① 蔵教の四念処析空観(分析による解体)界内の俗諦・但空身体を物質の要素に細かく分解し、そこに「実体(我)」がないことを愚直に観察する。 ② 通教の四念処体空観(当体即空)界内の真諦・即空分析するまでもなく、身体や心という現象は「生じたその瞬間のままで幻のように空である」と観ずる。 ③ 別教の四念処歴劫修行の観界外の単中(中道)迷い(空)を抜けた先にある、無限の仏法(仮諦)や仏性(中道諦)を、順序を追って段階的に観察する。 ④ 円教の四念処円融三諦の観最高の真理(実相)身体も心も、そのままで「空・仮・中」の三諦を完璧に備えている(一念三千)と一気に観ずる。
主体感が生じるとき
主体感が薄れるとき
主体感が薄れた体験を「私の理解」とする心
まで観察対象になる必要があります。
ここでの決定的なズレ
誤解した人は、
主体が薄れた状態になること
を目指します。
しかし本来見るべきなのは、
主体が立つ条件と、薄れる条件を見ること
です。
この違いは大きいです。
前者は状態管理です。
後者は法の観察です。
前者は、
思考を止めよう
判断を止めよう
怒りを消そう
一如を保とう
になります。
後者は、
思考が生じる条件を見る
判断が生じる条件を見る
怒りが生じる条件を見る
一如を保とうとする取を見る
主体感が立つ条件を見る
主体感が薄れたことを解決と見る見解を見る
になります。
だから主客一如の体験は入口であって、結論ではない
主客一如っぽい体験は、価値がないわけではありません。
それによって、普段の強い主体感が絶対ではないと分かることはある。
ただし、それは入口です。
その体験をもとに、
主体感は条件によって強まったり薄れたりする
では、主体感は何によって成立しているのか
それを「私」と掴む心はどう生じるのか
一如を解決と見る見解はどう生じるのか
と進むなら、法念処に開かれる。
しかし、
主体感が薄れた。
だから無我だ。
だから判断や思考をなくせばよい。
となると、そこで止まる。
要するに、問題はこうです。
主体が薄れた体験を、主体の条件性を見抜いた洞察と取り違える。
その結果、法を観る代わりに、主体感を薄くする心の状態を維持しようとする。
そして、判断・思考・怒りを消すことを解決と見てしまう。
ここが、主客一如の誤解が心念処で止まる典型的な構造だと思います。
的を得ていると思う。
どちらも固定されない
・客体:此縁性縁起(有)--- 蔵教
・主体:相依性縁起(空)--- 通教
別教で〝亦有亦空〟で唯識が展開される。
・見られる側(有:此縁性縁起)
・見る側(空:相依性縁起)
↑これをチャッピーに投げてみ
https://share.google/aimode/Um5cYtEGuysY004Bp
ほーさんこんちゃ。JBLさんが四念処を取り上げてたから自分なりに整理してたんよ。
かなり良い投げ方です。返すなら、こう整理できます。
ポイントは、「客体がある/主体が見る」という構図そのものが固定されないということですね。
1. 蔵教的には、客体は「縁によって有る」
客体:此縁性縁起=有
「此れあれば彼あり」という因果的・条件的な縁起として見ると、対象は一応“有る”。
ただしそれは、実体として有るのではなく、縁によって成立している仮有です。
だから、
見られる側=有
というのは、
「対象がまったく無い」という意味ではなく、
条件づけられた現象としては立ち現れている
という意味になる。
2. 通教的には、主体も「相依して空」
主体:相依性縁起=空
ここが大事で、見る側も絶対的な観察者ではない。
「私が対象を見る」というと、主体が先に固定されているように見えるけれど、実際には主体もまた、対象との関係の中で立ち上がる。
つまり、
見る側=空
とは、
「主体が無い」というより、
主体もまた客体との相依関係によって仮に成り立つだけで、自性を持たない
ということ。
ここで、
見られる側=有
見る側=空
を単純に分けたままにせず、別教的に
亦有亦空
有でもあり、空でもある
として展開すると、唯識にかなり近づきます。
唯識で言えば、
見られる側:相分
見る側:見分
です。
しかし相分も見分も、別々に独立して存在するのではなく、どちらも識の転変として現れる。
だから唯識では、
客体が先にあって、それを主体が見る
のではなく、
「見る働き」と「見られる像」が同時に立ち上がる
と見る。
ここで、主体も客体も固定されない。
4. より唯識っぽく言うなら
このメモは、唯識の三性説に重ねるとさらに明確になります。
遍計所執性:主体と客体が別々に実在すると誤って執着する
依他起性:見る側・見られる側は縁によって生起する
円成実性:主客二元の実体視が空であると見る
つまり、
見られるものも、見るものも、固定実体ではない。
ただし現象としては立ち現れる。
その立ち現れは有であり、同時に自性なき空である。
という構造です。
少しだけ修正するなら、こう言うとさらに精密です。
客体は「有」、主体は「空」と固定的に割り振るのではなく、
客体も仮有であり空、主体も仮有であり空である。
ただ、教判上の展開として、まず客体の縁起的有を見、次に主体の相依的空を見、さらに別教的に亦有亦空として、主客二元そのものを唯識的に解体する。
要するに、この図式の肝は、
客体の固定性も崩れ、主体の固定性も崩れる。
そのうえで、見られるものと見るものが相即的に立ち現れる。
というところです。
質問
四念処は分析による解体である蔵教のレベルなのか?
① 蔵教の四念処析空観(分析による解体)界内の俗諦・但空身体を物質の要素に細かく分解し、そこに「実体(我)」がないことを愚直に観察する。
② 通教の四念処体空観(当体即空)界内の真諦・即空分析するまでもなく、身体や心という現象は「生じたその瞬間のままで幻のように空である」と観ずる。
③ 別教の四念処歴劫修行の観界外の単中(中道)迷い(空)を抜けた先にある、無限の仏法(仮諦)や仏性(中道諦)を、順序を追って段階的に観察する。
④ 円教の四念処円融三諦の観最高の真理(実相)身体も心も、そのままで「空・仮・中」の三諦を完璧に備えている(一念三千)と一気に観ずる。
ではそれぞれの段階の四念処を教えてくれ
2. 通教(つうきょう)の四念処 =「体空観(たいくうかん)」蔵教のようにわざわざ細かく分解しなくても、「いま目の前にあるそのままで、最初から幻(空)である」と見抜く大乗の初歩のレベルです。観じ方:当体即空(とうたいそくくう)= 幻を幻として観る4つのアプローチ:身念処:身体をわざわざ解体しなくても、因縁(条件)によって仮に形作られているだけで、まるでマジック(幻術)が見せている映像のように「最初から空である」と観る。受念処:感情や感覚(苦楽)は、夢の中で受けている傷のようなもので、目が覚めれば(空を悟れば)実体として受けるものなど何もないと観る。心念処:心は水面に映った月のようなもので、形は見えても触れる中身はないと観る。法念処:すべての現象は、エコー(こだま)のように響いているだけで、実体的に生じることも滅することもない(不生不滅)と観る。
4. 円教(えんきょう)の四念処 =「円融三諦の観(えんゆうさんたいのかん)」智顗が最高峰とした「不可思議の四念処」です。分断や段階がなく、「いま、ここに立つ私」の心身に、宇宙のすべての真理が完璧に備わっていると一瞬で観じます。観じ方:一即一切(いっそくいっさい)= 身・受・心・法がそのまま「空・仮・中」である
とはいえ主体を客体として扱うということでもない。そのままで諸法実相ということだな。
それらは否定されるべき汚れではなく、今この理解が現れるために関わってきた縁である。
煩悩に囚われれば苦が固定される。
しかし煩悩の成り立ちが見えるなら、その煩悩もまた執着から離れるための縁となる。
ここにおいて、捨てるべきものとしての煩悩と、得るべきものとしての悟りは別々に立たない。
煩悩として現れたものも、そのまま法の相であり、諸法実相である。
まず観察というと対象を定めて詳細に知ろうとする働きを思い浮かべるが、それも含まれるがそれが全てではない。
例えば禅宗では坐禅の最中に思考が浮かんでくる。それを悪いものと思わずにとらない、放っておくという。
それに意識を向けるのをやめまた戻る。
だが意識を向けてなくてもそれは浮かんでくる。意識をそれに向けなくてもそれを認識する働きが起こっている。
それに意識を向けて分析したわけでもないのにそれを思考と認識し理解している。
では意識しないのに浮かんでくるのか?というと半分正解で半分は違う。
例えば呼吸に意識を向けて瞑想している時に、意識を向けているものに関わるもの、それらは近々の記憶等様々な関係性からそれが浮かんできている。
呼吸に意識を向け続けてもそれにそれに無関係というわけではなく思考というものは立ち上がっている。
つまり、思考は中心化していなくてもそれに関わるものに意識を向けてそれが浮かび上がっているから認識している。
例えば閃きがあれば解けるような問題を出されるとする。
ここでは簡単にパンはパンでも食べられないパンは?
みたいな問題にしてみよう。
まずパンに関わるものが次々と浮かんでくる。食べられないものというのも関わり合って食事に関わるパンが浮かび上がりやすい。
分析の場合、フランスパン等その浮かび上がった一つに意識を向け、これは違う、ジャムパン、サンドイッチみたいにパンに関わるものに次々と意識を向けて分析し、候補を絞っていく。
そしてフライパンに行き着いた時に答えを閃く。
食べられないパン、食べられないパンとその言葉を頭で何度も反芻させて、関わるものが浮かんでは消えとらず、それを続ける事でその関わるものに行き着いてフライパンを閃く。
これは分析をせずに答えに行き着くタイプだ。
直接智とか直感とか言われたりする。
どちらも関わり合いによって得られた答えであり、分析を繰り返す事で条件を増やし答えの幅を減らし閃く。
その分析という関わり合いをどれだけ介入させずに閃くかはその人のこれまでに依存する。
多くの瞑想の場合、目的は分析よりもその眺めるだけを目的にしたものが多い。
それは詳細な情報を知るために意識は常にあちこちに焦点をあてそれに関わるものを浮かびあがらせて情報を集めるからだ。
だがそれは疲れるし、関係のないものに焦点を当てると明後日の方向に行ってしまい必要な情報を集めているとは限らないからでもある。
この範囲の保持そのものは集中と呼ばれる。
その集中によって保持された範囲に関わるものが浮かび上がってそれを認識するのが観るであり、その浮かび上がったものの一部にまた焦点を当てるのは集中と言える。
集中の範囲を狭めれば浮かび上がる範囲も狭まり0に近付くし、集中の範囲を広げ続ければ関わり合って浮かぶものが広がり続ける。
だが広げ続けてもリソースは、有限であり、そのうちの1点の情報はどんどん希薄になっていき0に近付く。
例えば木を観察している。でも集中できないため、例えば木の緑色の部分に意識が移る。
すると緑に関わるものとして例えばピッコロ大魔王が浮かんできてそれに移ってしまう。木を観察する所をピッコロ大魔王になっていては観察できていない。
例えば呼吸に集中する。
観察の場合は、呼吸に関わるものを認識するが、この場合呼吸そのものを対象としていて呼吸以外を雑念と排除してしまう。
その人が吸ったり吐いたりを呼吸と考えているなら吸うこと、吐くこと以外は関係ないものとして範囲に含めなくなってしまう。
関わるものが範囲外となる。
先程も言ったように浮かび上がるものをとらない、放っておくという話をそのまま受け取って余計なものとして排除した上で集中しようとする。
観察の伴わない集中が何をもたらすか?
そのものになる、とよく言われる。音なら音そのもの、景色なら景色そのもの、主客を超えた一体感のような表現が多いがそのような状態になる。
これも三昧の一つだが観察を伴う集中もまた三昧であるという事を言っておく。
余計なものをとらないが、その集中の範囲で正しく観察されているならばそれは雑念なくその範囲に関わるものにきちんと向き合って集中しているからだ。
ここでいう関わらないもの、というのは木を観察する時は木に関係するものを浮かびあがらせることであって、緑もまた木に関わるものだが緑からピッコロと行ってしまったらそれは木に関わるもの、ではなくて緑に関わるものに変わってしまっているということ。
同様に瞑想して不安が立ち上がっているならそれは今の状態に関わり合っている不安になるが、そこで不安に意識を向けて不安に関わるものを見て例えば明日はどうしようか悩んでいるという関わり合いに意識を向ける時それは瞑想に向かっていないで不安に向かっているということ。
だから木に集中するなら緑に焦点を移す必要はない。これが分析しないで木の観察をしている時の働きとなる。
これはさっきの集中による主客の統合とは別物。
木、そのものである時、それを見ている私はどこにいるか?という言葉が禅宗ではよくある。
これは木に集中しそれ以外をとらないだけでなく排除したことによって観察が働かず、私が見ているという関わり合いがとられず木という認識に留まってるんだよ。
だからそのものであり、主客から離れた境地にはなるがこれでは縁起の理解も何もない。
単に主体というのも固定されたものではないと後から気付くきっかけになりうるだけ。
後からそれを観察する形になる。
だから主客から離れるというのは正確には主客の区別がないということではなく、主客の区別があるわけでもないわけでもない、
思考もあるわけでもないわけでもない。
そのような関わり合いからその結果が現れる。
それは見方によってあるとも言えるしないとも言える。
店名、場所、メニュー、料理や外観の写真、レビュー、保存したレビュー一覧の検索機能。
よさげなアプリがない。まてよ?チャッピー有料使ってるならアプリ作れるんじゃね?とチャッピーと相談しながらアプリを自作。
すげぇ。自分に必要なものを全て備えたアプリが出来た。不便な所も修正版を作ってくれる。
可能性を感じるわぁ。
寝る前の状態記入、寝る時間、起きる時間、起きた後の状態や夢の記入。
さらには訓練法としてバイノーラルビートやアラーム、キューや音声案内を導入し、自分でそれらを設定したり出来るようにした。
音声案内の指示に従いながらMILD法やらなんやらを訓練出来るように固定プリセットもいくつか用意。
チャッピーの可能性を堪能してるけどわし別に訓練を必要としてないけどな。
釈迦が説法していると、大地から巨大な宝塔が出現し、空中に浮かぶ。その中から「釈迦の説くことは真実である」と称賛する声が響く。
大楽説菩薩が「これはどういうことか」と尋ねると、釈迦は、塔の中には遠い過去に入滅した多宝如来がいると説明する。多宝如来は、法華経が説かれる場所へ宝塔とともに現れ、その教えを証明するという誓願を立てていた。�
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人々が多宝如来の姿を見たいと願うと、釈迦は各地で説法している自分の分身の仏たちを集める。そして宝塔を開く。多宝如来は釈迦に座の半分を譲り、二人の仏が並んで坐る。会衆も空中へ引き上げられる。
まずはその土台として集中と観察を出来るようにする必要がある。
集中は一点に意識を向け、他をとらないようなイメージだ。目安としては見る事に集中したら他の五感、例えば音とか触覚が感じなくなるような感じ。
音に集中していたら目を開けていても景色を認識していないような感じ。
観察はその集中によって現れたものを意図も混ぜず一切いじらずにそのままの現れを眺める感じかなぁ。
ではその集中と観察が出来ると明晰夢がどうなるか?
明晰夢を自在にするとよくいうが一般的にはこの集中によって世界を書き換える事になる。
集中は一点に集めてそれ以外が現れなくなるので例えば飛びたいと思えば飛びたい以外の雑念がなくなりその世界は飛びたいに書き換わり空を飛ぶようなイメージだ。
強い集中がいるわけだが観察を鍛えると集中の範囲が現れてそれを眺める形になるのでだんだん集中力は必要なくなり、集中力を要さない集中になる。
これは最初の集中は他に気がいかないように抑え込んでいたものが、その現れだけを扱うと結果的に雑念が現れなくなるから集中力がいらなくなるようなイメージだ。
ようは雑念がわかないのであれば集中力は必要ないということ。
一般的に言われる明晰夢を自在にコントロールするとはこんな感じ。
だが集中を要さない、このレベルの観察をするようになると意識をそこに向けただけでそれら実現するようになる。
ゴキブリを見かけて気持ち悪いと思ったら世界は書き換わり気持ち悪い世界になってしまう。
じゃあそういう事を考えないようにすればいいか?望むものだけをイメージすればいいか?
ここが割と分岐点になる。
確かにそうだが思うたびに世界は書き換わってしまう。
それは望む世界を思い続けなければいけないことになるし、思うことをやめたら何もない世界になる。
これはどちらかというと禅病とか空を虚無論にしてしまう方向に進む。
ではそうであると知って普段は集中や観察をしなければいいのか?それは結局
雑念にまみれた日常を送ることになって本末転倒だ。
ゴキブリが現れたならゴキブリが現れたままにする。そうすれば世界はそのまま変わらず現れたままとなる。
でもこれはさっき言った意図を挟まない観察と変わらない。これでは行動も何も出来ない。
つまり観察だけでも駄目、集中だけでも駄目。その両方でも駄目ということになる。
なんだ八方塞がりか?ここで本当の意味で空の理解が必要になる。
気持ち悪いと思う心も明晰夢ということもそれらが成立して今目の前にそのような景色として現れている。
つまり自分の行為も他と切り離されておこるわけではなく条件によってそれが現れているとわかるようになる。
するとゴキブリを見て気持ち悪いと思う心がなくなったわけではない。その世界が意図的に作り変えられてしまうわけでもない。
ただありのままにそれが現れるようになる。
でも条件の成立によって現れるとなると、空を飛ぼうとするわけではなく、すでに飛んでいる、というような感じになる。
そこには飛びたいという意図がないわけでも行為がないわけでもない。
ただそれらが条件として成立し、今飛ぶという行為が成立しているとなる。
だから意図、というものが前衛化することもなく、はたからみたら前に行こうと思ったら何も考えずとも歩き始めるように自然にその行為は行われている。
現実の世界でも見方は変わる。良い人だと思ってたのに一つの出来事で嫌な奴だに変わるみたいに。
でも見方が変わるということはその人の世界が書き換わってる事に他ならないがそれに気付けない。
相手は変わらずいつも通りに見えるし、自分の考えも地続きであり世界が書き換わったという自覚がない。
ゴキブリを見て気持ち悪いと思ってもそう思っただけで客観的には何も変わってないように見えるしその変化に本人も気付かない。
気持ち悪いと思ったから不快な気持ちなんだと思う。
でも明晰夢でこのような集中と観察があると話は変わる。
その思いや意図はただちにその世界を書き換えてしまう。
現実と違い否が応でもその変化と向き合う事になる。その部分だけが変わったのではなく、全てが変わってしまうという事実を突きつけられてしまう。
逆に言えば自分の些細な変化すら明晰夢の世界では分かりやすく現れてくれるという事でもある。
気付かなかった自分の心の変化、見方、そういうものを教えてくれる場と言える。