「存在するとは知覚されることである(Esse est percipi)」は、哲学者ジョージ・バークリーの主観的観念論の中心原理で、物事の存在はそれが誰かの心によって知覚(見たり、聞いたり、触れたりすること)されている場合に限られる、という考え方です。つまり、私たちが「物質的な実体」として認識している机やリンゴなどは、色や形といった観念(アイデア)の束に過ぎず、それらを認識する「心(精神)」がなければ、それらの観念も存在し得ない、という主張で、現実世界そのものの存在を否定するのではなく、その存在を「知覚に依存する」とした点が重要です。
高野山の聖地「奥之院」に秘められた空海の思いとは?高野山大学副学長が解説する奥之院https://www.youtube.com/watch?v=SvHOcAIPJYg
それは良さそうだな?
具体的に、仏が出た場面は、確認できなかったですね。
玄奘三蔵のインドの記録にはある
聖地で現れたらしい
😆
初期の般若心経は
五蘊皆空
空の六相
マントラ
だけだそうだ。まぁ金剛般若経に空という言葉を当てはめただけだとも思える。
まぁ、これは少々調べる価値がある🤔
空の六相 私が思うに、今だろうということである。
速くもなく、遅くもなく。ブッタも言っている。それの延長線のように感じる。
個々にかかれていることは、表層的なことである。もう少し、調べる価値がある。
論文を上げていかなけらば、なかなか納得するものでもない。
觀世音菩薩。行深般若波羅蜜時。照見五陰空。度一切苦厄。舍利弗色空故無惱壞相。受空故無受相。想空故無知相。行空故無作相。識空故無覺相。何以故。舍利弗非色異空。非空異色。色即是空。空即是色。受想行識亦如是。舍利弗是諸法空相。不生不滅。不垢不淨。不增不減。是空法。非過去非未來非現在。是故空中。無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。無眼界乃至無意識界。無無明亦無無明盡。乃至無老死無老死盡。無苦集滅道。無智亦無得。以無所得故。菩薩依般若波羅蜜故。心無罜礙。無罜礙故無有恐怖。離一切顛倒夢想苦惱。究竟涅槃。三世諸佛依般若波羅蜜故。得阿耨多羅三藐三菩提。故知般若波羅蜜是大明咒。無上明咒。無等等明咒。能除一切苦真實不虛故說般若波羅蜜咒即說咒曰
竭帝竭帝 波羅竭帝 波羅僧竭帝 菩提僧莎呵摩訶般若波羅蜜大明咒經
殆ど玄奘訳と同じ。非過去非未來非現在。これはないな。これを見ると、金剛般若経を思い出す。
つまりあまりにも玄奘訳に近い。羅什は、どちらかというと、般若思想の人である。綿密に名詞を出して、ないないはやらないだろうということみたいだ。
これは異本じゃないかということみたいだ。まぁ、もう少し調べてみたい。
羅什の時代の唯識は「萌芽段階」でもある。
腕疲れた😆
明日の仕事のための
ウォーミングアップどころよりも
キツかつた
😆
佐々木閑 仏教講義 11「唯識 その1」(「仏教哲学の世界観」第14シリーズ)
https://www.youtube.com/watch?v=vt77hn4zy4w
「阿含経」で生きる人、「般若心経」で生きる人(佐々木閑の仏教講義 特別編 その2https://www.youtube.com/watch?v=-nH7Rewh-Bw
空という信仰で生きる。空というのものも神秘性なのだろう。さらに神秘性とともに生きる。まぁこれで汎用性が生まれた。お釈迦様の作り上げたものは、合理的であったのだろう。空の上位と言えば、まぁ、仏の空間的広がりで在ろう。
あくまでも、十八界・十二因縁・四諦の否定 アビダルマの否定であった。
> バークリー、ヒュームの西洋哲学の流れにおいては、先に知覚対象としての物の実体性が否定され、そのあとで我の実体性が否定されたが、仏教において先に阿含、ニカーヤにおいて我の実体性が否定され、その後大乗仏教において物の実体性が否定された。
さすがは、佐々木閑先生
西洋哲学もよく知ってるな~😆
個人的に、大きな影響を受けた😅
という、イギリス経験論の三大哲学者の流れがあるのだが
ロックの世界観は倶舎論に似ている
バークリの世界観は唯識論に似ている~😆
> バークリー、ヒュームの西洋哲学の流れにおいては、先に知覚対象としての物の実体性が否定され
それは、バークリの「存在することは知覚されることである」理論を指していると思われる
観念論: 私たちが経験する世界は、心の中の観念(知覚されたイメージや感覚)の集まりである。
物質の実体否定: 観念の背後にある「物質」という実体は存在しない、と主張する。
「存在」の定義: あるものが「存在する」とは、それが「知覚される」こと、あるいは「知覚する心」として存在すること。
神の役割: 人間が知覚していない時でも世界が存続するのは、神が常に世界を観念として知覚しているからだと説明した(非物質主義的観念論)。
森の中の倒木: 誰もいない森で木が倒れても、もし誰もその音を聞いていなければ、その「音」は存在しない(音の観念は生じない)とバークリーは考えます。木が「存在」するのは、誰かが(神も含め)その木の色や形を「知覚」しているから、というわけです。
この考え方は、映画『マトリックス』のように、現実と仮想世界の境界を問い、知覚と存在の関係について深く考えさせるものです。
似て非なるものだ
仏教の影響を受けたらしいからなー
😆
ドイツ人のチベット潜入記みたいな本を
古本で買ったけど
最後のほうに謎のカルト密教集団の組織に入るとか、あったな、
途中で表にでない隠者の
空気の薄いチベット高山を高速であるく修行者とか
おもろかったな
2004年殺読んだ
😆
個人的に、西洋哲学史上で最も好きな人物😆
唯識論とか、「この世は仮想現実」理論に似ているからだ~😆
> バークリー、ヒュームの西洋哲学の流れにおいては、・・・そのあとで我の実体性が否定されたが
それは、ヒュームの「知覚の束」理論のことを言っていると思われる
印象(Impression)と観念(Idea): ヒュームは、人間が受け取る知覚を「印象」(鮮明な感覚)と「観念」(印象のコピー)に分け、これらが連続的に心に現れると考えました。
自我の実体否定: 私たちが「自分」と呼ぶものは、特定の単一の知覚ではなく、これらの印象と観念が高速で入れ替わり、束ねられて流動している状態に過ぎないと主張しました。まさに「知覚の束」です。
懐疑論の深化: われわれが当たり前だと思っている「因果関係」や「自分」といった概念も、単なる習慣や期待によって生じるもので、実体として存在すると証明できないと考え、徹底した懐疑論を展開しました。
影響: この「知覚の束」論は、後世の哲学者カントに大きな衝撃を与え、西洋哲学史において重要な概念となりました。
テレビの画面に映る「映像」のようなものです。一つの映像が固定されているのではなく、無数の点(画素)が素早く切り替わることで「動く映像」として認識されるように、人間の「自我」もまた、絶えず変化する知覚の集まり(束)である、というイメージです。
😆
似て非なるものだ
ゾーンとかあるからなー
テーラワーダは
😆
初期仏教のは、「仮の存在にすぎない我に対する執着を断って、解脱する」ことを目的としている
ヒュームのは、「我思う、ゆえに我あり」という、近代哲学の祖・デカルトに向けて異論を唱えたものだ
倶舎論は読めば、だいたい筋書きが解った
佐々木先生の動画のプラスアルファあったから仕上がっただけやけど
😆
> ホントに俺は 哲学は全くの無知に近いジャンルだな、栗本慎一郎?、ソシュール、メルロ・ポンティあたりしか読んでない
> 😆
それだけ読んでれば、かなりのものだが~😆
「五蘊仮和合」を体験として知るシステム
😆
> ニーチェ、ショーペンハウアーとかも
> 仏教の影響を受けたらしいからなー
> 😆
日本人よりもドイツ人のほうが、インド人ともともと考え方が似ているからな~
日本人は、「仏教を知ってるのは我々が東洋人だからだ。西洋人はこんなの知らんだろう」と思いがちだが、その考えは甘い~😂
自分という存在が、パチパチ点滅するのか~😆
だから真言宗は
テーラワーダの発想に一部先祖帰りしたな?
と
六大無碍だ
ハッスル🤡様が燃えているな?
悔しそうに
😆
ババジの動画です。
素晴らしいお姿に感動します‼️
https://i.imgur.com/DuaB6ea.jpeg
過去の空海言うなら今のスワミジにも参究すべし‼️
躁転しているのか?
👽
> スワミジは空海の転生者だよ
マジか~😵
マヤカシデンパパ📶
大爆発してたな?
NO1と共に
😆
それはどうでもいいんだ。
さて、老子と言えば、道可道、非常道 これだ。
この道を、法に変えると、法可法、非常法となる。
構文的には、即非のように見える。
となると、老子は勝義諦を語っているのかということにも見える。
まぁこんな考察をしている。相対もそうだけどね。