今の日蓮正宗の重要な問題点最終更新 2024/10/19 17:491.神も仏も名無しさんsTYuavac日蓮正宗といえば、唯一の現代に生きる日興門流というイメージから、何もかも正しい、という印象で語る信徒さんも中にはいるかもしれないしかし、法華経や御書と照らし合わせるとどう考えても己義(間違った解釈)がいくつかあるこのスレッドでは それをつらつらと挙げていきたい出典 https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/16872478902023/06/20 16:58:10326コメント欄へ移動すべて|最新の50件8.元コマンドー◆KBl5hH0VXM6OAny法華講を出禁処分されたん?2023/07/11 23:20:359.晃CCszcいや?自主的に近づかないだけ2023/07/12 03:44:2710.法介v0yrz晃さんはじめまして、法介と申します。5ちゃんでの晃さんのご主張ざっとですが目を通しておきました。少しお話しましょう^^2023/07/12 07:54:5011.法介v0yrz私は元、創価学会で学会の教学が外道義(宇宙の法則)になっていると気づき正宗に戻ったのですがその正宗の教学もおかしいと気づき正宗も脱講し、現在はどこの団体にも宗派にも所属することなく真実の日蓮仏法を追究している人間です。2023/07/12 07:57:4512.法介v0yrz晃さんは、「円融三諦」はご存知ですよね?空・仮・中の三諦が円融する訳ですが晃さんは、「空」をどのようにご理解なされておられますか?2023/07/12 07:59:5113.法介v0yrz元コマンドーさんもお答え頂けると嬉しいです^^2023/07/12 08:01:5114.晃CCszc>>12空は、つまらない、だと思っている2023/07/12 08:20:4015.法介v0yrz「つまらない」ことが円融するんですね。2023/07/12 08:27:0916.法介v0yrzでは仏教の基礎概念である「無我」は如何でしょう?2023/07/12 08:28:0517.法介v0yrz>>14読んでみて下さい。https://hokekyou.up-jp.com/%e6%b3%95%e8%8f%af%e7%b5%8c%e8%ac%9b%e7%be%a9%e3%80%80%e7%ac%ac%e4%b8%80%e7%ab%a0%e3%80%80%e3%80%8e%e8%bf%b9%e9%96%80%e3%80%8f/2023/07/12 08:29:3918.晃CCszc>>15三諦の中でも 中が一番大切だと思う空はツッコミ精神 仮はノリの精神 中はオチの精神この三つがバランスよく収まることが 円融2023/07/12 08:48:4719.晃CCszc>>16無我は、誤解が多い観念ではあると思う無我が否定してる我は、外道が信奉していたアートマンの事で仏教徒はそれに対して、“仏”という我を別に新しく立てただから、小乗で無我が主張され、大乗で常楽我浄が主張されるのはそもそも、我が意味しているところが違う2023/07/12 08:52:1220.晃CCszc>>17長すぎて要領を得ないが、何が言いたいのかここで語ってほしいな2023/07/12 08:54:2321.法介v0yrz>>20創価も正宗も円融三諦の意味をまったく理解出来ていないってとこです。2023/07/12 09:00:5222.法介v0yrz>空はツッコミ精神 仮はノリの精神 中はオチの精神↑この理解ですか、、、、、。2023/07/12 09:02:4423.法介v0yrz仮は「有」空は「非有非無」中は「亦有亦空・非有非空」でしょう。天台教学を学ばれてみては如何でしょうか。2023/07/12 09:05:3724.法介v0yrz創価や正宗では「仮諦=実体における真理」の理解しか出来ておられないようですが、、、。2023/07/12 09:07:0825.法介v0yrz仮観=凡夫の世界観空観=仏の世界観中観=覚りの世界観2023/07/12 09:08:0526.法介v0yrz仮=実体思想です。創価や正宗ではこの「実体思想」での仏教の理解になりますので、悪を実体視します。互いの存在を「悪」とみて、激しく罵り合いを繰り広げております。『般若心経』も読まれた事ないでしょう。善も悪も無いと見るのが仏の世界観(空観)です。2023/07/12 09:12:1127.法介v0yrz「舎利子 是諸法空相」舎利子、この諸法の空相(空の世界観)は、「不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色 無受想行識」生じることも滅することもなく、汚いことも綺麗なこともなく、増えることも減ることもない。故に、空観においては、色相もなく、受想行識も働かない。2023/07/12 09:14:0628.晃CCszc>>22噛み砕いて言えばね>>23仮は、テーゼ空は、アンチテーゼ中は、ジンテーゼ2023/07/12 09:16:0429.法介v0yrz蔵・通・別・円の四教義ぐらいはご存知でしょう。 蔵教=実体の真理 ---(仮諦) 通教=実体を空じた真理 ---(空諦) 別教=覚りの真理 ---(中諦) 円教=一念三千 ---(円融三諦)2023/07/12 09:17:1130.晃CCszc>>21そもそもその教義は理解できなくても日蓮仏法では良かったのではないか?南無妙法蓮華経に全て収まるってことで2023/07/12 09:17:2431.晃CCszc>>26般若心経は四十余年未顕真実では?2023/07/12 09:17:5032.晃CCszc>>29法華経は超八醍醐じゃないのか2023/07/12 09:26:1933.法介v0yrz>般若心経は四十余年未顕真実では?相待妙と絶待妙はご存知でない?2023/07/12 09:26:2234.法介v0yrz『実相寺御書』夫れ法華経の妙の一字に二義有り一は相待妙・麤を破して妙を顕す二は絶待妙・麤を開して妙を顕す2023/07/12 09:26:5335.法介v0yrzと仰せになり妙法には、麤法に対する妙法と麤法を開いて顕す妙法との二つの意義があると御指南あそばされています。 麤法(そほう)とは、粗雑な劣った法という意味で最高の教えである法華経の「妙法」に対する言葉です。「麤法を破して妙を顕す」というのは麤法と妙法とを比較対象することで、教えの勝劣を示して法華経を最高の教えとします。そうやって顕された法華経が「相待妙」です。それに対して「絶待妙」は「麤法を開して妙を顕す」なのですが、そのことを大聖人様は『諸宗問答抄』の中で、「絶待妙と申すは開会の法門にて候なり」 と仰せになっております。「開会」とは、法華経の教えがあまりに高度過ぎて衆生にとっては難信難解な教えな為、お釈迦様は、本来は一仏乗の教えである法華経を声聞・縁覚・菩薩といった三乗の教えに開き、それぞれの機根に即した形で法を説いていきます。そして開いた三乗の教えを再び一つに会わせて集約して最後に法華経を顕します。この開いて示した三乗の教えを一つに会わせて示すことを法華経の「開会」といいます。【三乗の教え】 声聞=蔵教 (但空の理) 仮諦 縁覚=通教 (不但空の理) 空諦 菩薩=別教 (但中の理) 中諦【法華経の開会】 仏=円教 (一念三千) 円融の三諦更に大聖人様は、『一代聖教大意』の中で次のようにも仰せです。「相待妙の意は、前四時の一代聖教に法華経を対して爾前と之を嫌ひ、爾前をば当分と云ひ法華を跨節(かせつ)と申す。絶待妙の意は、一代聖教は即ち法華経なりと開会す」当分というのは“そのままそこで”ということで、ある限られた範囲内で論じる事をいい、跨節は、“節を跨ぐ”ということで、その小さな範囲を跨いで、より大きな視野に立って一重立ち入って論ずる事をいいます。要するに相待妙は比較対象から理解する浅い法華経ですが絶待妙は一代聖教から理解するより踏み入った法華経であると御指南あそばされています。開いた三乗の教えを「正直者方便」の教えのもと学ぶ必要は無い教えだと勘違いして捨ててしまっては正しい法華経の解釈には至りません。空や無我・無自性は爾前権教で詳しく説かれた教えです。「空」を正しく理解出来てはじめて三諦の円融が何たるかの理解に至ります。2023/07/12 09:30:0136.法介v0yrz>22噛み砕いてではなく具体的に説明出来ますか?2023/07/12 09:35:4437.晃CCszc>>34爾前の諸経並びに法華已後の諸経は破麤顕妙の一分之を説くと雖も・開麤顕妙は全分之無し、爾るに諸経に依憑する人師・彼れ彼れの経経に於て破顕の二妙を存し或は天台の智慧を盗み或は民の家に天下を行うのみ、設い開麤を存すと雖も破の義免れ難きか(実相寺御書)その後に、こう続く爾前経や涅槃経には開麤顕妙はまったくなしとあるのに、般若心経を取り出して開麤顕妙というならまるで法介さんのレスが法華経そのものである、みたいな言い分になるがまさに“開麤を存すと雖も破の義免れ難きか”ではないのか?2023/07/12 09:36:4538.法介v0yrzそれとも池田先生みたいに水が水蒸気になったり氷になったりするのが円融三諦のお話でしょうか?2023/07/12 09:37:4739.晃CCszc>>36つまらないものをつまらないと見るのが空仮説としてそれが正しいならばと乗るのが仮なにごともほどほどにしてのめりすぎないのが中2023/07/12 09:40:5740.法介v0yrz>>34↑爾前権教は学ぶ必要がないというご主張ですよね。では、爾前権教を学ばれていない立場で「円融三諦」を具体的にご説明ください。2023/07/12 09:41:0141.法介v0yrz>>39素晴らしい説明ですね^^これ以上、お話をする気力がなくなりましたのでこれにて、失礼致します。せめて「空」の理論ぐらいは身につけておきましょう。仏法者であるのなら^^【空の理論】https://butudou.blog.jp/2023/07/12 09:43:5842.晃CCszc>>40いや必要がないとは言ってないが真実ではないというだけで じゃあ真実ではない映画とかドラマとかは見る必要がないか?とはならんでしょう2023/07/12 09:44:0043.晃CCszc>>41空を誤解してる人は多すぎる日蓮大聖人の御書の中では空はそんなに崇高なものではなく否定的な意味合いで登場することが多い2023/07/12 09:45:0144.法介v0yrz日蓮聖人は龍樹を仏法を正しく継承する人四依の一人と見ておられましたが、その龍樹が『中論』で空を詳しく解説しております。晃さんは、空をどのように理解なされておりますか?2023/07/12 09:54:5145.法介v0yrzまず、析空と体空の違いからご説明頂けますか?日淳上人もここ↓で言われております「析空と体空」です。https://www.myotsuuji.info/65%E4%B8%96-%E6%97%A5%E6%B7%B3%E4%B8%8A%E4%BA%BA%E3%81%94%E6%8C%87%E5%8D%97-%E7%A9%BA%E4%BB%AE%E4%B8%AD%E4%B8%89%E8%AB%A6-%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AE%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E7%90%86%E5%BF%B5/2023/07/12 09:57:1246.晃CCszc>>45析空は、つまんないことを知ること体空は、つまんないことを実感することだと思ってます2023/07/12 10:15:3847.法介v0yrz『三世諸仏総勘文教相廃立』の中で次のように仰せです、三世の諸仏は此れを一大事の因縁と思食して世間に出現し給えり一とは中道なり法華なり大とは空諦なり華厳なり事とは仮諦なり・阿含・方等・般若なり已上一代の総の三諦なり、之を悟り知る時仏果を成ずるが故に出世の本懐成仏の直道なり因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり此れを総じて因と云うなり縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり三因仏性は有りと雖も「善知識の縁」に値わなければ「悟らず知らず顕れず」と。龍樹という「善知識」に縁して仏性が何たるかを悟り知り顕わしましょう。2023/07/12 10:17:1148.晃CCszc龍樹が言いたかったのは空より中です仏教すべてを仮として空じたうえで中に落とし込もうとした だから中論という2023/07/12 10:20:1049.晃CCszcしかも龍樹は日蓮大聖人に劣る人です2023/07/12 10:21:0350.法介v0yrz>>46析空は小乗が説く「人空」で、五蘊(色・受・想・行・識)の「色」即ち実体を空じただけの空の理解です。創価や正宗の空の理解がこの次元(実体の真理=仮諦)です。体空は『般若心経』で説かれる「五蘊皆空」で残りの「受・想・行・識」も空じた空の理解です。(法空)この両者の違いが、 蔵教=但空 ---(実体の真理=仮諦) 通教=不但空 ---(非実体の真理=空諦)となり、別教で「唯識=三性説」が説かれて 別教=但中 ---(三因仏性=中諦)となります。2023/07/12 10:25:4751.法介v0yrz>中に落とし込もうとした だから中論という詳しく『中論』を学ばれた方が良いでしょう。2023/07/12 10:27:0852.法介v0yrz『中論』の第二章「運動の考察」を解説してみて下さい。2023/07/12 10:28:2253.晃CCszc空の理解が我々の宗派ではそもそも大切ではない諸法空相ではなくて諸法実相なのだから2023/07/12 10:29:2154.法介v0yrzこちらの偈です。 すでに去ったものは、去ることがない。 まだ去らないものも、去ることがない。 さらに、すでに去ったこととまだ去らないことを離れて、 現に去りつつあるものも、また去ることがない2023/07/12 10:29:5255.法介v0yrz>>53仏の世界観(空観) 仮観=「色即是空」 空観=「空即是色」 中観=「色即是空 空即是色」空観を観じないと中観へは円融しません。2023/07/12 10:33:0556.法介v0yrz>空の理解が我々の宗派では>そもそも大切ではない>>47を今一度読み直しましょう。2023/07/12 10:34:5957.晃CCszcでは、空とは何ですか?一言で答えられないなら理解してるとは思えない2023/07/12 10:35:5758.法介v0yrz>>53円融出来ていないから心の外に善悪を造り出して攻撃を始めます。創価 vs 正宗2023/07/12 10:36:1759.法介v0yrz空を悟っていないのでそうなります。2023/07/12 10:37:0660.晃CCszc専門用語から専門用語にワードサラダのように逃げて具体的に今風に噛み砕いて説明できないのであれば分かりづらい迷路に誘い込むようなだけの意味のない行為2023/07/12 10:37:3761.晃CCszc>>59空がそもそも否定的な言葉2023/07/12 10:38:1862.法介v0yrzそれが解らないのであればそれが晃さんの今の境涯です。正宗で頑張られてください^^ではこの辺で。2023/07/12 10:38:3663.晃CCszc>>62つまり、自分自身も分かってないってことですね2023/07/12 10:39:0364.晃CCszc自分は、空はつまらないの仏教用語だと答えることが出来ます2023/07/12 10:39:4365.晃CCszc仏とは、そもそも面白い魅力的な存在だった世界一面白い人から見たら世界はつまらなく見えるそれが空の意味 それだけの意味2023/07/12 10:41:4366.法介v0yrz>具体的に今風に噛み砕いて説明できないのであれば日蓮聖人が『御義口伝巻下』の中の「第三鬼子母神の事」で次のように述べられています。「御義口伝に云く鬼とは父なり子とは十羅刹女なり母とは伽利帝母なり、逆次に次第する時は神とは九識なり母とは八識へ出づる無明なり子とは七識六識なり鬼とは五識なり、流転門の時は悪鬼なり還滅門の時は善鬼なり、仍つて十界互具百界千如の一念三千を鬼子母神十羅刹女と云うなり、三宝荒神とは十羅刹女の事なり所謂飢渇神・貪欲神・障碍神なり、今法華経の行者は三毒即三徳と転ずる故に三宝荒神に非ざるなり荒神とは法華不信の人なり法華経の行者の前にては守護神なり云云」 ここで言う、「流転門の時は悪鬼なり」の〝流転門〟は流転の縁起のことで、実体に即した(仮)流転の縁起(此縁性縁起)で顕れる姿(仮在)は悪鬼であるが、「還滅門の時は善鬼なり」と、(五蘊皆空で)空観に入って還滅の縁起(心の変化=相依性縁起)で顕れる姿は善鬼である。そして「十界互具百界千如の一念三千を鬼子母神十羅刹女と云うなり」悟りの中諦の真如として顕れる姿は、鬼子母神十羅刹女であるとの御指南です。この御文から次の事が明らかになります。 仮の真理(此縁性縁起)=流転の縁起 空の真理(相依性縁起)=還滅の縁起 中の真理(因果俱時の縁起)=一念三千 そして空・仮・中のそれぞれが一念三千しますので、 仮の縁起=仮諦の一念三千 空の縁起=空諦の一念三千 中の縁起=中諦の一念三千となります。この空・仮・中の三諦が南無妙法蓮華経で円融して三身如来が凡夫の一身に顕れて涅槃の悟りの境地に入ります。これを即身成仏といいます。2023/07/12 10:43:0667.法介v0yrz>>64素敵です^^2023/07/12 10:45:1068.晃CCszc仏「空(つまんね)……」バカ「空…ってなんだ??有り難い言葉に違いない…」バカ「空!!空!!空!!空が大切!!」↑こういう情景が今の仏教界にはびこっている2023/07/12 10:46:3169.晃CCszc>>66鬼子母神がそもそも悪鬼だからそれを空じたら善になる 2023/07/12 10:49:3070.法介v0yrz>>68そういうレベルに興味がないのでこの辺で失礼します。がっかりしました、、、。2023/07/12 10:50:0371.晃CCszc>>70分かりやすく言うとこうなる2023/07/12 10:51:2572.法介v0yrz『ゆゆしき界』の人達の方がまだ真摯に仏教と向き合っておられます。2023/07/12 10:52:0673.法介v0yrz>>71 >>70 >>68 でご自分(晃さん)の発言となります^^では、この辺で失礼致します。2023/07/12 10:54:2974.晃CCszc>>72真剣に向き合い、真剣に間違う人が多いから末法は到来する2023/07/12 10:55:0675.晃CCszc>>73結局、空は何か答えられない空は空だ、というなら答えになってないのでは?2023/07/12 10:59:2176.法介v0yrz>結局、空は何か答えられない空は仏の世界観(縁起)でしょう。 凡夫の意識=前五識を対象とした意識 ---(第六意識) 仏の意識=阿頼耶識を対象とした意識 ---(第七末那識)こちら↓で詳しく私が解説しておりますので宜しかったらご覧ください。https://butudou.blog.jp/2023/07/12 12:44:2477.晃CCszc>>76九識は悟なり 八識已下は迷なり(御義口伝)日蓮大聖人と言われてることが違うが2023/07/12 13:42:1178.法介v0yrz凡夫の意識=仮観仏の意識=空観その次に何が来るか解りますか?2023/07/12 14:38:3479.法介v0yrz「覚りの中観」って何だか解りますか?2023/07/12 14:39:3680.晃CCszc>>78仮空中が円融してるのが仏で各別してたらダメではなかったか?2023/07/12 14:41:0881.法介v0yrzhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14281663999こちら↑で少しお勉強されてみては?2023/07/12 14:42:2182.晃CCszc>>79中観というか、中諦というのは時代時代においての常識みたいなもんで極論を嫌い ほどほどの振る舞いをするだと解釈しているが…あなたは?2023/07/12 14:42:4183.法介v0yrz↑より抜粋三界唯心=(一つに集約された世界)---第一義悉檀2023/07/12 14:43:2684.法介v0yrz『十如是事』百界と云うは仮諦なり千如と云うは空諦なり三千と云うは中諦なり空と仮と中とを三諦と云う事なれば百界千如・三千世間まで多くの法門と成りたりと云へども唯一つの三諦にてある事なり、されば始の三如是の三諦と終の七如是の三諦とは唯一つの三諦にて始と終と我が一身の中の理にて唯一物にて不可思議なりければ本と末とは究竟して等しとは説き給へるなり、是を如是本末究竟等とは申したるなり、始の三如是を本とし終の七如是を末として十の如是にてあるは我が身の中の三諦にてあるなり、此の三諦を三身如来とも云へば我が心身より外には善悪に付けてかみすぢ計りの法もなき物をされば我が身が頓て三身即一の本覚の如来にてはありける事なり、是をよそに思うを衆生とも迷いとも凡夫とも云うなり、是を我が身の上と知りぬるを如来とも覚とも聖人とも智者とも云うなり2023/07/12 14:45:3185.晃CCszc>>84これを読んでなるほど!と分かる人がどれくらいいるだろうか 現代語でわかりやすくすることが必要だと痛感する2023/07/12 14:47:5786.晃CCszc仮とは?空とは?中とは?と聞かれて仮とは仮である 空とは空である 中とは中である と答えてる限りその意味は分かってることにはならない…だから晃は 便宜的に現代人にわかりやすいように仮とはノリ 空とはツッコミ 中とはオチ と解説する2023/07/12 14:50:1087.法介v0yrz仮諦って何だと思います?実体における真理です。人間の五蘊の働きによって実体は実体として立ち上がります。2023/07/12 14:51:4388.晃CCszc龍樹の中論も 仏教全体を“仮”としてそれに激しく自身のツッコミを怒涛のように入れる空観で “中”を体現しようとした2023/07/12 14:53:3789.法介v0yrz我々人間は、モノを前五識(目・耳・口・鼻・肌)の五感で認識し、第六意識でそれが何かを記憶していきます。そういった記憶は概念として自身の意識(第六意識)の中に形成されて行きます。2023/07/12 14:54:2290.法介v0yrzですから人間は、モノを概念として捉えて実体化します。それが実体の正体です。これを仏教では、「此れ有る時、彼有り」と阿含経典で説かれている此縁性縁起として説かれております。 三蔵教での真理=実体に即した真理(此縁性縁起)2023/07/12 14:57:0991.晃CCszc>>87仮諦というのは実体であれ、そうで無いものであれ仮説に“乗っかる”というのが主眼仮にそうあれば~、という思考方法でそこに実体の有無は関係ない空諦はその逆で、それを否定する思考方法はやい話、仮諦は肯定、空諦は否定この二つの二諦を使って中諦という落としどころを見つけるのが三諦の目的ではないのか2023/07/12 14:57:1292.晃CCszc>>89,90その五蘊の仮説に乗っかって肯定するのであればそれは仮諦だし、否定するのであればそれは空諦2023/07/12 14:59:1393.元コマンドー◆KBl5hH0VXM2Wejz>>13法華経の内容は空っぽだから空2023/07/12 14:59:2894.法介v0yrz次に空諦は、通教で龍樹が「空の理論」を解読し『中論』で詳しく解き明かします。その内容は、モノを実体として見る見方は「有る無し」といった客観認識法で、仏教ではそういった「有る無し」の見方では無く、五蘊を空じた仏の見解に立ちます。五蘊を空じますので人間の認識である色・受・想・行・識の認識(第六意識)では無く、阿頼耶識を対象とした末那識(第七末那識)での因縁を以て観るモノの認識となります。これを相依性縁起と言います。2023/07/12 15:02:1995.法介v0yrz>この二つの二諦を使って中諦という>落としどころを見つけるのが三諦の目的ではないのか違います。何を根拠にそのようなでたらめを言われますか?2023/07/12 15:04:1596.晃CCszc>>93空っぽではない六万九千三百八十四字あるが2023/07/12 15:04:3897.法介v0yrz>法華経の内容は空っぽ>だから空↑これのことです。2023/07/12 15:05:4298.法介v0yrz法華経は「開三顕一」を説いている事をご存知でない?2023/07/12 15:06:5399.法介v0yrz三乗に開いて説かれた教えって何だとお考えです?2023/07/12 15:07:26100.法介v0yrzここは大事なポイントですから、明確にお答えください。2023/07/12 15:08:17101.元コマンドー◆KBl5hH0VXM2Wejz>>96法華経は素晴らしい最高でもその理由が空っぽ2023/07/12 15:10:17102.晃CCszc>>95龍樹が仏教そのものを仮諦として中論で空じつくし批判し続け中諦を体現しようとしたから龍樹の中論で二諦しかないのは中諦をタイトルに載せてるからであり言わずもがなで省略しているから2023/07/12 15:11:24103.元コマンドー◆KBl5hH0VXM2Wejz>>981行で要約すると?2023/07/12 15:11:44104.晃CCszc>>99法華経だが2023/07/12 15:12:09105.法介v0yrzあれ、いつの間にかコマンダーさんが混ざってたんですね^^失礼。晃さんの発言と混同してました^^2023/07/12 15:12:24106.晃CCszc>>101それは文盲なだけ…2023/07/12 15:12:35107.晃CCszcだから中論を空の書と読んでる人は底が浅い2023/07/12 15:13:55108.元コマンドー◆KBl5hH0VXM2Wejz>>106法華経の内容とは?2023/07/12 15:14:51109.晃CCszc仏教、という仮説にたいしてすらも仏教徒として徹底的に批判を加えて最終的に三諦を体現するのが目的で龍樹が中論で一番言いたかったのは空ではなく中2023/07/12 15:16:05110.法介v0yrz>>103三乗の法ですから一行では無理でしょう。 声聞の智慧=此縁性縁起 縁覚の智慧=相依性縁起 菩薩の智慧=当体蓮華(因果俱時)この三智を一切智として法華経が顕されます。2023/07/12 15:16:13111.晃CCszc>>108南無妙法蓮華経2023/07/12 15:16:27112.元コマンドー◆KBl5hH0VXM2Wejz>>110それら三乗は方便(仮の教え)では?2023/07/12 15:18:37113.法介v0yrz声聞の智慧=此縁性縁起 ---(仮諦) 縁覚の智慧=相依性縁起 ---(空諦) 菩薩の智慧=当体蓮華 ---(因果俱時=中諦)2023/07/12 15:18:54114.元コマンドー◆KBl5hH0VXM2Wejz>>111法華経の内容は無いよう2023/07/12 15:19:19115.晃CCszc>>110三乗はそもそも方便っていう告白だろうに三乗が大切というわけではないだろう2023/07/12 15:19:29116.法介v0yrz>>112三乗を三乗として修行する事が方便であって、三乗を一仏乗に集約した教えが『法華経』です。2023/07/12 15:20:38117.法介v0yrz三乗を一仏乗に集約=円融三諦2023/07/12 15:21:00118.法介v0yrz三乗の内容は爾前経で詳しく説かれております。それを詳しく学んでおられない創価や正宗の人達は、その内容を知らないでしょうけどね。2023/07/12 15:23:01119.晃CCszc>>116,117いや違う 三車の羊車、鹿車、牛車は衆生に結局、与えられなかった大白牛車のみが衆生に与えられたもし集約してるなら、羊鹿牛も与えられたはずだが2023/07/12 15:23:26120.晃CCszc>>118正直捨方便だから、大切な教義ではない2023/07/12 15:24:16121.法介v0yrzされが先に紹介しました、相待妙と絶待妙の二つの妙法の意味です。創価や正宗の人達は相待妙の妙法しか知らないという事です。2023/07/12 15:24:39122.法介v0yrz>>119では、此縁性縁起も知らないでそのモノの真実の姿を把握出来ますか?2023/07/12 15:25:55123.元コマンドー◆KBl5hH0VXM2Wejz>>116キリスト教もイスラム教も方便であり、法華経に集約できますか?2023/07/12 15:26:28124.晃CCszc>>121絶待妙は法華経のみに許された特権だろう?もし自分が爾前経に詳しいからと言って自分自身が絶待妙だといえばそれは違うだろう2023/07/12 15:26:54125.晃CCszc絶待妙が絶待ではなくなってしまう2023/07/12 15:27:44126.法介v0yrzあなたが当たり前のようにコップと思って水を飲んでたモノが、実は造った人に聞いたら「それ、花瓶として造ったんですけど、、、」ってこともあり得るんですけど。2023/07/12 15:28:04127.晃CCszc>>122そのモノとは具体的になんですか?2023/07/12 15:28:24128.法介v0yrz>>123それは三乗の法ではないでしょうに。外道の法でしょうに。2023/07/12 15:28:59129.晃CCszcもし法介さんのレスが絶待妙だとしますよ?経文でもない法介さんが絶待妙なら法華経のみが絶待妙とするロジックが崩壊しますがそのことについて法介さんはどう答えますか?2023/07/12 15:30:27130.法介v0yrzモノを客観認識(概念)で捉えると誤った解釈に至る事が多々あります。そのモノがそのモノと成り得た縁起(因縁)で観て始めてそのモノの真実の姿を捉える事が出来ます。(実体における真理=此縁性縁起)2023/07/12 15:31:02131.法介v0yrz>経文でもない法介さんが絶待妙なら私は人間です。意味不明な問いかけは勘弁してください^^2023/07/12 15:32:10132.晃CCszc>>131我々は相対妙に留まって絶待妙を主張しないことが道理と言うことです2023/07/12 15:33:10133.法介v0yrzたとえば晃さんパンを盗んだ男が居たとしましょう。世間の人達は世間一般の常識(概念)で窃盗を犯したこの男を悪人呼ばわりします。2023/07/12 15:34:05134.晃CCszc>>131答えに詰まる質問を意味不明と退けるまえに 自分の前提がオカシイ可能性も考えた方がいい2023/07/12 15:36:25135.法介v0yrzしかし、その男がどうしてパンを盗んでしまったかという因果を観てみると次のような事実が判明しました。実は男には飢えに苦しんで今にも死にそうな子供がいて、その子を何とかして助けたいとの一心でパンを盗んだのでした。それでもあなたは、その男の事を悪人呼ばわりしますか?2023/07/12 15:36:57136.法介v0yrz客観認識=五蘊による凡夫の認識(仮観)因縁による認識=仏の縁起での認識(空観)2023/07/12 15:38:27137.晃CCszc>>135末法無戒なので2023/07/12 15:39:44138.法介v0yrzでは、覚りの境地である中観はといいますと、話がややこしくなるので『唯識』を詳しく学んでくださいと言っておきます。2023/07/12 15:40:15139.晃CCszc>>138仮空中で分断して語るのはダメだったのでは?2023/07/12 15:42:00140.晃CCszc円融してないやん2023/07/12 15:42:39141.法介v0yrz【末法無戒】末法の世における仏道の修行では、正法時や像法時に成立した諸々の細かい戒律はまったく無益であるということ。 解釈によっては、無益どころか害になるともいう。縁起でのモノの見方が「末法無戒」とは、、、、。呆れてモノが言えません。2023/07/12 15:42:47142.晃CCszc>>141いや、不偸盗戒そのものについて、ですが2023/07/12 15:43:57143.法介v0yrz>>139円融三諦を解っていないからそのような問いになるんです。呆れてモノが言えません。2023/07/12 15:44:47144.法介v0yrz私は呆れ果てましたのでこれ以上何も申しません。2023/07/12 15:45:47145.晃CCszc>>143円融したまま説いてくださいよ…自分のノリ ツッコミ オチより分かりやすい説明は無いと思う2023/07/12 15:47:24146.元コマンドー◆KBl5hH0VXM2Wejz>>128信じる者は救われる御本尊に向かって題目法華経の正体はキリスト教やイスラム教2023/07/12 15:48:18147.晃CCszc>>144それなら慳貪に堕すのでは?仏教なら分かってて教えないのはただのケチですよまあ、分からない 自分の間違いに気がついたのが本音でしょうが2023/07/12 15:48:23148.晃CCszc>>146いや、キリスト教イスラム教はほぼ念仏2023/07/12 15:49:12149.元コマンドー◆KBl5hH0VXM2Wejzみんなの仏教のイメージは何となく正しいもんだという漠然とした感じお釈迦さまは善い人だみたいなそれって違うんですよ2023/07/12 15:51:19150.晃CCszc自ら無上道 大乗平等の法を証して 若し小乗を以って化すること 乃至一人に於いてもせば 我則ち慳貪に堕せん 此の事は為めて不可なり(妙法蓮華経方便品第二)法介さんに、この経文を送ります…2023/07/12 15:51:25151.元コマンドー◆KBl5hH0VXM2Wejz>>148唯一絶対神,唯一絶対なお経構造として同型2023/07/12 15:52:28152.晃CCszc>>151法華経の方が、強い2023/07/12 15:53:26153.元コマンドー◆KBl5hH0VXM2Wejz>>152三乗にキリスト教もイスラム教も入れて法華一乗にするこれで世界は平和になる2023/07/12 15:57:29154.晃CCszc>>153三乗は仏教の中の話で外道は関係ない2023/07/12 15:58:29155.元コマンドー◆KBl5hH0VXM2Wejz>>154涅槃経には「一切世間の外道の経書は皆是れ仏説にして外道の説に非ず」と仰せられて候を・妙楽大師は法華経の第六の巻の「一切世間の治生産業は皆実相と相い違背せず」との経文に引き合せて心をあらわされて候には・彼れ彼れの二経は深心の経経なれども彼の経経は・いまだ心あさくして法華経に及ばざれば・世間の法を仏法に依せてしらせて候、法華経はしからず・やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候。白米一俵御書1,597ページ2023/07/12 16:03:07156.法介v0yrz>>155おもしろいですね。コマンドーさん『白米一俵御書』の「一切世間の治生産業は皆実相と相い違背せず」の文句をご存知とは、創価の方ですか?2023/07/12 16:10:05157.晃CCszc>>155外道の説が仏説であったとしても仏説の中で外道の説は説かれてない2023/07/12 16:11:12158.法介v0yrz『一代聖教大意』の次の御文はご存知でしょうか?外道に三人あり、一には仏法外の外道 九十五種の外道、 二には学仏法成の外道 小乗、 三には附仏法の外道 妙法を知らざる大乗の外道なり2023/07/12 16:11:45159.元コマンドー◆KBl5hH0VXM2Wejz>>156私は創価学会三世ですでも題目もしてない、創価の集会にも参加してない幽霊会員です2023/07/12 16:12:24160.法介v0yrz日蓮聖人は、外道に三種あることを述べられております。一番目の仏法外の外道は内道を説かない外道という意味で、内道とは心の世界、即ち〝主観〟であり対して物事を〝客観的〟に捉えるモノの見方を外道と言います。物理や科学、医学や数学など世の中の学識はおおよそこの〝客観〟という立場で万人に共通するモノの見方、捉え方を〝概念〟として集大成したものです。2023/07/12 16:12:56161.法介v0yrz>>159そうですか。私も元は学会三世でした。2023/07/12 16:13:58162.元コマンドー◆KBl5hH0VXM2Wejz>>157リンゴは果物でも果物はリンゴでは無い2023/07/12 16:14:35163.法介v0yrz私の場合は、バリバリの活動家でしたけどね^^学会の教学の逸脱に気づいて潔く止めました。2023/07/12 16:14:58164.法介v0yrz(外道に三人ありの続き)〝主観〟で感じた事を言葉で表現する文学はどうでしょう。一見主観の世界のように思えますが実はその言葉自体が客観性で成り立っております。例えばあなたが食べたリンゴの「おいしい」を誰かに伝えようとした場合、「甘くておいしい」とか「よく熟してておいしい」といった共通認識語の言葉でしか表現出来ません。しかし実際には個々人は各々に感性が異なりますのであなたの「おいしい」と誰かの「おいしい」とは同じ「おいしい」でも微妙に異なってきます。〝主観〟は、それを誰かに伝えようと言葉に置き換えた時点で〝客観〟に変わります。このような世間一般の学識に概ね九十五種類の外道の見方捉え方があるというのが一番目の「九十五種の外道」です。二番目の「学仏法の外道」とは仏法を学んでも尚外道(実体思想)から抜けきらない小乗教の析空に陥った仏法修行者のことを言います。 お釈迦様は、〝我有り〟を説く外道に対し縁起をもって〝無我〟を説きます。常に流動的に変化し続ける世の中において、変わらずにあり続ける永遠不滅の存在はあり得ないとして「モノの有る無し」や「生命の断見・常見」を外道義として破折されました。しかし、この小乗で説かれた〝縁起〟は、仏門に入りながらも未だ実体思想が強かった〝声聞〟という境涯の弟子達に対して、実体に即した因果律にもとづいて説かれた〝此縁性縁起〟であった為、彼らは「肉体(因)があるから煩悩(果)が生じる」といった「モノの有る無し」の思考(実体思想)で縁起を起こし、「身も心もともに滅する」といった色心俱滅の過酷な修行を小乗仏教の中で展開します。いわゆる灰身滅智(けしんめっち)です。2023/07/12 16:16:38165.法介v0yrz三番目の「附仏法の外道」とは、空を人空(無我)でしか理解出来ずに灰身滅智に陥った小乗とは違い、法空で空観に入って大乗を展開していった阿羅漢達の中にも外道がいるというのですが、それがどういう外道なのか詳しくお話していきます。お釈迦さまは縁起を説くことで永遠不滅の存在を完全否定された訳ですが、大乗ではこれをひっくり返して「永遠不滅の仏」を説きます。これはお釈迦さまが究極の処では仏は生じることも無く、滅することも無い、いわゆる不生不滅の〝無始無終〟の存在であるといったことに由来する考えなのですが、この考えが外道にあたると日蓮聖人は言われております。『十法界事』という御書にそのことが詳しく述べられていますので紹介します。「大乗の菩薩に於て心生の十界を談ずと雖も而も心具の十界を論ぜず、又或る時は九界の色心を断尽して仏界の一理に進む是の故に自ら念わく三惑を断尽して変易の生を離れ寂光に生るべしと、然るに九界を滅すれば是れ則ち断見なり進んで仏界に昇れば即ち常見と為す九界の色心の常住を滅すと欲うは豈に九法界に迷惑するに非ずや」これは大乗の別教の中で説かれている厭離断九の仏について述べられている箇所ですが、大乗において菩薩となった修行者が、仏界の一理に進む為に三惑を断尽して変易の生から離れてた寂光土に転生することで仏となります。しかしこの場合、九界を滅する訳ですから断見であり九界から離れた仏界へ転生する訳ですからそこにおける永遠不滅の仏界は常見となると仰せになられています。2023/07/12 16:17:21166.元コマンドー◆KBl5hH0VXM2Wejz>>161創価学会に疑問を持って原始仏典を読んだりしてお釈迦さまは法華経なんて説いてないー!法華経はニセモノだー俺の親父のことです2023/07/12 16:17:49167.法介v0yrzさて、戒壇の御本尊を「永遠不滅の本仏」と崇めている正宗は、この三つの中のどれにあてはまるでしょう。2023/07/12 16:19:58168.晃CCszc>>162その通りだと思う2023/07/12 16:20:39169.晃CCszc>>167戒壇の御本尊はモノであるから永久不滅では無い、と正宗の信徒はいうがだから有り難い、というロジックを説いてるその点は問題ないだろう?2023/07/12 16:21:54170.法介v0yrz>>166『法華経』は三千塵点劫という昔に出現した仏(大通智勝仏)が説いたと「化城喩品第七」で説かれております。お釈迦様が説かれた訳ではありません。2023/07/12 16:23:02171.法介v0yrz>>167それは問題ないと思う。2023/07/12 16:24:11172.晃CCszc>>170?釈迦牟尼仏も法華経を説いただろう??五百塵点劫の昔からあるのではないか?時代時代で文字数は変わる 今の時代は南無妙法蓮華経の5字7字だが 地水火風空の5字だった時代もあるという2023/07/12 16:25:03173.晃CCszc不軽菩薩の時代は法華経の偈は二十千万億あったと法華経にある…2023/07/12 16:26:54174.法介v0yrz>>172間違いではないと思う。2023/07/12 16:28:08175.元コマンドー◆KBl5hH0VXM2Wejz>>170文献学で、歴史上実在したゴータマは法華経は説いて無いという意味です2023/07/12 16:28:54176.法介v0yrzそんな事より、晃さん。創価 VS 宗門の構図ですが、その「因縁」(縁起)をあなたはどう見てますか?2023/07/12 16:29:55177.晃CCszc>>175文献学、というのが、外道に迫害されて破壊尽くされた大乗経典を、考慮に入れてない2023/07/12 16:29:59178.晃CCszc>>176折伏と摂受の境界線を誤ったところにあると考える南無妙法蓮華経を唱えてるものは摂受すべきだった2023/07/12 16:30:46179.法介v0yrz>>175残念ながら、仏教は文献学ではありません。2023/07/12 16:30:46180.晃CCszc考古学は発掘できない歴史はまったく無かったことにして空白にしてしまう…だから大乗非仏説が通説になる現代は末法そのもの2023/07/12 16:31:52181.元コマンドー◆KBl5hH0VXM2Wejz>>167永遠不滅の本仏とは日蓮でしょ血脈相承した弟子たち2023/07/12 16:32:03182.法介v0yrz文献学=客観性仏教=信仰の世界(観得)客観→主観→空観(←これが仏教の世界観)2023/07/12 16:33:04183.元コマンドー◆KBl5hH0VXM2Wejz>>177>>179そういう態度でくるのね(´・ω・`)2023/07/12 16:34:10184.法介v0yrz仏の空観から覚りの真如の世界観(中観)に入るのが円融2023/07/12 16:34:38185.晃CCszc>>183実際、インドのイスラム教徒の破壊活動は、すごかった2023/07/12 16:34:52186.晃CCszcインドにイスラム教が入り込んで破壊し尽くしたのは、12世紀末法到来と重なる2023/07/12 16:38:36187.晃CCszc僧侶を殺し寺を破壊する外道が、経典を徹底的に焼き払わないわけがないだから、大乗経典が残ってないのは道理2023/07/12 16:39:32188.法介v0yrz>>178わたしの見方を述べます。日達猊下は池田さんのおかしな妙法観に気づいておられました。ですから会長職を辞任させるまで追い込みました。しかし、その日達上人が亡くなられて池田さんは自分の言いなりになりそうな日顕さんと結託して再度、最高責任者に返り咲きます。日顕さんもそうした方が自身の体制を盤石なものに出来たからです。ここのところが「因」です。(日顕さんの保身)2023/07/12 16:40:33189.法介v0yrz言わば、日顕さんの自業自得。因果応報そのものです。2023/07/12 16:41:17190.元コマンドー◆KBl5hH0VXM2Wejz>>185イスラム教は平和な宗教人頭税さえ払えば信仰の自由を保障されただがイスラム教は徹底的に仏教を弾圧されたそれだけ仏教が危険な宗教だった2023/07/12 16:41:20191.法介v0yrz「心の外に善悪なし」の御金言通りです。2023/07/12 16:42:01192.晃CCszc>>190なぜ仏教寺院がイスラム教徒に狙われたのか?というと単純に富裕層だったから、という理由もあるらしい2023/07/12 16:43:06193.晃CCszc>>188いくらおかしくても諭し続ける摂受に徹すべきだった南無妙法蓮華経してるのだから2023/07/12 16:44:06194.元コマンドー◆KBl5hH0VXM2Wejz>>186末法だから釈迦仏教の賞味期限は切れた末法の本仏が日蓮という理屈2023/07/12 16:44:35195.晃CCszc>>194そうだと思う2023/07/12 16:45:08196.元コマンドー◆KBl5hH0VXM2Wejz>>192乞食が裕福になると2023/07/12 16:47:53197.晃CCszc中村元先生などが主張する原始仏教などの南伝仏教は、いわば イスラム教徒に目をつけられなかった残りカスみたいなもんで、そこまで魅力がないからそのまま迫害されなかった、残っただけとも言える2023/07/12 16:48:08198.法介v0yrz>>193そうだと思います。2023/07/12 16:48:08199.法介v0yrz第59世法主、堀日亨上人の「富士日興上人詳 伝」の次の文はご存知ですか?「(仏教家の史談も)教化的効果のあがるように、俗受けのするようにとばかり考えてこしらえたものが多いようである。 家中抄の御筆も、いささかこれに類するやに思うが、とにかく宗門人の史談の種本が精師以後、今日にいたるまで家中抄そのまま、またはここに輪を掛けた俗悪低流の物を多く顧みて、いまの引文をここに批判するの止むを得ぬにいたり、ついにあるいは冗漫あるいは失礼(先師に対する)にわたりしことを許されたし。 むろん富士宗学要集の中には間々天註に注意しておいた。 御荷物の中に「生御影」「御骨」はかならず御奉持であるべきであるが、板本尊にいたっては研究の余地が存ずる。(中略)現存大石の多数のものは、南条下之坊保管の物であり興師の延山時代には関係ない。 すでに原殿抄の末文にあるごとく、延山の常住物はなに一つ持ち出してない。 涅槃経の中の二巻を御使用のまま持ち出されたので、十二月十六日に返還せられてあるくらいで、したがって日尊実録の中にも 『身延沢御退出の刻・公方・聖教・世事雑具等皆悉く御墓所に之を置く可きの由、衆徒に相触れられし時、面々供奉の人々一紙半銭も持ち出ることなし』 と書いておる。 とうぜんのことである。」 (富士日興上人詳伝(上)280-281頁、聖教文庫)2023/07/12 16:50:11200.晃CCszc北伝仏教こそ、原始仏教だと思います大切だから 命懸けで渡来して、經訳をした2023/07/12 16:50:17201.法介v0yrz「板本尊にいたっては研究の余地が存ずる。」「すでに原殿抄の末文にあるごとく、延山の常住物はなに一つ持ち出してない。」2023/07/12 16:51:18202.晃CCszc>>199それは戒壇の御本尊が偽作という話ですか?2023/07/12 16:52:23203.晃CCszc時の貫首も己義を構えることもあるからただ単にスルーするだけです2023/07/12 16:52:54204.法介v0yrz戒壇の御本尊=永遠の本仏↑これは三番目の「附仏法の外道」に相当します。2023/07/12 16:56:52205.法介v0yrz客観(仮観)で仏教を理解している創価や正宗の本尊観です。2023/07/12 16:57:48206.法介v0yrz戒壇の御本尊に大聖人の魂がやどっているのではありません。御本尊を縁(縁因仏性)としてお題目(了因仏性)を唱えた時自身の意識層の中に大聖人の魂が顕われるのです。(正因仏性)2023/07/12 17:00:49207.晃CCszc>>204末法万年は少なくともカタチを留めるのではないか?もし日蓮大聖人の出世の本懐がその程度のものなら日蓮仏法そのものが大したものではないことになるが2023/07/12 17:00:51208.法介v0yrz自身の意識層=九識心王真如2023/07/12 17:01:30209.晃CCszc>>206日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ(経王殿御返事)2023/07/12 17:02:34210.法介v0yrz>末法万年は少なくともカタチを留めるのではないか?縁因仏性はその通りです。(応身)2023/07/12 17:03:21211.法介v0yrz>>209それをもって戒壇の御本尊に日蓮聖人の魂がやどっているというのは間違いです。なぜなら、仏教では「無我」が大前提としてあるからです。無我=モノに変わらずにあり続ける本質は無い(縁起)2023/07/12 17:05:41212.法介v0yrz大乗でも永遠性は否定されます。その事を説いているのが『一代聖教大意』の三種の外道です。2023/07/12 17:07:20213.晃CCszc>>211>>19を、読んでくださいそれは無我で否定した我の種類が違う2023/07/12 17:08:11214.法介v0yrz大乗の他宗はことごとく「永遠の仏」(←常見)を説いております。2023/07/12 17:08:16215.法介v0yrz>>213では、晃さんが言う「無我」とは?2023/07/12 17:09:01216.晃CCszc>>212如来寿量品の仏は常住不滅だが…2023/07/12 17:09:09217.法介v0yrz「厭離断九の仏」の意味はちゃんと理解なされておられますか?2023/07/12 17:10:14218.晃CCszc>>215変な漫画を読んでてその主人公ってダサくね?って話です俺が描いた方がいい という話が仏教外道の宗教の主人公を否定したのが仏教の無我2023/07/12 17:10:31219.法介v0yrz>>216晃さんも「常住不滅」の意味をはき違えておられませんか?2023/07/12 17:11:48220.晃CCszcだからといって仏教が主人公を立てないとするのは大きな誤解で仏は仏という我を確立した2023/07/12 17:12:08221.晃CCszc>>219法華経の経文と爾前経が相違するなら法華経に付くが2023/07/12 17:12:51222.法介v0yrz>>218その例え余計にわかりにくいんですけど^^2023/07/12 17:13:12223.晃CCszc>>222仏教の無我はそもそもアートマンの否定のためのものですよ2023/07/12 17:13:42224.法介v0yrz>仏は仏という我を確立したそれは正しいです。仏と言えども自我は備わっております。ですから法を説きますし、民衆を救いたいと願望もします。2023/07/12 17:14:40225.法介v0yrz中道仏法は良く〝中道〟を説くと言いますが中道とは、世の中の存在を「有る」と見るか「無い」と見るかといった見解に立った時、「有るのでもなく、無いのでもない」と見るのが正しいとする仏法の概念の一つです。この「有るのでもなく、無いのでもない」といった見解を〝非有非無(ひうひむ)〟といいます。中道の理論的主柱となる〝空〟を学ぶにあたってとても重要な概念です。世の中は様々なモノから出来ています。そのモノの有り様を「有る」とみれば〝有〟で、「無い」とみれば〝無〟となります。〝有〟は実在、〝無〟は非実在という意味でもあります。モノが「有る」というのは解りますが、モノが「無い」とはどういうことか。これは人がモノを認識してはじめてそのモノが存在しえる訳ですから人の心を中心に考えるとモノが有る訳ではない。このように〝モノ〟を中心に考えると「有る」、しかし〝心〟を中心に考えると「無い」。この両極端から離れたところに実は真実があるとお釈迦様は悟りました。その有でも無い、かといって無でも無い「非有非無」の真理として〝縁起〟が説かれました。縁起はお釈迦様が実在した正法時代における真理として顕された有にも無にも偏らない中道の非有非無(空)の真理です。2023/07/12 17:16:16226.法介v0yrz阿含経お釈迦様の説法はその殆どがお釈迦様の死後、迦葉や阿難を始めとする弟子たちが中心となって数回にわたる結集を経て教説としてまとめられ経蔵として形成されました。その中でも最も古い原始仏教とされる阿含経から弟子達は学んでいきます。仏道に入って最初に得られる境涯の事を〝声聞〟といいます。阿含経は実体への執着が強かった当時のお釈迦様のお弟子さん達が理解しやすいように実体思想で説かれています。そういった理由から阿含経は声聞経ともよばれたりもします。この中で、十二因縁を基として縁起が説かれているのですが、「科学や物理の実験」や「医学の臨床実験」といった部類はどれも客観性に基づいて行われる検証で「誰にでも起こりうる現象」です。例えば「手に握ったリンゴを離せば地面に落下する」ことで引力という法則が定義ずけらたように、「実験によって得られる結果から導き出される定義」は、因果関係で成り立っています。(実体思想)十二因縁はそのような因果律を示したもので声聞の弟子達はそれをもって縁起を理解し小乗仏教を展開していきます。2023/07/12 17:16:26227.法介v0yrz無我お釈迦様の時代は、古くからのバラモンの教え(ヒンドゥー教)によって「バラモンは、前世もバラモンであり来世もバラモンだ」とするカーストによる階級制度がひかれており、その階級が永遠に輪廻転生を繰り返すという考え方(常見)が強く根付いていました。そういったバラモンの教えに対し、「人間は死んだら一切無で輪廻転生などしない」とする学説(断見)を提唱して盛んに対抗した六人の非バラモン思想の自由思想家(六師外道)が現われます。それに対しお釈迦様は、この「断見と常見」を否定し、運命のままに生きれば輪廻転生を繰り返すが修行によって解脱することができると説いてカーストを否定します。このような「断見や常見」といった考え方は「モノの有・無」といった極端な考え方であってお釈迦様はその二辺から離れて「世の中は全てが縁によって生じる」といった〝縁起〟を真理として〝中道〟を説きます。人間という存在は五蘊が仮に和合して顕れた姿(衆生)であって、恒常不滅なる〝自我〟は存在しないとしてお釈迦様は縁起による〝無我〟を説くのですが、「モノの有る無し」で考える〝実体思想〟から抜けきらなかったお釈迦様の当時の弟子達は、〝無我〟を実体思想で理解してしまいます。「モノの有る無し」の考え方(世間一般法)は、有と見れば〝常見〟、無しと見れば〝断見〟ですが仏法では〝縁起〟で考えます。 <モノの考え方> 世間法=モノの有無 仏法=縁起阿含経で詳しく説かれるこの〝縁起〟は、十二縁起を基とする縁起なので弟子達はその縁起を実体思想(モノの有る無し)で理解します。「モノの有る無し」で縁起を考えると、「肉体があるから煩悩が生じる」という発想になって「因となる肉体を滅すれば果となる煩悩を完全に寂滅出来る」という考えから肉体の寂滅を目指し過酷な修行が小乗仏教の中で展開され灰身滅智(身を灰にし智をも滅する)に陥ります。2023/07/12 17:16:49228.法介v0yrz竜樹阿含経の中で説かれている〝無我〟や〝縁起〟は「非有非無」の中道を支える法理ですがここでは十二因縁からなる因果律(実体思想)で縁起が説かれている為、実体思想(モノの有る無し)で中道を理解することになります。〝中道〟を正しく理解するには、実体思想から抜け出ることが重要です。時代が、正法時代の後期になると竜樹(ナーガールジュナ)が登場し、般若心経で説かれる〝空〟の法理を解明して小乗の誤った中道(縁起)解釈を正し、空の理論を用いてお釈迦様が示した中道(非有非無)の真理を『中論』という論書にまとめ上げました。その『中論』の二四章一八偈で竜樹は次のように述べています。「我等は縁起せるものを空と説く。それは仮説(仮の名)であり、また中道である」(正蔵三〇・三三中)縁起によって生じるモノには実体がなく(無自性)、実体がない故に空(中道)なので「縁起→無自性→空」となって竜樹の空理は、「空=中道」の次のような構図になります。 <空の定義> 有=存在 無=非存在 空=非有非無=縁起=中道そしてモノの見方を、主観・客観・空観として、真諦と俗諦の二諦説としました。 <空観の意味> 俗諦(世間法)=主観と客観 真諦(仏法)=空観そして、この空観に析空と体空の二種があります。2023/07/12 17:17:14229.法介v0yrz析空と体空お釈迦様がこの縁起という見方を声聞の弟子達にさとす為に説いた教えが阿含経です。阿含経典の中でお釈迦様は、無我や五蘊、縁起、十二縁起といった教えで縁起という仏法独自のモノの見方を諭します(中道)。お釈迦様が直接説かれた教えは阿含経だけだと世間一般に言われています。あとの経典は説法を聞いたお弟子さん達が後の世にまとめたものだと。そしてその阿含経には〝空〟は説かれていません。空は般若心経の中で詳しく説かれています。それをもって「お釈迦様は〝空〟を説かれていません」という人もおられますが、無我や五蘊、縁起、十二縁起をもって縁起というモノの見方、即ち空観をちゃんと説いています。ただ、お釈迦様が説かれた空は、十二縁起を基とした縁起だったため声聞の弟子達は実体思想でしか縁起を理解出来ませんでした。仏法は「モノの有る無し」ではなく、「人の心のありよう」を説いた教えです(人の最終境涯として仏を説く)。モノの方を説く教えを心の外をさして仏法では〝外道義〟と言います。それに対し心の内を説く仏法を〝内道〟と言います。内道として説かれた中道の〝縁起〟を実体思想の外道義で展開した空理(空の理論)が析空です。ここに池田会長が説く三諦論がありますが、 池田先生の三諦論https://syozou.blog.jp/archives/19085878.html2023/07/12 17:20:29230.晃CCszc法華経に入ると中道すら方便とあるが2023/07/12 17:20:52231.法介v0yrzこれは「モノの有る無し」を説く外道義の析空です。析空は、モノを細かく細分化して見る(実体思想の)〝空〟で体空は体感として観じとる〝空〟と一般的には言われますが、これは「モノの見方(外道)」として空を展開するか、「人がモノを認識するありよう(内道)」として空を展開するかの違いです。阿含経で説かれる縁起を基として展開された小乗の空は、「モノの有る無し」の実体思想(外道義)で展開された空理です。それに対し、竜樹が大乗で展開した〝空〟は般若心経で説かれる「五蘊皆空」を基とした〝相依性(相互依存)〟の縁起です。竜樹は、それまでの小乗の誤った空の解釈(析空)を正す為に、般若心経をひも解きその中で説かれている「五蘊皆空」や「受想行識亦復如是」をもって、五蘊全てを空じる法空(法無我)を主張し、小乗が主張する人空(人無我)を破折して「色即是空 空即是色」の真理を明かします。【色即是空】「この世のあらゆるモノや現象には実体はない(空)」【空即是色】「実体がないことが、この世のあらゆるモノや現象を形成している(虚像=仮)」この竜樹の空理(二諦説)は、後に天台智顗の空・仮・中の三諦説へと進化していきます。竜樹が顕した『中論』は、とても解りにくい文章で表現されています。日本における仏法学の第一人者であられた中村元博士(号)が解説された著書〝竜樹〟は、卓越した仏法の知識をもっておられた中村先生だからこそ顕すことが出来た一冊だったと思います。先生はこの著書の中で竜樹の中論の中心問題を「縁起の相依性(相互依存)」と述べておられます。2023/07/12 17:20:55232.法介v0yrz以上、正しい「無我」を学ばれてください。2023/07/12 17:21:41233.晃CCszc中村元に傾倒してる時点でもうセンスが違います2023/07/12 17:22:14234.法介v0yrz>>230それは別相の三観での中観のお話です。天台教学の「別相三観」と「通相三観」を学びましょう。2023/07/12 17:23:08235.法介v0yrz>中村元に傾倒してる時点で傾倒などしておりません。中村博士は文献学の人です。ですからインド仏教を二諦説などと誤った仏教観を世に弘めました。龍樹は三諦説を『中論』の中でちゃんと説いております。2023/07/12 17:25:26236.法介v0yrz龍樹→世親→天台智顗→日蓮と仏法が継承されていったと見るのが日蓮仏法です。2023/07/12 17:26:56237.法介v0yrz二諦説と三諦説(私法介のブログです)https://butudou.blog.jp/archives/17660547.html2023/07/12 17:28:45238.晃CCszc方便力を以って、中道に於いて止息せんが為の故に、二涅槃を説く。(妙法蓮華経化城喩品第七)これをどう解釈するのか2023/07/12 17:30:12239.法介v0yrz>>238晃さんはどう解釈なされているのですか?2023/07/12 17:31:57240.晃CCszc>>239中道というのは生きとし生けるものだけでなくこの世を去ったものも含めると 死んでるのか生きてるのか分からないあやふやな状態、を意味すると考えている仏はそういうアヤフヤな立ち位置から衆生に親近感を持たせて誘引する化城喩品によると、激しい修行では敬遠されるからだ、とある2023/07/12 17:34:36241.晃CCszcすると、三乗というのは三諦のことなのか?とは思う2023/07/12 17:37:12242.晃CCszc法介さんはどう思いますか2023/07/12 17:38:54243.晃CCszc仏教には、涅槃寂静という教えがある涅槃とは死だろう 死は救済くらいに考えてる節がある2023/07/12 17:42:19244.法介v0yrzこの説明は大変難し説明になりますので順を追って説明しますことをまずご了承下さい。で >>241についてですが、その通り三乗の法とは「空・仮・中」の三諦の事です。 仮諦=実体に即した真理 空諦=実体から離れた真理(実体に捉われない) 中諦=覚りの真理となります。別教ではこれが個別に解き明かされております。 蔵教=仮諦(此縁性縁起) 通教=空諦(相依性縁起) 別教=中諦(而二不二の真理)2023/07/12 17:51:27245.法介v0yrzこの別相の三観を円教である『法華経』で円融させて一念三千の法門が完成します。2023/07/12 17:52:31246.法介v0yrz>>243涅槃には二種あると説かれております。天台智顗は、その二種を「有為涅槃と無為涅槃」と解き明かしているのをご存知でしょうか?2023/07/12 17:54:41247.晃CCszc有余涅槃 無余涅槃でしょうか2023/07/12 17:56:48248.法介v0yrz無為涅槃は、無為の境地に入って臨終を迎える事で六道輪廻から解脱して天上界へ転生します。有為涅槃は「円融三諦」で現状の直面している苦しみや悩み、問題を覚りの境地(中観)に入る事で菩提へと転じていく一念三千の法門です。2023/07/12 17:57:57249.法介v0yrz>>247失礼しました。その通りです。2023/07/12 17:58:45250.法介v0yrz化城喩品第七で言うところの「二涅槃」はそういう事です。爾前経で説かれた涅槃は無余涅槃です。法華経では有余涅槃(一念三千)が説かれます。2023/07/12 18:01:29251.法介v0yrz別相か通相かの違いです。2023/07/12 18:02:09252.法介v0yrz解りやすく例え話を用います。父親が大事にしていた骨董茶碗を娘が不注意で割ったとしましょう。父親は激怒します。2023/07/12 18:04:41253.晃CCszc無量義経に云く「無相・不相の一法より無量義を出生す」已上、無相・不相の一法とは一切衆生の一念の心是なり、文句に釈して云く「生滅無常の相無きが故に無相と云うなり二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云うなり」云云(三世諸仏総勘文教相廃立)有余が一念三千、といいますが日蓮さんは、有余でも無余でもない、といいますが…2023/07/12 18:06:56254.法介v0yrzそして、もうあの素晴らし姿は見れないと思うと悲しみに心が暗く沈みます。(凡夫の仮観)しかし、よくよく話を聞いて見ると、娘がお父さんの散らかった部屋を掃除してあげようと思って起きた出来事(縁起)でした。(此縁性縁起での理解)2023/07/12 18:07:53255.法介v0yrzそう思うと娘への怒りは消え失せます。(←空観)しかし、そうはいってもやはりあの姿は二度と拝めないのかと思うと心は晴れません。2023/07/12 18:09:34256.法介v0yrzそんなお父さんがお題目を唱えていると、時間という概念が無くなり今と過去と未来の分別が無くなって。今の姿の中に同時に過去も未来も観えてきます。そしてお父さんは閃きます。この割れた茶碗を金継ぎにしよう!https://nanboya.com/gold-kaitori/files/2019/05/x131259263.jpg.pagespeed.ic.WlV2p_Z9k0.jpg2023/07/12 18:12:44257.法介v0yrzこれが中諦の覚りです。2023/07/12 18:13:10258.晃CCszc仮は、茶碗がそのまま壊れずにあった状態空は、茶碗が壊れてしまった状態中は、茶碗が金継ぎで壊れつつも存在する状態怒ってしまうのは凡夫だからか仏ならすべて諦めて怒らないはず…2023/07/12 18:26:10259.晃CCszcそんな感想を持ちました2023/07/12 18:26:33260.法介v0yrz晃さんと私とでは「空」の理解に違いがありますので>>258このような違いが起こります。これを四悉檀(ししつだん)と言い、龍樹が『大智度論』の中で詳しく論じており、天台智顗はこの「四悉檀」によって蔵・通・別・円の四教義が起こると申しております。 第一悉檀=蔵教 第二悉檀=通教 第三悉檀=別教 第四悉檀=円教2023/07/12 18:52:31261.法介v0yrz空とは、客観認識から離れ(空じる)、主観認識からも離れる事で言葉という概念から離れます。概念から離れることで様々な迷いから離れて真実で物事を観て行ける仏眼を得ます。人の人生は一瞬一瞬が判断の連続です。その判断を誤ると不幸な方向に転落していきます。でしから目の前の出来事に対して常に正しい判断をしていく事が正しい生き方へと繋がっていきます。しかし、人は自身の価値観や人生観、様々な先入観等によって誤った判断に陥る事が多々あります。一念三千の法門とは、今一瞬の目の前の出来事に対し、正しい判断を得る覚りの法門です。悩みや苦しみを覚りへと転じる煩悩即菩提の仏の智慧、それが円融三諦です。2023/07/12 19:03:23262.法介v0yrz>>253「二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云うなり」二つの涅槃が一つに集約されるのが不相、即ち色相(実体)から離れた世界観(空観)という意味です。「生滅無常の相無きが故に無相と云うなり」の文句の意味は、生じる事も滅する事も無いという仏の世界観を言った言葉です。2023/07/12 19:22:25263.法介v0yrz中諦では、有余も無余も区別が無くなります。一念三千と言いましても、 仮諦の一念三千(有余の相) 空諦の一念三千(無余の相) 中諦の一念三千(不相)の総の三諦があります。2023/07/12 19:27:21264.法介v0yrz(厳密に言えば二乗の涅槃の相は逆になりますが説明するのが面倒なので分かりやすく表現しております)2023/07/12 19:33:16265.法介v0yrzここで晃さんに一つ質問します。因位と果位とが同時に同体で顕れる事を「因果俱時の法門」と言いますが、どうして因位と果位とが同時に同体で顕れるのかご説明下さい。2023/07/12 19:47:37266.神も仏も名無しさんJtnEK日蓮系は全て滅んでいいよマジで2023/07/12 21:29:55267.法介v0yrzそういう君は何系?ほーけい?2023/07/12 21:54:58268.法介v0yrzそういう書き込みに意味を見出せる君って凄いよ。2023/07/12 22:08:49269.法介v0yrz惚れぼれする^^2023/07/12 22:11:23270.元コマンドー◆KBl5hH0VXMgxUneすべては阿部日顕の策略2023/07/12 22:42:23271.法介◆T3azX0Hk1U60Nltジジィ(エロ和尚さん)後でじっくり目を通しておくよあんがとね^^2023/07/13 10:57:35272.法介◆T3azX0Hk1U60Nlt間違えて投稿しちまった^^2023/07/13 10:58:06273.晃QxNlc>>262離れるって書いてる限り違うでしょ2023/07/13 16:43:14274.晃QxNlc>>265不思議の法門なので説明は出来ません2023/07/13 16:45:30275.法介◆T3azX0Hk1U60Nltいやそろそろ晃から離れることにする^^2023/07/13 16:46:58276.晃QxNlc日蓮系仏法において空の理解ができないとダメだというのは、どの御書にも書いてない空はとても重要度の低い法門であることは間違いないキミのは般若心経に偏りすぎてないか?2023/07/13 16:51:29277.晃QxNlc我本邪見に著して 諸の梵志の師と為りき 世尊我が心を知しめして 邪を抜き涅槃を説きたまいしかば 我悉く邪見を除いて 空法に於いて証を得たり 爾の時に心自ら謂いき 滅度に至ることを得たりと而るに今乃ち自ら覚りぬ 是れ実の滅度に非ず(妙法蓮華経譬喩品第三)我等長夜に 空法を修習して 三界の 苦惱の患を脱るることを得て 最後身 有余涅槃に住せり 仏の教化したもう所は 得道虚しからず 則ち已に 仏の恩を報ずることを得たりと為す 我等 諸の仏子等の為に 菩薩の法を説いて 以って仏道を求めしむと雖も 而も是の法に於いて 永く願楽無かりき 導師捨てられたることは 我が心を観じたもうが故に 初め勧進して 実の利有りと説きたまわず(妙法蓮華経信解品第四)諸の比丘、若し如来、自ら涅槃の時到り衆又清淨に、信解堅固にして空法を了達し深く禅定に入れりと知りぬれば、 便ち諸の菩薩、及び声聞衆を集めて、為に是の経を説く。世間に二乗として、滅度を得ること有ること無し。唯一仏乗をもって滅度を得るのみ。 比丘當に知るべし。如来の方便は、深く衆生の性に入れり。其の小法を志楽し、深く五欲に著するを知って、是等が為の故に涅槃を説く。是の人、若し聞かば則便ち信受す。(妙法蓮華経化城喩品第七)又諸仏所説の空法に於いて、明了に通達し、四無礙智を得て、常に能く審諦に清淨に法を説いて疑惑有ること無く、菩薩神通の力を具足し、其の壽命に随って、常に梵行を修しき。彼の仏世の人、咸く皆、之を実に是れ声聞なりと謂えり。 而も富楼那は、斯の方便を以って、無量百千の衆生を饒益し、又無量阿僧祇の人を化して、阿耨多羅三藐三菩提を立てしむ。(妙法蓮華経五百弟子受記品第八)2023/07/13 17:03:59278.晃QxNlc↑妙法蓮華経で、“空法”がある部分を抜き出してみたがそのどの場面でも、“空法”というのは、衆生を一時的に方便で調伏するためのもので、真実の法ではない、ということつまるところ、やはり“空=つまらない”という解釈は何も間違ってるとは思わない2023/07/13 17:06:56279.神も仏も名無しさんjFVgR日蓮正宗の秘密をペラペラしゃべるな。単に法華講に相手にされてないから魔仏論をぶちあげて寺に行けない正当化理由を作ってるだけだろう。ほんとに住職に魔仏論ぶつけて喧嘩したんか。してないやろ!お前のオナニーは迷惑だ!2023/07/13 20:09:04280.晃QxNlc>>279是々非々だろうに 迷惑がるならそれは間違ってるってことだろう2023/07/13 20:12:25281.晃QxNlc迷惑だと思う方が 間違ってると法華経にはある悟ってる 正しいならなぜ迷惑に思う?無智の者は錯乱し 迷惑して教えを受けず(妙法蓮華経方便品第二)2023/07/13 20:18:23282.神も仏も名無しさん5cqB0アキラーン〜崩壊くんは心折れてしまったようじゃ〜アキラーンみたいに鋼鉄の我執か無いっ!!😭2023/07/14 12:16:30283.晃iKUvTいやいや…これは我執ではない…書けば書くほど、馬鹿にされるのは分かってるつまり自分自身を愛さないからココに書き込める我身命を愛せず、ただ無上道を惜しむ の心境…2023/07/14 12:50:06284.晃iKUvT自分の評価よりも守りたい検証したい大切なことがあるんや 誤解してる2023/07/14 14:08:06286.晃6emyL>>285もともとそこでやってましたがtalkに飛ばされました2023/07/15 05:39:39287.神も仏も名無しさんwao3wそうか、プロバイダ関連でこっちに来たのか〜アキラーン〜😫2023/07/15 16:58:09288.神も仏も名無しさんwao3w崩壊くんの粘着アタックが減って良かったな〜俺様の貢献だ〜😄2023/07/15 16:59:05289.晃6emyLなぜ削除されるんだ2023/07/15 19:26:56290.晃6emyLtalkは言論弾圧するのか?だめだなこれでは全く使えない2023/07/15 19:31:02291.法介◆T3azX0Hk1Um5heC晃さん、毎度です。以前、yahooの知恵袋で創価学会員さんと『総勘文抄』についてお話した内容です。教学研鑽の参考になればと思い紹介します。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q132597430382023/07/17 19:34:52292.法介◆T3azX0Hk1Um5heChttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q112795774862023/07/17 19:38:01293.法介◆T3azX0Hk1Um5heChttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q102797852952023/07/17 19:39:29294.法介◆T3azX0Hk1Um5heChttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q122798039272023/07/17 19:40:10295.法介◆T3azX0Hk1Um5heChttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q112797378162023/07/17 19:41:36296.法介◆T3azX0Hk1Um5heChttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q122752105622023/07/17 19:42:30297.法介◆T3azX0Hk1Um5heChttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q142698985642023/07/17 19:43:05298.法介◆T3azX0Hk1Um5heCざっと参考になりそうなのを貼り付けておきました。お互い教学研鑽に励んで参りましょう。2023/07/17 19:45:36299.晃1NVV4難しい!!!2023/07/17 19:53:18300.晃1NVV4>>297十如是について言えばサンスクリット原典にあることをWikipediaで証拠付きで更新しました2023/07/17 19:54:52301.神も仏も名無しさん3bIEc天気予報でもみてろあれぐらいで産まれかわりだとか浅い無能能天気脳味噌だわ2023/07/19 02:54:56302.晃QU9qF>>301何を言ってるんだ?2023/07/19 10:50:53303.神も仏も名無しさんLijuA知障の遠ぼえばかりだな2023/07/19 12:26:51304.神も仏も名無しさんLijuAボロがでてるな天気予報以外ないのかい2023/07/19 16:18:13305.神も仏も名無しさんDBUOZてうと2023/07/21 21:38:27306.法介◆T3azX0Hk1U7IxCA敬愛する晃さんへ御本尊様に「私に空・仮・中の三諦を覚らせて下さいって」って真剣に祈られてください。2023/07/22 08:26:03307.鹿野園◆dqam8SqGUPdmsprdIhttps://i.imgur.com/td6w1BJ.jpeg2023/07/29 03:32:43308.晃n2RcD>>306逆に法介さんの見解は?2023/08/03 13:57:27309.晃n2RcD空はツッコミ仮はノリ 中はオチこれよりカミクダイた分かりやすい説明はないだろう…くだけすぎてるかもしれんが2023/08/03 13:58:41310.神も仏も名無しさんLundm南無妙法蓮華経を唱題目することは、阿頼耶識の仏種子因が果となって唱題している。この姿は南無妙法蓮華経が現象され、再び阿頼耶識へ潜在されて、種子になるが、これは有為の種子となる。阿頼耶識へ、無為の種子を潜在させるには、南無妙法蓮華経を無為のうちに【聞く】ことが必要になろうと思う。ここに、二つの行を提案する‼️唱える南無妙法蓮華経‼️と、聞く、南無妙法蓮華経‼️の、二つである。唱えるのは時間的限界があるが、聞く南無妙法蓮華には、限界は無い‼️24時間寝ても覚めても聞くのである‼️これにより、阿頼耶識には、南無妙法蓮華経‼️一色になり、それが因縁し、自己に現象する世界の全ての宇宙が、南無妙法蓮華経‼️のリズムと一つになり、自己に現象する宇宙、世界が、南無妙法蓮華経‼️の仏の世界を呈するようになるのだ‼️2023/09/07 00:18:09311.神も仏も名無しさんLundm有為の南無妙法蓮華経‼️は自分が唱える必要があるが、無為の種子因を薫習した阿頼耶識からは、自己が唱えなくとも、無為の南無妙法蓮華経‼️が、この現象世界宇宙に、現れ出でるようになるのだ‼️2023/09/07 00:22:57312.アハさんパシル語がイヌケリアゲ~♪大爆笑( ゚∀ ) ワアハ八 / \ / \4G2uHイヌ麦、アルコホル発酵しイヌ麦焼酎なのに喜ばせ共有機能が絶えて無し。吠え吠みつき、オノレの尻尾をクルクル追うのみシラミ5ちゃんねるの会話はバトル形式で馴れ合いを禁じる。ググるシッタカ知障イヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価で、荒らしイヌヤマは問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。病名:発達障害ASDの症状尊大のインチキキチガイ雀鬼イヌヤマが自供ス。『正直云って仏とは何かと問われても分かりません、公案が進んで無くよくわからないのです』 知障イヌ咬み談ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ!イヌ:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ? ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷也悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺のことを 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾スル新小岩の食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)奈良興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーの門外漢だから、知ったかぶる以外に承認欲求を満たす事が無い。多数者を演じ孤立してないと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療統失、薬中、精神病院2ヶ月入院、A型作業所:イヌヤマ軍曹麦屁魔女エロ和尚アカベイ偽和尚狗の大王野良は異名同一人物がAAキャラ変の極悪人① 荒らしイヌ麦は無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれる② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まったら削除2023/10/13 23:42:23313.死h968Y********** 放置スレ認定**********2023/10/24 04:04:04314.アハさんパシル語がイヌケリアゲ~♪大爆笑( ゚∀ ) ワアハ八 / \ / \tIz7oなんで、みんなワイを無視すんねん!?大欲(たいよく)は無欲に似て足るを知る。煩悩即菩提の法相宗でええやろ・・・ほならなんでワイはこんなところにいるんねやろ病名:発達障害ASDの症状尊大の雀鬼イヌヤマが自供ス。『正直云って仏とは何かと問われても分かりません、公案が進んで無くよくわからないのです』 知障イヌ咬み談ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ!!イヌ:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ? ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷也悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺の事を 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾スル新小岩の食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)奈良興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーで、知ったかぶる以外に承認欲求が満足しない。多数者を演じ孤立セズと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療インチキキチガイ雀鬼イヌヤマ麦、アルコホル発酵しイヌ麦焼酎なのに喜ばせ共有機能が絶えて無し。吠え吠み、オノレの尻尾をクルクル追うノミシラミ5ちゃんねるの会話はバトル形式で馴れ合いを禁じる。イヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価で、問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。① ググるシッタカ知障荒らしイヌヤマは無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれ② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け。完敗③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まれば削除2023/11/05 01:59:24315.アハさんパシル語がイヌケリアゲ~♪大爆笑( ゚∀ ) ワアハ八 / \ / \PHJ3R> 無我がわかったら坐禅しなくても良いとは思うんだけどどうなんだろうな。 』修行者、求道者、修行僧は、やはり さとりを求めて行きます。さとれば、さとりが無く、無我とは、真理(さとり)です、が 理解できるものでありませんく、まさに 体得します。その状態を 石、とも 言います。突然 ストーン と、自他が無くなります。これを 一と一は、二では無い。一の如し、一如である、言い表します。この一如に取り組む公案が有ります。両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、と言うもので、これに取り組みました。ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。色とは片手の人が叩く拍手です。片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。趙州従しん(ぢょうしゅう・じゅうしん)の無字の公案では長年かかってもなお悟れず死んでいく者も多かった事から、修行僧に対して白隠禅師が新たに隻手の音声(せきしゅ の おんじょう)の公案を与え、沢山の修行者に悟らせようと苦心した公案です。白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。>> 理屈っぽいけど、自他一如なら、あなたが叩こうがわたしが叩こうが同じ、わたしが叩きます、パンパンで終了。あとは自他一如、自分から心で隻手の人と一つになる。すると、相手の手を叩く音がきこえる。自他一如や自己の愛情、慈悲心を育てる公案だったとか 』 ありがとうございます。これは理解したり、解釈を咥えたりするものでじゃないので、お怒りを受けるともいますが、字句の解釈に拘泥するものではありません。先にも言いましたが、自他一如を体得する事です。あなたと私で、ぱんぱん。トンチ、になりましたね。片手の人が、です。置き換えて、これでどうだ、と言うわけにはまいりません。聞こえるはずのない、片手の人が叩く拍手の音を聞く、のです。2023/11/18 19:24:09316.アハさんパシル語がイヌケリアゲ~♪大爆笑( ゚∀ ) ワアハ八 / \ / \Pae2b白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ)隻手の音声(せきしゅのおんじょう)両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。 隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。趙州従しん(ぢょうしゅう・じゅうしん)の無字の公案では長年かかってもなお悟れず死んでいく者も多かった事から、修行僧に対して白隠禅師が新たに隻手の音声(せきしゅ の おんじょう)の公案を与え、沢山の修行者に悟らせようと苦心した公案です。> 無我がわかったら坐禅しなくても良いとは思うんだけどどうなんだろうな。 』求道者、修行僧は、やはり さとりを求めて行きます。 さとれば、さとりが無く、無我とは、真理(さとり)です、が 理解できるものではなく、まさに 体得します。その状態を 石、とも 言います。突然 ストーン と、突如と自他が無くなり歓喜乱舞します。これを 一と一は、二では無い。一の如し、一如である、言い表します。この一如に取り組む公案が有ります両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、と言うもので、これに取り組みました。ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。色とは片手の人が叩く拍手です。片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。>> 理屈っぽいけど、自他一如なら、あなたが叩こうがわたしが叩こうが同じ、わたしが叩きます、パンパンで終了。あとは自他一如、自分から心で隻手の人と一つになる。すると、相手の手を叩く音がきこえる。自他一如や自己の愛情、慈悲心を育てる公案だったとか 』 ありがとうございます。これは理解したり、解釈を咥えたりするものでじゃないので、お怒りを受けるともいますが、字句の解釈に拘泥するものではありません。先にも言いましたが、自他一如を体得する事です。あなたと私で、ぱんぱん。トンチ、になりましたね。片手の人が、です。置き換えて、これでどうだ、と言うわけにはまいりません。聞こえるはずのない、片手の人が叩く拍手の音を聞く、のです。2023/11/22 23:34:20317.アハさんパシル語がイヌケリアゲ~♪大爆笑( ゚∀ ) ワアハ八 / \ / \d3hxF> 「只」吐き、「只」吸うだけ。 禅は、単、只、ひたすらにあればよい。 これが禅の極意である。 』禅とは ジャーナを音写して禅那と中国人が漢字であらわしたものであり、ジャーナとは、静かにする、静かに坐る、と言う意味である。拡大解釈しては、原意が蒸発してしまう。浄土宗、浄土真宗は、波阿弥陀仏、と阿弥陀佛(無量寿Buddha、無量光佛陀)陀に帰依する。法華宗は南無 妙法 蓮華経、と正しい教え、白い蓮の花の教え、教典、お経の本に帰依する。騒動衆はお坐り、お手を教え込む。南無阿弥陀仏と言うのか、南無妙法蓮華経と言うのか、何とも云わず、坐っているのか、この三つは 易行(いぎょう)である。難しい事を求めず、これをやればいいんだよ、と安心させる。追い込まれた人に取っては、ひとすじの光明である。> 心身一如にならないと、坐禅が坐禅にならないんです。 』 脳内の神経細胞の結束が、心と呼ばれる。0,5ミリの線虫にも味の好みがある、と言う。脳が無いのが線虫である。神経の経験が好みを選ぶのである。 だから、心身ではなく、身心と言いう。>> 私をバカにしたければすればよろしい。その代わり、地獄行きである。 』地獄極楽。 極楽地獄。 一対のものだよね。 なので、地獄は極楽が無いと成立しない。では極楽は、地獄がなければ、存在しえないのだろうか。そんな事は無く、極楽は、極楽そのもので、完結している。地獄は無用なのである。地獄の住人は、どうやって救われてて行くのだろうか。地獄が極楽だったんだ、と自覚する、みずから めざめる、こう知れば、そのところが極楽とも言わず、地獄とも言わず、公平無比の横一列の地平線、水平線であり、日が昇り日が沈み、月が昇り、月が沈む、自他が無い。 これが 大切だよね。> 南無阿弥陀仏 』南無阿弥陀佛陀帰依しますアンミータのっと、めーたー量る事が出来ないアミターユ無量光アミターバ無量寿佛Buddha佛陀目覚めた者本願を立て 救い取るぞと決意されている無量寿Buddha、無量光Buddha、に対し帰依します。2023/11/26 00:30:21318.アハさんパシル語がイヌ鞭打ぢ( -o-)/☆ビシ! ~ny9i0問う。この座敷に坐のままで庭の30メートル先の築山の石灯籠に灯る蝋燭の灯を吹き消せ。> 無我がわかったら坐禅しなくても良いとは思うんだけどどうなんだろうな。 それでも道を求める人は坐禅するんだろうな。 』修行僧は、悟前(ごぜん) 未悟(みご) なので やはり 真理(さとり)を求めます。さとれば、さとったので、さとりが無く、もはやさとりを求めません。諸法無我(しょほう むが)無我とは、真理(さとり)です、が 真理(さとり)は修学して理解(りげ)できるものでありません。く真理(さとり)はまさに 体得する以外には有りません。その状態を 石、とも 言います。突然 ストーン と、自他が無くなります。これを 一と一は、二では無い。一と一は 一の如し、一如である、言い表します。如(にょ)とは助辞である来(らい)を付けて、如来(にょらい)と言い、如来とは佛(ほとけ)を言う。この一如に取り組む公案が有ります。両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、と言うもので、これに取り組みました。ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。> 片手の拍手は観る、観世音で聞くの!? 』両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。色とは両手で叩く拍手の音です。片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。趙州従しん(ぢょうしゅう・じゅうしん)の無字(むじ)の公案では長年かかってもなお悟れず死んでいく修行者も多かった事から、修行僧に対して白隠禅師が新たに隻手の音声(せきしゅ の おんじょう)の公案を与え、沢山の修行者に悟らせようと苦心した公案です。白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ)隻手の音声 (せきしゅのおんじょう)両掌(りょうしょう)打って音声(おんじょう)あり、隻手(せきしゅ)になんの声(こえ)やある。隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。2023/12/05 21:12:54319.アハさんパシル語がイヌケリアゲ~♪大爆笑( ゚∀ ) ワアハ八 / \ / \RGjeP熱砂(ねっさ)の砂漠を渡って行く人に 命をつなぐ水が湧き出るオアシスがあり、安心立命(あんいんりつめい)と知る。教師の握り拳(きょうし の にぎりこぶし)肝心かなめの大事なこと、大切なこと、は、固く握りしめた手のひらの中に握りしめて決して他sに公開する事が無い。とは、よく言われることである。真理(さとり)は言語によっては、容易に伝わらない。生まれて以来の知識の蓄積が、それぞれがいろめがねを作り上げてしまっているから、本来の有りようが知識と言うスクリーン越しにしか見えない、からだ。差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である。生者必滅(しょうじゃひつめつ)会者定離(えしゃじょうり) あえば、かならずのわかれである。尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)こんにちは、さようなら。禅は生死(しょうじ)を問う。問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた佛とは、真理、ダルマ、法、であって人格的存在ではない。公案は佛 真理(さとり) を 問う、「両手で打てば音が鳴る、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい 」諸行無常、諸法無我、一切皆空、涅槃寂静である。禅とは、静かにする。梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)こころコロコロ、常が無い。無常である。さとりとは、真理、法、ダルマである。達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。ビッグバーン以来の一期一会である。すずめはチュンチュンこんにちは、である。道端のタンポポのさよなら、である。出会えば別れるのである。問う。「この座敷から坐のままで庭の30メートル先の築山(つきやま)に立つ石灯籠のロウソクの炎(ほのお)を吹き消せ」中道是空(ちゅうどうぜくう。 ちゅうどうは これ くうなり)空是中道(くうぜちゅうどう。 くうとは、これ ちゅうどうなり)空とは、分別(ふんべつ)しないである。空とは、一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。である。2023/12/22 23:47:28320.(。~^~)(~^~。) ポッたん お正月だ もちつけu3hd3問う。「この座敷から坐のままで庭の30メートル先の築山(つきやま)に立つ石灯籠のロウソクの炎(ほのお)を吹き消せ」薬を飲まず、自己免疫力を総動員して 病に対処するなら、呑まず食わずで、動かず、水分補給だけをし横になり寝ている事だね。命がけで病気が勝つか免疫が勝つか、ジッと横になって、任せっぱなしにする事だね。熱砂(ねっさ)の砂漠を渡って行く人に命をつなぐ水が湧き出るオアシスがあり、安心立命(あんじんりつめい)と知る真理(さとり)は言語によっては、容易に伝わらない。生まれて以来の知識の蓄積が、それぞれがいろめがねを作り上げてしまっているから、本来の有りようが知識と言うスクリーン越しにしか見えない、からだ。差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である。生者必滅(しょうじゃひつめつ)会者定離(えしゃじょうり) あえば、かならずのわかれである。尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)こんにちは、さようなら。禅は生死(しょうじ)を問う。問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた佛とは、真理、ダルマ、法、であって人格的存在ではない。原初、禅とは、静かにするの意である。梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)さとりとは、真理、法、ダルマである。達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。ビッグバーン以来の一期一会である。すずめはチュンチュンこんにちは、である。道端のタンポポのさよなら、である。出会えば別れるのである。中道是空(ちゅうどうぜくう。 ちゅうどうは これ くうなり)空是中道(くうぜちゅうどう。 くうとは、これ ちゅうどうなり)空とは、分別(ふんべつ)しない、分けない、である。 一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。である。白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ)隻手の音声(せきしゅのおんじょう)両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。 隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。2023/12/31 01:47:07322.(。~^~)(~^~。) ポッたん お正月だ もちつけOHI6T問う 名付けられた名詞から名前を剥ぎ取ったそれを何と呼ぼうか。真理(さとり) を 無我 と言う事が出来る、無我は真理(さとり)であってジョーカーではなく、オールマイティーでもない。と言うだけのもので、無gふぁ と言う言葉を出すだけで なにもかもを切り捨ては出来ない。問答(もんどう)は子弟が問い答えてきた禅宗弾圧の一時期からの創意工夫の伝統がある理解(りげ)と言えば むしろ お上品になってしまうけれど、寒風不キス武功や、だね。宗教のインドにおける語源は、如何に生きるか、と言うもので、あたまの中の変換ではない。神の存在証明を2000年間立ってもまだやってるキリスト教神学の蜃気楼だね。唯心論、唯物論は、一方の真理を言う、唯、を取り払う。心と物が矛盾なく存在しているのが、わたし達の日常なのではないだろうか。尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)。 こんにちは、さようなら。禅は生死(しょうじ)を問う。問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた原初、禅とは、静かにするの意である。梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)さとりとは、真理、法、ダルマである。達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。ビッグバーン以来の一期一会(いちごいちえ)である。 すずめはチュンチュンこんにちは、である。道端のタンポポのさよなら、である。出会えば別れるのである。空とは、分別(ふんべつ)しない、分けない、である。 一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。 隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。真理(さとり)は言語によって伝わらない。生まれて以来の知識の蓄積が眼をくらます。差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である。 問う。『 この座敷から坐のままで庭の30メートル先の築山(つきやま)に立つ石灯籠のロウソクの炎(ほのお)を吹き消せ』2024/01/09 19:17:43326.神も仏も名無しさんcXdSf単語登録の件凹 トランクス▼ パンが2個▽~▼~ 紐パン~▽~~●-●~ ブラザーミシン サングラス 椰子の実タヒチアンかっぷ~●_●~~●●~~○-○~ ろうがんきょう~○_○~~○○~~◎-◎~ 強度近眼鏡~◎_◎~~◎◎~~▲-▲~ 父あての手紙~▲_▲~~▲▲~~△-△~~△_△~~△△~2024/10/19 17:49:04
【国民民主党】玉木代表 加熱する不倫報道に「家族の心理的負担は極めて大きい」「テレビや週刊誌やネットも見てしまって、その都度傷ついている」ニュース速報+811688.42024/11/21 19:39:35
というイメージから、何もかも正しい、という
印象で語る信徒さんも中にはいるかもしれない
しかし、法華経や御書と照らし合わせると
どう考えても己義(間違った解釈)がいくつかある
このスレッドでは それをつらつらと挙げていきたい
はじめまして、法介と申します。
5ちゃんでの晃さんのご主張
ざっとですが目を通しておきました。
少しお話しましょう^^
学会の教学が外道義(宇宙の法則)になっていると気づき
正宗に戻ったのですが
その正宗の教学もおかしいと気づき
正宗も脱講し、現在はどこの団体にも宗派にも所属することなく
真実の日蓮仏法を追究している人間です。
空・仮・中の三諦が円融する訳ですが
晃さんは、「空」をどのようにご理解なされておられますか?
お答え頂けると嬉しいです^^
空は、つまらない、だと思っている
仏教の基礎概念である「無我」は如何でしょう?
読んでみて下さい。
https://hokekyou.up-jp.com/%e6%b3%95%e8%8f%af%e7%b5%8c%e8%ac%9b%e7%be%a9%e3%80%80%e7%ac%ac%e4%b8%80%e7%ab%a0%e3%80%80%e3%80%8e%e8%bf%b9%e9%96%80%e3%80%8f/
三諦の中でも 中が一番大切だと思う
空はツッコミ精神 仮はノリの精神 中はオチの精神
この三つがバランスよく収まることが 円融
無我は、誤解が多い観念ではあると思う
無我が否定してる我は、外道が信奉していたアートマンの事で
仏教徒はそれに対して、“仏”という我を別に新しく立てた
だから、小乗で無我が主張され、大乗で常楽我浄が主張されるのは
そもそも、我が意味しているところが違う
長すぎて要領を得ないが、何が言いたいのか
ここで語ってほしいな
創価も正宗も円融三諦の意味をまったく理解出来ていないってとこです。
↑この理解ですか、、、、、。
空は「非有非無」
中は「亦有亦空・非有非空」
でしょう。
天台教学を学ばれてみては如何でしょうか。
空観=仏の世界観
中観=覚りの世界観
創価や正宗ではこの「実体思想」での仏教の理解になりますので、悪を実体視します。互いの存在を「悪」とみて、激しく罵り合いを繰り広げております。
『般若心経』も読まれた事ないでしょう。
善も悪も無いと見るのが仏の世界観(空観)です。
舎利子、この諸法の空相(空の世界観)は、
「不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色 無受想行識」
生じることも滅することもなく、汚いことも綺麗なこともなく、増えることも減ることもない。故に、空観においては、色相もなく、受想行識も働かない。
噛み砕いて言えばね
>>23
仮は、テーゼ
空は、アンチテーゼ
中は、ジンテーゼ
蔵教=実体の真理 ---(仮諦)
通教=実体を空じた真理 ---(空諦)
別教=覚りの真理 ---(中諦)
円教=一念三千 ---(円融三諦)
そもそもその教義は理解できなくても
日蓮仏法では良かったのではないか?
南無妙法蓮華経に全て収まるってことで
般若心経は四十余年未顕真実では?
法華経は超八醍醐じゃないのか
相待妙と絶待妙はご存知でない?
夫れ法華経の妙の一字に二義有り一は相待妙・麤を破して妙を顕す二は絶待妙・麤を開して妙を顕す
麤法(そほう)とは、粗雑な劣った法という意味で最高の教えである法華経の「妙法」に対する言葉です。「麤法を破して妙を顕す」というのは麤法と妙法とを比較対象することで、教えの勝劣を示して法華経を最高の教えとします。そうやって顕された法華経が「相待妙」です。
それに対して「絶待妙」は「麤法を開して妙を顕す」なのですが、そのことを大聖人様は『諸宗問答抄』の中で、
「絶待妙と申すは開会の法門にて候なり」
と仰せになっております。「開会」とは、法華経の教えがあまりに高度過ぎて衆生にとっては難信難解な教えな為、お釈迦様は、本来は一仏乗の教えである法華経を声聞・縁覚・菩薩といった三乗の教えに開き、それぞれの機根に即した形で法を説いていきます。そして開いた三乗の教えを再び一つに会わせて集約して最後に法華経を顕します。この開いて示した三乗の教えを一つに会わせて示すことを法華経の「開会」といいます。
【三乗の教え】
声聞=蔵教 (但空の理) 仮諦
縁覚=通教 (不但空の理) 空諦
菩薩=別教 (但中の理) 中諦
【法華経の開会】
仏=円教 (一念三千) 円融の三諦
更に大聖人様は、『一代聖教大意』の中で次のようにも仰せです。
「相待妙の意は、前四時の一代聖教に法華経を対して爾前と之を嫌ひ、爾前をば当分と云ひ法華を跨節(かせつ)と申す。絶待妙の意は、一代聖教は即ち法華経なりと開会す」
当分というのは“そのままそこで”ということで、ある限られた範囲内で論じる事をいい、跨節は、“節を跨ぐ”ということで、その小さな範囲を跨いで、より大きな視野に立って一重立ち入って論ずる事をいいます。
要するに相待妙は比較対象から理解する浅い法華経ですが絶待妙は一代聖教から理解するより踏み入った法華経であると御指南あそばされています。
開いた三乗の教えを「正直者方便」の教えのもと学ぶ必要は無い教えだと勘違いして捨ててしまっては正しい法華経の解釈には至りません。
空や無我・無自性は爾前権教で詳しく説かれた教えです。「空」を正しく理解出来てはじめて三諦の円融が何たるかの理解に至ります。
噛み砕いてではなく
具体的に説明出来ますか?
爾前の諸経並びに法華已後の諸経は
破麤顕妙の一分之を説くと雖も・開麤顕妙は全分之無し、
爾るに諸経に依憑する人師・彼れ彼れの経経に於て
破顕の二妙を存し或は天台の智慧を盗み或は民の家に天下を行うのみ、
設い開麤を存すと雖も破の義免れ難きか(実相寺御書)
その後に、こう続く
爾前経や涅槃経には開麤顕妙はまったくなし
とあるのに、般若心経を取り出して開麤顕妙というなら
まるで法介さんのレスが法華経そのものである、みたいな言い分になるが
まさに“開麤を存すと雖も破の義免れ難きか”ではないのか?
つまらないものをつまらないと見るのが空
仮説としてそれが正しいならばと乗るのが仮
なにごともほどほどにしてのめりすぎないのが中
↑爾前権教は学ぶ必要がないというご主張ですよね。
では、
爾前権教を学ばれていない立場で「円融三諦」を具体的にご説明ください。
素晴らしい説明ですね^^
これ以上、お話をする気力がなくなりましたので
これにて、失礼致します。
せめて「空」の理論ぐらいは身につけておきましょう。
仏法者であるのなら^^
【空の理論】
https://butudou.blog.jp/
いや必要がないとは言ってないが
真実ではないというだけで じゃあ
真実ではない映画とかドラマとかは見る必要がないか?
とはならんでしょう
空を誤解してる人は多すぎる
日蓮大聖人の御書の中では
空はそんなに崇高なものではなく
否定的な意味合いで登場することが多い
晃さんは、空をどのように理解なされておりますか?
日淳上人もここ↓で言われております「析空と体空」です。
https://www.myotsuuji.info/65%E4%B8%96-%E6%97%A5%E6%B7%B3%E4%B8%8A%E4%BA%BA%E3%81%94%E6%8C%87%E5%8D%97-%E7%A9%BA%E4%BB%AE%E4%B8%AD%E4%B8%89%E8%AB%A6-%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AE%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E7%90%86%E5%BF%B5/
析空は、つまんないことを知ること
体空は、つまんないことを実感することだと思ってます
三世の諸仏は此れを一大事の因縁と思食して世間に出現し給えり一とは中道なり法華なり大とは空諦なり華厳なり事とは仮諦なり・阿含・方等・般若なり已上一代の総の三諦なり、之を悟り知る時仏果を成ずるが故に出世の本懐成仏の直道なり因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり此れを総じて因と云うなり縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり
三因仏性は有りと雖も「善知識の縁」に値わなければ「悟らず知らず顕れず」と。
龍樹という「善知識」に縁して仏性が何たるかを悟り知り顕わしましょう。
仏教すべてを仮として空じたうえで
中に落とし込もうとした だから中論という
析空は小乗が説く「人空」で、五蘊(色・受・想・行・識)の「色」即ち実体を空じただけの空の理解です。創価や正宗の空の理解がこの次元(実体の真理=仮諦)です。
体空は『般若心経』で説かれる「五蘊皆空」で残りの「受・想・行・識」も空じた空の理解です。(法空)
この両者の違いが、
蔵教=但空 ---(実体の真理=仮諦)
通教=不但空 ---(非実体の真理=空諦)
となり、別教で「唯識=三性説」が説かれて
別教=但中 ---(三因仏性=中諦)
となります。
詳しく『中論』を学ばれた方が良いでしょう。
そもそも大切ではない
諸法空相ではなくて諸法実相なのだから
すでに去ったものは、去ることがない。
まだ去らないものも、去ることがない。
さらに、すでに去ったこととまだ去らないことを離れて、
現に去りつつあるものも、また去ることがない
仏の世界観(空観)
仮観=「色即是空」
空観=「空即是色」
中観=「色即是空 空即是色」
空観を観じないと中観へは円融しません。
>そもそも大切ではない
>>47を今一度読み直しましょう。
一言で答えられないなら理解してるとは思えない
円融出来ていないから心の外に善悪を造り出して攻撃を始めます。
創価 vs 正宗
具体的に今風に噛み砕いて説明できないのであれば
分かりづらい迷路に誘い込むようなだけの意味のない行為
空がそもそも否定的な言葉
それが晃さんの今の境涯です。
正宗で頑張られてください^^
では
この辺で。
つまり、自分自身も分かってない
ってことですね
つまらないの仏教用語だと答えることが出来ます
世界一面白い人から見たら世界はつまらなく見える
それが空の意味 それだけの意味
日蓮聖人が『御義口伝巻下』の中の「第三鬼子母神の事」で次のように述べられています。
「御義口伝に云く鬼とは父なり子とは十羅刹女なり母とは伽利帝母なり、逆次に次第する時は神とは九識なり母とは八識へ出づる無明なり子とは七識六識なり鬼とは五識なり、流転門の時は悪鬼なり還滅門の時は善鬼なり、仍つて十界互具百界千如の一念三千を鬼子母神十羅刹女と云うなり、三宝荒神とは十羅刹女の事なり所謂飢渇神・貪欲神・障碍神なり、今法華経の行者は三毒即三徳と転ずる故に三宝荒神に非ざるなり荒神とは法華不信の人なり法華経の行者の前にては守護神なり云云」
ここで言う、「流転門の時は悪鬼なり」の〝流転門〟は流転の縁起のことで、実体に即した(仮)流転の縁起(此縁性縁起)で顕れる姿(仮在)は悪鬼であるが、「還滅門の時は善鬼なり」と、(五蘊皆空で)空観に入って還滅の縁起(心の変化=相依性縁起)で顕れる姿は善鬼である。そして「十界互具百界千如の一念三千を鬼子母神十羅刹女と云うなり」悟りの中諦の真如として顕れる姿は、鬼子母神十羅刹女であるとの御指南です。
この御文から次の事が明らかになります。
仮の真理(此縁性縁起)=流転の縁起
空の真理(相依性縁起)=還滅の縁起
中の真理(因果俱時の縁起)=一念三千
そして空・仮・中のそれぞれが一念三千しますので、
仮の縁起=仮諦の一念三千
空の縁起=空諦の一念三千
中の縁起=中諦の一念三千
となります。この空・仮・中の三諦が南無妙法蓮華経で円融して三身如来が凡夫の一身に顕れて涅槃の悟りの境地に入ります。これを即身成仏といいます。
素敵です^^
バカ「空…ってなんだ??有り難い言葉に違いない…」
バカ「空!!空!!空!!空が大切!!」
↑こういう情景が今の仏教界にはびこっている
鬼子母神がそもそも悪鬼だから
それを空じたら善になる
そういうレベルに興味がないので
この辺で失礼します。
がっかりしました、、、。
分かりやすく言うとこうなる
まだ
真摯に仏教と向き合っておられます。
では、この辺で
失礼致します。
真剣に向き合い、真剣に間違う人が多いから
末法は到来する
結局、空は何か答えられない
空は空だ、というなら答えになってないのでは?
空は仏の世界観(縁起)でしょう。
凡夫の意識=前五識を対象とした意識 ---(第六意識)
仏の意識=阿頼耶識を対象とした意識 ---(第七末那識)
こちら↓で詳しく私が解説しておりますので宜しかったらご覧ください。
https://butudou.blog.jp/
九識は悟なり 八識已下は迷なり(御義口伝)
日蓮大聖人と言われてることが違うが
仏の意識=空観
その次に何が来るか解りますか?
仮空中が円融してるのが仏で
各別してたらダメではなかったか?
こちら↑で少しお勉強されてみては?
中観というか、中諦というのは
時代時代においての常識みたいなもんで
極論を嫌い ほどほどの振る舞いをする
だと解釈しているが…あなたは?
三界唯心=(一つに集約された世界)---第一義悉檀
百界と云うは仮諦なり千如と云うは空諦なり三千と云うは中諦なり空と仮と中とを三諦と云う事なれば百界千如・三千世間まで多くの法門と成りたりと云へども唯一つの三諦にてある事なり、されば始の三如是の三諦と終の七如是の三諦とは唯一つの三諦にて始と終と我が一身の中の理にて唯一物にて不可思議なりければ本と末とは究竟して等しとは説き給へるなり、是を如是本末究竟等とは申したるなり、始の三如是を本とし終の七如是を末として十の如是にてあるは我が身の中の三諦にてあるなり、此の三諦を三身如来とも云へば我が心身より外には善悪に付けてかみすぢ計りの法もなき物をされば我が身が頓て三身即一の本覚の如来にてはありける事なり、是をよそに思うを衆生とも迷いとも凡夫とも云うなり、是を我が身の上と知りぬるを如来とも覚とも聖人とも智者とも云うなり
これを読んでなるほど!と分かる人が
どれくらいいるだろうか
現代語でわかりやすくすることが必要だと
痛感する
仮とは仮である 空とは空である 中とは中である
と答えてる限り
その意味は分かってることにはならない…
だから晃は 便宜的に現代人にわかりやすいように
仮とはノリ 空とはツッコミ 中とはオチ と解説する
実体における真理です。
人間の五蘊の働きによって実体は実体として立ち上がります。
それに激しく自身のツッコミを怒涛のように入れる
空観で “中”を体現しようとした
そういった記憶は概念として自身の意識(第六意識)の中に形成されて行きます。
三蔵教での真理=実体に即した真理(此縁性縁起)
仮諦というのは
実体であれ、そうで無いものであれ
仮説に“乗っかる”というのが主眼
仮にそうあれば~、という思考方法で
そこに実体の有無は関係ない
空諦はその逆で、それを否定する思考方法
はやい話、仮諦は肯定、空諦は否定
この二つの二諦を使って中諦という
落としどころを見つけるのが三諦の目的ではないのか
その五蘊の仮説に乗っかって肯定するのであれば
それは仮諦だし、否定するのであればそれは空諦
法華経の内容は空っぽ
だから空
その内容は、モノを実体として見る見方は「有る無し」といった客観認識法で、仏教ではそういった「有る無し」の見方では無く、五蘊を空じた仏の見解に立ちます。
五蘊を空じますので人間の認識である色・受・想・行・識の認識(第六意識)では無く、阿頼耶識を対象とした末那識(第七末那識)での因縁を以て観るモノの認識となります。これを相依性縁起と言います。
>落としどころを見つけるのが三諦の目的ではないのか
違います。
何を根拠にそのようなでたらめを言われますか?
空っぽではない
六万九千三百八十四字あるが
>だから空
↑これのことです。
法華経は素晴らしい最高
でもその理由が空っぽ
龍樹が仏教そのものを仮諦として
中論で空じつくし批判し続け
中諦を体現しようとしたから
龍樹の中論で二諦しかないのは
中諦をタイトルに載せてるからであり
言わずもがなで省略しているから
1行で要約すると?
法華経だが
失礼。
晃さんの発言と混同してました^^
それは文盲なだけ…
底が浅い
法華経の内容とは?
仏教徒として徹底的に批判を加えて
最終的に三諦を体現するのが目的で
龍樹が中論で一番言いたかったのは空ではなく中
三乗の法ですから一行では無理でしょう。
声聞の智慧=此縁性縁起
縁覚の智慧=相依性縁起
菩薩の智慧=当体蓮華(因果俱時)
この三智を一切智として法華経が顕されます。
南無妙法蓮華経
それら三乗は方便(仮の教え)では?
縁覚の智慧=相依性縁起 ---(空諦)
菩薩の智慧=当体蓮華 ---(因果俱時=中諦)
法華経の内容は無いよう
三乗はそもそも方便っていう告白だろうに
三乗が大切というわけではないだろう
三乗を三乗として修行する事が方便であって、三乗を一仏乗に集約した教えが『法華経』です。
いや違う 三車の羊車、鹿車、牛車は
衆生に結局、与えられなかった
大白牛車のみが衆生に与えられた
もし集約してるなら、羊鹿牛も与えられたはずだが
正直捨方便だから、大切な教義ではない
では、此縁性縁起も知らないでそのモノの真実の姿を把握出来ますか?
キリスト教もイスラム教も方便であり、法華経に集約できますか?
絶待妙は法華経のみに許された特権だろう?
もし自分が爾前経に詳しいからと言って
自分自身が絶待妙だといえばそれは違うだろう
そのモノとは具体的になんですか?
それは三乗の法ではないでしょうに。
外道の法でしょうに。
経文でもない法介さんが絶待妙なら
法華経のみが絶待妙とするロジックが崩壊しますが
そのことについて法介さんはどう答えますか?
そのモノが
そのモノと成り得た縁起(因縁)で観て始めてそのモノの真実の姿を捉える事が出来ます。(実体における真理=此縁性縁起)
私は人間です。
意味不明な問いかけは勘弁してください^^
我々は相対妙に留まって
絶待妙を主張しないことが道理と言うことです
パンを盗んだ男が居たとしましょう。世間の人達は世間一般の常識(概念)で窃盗を犯したこの男を悪人呼ばわりします。
答えに詰まる質問を意味不明と退けるまえに
自分の前提がオカシイ可能性も考えた方がいい
実は男には飢えに苦しんで今にも死にそうな子供がいて、その子を何とかして助けたいとの一心でパンを盗んだのでした。
それでもあなたは、その男の事を悪人呼ばわりしますか?
因縁による認識=仏の縁起での認識(空観)
末法無戒なので
仮空中で分断して語るのはダメだったのでは?
末法の世における仏道の修行では、正法時や像法時に成立した諸々の細かい戒律はまったく無益であるということ。 解釈によっては、無益どころか害になるともいう。
縁起でのモノの見方が「末法無戒」とは、、、、。
呆れてモノが言えません。
いや、不偸盗戒そのものについて、ですが
円融三諦を解っていないからそのような問いになるんです。
呆れてモノが言えません。
これ以上
何も申しません。
円融したまま説いてくださいよ…
自分のノリ ツッコミ オチより
分かりやすい説明は無いと思う
信じる者は救われる
御本尊に向かって題目
法華経の正体はキリスト教やイスラム教
それなら慳貪に堕すのでは?
仏教なら分かってて教えないのはただのケチですよ
まあ、分からない 自分の間違いに気がついたのが
本音でしょうが
いや、キリスト教イスラム教は
ほぼ念仏
お釈迦さまは善い人だみたいな
それって違うんですよ
若し小乗を以って化すること
乃至一人に於いてもせば 我則ち慳貪に堕せん
此の事は為めて不可なり(妙法蓮華経方便品第二)
法介さんに、この経文を送ります…
唯一絶対神,唯一絶対なお経
構造として同型
法華経の方が、強い
三乗にキリスト教もイスラム教も入れて法華一乗にする
これで世界は平和になる
三乗は仏教の中の話で外道は関係ない
涅槃経には「一切世間の外道の経書は皆是れ仏説にして外道の説に非ず」と仰せられて候を・妙楽大師は法華経の第六の巻の「一切世間の治生産業は皆実相と相い違背せず」との経文に引き合せて心をあらわされて候には・彼れ彼れの二経は深心の経経なれども彼の経経は・いまだ心あさくして法華経に及ばざれば・世間の法を仏法に依せてしらせて候、法華経はしからず・やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候。
白米一俵御書
1,597ページ
おもしろいですね。コマンドーさん『白米一俵御書』の「一切世間の治生産業は皆実相と相い違背せず」の文句をご存知とは、創価の方ですか?
外道の説が仏説であったとしても
仏説の中で外道の説は説かれてない
外道に三人あり、
一には仏法外の外道 九十五種の外道、
二には学仏法成の外道 小乗、
三には附仏法の外道 妙法を知らざる大乗の外道なり
私は創価学会三世です
でも題目もしてない、創価の集会にも参加してない幽霊会員です
そうですか。私も元は学会三世でした。
リンゴは果物でも果物はリンゴでは無い
学会の教学の逸脱に気づいて潔く止めました。
〝主観〟で感じた事を言葉で表現する文学はどうでしょう。一見主観の世界のように思えますが実はその言葉自体が客観性で成り立っております。例えばあなたが食べたリンゴの「おいしい」を誰かに伝えようとした場合、「甘くておいしい」とか「よく熟してておいしい」といった共通認識語の言葉でしか表現出来ません。しかし実際には個々人は各々に感性が異なりますのであなたの「おいしい」と誰かの「おいしい」とは同じ「おいしい」でも微妙に異なってきます。〝主観〟は、それを誰かに伝えようと言葉に置き換えた時点で〝客観〟に変わります。
このような世間一般の学識に概ね九十五種類の外道の見方捉え方があるというのが一番目の「九十五種の外道」です。
二番目の「学仏法の外道」とは仏法を学んでも尚外道(実体思想)から抜けきらない小乗教の析空に陥った仏法修行者のことを言います。 お釈迦様は、〝我有り〟を説く外道に対し縁起をもって〝無我〟を説きます。常に流動的に変化し続ける世の中において、変わらずにあり続ける永遠不滅の存在はあり得ないとして「モノの有る無し」や「生命の断見・常見」を外道義として破折されました。
しかし、この小乗で説かれた〝縁起〟は、仏門に入りながらも未だ実体思想が強かった〝声聞〟という境涯の弟子達に対して、実体に即した因果律にもとづいて説かれた〝此縁性縁起〟であった為、彼らは「肉体(因)があるから煩悩(果)が生じる」といった「モノの有る無し」の思考(実体思想)で縁起を起こし、「身も心もともに滅する」といった色心俱滅の過酷な修行を小乗仏教の中で展開します。いわゆる灰身滅智(けしんめっち)です。
お釈迦さまは縁起を説くことで永遠不滅の存在を完全否定された訳ですが、大乗ではこれをひっくり返して「永遠不滅の仏」を説きます。これはお釈迦さまが究極の処では仏は生じることも無く、滅することも無い、いわゆる不生不滅の〝無始無終〟の存在であるといったことに由来する考えなのですが、この考えが外道にあたると日蓮聖人は言われております。『十法界事』という御書にそのことが詳しく述べられていますので紹介します。
「大乗の菩薩に於て心生の十界を談ずと雖も而も心具の十界を論ぜず、又或る時は九界の色心を断尽して仏界の一理に進む是の故に自ら念わく三惑を断尽して変易の生を離れ寂光に生るべしと、然るに九界を滅すれば是れ則ち断見なり進んで仏界に昇れば即ち常見と為す九界の色心の常住を滅すと欲うは豈に九法界に迷惑するに非ずや」
これは大乗の別教の中で説かれている厭離断九の仏について述べられている箇所ですが、大乗において菩薩となった修行者が、仏界の一理に進む為に三惑を断尽して変易の生から離れてた寂光土に転生することで仏となります。しかしこの場合、九界を滅する訳ですから断見であり九界から離れた仏界へ転生する訳ですからそこにおける永遠不滅の仏界は常見となると仰せになられています。
創価学会に疑問を持って原始仏典を読んだりして
お釈迦さまは法華経なんて説いてないー!
法華経はニセモノだー
俺の親父のことです
その通りだと思う
戒壇の御本尊はモノであるから
永久不滅では無い、と正宗の信徒はいうが
だから有り難い、というロジックを説いてる
その点は問題ないだろう?
『法華経』は三千塵点劫という昔に出現した仏(大通智勝仏)が説いたと「化城喩品第七」で説かれております。
お釈迦様が説かれた訳ではありません。
それは問題ないと思う。
?釈迦牟尼仏も法華経を説いただろう?
?五百塵点劫の昔からあるのではないか?
時代時代で文字数は変わる
今の時代は南無妙法蓮華経の5字7字だが
地水火風空の5字だった時代もあるという
二十千万億あったと法華経にある…
間違いではないと思う。
文献学で、歴史上実在したゴータマは法華経は説いて無いという意味です
創価 VS 宗門
の構図ですが、その「因縁」(縁起)をあなたはどう見てますか?
文献学、というのが、外道に迫害されて
破壊尽くされた大乗経典を、考慮に入れてない
折伏と摂受の境界線を誤ったところにあると考える
南無妙法蓮華経を唱えてるものは摂受すべきだった
残念ながら、仏教は文献学ではありません。
まったく無かったことにして空白にしてしまう…
だから大乗非仏説が通説になる現代は
末法そのもの
永遠不滅の本仏とは日蓮でしょ
血脈相承した弟子たち
仏教=信仰の世界(観得)
客観→主観→空観(←これが仏教の世界観)
>>179
そういう態度でくるのね
(´・ω・`)
実際、インドのイスラム教徒の破壊活動は、すごかった
破壊し尽くしたのは、12世紀
末法到来と重なる
経典を徹底的に焼き払わないわけがない
だから、大乗経典が残ってないのは道理
わたしの見方を述べます。
日達猊下は池田さんのおかしな妙法観に気づいておられました。ですから会長職を辞任させるまで追い込みました。
しかし、その日達上人が亡くなられて池田さんは自分の言いなりになりそうな日顕さんと結託して再度、最高責任者に返り咲きます。
日顕さんもそうした方が自身の体制を盤石なものに出来たからです。
ここのところが「因」です。(日顕さんの保身)
イスラム教は平和な宗教
人頭税さえ払えば信仰の自由を保障された
だがイスラム教は徹底的に仏教を弾圧された
それだけ仏教が危険な宗教だった
なぜ仏教寺院がイスラム教徒に狙われたのか?というと
単純に富裕層だったから、という理由もあるらしい
いくらおかしくても諭し続ける摂受に徹すべきだった
南無妙法蓮華経してるのだから
末法だから釈迦仏教の賞味期限は切れた
末法の本仏が日蓮という理屈
そうだと思う
乞食が裕福になると
いわば イスラム教徒に目をつけられなかった
残りカスみたいなもんで、そこまで魅力がないから
そのまま迫害されなかった、残っただけとも言える
そうだと思います。
「(仏教家の史談も)教化的効果のあがるように、俗受けのするようにとばかり考えてこしらえたものが多いようである。 家中抄の御筆も、いささかこれに類するやに思うが、とにかく宗門人の史談の種本が精師以後、今日にいたるまで家中抄そのまま、またはここに輪を掛けた俗悪低流の物を多く顧みて、いまの引文をここに批判するの止むを得ぬにいたり、ついにあるいは冗漫あるいは失礼(先師に対する)にわたりしことを許されたし。 むろん富士宗学要集の中には間々天註に注意しておいた。 御荷物の中に「生御影」「御骨」はかならず御奉持であるべきであるが、板本尊にいたっては研究の余地が存ずる。(中略)現存大石の多数のものは、南条下之坊保管の物であり興師の延山時代には関係ない。 すでに原殿抄の末文にあるごとく、延山の常住物はなに一つ持ち出してない。
涅槃経の中の二巻を御使用のまま持ち出されたので、十二月十六日に返還せられてあるくらいで、したがって日尊実録の中にも 『身延沢御退出の刻・公方・聖教・世事雑具等皆悉く御墓所に之を置く可きの由、衆徒に相触れられし時、面々供奉の人々一紙半銭も持ち出ることなし』 と書いておる。 とうぜんのことである。」 (富士日興上人詳伝(上)280-281頁、聖教文庫)
大切だから 命懸けで渡来して、經訳をした
「すでに原殿抄の末文にあるごとく、延山の常住物はなに一つ持ち出してない。」
それは戒壇の御本尊が偽作という話ですか?
ただ単にスルーするだけです
↑これは三番目の「附仏法の外道」に相当します。
御本尊を縁(縁因仏性)としてお題目(了因仏性)を唱えた時
自身の意識層の中に大聖人の魂が顕われるのです。(正因仏性)
末法万年は少なくともカタチを留めるのではないか?
もし日蓮大聖人の出世の本懐がその程度のものなら
日蓮仏法そのものが大したものではないことになるが
日蓮がたましひをすみにそめながして
かきて候ぞ(経王殿御返事)
縁因仏性はその通りです。(応身)
それをもって戒壇の御本尊に日蓮聖人の魂がやどっているというのは間違いです。
なぜなら、仏教では「無我」が大前提としてあるからです。
無我=モノに変わらずにあり続ける本質は無い(縁起)
その事を説いているのが『一代聖教大意』の三種の外道です。
>>19を、読んでください
それは無我で否定した我の種類が違う
では、晃さんが言う「無我」とは?
如来寿量品の仏は常住不滅だが…
変な漫画を読んでて
その主人公ってダサくね?って話です
俺が描いた方がいい という話が仏教
外道の宗教の主人公を否定したのが
仏教の無我
晃さんも「常住不滅」の意味をはき違えておられませんか?
とするのは大きな誤解で仏は仏という我を確立した
法華経の経文と爾前経が相違するなら
法華経に付くが
その例え
余計にわかりにくいんですけど^^
仏教の無我はそもそも
アートマンの否定のためのものですよ
それは正しいです。
仏と言えども自我は備わっております。
ですから法を説きますし、民衆を救いたいと願望もします。
仏法は良く〝中道〟を説くと言いますが中道とは、世の中の存在を「有る」と見るか「無い」と見るかといった見解に立った時、「有るのでもなく、無いのでもない」と見るのが正しいとする仏法の概念の一つです。
この「有るのでもなく、無いのでもない」といった見解を〝非有非無(ひうひむ)〟といいます。中道の理論的主柱となる〝空〟を学ぶにあたってとても重要な概念です。
世の中は様々なモノから出来ています。そのモノの有り様を「有る」とみれば〝有〟で、「無い」とみれば〝無〟となります。
〝有〟は実在、〝無〟は非実在という意味でもあります。
モノが「有る」というのは解りますが、モノが「無い」とはどういうことか。これは人がモノを認識してはじめてそのモノが存在しえる訳ですから人の心を中心に考えるとモノが有る訳ではない。
このように〝モノ〟を中心に考えると「有る」、しかし〝心〟を中心に考えると「無い」。
この両極端から離れたところに実は真実があるとお釈迦様は悟りました。
その有でも無い、かといって無でも無い「非有非無」の真理として〝縁起〟が説かれました。縁起はお釈迦様が実在した正法時代における真理として顕された有にも無にも偏らない中道の非有非無(空)の真理です。
お釈迦様の説法はその殆どがお釈迦様の死後、迦葉や阿難を始めとする弟子たちが中心となって数回にわたる結集を経て教説としてまとめられ経蔵として形成されました。その中でも最も古い原始仏教とされる阿含経から弟子達は学んでいきます。
仏道に入って最初に得られる境涯の事を〝声聞〟といいます。阿含経は実体への執着が強かった当時のお釈迦様のお弟子さん達が理解しやすいように実体思想で説かれています。そういった理由から阿含経は声聞経ともよばれたりもします。
この中で、十二因縁を基として縁起が説かれているのですが、「科学や物理の実験」や「医学の臨床実験」といった部類はどれも客観性に基づいて行われる検証で「誰にでも起こりうる現象」です。例えば「手に握ったリンゴを離せば地面に落下する」ことで引力という法則が定義ずけらたように、「実験によって得られる結果から導き出される定義」は、因果関係で成り立っています。(実体思想)
十二因縁はそのような因果律を示したもので声聞の弟子達はそれをもって縁起を理解し小乗仏教を展開していきます。
お釈迦様の時代は、古くからのバラモンの教え(ヒンドゥー教)によって「バラモンは、前世もバラモンであり来世もバラモンだ」とするカーストによる階級制度がひかれており、その階級が永遠に輪廻転生を繰り返すという考え方(常見)が強く根付いていました。
そういったバラモンの教えに対し、「人間は死んだら一切無で輪廻転生などしない」とする学説(断見)を提唱して盛んに対抗した六人の非バラモン思想の自由思想家(六師外道)が現われます。
それに対しお釈迦様は、この「断見と常見」を否定し、運命のままに生きれば輪廻転生を繰り返すが修行によって解脱することができると説いてカーストを否定します。
このような「断見や常見」といった考え方は「モノの有・無」といった極端な考え方であってお釈迦様はその二辺から離れて「世の中は全てが縁によって生じる」といった〝縁起〟を真理として〝中道〟を説きます。
人間という存在は五蘊が仮に和合して顕れた姿(衆生)であって、恒常不滅なる〝自我〟は存在しないとしてお釈迦様は縁起による〝無我〟を説くのですが、「モノの有る無し」で考える〝実体思想〟から抜けきらなかったお釈迦様の当時の弟子達は、〝無我〟を実体思想で理解してしまいます。
「モノの有る無し」の考え方(世間一般法)は、有と見れば〝常見〟、無しと見れば〝断見〟ですが仏法では〝縁起〟で考えます。
<モノの考え方>
世間法=モノの有無
仏法=縁起
阿含経で詳しく説かれるこの〝縁起〟は、十二縁起を基とする縁起なので弟子達はその縁起を実体思想(モノの有る無し)で理解します。
「モノの有る無し」で縁起を考えると、「肉体があるから煩悩が生じる」という発想になって「因となる肉体を滅すれば果となる煩悩を完全に寂滅出来る」という考えから肉体の寂滅を目指し過酷な修行が小乗仏教の中で展開され灰身滅智(身を灰にし智をも滅する)に陥ります。
阿含経の中で説かれている〝無我〟や〝縁起〟は「非有非無」の中道を支える法理ですがここでは十二因縁からなる因果律(実体思想)で縁起が説かれている為、実体思想(モノの有る無し)で中道を理解することになります。
〝中道〟を正しく理解するには、実体思想から抜け出ることが重要です。
時代が、正法時代の後期になると竜樹(ナーガールジュナ)が登場し、般若心経で説かれる〝空〟の法理を解明して小乗の誤った中道(縁起)解釈を正し、空の理論を用いてお釈迦様が示した中道(非有非無)の真理を『中論』という論書にまとめ上げました。
その『中論』の二四章一八偈で竜樹は次のように述べています。
「我等は縁起せるものを空と説く。それは仮説(仮の名)であり、また中道である」(正蔵三〇・三三中)
縁起によって生じるモノには実体がなく(無自性)、実体がない故に空(中道)なので「縁起→無自性→空」となって竜樹の空理は、「空=中道」の次のような構図になります。
<空の定義>
有=存在
無=非存在
空=非有非無=縁起=中道
そしてモノの見方を、主観・客観・空観として、真諦と俗諦の二諦説としました。
<空観の意味>
俗諦(世間法)=主観と客観
真諦(仏法)=空観
そして、この空観に析空と体空の二種があります。
お釈迦様がこの縁起という見方を声聞の弟子達にさとす為に説いた教えが阿含経です。阿含経典の中でお釈迦様は、無我や五蘊、縁起、十二縁起といった教えで縁起という仏法独自のモノの見方を諭します(中道)。
お釈迦様が直接説かれた教えは阿含経だけだと世間一般に言われています。あとの経典は説法を聞いたお弟子さん達が後の世にまとめたものだと。そしてその阿含経には〝空〟は説かれていません。空は般若心経の中で詳しく説かれています。それをもって「お釈迦様は〝空〟を説かれていません」という人もおられますが、無我や五蘊、縁起、十二縁起をもって縁起というモノの見方、即ち空観をちゃんと説いています。
ただ、お釈迦様が説かれた空は、十二縁起を基とした縁起だったため声聞の弟子達は実体思想でしか縁起を理解出来ませんでした。
仏法は「モノの有る無し」ではなく、「人の心のありよう」を説いた教えです(人の最終境涯として仏を説く)。モノの方を説く教えを心の外をさして仏法では〝外道義〟と言います。それに対し心の内を説く仏法を〝内道〟と言います。
内道として説かれた中道の〝縁起〟を実体思想の外道義で展開した空理(空の理論)が析空です。
ここに池田会長が説く三諦論がありますが、
池田先生の三諦論
https://syozou.blog.jp/archives/19085878.html
析空は、モノを細かく細分化して見る(実体思想の)〝空〟で体空は体感として観じとる〝空〟と一般的には言われますが、これは「モノの見方(外道)」として空を展開するか、「人がモノを認識するありよう(内道)」として空を展開するかの違いです。
阿含経で説かれる縁起を基として展開された小乗の空は、「モノの有る無し」の実体思想(外道義)で展開された空理です。それに対し、竜樹が大乗で展開した〝空〟は般若心経で説かれる「五蘊皆空」を基とした〝相依性(相互依存)〟の縁起です。
竜樹は、それまでの小乗の誤った空の解釈(析空)を正す為に、般若心経をひも解きその中で説かれている「五蘊皆空」や「受想行識亦復如是」をもって、五蘊全てを空じる法空(法無我)を主張し、小乗が主張する人空(人無我)を破折して「色即是空 空即是色」の真理を明かします。
【色即是空】
「この世のあらゆるモノや現象には実体はない(空)」
【空即是色】
「実体がないことが、この世のあらゆるモノや現象を形成している(虚像=仮)」
この竜樹の空理(二諦説)は、後に天台智顗の空・仮・中の三諦説へと進化していきます。
竜樹が顕した『中論』は、とても解りにくい文章で表現されています。日本における仏法学の第一人者であられた中村元博士(号)が解説された著書〝竜樹〟は、卓越した仏法の知識をもっておられた中村先生だからこそ顕すことが出来た一冊だったと思います。先生はこの著書の中で竜樹の中論の中心問題を「縁起の相依性(相互依存)」と述べておられます。
センスが違います
それは別相の三観での中観のお話です。
天台教学の「別相三観」と「通相三観」を学びましょう。
傾倒などしておりません。中村博士は文献学の人です。ですからインド仏教を二諦説などと誤った仏教観を世に弘めました。
龍樹は三諦説を『中論』の中でちゃんと説いております。
と仏法が継承されていったと見るのが日蓮仏法です。
https://butudou.blog.jp/archives/17660547.html
二涅槃を説く。(妙法蓮華経化城喩品第七)
これをどう解釈するのか
晃さんはどう解釈なされているのですか?
中道というのは
生きとし生けるものだけでなく
この世を去ったものも含めると
死んでるのか生きてるのか分からない
あやふやな状態、を意味すると考えている
仏はそういうアヤフヤな立ち位置から
衆生に親近感を持たせて誘引する
化城喩品によると、激しい修行では
敬遠されるからだ、とある
三諦のことなのか?とは思う
涅槃とは死だろう 死は救済くらいに考えてる節がある
で >>241
についてですが、その通り三乗の法とは「空・仮・中」の三諦の事です。
仮諦=実体に即した真理
空諦=実体から離れた真理(実体に捉われない)
中諦=覚りの真理
となります。
別教ではこれが個別に解き明かされております。
蔵教=仮諦(此縁性縁起)
通教=空諦(相依性縁起)
別教=中諦(而二不二の真理)
涅槃には二種あると説かれております。
天台智顗は、その二種を「有為涅槃と無為涅槃」と解き明かしているのをご存知でしょうか?
有為涅槃は「円融三諦」で現状の直面している苦しみや悩み、問題を覚りの境地(中観)に入る事で菩提へと転じていく一念三千の法門です。
失礼しました。その通りです。
爾前経で説かれた涅槃は無余涅槃です。
法華経では有余涅槃(一念三千)が説かれます。
父親が大事にしていた骨董茶碗を娘が不注意で割ったとしましょう。
父親は激怒します。
「無相・不相の一法より無量義を出生す」
已上、無相・不相の一法とは一切衆生の一念の心是なり、
文句に釈して云く
「生滅無常の相無きが故に無相と云うなり
二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に
不相と云うなり」云云(三世諸仏総勘文教相廃立)
有余が一念三千、といいますが
日蓮さんは、有余でも無余でもない、といいますが…
しかし、よくよく話を聞いて見ると、娘がお父さんの散らかった部屋を掃除してあげようと思って起きた出来事(縁起)でした。(此縁性縁起での理解)
しかし、そうはいってもやはりあの姿は二度と拝めないのかと思うと心は晴れません。
そしてお父さんは閃きます。
この割れた茶碗を金継ぎにしよう!
https://nanboya.com/gold-kaitori/files/2019/05/x131259263.jpg.pagespeed.ic.WlV2p_Z9k0.jpg
空は、茶碗が壊れてしまった状態
中は、茶碗が金継ぎで壊れつつも存在する状態
怒ってしまうのは凡夫だからか
仏ならすべて諦めて怒らないはず…
>>258
このような違いが起こります。
これを四悉檀(ししつだん)と言い、龍樹が『大智度論』の中で詳しく論じており、天台智顗はこの「四悉檀」によって蔵・通・別・円の四教義が起こると申しております。
第一悉檀=蔵教
第二悉檀=通教
第三悉檀=別教
第四悉檀=円教
人の人生は一瞬一瞬が判断の連続です。
その判断を誤ると不幸な方向に転落していきます。でしから目の前の出来事に対して常に正しい判断をしていく事が正しい生き方へと繋がっていきます。
しかし、人は自身の価値観や人生観、様々な先入観等によって誤った判断に陥る事が多々あります。
一念三千の法門とは、今一瞬の目の前の出来事に対し、正しい判断を得る覚りの法門です。悩みや苦しみを覚りへと転じる煩悩即菩提の仏の智慧、それが円融三諦です。
「二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に
不相と云うなり」
二つの涅槃が一つに集約されるのが不相、即ち色相(実体)から離れた世界観(空観)という意味です。
「生滅無常の相無きが故に無相と云うなり」の文句の意味は、生じる事も滅する事も無いという仏の世界観を言った言葉です。
仮諦の一念三千(有余の相)
空諦の一念三千(無余の相)
中諦の一念三千(不相)
の総の三諦があります。
因位と果位とが同時に同体で顕れる事を「因果俱時の法門」と言いますが、どうして因位と果位とが同時に同体で顕れるのかご説明下さい。
ほーけい?
後でじっくり
目を通しておくよ
あんがとね^^
離れるって書いてる限り違うでしょ
不思議の法門なので説明は出来ません
そろそろ晃から離れることにする^^
というのは、どの御書にも書いてない
空はとても重要度の低い法門であることは間違いない
キミのは般若心経に偏りすぎてないか?
世尊我が心を知しめして
邪を抜き涅槃を説きたまいしかば
我悉く邪見を除いて 空法に於いて証を得たり
爾の時に心自ら謂いき 滅度に至ることを得たりと
而るに今乃ち自ら覚りぬ 是れ実の滅度に非ず(妙法蓮華経譬喩品第三)
我等長夜に 空法を修習して 三界の
苦惱の患を脱るることを得て 最後身
有余涅槃に住せり 仏の教化したもう所は
得道虚しからず 則ち已に
仏の恩を報ずることを得たりと為す
我等 諸の仏子等の為に 菩薩の法を説いて
以って仏道を求めしむと雖も
而も是の法に於いて 永く願楽無かりき
導師捨てられたることは 我が心を観じたもうが故に
初め勧進して 実の利有りと説きたまわず(妙法蓮華経信解品第四)
諸の比丘、若し如来、自ら涅槃の時到り
衆又清淨に、信解堅固にして空法を了達し
深く禅定に入れりと知りぬれば、
便ち諸の菩薩、及び声聞衆を集めて、為に是の経を説く。世間に二乗として、滅度を得ること有ること無し。
唯一仏乗をもって滅度を得るのみ。
比丘當に知るべし。如来の方便は、
深く衆生の性に入れり。其の小法を志楽し、
深く五欲に著するを知って、是等が為の故に涅槃を説く。
是の人、若し聞かば則便ち信受す。(妙法蓮華経化城喩品第七)
又諸仏所説の空法に於いて、明了に通達し、
四無礙智を得て、常に能く審諦に清淨に法を説いて
疑惑有ること無く、菩薩神通の力を具足し、
其の壽命に随って、常に梵行を修しき。
彼の仏世の人、咸く皆、之を実に是れ声聞なりと謂えり。 而も富楼那は、斯の方便を以って、
無量百千の衆生を饒益し、又無量阿僧祇の人を化して、
阿耨多羅三藐三菩提を立てしむ。(妙法蓮華経五百弟子受記品第八)
そのどの場面でも、“空法”というのは、衆生を一時的に方便で
調伏するためのもので、真実の法ではない、ということ
つまるところ、やはり“空=つまらない”という解釈は
何も間違ってるとは思わない
単に法華講に相手にされてないから
魔仏論をぶちあげて寺に行けない正当化理由を作ってるだけだろう。
ほんとに住職に魔仏論ぶつけて喧嘩したんか。
してないやろ!
お前のオナニーは迷惑だ!
是々非々だろうに 迷惑がるなら
それは間違ってるってことだろう
悟ってる 正しいならなぜ迷惑に思う?
無智の者は錯乱し 迷惑して教えを受けず(妙法蓮華経方便品第二)
崩壊くんは
心折れてしまったようじゃ〜
アキラーンみたいに鋼鉄の我執か無いっ!!
😭
書けば書くほど、馬鹿にされるのは分かってる
つまり自分自身を愛さないからココに書き込める
我身命を愛せず、ただ無上道を惜しむ の心境…
検証したい
大切なことがあるんや 誤解してる
もともとそこでやってましたが
talkに飛ばされました
こっちに来たのか〜
アキラーン〜
😫
俺様の貢献だ〜
😄
以前、yahooの知恵袋で創価学会員さんと『総勘文抄』についてお話した内容です。教学研鑽の参考になればと思い紹介します。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13259743038
十如是について言えば
サンスクリット原典にあることをWikipediaで
証拠付きで更新しました
何を言ってるんだ?
御本尊様に
「私に空・仮・中の三諦を覚らせて下さいって」
って真剣に祈られてください。
逆に法介さんの見解は?
仮はノリ 中はオチ
これよりカミクダイた
分かりやすい説明はないだろう…
くだけすぎてるかもしれんが
この姿は南無妙法蓮華経が現象され、再び阿頼耶識へ潜在されて、種子になるが、これは有為の種子となる。
阿頼耶識へ、無為の種子を潜在させるには、南無妙法蓮華経を無為のうちに【聞く】ことが必要になろうと思う。
ここに、二つの行を提案する‼️
唱える南無妙法蓮華経‼️と、
聞く、南無妙法蓮華経‼️の、二つである。
唱えるのは時間的限界があるが、聞く南無妙法蓮華には、限界は無い‼️
24時間寝ても覚めても聞くのである‼️
これにより、阿頼耶識には、南無妙法蓮華経‼️一色になり、それが因縁し、自己に現象する世界の全ての宇宙が、
南無妙法蓮華経‼️のリズムと一つになり、
自己に現象する宇宙、世界が、南無妙法蓮華経‼️の仏の世界を呈するようになるのだ‼️
無為の種子因を薫習した阿頼耶識からは、自己が唱えなくとも、
無為の南無妙法蓮華経‼️が、この現象世界宇宙に、現れ出でるようになるのだ‼️
5ちゃんねるの会話はバトル形式で馴れ合いを禁じる。ググるシッタカ知障イヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価で、荒らしイヌヤマは問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。
病名:発達障害ASDの症状尊大のインチキキチガイ雀鬼イヌヤマが自供ス。『正直云って仏とは何かと問われても分かりません、公案が進んで無くよくわからないのです』 知障イヌ咬み談
ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ!
イヌ:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ? ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷也
悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺のことを 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)
ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる
独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾スル
新小岩の食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)奈良興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーの門外漢だから、知ったかぶる以外に承認欲求を満たす事が無い。
多数者を演じ孤立してないと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療
統失、薬中、精神病院2ヶ月入院、A型作業所:イヌヤマ軍曹麦屁魔女エロ和尚アカベイ偽和尚狗の大王野良は異名同一人物がAAキャラ変の極悪人
① 荒らしイヌ麦は無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれる
② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗
③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事
④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まったら削除
放置スレ認定
**********
病名:発達障害ASDの症状尊大の雀鬼イヌヤマが自供ス。『正直云って仏とは何かと問われても分かりません、公案が進んで無くよくわからないのです』 知障イヌ咬み談
ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ!!
イヌ:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ? ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷也
悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺の事を 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)
ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる
独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾スル
新小岩の食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)奈良興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーで、知ったかぶる以外に承認欲求が満足しない。
多数者を演じ孤立セズと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療
インチキキチガイ雀鬼イヌヤマ麦、アルコホル発酵しイヌ麦焼酎なのに喜ばせ共有機能が絶えて無し。吠え吠み、オノレの尻尾をクルクル追うノミシラミ
5ちゃんねるの会話はバトル形式で馴れ合いを禁じる。イヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価で、問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。
① ググるシッタカ知障荒らしイヌヤマは無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれ
② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け。完敗
③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事
④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まれば削除
修行者、求道者、修行僧は、やはり さとりを求めて行きます。さとれば、さとりが無く、無我とは、真理(さとり)です、が 理解できるものでありませんく、まさに 体得します。
その状態を 石、とも 言います。突然 ストーン と、自他が無くなります。
これを 一と一は、二では無い。一の如し、一如である、言い表します。この一如に取り組む公案が有ります。
両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、と言うもので、これに取り組みました。
ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。
音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。
その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。
聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。
色とは片手の人が叩く拍手です。片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。
趙州従しん(ぢょうしゅう・じゅうしん)の無字の公案では長年かかってもなお悟れず死んでいく者も多かった事から、修行僧に対して白隠禅師が新たに隻手の音声(せきしゅ の おんじょう)の公案を与え、沢山の修行者に悟らせようと苦心した公案です。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
>> 理屈っぽいけど、自他一如なら、あなたが叩こうがわたしが叩こうが同じ、わたしが叩きます、パンパンで終了。あとは自他一如、自分から心で隻手の人と一つになる。すると、相手の手を叩く音がきこえる。自他一如や自己の愛情、慈悲心を育てる公案だったとか 』
ありがとうございます。
これは理解したり、解釈を咥えたりするものでじゃないので、お怒りを受けるともいますが、字句の解釈に拘泥するものではありません。
先にも言いましたが、自他一如を体得する事です。
あなたと私で、ぱんぱん。
トンチ、になりましたね。
片手の人が、です。
置き換えて、これでどうだ、と言うわけにはまいりません。
聞こえるはずのない、片手の人が叩く拍手の音を聞く、のです。
隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。 隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
趙州従しん(ぢょうしゅう・じゅうしん)の無字の公案では長年かかってもなお悟れず死んでいく者も多かった事から、修行僧に対して白隠禅師が新たに隻手の音声(せきしゅ の おんじょう)の公案を与え、沢山の修行者に悟らせようと苦心した公案です。
> 無我がわかったら坐禅しなくても良いとは思うんだけどどうなんだろうな。 』
求道者、修行僧は、やはり さとりを求めて行きます。 さとれば、さとりが無く、無我とは、真理(さとり)です、が 理解できるものではなく、まさに 体得します。その状態を 石、とも 言います。突然 ストーン と、突如と自他が無くなり歓喜乱舞します。
これを 一と一は、二では無い。一の如し、一如である、言い表します。この一如に取り組む公案が有ります
両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、と言うもので、これに取り組みました。
ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。
音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。
その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。
聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。
色とは片手の人が叩く拍手です。片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。
>> 理屈っぽいけど、自他一如なら、あなたが叩こうがわたしが叩こうが同じ、わたしが叩きます、パンパンで終了。あとは自他一如、自分から心で隻手の人と一つになる。すると、相手の手を叩く音がきこえる。自他一如や自己の愛情、慈悲心を育てる公案だったとか 』
ありがとうございます。
これは理解したり、解釈を咥えたりするものでじゃないので、お怒りを受けるともいますが、字句の解釈に拘泥するものではありません。
先にも言いましたが、自他一如を体得する事です。
あなたと私で、ぱんぱん。
トンチ、になりましたね。
片手の人が、です。
置き換えて、これでどうだ、と言うわけにはまいりません。
聞こえるはずのない、片手の人が叩く拍手の音を聞く、のです。
禅とは ジャーナを音写して禅那と中国人が漢字であらわしたものであり、ジャーナとは、静かにする、静かに坐る、と言う意味である。拡大解釈しては、原意が蒸発してしまう。
浄土宗、浄土真宗は、波阿弥陀仏、と阿弥陀佛(無量寿Buddha、無量光佛陀)陀に帰依する。
法華宗は南無 妙法 蓮華経、と正しい教え、白い蓮の花の教え、教典、お経の本に帰依する。
騒動衆はお坐り、お手を教え込む。
南無阿弥陀仏と言うのか、南無妙法蓮華経と言うのか、何とも云わず、坐っているのか、この三つは 易行(いぎょう)である。難しい事を求めず、これをやればいいんだよ、と安心させる。
追い込まれた人に取っては、ひとすじの光明である。
> 心身一如にならないと、坐禅が坐禅にならないんです。 』
脳内の神経細胞の結束が、心と呼ばれる。
0,5ミリの線虫にも味の好みがある、と言う。脳が無いのが線虫である。
神経の経験が好みを選ぶのである。 だから、心身ではなく、身心と言いう。
>> 私をバカにしたければすればよろしい。その代わり、地獄行きである。 』
地獄極楽。 極楽地獄。 一対のものだよね。 なので、地獄は極楽が無いと成立しない。
では極楽は、地獄がなければ、存在しえないのだろうか。そんな事は無く、極楽は、極楽そのもので、完結している。地獄は無用なのである。
地獄の住人は、どうやって救われてて行くのだろうか。地獄が極楽だったんだ、と自覚する、みずから めざめる、こう知れば、そのところが極楽とも言わず、地獄とも言わず、公平無比の横一列の地平線、水平線であり、日が昇り日が沈み、月が昇り、月が沈む、自他が無い。 これが 大切だよね。
> 南無阿弥陀仏 』
南無阿弥陀佛陀
帰依します
アンミータ
のっと、めーたー
量る事が出来ない
アミターユ
無量光
アミターバ
無量寿
佛
Buddha
佛陀
目覚めた者
本願を立て 救い取るぞと決意されている無量寿Buddha、無量光Buddha、に対し帰依します。
この座敷に坐のままで庭の30メートル先の築山の石灯籠に灯る蝋燭の灯を吹き消せ。
> 無我がわかったら坐禅しなくても良いとは思うんだけどどうなんだろうな。 それでも道を求める人は坐禅するんだろうな。 』
修行僧は、悟前(ごぜん) 未悟(みご) なので やはり 真理(さとり)を求めます。
さとれば、さとったので、さとりが無く、もはやさとりを求めません。
諸法無我(しょほう むが)
無我とは、真理(さとり)です、が 真理(さとり)は修学して理解(りげ)できるものでありません。く真理(さとり)はまさに 体得する以外には有りません。
その状態を 石、とも 言います。
突然 ストーン と、自他が無くなります。
これを 一と一は、二では無い。
一と一は 一の如し、一如である、言い表します。
如(にょ)とは助辞である来(らい)を付けて、如来(にょらい)と言い、如来とは佛(ほとけ)を言う。
この一如に取り組む公案が有ります。
両手で打てば音が鳴る。
では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、
と言うもので、これに取り組みました。
ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。
> 片手の拍手は観る、観世音で聞くの!? 』
両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。
音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。
その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。
聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。
色とは両手で叩く拍手の音です。
片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。
趙州従しん(ぢょうしゅう・じゅうしん)の無字(むじ)の公案では長年かかってもなお悟れず死んでいく修行者も多かった事から、修行僧に対して白隠禅師が新たに隻手の音声(せきしゅ の おんじょう)の公案を与え、沢山の修行者に悟らせようと苦心した公案です。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ)
隻手の音声 (せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声(おんじょう)あり、隻手(せきしゅ)になんの声(こえ)やある。隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
教師の握り拳(きょうし の にぎりこぶし)
肝心かなめの大事なこと、大切なこと、は、固く握りしめた手のひらの中に握りしめて決して他sに公開する事が無い。とは、よく言われることである。
真理(さとり)は言語によっては、容易に伝わらない。
生まれて以来の知識の蓄積が、それぞれがいろめがねを作り上げてしまっているから、本来の有りようが知識と言うスクリーン越しにしか見えない、からだ。
差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である。
生者必滅(しょうじゃひつめつ)会者定離(えしゃじょうり) あえば、かならずのわかれである。
尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)
こんにちは、さようなら。
禅は生死(しょうじ)を問う。
問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた
佛とは、真理、ダルマ、法、であって人格的存在ではない。
公案は佛 真理(さとり) を 問う、
「両手で打てば音が鳴る、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい 」
諸行無常、諸法無我、一切皆空、涅槃寂静である。
禅とは、静かにする。
梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)
こころコロコロ、常が無い。無常である。
さとりとは、真理、法、ダルマである。
達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。
ビッグバーン以来の一期一会である。
すずめはチュンチュンこんにちは、である。
道端のタンポポのさよなら、である。
出会えば別れるのである。
問う。「この座敷から坐のままで庭の30メートル先の築山(つきやま)に立つ石灯籠のロウソクの炎(ほのお)を吹き消せ」
中道是空(ちゅうどうぜくう。 ちゅうどうは これ くうなり)
空是中道(くうぜちゅうどう。 くうとは、これ ちゅうどうなり)
空とは、分別(ふんべつ)しないである。
空とは、一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。
色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。である。
薬を飲まず、自己免疫力を総動員して 病に対処するなら、呑まず食わずで、動かず、水分補給だけをし横になり寝ている事だね。命がけで病気が勝つか免疫が勝つか、ジッと横になって、任せっぱなしにする事だね。
熱砂(ねっさ)の砂漠を渡って行く人に命をつなぐ水が湧き出るオアシスがあり、安心立命(あんじんりつめい)と知る
真理(さとり)は言語によっては、容易に伝わらない。
生まれて以来の知識の蓄積が、それぞれがいろめがねを作り上げてしまっているから、本来の有りようが知識と言うスクリーン越しにしか見えない、からだ。
差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である。
生者必滅(しょうじゃひつめつ)会者定離(えしゃじょうり) あえば、かならずのわかれである。
尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)
こんにちは、さようなら。
禅は生死(しょうじ)を問う。
問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた
佛とは、真理、ダルマ、法、であって人格的存在ではない。
原初、禅とは、静かにするの意である。
梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)
さとりとは、真理、法、ダルマである。
達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。
ビッグバーン以来の一期一会である。
すずめはチュンチュンこんにちは、である。
道端のタンポポのさよなら、である。
出会えば別れるのである。
中道是空(ちゅうどうぜくう。 ちゅうどうは これ くうなり)
空是中道(くうぜちゅうどう。 くうとは、これ ちゅうどうなり)
空とは、分別(ふんべつ)しない、分けない、である。 一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。である。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ)
隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。 隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。
真理(さとり) を 無我 と言う事が出来る、無我は真理(さとり)であってジョーカーではなく、オールマイティーでもない。
と言うだけのもので、無gふぁ と言う言葉を出すだけで なにもかもを切り捨ては出来ない。
問答(もんどう)は子弟が問い答えてきた禅宗弾圧の一時期からの創意工夫の伝統がある
理解(りげ)と言えば むしろ お上品になってしまうけれど、寒風不キス武功や、だね。
宗教のインドにおける語源は、如何に生きるか、と言うもので、あたまの中の変換ではない。
神の存在証明を2000年間立ってもまだやってるキリスト教神学の蜃気楼だね。
唯心論、唯物論は、一方の真理を言う、唯、を取り払う。
心と物が矛盾なく存在しているのが、わたし達の日常なのではないだろうか。
尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)。 こんにちは、さようなら。禅は生死(しょうじ)を問う。
問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた
原初、禅とは、静かにするの意である。
梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)
さとりとは、真理、法、ダルマである。達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。ビッグバーン以来の一期一会(いちごいちえ)である。 すずめはチュンチュンこんにちは、である。道端のタンポポのさよなら、である。出会えば別れるのである。
空とは、分別(ふんべつ)しない、分けない、である。 一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。
色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。 隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。
真理(さとり)は言語によって伝わらない。生まれて以来の知識の蓄積が眼をくらます。差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である。
問う。
『 この座敷から坐のままで庭の30メートル先の築山(つきやま)に立つ石灯籠のロウソクの炎(ほのお)を吹き消せ』
凹 トランクス
▼ パンが2個
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~▼~ 紐パン
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~○-○~ ろうがんきょう
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~◎-◎~ 強度近眼鏡
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~▲-▲~ 父あての手紙
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