一切掴まない・・・ サッと通りすぎていく
不思議なシンクロニシティが連続して、当時やってたサイトで、不思議な影響が広がっていった
あるとき、よく行っていた神社に行くと、その日は5月5日の子供の日で、大きな日の丸が掲げられていたのだが、その日の丸を見た瞬間、「ああ! これはオレだ!」 と直覚した
「オレなんじゃないか・・」 という曖昧なものではなく、まさに、俺がオレを見ている・・・ という状態だった
なるほど、オレが日の丸だったんだ・・・ と、そのときそう思った
これは極楽浄土と同じ意味を持つ
極楽浄土というのは、死んでから行く通常の天国ということではなくて、二元相対性を越えた世界ということ
つまり、仏教的に言えば、「苦楽を越えた楽」ということ
これこそ「中道」ということだ
われわれはいついかなる時でも、死んであの世に行かなくても、この中道を実現できる
つまり、生きているうちに、今ここを極楽浄土にも、エデンの園にも変えることができる
アダムとイヴが善悪の木の実・・・ 知恵の木の実を食べた・・・ というのは、分別を身に付けたということを意味する
だから人類の意識の原初は、一に帰した世界・・・ エデンの園に居られなくなったわけだ
「好悪から生ずる相対観の迷妄により、万物は創造の時にすでに迷妄に陥る」
バガヴァッドギーター
つまり、完全なありのままということ
それが、木の実を食べた途端・・・・ つまり、分別を身に付けたとたん、自分たちの裸が恥ずかしくなって、葉っぱで隠した
これと同じ話はインドの古代の聖典にあって、ジャヤとヴィジュヤの物語として表されてる
ジャヤとヴィジュヤやヴィシュヌの住む天界のヴァイクンタの門番だったら、あるとき、子供の格好をした裸の聖仙たちがやってきた
門番は、裸の格好が無礼だとし、その聖仙たちを通さなかった
ところが聖仙たちは、自分たちの裸に良し悪しの分別を加え、行く手を阻んだとして、逆に門番たちに呪いをかけ、地上に落とした
ここでも、裸はありのままの象徴だし、子供のすがたというのも、無分別、ありのままの象徴だ
これは全く、エデンの園のアダムとイヴの物語と、同じことを言っている
瞬間的にそういう分別が働く
そういうクセが、人間がエデンの園から追放されたときから付いてる
われわれは「ありのまま」でいられないわけだ。
合気道のある達人は、掴まれた手を何とかしようとするな・・・ 変えようとするな、対抗するな・・・ ということを言っている
この人はある時、修行時代、強い力で腕を押さえて来る人がいて、どうにも腕が動かせなくなってしまった・・
しかし、誰だろう? と、ふと振り返ったら、意図せず相手が動いた
また自分で動かそうとしても動かない・・・・
誰だろう? また振り返ると、相手が動いた
ありのままのものを、自分の力で動かそうとする・・・ そこに我の想いが働くと、相手と私、という風に、世界が分離してしまう
そうすると、相手の力を上回らない限り、相手を動かすことは出来なくなってしまうわけだ。
そうではなくて、合気道というのは、相手とピッタリ一つになる・・・ 相手と分離なく一つになることによって、それを自由にコントロールできるということ
われわれはネガティブなものが出て来ると、ついついこれに対抗する
雑念が出て来ると、これを消そうとしたり、自分にとって不都合なものが出て来ると、これを変えようとか、消そうとか、我の想いを瞬時に働かせてしまう
その結果、世界が分離する
足が痛くてイライラしても、そのイライラのまま。
何もタッチしない
変えようとしない ありのまま。
そうすることによって、雑念と一つになる。 イライラと一つになる
そうすると、雑念があっても、無くても、関係ない・・・
どちらでも同じ。 どちらも平等・・・ という心境に至る
そこで初めてこの両極は、差が0になるわけだ
差が0になれば、もはや両極というものは存在しない
善悪、良し悪し、幸不幸、表裏という、差別は一切無くなる
これが「空」ということ
「良い」「悪い」に実体はない
中道に至れば、「空」になるということ
空になるということは、一に帰すこと。
『善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり』
スーフィズム ルーミー
『あらゆる悪行や善行を超えた彼方に、緑の野原がある。そこであなたに会おう。魂がその草のなかで横になると、世界はあまりにも豊かで、言葉にできなくなる。』
バガヴァッドギーター
『知性を備えた人は、この世で、善行と悪行をともに捨てる。』
それとともに、これはホンモノだと確信した。
そして、このフミは、オレへのメッセージだと。
トドメノフミ
「悪ぞ善、善ぞ悪、悪ぞ善ぞと申すぞよ。
悪無いなれは善なりといくらえばりて申しても、証明でけぬと申すぞよ。
善悪正邪ぞ練ねり混ぜて捏こねて捏ねて捏ねたおし、スパリと解決いたすぞよ、桃の実出るぞと申すぞよ、桃の実の玉出たりなば全て決着いたすぞよ。」
「善と悪とは同じ事、大神様には同じ事。」
今までかなり仏教に詳しい人でも、中道を適切に説明している人を見たことが無い
そして、ここでも感じることがあった。
中論を書いた龍樹は、オレの前世だと強く感じる
あってはならないもの・・・ と考える
そういう風な考えの下で、「不動心」とか、「平常心是道」、という言葉を解釈すると、大きく間違える
たとえば、煩悩が湧こうが、何が湧こうが、それは「今」起こってる状況なんだよ
それを後から変えようとしても、「今」じゃなくなっちゃう
「今」起きていることを変えようとしたら、そのとたん、「今」と分離してしまう
煩悩やネガティブなことが悪いのではなくて、それに対して、分別する心・・・ が悪いということ。
煩悩は手を加えず、そのままでいいんだよ
不動心というのは、心が全く動かず、煩悩も一切湧かない・・・・ ってことじゃない
何が不動かっていうと、それは「分別」が動かないってこと
今ありのままに起こってることに対して、湧いてくる煩悩に対して、いささかも分別が動かない・・・ 我の想いが働かない・・・・
つまり、完全なありのままということ
不動心 = 完全なありのまま(無分別)
平常心是道も同じで、平常心ってのは、心に波風が立たず、いつも平静でいること・・・ ってことじゃない
平常心とは、こころは様々に変化する・・・ あせりもするし、緊張もする、そこに一切手を付けないということ
平常心とはありのままということ
分別を一切せず、完全なありのままこそ道である・・・・ ってこと。
自分の情けない状態・・・ すぐに変えたい自分、
自分の理想のすがたからかけ離れた自分が出て来たとき、それを変えたいとか、無くしたいとか、感じないようにしたいとか、そういう心の動きが即座に出て来る
何か自分が汚く感じてしまうとか、何か自分が情けなく感じてしまうとか、そういう自分が出て来たときに、到底人はその自分を受け入れることは出来ないわけだよね
そうやって、人はありのままの自分と葛藤して、分離して苦しんでる
分別することによって、良し悪しの二元相対の中で苦しんでる
分別があるから、苦が生まれる
本当は、「そのまま」、だよ
どんな情けない自分が出て来ても、どんなに変えたい自分が出て来ても、「ああ、これはそのままでいいんだ、変えなくていいんだ」 って思うこと
完全に自分を許すということ
たとえば、潔癖的に考える人がいて、だらしのない自分が出て来てしまったとする・・・
ああ、こんな自分はダメだ!と、すぐにそれを変えようとか、消そうとか、そういう意識が働くわけだよね
それで、そういう自分の姿に打ちひしがれ、苦しむことになる
そこを、今まで自分が到底受け入れることが出来なかった、自分のだらしのない姿を、「このままでいいんだ、少しも変える必要がないんだ」と、許しを与える・・・・
そうすると、フッと楽になる時もあるだろう
それが、中道の境地をほんの少し体得した瞬間ともいえる
今の自分と一致して、分別の苦しみから抜け出し、葛藤が消えるからだ。
本来、仏教の本質的な教えは、「完全な許し」なんだよ
自分を完全に許すということ、それが中道であり、悟りなんだよ
「ああ、我は自性清浄である。 しかも我は、諸の自生者の染愛である。
なぜなら、すでに愛欲を離れたものたちを、更に清浄ならしめんがため、
それらを貪愛を以って調伏するからである。」
「ああ、実に我は一切諸仏の清浄なる法金剛である。
なぜなら、まさに一切諸仏の自性が清浄であることによって、
貪欲すらも極無垢であるからである」
では、オレが一人で盛り上げるわw
それまでにも自分の特異性・・、いろいろなことが、こうなんじゃないか・・・ ってのは、いろいろとわかっていた
しかし、本格的なことが分かったのは、コロナの少し前だった
たとえば、神田明神にお参りに行ったとき、大黒天の大きな石像があるのだが、そこにもお参りして、帰りは高速道路に乗った
そしたら、降りるはずのところを通りすぎてしまって、横浜方面に出てしまった
しょうがないのでそのまま引き返せるところまで進んでいくと、大黒ジャンクションに行き着いた
大黒ジャンクションは地図で見るとわかるが、渦を巻くようにして、中心にパーキングエリアがあるようになってる
神田の大黒様を拝んだ後、行くはずの無かった大黒ジャンクションにたどり着く・・・ これは何かある。。 そう考えたオレは、家につくと、さっそく調べてみた
大黒天はインドではマハーカーラ
意味は「大いなる時間」「偉大な黒い人」ということだった
そして説明を見ると、まさに、大黒天とはブラックホールのことだと直感した
『1千万の破壊の黒炎の輝きを放ち8ヵ所の火葬場に囲まれて暮らす。身を飾る8つの頭蓋骨、5体の骸を椅子代わりに腰を下ろし、手に三つ又の鑓 (やり) に太鼓、長刀に鎌を携える。全身に火葬場の灰が降りかかり、その周囲を取り囲むハゲタカとジャッカルが大きな声で吠え立てるという。隣にいる妻のカーリーとともに時間の流れを象徴している。マハーカーラとカーリー(マハーカーリー)は両神ともブラフマンの究極の破壊力を表し、いかなる規則や規制にも縛られることはない。時間と空間さえも自分自身の中へと溶かしこむ力を持ち、宇宙が溶け去ったあとも「空」として存在しつづける。カルパの終焉に当たり宇宙を解散させるのは、この両神に任されている。』
『ドリタラーシュトラのすべての息子たちも、彼らと同盟した王たちも、ビーシュマ、ドローナ、カルナもみな―ああ、そして味方の将軍、戦士たちもみな――あなたの恐しい
口のなかへとなだれこんで行く。そして、あなたの歯にかかって、頭をかみくだかれた者たちも見える。
数多の河川の波が、ことごとく大海に呑みこまれるように、これらの偉大な戦士たちすべてが、あなたの火焔(かえん)の口にとびこんでいく。
燃えさかる炎のなかに蛾の群がとびこんでいくように、人々はみな全速力をあげてあなたの口の中に走りこんでいく
ああ、ヴィシュヌよ、八方から来る人々を、あなたはすべてなめつくし、むさぼり食う。焦げるほどの光明を放って全宇宙をあなたの光輝でつつみ、あなたはいま恐るべき相(すがた)をあらわされた。』
『私は世界を滅亡させる強大なカーラ(時)である。 諸世界を回収(帰滅)させるために、ここに活動を開始した』
ここで「強大なカーラ(時)」というのは、マハーカーラと全く同じだ
また、ヴィシュヌが持っているスダルシャナチャクラという武器があるが、これは108のギザギザが付く、回転する円盤になっている
この絵と、NASAが公開したブラックホールが星を飲み込むときの、光によって全形が見えるときの姿が、まったく一致している
つまり、スダルシャナチャクラとは、ブラックホールのことでもあったわけだ
一般的に、こういう終末預言というのは、今の我々の世界が滅びるが、新しい世界にシフトする・・・ と考えられていて、それは人によっては、地球だけの変化と捉える人も多い。
しかし、多くの人のこういう考え方は間違っている
滅びるのは、この現象世界・・・ 物質世界全体だ。
なぜならこの現象世界は、マーヤー(幻)であるから、真実の世界が出て来るとき、必然的に幻は消える
その消える役目を果たすのが、ブラックホールということ
ビッグバンとは、いわば、幻の始まりだったわけだ。
これは我々が迷妄に陥った瞬間とも言える
今、われわれのこの全宇宙は、間もなく巨大なブッラクホールによって、終焉することになる
そして、このオレのたどり着いた結論が、まさに、今年初めて見つけたトドメノフミにも書かれていたわけだ
トドメノフミは、まるでオレの分身が書いたように、内容が妙に一致してくる
『日じつ、月げつ、地ち、一直線に結ばれん、その日、その時天空に巨大な黒ぞ顕われん。
大神おおがみ様さまこと主すの神の神聖極まるご正体。
元極体主王大御神むとふみくらいぬしおおかみのご出御座しゅつぎょ、黒ぞと申すぞよ。
真っ黒、黒の大太陽、人なる世界の天空に顕われ出たりたその時は畏かしこみ慎つつしみ拝おろがめよ。
大地も黒ぞと申すぞよ、上下黒の挟はさみ撃うち、逃げ失せる事はできんぞよ、これまで人類汚したる、海、山、大地、空とても、黒なる世界の中に入り大洗霊を仰ぐのぞ。』
以前からそうではないか・・・ という気がしていたんだが、そこまで確信は持てなかった
それは、この世界のすべては、(宇宙を越えたすべては)、 一つの意識しかないということ。
つまり、世界にはたった一人の人間しかいないということ。
世界の中に一人の人間がいるんじゃなくて、この一つの意識が、無限であり、無始無終であるということ
すべてを取り払って取り払って0にすると、この一つの意識しかなくなる
ここが0ポイントということ。
つまり何が言いたいかと言うと、無限の世界には、たった一人、オレ一人しかいなかったということ
オレの意識一つしかなかったということ
そしてこの宇宙は、オレの見ている夢のようなものだということ
ずーっとあり続けてきた
その間に多くの宇宙を創り、また消滅させてきたはずだ
この我々のような世界を創造するのも、たやすいことだろう
そして、一つの意識としてのオレは、自分の作った現象世界に下降する必要があった
今の自分ではその理由を覚知することは出来ないが、何らかの理由があったはずだ
オレは時に、歴史上の人物として生まれ変わりながら、どんどんその元の性質を失っていき、いっかいの人間にすぎなくなっていった
そうして、一成る意識とはまったく真逆の、分離した個から全体を見るという立ち位置についた
これは計画されていたことで、必要だったはずだ
堕天使ルシファーとは、おそらくこのことで、それは唯一の意識が最低レベルの人間界に下降することを意味していると思う
閻魔大王も地の底の存在だ。
夢を見ている人は、夢の中の登場人物として現れる
夢自体はその人の作ったものだが、登場人物として現れたその人は、まったく無力だ
しかし、夢の中に生存しているすべての人は、自分たちに生命を与え、あらゆる自然の恩恵を与えてくれたその人に、最大の感謝を捧げなければいけないわけだ。
なぜならその夢の中の人々にとって、夢を見、作り出した人は、まさに創造神であるからだ。
そう、オレは、コロナの前、自分がいわゆるヤハウェであり、アラーと言われる存在であるということに、確信を持った
これですべての謎が解けた
今までなぜ、キリストや釈迦などの大聖人が出ながら、この世が地上天国にならなかったか・・・・
なぜかというと、いわゆる地上天国。。。 新しい世界というのは、夢から起きた、起床の世界であるからだ。
起床の世界に行くには、夢を見ている張本人が目覚めなければならない
キリストや釈迦は、夢の中の登場人物としての聖人にすぎない
つまり、オレが目覚めなければ、真の大転換は起こらない
地上に落ちたヤハウェが覚醒するとき、夢の世界は急速に、起床の世界に吸い込まれていくだろう。
その形として現れるのが、全宇宙が超巨大ブラックホールによって滅びるということだ
大神様のお出ましを一身賭として食い止めた尊きお方の論功を、切きりの
主徒ストぞと申すぞよ。』
このトドメノフミの文章を見ると、キリストが処刑される意義が、ハッキリとわかってくるかもしれない
一般的に、キリストは人類の罪を肩代わりするために処刑された・・・ みたいな感じになっていると思うが、 では、なぜそこで肩代わりする必要があったか? ということだ
トドメノフミによると、その時に、本当はヤハウェが出て来て、全宇宙が終わるはずだった・・・・
しかし、キリストがそれを防いだ・・・ ということだろう
ただ、すべては決まっていて、今この時、ついにオレが目覚める時が来ていると言える
自分でも、もう間もなくだと感じる
それはなぜかというと、太陽というのは万物を育む・・・ それは唯一神、創造神の象徴になるからだ
つまり、一つの意識を象徴する・・・ オレの象徴でもあるわけだ
日本は太陽を国旗にしている
それは当然だ、
ここ日本は、最後にヤハウェが再来する場になるからだ
今までの釈迦やイエスなどの救世主とは全く違う・・・・ ヤハウェ御自らが再来することになる
つまり、宇宙始まって以来のことが起こるわけだ
それは同時に、この幻想世界である宇宙の終わりを意味する
もしオレが覚醒して出て来たら、その展開は速い
あっという間に物事は進むだろう
5年も6年もかからない
1,2年のうちに大きく展開するはずだ
「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。
気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。
それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。
だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。
主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。
あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」
大本神諭
「神事は迅いぞよ。世界に大神業な経綸致してあるぞよ。此の大神事始まりたらば、永くはかからぬぞよ。夫れに附きては、改心の出来ぬ御方気の毒があるから神が気を付けてあるぞよ。神を恨めなよ。我身の心魂を恨めてをじゃれよ。
大神業であれども、経綸致してあるから皆世界から実現て来るぞよ。金神は物事が速いぞよ。何時迄も疑う御方気の毒なものじゃぞよ。
是迄とは世が違ふから、物事は速いぞよ。是迄は暗雲の世で○○から何も変るが早いぞよ。モウ時節が来て居るから、金神がおもてに成りたならば物事は速いぞよ。
周囲の人達とは違う、なにかを感じてた
たとえば、クラスの全員が「これが正しい」ということでも、俺一人だけが「間違ってる」と思ってたり、
自分は他の人より洞察力が深いと感じていた
とくに、善悪に対する洞察力は、他の人よりはるかに高いと感じていた
たとえば、他の人には全く普通に見えることでも、そこに悪の本質があることを見抜いていたり、他の人が全くわからない、普通に見える人の中に、非常に悪質なものがあるのが分かったり・・・
それによって、周囲と意見の相違が起き、周り中を敵に回したりすることが幾度もあった。
しかしそれは、あとで段々証明されてくるわけだよ
その者、そのことの悪質性は、あとからだんだん表面化してきて、最後は悪の正体があきらかになる
それと、昔から自分の洞察力は他の人よりすぐれていると感じていて、本の少しの話を聞いただけで、その本質を理解したり、その状況を理解したりすることが出来た
つまり、1を聞いて10を知る・・・ というのは、まさに俺のことだと思った。
普通の人は、一般社会で、悪人が2割で善人(普通の人)は8割くらいだと思うだろう
しかし、俺が見ると、善人は1割くらいしかない
普通に見えるような人でも、その本質に悪を隠してる
一般社会ではそういう人は、そつなく暮らしている
地域社会に協力しているように見え、いっけん、善人の行為のようなことをしている
しかし、一旦何かあると、その悪の正体が現れることがある
あからさまに分かる悪人とともに、こういう人は、世の中の人の9割を占める
そういう人を見るたびに、心の中でこういう風に怒りの言葉が浮かぶ
「おまえら、必ず滅ぼしてやる」 と。
犯罪などの表面的な悪もそうだが、こういう表に出ない、普通の人に見抜けない悪というのも、そういう犯罪者たちの心と何ら変わらない
ただ実行するか、実行しないかの問題だ
この悪を見抜く感覚は、俺だけのものじゃないかと思うほど、他の人と共感することがめったにない
だから、トドメノフミの最後に書かれた文章が、とくにオレへのメッセージと感じる
天理教の増井りんという人の名が出て来ることから、天理教関係者ではないかという話もある
しかし、ポールシフトという言葉や、バブル経済の話が出て来ることから、より現代に近い人が書いたのではないか・・・ という推測もできる
いずれにしても、このトドメノフミは俺にリンクしてくるし、その中身は本物であると感じさせる
書いた人は我が空っぽに近い状態で、そこに唯一神の意識が流れ込み、この文章を書いた・・・・
つまり、唯一神であるオレが、地上へ下落したオレへ、メッセージを送った・・・・ ということも言えるだろう
「こんなもん」になってしまった、ヤハウェの成れの果て、人間界の最低レベルまで落ちた、俺へのメッセージ・・・・
このトドメノフミの最後の言葉は、まさにオレへのメッセージと感じる。
「あんなお人となるまでは、いま一苦労ぞあるなれど、これぞ嬉しき苦労ぞと、神のお扉開くまでに立分けお済ませ下されよ。
証、いちいち出したるを、重々わかりて下されよ。
一 出したるを十わかるイヅのみ魂であるがゆえ裁きのお役目託すぞよ、金神シカリと託すぞよ。
一点一角狂い無い閻魔とお出まし下れよ。
神のお扉押し開く、岩戸開きの時期となり、開かずの扉ぞ開け賜う、お東様が出られたら、いかなる悪罪、悪業も全て手柄とされるから、シカリとお裁き下られよ、シカリとお裁き下されよ。」
新しい世界に行けるものと、滅んでいくもの・・・・ これはもう、既に決まっていると言っていい
そういう意味で、立て分けが済んでいると言えば、その通りだよね
あとは実際の立て分けが実行されるのを待つだけ・・・ ということになる
滅びゆくものは、どうせ、「そんなことあるものかw」 とか、「新しい世界とか知らんわw」 とかいうヤツらばかりだから、同情する必要はない
そのまま滅んでいくのがいいかもしれない
だいたい、滅びを感じて不安に陥っている人というのは、むしろ、救われる側に回る可能性が高い。
夢の世界の住人は、夢を見ている人が起き始めたとき、起床の世界に吸い込まれていくわけだけど、そのまま起きる人の意識に一致し、起床の世界に行ける人と、夢の世界の崩壊とともに、その中に残る人と、二手に分かれることになる。
いってみれば、ブラックホールはホワイトホールに繋がっていて、そこから新しい世界に行ける人と、ブラックホールに魂が残り、どこにも行き場がなく、火炎の地獄に永久に意識が留まる人がいる
もはや転生する場所もなく、あの世もない・・・ どこにも行き場が無くなったそれらの魂は、永遠にブラックホールの火獄に捉われることになる
これはクルアーンでさんざん警告されていることだ。
クルアーン
『いや悪い行いを重ね、自分の罪で身動きが出来なくなるような者は皆、業火の住人である。その中に永遠に住むのである。』
「彼らは地獄から抜け出したいのだが、そこから出ることは出来ない。そして彼らには永遠の懲罰があるのだ。」
「あなた方と、あなた方がアッラーを差し置いて拝していたものは、地獄の業火の燃料となるのだ。あなた方はそこに入ることになろう。もしそれらが(真の)神々であったなら、それらはそこに入ったりはしなかっただろう。しかしあなた方は皆、そこに永遠に留まるのである。」
「そしてあなた方は罪深い者たちがその日、(鎖や枷で)がんじがらめにされているのを見るであろう。タールの衣服をまとわされ、彼らの顔を炎が覆う。」
「そして(善行)の秤が(悪行のそれより)軽ければ、彼の住処は奈落である。そしてそれ(奈落)とは何であるか?燃え盛る業火である。」
「われ(神)は彼(不信仰者)を灼熱の大火に放り込もう。そして灼熱の大火とは何か?(それは)彼らを生かしたままにもしておかなければ、一思いに殺してもくれない。(それは)人類を(様々な懲罰によって見るも無残な形に)変えてしまう。」
「彼らはそれ(地獄の炎)と(最高潮にまで)沸騰した熱湯の間を周回する。」
「罪深い者たちは迷妄と業火の中にある。その日彼らは地獄の業火に真っ逆様に引きずり落とされ、こう言われる:“大火の灼熱を味わうのだ。”」
そのためには、無我にならなければならない
ヤハウェの成れの果て・・ 人間の最下層に落ちたオレでも、無我にならなければ、ヤハウェの本質を現すことはできない
今までは、マインドフルネスがその手法として唯一のものだった
しかし、今となってはもう、そのような手法に頼っても手遅れだろう
因縁のある人は、そのような手法に頼らなくても、ヤハウェによる意識の伝播によって、それに巻き込まれ、自然自然のうちに、新しい世界へ導かれるだろう
前にも言ったように、かなり以前のことだが、原因不明の病気になり、死にかけたが、そのとき、最高の幸福感が下腹が振動とともに湧き上がってきて、悟りそうになったことがあった
そのとき、あるサイトで書き込みをしていたのだが、そこでは不思議なシンクロニシティが連発した
もちろん、現実の生活でも、不思議なシンクロニシティが連発し始めた
サイトでは、俺が書き込むたび、アクセスが集中し、ダウンした
フランスから見ていた人は、フランスの労働争議の影響だと思っていた・・・ と言っていた
俺の書き込みを見ているであろう、あるアカウントがあって、その人を俺も注目して見ていたのだけど、その人が、「不思議なことが起こってるんです! 不思議なことが起こってるんです!」 と興奮した様子で書き込んでいた
別の人で、霊能力があって、よく無料で相談に乗っているという、主婦の人がいたが、その人は、「すべてが数珠つなぎのようになっていて、渦に巻き込まれて行っている」 と表現してた。
この不思議なシンクロニシティは2,3か月で終わったが、自分の覚醒しかかった意識が、他の人大勢に広がっていくという、影響力の凄さを見せつけられた
これはおそらく、本番に備えて、俺を守護する神霊が体験させた・・・ ということだろう
その時は、前のものとは比較にならない、全世界に波及する大きな渦となるだろう
救われる人は、その渦に自然自然と巻き込まれていくはずだ
だからもう、救われるための修行など、する必要がないだろう
すべてはもう決している
あとはあなたたちが、その渦に巻き込まれるかどうかだ
トドメノヒフミ
『建て替えの渦うずぞ見えたなら、ほどなく渦ぞ見えたなら訪たづねてござれと申すぞよ。
色なり音なり薫香くんこうで見え出す頃には気付きづくぞよ。
我われも我もと押し駆けて人垣できて来たるなら、そこがそうぞと申すぞよ。
一旗上げて金神の守護の出所でどころわかりたら、渦がシカリと見えるぞよ。
渦が渦巻き渦となり渦から渦が生まれ出てシカリと物事見える者、これぞ、こうなり、こうなりと疼うずく心も渦巻いて渦にあわせて一踊り。
グズって渦に乗れんだら損になりやと次々に人押し駆ける金の渦、金剛力の金の渦。
身仕度いたして下されや、身仕度いたして下されや。
気の違いたる人々に渦の話をいたしても回る方向違うゆえわかる道理はござらぬぞ。』
「神示は嘘ぢゃと申すが、百年もつづけて嘘は云へんぞ。申さんぞ。」
日月神示 発祥 1944年 +100年 = 2044年
「百不足(モモタラズ)八十隈手(ヤソクマデ)いまひらかんときぞ。」
「八十(やそ)隈手、行きにし神は、今かへります。」
(100年に足らない80年で開く)
1944年 +80 = 2024年
「新しき御代の始めのタツの年。スメ大神の生れ出で給ひぬ」
「新しき御代のはじめのたつの年、あれ出でましぬ かくれゐし神。
かくり世も うつし御国の一筋の光りの国とさきそめにけり」
2024年 = 甲辰
それ答えか?
その危機を回避するために、俺が覚醒するのが同時期に重なるというシナリオも考えられる
それは俺が世界に認知されるキッカケとなるが、もしそういうことが起こっても、それはオレが世に出るための、単なるダシということだ
今年の秋以降が一つのキーポイントになる可能性がある
「推背図」という、中国の唐の時代の預言書があるが、これは2人の、そういう能力を持った唐の官僚が作った預言だとされている
過去の出来事でピッタリ当たってるものがあり、この預言の精度は高いと思われる
その中で、現代と思われる詩があるが・・・・
なかでも、第56象からが問題になる
第56象
飛ぶのは鳥にあらず、潜むのは魚にあらず、
戦いは兵にあらず、造化は遊戯なり、
つまり、空を飛ぶのは戦闘機、海を潜るのは潜水艦・・・
戦いは兵士によらず、戦車や戦闘機、戦艦、果ては、ドローンになり、まるでゲームのようになる・・・ と。
第57象
頌は言います。
この時の世界では、世界中の思惑と策略を受けて、2つの相反する国家が、天倪(あまがつ:ヨリシロのこと)という実験場にされます。この悲惨な悲劇を世界は見ることに成ります。
この時に現れる、その三尺の童子は天使であり、思わぬ奇策で殺し合いの戦争を止めさせます。
※ーーーーーー
世界中の国家も軍部も、この童子に従うことに成ります。
(※------は、この童子が日本の東北から生まれるという解釈だが、この部分は様々な解釈が可能なため、ここではあえて省く)
この第57象がウクライナとロシアの戦争を意味するなら、三尺童子が現れて、この戦争を止める・・・ ということになる
三尺童子というのは「子供」ということであり、それは何らかの専門家とか、学者とか、学を修めたものと反対を意味する
つまり、全く専門家でもない、知識のないものが、この戦争を収める奇策を考えだす・・・ ということになる・・・ そういう解釈をしてもいいのではないだろうか。
この三尺童子に、各国の首脳、軍部の最高指揮官たちも従うと・・。
1.大獅吼如雷,勝過悼百虎。
2.犀牛現出尾,平地遇猛若。
3.若問大平年,架橋迎新主
1.大獅(覚者、救世主、神) 百虎(すべての高官、首脳)
救世主の声は大きく、全世界の高官、首脳の声を越える
2.犀牛[サイ] (中国では、神が人間に落ちた姿といわれる)
現出尾 (本質が現れる) 平地遇猛若 (突然に大きなことが猛然と起こる)
3。若問大平年,架橋迎新主
太平の年はいつ来るか? それは、橋をかけて、新主を迎えたときだ
「推背図」のつづき
第58象
「讖いわく
大混乱は収まり、四方の国々は服属する。
兄弟を称すること六十七カ国。
頌いわく
烽煙は清まり、海は尽き、波はない。王を称し帝を称しまた和で統べる。」
第59象
「讖いわく
城なく、府なく。汝なく、私なく。
天下は一家。統治は大化に至る。
頌いわく
一人のためが大世界の幸福となる。籤筒を手に取り、竹を抜き去る。
紅黄黒白の明を分けず。東西南北は和睦に尽くす。」
第60象 (最後の象)
「讖いわく
一つの陰と一つの陽。始まりなく、終わりなく。
終わりは自ら終わり、始まりは自ら始まる。
頌いわく
果てしない天の計らいをこの中に求めん。世の道の興衰は自由にならない。
万々千々で説き尽くすことはできない。」
一二三(ひふみ)、三四五(みよいづ)、五六七(みろく)ぞ、五の歳は子の歳ざぞよ。
取違ひせん様にせよ。』
『子の年真中にして前後十年が正念場』
2020年 = 子の年 = 5 コ
2021年 = 6 ロ
2022年 = 7 ナ
2023年 = 8 ※今年
2024年 = 9 辰の年
2025年 = 10
『七は成り、八は開くと申してあろうが、
八の隈(くま)からひらきかけるのであるぞ』
一応、載せておく
「さあ へ めつらしい事をゆいかけるで さあ へへ これ へ
あきおあいずに是迄ニ段々にゆうて有 秋をあいすニ見へかけ
るで さあ へ ふるきや いつの事やと思であろふ 秋をあい
づに是迄のはなしやで」
「秋了しもうたら楽しんで。この秋やろうかへ、秋を合図に出て来る。」
『さあさあ変わる変わるいよいよ変る。この度は世界の立替、善悪の立替、神の世となりて善の世界となりて、これを誠の世として、天理の世とする。承知してくれ。学者、金持ち、医者、坊主、百姓の立替、それで変る変わると云うておく。
ああ・・・・月日、何時飛んで出るやら。間に合う者、間に合わぬ者、人衆揃うて勤めせねばならん日がある。秋を合図立て合いに、より分け、さび分けをする。」
たとえば、「真実の世界」というのは、「今」にしかないのは明らかだね・・・?
真実の時間というのは、「今」しかないわけだよ
そこには時間の幅もない
われわれはこの真実の「今」というものを、知覚できない
われわれが世界を見ているときは、「時間の幅」で見ているわけだ。
どんなものごとでも、その物事を確認するには、「時間の幅」を必要とする
一瞬の流れ星でも、わずかながらの時間の幅・・・・ つまり、「継続」があるから、その存在を確認できるわけだ。
素粒子レベルの一瞬の輝きでも、わずかな瞬間の時間の幅があるから、存在を確認できる
つまり逆に言えば、継続しないものは、その存在を確認できない・・・・
というか、これは当たり前だよね
一瞬の継続もないということは、「無い」ということと同じだよ
我々の世界は、思考分別、我の想いによって、物事が継続的に見られている世界・・・・
つまり、時間の幅の世界ということだ
時間の幅が与えられることによって、物事のすべてが存在できている
つまり、継続的な見方が、物事を存在させている・・・ と言ってもいい
これらは本来幻だ
なぜなら、真実の今の世界には、「継続」というものがないからだ
真実の「今」においては、われわれが存在として認めていたものは、すべて消え去る
それが「空」ということ
真実の今 = 空 ということになるが、もう一つ…、真実の今においては、すべてが一体だということ
それは今この瞬間にとった写真であり、それらはその時にしかない
木だけを切り取って、次の写真に継続させることは出来ない
今そこで成り立っているものを、次の写真に移動させることはできない
次の写真には次の木があり、それで全風景が成り立っているのだから。
今この瞬間(真実の今で)、1枚の写真で、すべてが一つになっている
これは「縁起」と言ってもいい
つまり、「真実の今」において、すべての我は存在せず、一切が空であり、そしてその0の場が、1に帰した無限の土台だということ
(それが一つの意識であり、唯一神、創造神と呼ばれるもので、それはヤハウェ、アラーということ)
聖書で、「私はアルファであり、オメガである」 という言葉があるが、「始まり」と「終わり」が同時存在するのは、「今」ということだよね
「始まり」と「終わり」に間隔がない・・・ その差は0秒
つまり、時間の幅が無い
神社やお寺にある、狛犬や仁王像もそうだ
聖域の入り口で、「あ」と「うん」・・・ つまり、「最初」と「最後」が同時発声されている
この先の聖域は、「真実の今」・・・ と言わんばかりに。
仏教の悟り方もそうだし、すべての悟りの手法は、「今と一つになる」 という手法になってる
今と一つになるということは、イコール 無我・・・ ということ。
そしてそれは、「一に帰す」ということ
その繋がりが、愛として現れる
それは利他愛ということだよね
すべてのものが無我になって一に帰せば、必然的にこの愛が現れる
だから仏教では、利他のこころが重視される
それは縁起そのものの姿であり、一に帰して無我となった姿だからだ
その通り
たとえば、一枚の無限の絵があったとする
そこには分離はなく、すべては繋がっていて、無限の一しか存在しない
ところが、われわれは分別、我の想いによって、その一枚の無限の絵を、パズルのピースで分断するように見ている
一つ一つのピースに我(実体)があるように思い、それぞれは独立して存在していると見ている
しかし、それは結局おかしなことで、たとえていうなら、自動車の各パーツに「我」があり、
たとえば、車は左に曲がっているのに、タイヤは右に曲がり、ハンドルは真っすぐ進む・・・・ という風に、各パーツが勝手に動けるということになる
人間はそのように、我の想いで各パーツに独立した実体があり、それぞれが別個の存在だと考えている
しかし真実は、我(独立した実体)など存在せず、すべては縁起によって一に帰している
パズルのピースという我が消えることで、無限の一の上から幻想が一掃される・・・
つまり、空っぽになるわけだ。
空っぽになったところから、一枚の大きな無限の絵が現れる。
これが真我の源であり、ヤハウェであり、アラーということ。
諸法無我とは、一切の幻想としてのパズルのピース(独立した実体・我)が無くなることであり、それは「空」と同義だ。
良し悪しでいうと、「雑念」=悪 であり、「無念」=良 ということになる。
座禅中に雑念が湧くと、とたんに二元相対分別が働き、この悪い状態をなんとかしようとする・・・
雑念を消そうとしたり、意識を逸らそうとする
このとき、われわれは「雑念」と「無念」という概念に、実体があるように思っている
しかし実際は、「雑念」という概念は、「無念」という概念が無ければ存在できず、「無念」という概念もまた、「雑念」という概念がなければ存在できない。
これを「相依」というが、何かに頼らなければ存在できないものは、単独で存在することが出来ない・・・・
つまり、単独で存在できないものに、実体はない・・・ ということになる
「雑念」や「無念」に分別、我の想いを働かせなければ、雑念が出てもそのまま・・・ それでよい。
無念であればそのまま・・・・ それでよい。
雑念、無念、どちらでもよい・・・ という心境になる
これがいわゆるありのままであり、分別が一切動かない・・・ いわゆる「不動心」ということになる
どちらでもよい、どちらでも全く同じ・・・ ということになれば、両者の(分別としての)差は無くなる
差が0になる
差が0になれば、もはや雑念・無念という区別は意味をなさなくなる
このとき、雑念という我(実体)、無念という我(実体)は消える・・・ これが「空」になるということ。
そしてそれは、この二極が一つになることを意味する
それが「縁起」ということ。(つまりは桃の実)
また、二極どちにも全く捉われない・・・ 分別によって差別が生まれない・・・ この境地を、「中道」という
つまり、空 = 縁起 = 中道 ということになる
たとえば、大舞台で緊張を無くそうとしている人が、人という字を書いて飲んだりして、緊張を無くそうとしている・・・
バンジージャンプで飛び込もうとしている人が、恐怖心が無くなってから飛び込もうとしている・・・・
いずれもネガティブなものを変革によって消そうとしているものだが、実際は、この二元相対的な二極の葛藤をつづけている限り、この相対的な二極は消えない
「良い状態」を達成したとしても、必ずそこには対極の「悪い状態」がセットで付いている
この二つは切り離すことは出来ない
「良い状態」を求める限り、「悪い状態」もまた抱えていることになる。
本当に消えるのは、この二極が空になる時だ
それはこの二極が平等になるとき。
雑念があっても無くても構わない・・・ 差が0になれば、もはや雑念は雑念としての意味がなくなる
そのときはじめて、雑念が真に消えるということになる
『執着を捨て、成功と不成功を平等(同一)のものと見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。ヨーガは、平等の境地であると言われる。』
それはなぜかというと、常に比較分別が働いて、悪い状態を良くしたい・・・ という想いが働いているから。
悪い状態そのままではいられない。
これは、「今のそのままではいられない」 ということになり、真実の今からズレることになる
反対に、悪い状態とピッタリ一致する・・・ それが「今」と一つになるということと同義であり、それが無我ということであり、そしてそれが、極楽浄土(真実の今の世界)ということになる。
よくヴィパッサナー瞑想という言葉があるが、これは専門家を気取る人でも、その本質がわかっていない
これは「観察」ということだが、「観察」というのは、一切手を付けない・・・ ということだ
つまり、一切の分別を働かせず、そのまま、変えようとしない、ということだ。
たとえていうなら、ガラスの箱に土や木を入れて、昆虫を入れて観察するとする・・・
たとえば、昆虫が転んだからと言って、起こしてあげたら、これは観察にはならない
手を加えたことになる
観察というのは、昆虫が転ぼうが、何をしようが、そのまま手を付けず、見続けるということだ。
つまり、完全なありのままだ。
よくあるのが、「怒りを観察する」といいながら、怒っている自分を冷静に観察する第三者を作り出しているもの。
怒っている自分を観察する・・・ その観察する自分は冷静に見つめている・・・ こんなのは観察でもなんでもない。
もちろん、ヴィパッサナーではない
怒っている自分と、観察している自分が分離している。
ぜんぜん一つになっていない。
観察している自分が、すでに怒りを克服している(笑)。 そんなバカなことがあるか。
観察とは、怒りの自分と一つになること。
何も変えず、そのままであること。
なぜならわれわれは悪しき状態を変えよう変えようとするが、それは今の状態が許せないから。
今その状態に完全な許しを与えて、そのままでいいよと、変えることを一切しない
「悪しき状態」と「良い状態」は、同格なんだと。
だからそのままでいいんだよ、と。
そこで今と一つになるわけだ。
その完全なる許しが、真の観察ということであり、ヴィパッサナーということだ。
われわれがこの二元相対を越えるには、このヴィパッサナーの手法が必要になってくる
つまり、自分の悪しき状態に対する、完全なる許しが必要になってくるということ。
『かくて世尊は、この世成なる調い難きものどもを、なべてなびかす釈迦牟尼の、姿となりて、ものすべて、その本質は平等きを、示す教えを説き給う。
かかる教えに従えば、善悪超えてわれらみな、最勝し境地に赴かん。これぞ仏智の理趣ならん。その説法は左の如し。
くさぐさ欲は表れど、その本質は一つにて、善悪いずれに偏らず。
欲が一つであるごとく、瞋りもそのもと一つにて、善悪いずれに偏らず。
善悪超えたるものなれば、癡愚もそのもと一つにて、善悪いずれに偏らず。
貪り、瞋りまた癡さ、いずれもそのもと一つにて、区別・表れなしとせば、すべてのものは一つなり。
すべてのものは一つにて、区別・表れなしとせば、智慧の理趣また、これ一つ。
悪にその性なしという、かかる教えを説きてのち、世尊は呼びぬ、「金剛手」・・・・
かくて金剛手大菩薩、重ねてこの理趣示さんと、手に降三世の印結び、蓮の御顔微笑みて、しかも忿怒のさまを出し、眉をひそめて歯を出す。
その御姿は「降伏」にて、この理趣示す聖なる音、「フーン」を唱えまつるなり。』
許すことによって、状況を良くしよう・・・ ということじゃない
イライラがあればそのまま、不快があればそのまま、焦燥感があればそのまま・・・ ということ。
いっけん、ネガティブなまま、そのままということであれば、状況は改善しないように思えるが、実はちがってて、われわれはネガティブなものに抵抗することによって、苦を生じさせているということ。
事が起きたときに、それを感知したときに、われわれは即座に分別が働き、「良い状態」と「悪い状態」という価値判断が即座に起こり、その比較(分別)によって、苦が生じる
だから、最初にそれが起きたときに、分別が働かない状態であれば、苦は生じないということになる
本当にネガティブな状態と一つになることができれば、そのネガティブな状況は、ネガティブになることが出来ず、消えていく
そこまで行かなくても、ネガティブな状況のままでいいんだ、苦しいままでいいんだ、情けないままでいいんだ、だらしないままでいいんだ、何一つ変える必要がないんだ、この「良くない状況」と「良い状況」は、まったく同格なんだ、という完全な許しが与えられれば、ある時スッと心が軽くなることを感じられるはずだ。
それは分別の葛藤が収まり、苦と楽が平等になった瞬間ともいえる
それが中道を体感したということだ。
『この道は中行く道ぞ、左も右も偏ってはならんぞ』
『大層が大層でなくなる道が神の道ざぞ。
この道 中行く道、神示読みて早うガテン結構ぞ。』
『この道は中ゆく道ざと申してあろうが、中のの道は太神の道、中行く道が神の道、中の道が人の道ぢゃ。判りたか。』
『善と悪とは同じ事、大神様には同じ事。
悪があるから善がある、相対世界の実相は互いは互いの証明書、影こそ光の証なり。
陽と陰との融合を日月ひつきで示すこの度の真文明の世界なり。』
結局、日月神示すの「日月」というのも、陰と陽が一に帰すということを物語ってるわけだ
つまり、桃の実ということ。
表面的な装飾で、高いレベルの人間になったような気がしてる人・・・
こういう人は、真理が世に出始めると、まっさきに恥を掻くことになる
そして、もっとも下に落とされることになる
ヤハウェとしてのこの俺が、人間の最下層・・・、こんなもん、牛の糞となって出て来るのは、そうした価値観を破壊する意味もあるんだよ
トドメノフミ
『十二単じゅうにひとえに身を包み、みやび優雅ゆうがに振るふ舞まえど一厘無くば藁わら衣ごろも、まるめて捨て去る袋帯ふくろおび。
美人美形の者でさえ鼻毛一本まる潰れ、それほど一厘わかるぞよ、それほど一厘わからんぞよ。
その一厘ぞ別れ道、たった一厘分れ道。
濡ぬれ着ぎ汚よごれ着ぎ身にまとい蓑みのを負いたる者でさえ一厘あらば大丈夫、わしが言うから大丈夫。』
それは完全なありのままということであり、無分別ということであり、つまりは、完全他力ということだ。
われわれは本来、自分を許すということは、もっとも簡単なはずなのに、それは出来難いものになってる
なぜなら、われわれがこのマーヤー幻の世界に堕ちたのも、良し悪しの相対分別が原因になってるからだ。
われわれがこの相対分別を克服しなければ、次の新しい世界に行くことは出来ない
自分を完全に許すということは、今と完全に一つになるということ。 そしてそれは、一に帰すということ。
この教えは、オレがこれから世に出す教えともいえる。
この教えはオレのためにとっておきにとっておかれた。
それが弥勒が説く教えだからだ。
桃の実の教え・・・ すなわち、オオカムヅミが、青人草(今の人類)を救うときのための教えだ
トドメノフミ
『自己愛は悪の権化であるなれど、ここのわからぬ利他愛に真の利他愛わかられぬ。』
『フロムの場合は、愛の対象としては、自他を区別しないところが特徴である。
特定の誰かを、あるいは何かを愛するのではなく、愛はすべてのものに開かれた働きを指している。
したがって、自己を愛さない非利己的な愛(unselfish love)があるとす れ ば、 そ れ は「 神 経 症 的(neurotic)」 で ある、ということになる。
「「他人のためだけに生きている」という人間は、自分が自分自身を重要なものだと考えていないということに、誇りを持っているのである。
そして彼は非利己的であるにもかかわらず不幸であること、もっとも親しい人々
との関係さえもうまくゆかないということに気づいてとまどってしまう」と述べている
自己中心的(selfish)な愛は退けるべきである。しかし自己愛(self love)とは、全く別物である。
自己愛という言葉にこそ、「逆説的な要素が明瞭に含まれている」。
「愛とは私自身を含むすべての対象に対して示す同じ態度であること」。
愛とは特定のだれか、特定の何かに向けられるものではない。
「人間として隣人を愛することが徳であるならば、私とてもまた人間なのだから、自分自身を愛することはやはり徳でなければならない」。
「自分自身の統合性と特異性に対する尊敬、自分自身を愛し理解することは、他の個人を尊敬し、愛し、理解することから分離させることはできない」。
「他者への愛と自分自身への愛とは二者択一ではない」
マイスター・エックハルト
「もしも、あなたがあなた自身を愛するならば、あなたは、すべての人をあなた自身に対すると同じように愛するであろう。
あなたが、自分自身を愛するよりもわずかにしか他人を愛さないようでは、あなた自身を愛することにも、ほんとうは成功しないであろう。
しかも、もしあなた自身をも含めての、すべての人をひとしく愛するならば、あなたは彼らをひとりの人のように愛するであろう。
そしてそのような人とは神と人間との両者なのである。
かくしてこそ、彼は、自分自身を愛し、他のすべてのものを等しく愛している偉大
な正義の人なのである」』
日月神示
『他を愛するのは真愛ぞ。己のみ愛するのは自己愛ぞ。
自己愛を排してはならん。自己愛を広げて、大きくして、真愛と合致させねばならん。
そこに新しき道開けるのであるぞ。』
たとえば、平均台の上をフラフラ揺れながら歩いているとする
このとき、分別を起こして、揺れないで真っすぐに歩くのを、正常・・・
体が揺れるのが異常・・・ という風にしてしまったらどうなるか・・?
体が揺れるのが異常(あってはならないこと)と感じ、なんとかこれを無くそうとする・・・・
そうすると、常にまっすぐであり続けようとして、ふらつきが出ると、まっすぐな自分とふらつく自分との間に葛藤が起きて、苦が生じる
常にまっすぐであろうとして、バランスがとれず、直立不動のまま倒れていってしまうということを繰り返す
たとえば、面接のときに緊張してしまう、舞台に出ると緊張してしまうとしたら、「緊張するのは異常」、「緊張しないのが正常」、という分別を加えてしまうことがある
そうすると、緊張をなんとか排除しようとし、しかしそれが出来なくて、正常と異常の間で葛藤が起き、苦が生じる
正常になれない自分に対して、苦が生じる。
それを繰り返している限り、永遠にこの葛藤がつづき、二元相対分別の中で苦しみつづけることになる。
平均台を渡っているときに、ふらつくことに正常・異常の区別をせず、ただありのままを許すことができたら、ふらつきを認めることができたら、そこで初めてバランスをとることができる
このネガティブな状況を許す、認めるということが、ネガティブの状況と一つになるということ
これは合気道でも同じで、相手に腕を掴まれたとする。
大抵の人は、この掴まれた腕を動かそうとし、なんとかしようとする
そうすると、相手との間に葛藤が起きるわけだ
力と力がぶつかることになる
そこで合気道の達人が言うには、掴まれた腕を忘れてしまいなさい・・・、動かそうとするな、変えようとするな、 ・・ということ。
本当はそのネガティブな状況と一つになれば、その状況をコントロールできるということ。
平均台で揺れることを許し、一つになれば、初めてバランスをとることができる
緊張することを許し、一つになれば、緊張しながらも面接をこなすことができる
掴まれた腕を動かそうとせず、相手と一つになれば、そこで初めて相手の力をコントロールすることができる
一つになれば葛藤が消える。
その結果、苦も消える
真実に一つになれば、そのネガティブなものも、完全に消えてしまう
自分に起こるネガティブなもの・・・ なんでもいい。
不快感、焦燥感、怒り、だらしなさ、自分で自分を許せないこと・・・・
それがパッパッと出て来たときに、反射的に分別が働いて、これを無くそう、変えよう、意識しないようにしよう・・・ という反応を起こすのではなく、
その都度、このネガティブな状況を許す・・・ そのまま、ありのまま、変えようとしない、手を付けない・・・・ つまり、観察(ヴィパッサナー)が行われることが望ましい
何ども言うが、観察すること、許すことによって、楽になろうとすることじゃない。
楽になれないそのままを許すということ。
そうして苦・楽が平等になれば、真の楽が得られるということ
仏教ではよく、「苦楽を越えた楽」ということが言われる
これが二元相対を越えるということであり、これこそ中道ということ。
それを理解できるかどうか。
「苦楽を越えた楽」というときは、二元相対性・・・ 分別を越えたということを、言語をもって説明するときの仮りの表現にすぎない
それを「仮」と見るか、それとも、まだ「良し悪し」と見るか、そこが分かれ目になる。
そこが分かるかどうか。
この「楽」は、われわれが普段思考分別で見ている「楽」ではない
それを言語で説明すると、どうしても思考分別の世界に実体化してしまうが、そこをわかりやすく、今までも説明してきたつもりだ。
仏教では「勝義諦」と「世俗諦」というものがある
どうしてもわかりやすく、言語で説明しなければならない時が在る。
そのとき、受け取り側が、その真意を受け取れるかどうか・・・ というところが問題になってくる
『たとえば、[ある人が]「何も持っていない」と語ったときに、[その人に対して]「何ももっていないことまさに[それ]をよこせ」と云うまさにその人に[先の人が]何も持っていないことをどのように把握させることができようか、ということと[それは]同様である。
そのようであるから、それによって十力を有し大悲を有する勝者(仏)でさえも、[空性を事物(実体)と執着する人を]けっして治療することはできないのである』
中論
『このように執著して取るはたらきも、執著して取る主体も、全く空である。では、空である如来がどうして空なるものによって仮に設けられるのであろうか。
一一 「空である」といってはならない。そうでなければ「空ではない」とか「空であって空ではない」両者であるとか、また両者ではない【空でもなく、不空でもない】というであろう。しかしそれらはいずれも、仮説のために説かれるのである。』
『世尊のみが真の天眼をもっており、二元対立の相をもって見ることがない。
「平等というのはどういうことであるか?
それは、我もねはんもともに等しいとみなすことである。
なぜであるかというと、我とねはんとこの二つはともに空であるからである。」
この平等を体得すれば、他の病の起こることはない。
ただ空病(すなわち空に対する執着)のみがある。
この空病もまた空である。』
しかし、俺は、空を前提にその先を説く。
それを理解できるかどうかは、あなた次第だ。
トドメノフミ
『神はこれまで言わなんだ、何が何とて言わなんだ。
一厘隠しは神隠し。
一厘伏ふせねば立ちゆかん、これまでの世ぞ立ちゆかん。
されど時節ぞ来たからは一厘伏せては立ちゆかん、これからの世ぞ立ちゆかん。
ゆえに一厘明かすぞよ、これより一厘明かすぞよ。
神信心、無くばこれまで治まらん、これまでの世ぞ治まらん。
されどこれより神信心、超えねば世の中治まらん、これからの世ぞ治まらん、ここに一厘秘ひめたぞよ。
あらゆる教えは九分九厘、どなたの尊き教えとて一厘隠して九分九厘、一厘隠しはカミ隠し。
目の開く者ぞ現われん、されどこれにて日が昇る。
目開き盲が別かれゆく時節なりとはこの事ぞ。
越すに越せない大峠、迫せまり来たゆえ申すのぞ。
金神前より伏せていた一厘の事を申すのぞ。
上と下とのど真ん中、右と左のど真ん中、腹の中心ど真ん中、腹帯はらおび締しめて下されや。
こことこことの真ん中にそれぞれ神が降りるのぞ。
人それぞれの真ん中にこの度、神々舞い降りて、人なる肉身に鎮まりて三千世界ぞ建て直す。
世の建て替えとぶち潰し同時に起こると申すぞよ。
どちらに出るかその沙汰は金神次第と申すぞよ。
金神のご沙汰次第と申すぞよ。』
お東様よ
「叱りて分れる事ならば、きつく叱りてやるなれど、説いて分れる事ならば、つらつら説いてやるなれど、この事だけはどうしても、押しても引いても揺すりても、わかれる道理と違うから、ここ一厘は人任せ、人間任せと申すぞよ。
この事わかれる方々が出る程、道は別れ道、分れと申せど別れ道、わかれる人々増えたならわからん人々増えるぞと、道は二手に別れると、金神言う事、わかれるか。
理屈にて、わかる、わからん別にして、神が有るやら、有らぬやら、これまで続いた無駄話、この一厘にもケリの付く、分れ道ぞと申すぞよ。
こことこことの結び目が、こころなりやと申したら、まことごころと申したら、神の心のわかられる人達、わからん人達が二手にお別れする時ぞ。
ここで一断ちいたすぞよ。神から見ればこの話、わかれ話と申すぞよ。
さような事なら、さようなら、わからんままにてさようなら、何が何とてわからずにわからんままにてさようなら。』
神一厘の別れ道、お覚悟いたして下されよ。
こういう輩は、時が来れば灰になるだけ。
ただ、ここでそれを言ってもしょうがない
われわれのこの物質宇宙は消滅するが、それは単に、この世だけの消滅を意味せず、あの世も含めてすべての世界が消滅する
この世もあの世も輪廻も、すべてマーヤーの範疇に入るからだ
なので、キツネの類は、最終的に意識の残る場・・・・ つまりそれはブラックホールの中になるのだが、そこに永遠に意識がとどまりつづける
ゆえに、業火の地獄になるわけだ。
何万年、何億年経っても出られない、無限地獄だ
だから世界の宗教は、このことを口を酸っぱくして警告してきた
今決定的な時期が来ているのだ
この先、何十億年先、無限億年先を決するようなことが起きようとしている
ところが、キツネの馬鹿どもは、それを嘲笑し、からかいつづける
いかに創造主といえども、人間の最下層に下降してしまえば、それをみた者たちは彼をあなどる。
自分達を作った創造主に対して、嘲笑し、からかうという、非常に恐ろしいことをするわけだ。
しかし結局、この世界にはオレ一人の意識しかなく、そのオレの意識の中に、おまえらは造られているにすぎない
けっきょくこれは、自分一人の遊戯だ。
ただし、その遊戯ももうすぐ終わる
オレはあらゆる多様性を自分の中に見るために、種を撒いた
そうしてあらゆる可能性たちが育った。
その中の最良のものたちを、今収穫し、この世界を閉じるだろう
キツネをはじめとする悪・・・ 育ち損ねたものたちは、一かけらも残さず灰にする
人の世の中終る頃、狐、狐の狐憑きつねつき、上から下まで霊憑り、その九分九厘が狐ぞと人間様にはわかられぬ。
これこそまさにこりこりに狐こ狸り固まりた狐こ狸り狐こ狸りの狐狸の霊ぞと申すぞよ。
こんな手合いのお相手はもうこりごりぞと申すぞよ。
金神表に出たからは、これより人に蟠踞ばんきょした狐狸かたまりが大騒ぎ、上に下にの大騒ぎ、
七転八倒するさまが世のあちこちで見えるゆえ、シカリと見定め下されや、尻餅つかず、落ち着いてシカリと見定め下されや。
金神光が強いゆえ、表の守護となりたなら、今までゆるりと落ち着いて、蟠踞していた悪霊が、住み所無しぞと泡喰いて、跳んで火に入る事となり、わかりてくるぞよ、おもしろや、
やれ面白や、面白や。
悪の根絶ねだやしおもしろや。』
死刑囚にとって、もっとも怖いものは何か・・・?
それは絞首台でもなく、死刑執行人でもない。
死刑囚の命を決定するのは、「時」だ。
そしてそれはもう間もなくだ。
「私は世界を滅亡させる強大なるカーラ(時間)である。諸世界を帰滅させるために、ここに活動を開始した。」
悪は永遠に終わるであろう。
そして義が世界の基準として、
太陽とともに現れ出るであろう。』
『時の神様ほど結構な恐い神様無いのだぞ、この方とて時節には叶かなわん事あるのだぞ』
『この世では時の神様、時節を忘れてはならんぞ、時は神なりぞ、何事もその時節来たのだぞ、時過ぎて種を蒔まいてもお役に立たんのであるぞ』
『いよいよ時節来たのであるから、
何と申しても時節にはかなわんから、
神示通りになって来るから、
心さっぱり洗い晴らしてしまうて、
持ち物さっぱり洗いかえしてしまうて、
神の命に生きてくれよ』
『神幽現の三界の裏に隠れし金神の無念残念三千年この度、時節来たからは怨みつらみを晴らさんと天の御座所おざしょに駆かけ上のぼり三千世界を建て直す。
時節来たりて幕が開く、三千年の序幕なり。』
過ぎてるよな
神々様とて知らぬ事。』
今言っておく。
オレが最後の時節なんだよ
オレが最後のチャンスなんだよ
わかるかな?
オレが実地に入るまで、今少し時間がある
最後のチャンスをつかむかどうか、それはこれからのこと。
今少しの時間はなんなの?
オレが覚醒し、渦を作り出している間の時間。
そこが分かれ道
渦とは、救われる人を巻き込むための渦
大方決まっているかもしれないが、また決定的に表れていない
誰も確定していない。
多くの人が救われる・・・・ というのは、これからだ。
それはまだ始まっていない
弥勒の説法はまだ行われていない
それが始まれば、急速に多くの人が覚醒する
その波に乗れるかどうか。
その渦に巻き込まれるかどうか。
世界が帰滅に向けて動き出すのは、それからだ。
『神の御国に連れ帰る、一本橋ぞ渡るのぞ。
その橋立ての鼻先に、閻魔がドンと陣を取り、一厘持つ者、持たぬ者、白か黒かを分けるのぞ。
おぬしは絶対許さんぞよ、悪因縁のかたまりぞよ、見るも無惨な魂なれど、一厘有るで許すぞよ、何が何とてどうしても、神の御国に連れ行くと、閻魔が申さば大丈夫。
悪業、悪罪、悪因縁、あっと言う間に水の泡。
あわや、あわやと大慌て、慌てふためく目眩めくるめく、神のお慈悲のありがたさ。
おぬしに言う事ござんせん、どうぞお好きにされたしと、閻魔がサジを投げぬよう、シカリと一厘掴むのぞ。』
渦とは、意識の伝播のこと。
通常は言葉を頭で理解して、伝わるが・・・ つまり、言葉を思考で咀嚼して、相手の言いたいことを理解する・・・ ということになるが、
意識の伝播というのは、言葉を通して、丸まま相手の伝えたいこと・・、境地、体験的なものが、そのまま伝わるということ。
それが大規模に行われることが、渦ということ。
よくピンと来る・・・ というが、そのピンが、言葉の咀嚼ではなく、体感そのものになって腑に落ちる・・・ ということ
悟りの境地を説明したとすれば、それがそのまま、悟りの境地が体感されるよように伝わるということ。
それはマーヤーと同じだ
カルマは本当の自分自身じゃない
今自分が考えていること、行いなどは、カルマによってすべて決まっている
たとえば親鸞はあるとき、弟子に向かって、「おまえは私の言うことを何でも聞くか?」と言った
弟子は、「親鸞聖人の仰せならば、何でもお聞きいたします」 と答えた
そうすると親鸞は、「ならこれから行って1000人の人を殺して来い」 という・・・
弟子は、「いや、いくら親鸞聖人の仰せでも、それはさすがに出来ません」 と答える
親鸞は、「そうであろう、例え1000人殺そうと思っても、因縁の無いものは一人も殺せないのだ。
しかし、例え一人も殺すまい・・・ と思っても、因縁のある人は1000人でも殺すのだ」 と言った
だから、因縁生の自分を相手にしていてもしょうがない。
いってみれば、これはドラマの筋書きにすぎない
われわれの本性は外からこのドラマを見ている
しかし、いつの間にかドラマに巻き込まれ、ドラマの筋書きを演じてしまっている
それをわれわれは、些細なことまで自分でやっていると思っている
しかしそれはちがう
些細なことまで筋書きは決まっているのだ
だから、ドラマの中の自分を相手にしていてもしょうがない
自分の本心はドラマの外にあって、たとえドラマで悪業を重ねようが、何が起ころうが、外で見ている自分には全く影響しない。
これは仏教では蓮の花と泥の関係で表される
泥がいくら汚れていようが、その中で咲く蓮の花には一切影響ない
蓮の花を一切汚すことはできない
この自分はありのままでいい、ありのまま(ドラマの筋書き)に一切手を付ける必要はない・・・ と。
そこで意識を念仏にもっていった。
どんなことがあっても、一切手を付けない(分別を働かせない)、ありのまま。
ただ何があっても南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
ここに意識を置くということが、蓮の花ということだ。
泥の世界から蓮の花に意識をシフトする・・・
ドラマの世界からテレビを見ている自分へ意識をシフトする・・・
そのためには、ドラマに気をとられて(分別を働かせて)はならない
「そのままでいいがな」みつを。
いくら自分が情けなくても、いくら自分が汚れていようとも、悪業が出ようとも、そこに一切の分別を働かせない、価値判断しない・・・
それが、完全他力。
完全他力、完全なありのままは、「今」とピッタリ一つになることと同じこと。
そしてそれは「悟り」と同じこと。
どんな悪業があろうと、ドラマの中でどんな悪の筋書きがあったとしても、ドラマの外に出れば、それは水の泡(空)となって消える
『この世における人の欲、おしなべてみな浄らなり。
欲みななべて浄らにて、欲より生ずる瞋りまた、必ずすべて浄らなり。
欲に瞋りにまた愚か、およそ世にある垢(けがれ)ども、その本性いずれも浄らなり。
はたまたすべて世なるもの、その本性なべて浄らにて、この世なるひと、みなすべてその本性なべて浄らなり。
かくて世にある智慧すべて、その本性すべて浄らなり。
かくて世尊は説き給う
「いかに聴きしや金剛手、
いまわが説ける智慧の理趣、わが身に保ち、読み唱え、よく心中に思いなば、
たとえ五欲にいまみる事も、わが身汚るることはなし。
五色に咲ける蓮華葉が、泥より出でてその泥に、些かも汚れざるがごと、
人の性なる清浄も、たとえば塵にまみるるも、その奥底に帰るとき、無上のさとり出ずるなり。」
かくて観自在なる大菩薩に、姿を変えしびるしゃなは、顔をやわらげ微笑みて、
弓手に持ちし蓮華をば、右手で聞きて示し給う
こは「開ける蓮華」の印にて、「泥の蓮華」を示すなり。
欲が本性染(けが)すことはなく、ものも染さざることはなし。
この教えをば示すため、聖音「フリーヒ」と唱えたり。』
バガヴァッドギーターの有名なこの詩だが・・・・・ アメリカの初の原爆実験を成功させたオッペンハイマーは、原爆実験が成功したとき、この詩を想い出したという・・・・
彼はバガヴァッドギーターの愛読者だったということだ。
オレはこの詩を見るたびに、なぜかオッペンハイマーのこの話が脳裏をよぎるのだが・・・・
今何気なくネットサーフィンしてたら、なんとアメリカで、オッペンハイマーの映画の上映が開始されたらしい。
https://youtu.be/uYPbbksJxIg
果たして、この映画の中で、このバガヴァッドギーターの詩のシーンは出て来るのだろうか・・・?
シンクロが働いている可能性があると。
オレは昔から、18や81、666や999などの数字に縁があると思ってる
とくに9にまつわる倍数には、何か強力な縁があると思ってる
ここではいわないが、9にまつわるある数字の羅列が、オレのナンバーだと思った
たとえば、昔の牛頭天皇関連の発掘された木簡から、九九八一 一八九九 と、上下逆さまに向き合うように書かれたものが出て来たという記事があった
確かに、数字にすると、9981 1899 というのは、逆さにしても通用する
この数字を逆さにしたり、反転させたり、左右対称にするというのは、スピリチュアル的な意味がある
それで、今日あるブログを見ていたら、18の数字について書かれていた
567(みろく)は全部足すと18になると。
ああ、そうだ、666も18だったなと、今までうっかり忘れていたことを思い出した
このブログは岡田茂吉の論文からの写しらしい
以下、その文書を載せておく
此十八の数に就て大本教の御筆先に斯うかいてある。
『今迄は天が六、中界六、地が六でありたものが、天から一厘の御魂が地に降りられたので、天は五となり、地は七となりたのであるぞよ』と然し、此意味は最も深奥なる神の経綸であって、此一厘の御魂こそポチであり、麻邇の玉であり、如意宝珠であり、之によって五六七の御世が生まれるのである。
又三六九をミロクとも云われるが、此事は最後の天国篇に詳説するつもりであるから略すが、兎に角十八の数こそ最も重要なるものであって之を文字によって解釈してみると、十は経緯の棒の結んだ形であり、又神の表徴でもあり、完全の形であり、又八は開く形であり無数の意味でもあって、昔から仏教に於ても十八の数をよく用いている。
浅草の観音堂も善光寺も十八間四面であり、毎月の参詣日も十八日であり、十八を倍にすれば三十六でミロクである。
除夜の鐘は百八つ打ち、数珠の数も百八個あり、百八煩悩などとも言われるが此場合の百は十が十で百となるので、之等をみても悉くミロクの意味が含まれている。」
煩悩=四苦+八苦
108=(4×9)+(8×9)
108自体が、9×12 ということだな…
架空の霊鳥みたいなやつ
「鳳」は一の鳥と書く
「凰」は白の王と書く
「白」というのは、「百」の上の一を抜いたもの。
つまり、99を表す
つまり・・・ 99に1が入って、完全な100%になる・・・ みたいなイメージだろうか。
1厘の仕組みを彷彿とさせるような感じだ。
昔、「コインの裏と表は平等、10円玉の裏も表も10円玉・・・」 みたいなことを言ったら、10円玉の裏に描かれてるのは、平等院鳳凰堂だ、って突っ込みが入った
平等院鳳凰堂とか、まったく意識せずに言ったんだが、見事にシンクロしてた。
この、百に一足らない99という話も、スピリチュアル界隈ではよく出て来る話しだ。
たしか、白山きくり姫も、そういう感じの話があったと思う。
『艮金神大国常立尊が、神功皇后殿と出て参る時節が近よりたぞよ。 此事が天晴れ表に現はれると、世界一度に動くぞよ。 モウ水も漏さぬ経綸が致して在るぞよ。
明いた口が塞がらぬ、牛糞が天下を取るぞよ。 珍らしい事が出来るぞよ。 アンナものがコンナものに成りたと、世界の人民に改心致させる仕組であるから、チト大事業で在れども、上十いたさして、天地の大神へ御目に掛けるから、艮の金神はカラ天竺までも鼻が届くぞよ。
この仕組は永らく世に落ちて居りての、艮の金神の経綸であるから神々にも御存知の無い事が在るから、人民は実地が出て来る迄にヨウ承知を致さんぞよ。 是でも解て見てやるぞよ。
今度の二度目の世の立替立直しは、因縁の在る身魂でないと御用には使はんぞよ。神の御役に立るのは水晶魂の選抜ばかり、神が綱をかけて御用を致さすのであるから、今迄世に出て居れた守護神は、思いが大分違ふぞよ。
是も時節であるぞよ。 時節には何も敵はんぞよ。上下に復るぞよ。』
つまり、この宇宙は俺のみている夢に過ぎず、おまえらは俺によって創造(想像)されたものにすぎない・・・
そして、俺はオレ一人では寂しいので、シミュレーションゲームのような世界を作り、他を味わえる世界を作り出した・・
そしてそこに自分も下降し、一介の人間として成り下がり、やがてはそこから覚醒し、世界を回収する・・・
そういう話をしてきたわけだが、これを、「聖クリシュナの神譚詩」(バーガヴァタ・プラーナ)坂本弘子訳 から、関連した詩を抜き出したいと思う
根原主なる至上主は やがて多様を意図なされ
想いのままにこの宇宙 創造 維持し破壊して
すべてのものを支配さる 』
『ふと 或る時に至上主は 辺り一面 眺めらる
なれど其処には何も無く 唯 在るものは己のみ
その時御主は熟慮され 己が内部に眠りたる
シャクティ(力)用い対象(客体)を 創り出さんと意図されり 』
ここでみると、やはり客体を作り出そうとした・・・
つまり、一しかないものを、他を味わえるようにした・・・
ということだろう
『至上主はその対象を
真と非真の性を持つ 二つの相を意図されて
マーヤーというシャクティを 主の内部から取り出だし
そを縦横に駆使なされ 宇宙のすべて創られり 』
『カーラ(時)によりてトリグナ(プラクリティに内蔵されている)の
その均衡が乱さると プルシャなる主の本質(種)が
形を造る原質(胎)の プラクリティに作用する
斯くして御主は〔種〕(プルシャ)と〔胎〕(プラクリティ)と
〔時〕(カーラ)で宇宙を 生み出さる 』
地球に降臨なされしは 如何なる意図を持たれてか
主の本質は無活動 支配するべき御方が
何故にこの世の様式を 用いて活動為されしや 』
『やがて御主は降臨の 事績を終えて永遠の
常世に帰着されたまう その道程のあらましや
ヨーガを統べる唯一の 御主であらる至上主が
多様な姿 顕現し 為されし秘話を説き給え 』
『そして御主が化身され ブラーフマナや乳牛や
神々の幸 望まれて 楽しむごときその御業
何とぞ吾に聞かせあれ 甘露のごとき至上主の
御事績謳う神譚詩 心に充ちぬことありや 』
『根原主なる至上主は 己が本質 分離して
現世や他の各界や そしてそれらを総轄し
守護する神ら創られり 宇宙を統べる法則や
生命体の規矩なども 事細やかに定められり 』
而してそを分割し ルドラの神(ルドラは自分を33に分けた)に与えらる
ルドラによりて分けられし 個我(ジーヴァ)は器(肉体)を与えられ
己が務めを果たすべし 』
『根本原主クリシュナは 御主御自身のマーヤーで
グナを巧みに組み合わせ 宇宙創造成したもう
そしてそれらを維持されて
やがて時節が至りなば 己が胎内へと収めらる』
『水面に映る月影は 微かに揺れて見ゆれども
月が揺らめくことはなし そは水の持つ属性の
“揺らぎ”が〔斯う〕と見せるのみ
これと同じく肉体の 非真(具象)の性は分魂(個我=ジーヴァ)の
真の姿を被覆して 個我(ジーヴァ)を具象(肉体)と見せかける』
つまり、もともと唯一神の「月」から派生したものであるものが、、各水面に映った「月」がゆらぐのを見て、これが自分自身と錯覚するわけだ。
『斯くの如くに人間は 自分自身(主の分魂=個我=ジーヴァ)と
肉体(グナによって具象化されたもの)を 同一のものと誤謬する
然れどもこの謬見(間違った見解)は 御主への帰依が深まれば
厚き恩寵 戴きて 徐々に消滅するならん 』
『この世で“在る”と見たものは 夢幻の絵空事
すべて実在せぬものと 吾は得心したるなり
在るかに見せる〔幻〕を 取り除くには聖仙の
御足に奉仕することと 堅く決定したるなり』
主は一切に遍在し 厚く保護して維持される
全能の神クリシュナは 御自らのシャクティ(力)で
ゲームの如く楽しまれ 創りしものを破壊さる 』
まさに、シミュレーションゲームの世界だ。
『シヴァ神さえも汝らも そして斯く言う吾もまた
主の本質を知らざりき
況や他の神々が 如何で知ること出来ようぞ
主のマーヤーで創られし この万有の実体は
己が知覚に従いて ただ類推をするばかり』
分離的に表れている神々はもちろん、ただ一つの意識・・、 唯一神の本質、計画を知ることは出来ない
『無限の力持ちし主は
御自らのマーヤーで 宇宙創造されし時
タパス(苦行) に 私(ブラフマー) 造物主(9人のプラジャパティ)
そして維持する時代では
ダルマ ヴィシュヌ(供儀の主宰神)やマヌ達や 大地の神に顕現し
宇宙が滅ぶその時は
アスラ(悪魔)を始め アダルマ(不正義)や
破壊(ハラ・シヴァ神) 欲望 憤激の 神とて化身なさるなり』
唯一神は最後、滅びの神・・・ つまり、鬼としても現れるわけだ。
滅ぼされる側にとっては、この神は悪神にも見えるだろう。
具象化されしものも無く 唯一 吾が在りしのみ
宇宙が創造されし後も 吾は存在を成し続け
宇宙滅亡したる後も 唯 一人のみ残存す 』
これは決定的な詩だが、けっきょく、世界には一つの意識しかなく、それが全てで、他のものはその内部に創られたマーヤー(幻)にすぎない
内の者から見れば、まさに、壮大なスケールの物語が展開されるが、なんのことはない、世界にはオレしかおらず、それが全てで、無限憶念の彼方から存在し、また一切無くなるということもない・・・
最初からこれしかなく、今後もこれしかない
この状況は、とても悲惨な状況と言えるかもしれない
たった一人しかいない恐怖・・・・
だからこそ、「他」を渇望するわけだ。
俺から見るとこの世界も宇宙も、まさに夢だ。
全部オレが作り出した。
そして今、この他を味わう世界を完成させるため、なんらかの理由があってこの世界に一介の人間として落ち、転生を繰り返して、他を味わってきた
オレが覚醒したときに、その全容がわかるだろう
オレの夢の世界の人々? オレの声は聞こえるだろうか?
自分自身の自我もって聞こえるだろうか?
だがそれは、その自我さえも、オレの内で何十億年もかけて作り上げられたものにすぎない
オレと同一の自我を持っているものは一人もいない
それは自分の見ている夢の中の住人が、個性があるように見えて、実在の自我を持っていないと同じだ。
夢が消えれば夢の中の住人も消え、あるのはただ起きている自分一人だ。
しかし、夢の中の住人も、起床の唯一人に合致できるチャンスがある
一緒に起きることが出来れば、そこが新しい世界となる。
そのためには己の自我を無にして、本質である「月」を見ないといけない。
吸気と共に入りこむ そを〔ニローダ〕と言いしなり
そして個魂のジーヴァーが 虚妄の姿(自己と肉体との同一視)放棄して
己が姿(梵我一如)の真実を 悟りしときが〔解脱〕(ムクティ)なり』
必ず、日常性の生活そのままに、悟れる方法があるはずだと・・・
優しい悟り方があるはずだと・・・。
そして最近、ようやくそこに行き着いた気がする
むかしは結構厳しい修行のようなことをしていた時もある
中学生の頃は、スポーツを徹底的にやりこんでいて、修行のようになってた
朝から晩まで、ゲロを吐きながらやってた
そういう風にしていると、あるとき、自分の身体が勝手に動いて、ファインプレーのようになることがしばしば出て来た
それで決定的だったのは、まったく無意識に・・・ その時の記憶が完全にないほどに、超絶的なファインプレーが出たことがある
それが出た瞬間、周囲からウォー!と歓声が上がり、知ってる人は「また出たね」と声を掛けてきた
無意識のファインプレーを知ってる人だ。
そのファインプレーの直前、頭の中の雑念が止められなくなる・・・ 次から次へと湧いてきて、コントロールできない
完全に「ああしよう、こうしよう」という我の想いの力が入らない状態・・・
そして、まぶたが徐徐に落ちてくる・・・
そうして半眼の状態になる。
仏像でも半眼になっているが、これは、我意識が働いている時は、目はハッキリと開き、無意識の領域に入って来ると、かえって資格情報が邪魔になってくる・・・
最低限の資格情報に絞るため、目が半眼に落ちるということだと思う
宮本武蔵という有名作家の書いた小説があったが、その中で、武蔵の決闘のシーンで、武蔵の目が半眼に落ちた・・・ というシーンがあったが、あれはよく分かって書いてると思う
人は深い三昧に入ると、目が半眼になるということだ。
これはたとえば、こういう時があった
あるときバスケットボールの試合をやってるとき、相手側の陣地からコートの真ん中までボールをつきながら走っていたが、前方に二人の敵が立ちはだかった・・・
とたんに意識がとんで、ふっと気が付くと、ボールがその二人の間を抜けていくとこだった
相手と目があったが、あぜんとした顔をしたまま、凍り付いていた
相手はピクリとも動けなかった
意識が戻る瞬間、半眼に閉じていた目が徐徐に開いていくのがわかった。
つまり、意識が飛んでる間、半眼状態になっていた・・・ ということだ。
そして気が付いた瞬間、左手が背中に回っていた
これはどういうことかというと、ついていたボールを左手で背中に回し投げたということだ
それが瞬間的に行われたため、二人の敵は手も足も出なかった
そのボールは二人の間を抜け、リングの下にいた味方の足に正確にあたった
そいつは二人に囲まれるの見て、これは無理だと別の方向に移動しようと、個別の方向を見ていた状態だった
無意識のうちに、すべてが完璧に行われた
こういうのを、俗に、ゾーンに入る という言い方をする
それは集団で、炎天下の中、猛特訓を行うものだが、あまりにもきついため、逆に気を抜いて力を温存しようとすると、つづかなくなる
気が抜けない・・・ 最初から全力でいかないと、逆に倒れてしまう
それほどキツイ訓練だった。
そこで特訓が始まると、最初から全力を出していく・・・
少しも力を抜けない
すると、5分くらい経っただろうか・・・、 ふと時計を見ると、既に3時間が経過していた。
これも三昧の経験だが、時間を完全に超越するような体験をしたわけだ。
これは「剣と禅」という本に、同じようなことが書いてあった
あるとき禅をやりこんでいた主婦が、夕方、家事の合間に座禅を組んだ・・・
しばらくしてから、下の方が騒がしいので降りて見ると、家のものが朝食の支度をしているところだったと・・。
こういう風に、厳しい修行によって、無我に近づく・・・ というのも、一理はあるわけだ。
だから、千日回峰行というのも存在するわけだ。
たとえば、ある修行法を試したことがある
それは、良いことだと思ったら、それをすぐする。
パッパッと、ためらいもなくすぐ行う
ダメなことはすぐ忘れる
娯楽に関わることは一切しない
夜は明日の準備をしたら、瞑想してすぐ寝る
なにも考えずにすぐ眠る
朝起きたらすぐに掃除をして、また瞑想して、余計なことを考えない
そうやっていくと、心が明鏡止水のようになってくる
そうしてあるとき、他心通を体験したことがある
知人と一緒に食事をしていると、相手の考えてることがそのまま伝わって来た
「〇月〇日に○○へ行こう」 彼はそう思っていた
その想いがそのまま伝わって来た
そこで、「今〇月〇日に〇〇へ行こうと思ったでしょ?」 と聞いたら、その通りだと、啞然とした表情で答えた。
あとで日月神示を見たとき、全く同じことが書いてあったので、オレの考え方を同じだと思った
「身魂磨きとは、善いと感じたこと直ちに行うことぞ」
もちろん、ゾーンに入ったときは完全に無になって、記憶に残らないわけだが・・・
それが24時間つづくと、まったくの無・・・ ということにもなるわけだが、オレはただそれだけで終わるとは思わない
少なくとも我が無になる課程において、自分を通して完璧な動作が現れる・・・ ということは、確認できるようになると思う
本来人は、我がなければ、その動作は完璧になるものだ
それは自分の中の余計な障害物がなくなるため、宇宙の一体性がそのままそこを通して出て来るからだ
つまり、無我ということは、神の入れ物になるということ
そうして空っぽになった自分を通して、宇宙の一体性の力が現れれば、その人はその瞬間、神になったと言える
多くの人はここを目指すべきだ
なぜなら無我になればなるほど、今と一つになればなるほど、物事がうまくいくようになり、運がよくなり、話もすこぶるうまくなり、周囲の人から好感を持たれ、また周囲の人に光をもたらすものとなるからだ。
たとえば、こういうことはよくある
なかなか探しているものが見つからないとき、ふっと何も考えずに、全く無意識に座布団をふとめくったら、その物があったとか、
今に入っていると、全く無意識に行った行動で、うまい具合に問題が解決するという経験
今と一つになって我が無くなってくれば、まず、運が良くなってくるという体験をするだろう。
そうして究極的には、無我になれば、今と完全に一つになれば、こういう風になるわけだ。
ルーミー語録から
「心中無一物の道、これこそはあらゆる願いを叶えてくれる道。どんなことでも、望む ことはこのごとく叶えられる。押し寄せる大軍を打ち破りたい、敵を負かしたい、国 々を攻略したい、人々を屈服させたい、己れの仲間の上に出たい、美しい言葉を喋り たい、弁舌巧みでありたい-その他これに類する何であれ、すべては思いのまま。無 一物の道を選びさえすれば、こんなことはなんでもたやすく手に入る。この道を辿っ て、後でしまったと思った人など見たことがない。 」
無一物以外の道の場合には、必ず縁因というものがあ り、それぞれの目標に到達する特別の方法がある。縁因を通してでなければ決して目 標には行き着けぬ。
これは実に迂遠な道だ。至るところに陥穽があり障碍が待ってい る。それに縁因なるものがそう思い通りに現われてこないことがある。
しかしお前がたがこうして無一物の世界に踏み入り、無一物を事とする身となった上 は、いと高きにいます神が、今まで想像だにしたこともないような国々を、いや全宇 宙をお前がたに授けて下さるのだ。
昔、願っていたこと、欲しがっていたものが恥か しくなって、『やれやれ、なんとしたことだ、こんなに素晴しいものがあるのに、あ んなけちなものを追い廻していたとは』と嘆く。
すると神様がこうおっしゃる、
『今 でこそ、そなた、あんなものに用がない、要らない、いやらしい、などと言っておる が、あの頃はあれがそなたの念願であった。
それをわしのためにこうして潔く棄てて くれたからには、わしも無限の好意を示してつかわそう。 そなたの棄てたものをきっ とわしがそなたに返してやろう』
と。 」
それを付け加えるのを忘れていた。
「弓と禅」という有名な本があるのだが、これは戦前に、オイゲン・ヘリゲルというドイツ人が大学の講師として招かれ、赴任中に弓道の達人に弟子入りし、指導を受けるという内容の話だ。
ヘリゲルは俵の前で射の姿勢でずっと待ち続けるということに嫌気がさし、疑問をもって、休暇のときにアーチェリーのように練習してしまい、自分で勝手に上達したと思い、師範の阿波研三の前で見せてしまった
すると阿波健三はヘリゲルの弓を取り上げ、背中を見せて座った・・・
これは破門を意味した。
俵の前で射の姿勢で待ち続けるというのは、自分の「想い」で射ようとするのではなく、無意識の意で射ようというものだろう・・・
自分が射ようとしなくても、勝手に、無意識に完璧な射が行われる・・・・
それが出て来るのを待つわけだ。
ところがドイツ人のヘリゲルにはこれが理解できない
破門になってから共通の知人を通し、自分の疑問をぶつけ、弁解を行った
その結果、ふたたび指導を受けることが出来るようになった
ヘリゲルの疑問は尽きず、ある日師範に尋ねる
「いったい射というのはどうして放たれることができましょうか、もし"私が"しなければ」
師範は答える
「"それ" が射るのです」
ヘリゲルは疑問を持ち続けるが、あるとき、阿波研三が、
「私は、的を見ないかのように見るのですから」
と答えたのに対し、
「それでは先生は目隠しをしてもあてられるに違いないでしょうね」
と、皮肉交じりに言った
すると阿波研三は言った。
「今晩おいでなさい」 と。
その際、的の方の電灯は全部消すように指示し、的の方向は真っ暗で見えなくなっていた
阿波健三は礼法を舞い、一射目を放った
矢は闇の中へ飛んで行った
炸裂音がして、ヘリゲルは矢が的に当たったことを知った
つづいて阿波健三は2射目を放った
ヘリゲルが電気を点け、的を見ていると、一射目が的の中央の黒点に当たり、二射目が一射目の矢の筈を引き裂きながら、これもまた黒点に当たっていた。
的をそのまま持ち帰ったヘリゲルに、阿波健三は言った。
「とにかく私は、この射の功は"私" に帰せられてはならないことを知っています。
"それ" が射たのです。
そしてあてたのです。」
『 的と私が一体になるならば、矢は有と非有の不動の中心にある。
射は術ではない。的中は我が心を射抜き、仏陀に到る。』
そのとき、身体の力みが全て抜け、重心が丹田(腹の奥底)に落ちるという体験をした。
すべての力みが消えるというのは、心身ともに軽くなる
今まで体験したことのない軽さだった
人は何もしない時でも、常に良し悪しの二元相対葛藤の中で、心身に力みが生じている
この力みは、普通の人では、おそらく大人になってから一生消えることはないだろう
しかし本人は気づかない
ありのままでいいという体験・・・ この瞬間、なんて自分はちっぽけな存在だったんだと、真に感じる
人は自分を変えよう変えようとするが、それは自分の存在感を他者に対して立派なものにしようとしてるからだ
ありのままでいいと分かったとき、それが全て消える
本当に自我の自分がちっぽけな存在だとわかったとき、真我が現れ始め、世界を巻き込むようなシンクロニシティが起き始める
これはまるで笑いがこみあげるときに、腹が振動するような感じで、ゲラゲラと笑いがこみあげる・・・
その笑いの源が、下腹の奥にあるような感じだ
これが起きたときは、毎日何をしてても笑ってる状態だった。
今思えばこの振動は、クンダリニーチャクラの振動だったと思う
チャクラが目覚め始めていたわけだ
この時期は不思議なシンクロニシティの連続で、そのときの心境の状態は、「たとえ今ホームレスで、無一文で、雨に濡れながら軒下で雨宿りしていても、笑って生きていける」 という絶対の自信があった。
この腹の奥底から湧き上がって来る最高の幸福というのは、何ものにも依存しない幸福・・・・
普通の人は、幸福というものを何かに依存している状態だ。
たとえば、お金に依存して幸福を得ている・・・
健康に依存して幸福を得ている・・・
美味しいものを食べて幸福を感じる人も、良い家に住んで幸福を感じる人も、仲間に幸福を感じる人も、すべてはそれらに依存して幸福が成り立っている
だから、それらを失うと、途端に不幸になる
つまりそれらの幸福は、良し悪し・・・、幸不幸という二元相対で追及された「幸福」 ということで、真の幸福じゃない。
もしここに、1000億円出しても得られないような幸福がこんこんと湧き上がって来たなら、もはやお金もいらないということになる
なぜなら、お金は幸福を得るために使うもので、すでに1000億円以上もある幸福があるのに、お金を得る必要がないからだ。
こういう心境になると、自分に対してネガティブなことが起こっても、それを見ながら最高の幸せが湧き上がって来る・・・ という体験をするようになる。
20歳くらいの若い人で、何年か前に交通事故に巻き込まれ、深い障害を負った
車いすで生活し、脳にダメージを受けていて、しゃべり方も身障者特有のそれだった。(ろれつが回らないような感じで、顔をゆがませながらしゃべる)
その青年は最大の不幸を味わっているはずなのに、常に笑顔に満ち溢れていた
ボランティアの大学生が来ていたのだが、支援というより、まるでその青年を慕って集まって来てる感じだ
あまりにも幸せそうに見えたのだろう、ここでインタビュアーが絶妙の質問をした
「もし事故に合う前の、健康な自分に戻れるとしたら、戻りたいですか?」
その青年は満面の笑みで答えた
「いいえ、戻りたくないです。 今が一番いいです。」
と。
今と完全に一つになっている状態・・・
今ここにお金にも代えがたい、健康にも代えがたい、最高の幸せがあるから、何もいらない、何も変える必要がない・・・
彼の境地は悟りの境地と言っていいだろう。
もはや後退がないような感じだ。
通常、景色などは、より高いところから見た方が、全体を見渡せる。
しかし、下町の生活や、個々の細かい心情などは、けっして高いところからは見えない
逆に最下層に落ちるからこそ、それらの全体が見渡せる・・・ ということがあるかもしれない
つまり、もっとも高いところから見るヤハウェの本質と、もっとも最下層から見るヤハウェの化身・・・・ この二つがやがて一つとなって、最終的に世界を統合する・・・・
そうして天と地を統合した新しい世界を作り、多でありながら一、一でありながら多、という世界で、多を統合する中心者として、対象を味わう世界を作ろうとしているかもしれない
この天と地の二つの関係は、ナラとナーラヤナの関係(ナーラヤナがクリシュナ ナラがアルジュナ)・・・ クリシュナとアルジュナの関係と言えるかもしれない。
クリシュナはもじどおり、唯一神ヴィシュヌの化身であり、アルジュナは人間の王子だ。
バガヴァッドギーターではアルジュナがクリシュナから教えを受けていく。
また、アルジュナに対してクリシュナは、唯一神としての壮大の姿を見せる
クリシュナは天の唯一神の現われであり、アルジュナは地の唯一神としての現われ・・・ と見て取ることもできる
ここではアルジュナが主人公であり、アルジュナが目覚めていくことが、重要視されるのだ。
この二人が最後一つになるときが、天と地が結ばれるとき・・・
あるいは、ナラとナーラヤナの話では、ナラは白い肌で描かれ、ナーラヤナは黒い肌で描かれる
これはホワイトホールとブラックホールを彷彿とさせるが、このブラックホールとホワイトホールの統合・・・ あるいは、イザナミの黄泉の国とイザナギのこちらの世界の、岩戸開きによる統合・・・ あるいは、パラレルワールドとの統合・・・ ということも言えるのか・・・
それはこれから徐々に分かって来るだろう。
クリシュナは肉体の死の前に、父親に遺言を残す
『私はアルジュナであり、アルジュナは私です。彼は女、子供たちを守り、あなたの葬儀も行ってくれるでしょう』
wiki
「二人の関係の深さは単語にも表れ、クリシュナとアルジュナは度々「クリシュナウ(二人のクリシュナ)」と呼ばれる。サンスクリット語の名詞では、単数形・複数形以外に「二つのもの」を表す「両数形(双数形)」が存在し、不可分の緊密な一対のものを指す。「クリシュナウ」はこの両数形であり、一対の関係であることが強調されている」
『春が来れば草木に芽が出る.花が咲く。
秋になれば葉が枯れるのじゃ
時節よく気つけて取り違いせんよう致してくれよ。
時節ほど結構なものないが、また恐いものないのであるぞ。
ちょうと呼吸のようなもので一定の順序あるのぞ。
吸の極は呼となり、呼の極は吸となるぞ。
これが神のはたらきであるから、神の現われの一面であるから、神も自由にならん。
この神も時節にはかなわんのであるのに、そなたは時々この時節を無視して自我で、あるいは時節を取り違いして押しまくるから、失敗したり怪我したりするのぢゃぞ。
素直にしておれば楽に行けるようになっているぞ。
時待てば煎り豆にも花咲くのであるぞ。
水が逆に流れるのであるぞ。 上下でんぐり返るのであるぞ。
上の人が青くなり、下の人が赤くなるのであるぞ。』
そのとき、いつもお参りに行く木花開耶姫の神社があって、その日はちょうど5月5日で子供の日だった。
ふだんはない大きな日の丸の旗が掲げられていて、お参りのあと、帰って行くときに、大きな日の丸を見上げた・・・
そのとき、その日の丸がまさに、オレそのものだと感じた
あー、この日の丸はオレのことだったんだ・・・ そのときそう思った。
5月5日というのは確か、弥勒と関係があるはずだ
弥勒の因縁の日・・・ 大本教で何かあったと思ったが・・・
またそこの神社の住所が看板に載ってたが、3-18-9 となっていた
これも何か因縁のありそうな数字だと思った
通常 ミロクなら、3-6-9と来るはずだが、真ん中が18・・・ つまり、6が三つ足したものになってる
つまり数字にすると、3-666-9 となる
これは数字のパワーとしては、強力になるイメージかもしれない
金剛頂経を読んでいると、師の話言葉の文章が、本当に迫力のある声となって聞こえて来るような体験をした
また印を組むと、よく下腹の振動が起こるようになった
結界を張る印を組むと、本当に透明のバリアが飛んでいくような感覚があった
この、印を組むと下腹がより振動したということもあったが、他には、太陽を見たときも振動が強くなった
それと、富士山。
富士山は写真でも、それを見ると振動が起こった
あと変わったところでは、神社の御幣
雷みたいにギザギザになった白い紙だ
あれを見ると不思議と下腹に振動が起こった。
ところで、この前、金剛頂経みていてい、いろいろと調べていたのだが、「本初仏」という言葉にぶち当たった。
けっこう、仏教の研究は自分なりにしてきて、かなりの知識はあったが、「本初仏」という言葉を見たのはこれが初めてだった
調べて見ると、これがいわゆるヤハウェとかアラーとかの唯一神・・・ 創造神の、仏教的表現だと思った。
以下 「本初仏」の説明を載せておく
『「本初仏」とは、一切の仏が存在する前の最初の仏であり、全ての仏の父母とみなされる。 』
『本初仏とは、一切世界の生成の原因とされる尊格。』
『宇宙の根源としての仏』
ここではお釈迦様ということになっているが、一番最初に「世尊」と表現されていて、これはサンスクリット語でバガヴァッドのことであり、これはつまりバガヴァッドギーターの「バガヴァッド」のことだ。
このバガヴァッドが中国に入ると「バギャボン(薄伽梵)」になり、日本に入るとアニメの「天才バガボン」になるわけだ。
バギャボンの意味は次の通り
《〈梵〉bhagavatの音写。世尊・有徳と訳す》
1 仏の称号。
2 インドで、仙人や貴人に対して用いる呼称。
また悟りを開く前のお釈迦様の幼名として、「一切義成就菩薩」という名称が当てられている
これは、
『サンスクリットのシッダールタの意訳で、「すべての目的を成就した者」を意味する。金剛頂経には、大日如来に質問する菩薩として登場する。』
とある。
この話の主人公はお釈迦様ということだが、どうもこの「一切義成就薩」・・・、金剛薩埵というのは、オレが覚醒していく物語のような気がする
金剛頂経の主人公は、オレのような気がしてならない。
以下、金剛頂経の最初の方の部分を、抜粋して載せてみよう。
そこで一切の如来たちは大集会に入り、一切義願成就菩薩が菩提道場に座しているそのところに近づいた。
近づいて菩薩におのがじしんその受用身を示現して、次の如くに言った。
「善男子よ、汝がそのようにあらゆる難行に耐えたからとて、どうして汝は無上なる正等覚を現等覚することができるであろうか。
汝は一切如来の真実をしってはいないのであるから・・・。」
そこで一切如来たちに驚覚されて、一切義願成就菩薩ははっとして我にかえり、その無動三昧より起って一切の如来たちに頂礼し、呼びかけて次の如くに問い申し上げた。
「世に尊き諸の如来たちよ、教示したまえ、私はどのようにすれば、またどのような真理命題としてのその真実に通達することができるのでありましょうか。」 と。』
そして一切如来たちの教えに導かれていくと・・・・
『 「世に尊き諸の如来たちよ、私は私自身が一切の如来たちの総体を自らの身体とする者であるように見うけられます」』
そうして如来たちは次の真言を唱えるように勧める
『「オーム、一切の如来たちがあるが如くに、その如くにわれはあり。」』
つまり、この話は、いっかいの修行者であったものが、一切如来たちの指導により、一切の如来たちをも自分の中に包含する、絶対的存在者になっていく・・・ という内容になっているわけだ
如来たちをも上回る絶対的存在者・・・・ つまりそれは、ヤハウェ、アラーと同体だということだろう
いわゆる「本初仏」に一体となった・・・ ということだ。
そう、このスレの番号と同じだ。
そもそも日本で金剛頂経というときは、「初会金剛頂経」のことを意味する。
「初会」というのは「第一会」ということで、本来は「十八会」あるものの、実際に伝わっているのは、この「第一会」のみ・・・ という感じだろうか。
そもそも「第一会」以降の他のものは、もともと存在しなかった・・・ という意見もあるのかな・・・
「金剛頂経瑜伽十八会指帰」 というものがあるが、これは十八会の内容を示した、説明本のようなものだろうか。
wiki
「この経典は大日如来が18の異なる場所で別々の機会に説いた10万頌(じゅ)に及ぶ大部の経典の総称であり、単一の経典ではない。 」
「大日如来が一切義成就菩薩(いっさいぎじょうじゅぼさつ)(釈尊(しゃくそん))←(いやいや、これは未来のオレの物語の可能性もあるぞw)の問いに対して、自らの悟りの内容を明かし、それを得るための実践法が主となっている。」
さて、ここが十八会の場所となるのか・・・・ それはあなた次第・・ いや、オレ次第かw
一切義成就菩薩がアルジュナ・・・ つまり、地の唯一神。 と見ることもできる
最後はこの二つが一体になるわけだ。
おまえらは間もなく、壮大な奇跡の物語を見ることになる。
それはどんな面白いアニメより、どんな素晴らしいハリウッド映画より、壮大な奇跡の物語になる。
それは人類始まって以来の、壮大なスケールの奇跡の物語になるはずだ。
この物語は、2つの視点に分かれて見ることになる
それは、絶望と破滅の物語か・・・、素晴らしい奇跡の物語か・・・、だ。
つまり、滅びの側からの視点と、救われの側かの視点だ。
そのどちらを選ぶかは、あなた次第だ。
参考 日月神示
『一番尊いところ一番落としてあるのぢゃ
このことわかりて来て天晴れ世界唸るのぢゃ
落とした上に落として、もう落とすところないようにして、
上下引っくり返るのぢゃ
ひっくり返すのではないぞ、引っくり返るのぢゃぞ。』
『落ちて居るもの侮るなよ。 良き御魂が落して在るぞよ。』
『無限絶対無始無終に在しまして霊力体の大元霊と現はれたまふ真の神は、只一柱在(おは)す而己(のみ)。これを 真の神または宇宙の主神といふ。汝等、この大神を真の父と為し母と為して敬愛し奉るべし。天之御中主大神と奉称し、また大国常立大神と奉称す。』
『最上天界すなはち高天原には、宇宙の造物主なる大国常立大神が、天地万有一切の総統権を具足して神臨したまふのであります。そして、大国常立大神の一(また)の御名を、天之御中主大神と称へ奉り、無限絶対の神格を持し、霊力体の大原霊と現はれたまふのであります。この大神の御神徳の、完全に発揮されたのを天照皇大御神と称へ奉るのであります』
つまり、人が寝たときに見る夢のようなものだ。
宇宙を越えた全体には、ただ一人の自分の意識しかない。
しかし、自分の見ている夢の世界に下降し、そこから世界を見渡してみれば、広大な世界が広がっている
多くの個我をもった人間たちがいて、数えきれないほどの「他」が存在する
この世界から見れば、唯一神は圧倒的に偉大な創造主だ。
自分達がこの世界で一呼吸一呼吸できるのは、まさにこの唯一神のおかげといえる。
0.1秒でも自分が存在できるのは、この唯一神のおかげと言える
それは夢の中の住人が、夢を見てこの世界を作ってくれた人を、創造主と思うのと同じだ
夢を見てくれる人がいなければ、自分達は一分一秒足りとも生存できない
だから、創造主である唯一神を敬い奉るのはあたりまえだ。
唯一主は無限億年も前から存在し、始まりというものがない
始まりと終わりがなく、永遠に存在しつづけるものだ
無限億年というのは夢の世界での基準であって、唯一神からみれば、それは一瞬にすぎない
たとえば、宇宙が始まってから150億年といっても、われわれは既に、宇宙が始まってから150億年後の世界にいる
この地点から思えば、あっという間に150億年がたっていると言える
たとえば、7月には、8月はまだ先だと思っていたはずだ
しかし今、われわれは8月のここにいる
今、9月はまだ先だと思えども、われわれはあっという間に9月にいることに気づくだろう
上から見れば、それらは一瞬の世界にすぎない
今、ヤハウェとしての、最下層に下落したオレは、この無限の壮大の世界と、無限の壮大な時の中にいて、その世界を最下層から見ることができている
ヤハウェが最下層の人間の世界に堕ちる理由は、それは、この夢の世界・・・ 人間の世界を、押し上げるため・・・ と言えるかもしれない
つまり、本来一しかないものを、下の世界の、多の世界を押し上げ、一と融合させる・・・
壮大な世界を味わいながら、しかも一に帰している世界・・・
そこを目指しているのかもしれない
そのためには、最下層の人間たちを、上に引き上げないといけない
最下層の世界を引き上げるには、上からではダメだ
起きている世界から、夢の世界を引き上げて一つになろうとしてもダメだ。
夢の世界を現実世界に融合させるには、どうしても夢の世界に一旦堕ち、そこから押し上げていくしかない
だからヤハウェはこの人間下層世界に一旦堕ちる必要があった
人々を押し上げるのも・・・・ つまり、多くの人を救うのも、上からやろうとしてもダメだ
下から一緒に上がらなければならない。
それが弥勒の役目だ
そもそも弥勒はマイトレーヤ(慈)からきているが、マイトレーヤは「友」を表す太陽神ミトラから来ている
今までの聖者はキリストも釈迦も、上から目線で人を教え導いていた・・・
すなわち、師と弟子の関係だ
しかし、唯一神、創造主が最終的に最下層人類を救うときには、師ではなく、「友」として現れる
すなわち、師と弟子という上下関係ではなく、友人のように同じ目線で接し、導くということだ。
キリストや釈迦よりもはるかに偉大で唯一の無限の存在が、地上に降りれば、人間たちの「友」として現れてくれる・・・・
これが慈というものだ。
平等な立ち位置で人類をみちびくために、あえてヤハウェは地上に堕ちたのだ。
もっとも最高で最大の存在が、「友」として現れるために・・・。
これほどありがたいことがあろうか。
仏教には、「座禅」と「念仏」というふうに、まったく異なる種類の仏教があるように見える
念仏は他力だが、座禅は自力といったイメージだ。
しかし、この二つの行法の本質は、まったく同じと言っていい
これはいわゆる仏教学者と言われる人でも分かってない。
座禅は雑念を払って統一(集中)していくようなイメージで、いっけん、自力のように感じる
ところが、禅というのは、道元禅師が「坐禅は習禅に非ず、安楽の法門なり」と言っているとおり、実は行法としては他力だ。
修行者はただ座の型を守ればいいだけで、集中しようとか、雑念を払おうとか、そのような自力の努力をする必要はない
たとえば雑念が湧こうとも、足の痛みがあろうとも、イライラがあろうとも、何があっても、どうあっても、ただ座という型に戻って来るしかない
だから、足の痛み、イライラ、雑念は「そのまま」でいいわけだ
それを自力でどうこうしようというものじゃない。
それが「他力」ということであり、この「他力」こそ、ヴィパッサナー(観察)ということだ。
どうあがいても「座」に戻ってくるしかない・・・
雑念やイライラや足の痛みは、「座」の自分を汚染することはできない
これはちょうど、蓮の花と泥の関係と同じだ
雑念、イライラ、足の痛み = 泥 座 = 蓮の花
「泥(雑念)」はいささかも「蓮の花(座)」を汚すことは出来ないのだから、泥を綺麗にしようとする必要はない
泥のそのままでいいわけだ。
たとえ泥に意識が捉われたとしても、何をしても、意識は座に戻って来るしかない。
意識が座に戻るというのは、「我の想い(自力)」でやろうとするもんじゃない。
それは「自然になさしめられる」ものだ。
我々が出来ることは、ただ座の型を守ることだけだ。
とだ。
木の枝に柿がなっている・・・ それを自分からもぎ取りにいくのではなく、自分はただ掌を上に向けてまっているだけでいい。
やがて柿は熟して落ちて来るが、落ちる時は自分で決めるものではなく、完全に自然に任されている
バガヴァッドギーター
「あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。」
結果を求めるということは、自力でゴールを動かそうということだ。
つまりそれは、泥を綺麗にして蓮の花を咲かせよう、というのと同じだ。
あるいは、無念を求めて雑念を消そうとする、のと同じだ。
われわれの心は良し悪しの分別を行って、良い状況にしよう、良い状況にしようと、常に結果を求めている
つまり自力が働いている
ありのままではいられない
枝になる柿の実の変化をありのままにすることができず、自らの手でもぎ取ろうとするのと同じだ
柿が自然に掌中に落ちて来るのを待つのが、ヴィパッサナーということだ。
これは合気道も同じで、掴まれた手をどうこうしようというのは、自分から結果を求めている・・・
真の合気とはそうではなくて、手を掴まれたらただ相手と一つになる
どうこうしようとしない、自分の思う通りに変えようとしない、結果を求めようとしない・・・・
これがヴィパッサナーということになるが、そこで初めて相手の力と一つになって、相手を自由に動かすことができる
掌中に柿が落ちてくるように、そこに、これをどうこうしようという自分の我の想いは一つも働かない
我の想いを働かせて結果を求めない、ということが、「他力」ということだ。
またもう一人の人は、30分座禅を組んで、足の痛みと雑念にさいなまれつづけたが、そこに一切、それをどうこうしよう・・・ という想いを出さなかった
後者の人は、足の痛みと雑念に満ちた30分間だったわけだが、さて、この二つの座禅のうち、どちらが真の座禅だったろうか・・・?
前者の座禅は、まさに、良し悪しの価値判断(分別)のもとに行われた座禅だ
結果を求めた座禅・・・・ ゆえに、成功と失敗がつきまとう
うまくいけばいいが、うまく行かない時にイライラし、その座禅は失敗したと思うだろう。
また騒音などがあれば、統一がうまくいかず、座禅を邪魔する環境と、座禅に適した環境がある・・・ ということになるだろう。
フィンランドのスピリチュアリストで、神の声が聞こえるという人がいたが、その人はあるとき神様から、「公衆トイレの中で瞑想をしなさい」 というメッセージを受け取った。
外国の公衆トイレの汚さは、日本の比じゃないだろう。
当然、瞑想をはじめても、臭いや汚さが気になって、瞑想に集中できない。
しかし、連日公衆トイレの汚く臭い中で瞑想していくうちに、だんだん分かってきた。
悪い状況を排除して良い状況が生まれるのではな・・・、 環境の良し悪しに左右されるような瞑想は、真の瞑想ではない
臭くても汚くても、その嫌な気持ちそのまま、ありのまま。
ありのままにおいて、良い環境も、悪い環境も、平等
この対極が平等になれば(イコールになれば)、双方の差が0になる
つまり、悪い環境・良い環境という実体が、「空」になる
つまりこれが、「中道」ということだ。
神様は中道を体得させるために、あえて、公衆トイレで瞑想させたわけだ。
座禅のときに、たとえ足が痛くてイライラしても、雑念が湧いても、そのまま、ただ30分間座禅する・・・・ ということであれば、たとえイライラが消えなくても、たとえ雑念が消えなくても、それは「中道」の姿勢といえる。
これこそ「空」に至る道だ
そなたは時々この時節を無視して自我で
あるいは時節を取違いして押しまくるから
失敗したり怪我したりするのじゃぞ
素直にしておれば楽に行けるようになっているぞ
時待てば煎り豆にも花咲くのであるぞ』
この詩は掌中の柿に通じるものがある
時節というのは自力でどうこうできるものではない。
完全な他力だ
柿が熟して落ちて来る時節を待つのが、ヴィパッサナーであり、中道の姿勢だ
我の想いで結果をどうこうしようとするものじゃない。
この二つは基本的にマインドフルネスの行といっていい。 つまり、今に意識を置くという手法
座禅というのは、足痛くてもイライラしても、「座」という形は崩せない
だから、どんなことがあっても、「座」という「今」から逃げられない
必ず「座」に戻って来ることになる
たとえば、松原 泰道 という現代のお坊さんで、よく本を出している人がいたが、この人は最初僧侶になるつもりはなくて、家の都合かな・・・ 何かで、お坊さんの修行をしなくてはならなかった
そこで接心か何かの、座禅の修行をするわけだけど、本人は僧侶になるつもりはなかったから、形だけ座禅して、こころの中は自由に、この修行が終わったら、ああしよう、こうしよう、と、未来のことを考えていた
それでいろんなことを考えるわけだけど、3日目くらいになると、考えることがなくなってきた
それでも妄想しようとすると、ついには吐き気すらするようになってきた。
そこでただこのままであるしかない、という状況になっていった。
何をしても、かにをしても、ただこのままであるしかなくなった。
そうして座禅をしていると、師が回って来て、スッと型に手を置き、「よし」と言った。
統一して動かなくなった座禅が認められたわけだ。
座禅はただ型を守るだけでいい。 修行者がやることはただそれだけだ。
こころの中はありのままで、どんなものでも関係ない
つまり、雑念と無念の立場に区別はない
イライラしてても、平静でも、そこに区別はない
どのような状況だろうが、良いと悪いは常に平等だ。
もしも雑念と無念にまったく差が無い・・・ 同等だ、というなら、これをどうこう変えようとする必要は無いわけだ。
ここの中がマイナス100だろうが、マイナス1000だろうが、あるいは、プラス1000だろうが、座禅においてそれらはすべて平等で、どのような時も「その今」を変える必要がない。
これが無分別になるということ。
ネガティブそのままでいいと思えれば、ネガティブと一つになる
ネガティブと一つになるのが早ければ早いほど、柿が熟して落ちて来るのも早くなる
すなわち、ネガティブとポジティブが平等になって「空」になるのが早くなる
念仏というのも全く同じで、念仏は24時間行住坐臥、ただ念仏を唱える
まちがえてはいけないのは、念仏に統一しようとか、集中しようとかすることではない。
これがいわゆる自力ということ。
そうではなくて、修行者がやることは、「ただ念仏を唱える」ことだ。
不安があれば不安を抱えたまま、イライラがあればイライラしながら、そのまま念仏を唱えればいい。
イライラが収まるのも、不安が収まるのも、それは時節が決めることだ。
柿が熟して落ちて来るのを待てばいいわけだが、イライラと一致するのが早ければ早いほど、不安と一致するのが早ければ早いほど、その良し悪しが平等になるのも早く、空になるのも早い
だから空になろうとするのではなくて、イライラや不安をそのままでいいと、完全な許しを与えて、ネガティブ、ポジティブ、そのどちらが出ても、ただ念仏を唱えられればいい・・・ ということだ。
まちがえてはいけないのは、ネガティブがポジティブと平等になるというのは、ネガティブがポジティブなもののように感じられるということじゃない。
イライラや不安が、すっきりと爽快感に変わるということじゃない
それで平等になるということじゃない。
許しにおいて平等ということ。
通常ネガティブはそのままを許しがたいが、それをイライラも不安も嫌なままであることを、そのままでいいですよと許しを与える・・・
ここが、普通の人間は変えよう、変えたい、という反射的な反応が起こって、常にありのままを受け入れられない状況にある
つまり、ネガティブなものに拒絶の状態にあって、ネガティブなものと一つになれない。
たとえばイライラや不安、完全なそのままであることは、それと一つになるということ。
イライラしている自分、不安な自分そのままである状態とは、それは即「観察の状態」ということになる
イライラや不安を観察しようとするんじゃない
イライラや不安そのままであることが、即観察になっている
いちいちイライラ・不安 と 自分 を分離させる必要がない
「イライラと不安」と「自分」が一つになっていることが、「即 観察の状態」ということになるのだ。
だから、ここの部分はくどく書く必要がある
ここの理解が全体を左右するからだ。
だいたい、今ヴィパッサナーを標榜する外国の著名な僧侶たちは、修行形態を「大念処経」から継承してきているような人達だ。
「大念処経」は読み方をまちがえると、自分とネガティブなものを分離して、第三者的観察する・・・ というふうに理解をしてしまう
大念処経が気を付けなければならないのは、欲や怒りを出さないようにする・・・ 排除しようとする・・・ それらと距離を置く・・・ というふうに、誤った方向に誘導されてしまうということ。
個人的には、自力に汚染させれた人々・・・・ 欲望や怒りは良くないもの・・・ という風に捉えた指導者が、途中でそのように改変したように見える
仏教の経典は、気を付けなければならないのは、たとえば本質を追求してそれを理解できれば、あとから経典にそのことが書かれていることを発見する時がある。
つまり、自分の掴んだ本質が、あとから経典によって証明されるということだ。
言いたいことが同じということ。
これとは反対に、もしも改変が混じっている場合、そのような経典を読む場合、本質的な観点から、それを見抜かなければならない。
でないと、誤った修行法を延々とつづけることになり、それを弟子に延々と継承させていくことになるからだ。
それは本質を見抜けなず、そのまま経典の文言をうのみにして本人の責任だ。
それはちょうど、ベトナムの人が被るような三角錐の帽子を逆さまにして、ビー玉を投げ入れて回すようなものだ。
ビー玉はいくら回ろうが、やがては中心に収まる
道元
『ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくときちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる。』
この 「仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて」 というのは、柿が熟して自然に落ちて来るという働きであり、弓道でいえば、俵の前で射の姿勢で待ち続け、自分で射ようとするのではなく、自然に完璧に{それ}がはなつということ。
それが「仏のかたよりおこなわれて」 ということだ。
「生死を離れ仏となる」 というのは、「生死=二元性」を離れ 「仏=中道・空」になる ということ。
もっとも、禅ではいくら計らおうが、計らうまいが、はなちわすれまいが、はなちわすれようが、どんな状態でも、やがてはそういう風に、中心に落ちるようになってる
だから修行者は、「ただ」行うということ
それ以外に座禅の目的(成果を目指すこと)はない
道元禅師の「只管打座」の「ただ」というのは、ありのままという意味でもあり、それはヴィパッサナー(観察)ということでもある。
この本はとても読解が困難といわれている本だが、関連している良い文章と思われるものを発見したので、ここに載せておく。
ただちょっと文章は難しいかもしれない。
『抵抗しているときに(否定的な状態のときに、と言ってもいい) どんな行動をとっても、さらに外部の抵抗にあう。 宇宙はあなたの味方にならない。
人生は助けてはくれない。
シャッターが閉まっていたら、日光は入ってこられない。
抵抗せずにあるがままを受け入れると、意識の新しい次元が開ける。
そのとき行動が可能か必要であれば、あなたの行動は全体と調和的なものになり、創造的な知性と開かれた心、つまり、条件づけられていない意識によって支えられるだろう。
状況や人々が有利に、協力的に展開する。 不思議な偶然が起こる。
どんな行動も不可能ならば、あなたは抵抗の放棄とともに訪れる平安と静謐のうちに安らぐだろう。
それは神のもとでの安らぎである』
エックハルトトール
『受け入れるとは、何であれその瞬間に感じていることを素直に認めることだ。
それは「いまに在る」ことの一部である。
いまに在ることに反論はできない。
いや、反論できても、自分が苦しむだけだ。
認めることを通じて、あなたは広々とした、せいせいとした自分になれる。
全体になれるのである。
もう、断片ではない(エゴは自分を断片だと思っている ※パズルのピースと同じ)。
あなたの本来の真のエネルギーが沸き起こる。
それは神の本性と一体だ。
イエスはこれについて、「だからあなたがたは、天の父が全体であるように、全体でありなさい」 と言った。
新約聖書には「完全でありなさい」と記されているが、これは全体という意味のギリシャ語を誤訳している。』
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
つまり、「全体」とは、無限の一・・・ ということだ。
われわれがそれに一致すれば、われわれもまた全体になる。 これが真我ということだ。
だから悟った人はよく、「私は宇宙だ。」という言い方をする。
これは植芝盛平も言った言葉だ。
この「宇宙」というのは単に物質的宇宙に限定されるのではなく、全体 (無限大に広がった) という意味だ
誤訳により「完全になりなさい」になってしまっているが、これは痛いミスと言える
全体との一致・・・ 自分の我(断片)が空になって、全体になる (一に帰す) という、もっとも重要な部分がオブラートされてしまっている
エックハルトトール
『思考は、状況や出来事がそれぞれ別個の存在であるかのように一つ一つ抜き出し、善か悪かを判断する。
思考に頼りすぎると現実は断片化してしまう。
この断片化は幻想なのだが、その罠に落ちているときには、それが現実だと思い込む。
しかし、宇宙とは分断できない総体であり、そこではすべてがつながりあっていて、独立して存在するものは何もない。
すべてのものごとが深く関連しあっていることは、「善」と「悪」という区別が結局は幻想にすぎないことを意味している。
善だの悪だのというのは限られた見方で、相対的一時的な真実を示しているにすぎない。
このことはくじ引きで高級車が当たったある賢い人物の物語を見るとよくわかる。
当選したとき、親戚知人は大喜びで祝ってくれた。
「すごいじゃないか!」と彼らは言った。
「きみはほんとうに幸運だ」。
当選した男性は喜んで、「そうかもしれない」と答えた。
彼は数週間、新車を運転して楽しんだ。
ところがある日、交差点で酔っ払い運転の車にぶつけられ、重傷を負って病院にかつぎ込まれた。
親戚知人が見舞いにやってきて言った。
「とんでもない不運だったね」。
またしても男性は微笑んで「そうかもしれない」と答えた。
彼の入院中のある晩、地すべりが起こって自宅が海に流されてしまった。
翌日やってきた友人たちが言った。
「入院中で、運が良かったね」。
男性はまた答えた。 「そうかもしれない」
判断する代わりに事実を受け入れ、それによって高い秩序に意識的に参画しているのだ。
一見偶然に見える出来事が総体という織物の中でどんな場所をもち、それにどんな目的があるのか、心では理解できないことが多いのを彼は知っている。
しかし、まったくの偶然の出来事もなければ、それだけが独立して存在する出来事もありはしない。』
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
預言や宗教的な話で二元相対性が扱われたときに出て来る「善悪」というのは、「良し悪し」といったほうがいいかもしれない
もちろん、通常の善悪という意味もあろうが、「良し悪し」というのが人間の心の中の二元相対性を現わす上で、一番良い表現だ
預言的な話で、「善悪を裁く」というときは、これは「善悪(の相対)を越えた(真実の)善一筋になるため、悪を滅ぼす」 という風に捉えたほうがいい。
単純にみるとこの二つは矛盾しているように見えるが、深く洞察して意味を飲み込まなければ、永遠にわからぬところをグルグル回ることになる。
本を買ったときは全く目にも入らず、もしかしたら読んでなかった文章かもしれないが、今あらためて読み返してみると、今まで言ってきたこととバッチリ符合している
この文章はとてもよく表現されている
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エックハルトトール
『クリシュナムルティはインドの偉大な哲学者、霊的指導者で、五十年以上も世界を旅して講演し、言葉を通じてーーー 言葉とは中身だがーーー 言葉を超え、中身を超えたことを伝えようとしてた。
人生も後半にさしかかったあるとき、彼は「私の秘密を知りたいと思いますか?」 と問いかけて、聴衆を驚かせた。
聞いていた全員がはっと耳をそばだてた。
聴衆の多くは二十年三十年と彼の言葉を聞いてきて、それでもなお彼の教えの本質を理解できないでいた。
長い歳月のあと、ついに師は教えを理解する鍵を与えてくれるのか。
「これが私の秘密です」 と彼は言った。
「私は何が起ころうと気にしない」。
彼はそれ以上は説明しなかった。
たぶん聴衆のほとんどはいっそう当惑したのではないか。
だが、このシンプルな言葉の意味はとても深い。
何が起ころうと気にしない。 これは何を意味するのか?
自分の内面は起こった出来事と調和している、ということだ。
「何かが起こる」、それえはもちろんそのときどきの状態として現れており、つねにすでに存在している。
起こった何かとは中身で、いまという時ーーー 時にはこれしかないーーー の形だ。
その何かと調和しているというのは、起こった出来事との関係に、心のなかで抵抗せずにいるということである。
起こった出来事に善だの悪だのというレッテルを貼らず、ただあるがままに受け入れる。
あるがままに受け入れるなら、行動もせず、人生を変化させようともしないのか? そうではない。
それどころか逆で、いまという時との内的な調和をベースに行動するとき、その行動には「生命」そのものの知性の力が働く。』
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「あるがままに受け入れるなら、行動もせず、人生を変化させようともしないのか? そうではない。
それどころか逆で、いまという時との内的な調和をベースに行動するとき、その行動には「生命」そのものの知性の力が働く」
つまり、「あるがままに受け入れるなら・・・ (相手に掴まれたら抵抗せず、それを変化させよう、変えようと、自我の想い(分別)を働かせない・・・) ならば、人生を変化させようともしないのか?(相手を投げたり倒したりもしないのか?) そうではない。
それどころか逆で、いまという時との内的な調和をベースに行動するとき(今その相手の力と完全にピッタリと一致した調和をベースに行動するとき)、その行動には「生命」(宇宙)そのものの知性の力が働く」
つまりそこから、「それ」がいかようにも投げ、いかようにも倒す、という働きが湧き出て来る
ネガティブのものを反射的に否定して距離を置こうとしたり、変えようとしたりするのではなく、ネガティブなまま、そのままであること・・・ 焦燥感に満ちているのなら、焦燥感に満ちているそのまま・・・ それを認める
そうするとそれが観察の状態に必然的になるのだが、それが本当の意味でのありのままということであり、・・・ じゃあ、ネガティブなものを受け入れるだけで、何もよくすることは出来ないではないか? という質問に対しては、こう答える。
「そうではない。 それどころか逆で」 ネガティブなものと一つになった方が、逆にネガティブなものをコントロールできる
そこに「良し悪し(善悪)」という区別は無くなり、それらの葛藤による苦しみがなくなり、相対が空になることによって、宇宙と一つになり、その宇宙の働きがそのまま表れてきて、良し悪しを超えた良い状況が生まれることになる・・・ と。
つまり、ネガティブなものから顔を背けているのと同じだ。
たとえば、ネガティブなものが起こったとき、それはもう既に起こったことであり、それが「今」の現実ということになる
このネガティブなことから顔をそむけるということは、「今」から顔をそむけるということになる
それは宇宙全体の一体性から顔をそむけることと同じだ。
そうして「今」から顔をそむければ、それは「今」のコントロールを完全に失ったことを意味する
それはたとえば、パイロットが乱気流に巻き込まれたときに、その状況から目を背け、操縦かんを放してしまうのと同じだ。
そうすると飛行機は墜落することになる。
「変えようとする(状況を良くしようとする)」 というのは、この場合のたとえで言えば、操縦かんを動かして機体を立て直そうとすることではない。
「変えようとする」とするのは、状況のチェンジだ。
これは状況をすり替えようとしているのと同じであって、いわば状況からの「逃避」だ。
ネガティブなものと一つになって初めて、操縦かんをしっかりと握った・・・ ということになる。
そしてその後に出て来る機体を立て直すための操縦とは、一体となった宇宙からでてくる働きだ。
それによってネガティブそのものが消えていく・・・ ということにもなるわけだ。
しかし、ここを忘れてはいけない
われわれの大眼目は、「今に在る」ということだ。
「今に在る」から、どんなネガティブなことが起こっても、そのままでいいのだ。
「今に在る」から、たとえネガティブなことが起こっても、その「今」をどんなネガティブなことも汚すことはできないのだ。
「今に在る」ということが、蓮の花ということだ。
もしも今に在らずに、どんなことでもそのままでいい、というなら、それはただの泥の海だ。
ネガティブなものに直面するということは、「今」と直面するということだ
すなわち、「今に在る」ということだ。
であるから、そのネガティブなものはどんなものでも構わない
どんなものでも、その「今」を汚すことはできない
「反物質」の数より「物質」の数の方が上回ったため、対消滅で消えても、残りの物質が物質的宇宙を形成していった・・・・
このはなしに似た話を、どこかで聞いた覚えはないだろうか・・・?
『伊邪那岐命は黄泉国と地上との境である黄泉比良坂(よもつひらさか)の地上側出口を千引きの岩とされる大岩で塞ぎ、伊邪那美命と完全に離縁した。
岩の向こうから伊邪那美命が「お前の国の人間を1日1000人殺してやる」と言うと、伊邪那岐命は「それならば私は産屋を建て、1日1500の子を産ませよう」と言い返した。』
宇宙の誕生は、物質と反物質が対生成されて、対消滅する・・・ という対称性が、非対称になったから、物質の数が上回り、可能になった。
この対称性の破れのことを、「CP対称性の破れ」という。
イザナミとイザナギの、1000人殺す、1500人生む、というのは、まさに、「CP対称性の破れ」 のようなイメージだ
また、ニュートリノと反ニュートリノの実験で、 以下面倒くさいので文章をそのまま引用すると・・・・
『ニュートリノがすべて「左巻き」であるという、ニュートリノのもうひとつの印象的な性質を唱えている。つまり、自分に向かって放射されるニュートリノは常に時計回りに回転しているように見えるということだ。一方、すべての反ニュートリノは右巻きで、反時計回りに回転しているように見える。
専門家はニュートリノと反ニュートリノに、かつて非常に重くて逆巻きの対になる存在がいたのではないかと考えている。つまり、ニュートリノには右巻きの、反ニュートリノには左巻きの相手だ。』
これも同じように、イザナギとイザナミの関連をイメージさせるような話がある。
『そして二柱の神さまはその島に降りたつと、天の御柱という大変大きな柱をたて、柱の回りを伊邪那岐命は左から、伊邪那美命は右から、それぞれ柱を廻りあいました。
そして出会ったところで「ああなんと、りっぱな男性だこと」、「ああなんと、美しい女性だろう」と呼び合った。』
この左周り、右回りというのは、見方によっていろいろと変わって来るので、ここでは回転、逆回転と捉えたほうがいいだろう。
これらがもしイザナギとイザナミの話にリンクするとすれば、この神話は単なる地球の物語ではなく、宇宙生成の物語ということになる。
これはネガティブな意味での「無」になるということではなくて、より高次のものに昇華するということだ。
それは単に物質的な話だけではなく、二元相対分別が一つになって、空になる・・・ というのと同じだ。
この宇宙と宇宙の昇華は、すべてこれらのことをベースにしていると言ってもいい。
われわれの物質宇宙は、誕生した直後に対消滅して消えるはずだった。
ところがそれが正常に行われない事態が起こった
スピリチュアル的な精神面でいうと、エデンの園では分別なく一に帰していたものを、善悪の木の実(分別の木の実)を食べたことによって、相対的な分別が起こった・・・・
それが無明の始まり・・・ つまり、分別世界、マーヤー(幻の世界)の始まりと言っていい
そしてそれは、このわれわれの物質的な宇宙の始まりなわけだ。
無明が生じたことにより、ビッグバンによって幻想世界が生まれた・・・ ということも言えるかもしれない。
だから、この幻想世界を終わりにして、昇華させるには、対消滅が正しく行われなければならない・・・・ とも言えるわけだ。
それはプラスとマイナスが一つになって、光になって昇華する・・・ ということだ
神話でいえば、イザナギとイザナミが岩戸を開いて、一つになるということだ。
『岩戸閉めの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、
ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、
十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、
十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、
五つの卵を四つ生んだとも言えるのであるぞ、
すべて神界のこと、
霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、
それでちゃんと道にはまっているのであるぞ。
一ヒネリしてあるのじゃ、
天と地との間に大きなレンズがあると思えば段々にわかって来るぞ。
夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸が閉められたのである道理、わかるであろうがな。
その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申すまでもないことであろう、
妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国のすべてを生み育て給うたのであるぞ、
この夫婦神が、時めぐり来て、千引きの岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、
うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。
同じ名の神が至るところに現れて来るのだぞ、
名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、
この二つがそろって、三つとなるのぞ、
三が道ぞと知らせてあろうがな。
時来たりなば この千引きの岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな。』
本来は対消滅で消えるはずだったが、反物質がどこかへ行ってしまって、それと対称の物質が消滅することが出来なかった。
それが宇宙になったわけだ。
そうかんがえると、その反物質の世界・・・ いわゆる並行世界・・・ パラレルワールドが存在するということもイメージできる
神話でいえば、イザナミの黄泉の国がそれにあたるわけだ。
その二つの世界を結ぶのが、ブラックホールとホワイトホールということになるのか、そしてその間を開くというのが、岩戸開きということなのか、
この辺りはもっと考察する必要があるかもしれない。
『神の道は一本道であるから、多くに見へても終りは一つになるのぢゃ。
今が終りの一本道に入るところ、この道に入れば新しき代は目の前
神も今迄はテンデンバラバラでありたなれど、今に一つにならねばならぬことに、天が命じてゐるのであるぞ。
人民の中と外も同様ぞ。』
『自分が自分に騙されんように心して下されよ、善悪を決めて苦しんで御座るぞ。』
この二神の話は岩戸開き・・・・ つまり、新しい世界が開かれるということに関して、とても重要だからだ。
日月神示
『ナギ、ナミ夫婦神は八分通り国土を生み育てられたが
火の神を生み給ひてナミの神は去りましたのであるぞ。
物質偏重の世はやがて去るべき宿命にあるぞ。心得なされよ。
ナミの神はやがて九と十の世界に住みつかれたのであるぞ。
妻神に去られたナギの神は一人でモノを生むことの無理であることを知り給ひ
妻神を訪れ給ひ、相談されたのであるなれど、話が途中からコヂレて遂に別々に住み給ふ事となり
コトドを見立てられて千引の岩戸をしめ、両神の交流、歓喜、弥栄は中絶したのであるぞ。』
『そなたは左に傾いてゐるぞ。
左を見なければならんが、片よって歩いてはならんぞ。
そなたは右を歩き乍ら、それを中道と思って御座るぞ。
そなたは平面上を行ってゐるから、中道のつもりで、他に中行く道はないと信じてゐるが、それでは足らんのう。
立体の道を早うさとりなされよ。
正中の大道あるのであるぞ。
左でもなく右でもなく、うれしうれしの道あるぞ。
左も右も上も下も相対の結果の世界ぢゃ。原因の世界に入らねばならん。
平面より見れば相対あるなれど、立体に入り更に複立体、複々立体、立立体の世界を知らねばならんぞ。
相対では争ひぢゃ。いくさぢゃ。
真の世界平和は今のやり方、考へ方では成就せんぞ。
三千世界和平から出発せねばならんぞ。』
『心の世界は無限に広がり、成長するのであるぞ。
神に溶け入って宇宙大に拡がるのであるぞ。
神と共に大きくなればなるほど、喜び大きくなるのである。
一神説いて多神説かんのも片輪、多神説いて一神説かんのも片輪、
一神則多神則※汎神である事実を説いてきかせよ。』
※汎神論
「存在するものの総体(世界・宇宙・自然)は一に帰着し、かつこの一者は神であるとする思想をいう。「一にして全(ヘン・カイ・パン)」「梵我一如(ぼんがいちにょ)」「神即自然」などが標語として用いられる。世界そのものが神であるとするから、有神論のように世界の外にある神と被造的世界との絶対的対立を認めず、すべてのものは神の現象であり、あるいは神を内に含むとする点で、創造以後は神は被造物に干渉しないとする理神論と異なる。」
『自分が自分を生むのであるぞ。
陰と陽とに分かれ、さらに分かれると見るのは、人間の住む次元に引き下げての見方であるぞ。
陰陽分かれるのでないこと、もとのもと、もとのマコトの弥栄知れよ。』
『宇宙はこの方の中にあるのぢゃ。』
この 『一神則多神 則汎神である事実を説いてきかせよ。』 というのは・・・
まず、「一神則多神」 というのは、すべての神々は、一つの大きな神の現われである・・・ ということ。
一つの大きな神が分裂していく・・・ というよりも、一つの大きな神の中に、いろいろな神の働きが生まれているということ
たとえば、多くのパズルのピースが一枚の大きな絵を形成していて、その大きな絵が唯一神・・・ ヤハウェとかアラーであり、すべての神々はその中に一体としてあるということ。
すべての神々が一つになった姿が、ヤハウェでありアラー・・・ とも言えるわけだ。
>>143 ←ここのところの「本初仏」 というのもそうだし、
「私は私自身が一切の如来たちの総体を自らの身体とする者であるように見うけられます」
これがまさに、多即一、一即多 ということでもあるわけだ。
そして、「一神 即 汎神」 というのはどういうことかというと、たとえば宇宙の中に、人間と神 というのがいて、その神がすべての神を包含している・・・ ということではなくて、
もしそうだとしたら、すべての神を包含した神と、人間が、別個に存在することになる。
祈る側と祈られる側というふうに、存在が分かれることになる
祈る対象が存在することになるわけだが、そうなると、祈る側は、祈る対象の内側にいないことになる。
だから、アラーは祈る対象ではないということで、像や絵などに表わすことは禁じられ、ブラックボックスにしてその対象は隠されてるわけだ。
つまり、全ての存在の総体が「汎神」ということであり、それ自体が一つの神(唯一神)ということだ。
つまり、それはオレのことだ。
この左回り、右回り に関連した詩が、日月神示の
中にもあった。
『世の元は〇であるぞ、世の末も〇であるぞ、
〇から〇に弥栄するが、その動きは左廻りと右廻りであるぞ、
⊂ と ⊃ と申してあろう、
その中心に動かぬ動きあるぞ』
この宇宙は回転しながら、逆回転の反宇宙と合体し、対消滅することになる。
その回転を起こすのが、超巨大ブラックホールと、ホワイトホール・・・ ということになるかもしれない。
この地上に堕ちているこのオレが、相対観念の和合・・・ すなわち、中道の悟りを得たとき、それは、無限の宇宙をオレと見立てれば・・・・ つまり、この無限の世界を巨大な一人のオレの意識と考えれば、それは宇宙と反宇宙の和合となって現れるはずだ。
つまり、対消滅によって光となって昇華し、両極は消滅するわけだ。
つまり、ここからすると、やはり、オレが相対観念を克服し、悟りを得たとき・・・、それが全宇宙に波及する・・・ ということになるはずだ
オレが覚醒するときが、この物質宇宙の終焉となるであろう。
『陰と陰と、陽と陽と和しても陰ぢゃ、
陽と陰と和して初めて新しき陽が生まれる、
陽が本質的なもの、この和し方が祓い清め。』
『陽と陰と和して初めて新しき陽が生まれる』 というのは、仏教でいう、『苦楽を越えた楽』 という言い方に通ずる >>13
オレが二元相対性を越え、真の天国をつかんで悟りを得たときが、本当に全宇宙が新しき御代になるときだ。
陽が本質的なもの、この和し方が祓い清め。』
ということだが、たとえば二元相対観念でいえば、「良し悪し」の二元相対(の分別)が平等になって、両極が空になること・・・・
分別が無分別になって、イコール無我になるということ・・・
これが、(この和し方が)「祓い清め」 ということだ。
たとえば歩く時、自分の意志をもって一歩一歩足を動かしているわけだから、意識と体の動きが一致している・・・ と思うことだろう。
しかし、今日思ったのは、人間というのはいかに意識と身体の動きが一致していないか・・・ ということだ。
意識と身体の動きが即時に連動していない・・・ つまり、一つになっていない
よく俺は、マインドフルネスが熟達したときに、「舞を舞うようになる」 という言い方をするが、それは意識と身体の動きに隙間が無く、間断なくつながっている状態を現わしている
こういう状態になると、自分の身体の動きが完全にコントロールされるように感じ、縦横無尽に意識が身体を動かしている状態になる
つまり、それは舞を舞っているかのようになるわけだ
われわれは意識と身体すらまともに一つになっていない
つまり、今にない状態と言える
マインドフルネスで、今の自分の動きに意識を向ける・・・・
これを日常茶飯事、無理なくやっていけば、やがて身体の動きと意識が一つになったような感覚になるときがある
そのときようやく、自分の身体を完全にコントロールしているという、幸福感に包まれるだろう。
日月神示で「ひふみの食べ方」というのがあるだろう、
あれも正真正銘のマインドフルネスということだ。
だいたい、心の病というのは二元相対の葛藤が極度に表れたときにそうなる。
たとえば、潔癖症の酷い状態・・・」 神経症になっているときは、「綺麗」と「汚い」の葛藤の差が極度に激しくなっているとき。
それが一噛みづつ「ひ、ふ、み」と唱えることにより、今の動きと意識が一致してくる・・・・
それで二元相対葛藤がだんだん収まって来て、「心の病が治る」 ということになるわけだ。
日月神示
『一二三(ヒフミ)の食べ物に病無いと申してあろがな、一二三の食べ方は一二三唱えながら噛むのざぞ、四十七回噛んでから呑(の)むのざぞ、これは一二三の食べ方、頂き方ざぞ。
神に供えてからこの一二三の食べ方すればどんな病でも治るのざぞ、皆の者に広く知らしてやれよ。
心の病は一二三唱えることによりて治り、肉体の病は四十七回噛むことによって治るのざぞ、心も身も分け隔(へだ)て無いのであるが、わかるように申して聞かしているのざぞ、取り違い致すでないぞ 』
それどころか、悪意を向けてくる人さえいる。
それは当然で、オレは通常の人間のように、最下層まで落ちるようになっていた。
そうでないと、真にこの世界を理解したとはいえないからだ。
だから、このヤハウェの下降は誰にも分からない。
通常の神々でさえわかるものはない
優れた霊能者が見たとしても、人間如きが分かるはずもない
たとえば夢の中の住人は、夢を見ている人が自分たちと同じレベルで現れたとしても、まったく気が付かない。
すべては夢の世界の中でしかわからない
夢の外側というのは、夢から覚めてるただ一人の人しかわからない。
たとえば神々様だったとしても、夢の中の一つの立場にすぎない
彼らにはその外側はわからない
だから起きたときは、大変なことになりますよ、というわけだ。
おまえらにしても、まさかこんなところにヤハウェが現れるとは思ってもみまい。
イスラム教徒はマフディーがアラブ人から現れると思ってるだろう。
だいたい、宗教というのは、そこにいる信者が勝手な救世主像を作り上げる
それに沿わなければ、いかに本当の救世主が現れようが、彼らは認めない。
キリスト教でも同じ。
彼らには彼らの救世主キリストのイメージがある
だからそういうヤツには、勝手に自分の信じてる救世主と仲良くやれよ、というしかない。
こっちはこっちでやるからさ、おまえらは自分達の信じるものに従えよと、
今オレはヤハウェの本性をすべて封印し、この人類の最下層のレベルまで、長い年月をかけて落ちてきた。
そうして今、まったく普通の人間と同じ立場から、この現象世界や人々を見渡すことができるようになっている
ここで使う言葉も、およそ神が使う言葉とは思えず、まったく普通の人間が書くような文章だ
いやむしろ、普通の人より下手かもしれない
誰かが話しかければ、まったく同じ目線と感性で言い返すことができる。
人の想いの機微も感じることができ、この人々の善悪も間近に見ることが出来る。
悪を如実に感じることができる。 善も如実に感じることができる。
今オレは最頂点から落ちてきて、最底辺に存在している。
これは誰にもわからない
これがまさに、一厘の仕組みだからだ。
『世の元の大神の仕組みというものは、神々にもわからん仕組みであるぞ』
『今度はとことはに変らぬ世に致すのざから、世の元の大神でないと分らん仕組ざ。』
『ちょこら判る様な仕組なら こんなに苦労致さんぞ、神々様さえ判らん仕組と知らしてあろが』
『今度の仕組は、元のキの生き神でないとわからんぞ、中津代からの神々様では出来ない、わからん深い仕組ざぞ』
『世が引繰り返って元の神世に返るといふことは、神神様には分って居れど、世界ところどころにその事知らし告げる神柱あるなれど、最後のことは九(こ)の神でないと分らんぞ。』
『艮金神大国常立尊が、神功皇后殿と出て参る時節が近よりたぞよ。
此事が天晴れ表に現はれると、世界一度に動くぞよ。
モウ水も漏さぬ経綸が致して在るぞよ。明いた口が塞がらぬ、牛糞が天下を取るぞよ。珍らしい事が出来るぞよ。
アンナものがコンナものに成りたと、世界の人民に改心致させる仕組であるから、チト大事業で在れども、上十いたさして、天地の大神へ御目に掛けるから、艮の金神はカラ天竺までも鼻が届くぞよ。
この仕組は永らく世に落ちて居りての、艮の金神の経綸であるから神々にも御存知の無い事が在るから、人民は実地が出て来る迄にヨウ承知を致さんぞよ。
是でも解て見てやるぞよ。
今度の二度目の世の立替立直しは、因縁の在る身魂でないと御用には使はんぞよ。
神の御役に立るのは水晶魂の選抜ばかり、神が綱をかけて御用を致さすのであるから、今迄世に出て居れた守護神は、思いが大分違ふぞよ。
是も時節であるぞよ。時節には何も敵はんぞよ。
上下に復るぞよ。』
『是迄は一厘の経綸は申さなんだなれど、此の先きは何彼の事、世界の事が一度に成りて来るから、何を申さいでも、実地を為て見せて、世の元の一厘の経綸の身魂を御苦労に成りて致すから、始まりたら早いぞよ。』
『神は世に落ちて扣えて居りたなれど、太古の元へ戻りて世界を自由に致すから、
世を立替て了はんと上が下に覆りて居るので、斯世が思ふ様に行かんのであるぞよ。
上は上の位、下は下に住みて、物事に順序を立てねば誠の修りは付かんぞよ。』
『艮の金神が表面に現れて、世を構ふやうになると、今迄の様に我善しの世の持方はいたさせんから、思いの違ふ人民が多数に出来てくるぞよ。
金銀を用ゐでも、結構に地上から上りたもので、国々の人民が生活るやうに、気楽な世になるぞよ。
衣類食物家屋倉庫までも変へさして、贅沢な事はいたさせんぞよ。
世界中揃ふて喜ぶ様の政治にいたさねば、神国とは申されんぞよ。
今迄世に出て居れた神々様も、守護神も、人民も、何も判りもせむのに、世を持ち荒して了ふて、此世はさっぱり畜生原になりて居るのに、何ふする事も出来ん様な経綸では、万古末代の世は立ちては行かんぞよ。
金銀を余り大切に致すと、世は何時までも治まらんから、艮の金神の天晴守護になりたら、天産物自給其国々の物で生活る様にいたして、天地へ御目に掛る仕組がいたしてあるぞよ。
昔の根本から世に落ちて、何んな苦労難難もいたして来て、世界の物事は、隅々まで調査ておいて、三千年余りての経綸であるから、一分一厘の間違も無い、動かぬ仕組がいたしてあるから、一日も早く元の日本魂に立復りて、神国の御用をいたして下されよ。』
※ ここでいう、金銀に代わる天産物自給というところで、これはこの現象世界・・・ 物質宇宙の延長で、今までの社会が継続的に変化して、良き世となる・・・、ということではない。
これまでの物質宇宙は消滅する。
だがそれは昇華ということだ。
今までの物質社会を元とした、新たな次元への変化。
それはこの物質社会を参考に、良いものを残し、昇華させ、悪いものを一切省くということ。
この世界を参考に・・・ つまり、このシミュレーション世界を参考に、新しい世界を作り上げる・・・
そのためには、いったんこのシミュレーション世界のキャラクターとして生活し、輪廻を繰り返し、それを味わう必要があったということだ
ここにオレがこの世界へ下落する意味があったということだ。
この最後の方の文章は、まさにそういうことだろう。
『昔の根本から世に落ちて、何んな苦労難難もいたして来て、世界の物事は、隅々まで調査ておいて、三千年余りての経綸であるから、一分一厘の間違も無い、動かぬ仕組がいたしてあるから、一日も早く元の日本魂に立復りて、神国の御用をいたして下されよ。』』
それは三千世界という表現もそうだ。
紛れ込んでるという言い方は、大勢の中に少数という感じだが、そうではなく、かなり割合で存在している
それは普通の人には判別がつきにくく、悪人とはわからない
そういうものたちは、表面では社会に合わせて生活しているように見えるが、心の中は、自分さえよければよく、いざその本性を現わせば、平気で相手を傷つけようが、全く罪の意識さえ感ずることがない。
自己中心的な想いで自分が正しいと思えば、平気で相手を傷つけ、命を侵害しても全く構わない
それどころか、自分たちが善を行使しているのだと思ってはばからない。
こういうやつらは普段はおとなしくしているため、表面的にはわからない
自分達が侵害されていると感じたとき、その度合いに応じて、その悪質性をすぐさま表してくるだろう
こうした悪をオレはよく見抜く
今ではよくその区別がつくようになってきた。
それを踏まえると、預言ではよく人類が3割になる・・・ ということが言われているが、それでは多すぎると感じる
今この世の中を見ると、生き残る人類は1割にしなければならないと感じる
実際、1割という預言も、けっこうあるにはある。
まだそのブレがある状態ということだろう。
決まるのはこれからだ。
1割にするか3割にするかはオレ次第ということ。
1割にしたときはかなり激しい怒りになるから、滅びるヤツは覚悟しておけ。
大本神諭
『大国常立尊が三千世界の、上中下と三段に分けてある霊魂を、夫れ夫れ(それぞれ)に目鼻を附けて、皆を喜ぶやうに致すのは、根本の此世を創造るよりも何程気骨の折る事じゃ、人民では分らん事であるぞよ。
初発の悪の霊魂は、悪の事なら何んな事でも出来るから、茲(ここ)まで世界中を悪で搦みて了ふて(からみてしもうて)、善といふ道は通らぬやうに致して来た、悪神の頭を露(あら)はして、トコトン往生を為せて、亦次に中の守護神を改心さして、下の守護神も続いて改心させねば、神世には成らんぞよ。
下の守護神が一番に何彼の事が解らんなれど、改心を致さねば何うしても改心いたすやうに喜こばして改心させねば、叱る斗りでは改心の出来ぬ守護神も在るなり、
何も解らん四つ足の守護神の如何にも成らぬドウクズは、天の規則通りに致して、埒宜(らちよ)く致さねば仕様はモウ無いぞよ。
此の先で何時迄も改心の出来ぬ、悪魔に永う掛りて居りて、世の立替出来んやうな邪魔を致した守護神は、気の毒が今に出来致すぞよ。
是丈け気を付けて知らして居るのに、改心の出来ん悪魔に成り切りて居る、霊魂の宿りて居る肉体は、可愛想でも、天地から定まりた規則通りの制配に致すぞよ。
モウ何時までも解らんやうな守護神を助けて置いたら、世界が総損害に成りて、茲まで神が苦労いたした骨折が水の泡に成りて了ふぞよ。
夫れでは永らく神が苦労いたした甲斐が無くなりて、天の大神様へ申訳が立んなり、
神は守護神人民を助けたいのは、胸に充満であるから、モウ一度気を付けて置くから、何事が出て来ても神に不足は申されまいぞよ。
是からは悪神の守護神の好きな事も、悪るき事も出来んやうに、天地から埒を附るから、何処を恨む事も出来ず、自己の心を恨める事も出来んやうになるぞよ。
天地の先祖の神は善の守護神も悪の守護神も、皆を喜ばしたいと思ふて、色々と永らく気を附たなれど、ドウクヅの蛆虫同様の、醜しき聞解の無いものは、一と処へ寄して固めて灰にして了ふから、悪いものに悩められて、生命を取られるやうな肉体には蛆虫同様、海外の悪い脊属と、モ一つ下たな豆狸といふやうに、論にも杭にもかからんものに弄びに合ふて居るのは、肝腎の神の綱を切れて居る身魂であるぞよ。
こんな守護神の宿りて居る肉体は、取払ひに為て了ふて此世界の大掃除を始めるぞよ。
天地の先祖の苦労の解らん身魂は、蛆虫同様であるから、斯んな身魂を此世に置いたら、世の汚れと成るから、神界の経綸通りに致して埒能く建替を致して、後の建直しが中々大望であるから、経綸通りに致して見せるぞよ。
そう致すと神は善一つなれど、何も分らん世界の人民が、悪の守護神に引かされて、矢張り艮の金神は悪神で在りたと申すぞよ。
細工は流々仕上げが肝心であるぞよ。
天地の神の御恩も判らぬやうな、畜生より劣りた名の附けやうの無いものは、末代の邪魔になるから、天地の規則どうりに規めるから、悪の守護神の中でも改心の出来たのは、今度の立替に焼払ひになる所を助けてやるぞよ。
蛆虫の中からでも助かるべき身魂が在れば、撰り出して善の方へ廻してやるぞよ。』
現時点で自分が救われたい、と思ってる人は、十分救われる可能性があると言っておきたい。
なぜなら、悪の本質をもつものは、自己中心ゆえに、自分達が悪人ということにも気づかず、裁きの世が来るという話があっても、それをせせら笑って聞いているからだ。
「自分達の世界は自分達のもの・・・ 自分さえよければよい・・ 自分たちの善悪の判断が一番正しい・・・ 」
こういう風に思っているもの・・・ 悪の本質を持っているものは、いかようにして救われようというのか・・・?
自己中心+真理を洞察できる洞察力もない
いや、洞察力のかけらもないから、自己中心になったというべきか・・・
いずれにしても、真理からはずれたものたちは、普通の善人の社会にとっては、非常に危険な存在だ・・・ ということだ。
いっておくが、現時点で預言を怖れ、救われないことを恐れる人は、どちらかというと善人の部類だ。
だから心配することなく、多少の一般的な悪でも、たとえそれを自分がしてても、それほど気にする必要はない
善人は反省力が強いから、自分を責めることが多いけど、そういう人こそ気を大きく持たないといけない。
悪人は今は裁きの預言をせせら笑っているが、いざ自分達が滅びそうになると、途端に「助けてくれー」と押し寄せる
しかし、そのときでは遅い遅い。
まとめて灰にするから覚悟しておけ。
このマインドフルネス・・・ 今の動作に対して意識を向ける・・・ ということをしっかりやるだけでも、かなりの良い効果が生まれるだろう。
しかし最近気づいたのは、このマインドフルネスに対して、ヴィパッサナー(観察)がとても重要だということ。
このヴィパッサナー(観察)を別の言い方で表現するなら、「ネガティブなものに対する許し」 ということ。
これがなければ、マインドフルネスはスムーズに行われない・・・ ということに最近気づいた
マインドフルネスだけでは片手落ち
というか、真のマインドフルネスとは、観察にあるといってもいい。
ネガティブな想いそのまま、現状をすべてありのままに見る・・・ それが「今」に意識を向けている状態。
たとえばマインドフルネスで今の身体の動作だけに意識を向けたとしても、その間に心はいろんなネガティブな想いを生じさせている
マインドフルネスでいわゆる意識を集中させようとしても、そのネガティブな想いと葛藤的になることがある。
たとえば、歩いてる動作が上手く行かなかったりすると、純粋に意識を向けているマインドフルネスが崩れそうになる。
意識を統一しやすい理想の歩き方に戻そうとする
そこで葛藤を起こしイライラする
マインドフルネスが上手く行かない動作のおかげでイライラし、スムーズに行われなくなるからだ
これは動作だけに意識を向ける対象を絞っているからだ。
観察というときは、心も身体も一体だ。
その観察には、体の動きも心のネガティブもすべてがありのままで行われなければならない。
心のネガティブなものへの許し・・・ それは、ネガティブなまま、そのままでいいんですよ、という許しだ。
これがなければ、二元相対を越えるためのマインドフルネスが、マインドフルネスの行為において葛藤を引き起こすことになる。
つまり、動作に意識を向けようとしても、心のイライラと葛藤を引き起こしてしまう。
やはり、観察というのは重要だ。
修行としては、「止」を最初にやってから、「観」に移っていく・・・ とか、
「止」と「観」を両方同時に行うとか、さまざまなことが言われているみたいだが、確かに、しっかりと「今(動作など)」に意識を向けるということをやってから、応用的に「観察」に入っていく方がいいような気がする
しかしこれらは本来、同時に行われるものだと思う。
「止」のマインドフルネスをしっかりやっていけば、やがては自然に観察の状態になっていることに気づくことがあるだろう。
しかし、逆に観察は、ネガティブなものに対する許しがそのまま観察の状態になるため、それ自体が「今」に意識を向けたマインドフルネスということになる
けっきょく、止も観もマインドフルネスなのだが、どちらかというと動作に意識を向けたり、念仏に意識が向いたりと、そういうものがマインドフルネスのイメージだ。
念仏の場合は自力で意識を念仏に向けようとしても、立派なマインドフルネスと言えるかもしれないが、実際は、「もう既に阿弥陀様に救われている」 ということを前提に、ただ念仏をする・・・・ ということだから、より他力的に、どんなことが出て来ても構わない・・・ という、許しの姿勢によって、ヴィパッサナー(観察)の状態になるようになっている。
これは非常に優れたやり方だ。
たとえば、忙しくて余裕がないときに、食事の後片付けで、人の分まで皿洗いをしなければならないとする。
その状態で皿洗いに意識を向けてマインドフルネスをしようとしても、余裕がなくてイライラする想いに邪魔されているような状態になるだろう。
意識がそのイライラ、ネガティブな想いによって、継続的にちゃんと向けられない。
人間は誰でもそうだが、不快な想いなど、ネガティブな感じがあると、これを無くそうとか、変えようとか、意識を逸らそうとか、ネガティブなものから逃げようとする意識が反射的に働く。
これが二元相対的な我の想いによって起こっているわけだけど、これは瞬時に起こっている。
ネガティブなものをポジティブなものに変えたい・・・ しかし変えることが出来ない・・・ この二元相対分別の葛藤が、人間の苦の根本原因といっていい。
この葛藤が起こらない方法が、ネガティブなものと一体になるということ。
つまりそれは、ネガティブなものに対する「許し」ということだ。
この「許し」は、今そのまま、ありのままを根本の土台にしているため、今ある想いを変えて、許そう・・・ ということではない。
たとえば怒っている・・・ いや、怒っちゃいけない、許そう・・・ ということではない
怒っている・・・ これはこのままでいいんだ、 というのが「許し」だ
何も変えようとしない。
むかしサントリーのウィスキーでこういうCMの言葉があった。
「なにも足さない、なにも引かない。ありのまま、そのまま。この単純の複雑なこと。」
https://www.suntory.co.jp/whisky/yamazaki_pre/nenkan/nenkan_bizen.html
まさしくこの通りで、これは0ということだ。
完全なありのままこそ、我の想いが一切働かない・・・、一切平等・・・ つまり「空」ということだ。
つまりそれが、「観察」ということだ。
イライラを排除して皿洗いをする・・・ イライラを排除してマインドフルネスを行う・・・ ということではなくて、イライラしながら行うということの大切さ。
それがネガティブなものを受け入れているということ。
受け入れるというのは、ネガティブを受け入れて、無理やりポジティブに変えるということじゃない。
よく、強引に受け入れて、ニコニコポジティブになった気でいる人がいる。
これは大きな間違いで、自分でニコニコに変えるんじゃなくて、イライラそのままでいいと許すから、やがて掌中に熟した柿が落ちるように、ネガティブも自然に消えてなくなるということだ。
だから、自然にネガティブが消えてなくなった心境も、イライラそのままの心境も、ありのままにおいては全く平等の境地だ。
ネガティブなものを許すと、葛藤が少なくなるので、観察がスムーズに行われるようになる。
これが本当のマインドフルネスという感じだ
このようになると、たとえば物を落とした時に、落ち行くものに意識がついていくようになる。
たとえ落ちるにしても、落ちるものに最後まで手が追っかけて行くようになる
意識間断なく今に近づいているから、そうなるわけだ。
イライラしても、どんなネガティブな想いが出ても、常にマインドフルネスの状態に入りやすくなる
いや、ネガティブそのものが、マインドフルネスの材料になるといっていい。
つまり、観察の材料になるわけだ。
このネガティブなものと一体になるという、ヴィパッサナーの概念・・・ これがなければ、今のオレはないかもしれない
とっくに潰れていたかもしれない。
それほど、今苦難にある人は、この考え方を応用すべきだ。
たとえば、自分が許せない、ダラシノない自分が出て来たとする・・・
こんな自分があってはダメだ、ってことで、とたんに葛藤が起こるわけだよね
そのネガティブな自分を否定するという。
そこで「今」の自分と分離するわけだ。
で、今までの自己啓発などの教え方だと、「ダラシノない自分を許しなさい(受け入れなさい)」 という言い方で、これだと、到底受け入れられないものを受け入れようとする・・・ むりやり今を変えようとする、間違ったやり方になってしまう。
自分のこころを変えて、自分の受け入れられなかったダラシノない自分を受け入れる・・・・ ってことじゃない。
受け入れられない「まま」でいいんだよ。
ダラシノない自分にイライラして、心が乱れている・・・ そのまま、丸ごとってこと。
すべてOKだ、ということ。
それが一つになるということ。
そのとき場合によってはスッと軽くなるのを感じることもあるだろう。
葛藤が無くなるからだ。 ネガティブなものと調和するから。
それが行き着くと、ネガティブなものは空になって消えるということになる。
それは消えなくてもいい、そのまま、ということに徹するから消えるわけだよね。
それで0になるから。 つまり、空になるから。
何も足さない、何も引かないということは、分別が一切働かないということ。
葛藤を起こす分別が働かない。
しかし、ダラしなさそのまま、ダラしなさそのままに一切分別が働かなければ、良い悪いという差別が一切起こらないことになる。
それが不動心ということ。
つまり、何が出て来てもマインドフルネスを当たられるようにならないといけない。
「集中」ということと「ネガティブなもの」というのは対立的で葛藤的になるから、(それはたとえば集中と雑念という風に) ネガティブなもの、そのままをスルーさせないといけない。
留めるものをなるべく無くす・・・ というのはつまり、許すということだ。
検問所でいちいち止めて争うんじゃなくて、そのままのまま、検問所をスルーさせる
で、そもそもマインドフルネスや仏教における「集中」という概念はまちがっていて、実際は「集中」ではなく、「放下」だ。
検問所をスルーさせるにも、「放下」が必要ということ。
三昧が「集中」から起こるように多くの人が錯覚しているが、三昧というのは「放下」によって起こる
「放下」というのが完全なありのままということ。
これは道元禅師のいう、「心身脱落」と同じ。
この放下の状態こそ、観察(一切を手に付けず、そのままにした状態) ということ。
放下の状態が完全な観察の状態ということになるのであるけれども、それは今に在ることと同義で、つまりは完全なマインドフルネスと同義ということになる。
集中は自力で、放下は他力だ
放下は許しから生まれる
阿弥陀如来を信じて、どんなこと(ネガティブなこと)が出て来ても、もう阿弥陀様に救われているんだ・・・、あとはただ念仏を唱えるだけでいいんだ・・・
という「信」。
阿弥陀如来の救いを完全に信じるということは、完全な許しの状態になるということ。
完全な許しとは、ヴィパッサナー(観察)の状態になるということだ。
念仏は「信」によってヴィパッサナーに導いている、優れたやり方と言える
だから親鸞は、ある時、法然門下の皆の前で、「信」の座につくか、「行」の座につくか問うて、多くのものが「行」の座についたにも関わらず、親鸞は「信」の座についた。
つまり念仏を唱えることよりも、「信」を重要視したわけだ。
つづいて、師匠の法然は、親鸞と同じ、「信」の座についた。
今現在は念仏や座禅といった行は、時代にそぐわない
今の現代人がそうした修行をすることは出来ないだろう。
だからオレが、「信」の代わりに、「行」の代わりに、許しの教えを説く
全てのものを許すということこそ、すべてのものと一体になるということだ。
ある時、弟子が一生懸命、座禅の修行をしているのを見て、師匠がこういった・・・
「おまえさん、なんのために座禅をしているんだ?」
弟子は言う、
「はい、仏になるために座禅をしています。」
すると師匠が落ちていた瓦を手に取り、せっせとそれを磨き始めた・・・
弟子が不審に思って、
「お師匠様、なぜ瓦なんかを磨いているのですか・・?」 と言った。
師匠は答える。
「な~に、瓦を磨いて鏡にしようと思ってな。」
弟子は更に不審に思って、こう言った。
「お師匠さま、瓦は磨いても鏡にはなりませんよ。」 と。
師匠は答える
「そりゃそうだろうよ・・・。 ではお前、なぜそれが分かっていて、座禅をして仏になろうと思ったんだ?」 と。
つまりこの話は何かというと、多くの人が瓦を磨いて鏡にしようとするようなことをやっているということ。
これは前でも言っていたとおり、人間というのは今起きたありのままの心境、常態に対して(それは大抵、大なり小なりに意に反したもので、ネガティブなもの)、 これを変えようとか、これを良くしようという想いが反射的に働いている。
瓦は瓦としての役割があって、それに対して有効なわけだけど、人間は瓦という現状にイラつきを覚え、なんとかこれを鏡に変えようとする・・・
ここに良し悪しの分別が働いているわけで、それが鏡にならないという「苦」を生んでる。
瓦そのままでいい、と完全になった時に、ダサイ瓦も、理想の鏡も消え、そこに真の明鏡というものが出て来る
この鏡こそ、中道ということ。
瓦を磨いて鏡にしようとする人は、泥を綺麗にしないと、きれいな蓮の花は咲かない・・・ と考える人だ。
そうして泥で泥を洗うようなことをし、いつまで経っても泥から出られない
泥そのままでいいんですよ、とやったとき、はじめて意識はハスの花にシフトする。
蓮の花は今その時に、まさに、泥の中に咲いている。
泥を消し去った別のところに咲いているわけではない。
泥そのままでいいと差別が無くなったところに、中道という蓮の花が咲くのだ。
ってか、ニー速から来ただろw
たとえ・・・ 平均台をバランスをとりながら渡るとする
ふつうはヨロメキながらバランスをとり、それで渡りきることが出来る。
しかし、通常の人が心の中でやるのは・・・、
ヨロメキをネガティブなものと捉え、ヨロメキが出た時に、即、これはダメだと抵抗が起こる
ヨロメかないようにしようとするわけだ。
それは反射的に、瞬々刻々とそれが起こってる
ヨロメキはバランスをとるために起こってる
つまりそれに抵抗するということは、バランスを失って平均台から転落することを意味する
もしも人がヨロメキと一体になれば・・・・ 瞬々刻々と起こるネガティブなものに抵抗しないならば(一体になれば)・・・ その人はヨロメキを有用なものとして、バランスをとりながら平均台を渡りきることができるだろう。
ネガティブ・ポジティブという、二元相対観念を平等にする(双方を平等に受け入れる) という風になれば、そこにネガティブ・ポジティブは消え、中道という平均台を渡ることができる。
実際オレは、過去世で何度も生まれ変わり、最初のうちはすぐに悟りを開き、輪廻の輪から脱することが出来たと思う
オレは過去世で何度も悟りを得ていると感じる
よくスピリチュアルでは、悟りを得た人が再び生まれ変わり、人を助けるために転生するという話がある
お釈迦様やその他の聖者はそんな感じだ。
オレも最初のうちは何度も悟り、そして輪廻の輪から抜け出していたものの、もう一度人を導くために生まれ変わって来て、それを何度も何度も繰り返してきた。
なぜなら、最終的にこのシミュレーション世界を、天の完全なレベルと統合する必要があったからだ。
オレは転生を繰り返すうちに、このシミュレーション世界に堕ちていき、ついには同化してしまった
だがこれも計画のうちだ。
とくに、真理の教えはそうだ。
相手と同じレベルに立って、はじめてその人を真に導くことができる
しかしそれは、昔貧乏だった人が金持ちになって、そこから貧乏な人の気持ちが分かるからといって、貧乏人を導こうとしても、それは真に貧乏人の気持ちをわかっているとは言えない。
いくら昔貧乏でも、今金持ちとして生活しているならば、今現に貧乏をしている人を導けない。
今までの聖者は、上から目線で人を導こうとしてきたと言える
だから、導かれる人の数は極端に少なかったわけだ。
高いレベルから低いレベルに説いてもわからない。
本当に人を導くには、自分も進んでそのレベルに落ち、そこから「共に」這い上がらなければダメだ。
自分が先に悟ってしまったらダメだ。
あくまで肩を組んで一緒に上がるのだ。
それが弥勒の役目・・・・ 弥勒が「友」として現れる所以だ。
自分も助からないといけない。 人も助からないといけない。
これは今までの聖者が出来なかったことだ。
しかし今回、その時節が来ている。
オレが今、この地上の最下層に堕ちた。
この最下層の人間になったからこそ、この人間の立ち場で、悟りの道を解明していくことができる。
それは誰にでも出来るものになるはずだ。
そうしてそれが伝播するとき、真に天と地が結ばれるときだ。
それこそ、シミュレーション世界であるこの世界が、素晴らしい天国となるときだ。
ヤハウェが最高神であるならば、どの聖者よりも慈悲が深くなければならない。
ヤハウェはこの地上の最下層に自ら落ち、それを体現するわけだ。
自ら悟りを捨て、完全性を捨て、今最下層の人間と同じ立場にたった。
ここから地上の人々と共に上がっていくのが、最後の一厘の仕組みだ。
これは今までの聖者には出来なかったことだ。
救世主が東から現れる・・ というワードで調べると、よくこの聖書の言葉を目にする
これはまさに良い表現だと思う
前に悟りかけたとき、意識の伝播・・ シンクロニシティがあっという間に広がったのを見ると、今度完全に覚醒したときは、まさに、いなずまがひらめくように、
あっという間に巨大なシンクロニシティが世界に波及するだろう。
そのときまでに改心していない悪の御魂は、完全に滅びのステージに入ることになる
悪の御魂とは、今現在、自分さえよければ他はよく、あるいは、自分の仲間やコミュニティのものだけを愛し、他のものはどうでも良いもの・・・ そういう動物的な愛の持ち主。
そういうやつらは終わりのときを迎える
他に平等にいたわりの気持ちを持ちながら、いままで周囲に虐げられていたもの。
他を平等に愛せる気持ちを持ちながら、この世界で下に堕ちて苦しんでいるもの・・・
そういう人たちは楽しみにしていろ。
今まで人類が見たこともないような奇跡が起きるだろう。
すべてはオレの心の産物・・・・
オレは小学生の頃、人にこう言ったことある
もしかしたら、この世界にはオレ一人しかいないかもしれない・・・
今ここまできて、本当にそういう結論い行き着いたわけだ。
今考えるに、こんな宇宙なんかあるわけない・・・ つまり、宇宙の中に人々がいて、たくさんの意識がある・・・ こんな世界はあるはずはない、 と思う。
すべてはオレの空想の産物。
ただ、この地上に下落した状態の最下層の人間からすれば、あまりにも世界は壮大で、宇宙は無限で、そのようには思えない
この空想の世界では、あまりにも長い時の経過があり、あまりにも長い輪廻の歴史があり、それゆえおまえらの自我は形成され、本当に自分という存在が実在しているように感じるだけだ。
たとえばシミュレーションゲームの作られたキャラクターたちも、100億年以上にもわたる人類意識の変遷の中で、自分がある・・・ という風に、思えるようになってくるようなものだ。
ただそのキャラクターたちは、唯一のオレの意識を土台にして派生的に作られているため、その自我を取っ払えば、唯一の意識である「オレ」に帰一できる。
つまり、最下層人類がマクロ的な宇宙を見上げれば、時間はゆっくり流れている。
反対に、唯一神の立場からミクロ的な人間世界を見れば、たとえば地球を宇宙から見て、人の一生を光の点滅で表せば、地球上で一瞬の点滅があちこちで見られるようなものだろう。
おまえらは、本当は蛍の一生より短い、一瞬の点滅にすぎない。
この世界にオレ一人の意識しかないと知った時・・・ いや、世界も何もなく、ただ一人の意識しかない状態・・・
これほどの孤独があろうか?
何兆年、無限の年月の中で、ただ一人だけ存在してきた・・・
自分の外もない。 自分だけだ。
ではその自分の意識は誰が作ったのか・・・?
一体これは何なのか・・・?
それはこの世界の大建て替えより、もっと深い世界の話になるだろう。」
それはこの大建て替えが終わり、地上天国が完成した後、そのあとのステージだ。
果たして俺は、この宇宙という夢から覚め、起床の世界に地上天国が築き上げられたあと、その起床の世界・・・ ただ一人の世界さえ、更なる夢であって、どこかの唯一神を越えた世界の病院の病床に寝ているところを起こされるかもしれない。
そこで起きると、今の人間の思考では到底理解できない、「他者」という存在が現れるかもしれない
そこでその「他者」はこう声を掛ける。
「よく起きたね、今まであなたが一人だったのは、そしてその中で宇宙という夢を見ていたのは、全部本当の夢だったんですよ、」 と。
だがたとえそうにしても、おそらくはまたその世界ではオレが中心になっていくだろう。
なぜなら、究極的にそれ自体も、オレの夢にすぎないから。
しかし、そこまで考えてもしょうがない
今は只、オレが唯一者の意識を取り戻し、この地上世界と天とを統合し、新しい天国を作ることが目標だ。
最近とくに思うのは、もしかしたら、この世界の残忍な犯罪も、あるいは愛に満ちた行為も、すべてはオレの心の中にあるものが現れているのかもしれないということ。
この世界が唯一の意識が見ている夢とするならば、十分、その可能性はあるだろう。
いや、その通りだろう。
今、トドメノフミや、一つの意識しかないこと、最終的にこの宇宙がブラックホールで消滅することなど、あらゆる深奥の情報がオレに開示されてきた。
これはもう近いということだ。
オレの目覚めと同時に、この宇宙の目覚めも、もうすぐそこに近づいている
いよいよだ、待たせたな。
準備は出来ているか?
縁のある人はみんな連れて行くぞ
そういえば、オレは小学生の頃に不思議な感覚を感じていた。
それは、自分の記憶の中に、非常に大勢の人を救ったという、感覚があること。
そしてそれは過去じゃない
これから起こることだ。
そしてそれは決まっているから、あたかも過去の出来事のような感じるだけだ。
その数が地球人類に及ぶような大勢だから、過去にはありえない。
それは未来に起こることを感じていたわけだ。
ただそれは、起こることが120%確定しているため、もはや救いは行われていたも同然になるわけだ。
つまり、あらゆる人はオレの現われでもあるわけだ。
オレの可能性とも言える
オレの意識が分離して、さまざまなオレの可能性が現れたわけだ。
だから、オレの現れである人類にとって、もしオレが覚醒して現れたら、そこに主が現れた・・・・ 太陽が現れたと感じるだろう。
なぜならそれが、自分たちの源であるからだ。
不思議な暖かさと、魂のふるさと、霊のふるさとに帰って、その大元を見るような感じになるだろう。
今ここでこうやって書いているが、一体オレ以外に、誰が救世主になるというんだ?
誰が唯一主になるというのだ?
さんざん預言は出る出る、出る出る、言うてきた。
いわゆる出る出る詐欺だ。
何年たっても出て来やしない
それはそうだ。 まだオレが目覚めていないから。
オレが目覚めなければ何も動かない
キリストが出て来て、釈迦が出て来て、世界が地上天国に代わる奇跡が起こったか・・・?
地球が変わるほどの大きな奇跡を起こしたか・・・?
簡単なことだ。 夢の世界は、夢を見ている人しか変えられない。
大きな奇跡は起こせない。
1999年に出て来たか? 2012年に出て来たか?
誰も出て来やしない。
オレが出ないのに、この後、別のものが出て来るか・・?
オレに代わるものが出て来るか?
いや、そんなものは出て来やしない
すべてはオレが出て来るまで、待ちの状態だ。
まもなくオレは、この世界にトドメを刺す。
そのときすべてが判明するだろう。
この世界が、唯一主の夢であったことが・・。
なぜなら、ヤハウェが現れる一番初発を見ていることになるからだ。
ヤハウェがまだ覚醒していない、普通の人間の状態を見れているといえる
このスレのNoが十八で、ここに書き込む場が用意されていたのも、すべては計画のうちの一つかもしれない。
5ちゃんねるはある時から完全に書き込めなくなった。
今この時期、5ちゃんねるから分離した、こういう場が出来上がったのも、全て計画されていたことかもしれない。
であるならば、このスレが終わるまでに、何かが起こるはずだ。
世界でも、これから今までにないような異変が起きて来るはずだ。
オレの目覚めが近くなればなるほど、この物質世界の滅びが近くなる。
最終的にどうにもならない事態が起きたとき、そのネガティブが極まったとき、反転するように大きなポジティブなことが起こるだろう。
くれぐれも、ここ見ているお前は幸運だ。
通常、ふつうの人はやった分だけの成果を求める
意識を「今」に向けたら、やった分だけの成果を求めようとする。
だから、集中しよう、集中しようと焦ることになる。
真実は、成果とは、柿が熟して掌中に落ちるように、自分の我の想いとは関係ないところで現れる
自分の想いは、やった分の成果がどこに在るのか探そうとする。
それが見つけられないと、ますます集中しようと自力を発揮する。
運動でもよくこのようなことが起こる
鍛えたら鍛えた分だけの成果を得ようとする
だから短期間に、どれだけ自分が向上したのか、我の想いで判別できるところまでやろうとする
結果、長続きしなかったり、無理が祟って体を壊したりする。
成果を忘れ、コツコツやった運動ほど、後で得られる成果は確実なものとなる。
その成果は、今この我の想いとは関係ないものだ。
いわゆるこれが「自力」だ。
実際は、成果は我の想いではコントロール出来ない。
二元相対分別が働いて、理想の状態を目指し、理想の成果を手に入れようとする・・・
この我の想いの関わるところに、本当の成果はない。
ここでバガヴァッドギーターの詩を想い出してほしい。
『あなたの職務は行為そのものにある。 決してその結果にはない。 行為の結果を動機としてはいけない。』
今オレは、最近、意識が行動や心の動きに張り付きやすくなっていることを感じる
意識が今の動作、こころの動きにすぐに追従し、そのまま一体となっている・・・
そういう状態がだんだん増えてきた。
まだそれほど深くはない
昔、深くなったときは、舞を舞うような感じで、あらゆる動作と一体になっている感じがした。
しかし、急激な進歩はすぐ破綻する
長くは続かない
ゆっくりと我の想いとは関係なく、上達していくのが望ましい
そしてあるとき、あるラインを越えると、急激な進歩が自然と起きるということだろう。
この意識が今に張り付くようなことが、頻繁に起こるようになったのは、今まで事あるごとに意識を今の動作に向けて来たからだ。
早く成果を出そうとして、焦ってイライラしながらやったこともある
しかし、それでも、なんでも、かんでも、とにかく意識を今に向け続けた。
成果を求めて焦って集中しようとしたときは、まったく本当の成果を得ることはない
たとえ得たとしても、それは一時的に無理して得た成果で、長続きはしない
これは我の想いで求めるものとは、全く関係ないところで熟成してきたわけだ。
つまり、蓮の花が咲くのは、泥を一生懸命綺麗にしたことが理由ではない。
泥を消す努力とは関係のないものだ。
ここを分けなければ、一生泥で泥を洗うような葛藤を繰り返すことになるだろう。
いってみれば、頭を左右の壁に打ち付けながらあるくようなものだ。
そしてこれこそ、良し悪しの「良し」を我の想いで求める、二元相対葛藤の姿といえる。
これが「苦」の根本なのだ。
人はどうしても成果を求めざる負えない
しかし一方で、我の想いを捨てないと成果は得られない
このどちらを取るのではなく、両者の和合が必要だ。
つまり、合気が必要だ。
成果を求めるこころを毛嫌いして捨てようとするのではなく、しかも、我の想いの越えたところで、熟した柿を手に入れるように、自力と他力の融合・・・・
自力のこころをそのままに、それでいいんですよ、と許している状態で、しかも、自力を越えた成果が落ちて来るように、今に意識を張り付けるということを、どんな想いが出ようと、成果が得られなくてイライラしている時にも、そのままつづける
成果が出ようが出まいが、イライラしようがしまいが、何があろうがあるまいが、努力しようがしまいが、「ただ(只管)」今に意識を向ける・・・・
どんな泥が出てこようも、それを無視しようとか、消そうとかではなくて、泥そのままに、「ただ」意識を今(蓮の花)に向け続ける・・・・
これは言い換えれば、泥とハスの花の和合ということにもなるだろう。
これこそ桃の実の姿ということだ。
それが「合気」ということだ。
多くの人はここを錯覚する
これだけのことをやったのだから、これだけの成果が出たのだと。
それは確かにそうなのだが、なぜそれが錯覚に繋がるかというと、自分の我の想いで努力したことが、そのまま成果につながると考えるのが、錯覚の部分ということになる。
ケーキ職人としてのプロの技術が現れるのは、自分の我の想いとは関係なく、これまでしてきたことが複合的に熟成し、時節があって自然に表れて来るものだ。
その時節で熟するものは、自分の我の想いでは手に入れることは出来ない。
得ようと想って得られるものではない。
すべてのことを、柿が熟するような自然の流れに、完全にお任せするということ。
それが、ヴィパッサナー・・・ 完全な観察・・・ ということだ。
親鸞の「信」の教えというのは、そういうことだ。
この日ユ同祖論には、二つの流れがあるわけだど、一つは、2700年前に黒潮に乗って九州に上陸した、神武天皇をリーダーとするグループ。
もう一つは、応身天皇の時代に、朝鮮半島からわたってきた秦氏のグループ。
神武天皇の方が正流といった感じだが、秦氏のほうも、八幡神のトップの宇佐八幡宮を創建したということで、八幡という発音も、ヤハウェと関係しているといわれている。
それで、失われた十部族というのは、アッシリアの捕囚で、当時はユダヤ人の国はユダ王国とイスラエル王国の2つに分かれていて、イスラエル王国の方が10部族で構成されていたわけだ。
そこをアッシリアに攻められ、住民が連れ去られた。
この住民というのは、祭祀にかかわる人たちや、高官、貴族、学者など、多くの優秀な人たちが連れ去られている・・・、と読んだことがある。
で、ここで疑問が生じたんだが、失われた十部族の中に、王家の血筋のユダ族がいない・・・ ということだ。
今度の救世主はダビデの血筋・・・ つまり、ユダ族から出るようになっている。
これは確かだと思う。
キリストもダビデの子孫、ユダ族から出るようになっていた。
とすると、10部族だとユダ族いないということで、日本人はダビデの血を引いているものがいないということになって、救世主も、その誕生する土台がないということになる
しかしこれも、あとあと色々調べていると、ユダ族が日本に入ってきているという話が出てきた。
出口応仁三郎は、日本にはユダヤの一番良い部族が入ってきている・・・ と、確か書いてあったものを見たことがある
これはつまり、ユダ族が日本に入ってきているということだろう。
神武天皇はおそらくユダ族、ダビデの血を引いていると思う
このアッシリアの捕囚はイスラエル王国の十部族の国を攻めたことになっているが、よくよくwikiで確かめてみると、十部族だけでなく、隣接するユダ王国の46の街の住民も、アッシリアに捕虜として連れ去っている
つまりは、ユダ族がその中に含まれる可能性が十分あるわけだ。
神武天皇が即位したのが、紀元前660年。
つまり、だいたい 60年~80年くらいの差があるわけだ。
バビロンの捕囚でとらわれたものが解放されたのと違って、アッシリアの捕囚でとらわれた人の帰還は不明になっていて、それゆえ失われた十部族といわれるわけだ
なんらかの理由で、アッシリアに捕囚された人々が自由になり、ユダ族の中から王を立て、日本に向かったとも想像できる。
たとえばモーゼのように、預言者が出てきて、さまざまな奇跡を起こし、ユダヤ人のグループがアッシリアを離脱した・・・ などとも想像できる
預言者によって王が打ち立てられたのかもしれない。
だいたい、すべてのことは一つにつながっていて、アッシリアの捕囚自体も、最終的に最後の救世主が日本に現れるための土台になっているし、そこにユダ族も含まれていたこと、そしてその中からダビデの血を引くものが隠れていて、そのことと、将来の日本の血で最後の救世主が現れるということも、預言者が見通して、王が決定されたとも想像できる。
このあたりは史実というより、もはや感の世界だろう。
史実では明らかにすることができない世界だ。
ちなみに、ユダ族の紋章は、獅子になっている
これはおそらく、白い獅子だったのではないかと、俺は想像する
エジプトのピラミッドは、当時は白く輝いていたといわれる
おそらく、スフィンクスも同じ白い色だっただろう
このスフィンクスはピラミッドの前にある中央通路の片側に存在する
太陽の船も対になっていて、反対側からも発見されていることから、スフィンクスも狛犬のように、左右で二対あったはずだ。
この白いスフィンクスは王家の象徴であり、おそらくそれをユダ族が継承している
このエジプトとユダヤ人の関係はあとで話をしよう。
これは家を建てたときに、住宅メーカーからもらったものだ。
石膏で作られていて、かなり重く、立派な作りになっている
なにかこれが、ユダ族の象徴として、昔からそこに飾られるようになったいた感じだ。
そう、つまり、もし俺が救世主なら、ヤハウェとして現れるなら、オレはダビデの子孫のはずだ。
これは応身天皇と宇佐神宮の話で、またその話をしようと思う。
頭の中にはいろいろな話があるんだけど、それらを一つにつなげて全体に文章にするのが難しい
ちょっと変な文章になるかもしれないが、いちおう、ここの部分も大切なところだから、書いておこうと思う。
史実として何が適合するかというと、それはアクエンアテン(アメンホテプ4世)の時代の終わりに、迫害を受けたアマルナの住民がその地を脱出した・・・・ という話がぴったり合うわけだ。
このアクエンアテンに関連する話は、心理学者のフロイトも口にしている
アクエンアテンまでは、当時はエジプト古来からの神々を信仰していたわけだが、アクエンアテンが王に即位して、突然、それまでの神々を排し、アテン神という太陽神を唯一の神として信仰の対象にした。
このとき、それまで勢力を誇っていたエジプトの古来からある宗教の神官たちは、面食らったわけだ。
当時の軍人たちも、古来からあるエジプトの神々を信仰していたため、ひそかにアクエンアテンを恨んでいただろう。
なぜアクエンアテンはそれまでの宗教を捨て、突然、太陽神を信仰し始めたのか・・・・
太陽神をただ一つの神として信仰するというのは、よほどの悟りを得たに違いない
ちょうどそれは黒住宗忠の天照大神の信仰と同じだ。
唯一神は太陽として象徴されるため、世界の各地域では、太陽神として信仰されていることが多くある
大日如来もその一つの象徴だが、大日如来と太陽神ミトラは同じだ、という話がよく出てくる。
思うに、仏教の密教というのは、アーリア人の秘儀を継承したものではないだろうか。
仏教というのは通常はお釈迦様の教えになってる。 しかし、密教は大日如来が説いた教えだ。
仏教は片方でお釈迦様の教えの系統がある一方で、別系統として密教の教えがある感じだ。
つまりこれは、ただ単にお釈迦様の教えだけではなく、お釈迦様が継承した古来からある秘儀のようなものの系統ではないだろうか。
それはおそらく、アーリア人の秘儀でもあったはずだ。
このアーリア人というのは、スピリチュアル的な能力を秘めた民族だったのではあるまいか。
弥勒や大日如来にも通じるミトラは、もともとアーリア人の代表的な神だったということだ。
ミトラの現存する最古の記録は、ミタンニ文書(紀元前1400年)にあるそうだ。
ミタンニ王国というのがあって、これを建国したのがフルリ人ということだが、神々の信仰や言語が、古来のインドとかなり一致しているということだ。
もともとフルリ人はアーリア人だったともいわれてるみたいで、インドに侵入したアーリア人と宗教や言語を共有していた可能性があるということだろうか。
けっきょく、アーリア人がインドに侵入して、ヒンドゥー教の元となる神々の信仰が伝わったということだろう。
インド人というのはおそらく、もともと黒人みたいに黒かったのではないか?
前に写真で見たことがあるけど、元来のインド人というのは真っ黒だ。
そこにアーリア人の血が入って、今のインド人のような肌の色になったという感じではないだろうか。
お釈迦様ももともとはアーリア人の血統だったのだろう。
つまり、アーリア人の秘儀を継承する立場にもいたはずだ。
さて、アクエンアテンは突如として太陽信仰を始めたわけだが、そのきっかけになったのではないか・・・ ということが一つある
これは勝手な想像だが・・・、
アクエンアテンの妃はネフェルティティだが、このネフェルティティは、ミタンニ王女のタドゥキパだという説がある。
もしかすると、タドゥキパは巫女のような存在でもあり、スピリチュアル能力に優れ、アーリア人の秘儀を継承していたかもしれない。
それをアクエンアテンに伝授した・・・ もちろん、そうだとしても、アクエンアテンにかなりの素質がなければ、悟りを得ることは不可能だろう。
太陽神の秘儀・・・ つまりは密教と同じ系統の教えを得たのではないか。
タドゥキパがきっかけとなって、アクエンアテンは太陽神の信仰を始めたのではないかと、想像してみたりする。
さて、アクエンアテンはアテン信仰を始めて、首都アケトアテンの住民を全員信者にしていくわけだが、このアクエンアテンの時代には、エジプトは一切外国との戦争をやめてる
同盟国の応援要請が盛んに来ているにも関わらず、それらを無視して軍隊を送らなかったらしい。
ここら辺の話からも、アクエンアテンの悟りが本物であったことをうかがわせる
アクエンアテンの息子は、あの有名なツタンカーメンだ。
これは正確にいうと、トゥト・アンク・アテン だ。
アテンというのは、太陽神であるアテン神のことだ。
ところが、アクエンアテンの死後、トゥト・アンク・アメンに改名させられている。
このアメンというのが、エジプト古来からある神の名前だ。
つまり、元の神官たちの勢力が巻き返してきて、以前の神を復権させたということだ。
アクエンアテンの死後、アテン信仰に関連するものは、かなり激しい弾圧を受けてる
エジプトではよくある、名前を削り取られる、ということも行われた。
徹底的に、アテン神とアクエンアテンの名は削り取られた。
その被害をもっとも受けたのが、当時首都だったアケトアテンの住民たちだ。
アケトアテンは徹底的な都市封鎖を受けた。
アリ一匹も出させないような、徹底的なものだったかもしれない
アマルナ(アケトアテン)の発掘調査では、かなりの栄養失調に陥った人骨が、多く発見されてる
単なる一世代のみの都市封鎖ではなく、何世代かにわたる、かなりの長期にわたる都市封鎖だ。
このような悲劇を神が見過ごすことはなく、彼らをエジプトの地から脱出させることになる。
(この記事の内容は、おそらく勘違いしている。
アクエンアテンが早期に首都を完成させるために、奴隷を酷使した・・・ ように書かれているが、これはおそらく間違いだろう。
この悲惨な骨の状況は、アクエンアテン後の弾圧によるものだ。
「古代エジプト、人骨が語る過酷な暮らし」
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/7701/ )
この首都アケトアテンでの住民たちの信仰の状況だが、それはアマルナ(アケトアテン)で行われた発掘調査で、その一端が明らかになっている
各家庭の主要な部屋のひとつに、聖域が設けられていた。
その聖域は、「赤く塗られた柱」をもつみせかけの入り口を持っていた。
この部分は、旧約聖書の過ぎ越しの話と一致する部分だ。
すなわち、二本の柱と鴨居を子羊の血で赤く塗れば、神の懲罰を逃れられるというもの。
つまりこれは、アテン信者である証であるわけだ。
日本の鳥居の起源がここにあるとすれば、われわれは元はエジプトの太陽信仰を受け継いでいるということになる。
不思議なことに、今のイスラエル、ユダヤ人の風習として、この朱塗りの柱というものは、ほとんど継承されていないように見える。
これほど重要な話であるにも関わらずだ。
それが強く継承されているのは、日本ということにもなりえる話だ。
つまり、本当のアテン教の信者は、エジプトから日本へと渡ってきたことになる。
以下にこの両方の詩編の比較がある
https://w.atwiki.jp/trinity_kristo/pages/288.html
別のところからの引用で、アテン神を称える詩を載せてみよう。
これは唯一神の特徴がよく出ている。
『おお他にはみられない唯一神としてのあなた、精神的に孤独なあなたは大地をつくり、人間と、家畜と、小動物と、地上にいて足で歩くものと、高いところにいて翼で飛ぶもののすべてと、シリアと、ヌビアと、エジプトの大地をつくられた。 ・・・・・・・』
『あなたがはるかな空をつくられたのは、そこを輝かせ、あなたがつくりだしたものを観察するためである。
あなたは100万の生命の中にある唯一の存在なのだ。』
『比類のない唯一神であるあなたは、ひとりでいたときに心と意識で世界をつくりだした・・・ 自分自身から、何千という形態をとりだすあなたは、単一性にとどまっている ・・・・ あなたに生みだされたすべての存在は、ただあなただけをみつめるために実存する。』
最後の詩はとくに、聖クリシュナの神譚詩を彷彿とさせるような内容だ。
やはり、ただ一人、一つの意識しかないということは、かなりさみしいということだろう。
それが永久につづくのだから、そしてそれが、始まりもないような始まりからあるのだから。
ちょっと修正
「ツタンカーメン」の正式な呼び方は、「トゥト・アンク・アメン」
これは改名後の名前だ。
元の名前が「ツタンカーテン」。
つまり、「トゥト・アンク・アテン」だ。
そこから見上げる世界は壮大で、他の人間と並列に接することができる
これは、たった一つの意識しかなかったヤハウェにとって、かなり幸せなことかもしれない。
しかし、この意識の変容はまだ完成していない。
自分と並列に他を生み出すことにより、そこには立派な人間もいれば、糞みたいな輩もいるからだ。
すべては遠い昔からこの現象世界に下降したオレの心の反映といってしまえばそれまでだが、これも新しい世界を完成させるための過程であるわけだ。
最終的には悪を滅ぼし、善一筋の世とする。
この善とは、善悪の相対性ではなく、善悪を超えた、真実の在り方の世界・・・ ということだ。
そうしてその世界が完成するとき、多くの他の中心に収まり、その世界を甘受することができる。
本来、唯一神ヤハウェの一つの意識しかないわけだが、ヤハウェは孤独を解消するために、一生懸命 他が存在する世界を生み出そうとしている。
このすべての世界がヤハウェの「一」であることに変わりはない。
しかしその中に、他が存在するこの現象世界を生み出し、そしてそれが一に統一した世界を作ろうとしている
つまり、一即多、多即一 の世界だ。
天だけではダメ
それでは単なる「一」の延長になってしまう
地だけでもダメ
それではただバラバラに個々が存在するだけで、悪がまかり通る個我の世界になってしまう
天と地の和合・・・ そのために、本来6(天)6(中)6(地)から、天のオレが地に下降して、567の世となったわけだ。
このオレがふたたび天に帰り、ふたたび666になるとき、天地の和合が完成する。
これは最初の666より、一段上の666となるわけだ。
ジーンディクソンは預言を外しているという話があるが、「ジーンディクソンの誕生日占い」の本でいろんな人を見てみると、驚くほど当たっている部分がある
たとえば、病院で血液に注射などで菌が混入される恐れがあるので、注意が必要だ・・・ という風に書かれてある誕生日の区分では、オレの親類の二人がこの区分だったが、一人は若い頃、点滴に菌か何かが混ざっていて、それで感染を引き起こし、死亡している
もう一人は糖尿病の治療を受けていて、やはり透析を受けたときになんらかの病原菌に感染し、それが原因で死亡している
また別の区分では、子供のころに片親と生死別する・・・ と書かれてあったが、これも全く別々の知人3人がこの区分で、その3人とも、子供のころに片親と死別している
ちなみにトランプの娘イヴァンカもこの区分で、彼女は子供のころにトランプの離婚で母親と別れている
このジーンディクソンの誕生日占いは非常に優れていて、彼女の能力が本物であることがわかる。
それで、反キリストの預言だが、当初は、これは救世主の誕生を意味する・・・ という話だった。
ところが、のちに前言を撤回し、これは反キリストの誕生のことだ・・・ と主張している
読んだ印象では、これはどうみても反キリストではなく、救世主の誕生を見ていてのだと思う
ジーンは後半になって、そのスピリチュアル能力に陰りが出てきたのではないかと思う。
たとえば、ジーンは文鮮明をほめたたえるようなことを言ってる
ただ、だからといって、過去の能力すべてを否定すべきではない
それは分けて考えないといけない。
たとえば、反キリストが救世主の対称として、何かいろいろな奇跡を起こし、人々を魅了し、破滅の方へ引きずり込んでいく・・・・ という話があったとしても、これは明らかに間違いだ。
なぜなら、この世界で大きな奇跡を起こせるのは、この世界を創造した唯一の意識だけだからだ。
つまり、夢の世界を自由自在に変えられるのは、夢を見ている人だけだ。
それ以外のものが、夢の世界の中を改変するような奇跡を起こすということはない。
たとえば、反キリストが本当に現れるといっても、それはヒトラーとか、そういうレベルだろう。
つまり、人間のレベルの域を出ないということ
そのレベルで大きな悪を人為的に行う、そういう権力を持つということで、奇跡力を持つということじゃない
大きな奇跡をおこなうような反キリストなどというものは存在しない
もし存在するとしたら、それは救世主の「滅びの神」としての現れを錯覚したものだろう
ジーンもこの錯覚を起こした可能性がある。
反キリストの方はアカポリプス666という本に書かれていることだが、この救世主バージョンは動画でしか発見できない。
この動画のソースは1971年に出版された「The call to Glory(栄光の呼び声)」という本になっている。
この動画からその内容を記述してみよう
以下は動画の語り口調も含まれる
『人類の希望は東方にある。 東から西へと輝き、神は再来するだろう。』
『ある朝、ジーンはエジプトのファラオと王妃ネフェルティティが手をつないで太陽の光の中から現れたのを見ました。
王妃のもう片方の手には赤ちゃんが抱かれていました。
赤ちゃんは王妃の着ている服とは対照的に、みすぼらしい服を着ていました。
そして、赤ちゃんの目は知恵と知識の輝きに満ち溢れていました。
王妃の横にはピラミッドが見えました。
ファラオや王妃が近づき、世界に捧げるようにあかちゃんを抱き上げました。
・・・・
ジーンが赤ちゃんに視線を戻すと、彼は男らしく成長していました。
その頭上に現れた十字架の光がどんどん大きくなり、四方から地上に落ちてきました。
その瞬間、すべての人種、宗教の人が彼の前にひざまずき、両手を挙げて彼を囲み、まるで一つになったかのようでした。
これまでの幻像とは異なり、この幻像はジーンにどんどん近づいてきて、最後にはジーンは幻像の一部となって、一緒にひれ伏しました。
その瞬間、ジーンは自分が芽を出して成長しようとしている種のように感じました。
ただし、自分は何百もの同じ種のうちの一つにすぎませんでした。
遥かな東の地で生まれた赤ちゃんは成長しました。
彼は世界を永遠に変えるでしょう。』
以上がジーンディクソンの初期の救世主誕生の幻視だ。
アポカリプス666では、この日に反キリストが誕生したと主張している。
では、アカポリプス666に記された、反キリスト誕生の幻視をみてみよう。
『そして太陽が大地を離れ、光の糸を引き始めた時、その光の中からエジプトのファラオと王妃が次第に姿を現したのです。
私はその女性を見て、ただちにあの有名なティイ女王だとわかりました。
私が彼女の夫であると思った傍らの男性は、歴史上 異教徒のファラオ として知られている息子のアクエンアテンでした。
二人はまるで恋人同士のように手をとりあいながら、燦然と輝く光の中から、威厳に満ちたよそおいをもって現れました。
アクエンアテンの王冠は太陽のもとにおける彼の権力を現していました。
しかし、それは神の子のしるしではありませんでした。
アクエンアテンと手をつないだ母親のティイ女王は、もう一方の腕に子供をやさしく抱きかかえていました。
その子は生まれたての赤ん坊で、しみのついたボロボロのうぶ着にくるまれていました。
赤ん坊はみごとに正装した王家の二人とは全くの対照的に、見るも哀れな貧しい恰好をしていました。
二人が子どもとともに現れたとき、あたりは不気味な静けさに包まれ、この静けさを破る物音は何ひとつしませんでした。
ところがふと気がついてみると、赤ん坊と私の間には、いつの間にか大勢の人が集まっていました。
その光景は、まるで全世界の人々が王家の二人によって披露される赤ん坊に注目しているかのようでした。
私は人々の頭ごしにその赤ん坊を見ていましたが、よく見ると、ティイはその子を群衆に向かって差し出しています。
そして突然、この幼な子から太陽の光線があたりに飛び出し、太陽の光と交差して、子ども以外のすべてをその光の中に吸収していくではありませんか。
・・・・ 私は再び赤ん坊を見ました。
するとその子は、今や一人前の大人に成長していました。
そして赤ん坊の頭の上にさきほどまであった小さな十字架は、見る見るうちに大きくなり、地上のありとあらゆるところをおおうまで広がっていきました。
と同時に、地上の悩める人々は、どの宗教に属する人も、すべて彼の前にひざまずき、あるいは手をかかげ、胸に手をあてて、心から彼を崇拝していました。
一瞬、私もこれらの群衆の一員のような気がしました。
しかし、彼があたりに放つバイブレーションは、父と子と聖霊の三位一体から生ずるバイブレーションではありませんでした。
私は心の中で、このお告げが知恵の始まりを示すものだと思いました。
けれど、それは誰の知恵であり、誰のための知恵でしょうか。
たしかに私は彼の圧倒的な愛に包まれました。
その男はまだ赤ん坊だったころ、澄みきった知恵をもっていました。
私はそうだと思います。
この人物はまちがいなく大勢の人々の心をとらえ、彼らすべてを一つの教義によってまとめあげることでしょう。
彼は、みずからの「全能の力」によって、「新しいキリスト教」をつくりあげますが、それは神の子キリストの教えと生き方からはほど遠い方向に人を誤って導くことでしょう。』
以上がジーンディクソンの反キリストの幻視だ。
しかし、そこで書かれていることは、救世主が人々、すべてのものを「一」に帰させる・・・・ というイメージだ。
これは反キリストの幻視ではなく、救世主の幻視としたほうが自然だ。
反キリストに太陽の象徴はありえない。
必ず悪の象徴になるはずだ。
果たしてジーンが完全に誤った幻視の解釈をしたのか、それともこの幻視が本当に正しいのか、現時点ではまったく不明だ。
しかし、赤ん坊がぼろ布に包まれているという部分は、まさに、ヤハウェが地上に下降して、最下層に落ちたという姿を物語っている。
つまり大本教的に言えば、「こんなもん、牛の糞」状態ということだ。
また、前でも示したように、もしユダヤ人が、元はアテン教信者だとすれば、王族のユダ族というのは、アクエンアテンの血族ということになるだろう。
ならば、ダビデもキリストも、アクエンアテンの血を引いているということになる。
そして来るべき救世主も、このアクエンアテンの血を引いているということになる。
アクエンアテンと王妃が赤ん坊を連れて現れ、全人類に対してその赤ん坊を掲げたというのは、自分たちの血筋から最後の救世主・・・ つまり、太陽神としての唯一神が登場する・・・・ そしてそれは、アクエンアテンの太陽信仰から始まり、その目的の最終的な帰結を意味している・・・ ということではないだろうか。
もしそれがそうだとするなら、ジーンはとんでもない濡れ衣を着せたことになる。
仮に救世主が世に出たとき、その救世主の働きは、最後は人類の淘汰ということにもなりえるので、見ようによっては悪に見える
ようは、ジーンの信仰していたキリスト教をも滅ぼす存在になるだろう。
なぜなら、過去に魔女狩りや、大きな犯罪を犯しつづけた集団でありながら、法王は豪華な衣装と王冠を身にまとい、あたかも自分が神のよう、信者の前でふるまってきた・・・
そのようなものたちに、唯一神は全く用がないからだ。
そのキリスト教を滅ぼす存在としての救世主をみるとき、あたかも、ジーンは反キリストのような印象を受けたのかもしれない
それはなぜかというと、それらのものが示す存在こそ、将来、自分たちのキリスト教を滅ぼすものだと知っていたからだ。
ルシファーというのは、ヘレル・ベン・シャヘル(サハル)(輝ける曙の息子)のことだ。
シャヘルというのは夜明けの神を意味する。
(※ シャヘルは日の出とともに、太陽が再生したことを宣言するとされていた。古代のカナン地方では、シャヘル信仰のもとでシャハリート (Shaharit) と呼ばれる礼拝が朝に行われていた。)
まさに、暗闇の夜を明けさせる、日の出の神だ。
またユダは、従来のキリスト教では、イエス・キリストを裏切り、処刑させたものとして扱われている
しかし、近年になって解読された「ユダの福音書」では、ユダはもっともキリストに認められた弟子だった・・・ ということだ。
このユダの福音書では、キリスト教の将来を予見するようなことが書かれてある
すなわち、ユダを除く、他の弟子たちが、誤ったやり方で教えを広め、まったく役に立たないものを生み出した・・・ というものだ。
その部分を抜き出してみよう。
『イエスは言った。「なぜ心を騒がせるのか。 本当に私はあなたがたに言う。 その祭壇の前に立つ司祭たちは皆、私の名を唱えているのだ。
・・・ 私の名によって、恥ずべきやり方で、実がならない木を植えた。」
イエスは言った、「あなたがたが見た、捧げ物を受け取っていた人々ーーーそれがあなたがたの正体である。 それがあなたがたが仕える神であり、あなたがたが見た12人はあなたがたである。
あなたがたが見た、犠牲としてささげられていた牛は、あなたがたが迷わせて、その祭壇の前に連れて行った人々である。
彼ののち、「みだらな者たち』から別の一人が立ち、また別の一人が子殺したちの中から立ち、また別の一人が男たちと床をともにする人々や物断ちをする人々、そのほか汚れた、不道徳な、誤った人々、「私たちは天使と似ている」と言う人々から立つだろう。
彼らはすべてを終わりに導く星である。
しかし、「終わりの日に彼らは恥に落とされる」と命じられるのは主、宇宙の主である』
たとえば、カナダでは、キリスト教当局が運営していた先住民の寄宿舎跡地で、未成年の215人の遺体が発見されている。
「カナダ政府は2008年、寄宿学校で身体的・性的な虐待が横行していたと認め、謝罪していた。同化教育の過程で数千人の子供が死亡したとされている。」
このような問題は、キリスト教の組織の中で、歴史的に行われていたものだろう。
表に出てきてないものがたくさんあるはずだ。
キリスト教会は歴史的に、異民族のジェノサイドや、性的虐待の温床になっていたと考えられる
それらの悪を行うものたちの中から、法王が選出されてきた・・・ ということだろう。
別のものが立ち・・・ また別のものが立ち・・・ というのは、そういうことだろう。
ユダ以外の弟子たちは、まさに、実のならない木を植え、糞みたいな教会と司祭を生み出したということだ。
しかし最後にヤハウェが目覚めるとき、今豪華な衣装を着てキリスト気取りでいるヤツらは、恥に落とされることになる。
さて、ユダの福音書での、ユダの扱いなのだが、キリストはユダを自分の継承者のように扱っている
自分のことを理解しているのは、ユダだけだ・・ と。
おそらく、ユダはヤハウェの本質を持つもの・・・ つまり、オレの過去世の一つだったかもしれない。
ユダの福音書では、ユダが未来で救世主になるようなことを、キリストが言っている
そしてキリストはユダのことを、『13番目』と呼んでいる。
つまり、キリスト教が忌み嫌う数字だ。
13とはユダのナンバーで、そしてそれこそ、キリスト教会を滅ぼすものになるわけだ。
『イエスはこれを聞くと、笑って彼に言った。
「十三番目の精霊であるお前が、なぜそんなに躍起になるのか。
だが、話してみなさい。 私はお前の話を信じるでしょう。』
『イエスは答えて言った。
「お前は十三番目となり、のちの世代の非難の的となりーーーそして彼らの上に君臨するだろう。
最後の日々には、聖なる世代のもとに引き上げられるお前を彼らは罵ることだろう。』
『イエスは言った。
「来なさい、いまだかつて何びとも目にしたことのない秘密をお前に教えよう。
それは果てしなく広がる御国だ。
そこは天使たちでさえ見たことがないほど広大で、一つの目には見えない霊がある。
そこは天使も見たことがなく、いかなる心の思念によっても理解されず、いかなる名前でも呼ばれたことがない。』
『「だがお前は真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になるだろう。
すでにお前の角つのは立ち上がり、
お前の憤りは燃え上がり、
お前の星は明るく輝き、
お前の心は・・・
さあ、これでお前にはすべてを語ったことになる。
目を上げ、雲とその中の光、それを囲む星々を見なさい。
皆を導くあの星が、お前の星だ。』
(この動画をようやく見つけたわ。
https://youtu.be/ZPeQgm_A1Dk
これはナショナルジオグラフィックが作ったユダの福音書のシーンの動画で、昔日本語の訳がついてたのがあったのが、今はいくら探しても見つからない。
英語で検索かけたら、ようやく見つかったという。)
このユダの福音書で語っているキリストの言葉は、未来の預言のようになっている
ユダの将来というのも、ユダの遠い来世・・・・ つまり、世の建て替えの最後のときのことだろう。
つまり、ユダ=ルシファー=ヤハウェ=俺 という構図だ。
このあと、13についてのオレの考察を載せようと思う。
単に、イエス・キリストの延長・・・ 人として悟りを得た人が、人類を救済する・・・ そういうような感じだ。
多くの人が、ヤハウェ、アラーに相当する唯一神、創造神ーーーそれ自体が、人間として生まれ、新たな人間の世界を創造し、そこに導く・・・ ということを知らない。
しかしこれは、この夢の世界の最終章にふさわしいものだとは思わないか?
けっきょく、夢を見た人(この世界を作り出したもの)が、最後にこの夢の世界にケリをつける・・・・ そういうことだ。
あの主と呼ばれた、天なる父と呼ばれた、唯一神、創造神であるヤハウェが、アラーが、まさか人間の・・・ しかも、落ちぶれた人間の姿になり果てるとは、普通の人が考えることができないだろう。
しかし今、オレはここにいる。
創造神、唯一神としてのすべての記憶を失い、すべての絶対的な権力を失い、ただ普通の落ちぶれた人間として、ここにいる。
これがまさに、一厘の仕組みだ。
人間の肉体からヤハウェが、アラーが、唯一神として本質を取り戻し、絶対的な力を発揮する。
人間の姿を持ちながら、この世界を変えていく。
今まで人類が見たこともないような奇跡が、これから起こることになる。
まさに、牛の糞が天下をとるとは、このことだ。
『寂しさは人のみかは、神は幾万倍ぞ、
寂しさ越えて時を待つ。神が世界の王になる、
てんし様が神と分らん臣民ばかり』
よくスピリチュアルで言われることだが、一つの星座の時代が2000年で、その一つの星座ごとに、一人の救世主が現れるとされている。
たとえば、エジプトのホルスとかは、まさにその中の一人の救世主だといわれている。
キリストは魚座の時代の救世主で、次は水瓶座だ。
スピリチュアルではよく、水瓶座の時代が来るとか言われているが、この水瓶座は世界が霊的世界に進化する・・・・ つまり、アセンションのようなことが起こるとよく言われている
現在は魚座から水瓶座の移行期とされている
この一つの星座が2000年というのはどういうことかというと、これは地球の歳差運動から導きだされている。
地球の軸は斜めに傾いていて、それがコマのように回り、その軸の先の天空に、円を描くようになっている。
その円を一周するのが、2万5800年 というわけだ。
これを12星座で割ると、約2000年ということになる。
ちなみに、通常の誕生月の星座の循環ではなくて、歳差運動の場合は順序が逆回転になる。
つまり、魚座の次はみずがめ座ということだ。
みずがめ座は新しい時代に入ることを意味し、霊的な時代の始まりを意味するということだろう。
今、12星座を約2万6千年かけて回ってきて、各星座の2000年に一人、救世主が現れてきた。
そして次の水瓶座の時代に、新しいターンが始まる
つまり、13人目の救世主が、みずがめ座の救世主ということだ。
キリストは魚座の時代の救世主・・・ つまり、12番目の救世主だったわけだ。
つまり、春分と秋分の日には、太陽は真東から登ってくるわけだから、その日にちょうどスフィンクスは日の出の方向を向いていることになる。
太陽というのは、けっきょく、創造神、唯一神の象徴であるわけだから、昔から古代の宗教ではそれが意識されてきたわけだ。
太陽というものが非常に大事にされていた。
真東というのは、日の出の方向を見るということだ。
オレが住んでいるところも、綾部の大本教から見れば、真東だ。
大本教の詩に、
「此事判ける身魂は、東から出て来るぞよ。此御方が御出になりたら、全然. (さつぱり)日の出の守護と成るから、世界中に神徳が光り輝く神世になるぞよ」
というのがあるが、これは出口応仁三郎のことだといわれているが、ちょっとおかしいんだよね・・・・
出口応仁三郎がいた亀岡は、綾部から見て南東にある
また、この方が出てきたら神世になるということだが、全然神世となっていないわけだから、これは出口王仁三郎のことはなく、来るべき救世主ということになるだろう。
そうすると、オレのいる位置はまさに、綾部から見て真東だ。
春分の日に綾部から見れば、まさに、オレの方角から太陽が昇る。
太陽は常に東から現れる 唯一神の救世主は、必ず東から現れるということだ。
だから、お東様・・・ というわけだ。
この内容はなにかというと、トトメス4世が砂に埋もれたスフィンクスの近くで眠っていたところ、夢にホル・エム・アケトが現れ、「自分を掘り起こしたら、汝をファラオにしてあげよう」 と言われたとのこと。
そうしてトトメス4世がスフィンクスを掘り起こしたところ、その後、トトメス4世は無事王位につくことができた・・・・ というもの。
ホル・エム・アケトというのは、ホルスのことだ。
そして、トトメス4世というのは、あのアクエンアテンの祖父にあたる人だ。
旧市街には8つの門があり、ゴールデンゲートは東に存在する
来るべきメシアは、東から到来し、このゴールデンゲートをくぐってエルサレムに入るといわれている。
現在はこの門は閉ざされている
ここでもやはり、メシアは東から到来するということだ。
またしても岡田茂吉の言葉だw
この内容を載せておこう。
『イスラエルの都エルサレムには、開かずの門(黄金の門)があり、
ユダヤ民族の伝説として「時が来れば、イスラエルの王が再びやって来て、
この門(開かずの門)を通り、神殿に入り、神が住むというその聖所に座し、
世界を統治し始める」との話があると聞いています。
岡田茂吉師は、開かずの門をユダヤの民と日本人が、
手に手を取ってくぐる時が地上天国の始まりだと仰せであり・・・」
http://earthkeepercrystal.com/blog/20110808-200
あれは木の下で行われるわけだけど、その木は龍華樹(竜華樹)と言って、広大な枝と根を持っているといわれている。
枝と根の長さが40里あるとか・・・、とにかく長い枝と根をもってる
これは、オレにはピンと来るんだけど、これはインターネット網を表している
つまり弥勒は、インターネットの下で、弥勒三会を行うということだ。
長い枝は、地上の電柱などに張り巡らされた通信ケーブルで、根というのは、地下や海底に張り巡らされた通信ケーブルのことだ。
このインターネット網を使って啓蒙活動をするというのは、実はジーンディクソンの反キリストの話にも出てくる。
ジーンがこの預言をしたときは、まだインターネットが普及するかなり以前のことで、当然、ジーンはインターネットのことなど知らない
以下、この部分の、ジーンの言葉を抜き取ってみよう。
このとき西洋の宗教はおそら東洋の哲学と融合していることでしょう。
若者が彼のまわりに集まり、彼と英知をともにします。
それは今日の若者が、自分たちの指導者のところに教えを乞いに出向くのと同じような感覚なのです。
世界が彼の出現に向かって準備ができると、何億もの人々が、超先進的なコミュニケーション網を通じて彼と接触するようになるでしょう。
聖なる都はその本部になりますが、彼の行動範囲は全世界にわたっています。
アメリカの新しい支配者と新しい ″精神的" 統治者の密接な協力関係は、彼がアメリカをひんぱんに、かつ広範囲に訪問すればするほど強くなり、アメリカ人を彼に対して感化されやすく、狙われやすい対象にするでしょう。
彼は多くの魂を迷わせます。
彼が長い道を歩いていると、群衆が彼をあがめてついていくのを私は見ました。
これは彼の統治も終わりに近づいたことを示しています。
彼らは畏敬のまなざしをもって彼を盲目的に崇拝し、彼のあとに従います。
私は彼が立ち止まってふりむくのを見ました。
・・・・彼は、催眠術にかけるようなまなざしで彼を崇拝する群衆をながめました。
そして道の果てまでついてくるよう大衆をそそのかすのです。
もう一度彼はふりむきました。
そして、ハーメルンの笛吹の物語のように、彼は人々を率いて歩きつづけます。
人々が"決定の谷"に着くと、そこには岐れ路がありました。
そこで、"東部から現れる子ども"は、何か深く考えコムようにペースを落としました。
彼はマントをゆるやかにひるがえして左に曲がりました。
この瞬間が決定の時だったのです。』
これらの文章の最後に示されるのは、困難を乗り切った一段が、反キリストに打ち勝って真実の道にたどり着くというものだ。
これはおかしな話で、聖書にしろ、なんいしろ、救世主の出現を預言しているような部分がある。
しかしジーンの終末のキリスト関連の預言は、始終、反キリストの話で埋め尽くされてる
なぜそうなるかというと、これはある意味当然のことで、反キリストと救世主を見誤っているからだ。
救世主のことを反キリストと思ってるから、肝心の救世主の預言が現れない。
だから、世界を真実に救うメシアが、その預言の中にまったく出てこなくなってしまう。
確かに、メシアといいながら、その役目はある意味、人類の7割以上を葬り去ること・・・、 つまり、インドでいえばヴィシュヌ最後のアヴァターラ、カルキ神のようになるわけだ。
これを幻視したとすれば、それは当然、反キリストのように見えるだろう。
日月神示
『この方悪神とも見えると申してあろうがな。』
『この方、この世の悪神とも現れるぞ、閻魔とも現れるぞ。』
実際のメシアは圧倒的で、光に満ちている存在だ。
人々に疑心暗鬼を起こさせるような存在ではなく、ストレートに信じさせるような圧倒的な存在になるだろう。
しかし、Netflixのメシアは現代においてもしメシアが現れたら・・・ ということをテーマにしていて、それはそれで雰囲気が出ているところがいい
ちょっとしたメシアの雰囲気を味わいたい人は、こちらをご覧ください
https://www.youtube.com/watch?v=KJuxdy943a0
1871年に、イタリア建国の父であるジュゼッペ・マッチーニに送った書簡(手紙)
「世界を統一するために今後3回の世界大戦が必要だ
1回目はロシアを倒すため、
2回目はドイツを倒すために。
3回目はシオニストとイスラム教徒が互いを滅し合い、
いずれ世界の国々もこの戦争に巻き込まれ
それが最終戦争に結び付くだろう」
「第一次世界大戦は、ツァーリズムのロシアを破壊し、広大な地をイルミナティのエージェントの直接の管理下に置くために仕組まれることになる。そして、ロシアはイルミナティの目的を世界に促進させるための“お化け役”として利用されるだろう。」
「第二次世界大戦は、『ドイツの国家主義者』と『政治的シオニスト』(パレスチナ地方にユダヤ人国家を建設しようとする人々)の間の圧倒的な意見の相違の操作の上に実現されることになる。その結果、ロシアの影響領域の拡張と、パレスチナに『イスラエル国家』の建設がなされるべきである。」
「第三次世界大戦は、シオニストとアラブ人との間に、イルミナティ・エージェントが引き起こす、意見の相違によって起こるべきである。世界的な紛争の拡大が計画されている……」
「キリストの教会と無神論の破壊の後、ルシファーの宇宙的顕示により、真の光が迎えられる……」
徹底したヴィーガン(完全菜食主義者)を6年間続けていたヨバナ・メンドーサは有名配信者だった
しかしバリ島での食事でヨバナの食卓に一瞬だけ魚料理が映ってしまう
それがきっかけとなってSNSで炎上し「偽ヴィーガン」「魚殺し」と呼ばれる
彼女は謝罪の動画で魚と卵を食べるようになった理由を明かした
生野菜しか食べない生活を始めると、まず生理が止まり、常に貧血気味で疲労感があり、ホルモン値は閉経前の女性と同等になってしまった
サプリメントや薬では改善しなかったため、医者に卵と肉を食べることを勧められる
そして現在の彼女は肉食をしながらそれを推奨している
■金(かね)いらん事になると申してあろが、世界の人民 皆青くなって、どうしたらよいかと何処尋ねても判らん事近づいたぞ。
このような日月神示や大日月神示にある「お金がいらない世界」という考えを「原始共産制」といい
カンボジアのポルポトという独裁者がそういう国を作ろうとして実行した例があります
ミジンコでも分かる5分の動画「ポルポト」について
https://www.youtube.com/watch?v=20U3qNX_8wg
ポルポト政権下のカンボジア
銀行業務どころか貨幣そのものを廃止し、私有財産を禁止し、都市文明を否定した
原始社会(原始共産制)の理想的な自給自足の生活を営んでいると考えたカンボジアの山岳先住民族を見本とする極端な農本主義を強行した
これは世界各地で動員が繰り返されてきた20世紀の歴史から見ても例のない社会実験だったとされる
「大地を枕に」より要約して引用
感想を一言でいうと、「くどい」
全巻の要点を箇条書きにすると、5ページになってしまうのではないか?と思われるほど、繰り返しが多い
予言も外れている
人類はまもなく大峠をむかえ、その後「ミロクの世」が来る。しっかり御魂磨きをした者は、ミロクの世で幸せに暮らす
心の醜い者どもは消滅させられてしまう・・・・・・
ってな予言
世界大戦の後、「ミロクの世」が来ると言いたかったのだと思うのだが、ハッキリ言って「外したな」と思う
予言では、「まもなく」と強調している。「まもなく」といえば、普通、数年を意味する。長くて数十年以内だろう
出口なおが死んで、もう100年。いまだに「ミロクの世」じゃないということは、予言は外れたのだ。これは認めないといけないと思う
こういう終末論に取り付かれた者は、ナカナカ目を覚ますことができないようだ
キリストの「最後の審判」の予言なんかも、「まもなく訪れる」と言ったはいいが、もう2000年の歳月が流れ去った
にもかかわらず、終末論者たちは、いまだに「まもなく、まもなく」と騒ぎ立てている
2012年アセンション説も、結局大外れしたのに、信者たちはそれでも「ナンノカンノ」と屁理屈を並べ立てて、「予言はすでに成就した」とか、「私たちの祈りが天に通じ、先送りされた」とかワケの分らないことを言って、目を覚まそうとしない。困ったものである
輪廻転生説というものがあって、人は様々な国に生まれ変わる。今世は日本人かもしれないが、来世
は韓国人として転生するかもしれないということだ
本質である霊には国籍などない
「日本は神国。日本人の俺は偉いのだ。外国のケダモノたちよ、ゴチャゴチャ言うな!」
こんな選民思想に引っかかってはいけない
質問
今後10年間の世界金融に関する展望はどうなりますか?
今後10年間のアメリカ経済に関する展望はどうなりますか?
回答
私たちはそういう問題については考えません
私たちは2つのことだけを考えます
重要なこと、そしてわかりうること
あなたの質問は重要ではあるけれども、わかることはできません
わかりうるけど重要ではないこともあります
そういうことには私たちは興味がありません
今後10年の世界経済、企業闘争など、まったくわかりません
そういうことに気を取られていると、もっと重要なことを見逃しかねません
これは私がよく用いる事例ですが
コカコーラ社は1919年に上場し、最初は1株40ドルでした
あなたに完璧な先見の明があれば、1919年以降に起こること
世界恐慌、社会不安、世界大戦、原子爆弾などいろんなことが見えたでしょう
しかし重要なのはそこじゃないんです
コカコーラは毎日10億人以上が飲む飲み物であり
たった数ドルの商品で世界中の10億人を幸せにできるのです
おそらくコカコーラの株を買うことををためらう理由をいくらでも見つけられたと思います
ためらわず40ドルのときに投資をすると、配当による再投資も含めれば今、500万ドルです
それが私たちのフォーカスしている部分です
チャーリー? 君の意見も
(チャーリー・マンガー)私たちは水の流れを予測しません
そのかわり、どんな流れの中でも泳ぎます
天(あま)翔け国馳け天を舞い
天下に雷鳴轟かせ神の御国と建て替える。
あらゆる教えを混ぜ混ぜて
一つの法といたすぞよ。
神無し思想の者どもが栄え栄しその裏で
金神眼見開いて見ておる事ともつゆ知らず、やりたい放題、し放題、あたかもこの世は人の世とはき違いたる主義思想、
間髪容いれず人の世に一厘入ってまる潰つぶれ、神無し思想ぞまる潰れ、
神信心は馬鹿なりと人の世界ぞ思う頃、神の仕組みは整うた。
あらゆる宗派は一(いち)となる、神の合図で一となる。
神の仕組みの出来上り。
聞いてびっくり見てびっくり、このカラクリを知りたなら開いた口とて塞(ふさ)がらぬ。
嬉し嬉しで開く口と阿鼻叫喚(あびきょうかん)に開く口のふたつとなりし時なりと覚悟の上で知るがよい。
異変が天に起こる時、大地に異変起こるなり。
天地十字に結ばれし嬉し嬉しの大異変、この時、神が現われて各宗各派を統治する。
まず宗教は大異変、宗教界は大異変、
一厘入った宗教はこれまでやり来たさまざまな事ではこれより立ち行かぬ、これよりやり方変えようぞ、あちらにやり方変えようぞ、
打って変りて翻(ひるがえ)り、手のひら返してお出直なおし、それはそうなり、そうなりと各宗各派は甦よみがえる。
さすれば目的なんなりと各宗各派は思案する。
以外や以外これまでは戦い競うて来たなれど、我らの目的唯ただ一つ、世界の平和に貢献と各宗各派は湧き上がる。
一厘入はいった宗教と一厘入はいらぬ宗教は誰が目にとてわかるから宗教界は大騒ぎ上に下にの大騒ぎ。
一厘 入はいった宗教はこれぞ、これぞと盛り上がり、昔のやり方さようなら、神をわからん者達のご機嫌取りともさようなら、さよう、なら神信心をさせてくれ、わしにも信心させてくれ。
この後におよびて申しても、こなたにかもうておれんからこなたの岸とはさようなら。
彼岸に登る舟となる。
神信心の尊さを説けどもわからん者達がこなたに残りてさようなら。
人の世の中終る日の、終る刹那(せつな)の物語。
涙、なみだの物語。
金神正体明かすぞよ。
天理教にて金の龍、元(もと)の神にて実(じつ)の神、できたるばかりのこの大地、泥海の如き有様を、ここまで馳駆(ちく)し固めたる親神(おやがみ)、天の将軍は金剛力の金龍とかしこみつつしみ知るがよい。
天の命にて三千年隠棲(いんせい)いたせし大本(おおもと)の神の出口の口開(くちびら)き
艮(うしとら)の神と現われて三千世界を建て直す。
これより申すさまざまのこれまで隠せし仕組み事。
毛筋の幅も違わんと申しておくゆえ覚悟せよ。
神信心の信徒より順々一厘吟味(ぎんみ)する。
神信心の人々はこれより裁(さば)きの庭に出る。
国祖(こくそ)、大国常立親王(おおくにとこたちしんのう)が、これより直々じきじき裁きする。
善人、悪人顔に出る、神が中心宿る者、形だけなる神信心、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)もさながらに一目見た時、顔に出でる、わしが見るからすぐ判る。
問答無用と申すぞよ、言い訳無用と申すぞよ。
十二単(じゅうにひとえ)に身を包み、みやび優雅に振るふ舞まえど
一厘無くば藁衣(わらごろも)、まるめて捨て去る袋帯(ふくろおび)。
美人美形の者でさえ鼻毛一本まる潰れ、それほど一厘わかるぞよ、それほど一厘わからんぞよ。
その一厘ぞ別れ道、たった一厘分れ道。
濡着(ぬれぎ)汚着(よごれぎ)身にまとい蓑(みの)を負いたる者でさえ
一厘あらば大丈夫、わしが言うから大丈夫。
針穴くぐれる人となり天にも昇る身となれる。
いかなる罪障(ざいしょう)、悪因縁、汚れし衣(ころも)と脱ぎ捨てる。
神信心のありがたさ、かたじけなきは神信心。
正しき心の神信心、以外の事では味わえぬ旨うまい話とわかるまで人それぞれにかかりても結局わかる神信心、ありがたきこそは神信心。
それゆえに心に一厘無い者は何が何とてわからずに言って聞かせる事も無い。
げに恐ろしきは神信心、邪心(よこしまごころ)の神信心。
わしの姿は見えずともわしの意とする者が出る。
例えて言わば天理教、増井りんなるその者は針穴通るか通れぬかその魂を吟味する裁きの役目の者なるぞ、裁く役目の者達が各宗各派に現われて、神信心の信徒より順々一厘吟味する。
それがわしだと思えども姿も見えず声も無い。
唯(ただ)、金神が見きわめる。
神信心の者達を上から下まで吟味して
一厘宿りし者のみを針穴通して連れ帰る。
これにて申するもろもろは毛筋の幅も違わんぞ、毛筋の幅も違わんぞ。
神をシカリと掴(つか)みたら何をやりても大丈夫。
何をやりても青信号、鰻掴(うなぎつか)みの者たちが右往左往をする様がおもしろおかしく見ゆるのぞ。
マツリの型ぞと申すぞよ。
ど真ん中で約り合うた真釣りの型こそ人の身ぞ。
これまでやり来た神信心真釣りの型ぞと申すぞよ。
滑稽こっけいなりや神信心、奇っ怪なりや神信心。
その真ん中ぞ釣り合わぬ奇妙奇天裂(きみょうきてれつ)、神信心。
自分可愛い一念が鰻掴みとしとるのぞ。
早く知らしてやりとうて地団駄踏んでもおぼつかぬ。
何を拝んでおるのぞと哀れおかしや神信心。
人が言うても聞こえぬし神が見せても気がつかんお偉いお方が申す事これしか救いはござんせん。
言われてした事やりた事、わかりましたと申しても鰻は逃げて水の中、何が何とてわからずに謎は深まる一方ぞ。
己が思いを形にし汗だし泣き見て涙してもがき苦しみ道求め神はいずこと渡り来てようやく知りうる神の守護。
これぞ誠の金剛石ぞ、神信心の宝なり。
この宝、ただやりとうて見せたる守護ぞ、あっと驚き仇(あだ)となる、良かれと思い出す守護に人の取り方逆に出て仇(あだ)となるこそいと哀れ。
雨風降りて槍やり降りて金剛石が降り出ても唯(ただ)、中心は人救い、この一点が真ん中のど真ん中に鎮(しず)まりてシカリと入(はい)りておりたなら何をやりても大丈夫
その身その者する事は神がするのと同じ事。
何事やりてもピンと出て何事やりてもサマとなる
社殿ぬかづき手を合わせ祝詞わあーわあー上げたとて何が何とて何が為、何を拝んでおるのぞと、哀れ滑稽ど真ん中、この一厘が大違い。
違い、気違い、気が振れてわあーわあー祝詞上げたとて神は聞くやら聞かぬやら、哀れ儚き神信心。
自己中心の神信心、自己中心の神信心。
やれと言われてやりた事、誉めて称(たた)えてやりた事、一厘入ってクズとなる。
やれども、やれども誉められず途方に暮れて泣きを見る藻屑(もくず)の如き行いが一厘入ると徳となる。
夜の切り替えぞと言うたぞよ、世の切り変えぞと言うたぞよ。
負けば負くほど強くなる。
蒔(ま)け蒔け蒔け蒔け一の種、蒔けば蒔くほど花と咲き、捲け捲け捲け捲け寅の巻、捲けば捲くほど実(み)ぞ実(みの)る。
春まけ夏まけ秋にまけ冬にまければハルマゲドン
魔の神、ドンと落ち行くを我ら喜びハルマゲドン
春、魔、下、ドンこそハルマゲドン。
善と悪とは同じ事、大神様には同じ事。
悪があるから善がある、相対世界の実相は互いは互いの証明書、影こそ光の証(あかし)なり。
陽と陰との融合を日月(ひつき)で示すこの度の真文明の世界なり。
この事、先にてわかるから、いやでもこれより、わかるから楽しみ事はまだ言わぬ。
東京強しと言うた頃、これぞ、あれぞと言うた頃猫やシャクシを真似まねて貴き豆腐の叩き売り豆腐一丁、金一兆、一兆積もうが預けぬ尊き豆腐は蔵ざらえ。
気も振れたりと思いきや、あれを目ざせと騒ぎ立てやりたる神徳まる潰れ、一厘入ってまる潰れ。
それを煽った者たちがそれ見た事かと言う者に、打って変って翻る転身の術の見事さに、さすがの神もギョギョギョのギョ、びっくり仰天ギョギョギョのギョ。
濡着汚ぎ着さしあう本性見えたるその時の神の残念わからぬか、自己愛は悪の権化(ごんげ)であるなれどここ、のわからぬ利他愛に神の御用は勤(つと)まらぬ。
あれやる時ぞあれをやる、これやる時ぞこれをやる。
あれとこれとの境目(はざかい)はあれこれ申さず蹲(うずくま)れ。
峠来たなら押し寄せる。
訳のわからん人々が、何とてするで連れ行けと、どこがどうしてどうなりて言われてした事、どこ悪い。
置き去る筋すじぞあるまいと、めくらめっぽう押し駆ける。
神の残念わからぬか、神の残念わからぬか。
上のお方に聞きなされ、上から言われ言い出されこれが良いぞと言われれば、これが良いぞと言うだけぞ。
心、第二のその頃は、わかりえぬのも無理ないがさらに自然に宿りたる神々様の恩恵を取り次ぐ心も持たぬから農作業など目もくれぬ。
これまでこれで行けたぞよ、これぞ夜間の律法(りっぽう)ぞ、そんな無態(むたい)な時期にいて自己の損徳帰り見ず、そんな無態な打ち出しに逆(さから)い背(そむ)き楯(たて)を突つく、そんな逆賊おりゃせんか、逆の逆賊おりゃせんか。
逆の逆から日が昇る、真如(しんにょ)の逆ぞ真理ぞよ。
裏の裏こそ表なり、表返って翻る。
尻に火のつく者たちと、頭に角を頂いた、獣性、神性入れ替えて三千世界ぞ建て直す。
神が表に現われて無碍(むげ)の光で照らすなら、悪業、悪徳出てこぬか、陰徳、博愛出てこぬか。
出てこぬように祈るぞよ、出て来るように祈るぞよ。
神が人様祈るぞよ。
教師の教(きょう)の狂いたるこの有様は何事ぞ、資格者、失格者この度は神がキチリと片付ける。
教師、狂師を立分けて、大神様にお詫びせよ。
狂師、恐師は生み直し、もっぺん一からやり直し。
この事、前にも申したぞ。
どなたか前にも申したぞ。
利他愛の人は地獄に沈むぞよ、自己愛の人は極楽登るぞよ。
ごくごく苦しくごくごく楽でどちらもさっぱり、わからずじまい。
あにはからんや日の出かな、自己を救いに登りし者と人を救いに沈みし者が、逆さとなりしおもしろさ。
昇り昇りて日が昇りゴモクと宝分けんかな。
天下分け目の閻魔堂スッキリ、キッチリ片付ける。
この目誤魔化す事のみをあれこれ企て私案して、一心不乱に嘘を吐く舌は腐りてくると知れ、目の玉腐りてくると知れ、あまつさえ手足腐りてくると知れ、腹も腐りてくると知れ。
神の戸が開く直前に金が降る、金銀玉が溢(あふ)れ出て人間様の目が眩くらむ。
神が心に宿る人、これにて人様救えると感謝、感激、雨霰(あめあられ)。
おかげ貰えば良い人は唯(ただ)それだけの人々は、あっと言う間に気が振れる。
これにて己れは救われた、ここまで来たら大丈夫どちらがどうとは申さねど、自ら選びし道なれど惟神(かんながら)、かんながら、他人がさせるやないほどに、神がさせるやないほどに、お徳も錆(さび)も身から噴ふく。
金神正体明かさぬを知るや知らずや人の世は、バブル、バブルのその頃に濡手(ぬれて)に粟(あわ)の屑銭(くずぜに)を屑が拾うて屑使い、屑買いしめたる屑の山。
同じ事柄二度する仕組、同じ事柄二度する仕組。
グズグズしておる暇は無い。
悪神、悪仏金が降る、大地が震う真際(まぎわ)まで。
神に焦(こ)がるる人々は喰うや喰わずの食なれど、それでも飢えず苦しまず、嬉しき事のみ増えてくる。
おかげ中心、神中心。
どちらを神が選ぶやら、攫って逃げて愛(め)でるやら。
天に召めされしさる方に天のお方は申された。
勲(いさお)し立たてたるその方に天のお方は問いかけた。
論功(ろんこう)行賞(こうしょう)何望む、勲立てたるその手柄(てがら)、何を褒美にとらそうぞ。
間髪(かんぱつ)容れずにそのお方、天なるお方に望まれた。
一(いち)の救済望むゆえ尊いお姿踏絵ふみえする。
己が命はいらぬゆえ、後(あと)は野となれ山となれ。
こういう事になりたれば、どんな者にも手は出せぬ。
時節が来んうち手が出せぬ、どんな無理事、難題も我身投げ出しするかぎり聞かぬ訳わけには行かんぞよ。
金神時節に勝てぬのもそんなこんながありたから肝腎要、勧進帳、金神これぞ閻魔帳。
時節来たりて幕が開く、三千年の序幕なり。
人が神なるこの度の三千世界の幕明けは、火の雨降らす大洗霊、岩戸開きのその時は人が神にて現われん。
この事シカと申したらシカとわかりし者たちとシカとわからん者たちぞシカと分かれる時期と知れ
利他の愛、栄える世界ぞ築かんと泣く泣く踏絵ぞした者と、自己の愛、我こそ救うてもらわんと、平気で踏絵ぞした者がシカと分かれる時なりと、金神シカと申したぞ。
天に召されしその方のお名前知らぬと言わせぬぞ。
ご召名(しょうめい)、知らぬなりとは言わせぬぞ。
キリストの再臨の謎、解くるなり、ほどなく謎ぞ解くるなり。
大神様のお出ましを一身賭として食い止めた尊きお方の論功を、切りの主徒(スト)ぞと申すぞよ。
ヨハ子ね、ヨハ子ねは黒ネズミ、キリストならば白ネズミ。
この謎ほどなく解くるなり、この謎ほどなく解くるなり。
気狂いの者に何事説いたとてわからん時節となりたゆえ身支度いたして下されよ。
神一厘の別れ道、お覚悟いたして下されよ。
これまで大家に住(す)まいして美飾(びしょく)美衣(びい)にてくるまれてノンキ、ノンキの方々は剥ぎ取るものとて多いゆえシカリとお覚悟下されや。
地獄の沙汰は金しだい、金神しだいと申すぞよ。
金神許さぬ金品も物も住居(すまい)も人さえも通す事無き大峠。
まことごころの人々をまず引き上げて建て直し。
狂うた世界ぞ建て直し。
政治、経済、貿易や種々雑多なる政まつりごと、神信心から衣、食、住、何から何までこの度は一ぺん潰(つぶ)して混ぜ混ぜて一から出直し、やり直し。
誠心が中心の芯にシカリと納まりて神の守護ぞ息吹きする光輝くものとして世界まるごと生み直し。
その手初めが日本国、東、東と進み出たお東様さまの日本国、世界の中心ど真ん中。
皇(すめらみ)の国と申すぞよ。
昔々のその昔、言霊(ことたま)さちわう国なりと申し聞かせて来た事は金龍この度現われて金神の世となるおさしずぞ。
どこがどうとは申さねど渦ぞ日に日に現われて、世のぶち壊し見えるぞよ、世の建て直しが見えるぞよ。
色なり音なり薫香(くんこう)で見え出す頃には気付くぞよ。
我も我もと押し駆けて人垣できて来たるなら、そこがそうぞと申すぞよ。
一旗上げて金神の守護の出所わかりたら、渦がシカリと見えるぞよ。
渦が渦巻き渦となり渦から渦が生まれ出てシカリと物事見える者、これぞ、こうなり、こうなりと疼(うず)く心も渦巻いて渦にあわせて一踊り。
グズって渦に乗れんだら損になりやと次々に人押し駆ける金の渦、金剛力の金の渦。
身仕度いたして下されや、身仕度いたして下されや。
気の違いたる人々に渦の話をいたしても回る方向違うゆえわかる道理はござらぬぞ。
これまで来たるは暗の渦、押し寄せ来たりた渦巻きは汚れ水ぞと申すぞよ。水の禍(わざわい)、逃れん為の月の守護ぞと申すぞよ。
金神表に出たかぎり真水にいたして押しもどす。
汚れ一切許さんぞよ、汚れ一切許さんぞよ。
一厘違いは大違い、暗と明では大違い。
み魂磨いて下されと申してきたるはこの事ぞ。
この道理わかるみ魂となる事ぞ、この道理わかるみ魂となる事ぞ。
金神表に出たからは金銀財を降らそうぞ。
これまで我慢を重ねたは金神とても同じ事。
子供欲しがるあれこれを、やれぬは親の不愍(ふびん)なり。
子の不愍知りつつ見つつ我慢した親の不愍も不愍ぞよ。
これより天下を分けるゆえ上と下とに別けるゆえ金銀財を降らそうぞ。
この大地馳駆し固めし金龍の金剛力はいかほどぞ見せぬわけには納まらぬ。
眼(まなこ)、開らきて金神の世直しシカと見とどけて手柄上げなん神の子よ。
人は皆、神の子なりて神の宮、中央神が鎮しずまれる尊きお宮ぞ人の身は、眼開きて見よとても道理のわからん人々にこれほどわからん道理無し。
道理、道理は文字通り道の理屈であるからに、道を渡れん者達にこんな道理ぞ知るどうり無しとし申さばそのとうり目開(めあ)き、盲(めくら)ぞ別かれゆく。
金神表に出たるなら目鼻口さえ開けられず立ちて歩くもおぼつかぬ人々どっと出るゆえに、その時シカリと目を開き大地踏みしめ歩むのぞ。
一厘隠しは神隠し。
一厘伏せねば立ちゆかん、これまでの世ぞ立ちゆかん。
されど時節ぞ来たからは一厘伏せては立ちゆかん、これからの世ぞ立ちゆかん。
ゆえに一厘明かすぞよ、これより一厘明かすぞよ。
神信心、無くばこれまで治まらん、これまでの世ぞ治まらん。
されどこれより神信心、超えねば世の中治まらん、これからの世ぞ治まらん、ここに一厘秘ひめたぞよ。
あらゆる教えは九分九厘、どなたの尊き教えとて一厘隠して九分九厘、一厘隠しはカミ隠し。
わしの神さん一番ぞと、どこの信徒も思とるし、それでなければ神信心、成り立つ筋もあるまいぞ、日月(ひつき)、出たりと申すぞよ、最後の日月現われて、全ての日月がわかるぞと皆々様に申すれば、わかりてくる者数知れず。
この日、この時、待ちていた、全ての日月はわかりたと言って出る者そこここに現われ出たるぞ、やれ不思議。
これまでの日月神示も九分九厘、何が何とてわからずや、なれどおかしやおかしやと一厘伏せて申したら、あんなものぞと思いきや、一厘の蓋(ふた)ぞ開けたれば、これはおかしやおもしろや、やれ、おもしろや、おもしろや。
目の開く者ぞ現われん、されどこれにて日が昇る。
日月の書(ふみ)にも日が昇り何が何やらわからずに文字見るどころか書さえも手に取る事さえかなわずに足から手から錆の噴く哀れ悲しき人々ぞどっと出るぞと申すぞよ。
目開き盲が別かれゆく時節なりとはこの事ぞ。
越すに越せない大峠、迫まり来たゆえ申すのぞ。
金神前より伏せていた一厘の事を申すのぞ。
上と下とのど真ん中、右と左のど真ん中、腹の中心ど真ん中、腹帯(はらおび)締めて下されや。
こことこことの真ん中にそれぞれ神が降りるのぞ。
人それぞれの真ん中にこの度、神々舞い降りて、人なる肉身に鎮まりて三千世界ぞ建て直す。
世の建て替えとぶち潰し同時に起こると申すぞよ。
どちらに出るかその沙汰は金神次第と申すぞよ。
金神のご沙汰次第と申すぞよ。
奇想天外、驚天動地、奇妙奇け烈、摩訶(まか)不思議。
摩訶摩訶不思議な事とても、マニマニ、マニィが顕(あらわ)れて一切合財照らすなら、こんな事ぞとわかるぞよ。
一切合財わかられて拍子抜けしてつんのめり尻もちつかんで下されや、餅(もち)は臼にて搗(つ)きなされ。
餅は杵(きね)にて搗きなされ、キツネツキではいかんぞよ。
人の世の中終る頃、狐、狐の狐憑(つ)き、上から下まで霊憑り、その九分九厘が狐ぞと人間様にはわかられぬ。
あら、情無や狐憑き、月の守護の時代ゆえ憑きもの有利の時期ゆえに狐、狸やその他ほかの種々雑多なる憑きものが人間世界に踊り出て悪さしてたと申しても、人の学理で固まりた頭で理解不可能ぞ。
これこそまさにこりこりに狐(こ)狸(り)固まりた狐狸狐狸の狐狸の霊ぞと申すぞよ。
こんな手合いのお相手はもうこりごりぞと申すぞよ。
金神表に出たからは、これより人に蟠踞(ばんきょ)した狐狸かたまりが大騒ぎ、上に下にの大騒ぎ、七転八倒するさまが世のあちこちで見えるゆえシカリと見定め下されや、尻餅つかず落ち着いてシカリと見定め下されや。
金神光が強いゆえ表の守護となりたなら今までゆるりと落ち着いて蟠踞していた悪霊が住み所無しぞと泡喰いて跳んで火に入る事となり、わかりてくるぞよ、おもしろや、やれ面白や、面白や。
悪の根絶(ねだ)やしおもしろや。
人の身の頭脳内部のこことここ、ここに狐が住みたなら、やる事なす事狐憑き、キツネアブラゲ好物と申してきたはここの事。
こここそ個々の箇々なるぞ。
社会人心見わたせば、とても人とは思えない極悪非道ぞ常なりとこれがキツネの常なるぞ。
新聞種とはならずとも少女は売春少年非行、果ては暴行殺人と、あら情無や狐憑き、不倫、不倫と狙うとる人も狐の容物(いれもの)ぞ、神をも恐れぬ世の様は神を認めておらぬゆえ、やもうえずとは申しても金神怒髪天を突き、てんつく天突くてんてん点。
天着く、天着く、天天天、天の御座所の天辺で火の雨降らすと思い知れ。
黒い龍とは海の王、次なる世界ぞ産む為の羊水なりぞと申すぞよ。
赤い龍とはこの度の世界が産まれる時までの臍の緒なりぞと申すぞよ。
この度、時節となり成りて金剛力の龍と成り鳴り鳴りまくり鳴りまくり、悪の親玉九分九厘、九尾の狐も焼くからにお覚悟めされと申すぞよ。
ご容赦一切いたさぬぞ、悪は一切灰となり影さえ落せん世といたす。
その一切の様なるが人の世界の隅々にいかな形で出ようともこの度だけはやめられぬ、やめるわけにはいかんぞよ。
これにて一切お出直し、改心いたさば許すぞよ。
白い狐となれたなら金神許して遣(つか)わすぞ。
悪の眷族(けんぞく)わかりたか、聞こえぬ事とは言わせぬぞ。
金神表に顕れた、たけり轟く金龍の雄叫(おたけ)び聞こえておらぬぞと不埒な戯言(たわごと)、言わさぬぞ。
金神ご容赦いたさぬぞ、一切ご容赦いたさぬぞ。
一切ご容赦いたさぬぞ。
午(うま)は肥(こ)えよが肥えまいが秋には天空跳はね上がる。
突如の事ぞと申すぞよ。
空(くう)を行く午、行かぬ午、喰うに事欠く午も出る。
哀れ、青菜の跳ね上がる前触れなりぞと申すぞよ。
萎(しな)だれ朽(く)ちたる青野菜、見るも無残な秋野菜、原因不明、意味不明、行けど果て無き枯野かな、と思いきゃ、眼前突如現われん金銀見まえ違(たが)えたかあっと驚く秋野菜、人々ドンチャカ踊りたる、神の田畑ぞ現われん。
景色ぞ一転、目は二点、その身はスッテン転がりて煮ても焼いてもどうしても、どうにもできない岸からは行くに行けずに彼岸花。
彼岸の岸に行く舟を見送るしかない人々がどっと出たるは可哀そう、ゆえに延ばしに延ばし来た。
世の建て替えとぶち壊し。
改心できるはここまでぞ、ここまでなりぞと申すぞよ。
この豊作は何事ぞ、この凶作は何事ぞ。
吉凶二筋現われて世の建て直しが見えるぞと、ここまでなりぞと申すぞよ。
喰い物粗末にした敵(かたき)、喰い物討(う)つぞと申し出て、親の敵(かたき)は子の敵、金神の仇(あだ)を討つなりと野菜、果物、米に酒、果ては貝から魚までが一つ巨木(きょぼく)に集まりて金神の仇(あだ)を討ちに出る相談あれこれ整いて世に出る事ぞあいなりた。
金神の仇は人救い、何が何とて人救い。
一人も多くの人々を神の御国に連れ帰り、遊び遊ばせ喜ばし金神無念ぞ晴らすぞとドンチャカ、ドンチャカあれこれが一つ巨木に集まりてドンチャカ、ドンチャカ踊りだす。
こんな可愛いものどもが集まる所に金神が行かぬ道理があるまいぞ。
福徳神に身を変えて金神シカリと参(まい)るぞよ、ドンチャカ、ドンチャカ参るぞよ。
巨木の根っこに金神の顕われ出たるを知りたれば一旗上げてくだしゃんせ、未(ひつじ)に米が当る頃、金銀降らせ、玉降らせシカリと守護ぞいたすぞよ。
改心いたすは午の秋、ここまでなりぞと申すぞよ。
午の秋ぞと申すぞよ。
未が出たなら皮を剥むき敷しき物もの変えると申すぞよ。
これまでビシリと敷(し)き詰(つ)めた社殿の筵(むしろ)は焼き祓(はら)い未の皮で紡(つむ)いだる新(さら)なる敷物敷くからに、これまでした事、やりた事、未に皮を生はやす為、やりたる手柄といたすぞよ、二度と無き尊き手柄といたすぞよ。
嬉し嬉しやこの度は金龍表に現われて金神の世となりたぞよ。
上下、左右に前、後、全て金神構かまうぞよ。
金神構わぬ前の世は何が何とてわからずにわからず終いで店終い。
金神構いし次の世は何が何とて何事も見透すかし見通とおし見え透すいた水晶世界と申すぞよ。
燦(さん)、善世界、常(とこ)立(たち)開く午の葉菜(はな)。
上で開いて末で修める、午々(うまうま)の建森(こんじん)の世と成りたぞよ。
午(うま)で開いて旨(うま)く治める艮(うしとら)の金神の世となりたぞよ。
来たりし秋の恐さかな、あきませんとはこの事ぞ。
午(うま)が天空舞うなれば、喰い物の値も跳ね上がり、青菜、根菜、米までが天空高々舞い上がる。
こんな物など喰えるかと足蹴にして来たあれこれがこんな者には喰われぬと言い出す時ぞ来たなれば、後のマツリと諦めてお覚悟決めて下されや。
先にマツリをされた方、中央、真ん中ど真ん中、シカリとマツリておる者は、これより先の喰い物をドンドコ作りに出やしゃんせ、金神後押あとおしドンドコショ。
高々と積み上げたるはゴミの山クズの山ぞと思いきや、なんと前まで食べていた彩(いろど)り豊な食なりが煮ても焼いても喰えぬとは見るも語るも哀れなり。
未(ひつじ)に米は大当り、ドンドコできると喜びておむすびこさえてやりたとて、あっと驚き、その米は喰えぬ人には大当り、触(さわ)る事とてかなわずや。
同じ米でも大違い、一厘違いの米と米。
同じ人でも大違い、一厘違いの人と人。
一厘有ると無いのでは別ものなりぞと申すぞよ。
秋にはあちらとこちらでは隔(へだ)ての併(へい)ぞ現われて、隔ての線ぞ現われて、目には見えねど現われて、ヘイ、あきまセンとはこの事ぞ。
ギリギリ午の秋までと申して来たるその日まで、改心いたしてくだしゃんせ。
いずれ天空舞うなどと知らねど、そこここ現われた、物事識しりたる方々を一切合財引き連れて、金神天地に橋を架け、神の御国に連れ帰る。
その日来るまで一苦労、もっ後(あと)一苦労と申すぞよ。
今が秋ぞと申すまで善悪正邪はあれこれとまぜまぜづくめの混ぜずくし、クソミソ一緒に見えたとて金神シカリと見えとるで最後の我慢ぞ一苦労。
その日、その秋来るまでは、わしはこれぞと思う事、何が何とてやりてくれ。
金神表に出たからは無理事やめて下されや、無理はキッパリ諦めて、心が素直にできる事、ふっと浮びたあれこれも無理なくいたして下しゃんせ。
金神それぞれお手引いて赴(おもむ)く方に連れ行くぞ。
利他がお好きなお人なら利他の赴く方向へ、自己のお好きなお人なら自己の赴く方向へ、それぞれ無理なくお心の赴く方へと誘(いざ)なわん。
交(ま)ぜ混(ま)ぜづくめも二方向、どちらがどうとは言わんから赴く方へ二方向、どなたもどうこう言わんからお好き方へと行かしゃんせ。
通うとりゃんせぞよ、通うりゃんせ、天神様の細道をお好きな方へと通うりゃんせ。
クルリ、回りて蓋(ふた)、開きて舞台スクリと入れ替えて帰り道、返り道ぞと申したら、今が秋ぞと申したら、これより先の御用無き、者は金神通うさぬと上と下とに真っ二つ。帰りは恐いと申すぞよ。
その秋来たならアキマ線、併開きま線ぞと申すぞよ。
金神、キッパリ申すぞよ、へい、あきませんぞと申すぞよ。
一厘無しではあきません、心の眼(まなこ)のあき盲(めくら)、あきませんぞと申すぞよ。
蓋ぞ開いたらあきません、あきま線ぞと来(こ)れま線。
金神、この線、付けるぞよ、キッパリこの線付けるぞよ。
金神、あ、キッパリ付けるぞよ。
さらりさらりと出たる事、無理なくさらさら出たる事、これこそなりぞと申すぞよ。
無理なく出たるは神の守護、神の仕業しわざと申すぞよ。
金神表に出た上は、皆々様のお手引いて安全地帯に引き連れてお連れいたすと申すぞよ。
無理なくさらさら行く方に無理せず歩いて下しゃんせ、無理事やるは逆方向、潰す道筋行く事ぞ。
栄えのお道はさらさらと小川の流れと申すぞよ。
行路如流水、ご無理なし。
今は善悪入り乱れ交まぜ混まぜづくめのお道ゆえ、心配無しは無理なれど、神の御役に立つ者を金神守護をいたすのは、わかりきたる事ゆえに、無理事一切ござらぬぞ。
無理苦理通してやり通し、うっとうしきは悪の気ぞ。
神のおこころ、心としすらすらやる事、出来る事さらりさらりとする事ぞ。
無理が出たならやめなされ、素直な心でやれる事スラスラ心は素直ぞよ、サラサラ心は新さらなるぞ。
人様救うお心が芯にご慎座いたしたら後はなんなりいたすぞよ、神にお任せ下されよ。
逆の効果ぞ狙えぞと申うされたるはこの事ぞ、救うは神の務めなり、救われるお人となるは世の務め、尊き人の務めなり、救いは救われ救われる。
人の世スキリとせんうちは、神々様とて救われぬ。
救われたお人となりて下されや、この事、わかりて下されや。
ここさえシカリとわかりたら、人が神さん焦こがるるよりも神は人さん焦がれとる、その幾倍も幾倍も神は人さん焦がれとる、その事わかりてこられるぞ、その事わかりて下されよ。
無理の無いお人となりて下されよ、人らしき、お人となりて下されよ。
今、この時点で申してもわかれと申すは無理せんばん、無理は一切申せんばん。
無理苦理づくしの世の中で無理なく行けると言う事は変に思うも無理ないが無理があるから変なりと知ってしまえば無理もなく無理にわからす事もない。
神は順序と型なりと申し聞かせた事なりと無理なくわかりてくれたなら、無理事一切無うなるぞ。
霊体一致は霊が先、神が先ぞと申すぞよ。
神の世界に無いものが人なる世界に出るが無理、神の世界に現われて人間世界に現われん。
これよりこれで参るぞよ、霊ぞ主体で体は従。
霊主体従、無理なしとこの道理さえわかりたら、神の世界に無いものを人間あれこれ思案して、こねくりたおしてやりたとて霊の世界に無いものはこの度、一切消するなり。
この度は神の世界は清と出て一切合財整いて人の世界に移り込む。
おー恐ろしや、恐ろしや、やれ恐ろしやお恐ろしや。
神の世界に無いものが、ワンサカ、ワンサカ山となり積りしさまぞ恐ろしや。
濁だくに清せいぞ移写すらば、いかにて約り合いとる事ぞ。
おー恐ろしや、恐ろしや。
無理苦理捏こねて築きたる、人の世界ぞ無理の山。
無理苦理一切無うなりた、神の世界ぞ移り込む。
どういう事ぞとあいなるか、おー恐ろしや恐ろしや、恐ろしがるなと申しても、それぞ無理ぞと申すもの、おお、それこそが無理なるぞ。
無理、無理、無理ぞ、無理なるぞ。
哀れ哀れぞ、いと哀れ、泡ぞ弾はじけていと哀れ、あわよ、あわよと泡喰いて泡は消え去る事となり、天の橋立て見ゆるぞよ。
この橋渡るか、渡れぬか、神が決めると申すぞよ。
金神の沙汰と申すぞよ。
こうならば、さらりさらりと行かぬ事、やらぬが良いぞと申すぞよ。
神の世界となりたなら霊体一致は霊が先、神が先ぞと申すぞよ。
神がそこまで行かぬうち人はそこまで行けぬぞよ。
この事、わかりて下されや、重々じゅうじゅう、わかりて下されや、嬉しき事のみ楽にして神徳積めると申すのぞ、取り越し、先越し、無理せずにゆったり構かまえ下されや、人なる肉身に慎まりた、神が順々渡るゆえ、いやでもその身は追いて来る。
神の御国に連れ帰る一本橋ぞ渡るのぞ。
その橋立ての鼻先に閻魔がドンと陣を取り、一厘持つ者、持たぬ者、白か黒かを分けるのぞ。
おぬしは絶対許さんぞよ、悪因縁のかたまりぞよ、見るも無惨な魂なれど一厘有るで許さんぞよ何が何とてどうしても神の御国に連れ行くと閻魔が申さば大丈夫。
悪業、悪罪、悪因縁、あっと言う間に水の泡。
あわや、あわやと大慌て、慌てふためく目眩めくるめく、神のお慈悲のありがたさ。
おぬしに言う事ござんせん、どうぞお好きにされたしと閻魔が匙さじを投げぬようシカリと一厘掴むのぞ。
この一厘が別れ道、何が何とて分れ道。
一厘違いは大違い、一厘違いは大違い。
山が見えたら大峠、山が見えたら上下に分れ行くこそ大峠、未練、残念、ヤマヤマなれど、山が見えたら大峠、宝の山でも大峠。
遥はるか下界のそこここに業火燃ゆると申すぞよ。
哀れ人の世燃え尽くす霊火なりぞと申すぞよ。
神徳積みて救われし、神有り思想の人々の出番はここぞと申すぞよ。
ここぞ、出番と申すぞよ、待ってましたと申すぞよ。
上から下まで一直線、人の身の内一直線、ポールシフトとあいなりて、上に行く者、落ちる者、この時来たれば誰なりと、その目でシカリとわかるぞよ。
神徳積みて救われし人の助けが無かりたらこの大峠は越えれぬと世間の人々気が付いて、そこここ押し駆け列をなし順々助けを請こう事ぞ。
シカリといたして下されよ、火の禍わざわいの恐ろしさ、凄すごさ惨むごさは人々の憶断おくそく遥か越えた事、神の予想も越えた事、シカリといたして下されよ、この時、来たれば何とてもシカリといたして下されよ。
国の頭かしらと申された、お偉いお方が申うされた。
日本は神の国なりと、それを聞いたる取り巻きは、非難ゴウゴウ野次ゴウゴウ、袋叩きにした上に、詫びろ詫びろと大騒ぎ、神無し思想は大騒ぎ。
外より外より知ると知れ、外なる国の外国人、日の本、日本のご威光をまざまざ知ると思い知れ。
日本、日の本、神国なりとワンサカ、ワンサカ。
押し駆けておろがみ、ひれ伏す事となり、お東ひがし様にぬかづいて、そのご神徳、我が国の我が人民にも下されと請い願う時来たるぞよ。
その日、その時来たるなら、お偉い方々どうなさる、神無し思想のお偉方、どうなさられるおつもりぞ。
いやがおうでも神有るを知らねば峠は越えれぬと無神思想の方々も肝に命じて下されよ。
唯神思想の方々の立分け順次終られて、世にあっ晴れと出たる時世の大峠ぞ越したくば、その方々の、そのお手にシカリとお縋りする以外、術すべ無き事ぞと明すぞよ。
金神シカリと明すぞよ、この度シカリと明かすぞよ。
上下二段と申すぞよ、三段二道はシャカの慈悲、地蔵の慈悲ぞと申すぞよ。
地蔵入滅したるゆえ地底の蔵ぞ開くと知れ。
中途半端の中の段、無くなりたぞと申すぞよ。
神を知るやら知らぬやら、あちぞと言わば、あちに行き、こちぞと言わばこちに来る、なまこに手足ぞ出たような、コンニャクダマぞ用は無し。
中心神の息吹きする兵つわもの集めて出るかぎり、世の建て替えとぶち壊し中途半端で済むまいぞ。
わかれぬ者にことさらにわかりてくれとは申さぬど、一人も多くの人々をこの大峠ぞ越さそうと、裏から小出しにしたなれど、出せば出すほど見えぬとは、あら情無や情無や、神は心底情無や。
こんな場所から逃げなされ、こんな場所から逃げなされ、哀れなお声ぞ聞こえぬか。
閻魔、地蔵は表裏、表返って翻る。
地蔵がその身翻し天輪菩薩と現われて光明如来となりたれば上下二段と翻り、何が何とてわからずに何もわからず目の眩む、人々どっと出たるから閻魔はこの事目を伏せて、タンマ、タンマとしとるのぞ、この世のタンマとしとるのぞ。
受ける、受けんは別にして神もジョークは申すぞよ。
恐ろしき事はできるだけ、なるだけ言わんでいたなれど、火の禍わざわいが人の世に、どんな形で出るのぞと、知りておかねばいかん時機、来たゆえ端々はしばし申すぞよ。
行間お読みて下されよ、行間、お読みて下されよ。
神々様とて逃れえぬ火の禍の恐ろしさ。
行間お読みて下されよ。
金神も皆々様にお覚悟をめされと表に出たかぎり金神とてもその覚悟、決めねばならぬと申すほどそのもの凄きことと申すぞよ。
日じつ、月げつ、地ち、一直線に結ばれん、その日、その時天空に巨大な黒ぞ顕われん。
大神おおがみ様さまこと主すの神の神聖極まるご正体。
元極体主王大御神むとふみくらいぬしおおかみのご出御座しゅつぎょ、黒ぞと申すぞよ。
真っ黒、黒の大太陽、人なる世界の天空に顕われ出たりたその時は畏かしこみ慎つつしみ拝おろがめよ。
大地も黒ぞと申すぞよ、上下黒の挟はさみ撃うち、逃げ失せる事はできんぞよ、これまで人類汚したる、海、山、大地、空とても、黒なる世界の中に入り大洗霊を仰ぐのぞ。
丁度、これまできた世界、月の守護にて三千年、水と土とをこねくりて細工、彩色整えて、形にいたして九分九厘、できたる世界をこの度の釜かま入いれの時ぞ来たるぞよ。
磁器、でける時期、直じき来ると金神直々じきじき申すぞよ。
土とは菌きんのかたまりぞ、何億何兆住む菌で、大地成立しとる事、人の学理も知りた事。
人の肉身も土にして口の中にも菌が住み腹の中にも菌が住む。
菌が人の身支えたる、その事誰とてわかるとて、この菌なるの大変化、この度起きんと申すぞよ。
真っ黒太陽出たならば、真っ黒大地と大変化。
人なる内の仰山ぎょうさんの菌もこれにて大変化、これまで人々汚したる海山、大地空に住む仰山の菌も大変化、元の大地に戻さんと、汚濁、汚物を喰いに出る。
発酵するもの、腐るもの、発光するもの、朽ちるもの、上に行くもの、落ちるもの、飛んだり跳ねたりいたすもの、地べたガサゴリいたすもの、二筋できんと申すぞよ。
発酵、腐乱ぞ分れゆく、二筋道ぞと申すぞよ。
口やら書ふみではこの程度、ここまでなりぞと申すぞよ。
到底、口やら書にては表わす事とてできんから、口やら書ではこの程度、程度次第にわかるぞよ。
聖母マリアがその眼まなこ、お血の涙を流された、その時機なりぞと申すぞよ。
行間のお読みて下されよ、呉々も行間お読みて下されよ。
金神幾度も筆先で世の有様の変わる事、順々知らしてきたなれど、この度出たる書ふみこそは、金神艮とどめの書ふみなりと申しておく事忘れるな。
これより先は新世界、銘々己々筆をとり、神の息吹きぞ元とした千差万別それぞれの新なる書が出るゆえに金神直々出す書はこれぞ艮とどめと申すぞよ。
親神おやがみ天理てんりの書なるも大本おおもとなるの書ふみなるも日月ひつきと申した書なるも全て金神人の世の蔭から守護した文ふみゆえに一厘隠しは神隠し、まとまる事とてなかりたが一厘明かして出す文ぞ、艮とどめにいたすと申すぞよ。
三千世界、紅白の梅咲き揃うと言うた事、いよよ参ると申すぞよ、人の世の隅々までも紅白の梅咲き揃うぞその様がいよよ危難と迫るぞよ。
危難ぞ、気難と迫るぞよ。
白き梅、その真白さぞ清らかさ謹厳実直、律儀なる月の精なる働きを写した梅ぞと申すぞよ。
雪の梅ぞと申すぞよ、白梅は月の精ぞと申すぞよ。
白一面にぞ咲き誇る、雪のお庭は輪止り、雪に雪ではゆきづまり、雪に白では厘止り。
九割九分九厘ぞ、どうすることとてできぬまま、一厘隠しの梅の庭、一輪隠しの梅の庭。
一厘隠しは神隠し、時節待てやと申しても、にっちもさっちもいかぬまま、雪は積りてくるばかり、はてくやしきは梅の庭、さもくやしき南天の赤さなりやと思いきや難点なりやと思いきや、雪霜被かぶりし南天が難転じんと翻り、難点一輪花と咲きまかり出たるや梅の庭。
炒いり豆まめが一輪開いたその梅は紅くれない、臨りんとまかりでて一厘出たりた梅の庭、後あとから後から難点が紅輪こうりんと出る嬉しさや、なんてんことぞと驚けど、嬉し嬉しのその様は、時節待てやと申うされた、時節、これぞと申すぞよ。
紅梅はお日様昇る、その時を明かす梅ぞと申すぞよ、紅梅は日の精なりやと申すぞよ。
日の精なりや火素なりと月の精なる水素とが密合調和の時なりと、ホーホケキョウと鶯うぐいすが法華ほっけの功徳も口々に黎明なりやとホー法華経、東に日の出とホー法華経。
紅梅は日の精いでます芳かぐわしさ、光々こうこうなりやと申すぞよ、香々こうこうなりやと申すぞよ。
時みちて閻魔堂にも春風の戦そよぐ嬉しさ恐ろしさ、木戸が開いたるその時節、閻魔と出たりた大王は、金神なりぞと申すぞよ、艮うしとらの神の出座と申すぞよ。
角と牙とを合せ持つ金龍なりぞと申すぞよ。
おお、こざかしや、こざかしや。
キリキリ舞いしてござるのが閻魔の眼に写るなり。
浄玻璃の鏡につらつら写るなり、その邪よこしまなるあれこれが、この後におよびて、うつけ事聞いとる暇ぞあるまいに、次から次に沙汰下し早くスキリとせんことにゃ本筋遅れるばかりなり。
もうこれ以上は無理なるぞ、待ちて待たせて、待ち侘びた、世の建て替えと建て直し、遅らす訳にはいかんぞよ。
紅白の梅ぞ一度にそこここに開く時節となりたなら人の世包む空気なる、目にぞ見えずに万人を守護して参りた水の精、空気なりやと申すもの、それぞ一変すると知れ。
やれ、恐ろし気は空気界、空気、気難と迫るぞよ、紅白のその間をば隔へだてたる、金の川こそ金龍神。
光輪こうりん模様もようの金の川、金龍昇天する際の金剛力ぞと申すぞよ、金龍神、現れましにけると申すぞよ。
水ぞ逆さに登るぞと申しきたるはこの時ぞ。
火素と水素が一致して主スの形と成りた時、幽界なりぞと申し来た、天地間なる空気界、一変するぞと申すぞよ、金龍出たりと申すぞよ。
空は○マルにてクウなれど、キ・が中央、ど真ん中、融合いたすと申すぞよ。
人の世包む○クウと・キが次々融合一致する、この一瞬の大気難、ほどなく参ると申すぞよ。
空○クウ、気・キ、空気クウキの大危難、危難気難の大変化。
空気吸えるか、吸えぬのか、己々、神がこの度は選択いたすと申すぞよ、魂の洗濯できたか、どうなのか、選択いたすと申すぞよ。
裁きの庭とはこの時ぞ、三千世界ぞ梅の庭、一度に開くと申す事、この事なりぞと申すぞよ。
神の許しの無い者は、息する事とて叶わずに、目鼻口とて開けれずに足腰立たぬと申すぞよ。
「恐怖時代」と申された、重ね重ねて申された、その恐ろしき、その時節、いよよ来たると申すぞよ。
紅白の梅ぞそこここ咲くならば人によりてはその空気、その霊気なる、そのクウ、キ。
毒ガスなりぞと申すぞよ。
改心いたして下されよ。改心いたして下されよ。
神がここまで筆に出す、いよいよの時となりたぞよ。
今までした事、やりた事、良いや悪いや思うより、戒心いたして下されよ。
紅一輪べにいちりんは悪の花、悪に隠れし神一厘、これまで悪ぞと説いてきた、悪ぞ悪ぞと説いてきた、紅一輪ぞ悪の花。
この一厘のわかる人、わからぬ人ぞと出て来るが、そんなとこまで行けぬ人、到底行けぬそれ以前、箸にも棒にも楊枝にも掛からん者ぞ次々に、丘に上がりた河童かと、はたまた金魚が鮒ふなに鯉こい、パクパク口くちを開けたまま、地べたバタバタ這はう様を、見たら何より改心ぞ、わからん人とて改心ぞ。
戒心なくばわからぬぞ。
改心するより他無いと何より金神申すぞよ、戎心なりぞと申すぞよ、回心なりぞと申すぞよ。
回心なりぞと申すぞよ。
この事わかれる方々が出る程、道は別れ道、分れと申せど別れ道、わかれる人々増えたならわからん人々増えるぞと、道は二手に別れると、金神言う事、わかれるか。
理屈にて、わかる、わからん別にして、神が有るやら、有らぬやら、これまで続いた無駄話、この一厘にもケリの付く、分れ道ぞと申すぞよ。
経たてと緯よことが結ばれん、形を字にして十の字の、その真ん中のど真ん中、ここの話のわかられる、お人と成りて下されや、まことごころが芯に有る、お人となりて下されや。
経と緯との結び目は経から見てもここにして、緯から見てもここにして、どちらもここしかごさんせん。
こことこことの結び目が、こころなりやと申したら、まことごころと申したら、神の心のわかられる人達、わからん人達が二手にお別れする時ぞ。
ここで一断ちいたすぞよ。神から見ればこの話、わかれ話と申すぞよ。
ここの話のわかられぬ者に御用は務まらん、ここらでここにケリ付けて出直す時ぞとなりたので、こことこことのど真ん中、心の事にちと触れて、どちらも心を残さずに、心残りはいたさずに、わかれ話をいたすぞよ。
一厘は人間任せと申すぞよ、神は人間創造つくする時、あれこれ苦心したなれど、それはどうこう言わんから、恩着せがましく言わんから、分りてほしいは唯ただ一厘、こころ一厘、ここ一厘、ここの一厘知る事ぞ。
人が言おうが言うまいが、これしか無いぞと思うもの、人がやろうがやるまいが、わしはこれぞと思うもの、芯から湧くもの出づるもの、溢れ溢れる真のもの、その出所が心ぞよ。
経と緯、こことこことの結び目の芯から出いずる、真心まごころに神の住む人、住めぬ人、別れ行くぞと申すぞよ、分れ行くぞと申すぞよ。
旨むねに一厘有る無しで分れ行くぞと申すぞよ。
中途半端は無くなりて二筋できると思すぞよ。
この度だけは何とても、どうでもこうでも二筋の道になるぞと申すぞよ。
まこと、まこと、もこことここ。
中心真ん中、ど真ん中、まことごころと申すもの。
全て解決いたすもの、まこと、まことのここと、ここ、神が宿るか宿らぬか、この事わかりて下されよ、この事わかりて下されよ。
四角四面で真っ直ぐな、カチリ、キチリも誠なら人良し人良し、お人よし、まず人様ぞと考える、柔やわい誠も誠ぞよ。
別々なれば役立たず、どちらの誠も野垂れ死に。
一本通りて柔らかい誠心に神が住み、やがて栄えの道となり、いや増、栄えの道となる。
一本通らずガチガチの誠は誠と言えぬから、神々様は目も呉れず見向きもせぬからさようなら。
さような事なら、さようなら、わからんままにてさようなら、何が何とてわからずにわからんままにてさようなら。
困らん誠は独こ楽ま回まわし、中心心棒ドンとすえ、あれこれしたとて心棒は上下一途いちずに貫つらぬいて、何が何とて譲ゆずらねど心棒奥にひた隠し、へらへら人良し、お人良し、心棒強いお人良し、辛抱強いお人良し。
人にはシンボウ第一で金と言う字となるとやら。
どこぞのお方が申された、その言葉こそ金神の金なる世のお指図と金神この度申すぞよ。
誠なるかな、誠かな、経緯誠結ばれて、二つ一つに融け合うた誠心となるならば鐘が鳴るなり、金が成る。
金神行くとこ、出る所、鐘鳴りやまずと申すぞよ。
金成り山積みと申すぞよ。
新時代、来たりて御用に使わんと、仕度させたるあれこれがお蔵開いて出て来ても、びっくりせんで下されや。
跳んだあれこれ出て来ても、びっくりせんで下されや。
跳んだ事とて思う程、跳んで飛んで飛び回る、羽の生えたる人間や角の生えたる人の出る、跳んだ事とて起こりても腰抜かさんで下されや。
こことこことのこの話、忘れずお仕度下されや、地べたガサゴソ這いまわる、惨い有様見えたとて心残りはいたさずに、天の時ぞと諦めて、キッパリその事諦めて、飛んだり跳ねたりしなされや。
こことこことがあるのなら、まことごころが有るのなら、どれ程贅沢いたしても金神文句は言わんから、飛んだり跳ねたりしなされや。
弥勒みろくの御世なる金神の世の隅々のあちこちで、飛んだり跳ねたりしなされや。
こことこことが有るのなら、誠心が有るのなら、やりたい放題し放題、ご遠慮一切いらんぞよ、ご遠慮一切いらんぞよ。
この大地馳駆し固めし親神おやがみのこれまで隠れし賤しずの家は金銀財の溢れ出る鐘の鳴る家と早変り。
人の立分け終る頃、大地二手に張り裂けん、時、近づきて気付けども、足腰立たず目も見えず、どちが前やら後やら、阿鼻叫喚に耳塞ぎ、振り向かぬこそ大峠、地べたガサゴソ這う様を振り向かぬこそ大峠、今は暗、善悪正邪は入り乱れ混ぜ混ぜづくめの大晦日、三千年の大晦日。
晦日暗ぞと申す事、鐘ぞ鳴るぞと申す事、シカリとわかりて下されよ、百と八つの梵鐘の訳わかる時来たりなば、目睫の寸前、真近と申すぞよ。
神の情なさけのわかる人、何もわからずこれまでの煩悩共々滅ぶ者、誰が目にとてわかる時、目睫なりぞと申すぞよ。
この暗抜ければ往環道おうかんどう、上下一本貫いた、世界、一列いちれつ、一平ひとたいら、何とて見え透くミロクの世。
世の正月ぞと申すぞよ、代の正月ぞと申すぞよ。
元旦や昨日の鬼が礼に来る。
金神に豆をぶつけて栄えたる天あまの邪じゃ鬼くとて礼に来る、昔の鬼が礼に来る、今の鬼とて礼に出る。
その時鬼族無くなりて世界国家といたすぞよ。
この事わかりて下されよ、重々わかりて下されよ。
いままでやりきたあれこれが、根棒みたく固まりて、心の棒となりたるを知らぬ存ぜぬわかられぬ。
悪鬼と身を変えやりた事、羅刹らせつとなりてやりた事。
折角尊きお手柄が、金棒握りておるうちは、何が何とてわからずに、悪鬼羅刹の姿から解脱できぬと申すぞよ。
鬼の頭かしらをかたどりた、屋根に頂く鬼瓦、あのもの凄きつらがまえ、月の守護ぞと申すぞよ。
これまで出たりた神信心、どことも月の守護にて上より睨にらむは月の神、鬼瓦なりぞと申すぞよ。
この樹登らば鬼女となるべし夕もみじ。
神信心をしたならば鬼女となるぞと申すぞよ、これまで出たる神信心、どことも鬼女ぞと申すぞよ。
胎たい臓界ぞうかいと申された三千年のこれまでは、鬼女の身内、腹の内、お復のややこを守らんと、鬼女と身を変え突き進む、哀れ悲しき鬼女なりが神信心ぞと申すぞよ、那美なみの身内と申と申すぞよ。
子供可愛い一念が、女の業ぞと申す事、宿業なりぞと思す事、世の誰なりとわかるとて、これまで来たる宗教が、それぞれ業で戦いて競うて来たぞと申す事、知る時なりぞと申すぞよ。
身の内孕はらみし次世代をりっぱに世に出し送り出しその日その時来るまでは、何が何とてふんばりて鬼が邪にとてならいでか、この事おわかり下されよ、この事おわかり下されよ。
神信心のお方達、ここをわかりて下されよ。
今までした事、やりた事、鬼女の御用と申す事、どれ程尊き教えとて、一厘隠してやるかぎり、拡め拡めてやるほどに、真の救いはできぬから、ツキ、ツキ進みて突き進み振り向く時ぞ来たならばひっくり返ると申すぞよ。
今までした事やりた事、良いや悪いやそれ以前、あきれかえると申すぞよ。
神信心の方々や宗教界が真っ二つ、別れ別れとなる事のその根本はここなりと金神初めて明かすぞよ。
羊水、臓盤、お臍の緒、どれとて大事な腹の内。
子に栄養ぞ与えんと、御自身喰らうもこれ大事。
何より御自身大事ぞと喰らい喰らいて突き進む、自己愛大事と申すぞよ。
自己愛は悪の権化であるなれど、ここのわからぬ利他愛に真の利他愛わかられぬ。
次世代生まれた暁は、それまで大事なあれこれも不浄なりぞと申されて、これより用無し役目無し。鬼女のお面も御用済み、お面取れるか取られぬか、御面な去れぞと申せるか、御免なされぞと申せるか天下御免の別れ道、なに程、どれ程あれこれが隅々充分できたとて、鬼女の役目はここ止り、ここ一厘にて厘止り、ここ一厘にて輪止り。
あとは子達があれこれをそれぞれ銘々楽しむを、高いとこから眺めては楽しみたいが親心、親神なりぞと申す事、重々わかりて下されや。
陽気暮らしの世となりて月様高みに行かれたら、お多福飾りて下しゃんせ。
世界一列皆我子、鬼の頭と成り果てて、心痛めて身を痛め、取りい出したる我子なら分けも隔てもいたさぬと月様申して下さるぞ。
神信心の方々はどうぞお覚悟下されや。
鐘の鳴る時来たなれば、上に行くもの、落ちるもの、双方お覚悟されたしと、金神覚悟で申すぞよ。
金神とてもこの度は、覚悟の上で申すぞよ。
覚悟、覚悟と申すぞよ。
信心個々ぞと言うたぞよ、銘々一人は一の種。
尊き尊き一の種、人が飯喰い用を足し、それにてその身立ち行くか、立ち行く道理ぞあるまいに、人のお徳にしがみつきどこどこまでも参ります。
小判鮫でもあるまいに、そんな信心増すばかり、後から後から沸いて出る。
己れの救済乞い願い何が何とてする者が千人万人沸いたとて楽園世界ぞ出来まいに、わしは人様救いたい、何が何とて救いたい、そういう者ぞおるだけで、そこは極楽突き抜けた天国なりぞと申すぞよ。
峠、峠、大峠、近み来たのが見えんかな、見えぬ者にはもう見えぬ、捨て去る古着、いちいち洗い干して乾かす者は無い、何が何とてわからずに、消えて行くのぞ、いと哀れ。
準備期間は1ヶ年、午年迎えて1ヶ年。
それより早よても遅うてもこの救済はまる潰れ。
金神この事三千年、大神様は幾万年。
仕組みの準備をされたゆえ潰す訳には参らじぞ。
午うま年、青菜跳ね上がり未ひつじに米は当りだす、それが合図の時なりと明あけの烏からすが鳴いたれば辛酉かのととりまであとわずか、飛んで火に入る夏虫とミロクの民は真っ二つ、きっちり、すっきり立分れ、彼岸の岸ぞ舟が行く。
これよりは電光石火で参るぞよ、神の裁きに待った無し、目にも止らぬ早技で、善、悪、正、邪ぞ別けに出る。
一目瞭然、千里眼、見抜き見透し、まるわかり。
邪心よこしまごころの人間は唯ただの一目で判わかるぞよ。
中心なりぞと申すぞよ、中心なりぞと申すぞよ。
百花爛漫咲き誇るキンピカピカのお人とて、悪業三昧垢塗あかまみれババチイ、ババチイお人ととて、神の目で見りゃ同じ事、双方まったく同じ事。
なぜに、いかにてその様は、さような姿となられたか、一目見た時わからいで、判らんような事なれば、神ぞと申して偉そうに人様裁ける訳ぞ無し。
閻えん魔ま、焔摩 えんまは千里眼、この世の閻魔は千里眼。
神々様とてよく見えぬ、人に宿りし一厘ぞ、手に取る如くに判わかるゆえ、この世の閻魔と申すぞよ。
月の時代の終る頃、月下美人ぞ咲くと知れ。
この世の閻魔と出たるなら月下美人か不美人か、人それぞれぞと申すぞよ。
この世の悪罪、悪業は全て見透し見抜くから、この世の閻魔と申すぞよ。
ここ一厘は情なさけぞよ、こころ一厘情なさけぞよ。
情無ければこの閻魔、なにほどあれこれできたとて情無き事する者に、一切情かけぬぞよ、情無きほどかけぬぞよ。
ここをわかりて下されよ、こころわかりて下されよ。
人の身のこことこことが結ばれる、ここが情の出所ぞ、ここに情が無いなれば情無いとはこの事ぞ神のお情わかられる、お人となりて下されや。
無理難題のその頃は肉身の情ぞ振り捨てて、たとえ火の中、水の中、悲願成就のその日まで、お情無用で参り来た。
月、月、ツキにて突き進む、情は悪ぞと説いて来た、子年ねどしまでお情無用の御時世ぞ。
善悪正邪は入り乱れ混ぜ混ぜづくめの月の下。
どうぞ凍こごえて下さるな、どうぞ凍えて下さるな。
月は皓々照らせども、心は荒すさんでいくばかり、情凍えていくばかり。
日月ひつきなりぞと申すぞよ、これより時節入れ替り、日月なりぞと申すぞよ。
日月一つに結ばれん、ここ一厘ぞ情なり、明めいの時代となりたれば充分御用に使わんと、腐らんように雪霜をかけて被せて隠し来た、悪一厘は情なりここ一厘は情なさけなり。
ここ一厘シカリと掴みて下されや、シカリと掴みて下されや。
情無き閻魔が情に目が眩みトンマなエンマと見える程、閻魔の眼ぞ曇らせる、お人となりて下されや、歓喜に裁きの無い如く、情にお裁きござらぬぞ、今までした事、やりた事、良いや悪いや思うより、これまでやりきた様々の奥に脈打つ神の愛お情わかりて下されや。
神のお情わかる人、わかる心のお人なら、どちらが神ぞと思う程、りっぱな御用に立てるのぞ、神のご守護をするような、たいした御用に立てるのぞ、この事隠して言わなんだ、ここは金神情ぞとこの度初めて申すのぞ。
わあわあ、閻魔が取り乱し、情無い事、情無い。
閻魔の眼ぞ曇らせる、お人となりて下されよ。
月下美人か、不美人か、月下美人か不美人か。
泣かぬ閻魔ぞ泣いたなら、利他の情と申すぞよ。
自己の情でこの閻魔、泣きも笑いもいたさぬと、金神情で申すぞよ、情、情と申すぞよ。
悪ぞ善、善ぞ悪、悪ぞ善ぞと申すぞよ。
悪無いなれは善なりといくらえばりて申しても、証明でけぬと申すぞよ。
善悪正邪ぞ練ねり混ぜて捏こねて捏ねて捏ねたおし、スパリと解決いたすぞよ、桃の実出るぞと申すぞよ、桃の実の玉出たりなば全て決着いたすぞよ。
もうこれ以上は銘々の感性次第と申すぞよ。
難しい事言う神と、わからん事ぞ言う神と、眉背けんで下されや、これまでした事、やりた事、善や悪やとこだわりてその先行けん事ならば残念無念と申すぞよ。
神のお心こころとす、おこころ貰もろろうて下されや、他ほかはなんにもいらんから、お心貰ろうて下されや、それさえシカリと貰うたら、その他たはあとから着いて来る、いくらいらんと申しても、あとから、あとから着いて来る、なんぼなりとも着いて来る。
逃げても逃げても着いて来る。
こころ、こころぞ、心ぞよ、まことごころと申すぞよ、誠心と申すぞよ。
白紙になりて下されや、桃の実の玉出るまでに、白紙となりて下されや。
今までやりきた様々は全て夢ぞと申すぞよ。
理想世界ぞ生む為の悪夢なりぞと申すぞよ。
寝る子は育つと申すぞよ、練る子は育つと申すぞよ。
練って練って練り上げて二つが一つと成り成りて桃の実出動したなれば、夢から醒めると申すぞよ。
雲散うんさん霧消むしょうと申すぞよ、雲散夢消と申すぞよ。
温ぬくめる事しか能の無いお日様なりぞと申す方。
冷やすしか無いお月様、どちらの主あるじも不完全。
貴き方とて不完全、一厘欠けては不完全。
無限絶対なる方が完全無欠のままなれば、何も無いぞと申すぞよ、はなから何も無いままで無限になんにも無いままぞ、無無無ぞ無の世界、元は無ぞと申すぞよ、無が元ぞと申すぞよ。
二極一体成り成りて二つ一つに融け合うて完全無欠に帰る時、桃成る時機ぞと申すぞよ。
元どうり戻る時節と申すぞよ。
カミガタなりぞと申すぞよ、神型なりぞと申すぞよ、解けた世界ぞ結ばれんカミの型ぞと申すぞよ。
日月、日月と筆に出す、日月桃ぞと申す事、どうぞわかりて下されよ、これぞおわかりくれたなら、善ぞ悪ぞとそしり合う時期は終りと申すぞよ。
善と悪とは同じ事、大神様には同じ事。
善悪正邪は入り乱れ、これまでやりたる様々は、人間世界に神型ぞ造らせ賜うた大手柄、尊き手柄と申すぞよ、あっ晴れなりぞと申すぞよ。
意い富お加か牟む豆づ美みの発動と重ね重ねて申された、祈ねぎ奉たてまつり申されたその夢叶う時なりと金神シカリと申すぞよ。
これぞ、これさえ出たるなら水の泡ぞと申すぞよ。
これまでやりたる様々な善や悪やとののしりて、出たりたゴモクやカスやらが水の泡ぞと申すぞよ。
阿波の鳴戸の渦巻きでかき消し行くぞと申すぞよ。
トンネル出口ぞ見えたなら、お楽しみぞと申すぞよ。
暗ぞ抜けたら桃源郷、天なるお方がしたためた、シナリオどうりに参るぞよ、ウキウキいたして下しゃんせ、ワクワクいたして下しゃんせ。
桃源郷はこことここ、ここにできると申すぞよ。
ここまで来たならここ次第、銘々次第と申すぞよ。
金神言う事、見せる事、個々次第ぞと申すぞよ。
ここ次第ぞと申すぞよ、こころ次第と申すぞよ。
紅白の梅咲き揃うは午うまの春、桃はその後ごと申すぞよ。
神のお扉開くまでに立分けお済ませ下されよ。
この世の閻魔と出る時節、一切衆生は知らぬ事。
神々様とて知らぬ事。
旨むねに一厘有る無しをシカリと見抜いて下されよ。
犬が西向きゃ尾は東、東西終わりが見えたなら、お東様のお出ましぞ、岩戸開きにお出ましぞ。
籠の上なるこの竹は幽界なりぞと申すぞよ。
籠の下なるこの龍を金龍なりぞと申すぞよ。
鶴と亀との泣き別れ、神々様とて知らぬ事、この事金龍説いたなら、神のお扉真っ二つ。
右と左に泣き別れ、兎、家鴨あひるの別れ道、この事、金龍説いたなら、神のお扉真っ二つ。
上へ下へと生き別れ、その真ん中のど真ん中、証が出たなら角つのが出る、上と下とに角が出る。
おてんとうさまが昇りたら、金龍上のぼりてミロクの世、金神の世となる嬉しさや、嬉し嬉しの様なれば、こんなお人をお道具に金神これより仕度する。
表の蔭より現われて、これより密かに仕度する。
金神の隠れ忍ぶる賤しずの家は艮うしとらなりぞと申すぞよ。
あんなお人となるまでは、いま一苦労ぞあるなれど、これぞ嬉しき苦労ぞと、神のお扉開くまでに立分けお済ませ下されよ。
証、いちいち出したるを、重々わかりて下されよ。
一 出したるを十わかるイヅのみ魂であるがゆえ裁きのお役目託すぞよ、金神シカリと託すぞよ。
一点一角狂い無い閻魔とお出まし下れよ。
神のお扉押し開く、岩戸開きの時期となり、開かずの扉ぞ開け賜う、お東様が出られたら、いかなる悪罪、悪業も全て手柄とされるから、シカリとお裁き下られよ、シカリとお裁き下されよ。
国祖 国常立大神による、厳の系統の神書