【唯識三年】仏教ウンチクを語るスレ 10【倶舎八年】最終更新 2025/11/17 14:371.◆JBLfMwCXhYtj1PM倶舎論、中論、唯識論難しい話はここで👍️前スレ【唯識三年】仏教ウンチクを語るスレ 9【倶舎八年】https://talk.jp/boards/psy/17457399432025/10/04 08:50:55331コメント欄へ移動すべて|最新の50件282.◆JBLfMwCXhYX4NtF中論は、アンチ倶舎論2025/10/26 18:56:51283.◆JBLfMwCXhYX4NtF倶舎論を知らないと、中論は分からない中論は、アンチ倶舎論だから2025/10/26 18:57:11284.◆JBLfMwCXhYX4NtF竜樹が、何をあんなにバッサバッサと斬りまくってるのか倶舎論を知らないと分かりませんな~2025/10/26 18:57:45285.◆JBLfMwCXhYhNAhu善いことをすれば、後で幸せになります2025/10/27 06:14:13286.◆JBLfMwCXhYhNAhu悪いことをすれば、後で苦しみます2025/10/27 06:14:35287.◆JBLfMwCXhYhNAhuこれは、善因楽果、悪因苦果と言われる2025/10/27 06:14:55288.◆JBLfMwCXhYhNAhu倶舎論でいう、異熟因 → 異熟果 である2025/10/27 06:15:22289.◆JBLfMwCXhYhNAhu善とか悪という原因から、幸・不幸という異質な結果が生じるのは何故か?そのメカニズムを解明する2025/10/27 06:16:50290.◆JBLfMwCXhYhNAhuちなみに、原因と結果が同じタイプなら、同類因 → 等流果 となる2025/10/27 06:17:16291.◆JBLfMwCXhYhNAhuこの異熟システムは、唯識論で解明された2025/10/27 06:18:06292.◆JBLfMwCXhYhNAhu唯識論における「異熟果(いじゅくか)」とは、過去の善悪の業(行い)によって、時を隔てて生じる結果のことです。これは「果報」とも訳され、現在の苦しみや楽しみなど、無記(善でも悪でもない)の出来事として現れます。つまり、私たちの現在の境遇は、過去の行いが「異熟」した結果であると説明する教えです。2025/10/27 06:18:31293.◆JBLfMwCXhYhNAhu業(行為)と異熟果の関係善業・悪業: 善い行いや悪い行いを積み重ねること。異熟: 善悪の業が時を経た後に、現在の私たちに「果報」として現れること。結果: 苦しみや楽しみ(楽)など、善悪の業とは無記(中立的)な結果として生じます。具体例: 現在の自分の境遇や運命が、過去の善い行いか悪い行いかの結果であると考えるのが「異熟果」の考え方です。2025/10/27 06:18:49294.◆JBLfMwCXhYhNAhu唯識論における位置づけ唯識論では「すべては心(識)が作り出したもの」と説きます。この「異熟果」も、心によって生み出された結果として位置づけられます。つまり、自分が今経験している出来事は、過去の心が生み出した「識」が、時を経て「異熟果」として現れたものだ、と解釈します。2025/10/27 06:19:18295.◆JBLfMwCXhYhNAhu清森義行のブログ異熟識とは?【唯識三十頌〖十九頌〗】🔷『唯識三十頌』の第十九頌「由諸業習気 二取習気倶 前異熟既尽 復生余異熟」「諸業の習気と 二取の習気と倶なるに由りて 前の異熟は既に尽くれば 復た余の異熟を生ず」2025/10/27 06:21:46296.◆JBLfMwCXhYhNAhu諸業の習気と、相対的な捉え方の習気とによって、前刹那の存在が消滅すると、次の生存がまた生じる。そのように生存の持続が限りなく続く。🔶第十七頌、第十八頌が、空間の中で、お互いにどういう関係を持っているか、識相互の関係の上に心識の構造を見たのに対して、🔶第十九頌では、時間の流れの中で、今日の自分が明日の自分にどう繋がるのか、という時間の流れの中に展開していく人間存在が示される。🔷阿頼耶識を異熟識とも言われ、三つ意味がある。異熟には、どんな意味があるのか?2025/10/27 06:22:24297.◆JBLfMwCXhYhNAhu異熟とは、阿頼耶識の別の表現です。異熟識には、次の三つの意味合いがあるので、第八識は異熟識と言われる。1️⃣変異熟 ➡️ 因が変化して果が熟す2️⃣異時熟 ➡️ 因と時間を異にして果が熟す3️⃣異類熟 ➡️ 因と性類を異にして果が熟す2025/10/27 06:23:56298.◆JBLfMwCXhYhNAhu🟨変異熟(へんいじゅく)とは、因が変化して果が熟す、ということは、阿頼耶識は変化してやまないものであることが前提になっている。🟨唯識は、全ては識が転変・変化したものであり、かつ、その転変の根源的主体が阿頼耶識であるという立場をとります。🟨この変化という事柄を考える場合に、私達は一般に、原因と結果という二つの概念で捉えざるを得ません。すなわち因が変化して、果というものが出てくる。これが変異熟の意味です。2025/10/27 06:24:18299.◆JBLfMwCXhYhNAhu🟦異時熟(いじじゅく)とは、因と時間を異にして果が熟す、ということで、過去世と現在世にわたる因果、あるいは現在世と未来世の二世にわたる因果関係を踏まえた変化そのものが、阿頼耶識だということです。🟩異類熟(いるいじゅく)とは、因と性類を異にして果が熟す、ということで、性類とは価値のことです。2025/10/27 06:24:51300.◆JBLfMwCXhYhNAhu🟩仏教には、善、悪、無記(むき)に分ける価値観があります。普通は善と悪の二つですが、そこに無記というものが加えられているのが、仏教の大きな特徴です。🟩無記とは、善でも悪でもない、中立、ニュートラルということです。私達は仏教的に言いますと、過去世の善業によって、六道輪廻のうち、人間界に生を受け、しかも人間としての阿頼耶識を持って生まれたものです。🟩しかし、阿頼耶識そのものは、無記であると考えられています。すなわち原因は、善あるいは悪であるけれども、結果は無記としてある、それが阿頼耶識である。これを、『因是善悪、果是無記(いんぜぜんまく、かぜむき)』と言われます。2025/10/27 06:25:21301.◆JBLfMwCXhYhNAhu🟩「異熟(いじゅく)識」とは、唯識が捉える八識の最も根本となる第八識の一つの名前であります。意味は「異類にして熟する識」という意味で「過去を背負える自己」を表します。🟩人は過去を切り捨てて、生きることは出来ません。生い立ちを離れて、今の私はないのです。人格の根底には、過去の種蒔きが全部収まっていますから、過去が生き続けて、その過去が現在として今に現れて、熟成しています。🟩現在の自己は、過去の集積だとも言えます。人は背負い込んだ過去の自己に基づいて、現在の自己を生み出し、自己の世界を変えていきます。2025/10/27 06:25:49302.◆JBLfMwCXhYhNAhu🟫阿頼耶識とは、異熟識とも言われます。阿頼耶(アラヤ)とは、インドの言葉で蔵という意味で、別名、蔵(ぞう.くら)識とも言う。🟫では、何故、蔵識と言われるのかと言いますと、阿頼耶識の中に自分が今まで行ってきたことが、業種子(ごうしゅうじ)という種になって収まっているからです。🟫この阿頼耶識の中に業種子が収まると、私たちの唯識に現れる世界に影響を与えます。2025/10/27 06:26:37303.◆JBLfMwCXhYhNAhuしかし、一つ業種子が収まっただけで、すぐに結果が唯識に現れる訳ではありませんが、同じような種が阿頼耶識の中に収まると、段々と心の中で成長して熟してゆくと、やがて、唯識の世界にハッキリと見えるようになります。たとえば、相手を責めるようなことばかり考えていると、相手から責められているように感じたり、相手を馬鹿にして見下していると、相手から馬鹿にされて見下されているように感じます。ウソをついたら、ウソをつかれているように感じたり、相手を見捨てたら、見捨てられるように感じたり、嫌ったら、嫌われるように感じます。2025/10/27 06:27:00304.◆JBLfMwCXhYhNAhuここで大事なことは、馬鹿にしたり、見下したりするのは、阿頼耶識の中に、すでに沢山の馬鹿にする業種子や、見下す業種子が収まっているからであって、もし、阿頼耶識の中に、そのような業種子が収まっていないとしたら、どんなに馬鹿にしたり、見下したりしようとしても、そんな気持ちは起きてきません。ですから、私たちが心で見ている世界は、日頃、私たちが心で思っていることであり、それがそのまま、唯識の世界で見えているのです。2025/10/27 06:27:18305.◆JBLfMwCXhYhNAhuしかし、私たちは心が無明で覆われている為に、自分の心で何を思っているのか気付いてはいません。だから、自惚れで、自分は良いことを思っているに違いないと、自分の都合の良いように考えているのです。しかし、どんなに都合良く考えていても、唯識に映る世界は自分の思いを、そのまま見せてくれるので、自分にとっては、こんな結果になるとは、とても信じられないような世界が唯識に映るのです。だから、私たちは、自分の思いが異なった形で現れるとしか感じられないので、阿頼耶識のことを自分の思いの種が異なった形で熟して現れる、という意味で、異熟識とも言われるのです。2025/10/27 06:27:46306.◆JBLfMwCXhYhNAhu善とか悪とかの種子が、末那識というジョウロを通して、阿頼耶識に注ぎ込まれる2025/10/27 06:32:57307.◆JBLfMwCXhYhNAhu阿頼耶識の中で、長い年月をかけて熟成される2025/10/27 06:33:14308.◆JBLfMwCXhYhNAhu熟成された種子は、無記になっている2025/10/27 06:33:33309.◆JBLfMwCXhYhNAhuワインが熟成されて、ブランデーになるようなものだ2025/10/27 06:33:54310.◆JBLfMwCXhYhNAhu種子を熟成する、異熟システムそれが、阿頼耶識だ2025/10/27 06:34:32311.◆JBLfMwCXhYhNAhuこのため、阿頼耶識は別名「異熟識」と呼ばれる2025/10/27 06:34:48312.◆JBLfMwCXhYBM4rF一元論(いちげんろん、英:monism、仏:monisme、独:Monismus)とは一つの実体から現実が成り立っていると主張する形而上学の諸学説を指した用語である。これに対応する反対の見解を示した学説に実在を二つに区別する二元論(dualism)や実在に対して数的な規定を行わない多元論(pluralism)がある。2025/10/27 22:32:27313.◆JBLfMwCXhYBM4rFあらゆる存在の原理を研究する形而上学において一元論はその原理を単一と規定してきた学説である。一元論の基本的な考え方は世界に見られる多種多様な実体の一般化を通じて統一的に世界を理解しようとするものである。同時に一元論の思考様式は因果性とも関連しており、多種多様であることの原因をも単一であるものと考える。バールーフ・デ・スピノザは二元論に対する批判を通じて古典的な一元論の議論を展開した哲学者である。スピノザの学説の中心にあったのは究極的な原因としての神を前提とする汎神論である。彼は自然に見られるさまざまな様相に神の諸属性を見出している。また人間の精神と身体を区分する心身二元論に対しても、どちらかが先立つものではなく、それらは同一のものの二つの側面であると考えていた。2025/10/27 22:33:20314.◆JBLfMwCXhYBM4rFこの一元論についてはスピノザ以外にはプラトン、ライプニッツ、ヘーゲル、ムーアなどが研究しており、東洋哲学ではヒンドゥー教(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)やヴィシシュタ・アドヴァイタ等)、ユダヤ教(特にカバラ思想)、キリスト教(特に東方諸教会、正教会、イングランド国教会)、イスラム教(スーフィズムの中の特にベクターシ派)の中には、一元論的な多神教や一元論的な汎神論を唱える流派がある。2025/10/27 22:33:49315.◆JBLfMwCXhYBM4rF一元論と、二元論2025/10/27 22:34:08316.◆JBLfMwCXhYBM4rF東洋でも、西洋でもさまざまに形を変えて繰り返される、永遠の論点だ2025/10/27 22:34:45317.◆JBLfMwCXhYBM4rF西洋哲学で、一元論と言ったら古代では、プロティノス近代では、スピノザが有名だ2025/10/27 22:35:44318.◆JBLfMwCXhYBM4rF仏教はどうなのかというと明らかに、一元論ではない2025/10/27 22:36:27319.◆JBLfMwCXhYBM4rF倶舎論がいい例だ五位七十五法は、世界の構成要素構成要素が、七十五もある典型的な多元論だ2025/10/27 22:38:42320.◆JBLfMwCXhYBM4rF「善なる神が創造した世界に、なぜ悪が存在するのか?」キリスト教における永遠のテーマだが、仏教にとっては無意味な問いだ仏教は、善悪二元論善でも悪でもない「無記」ってのもあるから、これだけでも三元論と言える2025/10/27 22:41:07321.◆JBLfMwCXhYBM4rF貪・瞋・癡・慢・疑を始めとする悪の構成要素も実在する五位七十五法に含まれている三世恒有だ2025/10/27 22:41:45322.◆JBLfMwCXhYBM4rF「精神と物質の二元論」、あるいは「心身二元論」というのも、デカルト以来、西洋哲学の定番だが仏教も心身二元論だ色(物質的存在)と心(精神的存在)が、それぞれに存在する2025/10/27 22:43:29323.◆JBLfMwCXhYBM4rF唯識論になると、圧倒的に「心」が主、「色」が従となりだいぶ一元論に近くなる2025/10/27 22:43:57324.神も仏も名無しさんODCXD西欧哲学サイドな趣向ですな〜俺なんかはソシュール的な捉えるけどな〜😆2025/11/08 17:11:48325.◆JBLfMwCXhY1aMs5言語哲学として捉えることも可能2025/11/08 17:58:26326.神も仏も名無しさんYyelN大本との相性で言えば西欧哲学のほうがウマが合うやろな😆2025/11/08 18:10:31327.神も仏も名無しさんYyelN既存のキリスト教神学は未だに謎が多いが神の正義という世界観があるという霊的な気づきがある😆2025/11/08 18:12:04328.◆JBLfMwCXhY23syj917 神も仏も名無しさん 2025/11/17(月) 11:59:00.29 ID:b33vi『倶舎論』における「無想定」とは、凡夫や外道が、心の活動が完全に停止した状態を誤って真の悟りだと信じて修める修行のことです。これは修行の誤った道であり、『倶舎論』が扱う「滅尽定」とは異なります。滅尽定は聖者が境地を悟り、心の働きを一時停止させるもので、無想定とは本質的に区別されます。無想定: 凡夫や外道が、悟りとは異なるが、心の働きが停止した状態を真の悟りだと誤解して修める修行です。滅尽定: 聖者が経て、心の働きが一時停止する境地で、無余涅槃(悟りの究極的な状態)の静けさに例えられます。この区別は、『倶舎論』が「無想定」を誤った修行とみなし、聖者の到達する境地である「滅尽定」とは明確に区別していることを示しています。2025/11/17 14:20:23329.神も仏も名無しさんRHLjDま、ヨガと仏教の違いをマジメに定義しているのが 倶舎論😃2025/11/17 14:27:23330.神も仏も名無しさんGlESU倶舎論の心理分析は業品(ごうぼん, karma-nirdeśa)[30]:(1)業の種類、(2)各種の表業・無表業の性質、(3)経典に見える種々の業説。(4)十善業道・十不善業道についての説明、(5)業についての雑多な事項の収録[32]。127偈(玄奘訳では131偈)[29]。随眠品(ずいめんぼん, anuśaya-nirdeśa)[30] :(1)九十八随眠の理論、(2)九十八随眠の分類的考察、(3)経中に見える諸種の煩悩についての説明、(4)煩悩の断滅[33]。70偈(玄奘訳では69偈)[29]。なんだろうな2025/11/17 14:36:02331.神も仏も名無しさんGlESU倶舎論』の「業品」とは、『倶舎論』における業(カルマ)を論じた部分を指します。業とは、行いによって生じる結果や、その行為そのものを意味し、『倶舎論』は世親が著した仏教の教義書です。業品は、行為とその結果について、特に十善業など具体的な業について論じています。業品について『倶舎論』とは: 世親が著した、小乗仏教の説一切有部学派の思想を体系的にまとめた教学書です。業とは: 行い(カルマ)とその結果を指す仏教用語です。業品の内容: 具体的には、善悪の行い(業)がもたらす結果について分析します。例えば、善い行いが善い結果をもたらす「福業」などについて論じます。2025/11/17 14:37:38
【国際】トランプ「同盟国の多くは友達じゃない」凍りつく…高市総理は台湾有事発言で米に見捨てられたか? 撤回できず、前にも進めず「八方塞がり」ニュース速報+3072313.72025/12/05 14:58:46
【高市自民】ネット大荒れ「はあ?」「子育てに罰金」「高市支持やめる!」 高校生の扶養控除縮小検討の報道に騒然「意味分からん」「ほーら増税始まった」「涙出る」「子育て支援は嘘」 公明離脱で再燃ニュース速報+4121254.62025/12/05 14:52:59
【舛添要一氏】「かつて、農民も職人も、皆死ぬまで働き、深夜のネトウヨ行為など無縁だった、今の高齢者は、定年退職後、社会参加もせずに、ネットに溺れている、ネットを捨てて働いたほうが健全だ」ニュース速報+234927.82025/12/05 14:56:36
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【唯識三年】仏教ウンチクを語るスレ 9【倶舎八年】
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中論は、アンチ倶舎論だから
倶舎論を知らないと分かりませんな~
そのメカニズムを解明する
善業・悪業: 善い行いや悪い行いを積み重ねること。
異熟: 善悪の業が時を経た後に、現在の私たちに「果報」として現れること。
結果: 苦しみや楽しみ(楽)など、善悪の業とは無記(中立的)な結果として生じます。
具体例: 現在の自分の境遇や運命が、過去の善い行いか悪い行いかの結果であると考えるのが「異熟果」の考え方です。
唯識論では「すべては心(識)が作り出したもの」と説きます。
この「異熟果」も、心によって生み出された結果として位置づけられます。
つまり、自分が今経験している出来事は、過去の心が生み出した「識」が、時を経て「異熟果」として現れたものだ、と解釈します。
異熟識とは?【唯識三十頌〖十九頌〗】
🔷『唯識三十頌』の第十九頌
「由諸業習気 二取習気倶
前異熟既尽 復生余異熟」
「諸業の習気と
二取の習気と倶なるに由りて
前の異熟は既に尽くれば
復た余の異熟を生ず」
🔶第十七頌、第十八頌が、空間の中で、お互いにどういう関係を持っているか、識相互の関係の上に心識の構造を見たのに対して、
🔶第十九頌では、時間の流れの中で、今日の自分が明日の自分にどう繋がるのか、という時間の流れの中に展開していく人間存在が示される。
🔷阿頼耶識を異熟識とも言われ、三つ意味がある。異熟には、どんな意味があるのか?
異熟識には、次の三つの意味合いがあるので、第八識は異熟識と言われる。
1️⃣変異熟 ➡️ 因が変化して果が熟す
2️⃣異時熟 ➡️ 因と時間を異にして果が熟す
3️⃣異類熟 ➡️ 因と性類を異にして果が熟す
🟨唯識は、全ては識が転変・変化したものであり、かつ、その転変の根源的主体が阿頼耶識であるという立場をとります。
🟨この変化という事柄を考える場合に、私達は一般に、原因と結果という二つの概念で捉えざるを得ません。
すなわち因が変化して、果というものが出てくる。これが変異熟の意味です。
🟩異類熟(いるいじゅく)とは、因と性類を異にして果が熟す、ということで、性類とは価値のことです。
普通は善と悪の二つですが、そこに無記というものが加えられているのが、仏教の大きな特徴です。
🟩無記とは、善でも悪でもない、中立、ニュートラルということです。私達は仏教的に言いますと、過去世の善業によって、六道輪廻のうち、人間界に生を受け、しかも人間としての阿頼耶識を持って生まれたものです。
🟩しかし、阿頼耶識そのものは、無記であると考えられています。
すなわち原因は、善あるいは悪であるけれども、結果は無記としてある、それが阿頼耶識である。
これを、『因是善悪、果是無記(いんぜぜんまく、かぜむき)』と言われます。
意味は「異類にして熟する識」という意味で「過去を背負える自己」を表します。
🟩人は過去を切り捨てて、生きることは出来ません。生い立ちを離れて、今の私はないのです。
人格の根底には、過去の種蒔きが全部収まっていますから、過去が生き続けて、その過去が現在として今に現れて、熟成しています。
🟩現在の自己は、過去の集積だとも言えます。人は背負い込んだ過去の自己に基づいて、現在の自己を生み出し、自己の世界を変えていきます。
🟫では、何故、蔵識と言われるのかと言いますと、阿頼耶識の中に自分が今まで行ってきたことが、業種子(ごうしゅうじ)という種になって収まっているからです。
🟫この阿頼耶識の中に業種子が収まると、私たちの唯識に現れる世界に影響を与えます。
段々と心の中で成長して熟してゆくと、やがて、唯識の世界にハッキリと見えるようになります。
たとえば、相手を責めるようなことばかり考えていると、相手から責められているように感じたり、相手を馬鹿にして見下していると、相手から馬鹿にされて見下されているように感じます。
ウソをついたら、ウソをつかれているように感じたり、相手を見捨てたら、見捨てられるように感じたり、嫌ったら、嫌われるように感じます。
もし、阿頼耶識の中に、そのような業種子が収まっていないとしたら、どんなに馬鹿にしたり、見下したりしようとしても、そんな気持ちは起きてきません。
ですから、私たちが心で見ている世界は、日頃、私たちが心で思っていることであり、それがそのまま、唯識の世界で見えているのです。
だから、自惚れで、自分は良いことを思っているに違いないと、自分の都合の良いように考えているのです。
しかし、どんなに都合良く考えていても、唯識に映る世界は自分の思いを、そのまま見せてくれるので、自分にとっては、こんな結果になるとは、とても信じられないような世界が唯識に映るのです。
だから、私たちは、自分の思いが異なった形で現れるとしか感じられないので、阿頼耶識のことを自分の思いの種が異なった形で熟して現れる、という意味で、異熟識とも言われるのです。
それが、阿頼耶識だ
これに対応する反対の見解を示した学説に実在を二つに区別する二元論(dualism)や実在に対して数的な規定を行わない多元論(pluralism)がある。
バールーフ・デ・スピノザは二元論に対する批判を通じて古典的な一元論の議論を展開した哲学者である。スピノザの学説の中心にあったのは究極的な原因としての神を前提とする汎神論である。彼は自然に見られるさまざまな様相に神の諸属性を見出している。また人間の精神と身体を区分する心身二元論に対しても、どちらかが先立つものではなく、それらは同一のものの二つの側面であると考えていた。
さまざまに形を変えて繰り返される、永遠の論点だ
古代では、プロティノス
近代では、スピノザが有名だ
明らかに、一元論ではない
五位七十五法は、世界の構成要素
構成要素が、七十五もある
典型的な多元論だ
キリスト教における永遠のテーマだが、仏教にとっては無意味な問いだ
仏教は、善悪二元論
善でも悪でもない「無記」ってのもあるから、これだけでも三元論と言える
悪の構成要素も実在する
五位七十五法に含まれている
三世恒有だ
仏教も心身二元論だ
色(物質的存在)と心(精神的存在)が、それぞれに存在する
だいぶ一元論に近くなる
俺なんかは
ソシュール的な捉えるけどな〜
😆
西欧哲学のほうがウマが合うやろな
😆
謎が多いが
神の正義という世界観があるという
霊的な気づきがある
😆
『倶舎論』における「無想定」とは、凡夫や外道が、心の活動が完全に停止した状態を誤って真の悟りだと信じて修める修行のことです。これは修行の誤った道であり、『倶舎論』が扱う「滅尽定」とは異なります。滅尽定は聖者が境地を悟り、心の働きを一時停止させるもので、無想定とは本質的に区別されます。
無想定: 凡夫や外道が、悟りとは異なるが、心の働きが停止した状態を真の悟りだと誤解して修める修行です。
滅尽定: 聖者が経て、心の働きが一時停止する境地で、無余涅槃(悟りの究極的な状態)の静けさに例えられます。
この区別は、『倶舎論』が「無想定」を誤った修行とみなし、聖者の到達する境地である「滅尽定」とは明確に区別していることを示しています。
マジメに定義しているのが 倶舎論
😃
業品(ごうぼん, karma-nirdeśa)[30]:(1)業の種類、(2)各種の表業・無表業の性質、(3)経典に見える種々の業説。(4)十善業道・十不善業道についての説明、(5)業についての雑多な事項の収録[32]。127偈(玄奘訳では131偈)[29]。
随眠品(ずいめんぼん, anuśaya-nirdeśa)[30] :(1)九十八随眠の理論、(2)九十八随眠の分類的考察、(3)経中に見える諸種の煩悩についての説明、(4)煩悩の断滅[33]。70偈(玄奘訳では69偈)[29]。
なんだろうな
業品について
『倶舎論』とは: 世親が著した、小乗仏教の説一切有部学派の思想を体系的にまとめた教学書です。
業とは: 行い(カルマ)とその結果を指す仏教用語です。
業品の内容: 具体的には、善悪の行い(業)がもたらす結果について分析します。例えば、善い行いが善い結果をもたらす「福業」などについて論じます。