ゆゆしき法界 パート32アーカイブ最終更新 2024/02/21 11:041.◆JBLfMwCXhY12Zw2【ゆゆしき法界とは】Talk 掲示板における一つの独立した空間で、争い事は決して好まず、他者に対する誹謗・中傷はナンセンス。しかし愛嬌はドンと来い。ユーモアはぶちかませ。エロい話はお好み次第。「人生楽しまなきゃ損だろう!」をモットーに互いの人間性を尊重しながらもじゃれ合い程度にはツツキ合い、もみもみしながら互いのゆゆしさを温かく且つ、深く理解し合いながら相互に人間性を高め合っていく。そんな素敵な関係のゆゆしき法界です。前スレゆゆしき法界 パート31https://talk.jp/boards/psy/17037969022024/02/18 07:49:111000すべて|最新の50件953.リダン◆gEV3xsS//kIQJ7Uおはようございます☀2024/02/21 09:49:39954.法介◆T3azX0Hk1UEd7GTリダン、おはよー2024/02/21 10:00:46955.神も仏も名無しさんktdeZリダンおはよーと大人の態度?😄2024/02/21 10:01:56956.神も仏も名無しさんktdeZほーかいくん御館様おはよ〜〜〜ん😄😄😄😄😄😄😄😄2024/02/21 10:02:13957.法介◆T3azX0Hk1UEd7GTでおー、おはよー2024/02/21 10:11:30958.法介◆T3azX0Hk1UEd7GTリダンは三惑を断じ切れているのかな?2024/02/21 10:12:22959.法介◆T3azX0Hk1UEd7GT見思惑には、見惑と思惑の二種がある。見惑は、後天的に形成される思想・信条のうえでの迷い。思惑は、生まれながらにもつ感覚・感情の迷い。2024/02/21 10:14:28960.リダン◆gEV3xsS//kIQJ7U塵沙惑が何かよくわかりませんね2024/02/21 10:16:58961.法介◆T3azX0Hk1UEd7GT末那識が濁ってしまうのはこの見惑・思惑によるところが大きい。2024/02/21 10:17:33962.法介◆T3azX0Hk1UEd7GT誤った思想や価値観が後天的に阿頼耶識に薫習されることで末那識が汚染されてしまう。2024/02/21 10:20:02963.法介◆T3azX0Hk1UEd7GT過去世でのそういった業を引き継いで転生するから生まれながらにもつ感覚や感情の狂いというか濁りが生じる。2024/02/21 10:22:44964.法介◆T3azX0Hk1UEd7GT美味しものを美味しく食べれなかったり人の話を正しく聞けなかったり2024/02/21 10:23:34965.法介◆T3azX0Hk1UEd7GT>>960塵沙惑は、菩薩が断じるべき惑で具体的に言えば、自我の克服。2024/02/21 10:25:41966.法介◆T3azX0Hk1UEd7GT自我意識をどこまで空じる事が出来るか。2024/02/21 10:26:05967.法介◆T3azX0Hk1UEd7GT自我という「私」があるから時間の流れを感じる。2024/02/21 10:26:34968.法介◆T3azX0Hk1UEd7GT自我という「私」があるから、心地よい空間とか狭い空間といった空間の認識が起こる。2024/02/21 10:27:30969.法介◆T3azX0Hk1UEd7GTその自我の根源は、第七末那識に潜んでいる。2024/02/21 10:28:31970.リダン◆gEV3xsS//kIQJ7U>>966なるほどありがとうございます2024/02/21 10:29:24971.法介◆T3azX0Hk1UEd7GT凡夫(通常の人間)は、この自我意識が働くことで自分の手、自分の眼、自分の鼻、自分の耳、自分の舌といった五感での意識が働く。2024/02/21 10:30:33972.法介◆T3azX0Hk1UEd7GT五蘊を空じて意識が第六意識から第七末那識に変わっても、自我意識は働いている。2024/02/21 10:31:44973.法介◆T3azX0Hk1UEd7GTだから、そこでの末那識は阿頼耶識の「私」の記憶へのアクセスとなる。2024/02/21 10:32:52974.法介◆T3azX0Hk1UEd7GT阿頼耶識といえども「私」の記憶であればそれは「凡夫の業」でしかない。2024/02/21 10:34:26975.法介◆T3azX0Hk1UEd7GTなので別教の菩薩には「元品の無明」が残る。2024/02/21 10:35:22976.法介◆T3azX0Hk1UEd7GTこの「元品の無明」を完全に絶ち切らないと覚りの境地である真如の世界観は顕われない。2024/02/21 10:36:35977.法介◆T3azX0Hk1UEd7GT過去世で仏の元で修行を積んで来た者であれば「私」の阿頼耶識へのアクセスで「元品の無明」は断ち切れる。2024/02/21 10:38:14978.法介◆T3azX0Hk1UEd7GTこれが唯識で言う「無漏種子」。2024/02/21 10:39:11979.法介◆T3azX0Hk1UEd7GT阿頼耶識に無漏種子が有るか無いかで覚りの境地に入れるか否かが決まる。2024/02/21 10:39:58980.法介◆T3azX0Hk1UEd7GT阿頼耶識には自我意識は無い。なので根本的には阿頼耶識には仏に縁して修行して覚りを開いた修行者達の業は備わっている。2024/02/21 10:42:05981.鹿野園#Buddhist-RinzaiUvOJs>>972> 五蘊を空じて意識が第六意識から第七末那識に変わっても、>> 自我意識は働いている。違う!2024/02/21 10:42:35982.法介◆T3azX0Hk1UEd7GTなので仏性(無漏種子)は阿頼耶識にちゃんと備わっている。2024/02/21 10:42:43983.鹿野園#Buddhist-RinzaiUvOJs>>971> 凡夫(通常の人間)は、この自我意識が働くことで自分の手、自分の眼、自分の鼻、自分の耳、自分の舌といった五感での意識が働く。違う、2024/02/21 10:43:02984.鹿野園#Buddhist-RinzaiUvOJs法介の話は約八割デタラメ、一割は引用からの正解、残りの一割のは微妙解釈だな。2024/02/21 10:47:20985.法介◆T3azX0Hk1UEd7GT日蓮さんの御書の中に『爾前二乗菩薩不作仏事』というのがあって、その中で次のように申されております。2024/02/21 10:47:27986.鹿野園#Buddhist-RinzaiUvOJs>>982> なので仏性(無漏種子)は阿頼耶識にちゃんと備わっている。違う、2024/02/21 10:47:39987.法介◆T3azX0Hk1UEd7GT 問うて云く二乗成仏之無ければ菩薩の成仏も之無き正き証文如何、答えて云く涅槃経三十六に云く「仏性は是れ衆生に有りと信ずと雖も必ず一切に皆悉く之有らず是の故に名けて信不具足と為す」と三十六本三十二、此の文の如くんば先四味の諸菩薩は皆一闡提の人なり二乗作仏を許さず二乗の作仏を成ぜざるのみに非ず、将又(はたまた)菩薩の作仏も之を許さざる者なり、之を以て之を思うに四十余年の文二乗作仏を許さずんば菩薩の成仏も又之無きなり、一乗要決の中に云く「涅槃経三十六に云く仏性は是れ衆生に有りと信ずと雖も必ず一切皆悉く之有らず是の故に名けて信不具足と為すと三十六本三十二、第三十一に説く一切衆生及び一闡提に悉く仏性有りと信ずるを菩薩の十法の中の第一の信心具足と名くと三十六本第三十、一切衆生悉有仏性を明すは是れ少分に非ず、若し猶堅く少分の一切なりと執せば唯経に違するのみに非ず亦信不具なり何に因つてか楽つて一闡提と作るや此れに由つて全分の有性を許すべし理亦一切の成仏を許すべし」2024/02/21 10:48:09988.法介◆T3azX0Hk1UEd7GT 慈恩の心経玄賛に云く「大悲の辺に約すれば常に闡提と為る大智の辺に約すれば亦当に作仏すべし、宝公の云く大悲闡提は是れ前経の所説なり前説を以て後説を難ず可からざるなり諸師の釈意大途之に同じ」文、金錍の註に云く「境は謂く四諦なり百界三千の生死は即ち苦なり此の生死即ち是れ涅槃なりと達するを衆生無辺誓願度と名く・百界三千に三惑を具足す此の煩悩即ち是れ菩提なりと達するを煩悩無辺誓願断と名く・生死即涅槃と円の仏性を証するは即ち仏道無上誓願成なり、惑即菩提にして般若に非ざること無ければ即ち法門無尽誓願知なり、惑智無二なれば生仏体同じ苦集唯心なれば四弘融摂す一即一切なりとは斯の言徴有り」文、慈覚大師の速証仏位集に云く「第一に唯今経の力用仏の下化衆生の願を満す故に世に出でて之を説く所謂諸仏の因位・四弘の願・利生・断惑・知法・作仏なり然るに因円果満なれば後の三の願は満ず、利生の一願甚だ満じ難しと為す彼の華厳の力十界皆仏道を成ずること能わず阿含・方等・般若も亦爾なり後番の五味・皆成仏道の本懐なる事能わず、今此の妙経は十界皆成仏道なること分明なり彼の達多無間に堕するに天王仏の記を授け竜女成仏し十羅刹女も仏道を悟り阿修羅も成仏の総記を受け人・天・二乗・三教の菩薩・円妙の仏道に入る、経に云く我が昔の所願の如きは今者已に満足しぬ一切衆生を化して皆仏道に入らしむと云云、衆生界尽きざるが故に未だ仏道に入らざる衆生有りと雖も然れども十界皆成仏すること唯今経の力に在り故に利生の本懐なり」と云云。2024/02/21 10:48:35989.法介◆T3azX0Hk1UEd7GT 又云く「第一に妙経の大意を明さば諸仏は唯一大事の因縁を以ての故に世に出現し一切衆生・悉有仏性と説き聞法・観行・皆当に作仏すべし、抑仏何の因縁を以て十界の衆生悉く三因仏性有りと説きたもうや、天親菩薩の仏性論縁起分の第一に云く如来五種の過失を除き五種の功徳を生ずるが為の故に一切衆生悉有仏性と説きたもう已上謂く五種の過失とは一には下劣心・二には高慢心・三には虚妄執・四には真法を謗じ五には我執を起すなり、五種の功徳とは一には正勤・二には恭敬・三には般若・四には闍那・五には大悲なり、生ずること無しと疑うが故に大菩提心を発すこと能わざるを下劣心と名け、我に性有つて能く菩提心を発すと謂えるを高慢と名け、一切の法無我の中に於て有我の執を作すを虚妄執と名け一切諸法の清浄の智慧功徳を違謗するを謗真法と名け意唯己を存して一切衆生を憐むことを欲せざるを起我執と名く此の五に翻対して定めて性有りと知りて菩提心を発す」と。2024/02/21 10:48:49990.法介◆T3azX0Hk1UEd7GTこの部分の現代語訳を紹介します。2024/02/21 10:49:14991.法介◆T3azX0Hk1UEd7GT現代語訳 問うて言う。二乗の成仏がなければ、菩薩の成仏もないという正(まさ)しき証文はあるか。答えて言う。涅槃経の巻三十六には「仏性はこれ衆生に有ると信ずるけれども、必ず一切に悉く有るのではない。このゆえに信不具足と名づける」とある(三十六巻本では巻三十二である)。この文のとおりならば、先の四味の諸菩薩はみな一闡提の人である。二乗作仏を許さないから、二乗が成仏しないだけではなく、更にまた菩薩の成仏も許さないものである。このことから考えると、四十余年の文に二乗作仏を許さないならば、菩薩の成仏もまたないのである。一乗要決のなかには「涅槃経巻三十六には『仏性はこれ衆生に有ると信ずるけれども、必ず一切に悉く有るのではない。このゆえに信不具足と名づける』とある(三十六巻本では巻三十二である)。第三十一の巻には『一切衆生および一闡提に悉く仏性が有ると信ずることを、菩薩の行法である十法のなかの第一の信心具足と名づける』とある(三十六巻本では巻三十である)。『一切衆生に悉く仏性がある』と明かすことは、一部分ではない。もしそれでも一切を一部分と執着するならば、ただ経文に違背するだけではなく、また信不具となる。どうして願って一闡提となるであろうか。これによって、全部に仏性が有ると許すべきである。法理からまた一切の成仏を許さなければならない……」。2024/02/21 10:49:48992.法介◆T3azX0Hk1UEd7GT 慈恩の心経玄賛には「菩薩は大慈悲の方からいえば、常に一闡提となるが、大智慧の方からいえば、まさに成仏できる。宝公は『大慈悲の方からいえば、一闡提となるというのは、爾前経の所説である。前説をもって後説を非難してはならない。諸師の解釈は概略これと同じである』とある。金錍論の註には「境は四諦である。百界三千の生死は即ち苦である。この生死は即ちこれ涅槃であると通達するのを衆生無辺誓願度と名づける。百界三千に三惑を具えている。この煩悩は即ちこれ菩提であると通達するのを煩悩無辺誓願断と名づける。生死は即ち涅槃であるとして、円教の仏性を証得するのは、即ち仏道無上誓願成である。惑は即ち菩提であって般若であるから、即ち法門無尽誓願知である。惑と智慧とは無二であるから、衆生と仏とはその体は同じであり、苦も集もただ心のあらわれであるから、四弘誓願も一心に摂するのである。2024/02/21 10:50:15993.法介◆T3azX0Hk1UEd7GT一即一切とは、この言は徴がある」と。慈覚大師の速証仏位集には「第一にただ法華経の力用は仏の下化衆生の願いを満足させるものであるゆえに、仏は世に出て法華経を説くためである。いわゆる諸仏の因位、四弘の願、利生断惑、知法作仏である。ところが、因行も果徳も円満であるので、後の三つの願いは満足するが、衆生を利益したいとの一願ははなはだ満足しがたいのである。かの華厳経の力用では、十界みな仏道を成ずることはできない。阿含経、方等経、般若経もまた同じである。後に涅槃経で説かれた五味でも、みな仏道を成じさせたいとの仏の本懐を満足することはできなかった。いまこの法華経は、十界みな仏道を成ずることができることは、明らかである。かの提婆達多が無間地獄に堕ちたにもかかわらず、天王如来の記別を受け、竜女は成仏し、十羅刹女も仏道を悟り、阿修羅王もすべて成仏の記別を受け、人界、天界、二乗、三教の菩薩も円妙の仏道に入ることができた。法華経には『自分が昔願ったところは、今は已に満足した。一切衆生を教化して、みな仏道に入れることができた』とある。衆生界は尽きないから、いまだ仏道に入らない衆生があるといっても、十界みな成仏することは、ただ法華経の力用である。ゆえに衆生を利益したいという本懐は満足したのである」とある。2024/02/21 10:50:33994.法介◆T3azX0Hk1UEd7GT また「第一に法華経の大意を明かすならば、諸仏はただ一大事の因縁のために世に出現し、一切衆生に悉く仏性があると説き、法を聞き、修行すれば、みな必ず成仏することができる。ところで、仏はどのような因縁のために、十界の衆生にすべて三因仏性が有ると説かれたのであろうか。天親菩薩の仏性論の縁起分の第一には『如来は五種の過失を除いて五種の功徳を生ずるために、一切衆生に悉く仏性が有ると説かれたのである』とある。その五種の過失とは、一には下劣心、二には高慢心、三には虚妄執、四には真法を謗る、五には我執を起こす、である。五種の功徳とは、一には正勤・二には恭敬・三には般若・四には闍那・五には大悲である。生ずることはないと疑うために、大菩提心を発すことができないのを下劣心と名づけ、自分には仏性が有るから、よく菩提心を発すことができるというのを高慢と名づけ、一切の法は無我であるのに、有我であると執着するのを虚妄執と名づけ、一切諸法の清浄の智慧や功徳に違い謗るのを謗真法と名づけ、意にはただ自分の事のみあって、一切衆生を憐れむことを願わないのを起我執と名づける。この五つを翻して、必ず仏性があると知って菩提心を発すのである」とある。2024/02/21 10:50:52995.法介◆T3azX0Hk1UEd7GTこちらに講義文が乗っておりますので、興味がある方はご自分で学ばれて下さい。http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1998311.html2024/02/21 10:58:06996.法介◆T3azX0Hk1UEd7GT私の話は約八割がデタラメらしいので紹介だけに留めておきましょう。2024/02/21 10:59:56997.法介◆T3azX0Hk1UEd7GTレスも埋まって来ましたので2024/02/21 11:02:06998.法介◆T3azX0Hk1UEd7GTこの辺でそろそろ失礼致します。2024/02/21 11:02:33999.法介◆T3azX0Hk1UEd7GTご清聴、有難うございました。2024/02/21 11:02:551000.法介◆T3azX0Hk1UEd7GTさて、ジオラマの制作に戻ろう。2024/02/21 11:04:051001.Talk ★???このスレッドはコメントが1000件を超えました。新しいスレッドを立ててください。2024/02/21 11:04:051002.Talk ★???【プレミアムサービス無料期間延長!】プレミアムの無料期間を2025/3/31まで延長することになりました。広告除去や規制緩和など、ヘビーユーザーにとって欠かせない機能を無料でお楽しみいただけます。是非この機会にプレミアムサービスをお試しください!▼プレミアムサービスはこちらからhttps://talk.jp/premium2024/02/21 11:04:05
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Talk 掲示板における一つの独立した空間で、争い事は決して好まず、他者に対する誹謗・中傷はナンセンス。しかし愛嬌はドンと来い。ユーモアはぶちかませ。エロい話はお好み次第。「人生楽しまなきゃ損だろう!」をモットーに互いの人間性を尊重しながらもじゃれ合い程度にはツツキ合い、もみもみしながら互いのゆゆしさを温かく且つ、深く理解し合いながら相互に人間性を高め合っていく。そんな素敵な関係のゆゆしき法界です。
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ゆゆしき法界 パート31
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おはよー
と
大人の態度?
😄
おはよ〜〜〜ん
😄😄😄😄😄😄😄😄
見惑は、後天的に形成される思想・信条のうえでの迷い。
思惑は、生まれながらにもつ感覚・感情の迷い。
この見惑・思惑によるところが大きい。
末那識が汚染されてしまう。
生まれながらにもつ感覚や感情の狂いというか濁りが生じる。
人の話を正しく聞けなかったり
塵沙惑は、菩薩が断じるべき惑で具体的に言えば、自我の克服。
時間の流れを感じる。
心地よい空間とか
狭い空間といった空間の認識が起こる。
なるほどありがとうございます
自我意識は働いている。
阿頼耶識の「私」の記憶へのアクセスとなる。
それは「凡夫の業」でしかない。
覚りの境地である真如の世界観は
顕われない。
仏の元で修行を積んで来た者であれば
「私」の阿頼耶識へのアクセスで
「元品の無明」は断ち切れる。
覚りの境地に入れるか否かが決まる。
なので根本的には阿頼耶識には
仏に縁して修行して
覚りを開いた修行者達の業は備わっている。
> 五蘊を空じて意識が第六意識から第七末那識に変わっても、
>
> 自我意識は働いている。
違う!
> 凡夫(通常の人間)は、この自我意識が働くことで自分の手、自分の眼、自分の鼻、自分の耳、自分の舌といった五感での意識が働く。
違う、
> なので仏性(無漏種子)は阿頼耶識にちゃんと備わっている。
違う、
問うて言う。二乗の成仏がなければ、菩薩の成仏もないという正(まさ)しき証文はあるか。答えて言う。涅槃経の巻三十六には「仏性はこれ衆生に有ると信ずるけれども、必ず一切に悉く有るのではない。このゆえに信不具足と名づける」とある(三十六巻本では巻三十二である)。この文のとおりならば、先の四味の諸菩薩はみな一闡提の人である。二乗作仏を許さないから、二乗が成仏しないだけではなく、更にまた菩薩の成仏も許さないものである。このことから考えると、四十余年の文に二乗作仏を許さないならば、菩薩の成仏もまたないのである。一乗要決のなかには「涅槃経巻三十六には『仏性はこれ衆生に有ると信ずるけれども、必ず一切に悉く有るのではない。このゆえに信不具足と名づける』とある(三十六巻本では巻三十二である)。第三十一の巻には『一切衆生および一闡提に悉く仏性が有ると信ずることを、菩薩の行法である十法のなかの第一の信心具足と名づける』とある(三十六巻本では巻三十である)。『一切衆生に悉く仏性がある』と明かすことは、一部分ではない。もしそれでも一切を一部分と執着するならば、ただ経文に違背するだけではなく、また信不具となる。どうして願って一闡提となるであろうか。これによって、全部に仏性が有ると許すべきである。法理からまた一切の成仏を許さなければならない……」。
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1998311.html
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