You are souls currently traveling between planets in the solar system, and your main body is located in the pelvic region. Repeatedly listening to Bija Mantras can raise your Kundalini, but you won't know how to lower it(⚠) Basically, read Edgar Cayce.
バーバの事はお世話になりました。ありがとうございます。
新規のお店を始められた直後にコロナがあり、なんじゃらほい(笑)
でしたよね。
もういい~、ですよ。
まちこさんの思い出の曲、これね歌詞もすごいの、
「この世って、こんなんだよね、なにかに拘束されているのに
気付かない方が楽で、ようこそみたいなね。
数年前のように、又、一緒に聴いてみようよ。
【癒し主】イエスキリスト【救い主】
https://talk.jp/boards/psy/1687382766
5ちゃんねるの会話はバトル形式で馴れ合いを禁じる。ググるシッタカ知障イヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価で、荒らしイヌヤマは問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。
病名:発達障害ASDの症状尊大のインチキキチガイ雀鬼イヌヤマが自供ス。『正直云って仏とは何かと問われても分かりません、公案が進んで無くよくわからないのです』 知障イヌ咬み談
ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ!
イヌ:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ? ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷也
悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺のことを 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)
ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる
独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾スル
新小岩の食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)奈良興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーの門外漢だから、知ったかぶる以外に承認欲求を満たす事が無い。
多数者を演じ孤立してないと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療
統失、薬中、精神病院2ヶ月入院、A型作業所:イヌヤマ軍曹麦屁魔女エロ和尚アカベイ偽和尚狗の大王野良は異名同一人物がAAキャラ変の極悪人
① 荒らしイヌ麦は無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれ
② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗
③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事
④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まったら削除
1 またわたしが見ていると、ひとりの御使が、底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から降りてきた。
2 彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおき、
3 そして、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の期間が終るまで、諸国民を惑わすことがないようにしておいた。その後、しばらくの間だけ解放されることになっていた。
4 また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。
5 (それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。
6 この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。
8 そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。
9 彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。
11 また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
12 また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。
14 それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
15 このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。
これが、第二の死だ
埋めとくね
ちょっと無理かも💦
17 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。
18 ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。
608 神も仏も名無しさん 2025/10/03(金) 12:24:41.02 ID:rFcl5
対話の前提すら共有できてない人と話すのは
まさに虚無感だわ
もうしんどいし止めましょう
ありがとうございました
https://youtu.be/OgqTA01Nzbw?si=_7kI0cxcEwAvlecu
https://youtu.be/6OuR-1253zs?si=N8nSlFTprg_kxb51
話はそれからだ
😆
意外、ムイムイ以外でも変なのがいることを知った
😆
ほぼ魑魅魍魎化
😆
聖書の言葉
10:1 兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです。
10:2 私は、彼らが神に対して熱心であることは証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。
10:3 彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。
ローマの信徒への手紙10章1節~3節
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、
死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、
天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、
からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。
アーメン
わたしたちは、唯一の神、全能の父、天と地と、見えるものと見えないものすべての造り主を信じます。
わたしたちは、唯一の主、神の独り子、イエス・キリストを信じます。主はすべての時に先立って、父より生まれ、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずに生まれ、父と同質であり、すべてのものはこの方によって造られました。主は、わたしたち人間のため、またわたしたちの救いのために、天より降り、聖霊によって、おとめマリアより肉体を取って、人となり、わたしたちのためにポンテオ・ピラトのもとで十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書に従って、三日目によみがえり、天に昇られました。そして天の父の右に座し、生きている者と死んだ者とをさばくために、栄光をもって再び来られます。その御国は終わることがありません。
わたしたちは、主であり、命を与える聖霊を信じます。聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、あがめられ、預言者を通して語ってこられました。
わたしたちは、唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会を信じます。わたしたちは、罪のゆるしのための唯一の洗礼を、信じ告白します。わたしたちは、死人のよみがえりと来るべき世の命を待ち望みます。 アーメン
(日本基督教団 改革長老教会協議会 教会研究所訳)
われわれはみな、教父たちに従って、心を一つにして、次のように考え、宣言する。
われわれの主イエス・キリストは唯一・同一の子である。同じかたが神性において完全であり、この同じかたが人間性においても完全である。
同じかたが真の神であり、同時に理性的霊魂と肉体とからなる真の人間である。
同じかたが神性において父と同一本質のものであるとともに、人間性においてわれわれと同一本質のものである。「罪のほかはすべてにおいてわれわれと同じである」
神性においては、この世の前に父から生まれたが、この同じかたが、人間性においては終わりの時代に、われわれのため、われわれの救いのために、神の母、処女マリアから生まれた。
彼は、唯一・同一のキリスト、主、ひとり子として、
二つの本性において混ぜ合わされることなく、変化することなく、分割されることなく、引き離されることなく知られるかたである。
子の結合によって二つの本性の差異が取り去られるのではなく、むしろ各々の本性の特質は保持され、
唯一の位格、唯一の自立存在に共存している。
彼は二つの位格に分けられたり、分割されたりはせず、
唯一・同一のひとり子、神、ことば、イエス・キリストである。
すべて救われたいと願う者は、何よりも公同の信仰を保つことが必要である。
この信仰を、何人も、完全にしかも汚されることなく守るのでなければ、疑いもなく永遠に滅びるであろう。
公同の信仰とはこれである。我らが一つなる神を三位を一体において、礼拝することである。
しかも、位格を混同することなく、本質を分離することなく。
み父の位格あり、み子の位格あり、聖霊の位格がある。
しかし、み父とみ子と聖霊の神性は一つであり、み栄は等しく、稜威も等しく永遠である。
み父のあり給う如く、み子もそのようであり、聖霊もそのようである。
み父が作られていないように、み子も造られていない。聖霊も造られていない。
み父は量りがたいように、み子も量りがたく、聖霊も量りがたい。
み父の永遠であるように、み子も永遠であり、聖霊も永遠である。
しかも、三つの永遠なものではなく、一つの永遠なものである。
また、三つの造られたるものではないように、三つの量りがたいものではなく、一つの造られざるもの一つの量りがたいものである。
同じようにみ父は全能である。み子も全能である。聖霊も全能である。
しかも、三つの全能なるものではなくて、一つの全能なるものである。
このように、み父は神であり、み子も神であり、聖霊も神である。
しかも、三つの神ではなくて、一つの神である。
このように、み父は主であり、み子も主であり、聖霊も主である。
しかも、三つの主ではなくて、一つの主である。
なぜならば我らが、キリスト教の真理によって、各位が個々に、神であると告白せざるを得ないようにされるように。
そのように、三つの神、三つの主ということは、公同の信仰によって、我らは禁じられているのである。
第一が使徒信条、第二がニカイア信条です。ニカイア信条は、今日のトルコ領内にある町、ニカイアで 325年に開かれた教会会議で作られました。その後、これは381年のコンスタンティノポリスでの会議で更に整えられましたので、ニカイア・コンスタンティノポリス信条とも呼ばれます。
第三が 451年にカルケドン会議で採択されたカルケドン信条、第四がそれより少し前に作られたアタナシオス信条です。正統的な教会は、これら四つの基本信条を採っています。
とりあえず、この4信条は基本
信仰告白と意味的に近いが分けて用いられることのある語である(詳細は信仰告白の項目を参照)。
一方、ローマ・カトリック側は対抗宗教改革のトリエント公会議でプロテスタント側を断罪している。
教理の仔細はカテキズムにより補われる。
ご帰還で
お怒りだ🤡
これらの基本信条は必須だ
使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、
死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、
天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、
からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。
アーメン
カルヴァンは、有名な『キリスト教綱要』のⅠ・16・18で「我々の信仰の全歴史がこの内に簡潔に、判然とした順序で語られていて、聖書の堅実な証言が証しするもの以外は、一切含んでいない」と言い、ジュネーヴ教会信仰問答の第一部で使徒信条を熱心に説明しています。
彼らは、真(まこと)のキリスト教信仰を回復し、教会を真理の柱、真理の土台として建て上げるための信仰教育に、使徒信条を用いました。使徒信条を学ぶ第一の理由は、これがキリスト教信仰の最も重要な基本項目を教えていることです。
天地の創造者である全能の父なる神を信じること
その独り子、主イエス・キリストを信じること
聖霊によって宿り、処女マリアから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られたこと
よみに下り、三日目に死人のうちからよみがえり、天に昇り、父なる神の右に座していること
生ける者と死せる者を裁くために再び来られること
聖霊を信じること
聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信じること
罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の命を信じること
それを繰り返し、刷り込むこと
ニケーア信条、カルケドン信条
さらには、アタナシオス信条がある
カテキズム要約の特徴
問答形式: 598の質問と回答形式で構成されています。
内容: 教会が教える信仰の「本質的かつ根本的な要素」を簡潔に提示しています。
目的: カトリック信仰の全貌を把握するための「便覧」として、信者や非信者にも利用できます。
補助資料: 節ごとにカラーの聖画図版と解説が挿入されており、教理の理解を助けます。
用途: 個人で学ぶだけでなく、教会での要理勉強会やカトリック学校の教科書などにも適しています。
じつはプロテスタントをほとんど知らない
疲労回復
トマスアキィナスタイムだ
😆
仏教ゾーンのままだ
金曜日仕事終わり=海印三昧ゾーンから
唯識ゾーンレベルまで落とし
今朝も曹洞宗寺院勤行作務は
わざと唯識レベルゾーンあたりでやって
そこからノーマル日蓮宗あたりくらいの感覚まて落として
昼寝後の今、トマスアキィナスを読む気になった
仕事日の日常と一番遠い
😆
新約聖書の霊的な意味を持ち込む哲学がある
倶舎論あたりでは
煩悩と言われるものを
毛嫌いせず自然法則として洞察して
主の創造した運動法則として捉える
みたいな感じである
いまんところは
このあたりが倶舎論との断絶があるので
仕事日は読みにくい
😆
ある種の
真言密教の欲望肯定のシステムと
類似する部分も少しある
😆
キリスト教を批判する時は
トマスの哲学からの認識かもしれない
😆
> トマスの欲望肯定のシステムは
> ある種の
> 真言密教の欲望肯定のシステムと
> 類似する部分も少しある
> 😆
マジか~😵
というものが
人間の原動力と見ている
トマスは
たしかに新約聖書では 重要な概念だ
😆
😆
大欲という設定がある
空間認識とは別に
😆
😆
日本密教を除いて
欲望はそれほど肯定されないので
欲望、愛を中心に論理を立てるトマスは
新約聖書のインスピレーションがないと
イミフかもしれん
😆
七回ぐらい昔読みこなしているので
トマスの趣味が
まーまーわかる
😆
違法アップロードしてた
ククルス・ドアンの島をチラ見しながら
トマスを読んでいた
朝、続きを見ようとしたら
サンライズに、ブロックされてた
ま、当たり前だな、
😆
( ´,_ゝ`)プッ
また、トマス読もう
コロナ軽症後遺症用心二度寝
😆
欲望の説明している
「ポカリスエットを飲みたい」という欲望と愛について
俺は金曜日夜から月曜夜までしか
ダイエットコーラ飲みたい
欲望と愛は
わかない
😆
欲望と愛は
土曜日限定
😆
この感情の流れは、「一致」や「重なり」といったキーワードと関連しています。
また、人間の行動は究極の目的によって貫かれていると考える、目的論的な視点も持っていました。
まさに
😆
飽きたので
トランプと福音派の動画見る
😆
😆
平和が戻ってきた👍️
また、トマスを読むだろう
先週のような昼寝しないと
コロナ軽症疲労ご溜まる予感がない
まーほぼ完治に近いようだ
今朝の二度寝は安牌策だ
😆
因果関係の遡行: 宇宙に存在するあらゆる物事は、原因によって引き起こされていると考えます。この原因をさらに遡っていくと、説明の連鎖を断ち切る「第一原因」にたどり着くはずだと主張します。
第一原因としての神: その第一原因が、宇宙のすべてを生み出した神である、と結論づけるのが宇宙論的証明です。
歴史的背景: アリストテレスに起源を持ち、イスラム哲学やキリスト教神学で発展しました。特にトマス・アクィナスによって中世に体系化され、ライプニッツ、クラークなど、後の哲学者にも影響を与えました。
因果律: 宇宙のすべての物事には原因があり、その原因にもまた原因がある。この連鎖を無限に遡ることはできず、どこかで最初の原因(第一原因)が存在しなければならない。その第一原因が神である。
充足理由律: ゴットフリート・ライプニッツが提唱した考え方で、「あらゆる存在には、その存在理由がある」とします。宇宙が存在する理由、または宇宙の物事のすべてを説明できる理由が神であると論じられます。
三大証明の1つだ
「そして、むしろ、無があるのではないのか?」
ライプニッツによる有名な問いだ
究極の存在理由は、神だ
まだ、霊界からのメッセージが来ないな?😫
彼は続けて、「人間の行為において、罪とは理性の秩序に反するものである」とし、「理性の秩序とは、あらゆるものを適切な方法で目的に沿わせて秩序づけることである」と付け加えている。(神学大全 II-II、153.2)これらの言葉は、欲望の罪を理解する鍵となります。欲望とは、私たち人間の性の誤用であり、その快楽は、結婚したパートナーをより親密に結びつけ、人類の未来を保証するために設計されています。
人類存続の重大さを疑う人はいないだろう。未来を保障する必要性は、性欲の重要性を理解し、その誤用がいかに重大であるかを理解する助けとなる。ここでも聖トマスは賢明な考察を述べている。
物事がより必要であればあるほど、それに関して理性の秩序を遵守することがより必要となる。同様に、理性の秩序が放棄されればされるほど、それはより罪深いものとなる。(神学大全 II-II、153.3)
欲望は、私たちが性欲という賜物を与えられた真の目的から私たちを遠ざけるため、重大な罪です。しかし、欲望によって約束される肉体的な快楽は非常に大きいため、欲望は私たちの生活に侵入し、私たちの高次の知的・霊的機能、つまり理性と意志をも混乱させることがあります。
欲望がキリスト教生活にもたらす大惨事について考えるとき、聖トマスは次のように引用している。無謀さ節度やコントロールの欠如です。思慮のなさ、それは善悪を判断する能力に影響を与え、不安定さつまり、約束を忠実に守ることができない状態です。
2つ目は、物事が本来の目的に向けられていることを混乱させることです。この世の愛,未来の世界への絶望これは、救われることができないと信じる絶望の罪ではなく、むしろ、性的快楽にあまりにも熱中しすぎて、神が将来約束しておられる良いものへの興味を失ってしまう罪です。
それが愛
それが喜び
489.
ユーザー
栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-Q4W-Ij-wvu
KN0c5
スクッと腰骨をたてて呼吸を整えて坐る。
でも、いつの間にか過去を思い出したり未来を予想したり、そうやって思いを耕すんだよなぁ。
即今を耕してりゃいいものを。
勿論、流されてる事に気付いたらまた息を整えるけど。
2025/12/04 11:03:19
セックスと現代世界
おそらく、ここに、私たちの社会にセックスが圧倒的に存在していることの手がかりが見つかるでしょう。最近目にする広告のほとんどすべてについて考える必要があります。ほとんどすべてが、社会学者が「即座の満足感」と名付けたものを約束しています。この約束の欠陥は特定できますが、その魅力を否定することはできません。また、神の約束がそれに比べると見劣りすることも否定できません。前世紀の半ば、ドミニコ会の神学者トーマス・ギルビーは、現代の人類の道徳的窮状を次のように要約しました。「人間は喜びなしでは生きられません。だからこそ、精神的な喜びを奪われた人は肉欲的な快楽に走るのです。」
この考察を始めたとき、私たちは人間の性欲がキリスト教の結婚において最高の目的を達成することに気づきました。ですから、欲望の罪が結婚したカップルの性的結合をますます反映しなくなるにつれて、その重大さが増すことを知っても驚くべきではありません。姦淫、つまり未婚の男女間の性的関係は、夫と妻の性的活動を再現するかもしれませんが、彼らの結合は、結婚したパートナーとしてのカップルの共同生活を促進することを意図したものではありません。さらに、未婚のパートナーの性的行為によって子供が生まれることはありますが、これらの子供は真の結婚から得られる利益を奪われることになります。
聖トマスが姦淫の罪深さについて考察する際、未婚の両親から生まれた子供が受ける罰をその行為に伴う主な悪と見なしていることを知ると、私たちは驚くかもしれません。彼は「…人間の生命に直接的に犯された罪はすべて大罪である」と述べ、次のように付け加えています。
さて、人間の子供の養育には母親の栄養管理だけでなく、指導者や保護者としての父親の世話がさらに必要であることは明らかです…したがって、人間の本性は両性の不確定な結合に反発し、男性は確定した女性と結ばれることを要求します…姦淫は両性の不確定な結合であるため…子供の養育に反するのです…。(ST. II-II、154.2)
聖トマスは、姦通の罪深さを説明するのに同様の理由を提唱しています。姦通を犯す人は、貞操から明らかに背を向けるだけでなく、結婚生活において互いの愛を育み子供を産むという責任を放棄し、パートナーが同じ責任を果たすのを妨げます。
これまで見てきたように、欲望の特定の特徴は、性的欲求を誤用する個人のさまざまな状況によって区別される可能性がある。この点について、我々は以下の点を考慮しなければならない。誘惑男が処女を誘惑して純潔を犠牲にさせ、近親相姦同じ家族の一員であるカップルが性的関係を持つことです。第 4 戒律は、両親を敬うようにと私たちに勧めています。聖トマスは、両親にふさわしい敬意は、「同じ両親の近親者である他の血縁者」にも払われなければならないと教えています。(ST II-II、154.9)
聖トマスは強姦を「処女を不法に犯すために力を使うこと」と狭義に定義しています。現代の感覚はこの定義を広げ、カテキズムレイプとは、簡単に言えば「他人の性的親密さを強制的に侵害すること」と定義されています。そして、次のように続きます。「レイプは、すべての人が持つ権利である尊敬、自由、身体的および道徳的完全性を深く傷つけるものである。」(CCC、#2356)
マスターベーションは、性的欲求を欲望に駆り立てて誤用するもう一つの例です。これは驚くことではありません。マスターベーションは明らかに、特定の状況と特定の理由において、他人と共有するために作られた贈り物を、個人が自分の快楽のために使用する行為だからです。
同性愛関係も同様に性欲が乱用されている例である。カテキズム「それらは性行為を生命の贈り物から閉ざす。それらは真の感情的、性的補完性から生じるものではない」と教えています。(CCC、#2357)
注意
ここでは、行為とそれを実行する人物を区別する必要があります。同性愛行為、または家族生活と結婚の神聖さを促進することを意図していない性行為は、乱れた行為です。しかし、カテキズム観察する
同性愛の傾向が根深い男性と女性の数は無視できません。 客観的に無秩序であるこの傾向は、彼らのほとんどにとって試練を構成します。 彼らは、敬意、思いやり、そして敏感さをもって受け入れられなければなりません。 彼らに関する不当な差別の兆候はすべて避けるべきです。 これらの人々は、彼らの生活の中で神の意志を果たすために、そして彼らがクリスチャンであるならば、彼らが彼らの状態から遭遇するかもしれない困難を主の十字架の犠牲に団結するために召されます。(CCC、#2358)
以前、私たちはトーマス・ギルビーの言葉を引用しました。彼は、私たちが精神的な喜びを見つけられないと、肉体的な快楽を選ぶことになるかもしれないと書いています。トーマス・アクィナスは、喜びを、何か良いことを成し遂げたり、何か良いものを所有したりすることで生じる満足感と定義しています。これは、欲望の治療法として、私たちの精神生活を深めることを示唆しています。初期の教会の著述家たちは、人間の理性だけでは罪を克服できないことを理解していました。私たちは神に頼らなければなりません。以前の考察で言及した精神的著述家ケビン・ヴォストは、和解の秘跡は、欲望との戦いと喜びの探求における重要な第一歩であると述べています。
もし欲望が不健全な考えを促し続けるなら、ヴォストは私たちにこう勧める。
…すぐに神の助けを求めるために、おそらく砂漠の父たちがとても好んだ古代のイエスの祈りのような、非常に迅速で力強い祈りによって、「主イエス・キリストよ、罪人である私を憐れんでください」と祈るのです。こうして私たちは、姦淫の悪魔を追い出すためにキリストの助けをすぐに求めます…キリストはすべての悪魔と罪を追い出すことができるからです…。((ヴォスト『七つの大罪』、p。 165)
聖母マリアの連祷では、マリアを「最も清らかな聖母」および「私たちの喜びの源」と呼んでいます。マリアは、私たちの人生のあらゆる瞬間、すべてのことにおいて模範です。これらの称号でマリアに呼びかけ、続いて「私たちのためにお祈りください」と祈ることで、私たちは聖母マリアと同一視されます。ロザリオとともに、これらの短い祈りは、私たちの信仰が永遠の命という収穫をもたらすと保証する信心の種を蒔きます。
仕事へのメンタル調整が
夏場に構築した呼吸法システムを
冬場用の構築し直さないといけない
今構築した試運転だ
めんどくさいなー
メンタル弱者のスタンスがあるからなー
😫
今の仕事はやれない
😫
😫
トマス・アクィナスは、自然界や人間の理性を通じて、神の存在を証明しようと試みました。
つまり、哲学的な思考によって、神が存在することを説明したということです。
彼が提唱する「五つの道」は、神の存在証明として有名です。
以下にそれぞれの道を詳しく解説します。
世界には運動(=変化)が存在し、全ての運動には原因があると考えられます。
しかし、無限に原因が遡れないため、最初の運動の原因として神が存在すると主張します。
あらゆるものは何らかの原因から生じます。
しかし、原因と効果の連鎖は無限に続かず、最初の原因が存在しなければ何も生じないと考えられます。
トマス・アクィナスは、その最初の原因こそ、神であると主張します。
現実世界には、存在することもしないこともあり得る偶発的な存在が多くあります。
しかし、すべてが偶発的な存在だと、何も存在しない空白の瞬間があるはずです。
そのような状況を回避し、「存在することが必然的である存在(=神)」がいると主張します。
自然界には程度の差があり、善悪や美醜などの評価がされます。
最高の善や完全さを持つ基準として、神が存在すると主張します。
自然界には目的を持って機能するものが多く存在します。
例えば、植物は太陽の光を吸収するという目的を果たすために、葉っぱが広がるように設計されています。
しかし、無意識なものは、目的を持って機能することができません。
それゆえ、目的を持ってすべてのものを導く存在(神)が存在することになります。
真善美のような絶対的な価値を否定し
すべては相対的なものであるとする相対主義を採った
毒舌でおなじみ、ビートたけしさんが著書でこんなようなことを書いていました。「チーマーとか作ってつるむの奴ってのは大抵馬鹿なんだ。賢い奴はチーマーなんてやらない。できるわけねえんだ。絶対数が少ないんだから」
このたけしさんの話を、大学の先生に私が引用したら先生も爆笑していたなあ。
なにが言いたいかというと「本当に賢い人って全体の一割くらいだ」ということです。
「んなことないよ!なにをもって"賢い”って言うかだってわからないじゃん!」…そういった意見も出るでしょう。ごもっともだと思います。
でも、ちょっとそう仮定して話を進めさせてください。
古代ギリシャから近代まで、学問に没頭できた人はある特権階級の人のみで、そういう賢い人たち”だけ”で、学問の世界は成り立っていたからこそ、「おれたちの真理は共有できる」と己の哲学の普遍性を疑わなかったのではないでしょうか?
それが現代(近代以降)になって、かつては学問とは無縁な大衆も、義務教育で半ば強制的に教養を叩き込まれることになった。でもほとんどの人が、そんな日々の生活と切り離されたどうでもいいことに興味もない人種だから、賢い人が考える価値観なんか理解できない。
それを「近代以降、普遍的な価値観はなくなっちゃったよ~」と賢い人が勘違いしているだけなんじゃないかと思います。もともと古代から中世、近代も民衆は無知で日々食っていくので精いっぱいで、普遍的な価値観なんて小難しいこと共有できてなかったですって。
大きな矛盾は「普遍的なものは何もない。だから何でもありで自自由に生きよ」なんて価値観だって共有できない、というパラドクスに陥っちゃうってことです。
「それ(普遍的な価値観はないというテーゼ)がポストモダン思想の普遍的な価値観です」って言っちゃうと、「じゃあ普遍的な価値観あるじゃん」って言われてしまう。
「ポストモダン思想の考え方も共感する人だけが使えばいい、選択肢の一つだよ」ってことなのかな?
私、構造主義のレヴィ=ストロースやフーコーとか結構好きなんですよ。思考の仕方がなんとも科学的で。ただ、彼らの流れを汲む、現代思想の結論が最終的に「価値は相対的」というポストモダン思想ってのが、おかしい!どっかで狂っちゃったんだと思います。
そもそも科学だって「主体と客体は不可分だ」という近代以降の哲学と同じ結論に達しているんです。
カオス理論、不確定性原理、量子の観測問題・・・科学のような哲学と、哲学のような科学がリンクしうるという、大変興味深い時代に生きていることに、私はワクワクしています。
😆
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ボンクラに見える
ポストモダンがなさすぎて
😆