法介の個人的活用スレ その1最終更新 2024/11/13 03:291.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOわたくし法介の個人的主張です。2024/05/15 08:56:31201コメント欄へ移動すべて|最新の50件152.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO『諸法実相抄』では、「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし」と「仏は用の三身にして迹仏なり」とあります通り、「凡夫の三身」と「仏の三身」とがそれぞれあります。2024/05/15 10:52:38153.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO「仏の三身」は、皆さんよくご存じの「応身・報身・法身」の仏の三身です。2024/05/15 10:52:53154.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOでは「凡夫の三身」とは如何なるものでしょう。2024/05/15 10:53:08155.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO>>126ここから↓へ続く。だな。体の仏と用の仏 (Talk板パート24の続き)https://zawazawa.jp/bison/topic/212024/05/15 10:55:55156.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO~ 観法(止観法) ~2024/05/15 10:58:17157.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO瞑想は思考を停止させるもの。停止させることで煩悩が止滅する。2024/05/15 10:58:32158.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO唯識を説く法相宗の修行法って知ってますか。2024/05/15 10:58:49159.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO思考を停止させる瞑想ではありません。2024/05/15 10:59:10160.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO五重唯識観という観法です。(一応瞑想ともいう)1つ目で、遍計所執性の幻が捨てられ、2つ目から4つ目で、依他起性が深められ、5つ目で円成実性だけが現れます。といった内容です。2024/05/15 10:59:22161.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO唯識は菩薩に対して説かれた教えです。それまでの二乗に対して説かれた諸行法とは内容(瞑想法)が異なります。2024/05/15 10:59:54162.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOお釈迦さまがそれを説こうとした時、5000人の阿羅漢衆が(声聞・縁覚)「わたし達は既に瞑想を習得しています。 今更、別の修行法など興味ありません!」といって5000人の阿羅漢達が席を立って聞かないまま去って行きます。2024/05/15 11:00:41163.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOそこに居残ってちゃんと『法華経』の説法を最後まで聞いたのは菩薩の境涯の修行者だけでした。(二乗は聞かないまま去って行った)だから、二乗は成仏出来ないと言われたんです。2024/05/15 11:01:10164.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO(理由はそれ以外にもありますが)2024/05/15 11:01:25165.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO『法華経』の説法を最後までちゃんと聴聞した者達は、それが因となって今世では『法華経』を祭っている家に生まれ出ます。2024/05/15 11:01:42166.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO「『法華経』を祭っている家」ってどういうことか分かりますか?日蓮さんが顕された「曼荼羅御本尊」を祭っている家ってことです。2024/05/15 11:01:57167.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOそうでない人達は皆、過去世で一度も『法華経』の説法を聞かなかった人達です。2024/05/15 11:02:11168.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO今、こうして再び法華経のお話を聞く場面に出くわして、聞くか聞かないかもそれぞれの自由です。興味がない人は去って行かれて結構ですし、興味がある方はつたない私のお話ですがそれでも少しでも法華経の心に触れることが出来ればとの思いでお話しております。2024/05/15 11:02:31169.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO仏教では「縁」を説きます。何に縁していくかが大事なんです。2024/05/15 11:02:43170.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO悪しき心の人に縁すれば、手に持ったナイフは人を傷つける道具とさえなります。しかし、心美しき料理人に縁すれば、それで人を喜ばせる素晴らしい料理をこしらえます。2024/05/15 11:03:02171.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO仏教ではそれを「善知識と悪知識」として諭されます。2024/05/15 11:03:14172.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO日蓮さんの『守護国家論』に次のような事が書かれております。(現代語訳で) 摩訶止観巻一に「あるいは知識に従い、あるいは経巻に従い、前に説くところの一乗真実の菩提を聞く」とある。この文の意味は、経巻をもって善知識とすることである。 法華経普賢菩薩勧発品第二十八に「もし法華経を閻浮提に行じ受持する者は、皆これは普賢菩薩の優れた神通の力である、と考えなさい」とある。この文の意味は、末法の代の凡夫が法華経を信じるのは普賢菩薩という善知識の力である、ということである。また同品に「もしこの法華経を受持し、読誦し、正しく憶念し、修習し、書写する者は、まさに知りなさい。この人はそのまま釈迦牟尼仏を見るのである。仏の口からこの経典を聞くようなものである。まさに知りなさい。この人は釈迦牟尼仏を供養しているのである」とある。この文を見るに、法華経は即ち釈迦牟尼仏である。法華経を信じない人の前には、釈迦牟尼仏は入滅されているが、この経を信じる者の前には、仏の滅後であっても仏の在世なのである。2024/05/15 11:03:50173.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO また見宝塔品第十一に「もし我が成仏して入滅して後、十方世界の国土において法華経を説くところがあれば、我はこの経を聴くために、宝塔に乗ってその前に涌現し、法華経の真実を証明するであろう」とある。この文の意味は、我等衆生が法華経の名号を唱えると多宝如来が本願のために必ず出現される、ということである。また同品に「諸仏が十方世界にあって法を説いているのを、ことごとく呼び還し、霊鷲山の一処に集められた」とある。釈迦如来・多宝如来・十方分身の諸仏・普賢菩薩等などは我らの善知識である。もしこの意義によるならば、我らの前世に積んだ善根は善財童子・常啼菩薩・班足王などにも勝れているのである。彼は権経の善知識にあい、我らは実経の善知識にあっているからである。彼は権経の菩薩にあい、我らは実経の仏・菩薩にあっているからである。2024/05/15 11:04:27174.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO 涅槃経に「法に依って人に依らざれ、智に依って識に依らざれ」とある。「法に依る」というのは法華経・涅槃経の常住の法に依れということである。「人に依らざれ」とは法華経・涅槃経に基づかない人に依ってはならないということである。 たとえ仏・菩薩であっても法華経・涅槃経に依らない仏・菩薩は善知識ではない。まして法華経・涅槃経に依らない論師・訳者・人師はなおさらである。 「智に依る」とは仏の智慧に依れということである。「識に依らざれ」とは等覚の菩薩以下の識に依ってはならないということである。今の時代の出家・在家が源空の謗法を隠そうとするために、その徳を天下に言いふらし、勢至菩薩の権化であると言っているが信用できない。 外道は、五神通力を得て山を傾け海を干すとしても、神通力のない阿含経の凡夫に劣っている。小乗の阿羅漢を得て六神通を現す二乗は、華厳・方等・般若の凡の権大乗の凡夫に劣っている。 華厳・方等・般若の権大乗の等覚の菩薩も、法華経の名字即・観行即の凡夫に劣っている。たとえ神通力・智慧があっても権教の善知識を用いてはいけない。2024/05/15 11:05:00175.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO 常に苦海に沈んでいる一闡提の我ら凡夫が法華経を信じようとすることは、仏性を顕すための前兆である。 ゆえに妙楽大師は「衆生の無明の生命の内から真如が薫習しなければ、どうして悟りを生じることができようか。このことから、悟りを生じる力は真如にあることが明らかである。ゆえに冥薫を外護の知識とするのである」と述べている。 法華経より以外の四十余年の爾前の諸経には十界互具を説いていない。十界互具を説かなければ衆生の内心の仏界を知らない。衆生の内心の仏界を知らなければ外の諸仏も顕れない。 ゆえに四十余年の爾前権教を修行する者は仏は見ない。たとえ仏を見たとしても他仏を見ているのである。爾前の菩薩もまた自身の十界互具を見ないので二乗界の成仏を見ない。ゆえに「衆生の無辺なるを度せんと誓願す」の願も満足しない。ゆえに菩薩も仏を見ない。凡夫もまた十界互具を知らないゆえに、自身の仏界も顕れない。2024/05/15 11:05:18176.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO ゆえに阿弥陀如来の来迎ももなく、諸の仏・如来の加護もない。たとえば盲人が自身の影を見ないようなものである。 今,法華経に至って九界の内にある仏界を開くゆえに、四十余年の爾前経の菩薩・二乗・六道の凡夫が初めて自身の仏界を見るのである。 この時、この人の前に初めて仏・菩薩・二乗が立てられる。この時に二乗・菩薩が初めて成仏し凡夫も初めて往生する。このゆえに在世・滅後の一切衆生の真の善知識は法華経なのである。2024/05/15 11:05:34177.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO『諸法実相抄』のされば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」の一節は、前文の「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ」を受けたもので、「妙法蓮華経」こそ体の三身であり、本仏であると仰せです。2024/05/15 11:06:48178.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOではその「妙法蓮華経」の三身とは何かと言いますと、 曼荼羅御本尊 ---応身---仮諦 法華経 ---報身---空諦 南無妙法蓮華経 ---法身---中諦となります。2024/05/15 11:07:11179.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOこれは次に示す三因仏性でもあります。 曼荼羅御本尊 ---縁因仏性 法華経 ---了因仏性 南無妙法蓮華経 ---正因仏性2024/05/15 11:07:33180.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOこの三因仏性を〝因〟として凡夫が縁起を起こす(具体的には勤行・唱題)と現実の実在の世界の中で不思議な現象が起こります。それが不思議解脱という現象(因果の〝果〟)です。2024/05/15 11:07:54181.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO不思議解脱は三種あります。三種の不思議な解脱が現実の世界の中で起こります。それが方便の解脱・実慧の解脱・真性の三つの解脱です。2024/05/15 11:08:11182.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO方便の解脱とは、前五識が声聞の智慧によって成所作智へ転識します。<仏意の五重玄>諸仏の内証に五眼の体を具する 妙=仏眼:第九識は法界体性智 法=法眼:第八識は大円鏡智 蓮=慧眼:第七識は平等性智 華=天眼:第六識は妙観察智 経=肉眼:前の五識は成所作智(←ここ)2024/05/15 11:08:26183.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO「声聞の智慧」とは実体に即した真理、即ち「此縁性縁起」です。今まで「有る無し」の外道の見解で見ていた対象をそのモノがそのモノと成り得た因果で対象を捉える意識に変わります。2024/05/15 11:08:53184.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO例えば、職場でいつも自分に嫌がらせばかりしてくる嫌な先輩が居たとしましょう。今までは「この先輩なんて意地悪なんだろー」と思って嫌っていました。この見方が普通の見方(仮観)です。2024/05/15 11:09:23185.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOその先輩のことで仕事に行くのが嫌になるくらい悩まされていたところ御本尊に勤行・唱題する中で(仕事が楽しく出来るようになりますように、、、)と心の中で御祈念すます。すると不思議な出来事が起こります。2024/05/15 11:09:36186.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOたまたまその先輩の両親とが一緒にいるところを見かけます。父親はその先輩に暴力を振るい母親も先輩に罵声をあびせて見ていて可哀そうなくらい先輩が両親から酷いめにあっているのです。2024/05/15 11:09:50187.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOそれをみて思いました。(ああー、こういう家庭環境で先輩は育ってこられたんだぁ。)そう思うと自身がこれまでされてきた事もスーと消えていき逆に先輩が可哀そうで仕方なく思えてきました。2024/05/15 11:10:06188.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOそういう現象が本当に起こるんです。だから不思議解脱っていうんでしょう。2024/05/15 11:10:24189.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOこの例えは、方便の解脱です。方便というのは前五識が造り出す実在の世界観の中での苦しみ(煩悩)からの解脱という意味です。2024/05/15 11:10:39190.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO次に実慧の解脱は、第六識が「縁覚の智慧」によって「妙観察智」へと転識します。<仏意の五重玄>諸仏の内証に五眼の体を具する 妙=仏眼:第九識は法界体性智 法=法眼:第八識は大円鏡智 蓮=慧眼:第七識は平等性智 華=天眼:第六識は妙観察智(←ここ) 経=肉眼:前の五識は成所作智2024/05/15 11:10:57191.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO「縁覚の智慧」とは通教で説き明かされた「相依性縁起」です。これを覚ると世の中に絶対的な正しさなんて存在し得ない、ことを理解します。2024/05/15 11:11:12192.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOこの宗教板において、絶えず自身の「正しさ」を振りかざし論争を仕掛けてくる輩が沢山おられます。2024/05/15 11:11:35193.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOそういった人達はこの「相依性縁起」を全く覚れていない訳です。2024/05/15 11:12:01194.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO日蓮正宗や創価学会が醜い程に言い争ってきたのも、互いに「相依性縁起」を覚れていないからです。というか「空」や「無我・無自性」を詳しく教えられておりませんので「薫習」が出来ていないんですね。2024/05/15 11:12:18195.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOこの相依性縁起は心の変化で起こる縁起です。凡夫の第六意識で起こる縁起と成ります。先ほどの方便の解脱が現実の実体の出来事として起こる縁起なのに対し、こちらは智慧によって悩みや苦しみから解脱しますので実慧の解脱となります。2024/05/15 11:14:04196.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOこれはお題目をあげてる時に良く起こります。(ああー、こういう事を自分が教えられているんだなー)って感じで意識の変化が心の中で起こります。2024/05/15 11:14:16197.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO外に向いてた視野が内側(自身のあり様)に向き出す感じです。2024/05/15 11:14:28198.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOそれによって自身の愚かさを自覚し反省するに至ります。反省なき人に成長はあり得ません。2024/05/15 11:14:43199.ナナシズムglPQoほーかいくん〜😄2024/05/15 19:11:03200.法介◆T3azX0Hk1U5NZks早よ来い2024/11/13 02:10:55201.法介◆T3azX0Hk1U5NZks行かん俺はもう寝る2024/11/13 03:29:55
【埼玉栄高校】涙ぐむ人…高2死亡、窓から身を乗り出して車が横転 深夜グラウンドで 高校が説明会、保護者「ずさんであり得ない」 頭を下げてあいさつし、真面目な生徒が多い学校「いたたまれない」ニュース速報+5161596.32024/11/21 18:22:44
「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし」と
「仏は用の三身にして迹仏なり」とあります通り、
「凡夫の三身」と「仏の三身」とがそれぞれあります。
ここから↓へ続く。
だな。
体の仏と用の仏 (Talk板パート24の続き)
https://zawazawa.jp/bison/topic/21
停止させることで煩悩が止滅する。
1つ目で、遍計所執性の幻が捨てられ、
2つ目から4つ目で、依他起性が深められ、
5つ目で円成実性だけが現れます。
といった内容です。
それまでの二乗に対して説かれた諸行法とは内容(瞑想法)が異なります。
「わたし達は既に瞑想を習得しています。
今更、別の修行法など興味ありません!」
といって5000人の阿羅漢達が席を立って聞かないまま去って行きます。
だから、二乗は成仏出来ないと言われたんです。
日蓮さんが顕された「曼荼羅御本尊」を祭っている家ってことです。
興味がない人は去って行かれて結構ですし、興味がある方はつたない私のお話ですがそれでも少しでも法華経の心に触れることが出来ればとの思いでお話しております。
何に縁していくかが大事なんです。
しかし、心美しき料理人に縁すれば、それで人を喜ばせる素晴らしい料理をこしらえます。
(現代語訳で)
摩訶止観巻一に「あるいは知識に従い、あるいは経巻に従い、前に説くところの一乗真実の菩提を聞く」とある。この文の意味は、経巻をもって善知識とすることである。 法華経普賢菩薩勧発品第二十八に「もし法華経を閻浮提に行じ受持する者は、皆これは普賢菩薩の優れた神通の力である、と考えなさい」とある。この文の意味は、末法の代の凡夫が法華経を信じるのは普賢菩薩という善知識の力である、ということである。また同品に「もしこの法華経を受持し、読誦し、正しく憶念し、修習し、書写する者は、まさに知りなさい。この人はそのまま釈迦牟尼仏を見るのである。仏の口からこの経典を聞くようなものである。まさに知りなさい。この人は釈迦牟尼仏を供養しているのである」とある。この文を見るに、法華経は即ち釈迦牟尼仏である。法華経を信じない人の前には、釈迦牟尼仏は入滅されているが、この経を信じる者の前には、仏の滅後であっても仏の在世なのである。
たとえ仏・菩薩であっても法華経・涅槃経に依らない仏・菩薩は善知識ではない。まして法華経・涅槃経に依らない論師・訳者・人師はなおさらである。
「智に依る」とは仏の智慧に依れということである。「識に依らざれ」とは等覚の菩薩以下の識に依ってはならないということである。今の時代の出家・在家が源空の謗法を隠そうとするために、その徳を天下に言いふらし、勢至菩薩の権化であると言っているが信用できない。
外道は、五神通力を得て山を傾け海を干すとしても、神通力のない阿含経の凡夫に劣っている。小乗の阿羅漢を得て六神通を現す二乗は、華厳・方等・般若の凡の権大乗の凡夫に劣っている。
華厳・方等・般若の権大乗の等覚の菩薩も、法華経の名字即・観行即の凡夫に劣っている。たとえ神通力・智慧があっても権教の善知識を用いてはいけない。
ゆえに妙楽大師は「衆生の無明の生命の内から真如が薫習しなければ、どうして悟りを生じることができようか。このことから、悟りを生じる力は真如にあることが明らかである。ゆえに冥薫を外護の知識とするのである」と述べている。
法華経より以外の四十余年の爾前の諸経には十界互具を説いていない。十界互具を説かなければ衆生の内心の仏界を知らない。衆生の内心の仏界を知らなければ外の諸仏も顕れない。
ゆえに四十余年の爾前権教を修行する者は仏は見ない。たとえ仏を見たとしても他仏を見ているのである。爾前の菩薩もまた自身の十界互具を見ないので二乗界の成仏を見ない。ゆえに「衆生の無辺なるを度せんと誓願す」の願も満足しない。ゆえに菩薩も仏を見ない。凡夫もまた十界互具を知らないゆえに、自身の仏界も顕れない。
今,法華経に至って九界の内にある仏界を開くゆえに、四十余年の爾前経の菩薩・二乗・六道の凡夫が初めて自身の仏界を見るのである。
この時、この人の前に初めて仏・菩薩・二乗が立てられる。この時に二乗・菩薩が初めて成仏し凡夫も初めて往生する。このゆえに在世・滅後の一切衆生の真の善知識は法華経なのである。
されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり
「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」の一節は、前文の「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ」を受けたもので、「妙法蓮華経」こそ体の三身であり、本仏であると仰せです。
曼荼羅御本尊 ---応身---仮諦
法華経 ---報身---空諦
南無妙法蓮華経 ---法身---中諦
となります。
曼荼羅御本尊 ---縁因仏性
法華経 ---了因仏性
南無妙法蓮華経 ---正因仏性
それが不思議解脱という現象(因果の〝果〟)です。
三種の不思議な解脱が現実の世界の中で起こります。
それが方便の解脱・実慧の解脱・真性の三つの解脱です。
<仏意の五重玄>諸仏の内証に五眼の体を具する
妙=仏眼:第九識は法界体性智
法=法眼:第八識は大円鏡智
蓮=慧眼:第七識は平等性智
華=天眼:第六識は妙観察智
経=肉眼:前の五識は成所作智(←ここ)
今までは「この先輩なんて意地悪なんだろー」と思って嫌っていました。
この見方が普通の見方(仮観)です。
すると不思議な出来事が起こります。
(ああー、こういう家庭環境で先輩は育ってこられたんだぁ。)
そう思うと自身がこれまでされてきた事もスーと消えていき逆に先輩が可哀そうで仕方なく思えてきました。
だから不思議解脱っていうんでしょう。
<仏意の五重玄>諸仏の内証に五眼の体を具する
妙=仏眼:第九識は法界体性智
法=法眼:第八識は大円鏡智
蓮=慧眼:第七識は平等性智
華=天眼:第六識は妙観察智(←ここ)
経=肉眼:前の五識は成所作智
これを覚ると世の中に絶対的な正しさなんて存在し得ない、ことを理解します。
(ああー、こういう事を自分が教えられているんだなー)
って感じで意識の変化が心の中で起こります。
反省なき人に成長はあり得ません。
😄
俺はもう寝る