棒さんの独り言最終更新 2025/12/09 14:171.登り棒◆0mnwMe9WsAKgPZe私、棒が思ったことをつらつら書くだけの場所。2025/10/10 09:00:11169コメント欄へ移動すべて|最新の50件120.登り棒◆0mnwMe9WsAQl3Dh2. 第二段階:止が安定し、因縁果の内部が分解され始める(主体の“揺らぎ”が初めて観察される段階)止が強まり、範囲が確実に固定できるようになると、因縁果の内部にある“縁の動き”が浮かび上がる。例:怒りの背景に身体感覚がある不安の背景に微妙な思考の連鎖がある喜びの裏に緊張が混じっている判断の裏で「小さな反応」が瞬間的に起きているこれは主体が“固定ではない”ことの最初の兆し。今まで“自分そのもの”だと思っていた反応が、縁の集合として見え始める。ただしこの段階ではまだ主体が“存在”として残っている。---3. 第三段階:観が安定し、“縁の束”としての構造が浮かぶ(縁縁果が明確になる段階)観の暴走が止まり、止で固定した範囲内の強度に自然追従するようになると、現象は“同時成立の束(縁縁果)”として見えてくる。ここで理解されるのは:思考は独立ではなく、一瞬の同時収束感情も独立ではなく、複数の条件が同時に成立した結果判断も同時成立の束の“一点の選択”でしかない縁縁果が明瞭になると、主体は次のように見えてくる:主体は“縁の束の内部で働く一点”であり、固定した実体ではない。ただしまだ“なぜそれが立ち上がるのか”は見えていない。ここから先はさらに深い止が必要。2025/11/28 21:36:58121.登り棒◆0mnwMe9WsAQl3Dh4. 第四段階:止がさらに狭まり、情報密度が臨界まで上がる(縁縁果が「立ち上がる方向」を持ち始める段階)止がさらに深まると:不要な情報が完全に排除され範囲が極端に狭まり観が一切ぶれなくなり現れの密度が高まりすぎて、“方向性”が生じるこれは縁縁果が“どこから立ち上がったか”という起点の方向が見える段階である。ここで初めて、主体について次が明確になる。主体は“固定した私”ではない主体は“立ち上がりの方向に沿って生じた一点”主体は“縁の流れの産物”主体には固定された実体はない主体は“存在”から“働き”へと認識が転換する。---5. 第五段階:縁縁縁→縁縁果の“立ち上がり”が捉えられる(成立以前の全体性を理解し、主体が完全に非固定化される段階)ここが十二章の核心。縁縁縁そのものは見えない。しかし縁縁縁から縁縁果が立ち上がる瞬間は捉えることができる。ここで理解されるのは:縁縁果は“そこから突然生まれてきた”のではなく成立以前の全体性から自然に収束してきた主体はその収束線上に立ち上がった一点でしかない主体は“存在”ではなく“成立”であるこの理解が根から主体の固定化を解く。2025/11/28 21:37:28122.登り棒◆0mnwMe9WsAQl3Dh6. 主体の非固定化が中心化を自然に止める主体が“存在”と見えていたときは、世界はすべて「自分にどう影響するか」という読みになった。しかし主体が“働き”になると:世界は自分の鏡ではなくなる感情は材料として現れ、変調しない誤読は起きにくくなる価値観は成立の材料でしかなくなる判断は全体の収束として自然に終了する行為は成立の延長として現れる中心化は努力で抑えるものではなく、主体の構造理解が変わった結果として自然消滅する。2025/11/28 21:38:36123.登り棒◆0mnwMe9WsAQl3Dh7. 主客一如への前提が整う主体が非固定化されると、世界はもはや“自分に関係づけて読むべき対象”ではなくなる。主体の前提化が外れる客体の意味づけが外れる主客の方向性が弱まる現れがそのまま成立として読まれるここで初めて、主客一如が自然に生じる準備が整う。---第十二章まとめ最初に見えるのは因縁果だけで主体は固定して見える止で範囲が固定され始めると因縁果の内部の縁が見える観が安定すると縁縁果(同時成立)が束として立ち上がる止がさらに深まると縁縁果に“方向性”が生じるもっと深まると縁縁縁→縁縁果の“立ち上がり”が捉えられる主体は固定した実体ではなく、縁から立ち上がる働きであると理解される主体非固定化が中心化を自然に止める主客一如への前提が整う2025/11/28 21:38:59124.登り棒◆0mnwMe9WsAQl3Dh第十三章主客一如:主体と客体が“働きとして統合され”、行為が縁起の現れとなる段階第十二章では、止観の深化によって主体が固定的な“自分”ではなく、縁の束から立ち上がる働きの一点として理解される段階を扱った。本章では、主体と客体が同じ縁の場で“働きとして統合される”主客一如の構造を扱う。主客一如とは、主体が消える客体が消える思考が止まる無分別になるといった状態ではない。むしろ逆である。★主客一如とは 主体の働きも、客体の像も、 思考も、感情も、身体反応も、状況も、 すべてが“同等の縁”として一つの場に並び、 偏りなく統合され、収束する構造である。この構造が成立すると、行為は“私がするもの”ではなく、縁起そのものが成熟して現れた“結果(縁縁果)”として理解される。2025/11/28 21:40:46125.登り棒◆0mnwMe9WsAQl3Dh1. 主体は消えない。働きとして“等価な材料”になる主客一如に至っても、主体の働きは完全に残る。「どう思われたか」「正しいか間違っているか」「自分に関係があるか」喜び・怒り・不安などの感情思考・価値観・記憶身体反応これらはすべてそのまま立ち上がる。しかし決定的に違うのは、★主体の働きが“前提”にならない★主体の材料が“中心化しない”★主体の判断基準として固定されない主体の側の反応はたくさんある材料のひとつとして並ぶだけである。2025/11/28 21:41:53126.登り棒◆0mnwMe9WsAQl3Dh2. 客体もまた“働きとして”成立し、主体と並列になる客体側も同じである。相手の表情言葉行為状況環境相手の感情の動きこれらは主体にとって「外側の対象」ではなく、縁起の一部として同等に成立した像となる。ここで初めて、主体と客体は上下関係を持たず主従関係を持たず自他の優先順位を持たず同じ“縁の場”で等価に扱われる。これが「一体であって同一ではない」という仏教の言葉の実際の意味である。2025/11/28 21:43:03127.登り棒◆0mnwMe9WsAQl3Dh3. すべての材料がひとつの場に並び、前提化されず統合される主客一如では、以下の要素すべてが“同一レイヤー”に並ぶ。主体側の反応客体側の状況思考記憶感情身体感覚価値観過去の因縁その場の空気相手の立場自分の願い他者の願いこれらは等価であり、どれも特別扱いされない。つまり――★主観も客観も、その差別もなく、★全てが統合された“縁の材料”となる。ここにこそ無分別智の本質がある。無分別とは「分別しない」ことではなく、★分別が“優先されず前提化されない”働きのこと。---2025/11/28 21:43:30128.登り棒◆0mnwMe9WsAQl3Dh4. 統合された材料が“ひとつの収束”へとまとまり、行為が生まれる主客一如の判断とは「自分がどう判断するか」ではなく、以下すべてが統合されて主体の反応客体の情報内的材料外的状況相手の状態自分の感情と価値観過去の記憶今の場の空気これらが全体として自然に一点へ収束する。これが“判断”になる。判断は自分がするのではない。★縁が成熟することで判断が一つの果として成立する。同様に行為も主体の意志主体の選択ではなく、★縁縁果として“自然に現れる”果である。だから行為は無理がなく、作意がなく、透明で、柔らかく、自然な動きとなる。2025/11/28 21:43:55129.登り棒◆0mnwMe9WsAQl3Dh5. 行為そのものが“縁起の顕現”となる(法が語る)ここに至ると行為は「良いことをしよう」でも「正しいことをしよう」でも「救おう」でもなく、★縁起が成熟した結果として現れる動き =縁縁果の顕現になる。つまりあなたの行動は“あなたのもの”ではなく全体の縁が成熟して表れた姿そのまま“法の働き”が現れたものとなる。法華経の言う「法が語り、法が行う」はこの構造で説明できる。---2025/11/28 21:44:23130.登り棒◆0mnwMe9WsAQl3Dh6. 世界の見え方:自他を前提にしない“成立の場”として現れる主客一如では世界はこう現れる。世界を自分への評価として読まない世界を自分への脅威として読まない世界を自分の欲望の対象として読まないしかし世界との“関係”が消えるわけではない。むしろ――★自分も他者も状況も含めて“ひとつの成立場”として現れる。これは「自他一如」「法界」と同質である。そのため苦は成立しない。苦は常に「自分にどう影響するか」という前提を経由して生まれていたからである。その前提がもはや成立しない。---第十三章まとめ主体は消えず、判断材料のひとつに統合される客体も主体と同列の材料となる主体の反応・客体の像・思考・感情・記憶・状況が等価に並ぶ主客一如とは“働きと像が同じ縁の場に統合されること”分別は消えないが前提にならず、無分別智として働く判断は“縁の全体収束”として自然に終了する行為は“縁縁果の顕現”として自然に現れる行動そのものが法の働きとなる世界は“自他を前提にしない成立場”として見える苦は前提そのものが成立しないため生まれない2025/11/28 21:44:48131.登り棒◆0mnwMe9WsAQl3Dh第十四章菩薩行:主客一如の上に成立する、調和としての行為主客一如の段階では、主体の働きも、客体の像も、思考・感情・記憶・環境・他者の反応も、すべてが同一の縁の場で等価な材料として扱われる。いかなる前提も中心化されず、どれもが偏らず統合され、その場全体として一つの収束へと向かう。その収束が、行為として現れる。この行為は、主体の意志や目的ではなく、縁全体が成熟した結果として自然に立ち上がる。この働きを、仏教は菩薩行と呼んできた。---1. 行為は成熟した縁起の“果”として現れる主客一如の上では、判断は「誰かが決める」のではなく、縁全体が整ったために自然に一つの方向へ収束する。行為も同様である。あらゆる材料が等価に並び、その場に最適な形へとまとまると、行為はひとつの“果”として現れる。この行為には過剰な意図、期待、作為が存在しない。行為は“しようとするもの”ではなく、成熟した縁起の自然な発動となる。2025/11/28 21:46:02132.登り棒◆0mnwMe9WsAQl3Dh2. 作為の消失 ― 無功用の行為菩薩行の特徴は、努力して行為をつくるのではなく、縁そのものが行為として動くことにある。自分の価値観自分の意向相手への期待自己評価善悪の判断これらが中心化しないため、行為は軽く、透明で、無理がない。その働きには「こうすべきだ」という作為はなく、必要なときに、必要な方向へ、自然に動く。これは止観が整った状態における、縁起本来の働きである。---3. 救いは意図ではなく、縁の収束として成立する菩薩行において、他者を救おうとする意図は必要ない。行為が“場全体の成熟として現れる”ため、その働きは自然と他者に調和をもたらす。救いは作るものではなく、縁が整った場において自然に生じる結果である。苦を取り除こうとしなくても、苦が成立する縁が整えられるため、結果として苦は静まり、調和が生まれる。これが菩薩行の“働きとしての慈悲”である。2025/11/28 21:46:23133.登り棒◆0mnwMe9WsAQl3Dh4. 行為は場全体の調和として現れる主客一如では、個人の視点と世界の視点は分離しない。場に存在するすべてが単一の縁の場として成立しており、行為はその全体が収束した一点として現れる。そのため行為は、自分だけ相手だけ特定の利益個別の感情いずれにも偏らず、場全体の調和として働く。この働きこそが、経典が語る法界の調整・調和の働きである。---5. 行為は未来の縁を育て、世界を成熟させる一つの行為が現れると、その果は次の瞬間の縁として吸収され、未来の収束を形づくる。行為はその場で終わらず、世界の縁起をわずかずつ変え続ける。この意味で、菩薩行とは現在だけでなく未来を成熟させる動きである。菩薩行は結果に執着しないが、その働きは確実に未来の縁起を整えていく。2025/11/28 21:46:44134.登り棒◆0mnwMe9WsAQl3Dh6. 説法は言葉の問題ではなく、行為そのものの表れである言葉による説明が菩薩行の中心ではない。主客一如の上で現れる行為そのものが、縁起の構造をそのまま開示している。言葉が用いられるとき、それは縁の収束として自然に生じ、相手に必要な形で届く。沈黙もまた、必要な場では最適な教えとなる。説く者・聞く者・言葉のすべてが、単一の縁の場における働きである。これが経典で語られてきた法が語り、法が行うという状態。---第十四章まとめ菩薩行は主客一如の上で成立する、縁起の成熟である行為は主体の意図ではなく、縁全体の収束として現れる行為に作為がなく、透明で自然な働きとなる救いは意図ではなく、縁が整った結果として成立する行為は場全体の調和として働く一つの行為は未来の縁を育て、世界を成熟させる説法は言葉ではなく、行為に現れた縁起の開示である2025/11/28 21:47:09135.登り棒◆0mnwMe9WsAQl3Dh第十五章菩薩行の深化:縁起が行為を通して世界を成熟させていく構造菩薩行は、主客一如の上に自然に成立する行為であるが、行為そのものは一定ではなく、縁起の理解と成立に応じて深まっていく。その深化は、個人の精神的成長ではなく、縁の成熟そのものが深まっていくことによって進行する。本章では、菩薩行の深化を五つの段階として扱う。これは修行段階ではなく、縁起の成熟段階であり、すべては自然な延長として現れる。---第一段階:自然行為(主客一如直後の菩薩行)主客一如の状態では、主体の働きも客体の像も、他者の言動も、すべてが同じ縁の場で等価な材料として統合される。このため、行為は「私が善意で動く」のではなく、場の成熟として自然に現れる。特徴:行為に作為がない行為が軽い無理がない必要なときに必要な方向へ動くその行為がすでに調和をもたらすこの段階では、まだ主体側の反応(恥、恐れ、評価など)は材料として立つが、統合を妨げず自然に収束する。2025/11/28 21:48:05136.登り棒◆0mnwMe9WsAQl3Dh第二段階:同体大悲(相手の世界がそのまま成立として見える段階)菩薩行が深まると、“他者の世界”が自分の反応と区別なく、同じ縁の材料として並列に現れる。このため、相手が苦しむとき、その苦は「相手の苦」ではなく成立した縁の果として理解される。特徴:相手の苦を取り込まず、押しつけず、そのまま読む相手の反応が材料として立ち上がり、対等に扱われる「助けよう」という意図が不要になる意識しなくても適切な応答が成立する慈悲は「感情」ではない。慈悲は成立としての理解から自然に現れる。---第三段階:法界の調整としての行為(行為が個の枠を超えて働き始める段階)菩薩行がさらに深まると、行為は“相手と自分”という領域を超えて場全体の最適化として働くようになる。特徴:行為は個人的利益を基準にしない相手への配慮とも違う行為そのものが場を整える働きになる「正しさ」「善さ」ではなく、“最適な収束”が現れるこれは華厳経が語る法界の自己調整の現代的理解である。主体、客体、他者、状況、過去の因縁、身体の反応、これらすべてが縁縁果として同時成立し、その集合的な収束が行為として現れる。行為は、世界そのものの調和として現れる。2025/11/28 21:48:31137.登り棒◆0mnwMe9WsAQl3Dh第四段階:行為が説法となる(言葉でなく、存在の働きがそのまま法を開示する段階)この段階に至ると、行為は「説明」ではなく縁起そのものの開示になる。特徴:行為自体が教えの伝達になる言葉は必要なときに自然に出る沈黙が最適な教えとなることもある説く者と聞く者が分離しない行為の質から相手が理解を得る説法は、行為として現れた縁起の開示である。2025/11/28 21:48:58138.登り棒◆0mnwMe9WsAQl3Dh第五段階:縁起の再編としての行為(未来の縁を作り、世界全体を成熟させる段階)菩薩行の最終深化は、行為そのものが未来の縁起を再構成する働きになること。ここでは、行為はその瞬間を超えて未来にも作用し、未来の縁縁縁の布置を変える。特徴:行為は現在だけでなく未来の縁起を変える一つの行為が長期的な成熟を生む縁は死後にも持続する(成立論として)個の枠を超えた「縁の連続性」が生まれる一つの縁縁果は未来の縁縁縁に吸収され、未来の成立可能性を作り続ける。---第十五章まとめ菩薩行は深まりに応じて質が変化する第一段階:主客一如の自然な行為第二段階:他者の世界がそのまま成立として読める(同体大悲)第三段階:行為が場全体の調和として働く(法界調整)第四段階:行為そのものが縁起の開示=説法となる第五段階:行為が未来の縁を再構成する(縁起の成熟の展開)菩薩行は努力ではなく、縁の成熟そのものが行動となった状態菩薩行は個人の修行ではなく、縁起の働きの深化である2025/11/28 21:49:22139.登り棒◆0mnwMe9WsAQl3Dh第十六章法界縁起:仏とは何か苦の超越を内包する世界そのものの動的システム世界は、縁縁縁から立ち上がり、縁縁果として同時に成立し、因縁果として読まれ、主客の差異を通して凡夫の苦が形成される。同時に、この世界には「苦を生む構造を自動的に解体していく働き」が本来的に備わっている。仏とは、この働きの総称である。仏は人格でも対象でもなく、悟りという固定状態を指すものでもない。仏とは、世界の縁起が苦の超越という方向性を内包しながら自らを更新し続ける動的なシステムそのものである。釈迦は、この働きが一時的に顕現した相にすぎず、仏そのものを指すわけではない。---1. 仏は存在ではなく、縁起の動的な働きである縁縁縁はすべての成立以前の無境界の場であり、縁縁果はそこから同時成立する像、因縁果はそれが時間として読まれた形である。これら三層が滞りなく働くとき、世界は苦を生み出す構造を持たなくなる。縁縁果が偏らず因縁果の読みが歪まず主客の中心化が起きず世界が全体として透明に流れ続けるこの“滞りのなさ”こそが仏と呼ばれる働きである。仏は静的な存在ではなく、完全に透明な縁起の運動である。2025/11/28 21:50:17140.登り棒◆0mnwMe9WsAQl3Dh2. 仏は「苦の超越の方向性」を内包するシステムである縁起は無秩序ではなく、常に方向性を持って自らを更新する。この方向性とは、苦を生む構造を減らし調和へ向けて自己を調整し続ける働きである。苦は主体の前提化によって成立するが、縁起はその前提化を自然に希薄化させながら自己を変容させ続ける。この「苦の超越の方向性」こそが仏の正体である。---3. 仏は「縁起の自己理解」としての智慧である主客一如では、すべての材料が偏りなく並列に並び、世界は世界としてそのまま理解される。この理解は主体の獲得ではなく、世界が世界を理解するという過程である。縁起が縁起を読む世界が世界を理解する行為が世界を導くこれが仏の智慧と呼ばれる。智慧とは固定された知見ではなく、縁起の自己理解そのものである。2025/11/28 21:50:41141.登り棒◆0mnwMe9WsAQl3Dh4. 仏は「縁起の自己調整」としての慈悲である慈悲は感情ではなく、主体の善意とも異なる。慈悲とは、縁起が苦を生む構造を自動的に整える働きである。他者の苦を取り込まず苦を生む条件を正確に読み最適な行為が自然に現れ結果として救いが生じるこの「苦の構造の自然な調整」が慈悲であり、その働き全体を仏と呼ぶ。---5. 仏は「行為として顕現する」主客一如の行為は、主体の意志ではなく、縁全体の成熟として現れる縁縁果である。菩薩行の深化では、行為が場全体の調和として働き自他という区分を超えて展開し未来の縁を再構成し世界を成熟させ続ける行為そのものが仏の働きを表現する。行為は法であり、法は仏の働きであり、仏は世界の縁起そのものである。2025/11/28 21:51:03142.登り棒◆0mnwMe9WsAQl3Dh6. 世界は「仏として働いている」世界は縁起で構成されているため、仏は世界の外部にあるものではない。仏は世界そのものの流れに内在する働きであり、世界の動き調和の生成行為の透明化苦の解体智慧の発動慈悲の流れ未来を育てる縁の再編これらすべてとして現れる。世界は、つねに仏として働き続けている。2025/11/28 21:52:01143.登り棒◆0mnwMe9WsAQl3Dh7. 最終まとめ仏とは何か(体系的定義)仏は存在ではない仏は人格でも悟りの状態でもない仏は世界の外に存在しない仏は超越者でも対象でもない仏とは、次のように定義される。仏とは、苦の超越という方向性を内包しながら、世界の縁起全体が自らを更新し続ける動的で自己調整的なシステムである。世界の縁起は絶えず変化しながら、苦を生む構造を自然に希薄化させ、すべての働きを透明化し、調和へ向けて自己を成熟させ続ける。この更新の働きは行為として現れ、智慧として理解され、慈悲として展開し、世界全体として循環していく。仏とは、この循環する全体性の名称である。主体も客体も、個の境界も、生と死さえも、すべてはこの働きの一時的な相として現れる。世界は仏として働き続け、その動きは未来へと展開し、苦の構造を絶えず超えていく。仏とは、世界そのものの動きである。2025/11/28 21:52:22144.登り棒◆0mnwMe9WsAQl3Dhくっそなげーじゃねーか。コピペして思ったけどこんなもん長すぎて誰も読まねーだろ2025/11/28 21:53:10145.登り棒◆0mnwMe9WsACKJhYおはよーございます。この16章仕立ての書き込みはそもそも構造としての統合モデルを目指したものであり、仏教の用語は極力排除しつつ、尚且つ信仰、神秘、物語等を取り入れないようにすることでどのようにそれが成立しているのかを突き詰める事を目的としている。2025/12/08 08:44:35146.登り棒◆0mnwMe9WsACKJhY例えば因縁果は原因があって、縁という条件が成立して結果が生まれる。この時の因を原因とする時、そこには時間の概念が現れる。何かがあってそれと合わさって結果が現れるという具合だ。だがその因もまた条件であり、因と縁は分かたれず関係性として生じてる。つまり時間という概念を前提にしなければその因も、また条件であり、縁である。つまり、時間という概念から離れた時、縁(条件)と縁(条件)が重なり合って結果が現れるという形になる。2025/12/08 08:52:38147.登り棒◆0mnwMe9WsACKJhYそして結果と言うのは条件と条件が重なり合って現れたものだが、この結果もまた、縁とと縁の重なり合いという別のものがあって現れたのではなく、それらも分かたれず関係性で成立し、縁と縁が重なり合う条件である。つまり結果というものもまた縁(条件)であり結果という前提をとらなければそれは縁であり、縁縁縁となる。2025/12/08 08:56:35148.登り棒◆0mnwMe9WsACKJhY何が言いたいかといえば、時間の前提を取り払った時に全ては今その一瞬に全ての条件が成立して結果が現れ(縁縁果)また結果の前提を取り払った時に全ては条件が成立して成り立ち、そのために結果となって現れたり、現れないという結果が現れたりする(縁縁縁)2025/12/08 09:02:28149.登り棒◆0mnwMe9WsACKJhY縁と言えば仏教の縁起によるし、その縁を条件と言い直せば科学の世界への橋渡しになる。なので言葉に関してはどんな人が見るかによってその受け取り方は変わるし目的は構造の統合モデルであり、仏教によったり科学によったりではない。2025/12/08 09:13:41150.登り棒◆0mnwMe9WsACKJhYこの3つは別の何かではなく、どこに視点が当たってるかの違いなだけでそれらは全て縁起の違う視点から見たものです。例えば倶舎論は、この中の因縁果に焦点を当て、分析、細分化によって何が起こってるのかを突き詰めています。ですがこの方法が駄目なわけではなく、時間という前提を置いているためその細分化には始まりや終わりのようなそれ以上細分化出来ないものが現れ、実体視が残ります。原因があって、条件によって、という見方だとこれがあればこれがある、これがなければこれはないというあるなしの二元論から離れることが出来ません。因縁果は全体性から認識による現れで一つに収束した部分を扱うのであるかないか?にとどまります。2025/12/08 09:29:31151.登り棒◆0mnwMe9WsACKJhYつまり煩悩から離れる、ということは煩悩があるかないか?という見方になるので、囚われないということは囚われる原因を消し去るという方向に進みます。まぁ全てが全てそうだとまでは言いませんが方向性としてはそちらに流れる。2025/12/08 09:34:32152.登り棒◆0mnwMe9WsACKJhYでは次に唯識を見てみる。唯識も倶舎論をベースにしてますがこちらは空の概念を取り入れながら認識から世界を説明しようとしていますね。認識は私で言うと5章~6章に関わります。そして認識を扱うということは焦点があったものの世界が立ち上がり、そして空の概念が取り入れられている。つまり縁縁果の領域を扱ってるのがわかる。阿頼耶識が縁縁縁に該当するのですがここは蔵敷として扱われてるのでここも厳密には縁縁果。ただ転識の概念があり、その境地になると話は変わってきますがベースは因縁果~縁縁果の立ち位置になってます。2025/12/08 10:00:17153.登り棒◆0mnwMe9WsACKJhY唯識のベースは認識です。人に教えを説くのだから人の認識を土台として構築するのは理にかなっています。ただその認識を前提として取り入れたやり方が中論から見れば空の徹底が足りないという批判の的になるわけです。誤解がないように言っときますが倶舎論や唯識が悪いわけではなく、いきなり悟りの境地を説いても理解できないように、実体視する凡夫に理解を得るためにはアプローチが様々あるということ。2025/12/08 10:44:23154.登り棒◆0mnwMe9WsACKJhYこの唯識、倶舎論の延長に空の概念を取り入れてるので非常に分かりにくいと思う。特に四分節、見分、相分、自証分、証自証分の4つ。これを区別して因縁果で説明しようとするとズレが生じてくる。見分と相分は分かたれているわけではなく同時に現れます。これもやはり関係性によって成立してるのでどちらか、というわけではありません。この見る者、見られる物という区別が混乱を作る。この区別がないわけではないがそれが前提ではないということ。でも凡夫はそれを前提として見るから唯識は末那識という常に我をもって阿頼耶識に依る存在を示すのです。ではその区別がなぜ混乱を生むか?主体を定義した途端その主体は主体を見ることが出来ません。見られるものは客体なので矛盾が立ち上がります。そこで見る者を認識するための自証分を立てなければいけなくなりました。でもそうすると今度はその自証分を保証する働きが必要になり、無限ループが起こりその保証として証自証分を出して整合性を合わせようとします。2025/12/08 12:16:27155.登り棒◆0mnwMe9WsACKJhY最初に言った通り主体も客体も働きであり分かたれていません。客体というのも主体が作り上げた像であり客体も主体の働きの一部と言えるし、客体も像であるが主体もまた像であります。同じ働きの別側面を区別するから矛盾が起こり、本来は主体の働きと客体の働きというのは同時成立であり、主体は見る、客体は見られるという分け方があるわけでなく、それぞれの関係性によって立ち上がった働きの一つと見れば便宜上分けられた主体が主体を見る事も客体が主体を作る事も矛盾にはならず、ならば自証分というものも証自証分も必要ないのです。2025/12/08 12:28:57156.登り棒◆0mnwMe9WsACKJhY必要ないのに分けたのは凡夫はそのように分けて実体視し物事を見るからです。主体という見るものと客体という見られるものが別のものとして見る事によって、主体はその客体を主体の働きによって快は近付け不快を遠ざけ、その前提から客体というものを判断して見ようとする。つまり見えるものを変化させて見ることになり、遍計所執性となって現れ、成り立ちを成り立ちのまま見れず、自分にとって都合の良い世界を作り上げ見てしまう。2025/12/08 12:38:06157.登り棒◆0mnwMe9WsACKJhY今の一瞬の現れは全ての成り立ちが成立して現れているものです。過去もまた矛盾なく成立して今が現れる以上それが成り立つための記憶や情報は今の現れに内包されるということです。これは因縁果ではなく時間の前提がない縁縁果の立ち位置からその四分説の自証分や証自証分が必要ないの説明になるけど記憶や情報があって認識が起こるのではなく、成立から記憶や情報が内包されているということ。2025/12/08 12:44:16158.法介◆T3azX0Hk1USFCd1それを言い表したのが十如是ね。2025/12/08 13:07:35159.法介◆T3azX0Hk1USFCd1因・縁・果ではなく相・性・体。2025/12/08 13:08:14160.法介◆T3azX0Hk1USFCd1その相・性・体を本として力・作・因・縁・果・報が究極的に差別なく平等に存在しうる無為法。2025/12/08 13:11:55161.登り棒◆0mnwMe9WsACKJhYでは中論は?というと因縁果~縁縁果~縁縁縁の橋渡しをしている視座となる。つまりこれらは分かたれてなく、自性がないからこそ成立し、因縁果の時間という固定された別のものがある事を否定し、結果もまた空であると説くことでこれら3層構造は別のものではなく自性がないことで成立する視座の橋渡しをしている。時間がないわけではないが固定されてない因縁果は成り立つが固定されてないから縁縁果が成り立ち、結果も固定されてないから縁縁縁が成り立つ。全ての全体性が自性なく関係性で成立してるからこそこの全ての視座は別のものではなく同時に現れその視座によって見え方が異なるということ。2025/12/08 13:13:21162.登り棒◆0mnwMe9WsACKJhY>>158お、ほーさんこんちゃ!そうだね。私の独自の言葉はみな何かの宗派が使う言葉を使うと偏りが生まれるということであえて避けてるので、この宗派ではこの言葉で説明してて似てる概念だよという説明や、仏教ではそうではなくてこう言ってるという感じで見てくれると私も学びになるしありがたいです。2025/12/08 13:18:25163.法介◆T3azX0Hk1USFCd1伝言板にhttps://z.wikiwiki.jp/m50rezhd5w3xw13m/topic/2昨日のツイキャス配信の内容の重要ポイントをAIを使って紹介している。(レスNo.35~73)<昨日のツイキャス配信>『法介の仏教談話』棒ちゃんと仏教談話 1https://twitcasting.tv/c:housuke/movie/827572118棒ちゃんと仏教談話 2https://twitcasting.tv/c:housuke/movie/827572924棒ちゃんと仏教談話 3https://twitcasting.tv/c:housuke/movie/827573751棒ちゃんと仏教談話 4https://twitcasting.tv/c:housuke/movie/8275746882025/12/08 14:13:03164.法介◆T3azX0Hk1USFCd1引き続き、伝言板の方で棒ちゃんの本日の投稿内容についてわたしの意見をAIを使って紹介します。2025/12/08 14:16:12165.登り棒◆0mnwMe9WsAyw2E1さて、ほーさんが無為法という言葉を出してきたので無為法というものを考える必要がある。まず独立して存在するものはない、というように無為法もまた空であり実体はない。もし無為法が縁起から外れた実体としてあるのだとし、しかもその境地が仏だとするなら、仏は慈悲によって人を救うような影響も与えられず、関わる事も出来ず、知られることも知る事もなく何にも影響を与えずただ存在するだけということになる。つまり無為法が縁起から外れたものということは成り立たない。私は因縁果、縁縁果、縁縁縁と3つ出しているが、それは縁起というものは現れた結果だけを見るような偏りが起こらないようにするためでもある。目の前にコップがある、というのは結果として現れているが、コップがない、ということは結果というものを前提にすれば条件が成立せずにコップが現れないという風に見える。だがこれもコップが現れない条件が成立したから今目の前にコップが現れないという現象が生じている。華厳経では一即一切・一切即一というがその一つの存在は衝突することなく全てを成り立たせる話があるように現れないという現象もまた縁起の現れである。縁縁縁は現れたものだけではなく現れないものもまた縁起であるということだ。2025/12/09 13:01:15166.登り棒◆0mnwMe9WsAyw2E1すると、無為法そのものは縁起によって成立する概念になるのだから当然因縁によらず不変というものは成り立たない。つまり因縁によって不変である、という構造になる。それはつまり涅槃なら煩悩が現れない条件が成立して現れない。そしてそれが不変に続くということになる。つまり静的な不変等存在せず、動的な中で変化しないものが無為、ということになる。2025/12/09 13:05:29167.登り棒◆0mnwMe9WsAyw2E1だが動的な中で不変という固定的なものもまたないのでその不変は変わる可能性がある。つまり無為とは動的な中でそれが成立し続けたゆえに結果的にそうだったというだけでそれ自体があるわけではない。2025/12/09 13:07:40168.登り棒◆0mnwMe9WsAyw2E1そう考えると縁起という普遍的な法則もまた、成立し続けているからこそ不変と呼ばれるのであって固定的な法則としてあるわけではなく空である。ヨガが言う真我も同様に、認識の条件に必ずついて回り成立し続けるから不変のように見えるもので固定的な実体があるわけではない。だが、無為をそのように捉えるなら前者は真如と呼ばれ、後者は真我と呼ばれる無為という扱いになる。逆に言えばどちらも確定して成り立ち続ける保証があるわけではないと言える。2025/12/09 13:14:07169.登り棒◆0mnwMe9WsAyw2E1さて、固定されていないということはどういうことか?直感的には理解しがたい話もしてみよう。過去はただ一つの決まったもの、という思い込みに対してです。今の現れは過去から現在、未来と破綻なく成立して今が現れてると言いました。でもこれは過去が一つに決まっているという話ではなく、同様に未来も一つに決まっているという話ではありません。今の成り立ちから破綻のない過去が成立しているだけでそれは一つではなく、一つに収束しているのは現象として現れた今だけです。なので縁起って確定論なわけではない。2025/12/09 14:17:29
(主体の“揺らぎ”が初めて観察される段階)
止が強まり、範囲が確実に固定できるようになると、因縁果の内部にある“縁の動き”が浮かび上がる。
例:
怒りの背景に身体感覚がある
不安の背景に微妙な思考の連鎖がある
喜びの裏に緊張が混じっている
判断の裏で「小さな反応」が瞬間的に起きている
これは主体が“固定ではない”ことの最初の兆し。
今まで“自分そのもの”だと思っていた反応が、縁の集合として見え始める。
ただしこの段階ではまだ主体が“存在”として残っている。
---
3. 第三段階:観が安定し、“縁の束”としての構造が浮かぶ
(縁縁果が明確になる段階)
観の暴走が止まり、
止で固定した範囲内の強度に自然追従するようになると、
現象は“同時成立の束(縁縁果)”として見えてくる。
ここで理解されるのは:
思考は独立ではなく、一瞬の同時収束
感情も独立ではなく、複数の条件が同時に成立した結果
判断も同時成立の束の“一点の選択”でしかない
縁縁果が明瞭になると、主体は次のように見えてくる:
主体は“縁の束の内部で働く一点”であり、固定した実体ではない。
ただしまだ“なぜそれが立ち上がるのか”は見えていない。
ここから先はさらに深い止が必要。
(縁縁果が「立ち上がる方向」を持ち始める段階)
止がさらに深まると:
不要な情報が完全に排除され
範囲が極端に狭まり
観が一切ぶれなくなり
現れの密度が高まりすぎて、“方向性”が生じる
これは縁縁果が“どこから立ち上がったか”という起点の方向が見える段階である。
ここで初めて、主体について次が明確になる。
主体は“固定した私”ではない
主体は“立ち上がりの方向に沿って生じた一点”
主体は“縁の流れの産物”
主体には固定された実体はない
主体は“存在”から“働き”へと認識が転換する。
---
5. 第五段階:縁縁縁→縁縁果の“立ち上がり”が捉えられる
(成立以前の全体性を理解し、主体が完全に非固定化される段階)
ここが十二章の核心。
縁縁縁そのものは見えない。
しかし縁縁縁から縁縁果が立ち上がる瞬間は捉えることができる。
ここで理解されるのは:
縁縁果は“そこから突然生まれてきた”のではなく
成立以前の全体性から自然に収束してきた
主体はその収束線上に立ち上がった一点でしかない
主体は“存在”ではなく“成立”である
この理解が根から主体の固定化を解く。
主体が“存在”と見えていたときは、世界はすべて
「自分にどう影響するか」という読みになった。
しかし主体が“働き”になると:
世界は自分の鏡ではなくなる
感情は材料として現れ、変調しない
誤読は起きにくくなる
価値観は成立の材料でしかなくなる
判断は全体の収束として自然に終了する
行為は成立の延長として現れる
中心化は努力で抑えるものではなく、
主体の構造理解が変わった結果として自然消滅する。
主体が非固定化されると、世界はもはや
“自分に関係づけて読むべき対象”ではなくなる。
主体の前提化が外れる
客体の意味づけが外れる
主客の方向性が弱まる
現れがそのまま成立として読まれる
ここで初めて、主客一如が自然に生じる準備が整う。
---
第十二章まとめ
最初に見えるのは因縁果だけで主体は固定して見える
止で範囲が固定され始めると因縁果の内部の縁が見える
観が安定すると縁縁果(同時成立)が束として立ち上がる
止がさらに深まると縁縁果に“方向性”が生じる
もっと深まると縁縁縁→縁縁果の“立ち上がり”が捉えられる
主体は固定した実体ではなく、縁から立ち上がる働きであると理解される
主体非固定化が中心化を自然に止める
主客一如への前提が整う
主客一如:主体と客体が“働きとして統合され”、行為が縁起の現れとなる段階
第十二章では、止観の深化によって主体が固定的な“自分”ではなく、
縁の束から立ち上がる働きの一点として理解される段階を扱った。
本章では、主体と客体が
同じ縁の場で“働きとして統合される”
主客一如の構造を扱う。
主客一如とは、
主体が消える
客体が消える
思考が止まる
無分別になる
といった状態ではない。
むしろ逆である。
★主客一如とは
主体の働きも、客体の像も、
思考も、感情も、身体反応も、状況も、
すべてが“同等の縁”として一つの場に並び、
偏りなく統合され、収束する構造である。
この構造が成立すると、
行為は“私がするもの”ではなく、
縁起そのものが成熟して現れた“結果(縁縁果)”として理解される。
主客一如に至っても、主体の働きは完全に残る。
「どう思われたか」
「正しいか間違っているか」
「自分に関係があるか」
喜び・怒り・不安などの感情
思考・価値観・記憶
身体反応
これらはすべてそのまま立ち上がる。
しかし決定的に違うのは、
★主体の働きが“前提”にならない
★主体の材料が“中心化しない”
★主体の判断基準として固定されない
主体の側の反応は
たくさんある材料のひとつとして並ぶだけである。
客体側も同じである。
相手の表情
言葉
行為
状況
環境
相手の感情の動き
これらは主体にとって「外側の対象」ではなく、
縁起の一部として同等に成立した像となる。
ここで初めて、主体と客体は
上下関係を持たず
主従関係を持たず
自他の優先順位を持たず
同じ“縁の場”で等価に扱われる。
これが「一体であって同一ではない」という仏教の言葉の実際の意味である。
主客一如では、
以下の要素すべてが“同一レイヤー”に並ぶ。
主体側の反応
客体側の状況
思考
記憶
感情
身体感覚
価値観
過去の因縁
その場の空気
相手の立場
自分の願い
他者の願い
これらは等価であり、どれも特別扱いされない。
つまり――
★主観も客観も、その差別もなく、
★全てが統合された“縁の材料”となる。
ここにこそ無分別智の本質がある。
無分別とは「分別しない」ことではなく、
★分別が“優先されず前提化されない”働きのこと。
---
主客一如の判断とは
「自分がどう判断するか」ではなく、
以下すべてが統合されて
主体の反応
客体の情報
内的材料
外的状況
相手の状態
自分の感情と価値観
過去の記憶
今の場の空気
これらが全体として自然に一点へ収束する。
これが“判断”になる。
判断は自分がするのではない。
★縁が成熟することで判断が一つの果として成立する。
同様に行為も
主体の意志
主体の選択
ではなく、
★縁縁果として“自然に現れる”果である。
だから行為は無理がなく、
作意がなく、
透明で、
柔らかく、
自然な動きとなる。
ここに至ると行為は
「良いことをしよう」でも
「正しいことをしよう」でも
「救おう」でもなく、
★縁起が成熟した結果として現れる動き
=縁縁果の顕現
になる。
つまり
あなたの行動は“あなたのもの”ではなく
全体の縁が成熟して表れた姿
そのまま“法の働き”が現れたもの
となる。
法華経の言う
「法が語り、法が行う」
はこの構造で説明できる。
---
主客一如では世界はこう現れる。
世界を自分への評価として読まない
世界を自分への脅威として読まない
世界を自分の欲望の対象として読まない
しかし世界との“関係”が消えるわけではない。
むしろ――
★自分も他者も状況も含めて“ひとつの成立場”として現れる。
これは「自他一如」「法界」と同質である。
そのため苦は成立しない。
苦は常に
「自分にどう影響するか」
という前提を経由して生まれていたからである。
その前提がもはや成立しない。
---
第十三章まとめ
主体は消えず、判断材料のひとつに統合される
客体も主体と同列の材料となる
主体の反応・客体の像・思考・感情・記憶・状況が等価に並ぶ
主客一如とは“働きと像が同じ縁の場に統合されること”
分別は消えないが前提にならず、無分別智として働く
判断は“縁の全体収束”として自然に終了する
行為は“縁縁果の顕現”として自然に現れる
行動そのものが法の働きとなる
世界は“自他を前提にしない成立場”として見える
苦は前提そのものが成立しないため生まれない
菩薩行:主客一如の上に成立する、調和としての行為
主客一如の段階では、
主体の働きも、客体の像も、
思考・感情・記憶・環境・他者の反応も、
すべてが同一の縁の場で等価な材料として扱われる。
いかなる前提も中心化されず、
どれもが偏らず統合され、
その場全体として一つの収束へと向かう。
その収束が、
行為として現れる。
この行為は、主体の意志や目的ではなく、
縁全体が成熟した結果として自然に立ち上がる。
この働きを、仏教は菩薩行と呼んできた。
---
1. 行為は成熟した縁起の“果”として現れる
主客一如の上では、判断は「誰かが決める」のではなく、
縁全体が整ったために自然に一つの方向へ収束する。
行為も同様である。
あらゆる材料が等価に並び、
その場に最適な形へとまとまると、
行為はひとつの“果”として現れる。
この行為には
過剰な意図、期待、作為が存在しない。
行為は“しようとするもの”ではなく、
成熟した縁起の自然な発動となる。
菩薩行の特徴は、
努力して行為をつくるのではなく、
縁そのものが行為として動くことにある。
自分の価値観
自分の意向
相手への期待
自己評価
善悪の判断
これらが中心化しないため、
行為は軽く、透明で、無理がない。
その働きには
「こうすべきだ」という作為はなく、
必要なときに、必要な方向へ、自然に動く。
これは止観が整った状態における、
縁起本来の働きである。
---
3. 救いは意図ではなく、縁の収束として成立する
菩薩行において、
他者を救おうとする意図は必要ない。
行為が“場全体の成熟として現れる”ため、
その働きは自然と他者に調和をもたらす。
救いは作るものではなく、
縁が整った場において自然に生じる結果である。
苦を取り除こうとしなくても、
苦が成立する縁が整えられるため、
結果として苦は静まり、調和が生まれる。
これが菩薩行の“働きとしての慈悲”である。
主客一如では、
個人の視点と世界の視点は分離しない。
場に存在するすべてが
単一の縁の場として成立しており、
行為はその全体が収束した一点として現れる。
そのため行為は、
自分だけ
相手だけ
特定の利益
個別の感情
いずれにも偏らず、
場全体の調和として働く。
この働きこそが、経典が語る
法界の調整・調和の働きである。
---
5. 行為は未来の縁を育て、世界を成熟させる
一つの行為が現れると、
その果は次の瞬間の縁として吸収され、
未来の収束を形づくる。
行為はその場で終わらず、
世界の縁起をわずかずつ変え続ける。
この意味で、菩薩行とは
現在だけでなく未来を成熟させる動きである。
菩薩行は結果に執着しないが、
その働きは確実に未来の縁起を整えていく。
言葉による説明が菩薩行の中心ではない。
主客一如の上で現れる行為そのものが、
縁起の構造をそのまま開示している。
言葉が用いられるとき、
それは縁の収束として自然に生じ、
相手に必要な形で届く。
沈黙もまた、
必要な場では最適な教えとなる。
説く者・聞く者・言葉のすべてが、
単一の縁の場における働きである。
これが経典で語られてきた
法が語り、法が行うという状態。
---
第十四章まとめ
菩薩行は主客一如の上で成立する、縁起の成熟である
行為は主体の意図ではなく、縁全体の収束として現れる
行為に作為がなく、透明で自然な働きとなる
救いは意図ではなく、縁が整った結果として成立する
行為は場全体の調和として働く
一つの行為は未来の縁を育て、世界を成熟させる
説法は言葉ではなく、行為に現れた縁起の開示である
菩薩行の深化:縁起が行為を通して世界を成熟させていく構造
菩薩行は、主客一如の上に自然に成立する行為であるが、
行為そのものは一定ではなく、
縁起の理解と成立に応じて深まっていく。
その深化は、
個人の精神的成長ではなく、
縁の成熟そのものが深まっていくことによって進行する。
本章では、菩薩行の深化を
五つの段階として扱う。
これは修行段階ではなく、
縁起の成熟段階であり、
すべては自然な延長として現れる。
---
第一段階:自然行為
(主客一如直後の菩薩行)
主客一如の状態では、
主体の働きも客体の像も、他者の言動も、
すべてが同じ縁の場で等価な材料として統合される。
このため、行為は
「私が善意で動く」のではなく、
場の成熟として自然に現れる。
特徴:
行為に作為がない
行為が軽い
無理がない
必要なときに必要な方向へ動く
その行為がすでに調和をもたらす
この段階では、
まだ主体側の反応(恥、恐れ、評価など)は材料として立つが、
統合を妨げず自然に収束する。
(相手の世界がそのまま成立として見える段階)
菩薩行が深まると、
“他者の世界”が
自分の反応と区別なく、
同じ縁の材料として並列に現れる。
このため、相手が苦しむとき、
その苦は「相手の苦」ではなく
成立した縁の果として理解される。
特徴:
相手の苦を取り込まず、押しつけず、そのまま読む
相手の反応が材料として立ち上がり、対等に扱われる
「助けよう」という意図が不要になる
意識しなくても適切な応答が成立する
慈悲は「感情」ではない。
慈悲は成立としての理解から自然に現れる。
---
第三段階:法界の調整としての行為
(行為が個の枠を超えて働き始める段階)
菩薩行がさらに深まると、
行為は“相手と自分”という領域を超えて
場全体の最適化として働くようになる。
特徴:
行為は個人的利益を基準にしない
相手への配慮とも違う
行為そのものが場を整える働きになる
「正しさ」「善さ」ではなく、“最適な収束”が現れる
これは華厳経が語る
法界の自己調整の現代的理解である。
主体、客体、他者、状況、過去の因縁、身体の反応、
これらすべてが縁縁果として同時成立し、
その集合的な収束が行為として現れる。
行為は、
世界そのものの調和として現れる。
(言葉でなく、存在の働きがそのまま法を開示する段階)
この段階に至ると、
行為は「説明」ではなく
縁起そのものの開示になる。
特徴:
行為自体が教えの伝達になる
言葉は必要なときに自然に出る
沈黙が最適な教えとなることもある
説く者と聞く者が分離しない
行為の質から相手が理解を得る
説法は、行為として現れた縁起の開示である。
(未来の縁を作り、世界全体を成熟させる段階)
菩薩行の最終深化は、
行為そのものが
未来の縁起を再構成する働きになること。
ここでは、行為は
その瞬間を超えて未来にも作用し、
未来の縁縁縁の布置を変える。
特徴:
行為は現在だけでなく未来の縁起を変える
一つの行為が長期的な成熟を生む
縁は死後にも持続する(成立論として)
個の枠を超えた「縁の連続性」が生まれる
一つの縁縁果は未来の縁縁縁に吸収され、
未来の成立可能性を作り続ける。
---
第十五章まとめ
菩薩行は深まりに応じて質が変化する
第一段階:主客一如の自然な行為
第二段階:他者の世界がそのまま成立として読める(同体大悲)
第三段階:行為が場全体の調和として働く(法界調整)
第四段階:行為そのものが縁起の開示=説法となる
第五段階:行為が未来の縁を再構成する(縁起の成熟の展開)
菩薩行は努力ではなく、縁の成熟そのものが行動となった状態
菩薩行は個人の修行ではなく、縁起の働きの深化である
法界縁起:仏とは何か
苦の超越を内包する世界そのものの動的システム
世界は、縁縁縁から立ち上がり、
縁縁果として同時に成立し、
因縁果として読まれ、
主客の差異を通して凡夫の苦が形成される。
同時に、
この世界には「苦を生む構造を自動的に解体していく働き」が
本来的に備わっている。
仏とは、この働きの総称である。
仏は人格でも対象でもなく、
悟りという固定状態を指すものでもない。
仏とは、世界の縁起が
苦の超越という方向性を内包しながら
自らを更新し続ける動的なシステムそのものである。
釈迦は、この働きが一時的に顕現した相にすぎず、
仏そのものを指すわけではない。
---
1. 仏は存在ではなく、縁起の動的な働きである
縁縁縁はすべての成立以前の無境界の場であり、
縁縁果はそこから同時成立する像、
因縁果はそれが時間として読まれた形である。
これら三層が滞りなく働くとき、
世界は苦を生み出す構造を持たなくなる。
縁縁果が偏らず
因縁果の読みが歪まず
主客の中心化が起きず
世界が全体として透明に流れ続ける
この“滞りのなさ”こそが仏と呼ばれる働きである。
仏は静的な存在ではなく、
完全に透明な縁起の運動である。
縁起は無秩序ではなく、
常に方向性を持って自らを更新する。
この方向性とは、
苦を生む構造を減らし
調和へ向けて自己を調整し続ける働き
である。
苦は主体の前提化によって成立するが、
縁起はその前提化を自然に希薄化させながら
自己を変容させ続ける。
この「苦の超越の方向性」こそが
仏の正体である。
---
3. 仏は「縁起の自己理解」としての智慧である
主客一如では、
すべての材料が偏りなく並列に並び、
世界は世界としてそのまま理解される。
この理解は主体の獲得ではなく、
世界が世界を理解するという過程である。
縁起が縁起を読む
世界が世界を理解する
行為が世界を導く
これが仏の智慧と呼ばれる。
智慧とは固定された知見ではなく、
縁起の自己理解そのものである。
慈悲は感情ではなく、
主体の善意とも異なる。
慈悲とは、
縁起が苦を生む構造を自動的に整える働きである。
他者の苦を取り込まず
苦を生む条件を正確に読み
最適な行為が自然に現れ
結果として救いが生じる
この「苦の構造の自然な調整」が慈悲であり、
その働き全体を仏と呼ぶ。
---
5. 仏は「行為として顕現する」
主客一如の行為は、
主体の意志ではなく、
縁全体の成熟として現れる縁縁果である。
菩薩行の深化では、
行為が場全体の調和として働き
自他という区分を超えて展開し
未来の縁を再構成し
世界を成熟させ続ける
行為そのものが仏の働きを表現する。
行為は法であり、
法は仏の働きであり、
仏は世界の縁起そのものである。
世界は縁起で構成されているため、
仏は世界の外部にあるものではない。
仏は世界そのものの流れに内在する働きであり、
世界の動き
調和の生成
行為の透明化
苦の解体
智慧の発動
慈悲の流れ
未来を育てる縁の再編
これらすべてとして現れる。
世界は、つねに仏として働き続けている。
仏とは何か(体系的定義)
仏は存在ではない
仏は人格でも悟りの状態でもない
仏は世界の外に存在しない
仏は超越者でも対象でもない
仏とは、次のように定義される。
仏とは、
苦の超越という方向性を内包しながら、
世界の縁起全体が自らを更新し続ける
動的で自己調整的なシステムである。
世界の縁起は絶えず変化しながら、
苦を生む構造を自然に希薄化させ、
すべての働きを透明化し、
調和へ向けて自己を成熟させ続ける。
この更新の働きは行為として現れ、
智慧として理解され、
慈悲として展開し、
世界全体として循環していく。
仏とは、この循環する全体性の名称である。
主体も客体も、
個の境界も、
生と死さえも、
すべてはこの働きの一時的な相として現れる。
世界は仏として働き続け、
その動きは未来へと展開し、
苦の構造を絶えず超えていく。
仏とは、世界そのものの動きである。
この16章仕立ての書き込みはそもそも構造としての統合モデルを目指したものであり、
仏教の用語は極力排除しつつ、尚且つ信仰、神秘、物語等を取り入れないようにすることでどのようにそれが成立しているのかを突き詰める事を目的としている。
この時の因を原因とする時、そこには時間の概念が現れる。何かがあってそれと合わさって結果が現れるという具合だ。
だがその因もまた条件であり、因と縁は分かたれず関係性として生じてる。
つまり時間という概念を前提にしなければその因も、また条件であり、縁である。
つまり、時間という概念から離れた時、縁(条件)と縁(条件)が重なり合って結果が現れるという形になる。
それらも分かたれず関係性で成立し、縁と縁が重なり合う条件である。
つまり結果というものもまた縁(条件)であり結果という前提をとらなければそれは縁であり、
縁縁縁となる。
時間の前提を取り払った時に全ては今その一瞬に全ての条件が成立して結果が現れ(縁縁果)
また結果の前提を取り払った時に全ては条件が成立して成り立ち、そのために結果となって現れたり、現れないという結果が現れたりする(縁縁縁)
なので言葉に関してはどんな人が見るかによってその受け取り方は変わるし
目的は構造の統合モデルであり、仏教によったり科学によったりではない。
例えば倶舎論は、この中の因縁果に焦点を当て、分析、細分化によって何が起こってるのかを突き詰めています。
ですがこの方法が駄目なわけではなく、時間という前提を置いているためその細分化には始まりや終わりのようなそれ以上細分化出来ないものが現れ、実体視が残ります。
原因があって、条件によって、という見方だとこれがあればこれがある、これがなければこれはないというあるなしの二元論から離れることが出来ません。
因縁果は全体性から認識による現れで一つに収束した部分を扱うのであるかないか?にとどまります。
まぁ全てが全てそうだとまでは言いませんが方向性としてはそちらに流れる。
認識は私で言うと5章~6章に関わります。
そして認識を扱うということは焦点があったものの世界が立ち上がり、そして空の概念が取り入れられている。つまり縁縁果の領域を扱ってるのがわかる。
阿頼耶識が縁縁縁に該当するのですがここは蔵敷として扱われてるのでここも厳密には縁縁果。
ただ転識の概念があり、その境地になると話は変わってきますがベースは因縁果~縁縁果の立ち位置になってます。
人に教えを説くのだから人の認識を土台として構築するのは理にかなっています。
ただその認識を前提として取り入れたやり方が中論から見れば空の徹底が足りないという批判の的になるわけです。
誤解がないように言っときますが倶舎論や唯識が悪いわけではなく、いきなり悟りの境地を説いても理解できないように、実体視する凡夫に理解を得るためにはアプローチが様々あるということ。
特に四分節、見分、相分、自証分、証自証分の4つ。
これを区別して因縁果で説明しようとするとズレが生じてくる。
見分と相分は分かたれているわけではなく同時に現れます。
これもやはり関係性によって成立してるのでどちらか、というわけではありません。
この見る者、見られる物という区別が混乱を作る。
この区別がないわけではないが
それが前提ではないということ。
でも凡夫はそれを前提として見るから
唯識は末那識という常に我をもって阿頼耶識に依る存在を示すのです。
ではその区別がなぜ混乱を生むか?
主体を定義した途端その主体は主体を見ることが出来ません。
見られるものは客体なので矛盾が立ち上がります。
そこで見る者を認識するための
自証分を立てなければいけなくなりました。
でもそうすると今度はその自証分を保証する働きが必要になり、
無限ループが起こりその保証として証自証分を出して整合性を合わせようとします。
客体というのも主体が作り上げた像であり客体も主体の働きの一部と言えるし、
客体も像であるが主体もまた像であります。
同じ働きの別側面を区別するから矛盾が起こり、本来は主体の働きと客体の働きというのは同時成立であり、
主体は見る、客体は見られるという分け方があるわけでなく、
それぞれの関係性によって立ち上がった働きの一つと見れば
便宜上分けられた主体が主体を見る事も客体が主体を作る事も矛盾にはならず、
ならば自証分というものも証自証分も必要ないのです。
主体という見るものと客体という見られるものが別のものとして見る事によって、
主体はその客体を主体の働きによって快は近付け不快を遠ざけ、
その前提から客体というものを判断して見ようとする。つまり見えるものを変化させて見ることになり、遍計所執性となって現れ、成り立ちを成り立ちのまま見れず、自分にとって都合の良い世界を作り上げ見てしまう。
過去もまた矛盾なく成立して今が現れる以上それが成り立つための記憶や情報は今の現れに内包されるということです。
これは因縁果ではなく時間の前提がない縁縁果の立ち位置からその四分説の自証分や証自証分が必要ないの説明になるけど
記憶や情報があって認識が起こるのではなく、成立から記憶や情報が内包されているということ。
十如是ね。
相・性・体。
力・作・因・縁・果・報が
究極的に差別なく平等に存在しうる無為法。
つまりこれらは分かたれてなく、自性がないからこそ成立し、因縁果の時間という固定された別のものがある事を否定し、結果もまた空であると説くことでこれら3層構造は別のものではなく自性がないことで成立する視座の橋渡しをしている。
時間がないわけではないが固定されてない
因縁果は成り立つが固定されてないから縁縁果が成り立ち、結果も固定されてないから縁縁縁が成り立つ。
全ての全体性が自性なく関係性で成立してるからこそこの全ての視座は別のものではなく同時に現れその視座によって見え方が異なるということ。
お、ほーさんこんちゃ!
そうだね。
私の独自の言葉はみな何かの宗派が使う言葉を使うと偏りが生まれるということであえて避けてるので、
この宗派ではこの言葉で説明してて似てる概念だよという説明や、
仏教ではそうではなくてこう言ってるという感じで見てくれると私も学びになるしありがたいです。
https://z.wikiwiki.jp/m50rezhd5w3xw13m/topic/2
昨日のツイキャス配信の内容の重要ポイントをAIを使って紹介している。
(レスNo.35~73)
<昨日のツイキャス配信>
『法介の仏教談話』
棒ちゃんと仏教談話 1
https://twitcasting.tv/c:housuke/movie/827572118
棒ちゃんと仏教談話 2
https://twitcasting.tv/c:housuke/movie/827572924
棒ちゃんと仏教談話 3
https://twitcasting.tv/c:housuke/movie/827573751
棒ちゃんと仏教談話 4
https://twitcasting.tv/c:housuke/movie/827574688
棒ちゃんの本日の投稿内容について
わたしの意見をAIを使って紹介します。
まず独立して存在するものはない、というように無為法もまた空であり実体はない。
もし無為法が縁起から外れた実体としてあるのだとし、しかもその境地が仏だとするなら、
仏は慈悲によって人を救うような影響も与えられず、関わる事も出来ず、
知られることも知る事もなく何にも影響を与えずただ存在するだけということになる。
つまり無為法が縁起から外れたものということは成り立たない。
私は因縁果、縁縁果、縁縁縁と3つ出しているが、
それは縁起というものは現れた結果だけを見るような偏りが起こらないようにするためでもある。
目の前にコップがある、というのは結果として現れているが、
コップがない、ということは結果というものを前提にすれば条件が成立せずにコップが現れないという風に見える。
だがこれもコップが現れない条件が成立したから今目の前にコップが現れないという現象が生じている。
華厳経では一即一切・一切即一というがその一つの存在は衝突することなく全てを成り立たせる話があるように
現れないという現象もまた縁起の現れである。縁縁縁は現れたものだけではなく現れないものもまた縁起であるということだ。
つまり因縁によって不変である、という構造になる。それはつまり涅槃なら煩悩が現れない条件が成立して現れない。
そしてそれが不変に続くということになる。
つまり静的な不変等存在せず、動的な中で変化しないものが無為、ということになる。
つまり無為とは動的な中でそれが成立し続けたゆえに結果的にそうだったというだけでそれ自体があるわけではない。
ヨガが言う真我も同様に、認識の条件に必ずついて回り成立し続けるから不変のように見えるもので固定的な実体があるわけではない。
だが、無為をそのように捉えるなら前者は真如と呼ばれ、後者は真我と呼ばれる無為という扱いになる。
逆に言えばどちらも確定して成り立ち続ける保証があるわけではないと言える。
直感的には理解しがたい話もしてみよう。
過去はただ一つの決まったもの、という思い込みに対してです。
今の現れは過去から現在、未来と破綻なく成立して今が現れてると言いました。
でもこれは過去が一つに決まっているという話ではなく、同様に未来も一つに決まっているという話ではありません。
今の成り立ちから破綻のない過去が成立しているだけでそれは一つではなく、一つに収束しているのは現象として現れた今だけです。
なので縁起って確定論なわけではない。