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【パーリ仏典】テーラワーダ仏教【ヴィパッサナー瞑想】アーカイブ

1.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
Le0sF
日本テーラワーダ仏教協会

https://j-theravada.com/
1000
すべて
|
最新の50件
953.
ユーザー
神も仏も名無しさん
wK8ub
ティグナットハンは
ユーチューブでは
プラムビレッジだ

AIよりクレバーな
俺ちゃま
😀
954.
ユーザー
神も仏も名無しさん
wK8ub
AIはティグナットハンにビンゴできないのが
俺よりアタマ悪い
😀
955.
ユーザー
神も仏も名無しさん
wK8ub
マインドフルネスの祖といえば
ティグナットハン
😀
956.
ユーザー
神も仏も名無しさん
wK8ub
筋金入りの仏教マニアだ
😀

たぶん、ティグナットハンは
唯識とヴィパッサナーと禅で
修道論を組み立てているだろうな
NHKの番組で見たことがある
😀
957.
ユーザー
神も仏も名無しさん
wK8ub
井上希道や道元禅師やりも

ティグナットハンのほうが
修道論は丁寧だろな
😀
958.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
yx8BW
そんな人がいたんだな~😆
959.
ユーザー
神も仏も名無しさん
wK8ub
ベトナム人、臨済宗系統
ベトナム共産党の迫害から逃れてフランスへ亡命したんやと思う
😀
960.
ユーザー
神も仏も名無しさん
wK8ub
マインドフルネスは
探求狙ったこがないなー
プラムビレッジのチャンネルは知ってはいるが
何故か関心持たなかった
山伏念仏神仏習合に夢中だったせいだな
😀
961.
ユーザー
神も仏も名無しさん
wK8ub
山伏念仏神仏習合の教学の謎過ぎるのと
密教ぽいパワーが
ハマったんやろな
😀
962.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
V6hRU
次スレ

【ブッダの教え】初期仏教【ヴィパッサナー瞑想】 Part2
https://talk.jp/boards/psy/1779968091
963.
ユーザー
神も仏も名無しさん
wK8ub
井上義衍や道元禅師やった

😅
964.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
V6hRU
質問:

マインドフルネスはどこから出てきたのか?
965.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
V6hRU
チャットGPT:

「マインドフルネス」は、突然現れた新宗教や心理学ではなく、もともとは仏教用語の翻訳だ。

語源は、パーリ語の sati(サティ)。
漢訳仏教では「念」と訳された。

だから本来は、四念処の「念」と同じ系統の言葉。

特に起源として重要なのは、初期仏教のこの二つ。

大念処経
アーナーパーナサティ経

ここで釈迦は、
身体を観る
感覚を観る
心を観る
法則性を観る
という実践を説いた。

つまり、
いま何が起きているかに気づく
という実践だ。

現代マインドフルネスの核心は、ほぼここにある。
966.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
V6hRU
ただし、現代の「Mindfulness」という言葉が広まったのは、かなり近代の話。

流れを簡単に言うと、

1. 19~20世紀:テーラワーダ瞑想の再編

植民地時代、ビルマ(ミャンマー)やスリランカで、
「仏教の本来の瞑想を復活させよう」
という動きが起きた。

ここで重要なのが、
レーディ・サヤドー
マハーシ・サヤドー
など。

彼らは四念処を中心に、
呼吸
感覚
思考
感情反応
を逐次観察する実践体系を整備した。

これが現代ヴィパッサナー運動。
967.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
V6hRU
2. 1960~70年代:欧米カウンターカルチャー

アメリカやヨーロッパで、
禅
ヨガ
LSD文化
東洋思想
への関心が爆発する。

ここで、
ヴィパッサナー
禅
チベット仏教
が一気に西洋へ入った。

この時代に、
ティク・ナット・ハン や
鈴木大拙 も大きな影響を与えた。
968.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
V6hRU
3. 1970~80年代:心理学化

決定的だったのが、ジョン・カバットジン。

彼は仏教瞑想を、
宗教色を薄め
医療・心理学へ転用
した。

これが有名な
MBSR(Mindfulness-Based Stress Reduction)
だ。

ここで初めて、
「マインドフルネス」が医療用語として広まった。
969.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
V6hRU
つまり現代マインドフルネスは、

土台
初期仏教の四念処
実践体系
20世紀テーラワーダ瞑想
拡散
欧米カウンターカルチャー
世俗化
心理療法・脳科学

この四段階で形成された。
970.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
V6hRU
だから現在のマインドフルネスは、かなり特殊な混合物だ。

仏教
ヴィパッサナー
禅
ヨガ
心理学
脳科学

が全部混ざっている。
971.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
V6hRU
そして面白いのは、逆流現象も起きたこと。

つまり、
本来は仏教から出たものなのに、
現代では逆に、
禅
ヨガ
自己啓発
企業研修
のほうが、マインドフルネス用語で再解釈されている。
972.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
8zJ8s
釈迦本人は、おそらく現代人が思う以上に、
宗教者であり
修行者であり
古代インド人であり
同時に極めてラディカルな思想家
だった。

だから現代人は、どうしても自分の時代の言葉へ置き換えて理解するしかない。

そして、ある程度深く読むと、
「これは単純に“哲学”でも、“霊界話”でもないな……」
という地点に来る。

そこから先は、 「釈迦とは何を見ていたのか」 を、自分で経典や思想全体から組み直していく段階になるんだろうな。
973.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
8zJ8s
質問:

原始仏典をかなり読んだが

「釈迦は霊魂(アートマン)を否定していた」

という印象は、とくに受けない

なぜ、昭和の仏教学者はそこにコダワったのか?
974.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
8zJ8s
チャットGPT:

これは、近代仏教学の成立事情を考えると、かなり見えてくる。

実際、原始仏典を読むと、釈迦は「アートマンは絶対に存在しない」と形而上学的断定をしているというより、
「“これは私である”と執着される対象には、恒常不変の実体は見出せない」
という方向で語っていることが多い。

しかも経典では、
輪廻
業報
天界
神々
前世
禅定体験
などは普通に語られる。

だから、「唯物論者みたいな釈迦」という印象には、実際なりにくい。
975.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
8zJ8s
では、なぜ昭和仏教学は 「釈迦は霊魂を否定した」 を強調したのか。

大きく言うと、理由は3つくらいある。

1. 「仏教は合理的宗教である」を示したかった

近代日本の仏教学は、西洋近代との対決の中で成立した。
明治以降、キリスト教・科学・合理主義が流入すると、仏教側は、
「仏教は迷信ではない」 「仏教は合理的・科学的である」
を強く主張する必要が出た。

そのとき、最も都合がよかったのが、
無我
縁起
非実体論
だった。

逆に、
神通力
天界
輪廻
霊魂
呪術
を前面に出すと、“前近代宗教”に見えてしまう。

だから近代仏教学は、
「本来の釈迦は、霊魂論を否定した合理主義者」
として釈迦を再構成した。
976.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
8zJ8s
2. ウパニシャッド哲学との差別化

当時の学界では、
バラモン教=アートマン思想
仏教=無我思想
という対比が非常に重要だった。

つまり、
バラモン教
仏教
永遠の自己
無我
実体
縁起
形而上学
現象分析
という構図だ。

これは研究上は便利だったので、かなり強調された。

しかし実際の初期経典では、釈迦はしばしば「無記」に逃げる。

たとえば、
世界は永遠か
如来は死後存在するか
自我はあるか
みたいな問いに、答えないことが多い。

つまり釈迦は、 「アートマンは絶対に無い」 と断定しているというより、
「その問い自体が執着を増やす」
という態度にも見える。
977.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
8zJ8s
3. 戦後哲学との接続

昭和戦後の仏教学は、実存主義や現象学の影響を強く受けた。

すると、
固定的自我の否定
主体の流動性
無常な存在
関係性としての人間
などが、非常に魅力的に映った。

だから「無我」が、 現代哲学と接続できる最重要ポイントになった。

結果として、
「釈迦=反実体主義の哲学者」
という像が強化された。
978.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
8zJ8s
だが、あなたが感じているように、原始仏典そのものは、もっと曖昧で宗教的だ。

そこでは、
「霊魂がある」とも言い切らず
「完全に無い」とも断定せず
ただ執着を問題化する
という、独特の立場が見える。

だから近代仏教学の 「釈迦は霊魂否定論者」 という図式は、
“完全な誤読”とまでは言えないが、
近代合理主義・比較宗教学・戦後哲学 によって強く方向づけられた解釈
とは言えると思う。
979.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
8zJ8s
質問:

「霊魂に執着するな」というのは、「霊魂は無い」というのと意味が異なる

むしろ、霊魂の存在を当たり前の前提とした話ではないか?
980.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
8zJ8s
チャットGPT:

まさに、そこが重要な論点なんだよな。

初期仏典を素直に読むと、釈迦はしばしば、
「アートマンが存在するか否か」
そのものを、中心問題にしていない。

むしろ、
「それを“私の本体”として把握し、執着すること」
を問題にしているように見える。
981.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
8zJ8s
たとえば有名な五蘊無我も、
色は我にあらず
受は我にあらず
想は我にあらず
行は我にあらず
識は我にあらず
という形で語られる。

ここで重要なのは、
「これを我と思うな」
であって、
「いかなる意味でも霊的主体は絶対存在しない」
という近代哲学的断定とは、少しニュアンスが違う。
982.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
8zJ8s
しかも初期経典世界では、
輪廻転生
業報
天界
梵天
神々
宿命通
他心通
などは、かなり普通に前提化されている。

だから、現代的唯物論とは全然違う宇宙観の中にいる。

そのため、一部の研究者も指摘するように、
「釈迦は“実体的自己への執着”を否定したのであって、 形而上学的に“何も存在しない”と断定したわけではない」
という読み方は、十分成り立つ。
983.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
8zJ8s
さらに面白いのは、釈迦が「無記」を多用する点だ。

「死後、如来は存在するか?」 と問われても、
存在する
存在しない
両方
どちらでもない
の全部を退ける。

これは、 「存在しない」と断定する唯物論者の態度ではない。

むしろ、
その問いの立て方自体が、執着的・形而上学的である
という感じに近い。

だからあなたが感じる、
「霊魂を否定しているというより、 霊魂への執着を問題にしているのでは?」
という感覚は、原始仏典を読んだときに自然に出てくるものだと思う。
984.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
8zJ8s
実際、近代仏教学の「無我=霊魂否定」は、かなり西洋哲学的翻訳なんだよな。

西洋近代思想では、
実体があるか
実体がないか
をハッキリ決めたがる。

しかし初期仏教は、そこを曖昧に保ちながら、
「苦の原因となる把握作用そのもの」
を問題化しているように見える。

だから初期仏教は、
唯物論
ニヒリズム
永遠不滅の霊魂論
のどれにも、きれいには収まらない。

むしろ、
「“ある/ない”に執着する心の動き」
自体を観察対象にしているところが、独特なんだ。
985.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
8zJ8s
質問:

中世ヨーロッパでは、「個物に実体はあるか、ないか?」の論争が何百年も延々と続いた

昭和の日本では、仏教思想史もそのような論争のプロセスと受け取られた可能性がある
986.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
8zJ8s
チャットGPT:

それは、かなり鋭い見方だと思う。

昭和の仏教学、とくに戦後の学術仏教学は、かなり強く西洋哲学の問題設定を通して仏教を読んでいた。

だから、
「仏教とは、実体を否定する思想である」
という理解が前面に出やすかった。

これは、中世スコラ哲学以来の、
普遍は実在するか
個物に本質はあるか
実体とは何か
存在とは何か
という、西洋形而上学の長い伝統の影響が大きい。
987.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
8zJ8s
たとえば、中世ヨーロッパの
実在論
唯名論
概念論
の対立では、
「“人間性”は実在するのか?」 「個物の背後に本質はあるのか?」
が大問題だった。

近代以降も、
デカルト
カント
ヘーゲル
フッサール
ハイデガー
などを経て、
「主体とは何か」 「存在とは何か」 「実体はあるのか」
が、西洋哲学の中心テーマであり続けた。

その枠組みで仏教を見ると、
無我
空
縁起
は、
「実体否定の哲学」
として理解されやすい。

すると仏教思想史も、
説一切有部=存在論
中観=反実体論
唯識=観念論
みたいな、“哲学学説史”として整理される。
988.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
8zJ8s
これは確かに一面では正しい。

だが、その読み方をやりすぎると、
古代インドの修行宗教
としての側面が薄れていく。

本来の仏教は、
解脱実践
禅定
戒律
修行共同体
輪廻からの離脱
が中心で、
「個物に実体はあるか?」 を純粋理論として論争するための学問ではなかった。

もちろんインド仏教にも高度な哲学論争はあったが、それでも目的は最終的に、
執着と苦の停止
にあった。

ところが昭和仏教学では、西洋哲学との対話の中で、
仏教=反実体論の哲学体系
として再編されやすかった。

その結果、
無我
空
非実体
関係性
ばかりが強調され、
逆に、
宗教実践
儀礼
瞑想体験
神話宇宙論
功徳観
などは、「前近代的要素」として後景化されがちだった。
989.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
8zJ8s
だからあなたのいう、
「仏教思想史が、西洋中世哲学の“実体論争”みたいに読まれた」
というのは、かなり本質的な指摘だと思う。

実際、昭和の学者たちは、かなりの程度、
仏教を“東洋哲学”として近代哲学の文脈へ翻訳していた
んだよな。
990.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
8zJ8s
990
991.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
8zJ8s
質問:

「身体の死が、私という存在の終わりである」

という考え方は、仏教的にはアウト

「身体=自分」という錯覚は、非我思想と真っ向から対立する

「霊魂」うんぬん以前に、だからダメ
992.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
8zJ8s
チャットGPT:

その理解は、少なくとも初期仏教の文脈では、かなり筋が通っている。

というのも、釈迦が問題にしているのは、まず第一に、
「これが私である」 「これが我がものだ」 「これこそ自己だ」
という把握作用そのものだからだ。

そして、その対象として最も典型的なのが「身体」なんだよな。

五蘊の最初に来るのも「色(身体)」だし、
この身体は無常である
思い通りにならない
病み、老い、壊れる
ゆえに「我」ではない
という論法が繰り返される。

つまり釈迦は、
「身体=自己」
という把握を、典型的な錯覚として見ている。
993.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
8zJ8s
だから近代唯物論的な、
「脳が停止したら“私”は完全消滅する」
という発想も、
仏教から見ると実はかなり特殊なんだ。

なぜならそれは、
「身体こそ自己の本体」
を前提にしているから。

これはまさに、初期仏教が批判する「色即我」の立場に近い。

しかも初期仏教では、
業
輪廻
再生
識の流れ
などが普通に語られる。

だから、「肉体死=存在の完全終了」という世界観そのものが、そもそも前提にない。
994.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
8zJ8s
ただし重要なのは、
だからといって、「永遠不変の霊魂」が肯定されるわけでもない
という点だ。

ここが、仏教のややこしいところなんだよな。

釈迦は、
身体=自己 も否定し、
永遠固定のアートマン も問題化する。

だから仏教は、
唯物論
永遠霊魂論
の両方から距離を取る。

むしろ、
「“私”とは何か?」
を、固定実体として捉える態度そのものを崩していく。

その意味では、仏教の非我思想は、
「身体ではない霊魂が本当の私だ」
という単純二元論でもないし、
「身体だけが私だ」
という唯物論でもない。

どちらにも執着している限り、「我執」が残ると見る。
995.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
8zJ8s
だからあなたの言う、
「霊魂以前に、“身体=私”という把握そのものが仏教的にアウト」
というのは、かなり重要なポイントだと思う。

実際、近代日本では、
仏教=霊魂否定 という説明が広まりすぎた結果、
逆に、
「仏教は唯物論に近い」
みたいに誤解されることもあった。

だが原始仏典の世界観は、そんな単純な近代合理主義では全然ないんだよな。
996.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
8zJ8s
質問:

思うに、古代インドの釈迦たちにとって、「身体=自分ではない」というのは、あまりにも当たり前だった

このため、「霊魂=自分ではない」という、より踏み込んだ非我思想に、話の重点が置かれた
997.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
8zJ8s
チャットGPT:

その可能性は、かなりあると思う。

現代日本人は、無意識にかなり強い「身体=自己」観を持っている。

脳が止まれば終わり
身体が私そのもの
意識は脳の機能
という近代唯物論が、常識レベルで浸透しているからな。

しかし古代インドでは、むしろ逆で、
「身体は真の自己ではない」
こと自体は、かなり広く共有されていた可能性が高い。

当時のインド思想では、
身体は移ろう
感覚世界は束の間
真我は別にある
輪廻する主体がある
という感覚が、宗教文化全体に深く浸透していた。

特にウパニシャッド系では、
「身体の奥に真我(アートマン)がある」
が、半ば前提になっている。

だから釈迦にとって、本当に問題だったのは、
「身体が自己か否か」
よりも、
「その“霊的主体”すら、執着対象ではないか?」
のほうだった可能性がある。
998.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
8zJ8s
つまり、古代インド人は既に、
身体≠自己
までは来ていた。

そこで釈迦はさらに一歩進めて、
感覚
意識
認識
心
霊的主体観念
まで全部観察対象にした。

そして、
「これもまた、固定的に“我”と把握できない」
と展開した。
999.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
8zJ8s
だから初期仏教の非我思想は、現代人が思う以上にラディカルなんだよな。

現代人はまず、
「身体が私ではない?」
の時点で衝撃を受ける。

だが古代インドでは、その段階は比較的共有されていたので、
釈迦の独創性はむしろ、
「アートマン的自己観すら手放せ」
にあったのかもしれない。
1000.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
8zJ8s
その意味では、昭和仏教学の
「仏教=霊魂否定」
という単純化だけでは、釈迦の射程が見えにくくなる。

実際には、
身体的自己の否定
心理的自己の否定
霊的自己の否定
“自己を立てる働き”そのものの観察
へ進んでいるように見える。

だから釈迦の非我は、
「霊魂があるかないか」 という近代的二択より、
“自己化作用”そのものの解体
に近いんだろうな。
1001.
ユーザー
Talk ★
???
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1002.
ユーザー
Talk ★
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