この地図のライマトルヒル(Gibraltar)は、現在はトレッキングコースになってる。名前はTheose Molに変わってる The beautiful view from Theose Mol (Hill) ||Tengnoupal || Manipur, 2021.09.23 https://youtu.be/dtHQOqUboD0 THEOSE MOL @ THEOSE PEAK | Trekking to One of the Highest point in Manipur | TENGNOUPAL DISTRICT, 2023.04.15 https://youtu.be/PeZ6LhGIFOo
ビルマ戦線で80年前の1944年3月から7月にかけて実施され、約3万人とも言われる日本兵が亡くなりました。
防衛研究所戦史研究センターの新福祐一・2等陸佐は、インパール作戦の源流となる動きが41年12月の太平洋戦争開戦直後から大本営で始まっていたと指摘したうえで、「日本型組織の問題点が浮かび上がる」と語ります。
――インパール作戦を巡っては戦後、第15軍司令官だった牟田口廉也中将の作戦指揮に批判が集中しました。
牟田口中将は「ダメな将軍」 「良くないリーダー」の典型として語られてきました。彼が実行したインパール作戦は、英領インド北東部のインパールよりもさらに奥地のディマプールへの突進に固執し、「鵯越(ひよどりごえ)」と称する2千~3千メートル級の山岳地帯を徒歩で越えて奇襲を行う計画でした。
その結果、食料や装備が足りずに、多数の戦死者や餓死者を出した悲惨な戦いでした。
https://www.asahi.com/articles/ASS573GMHS57UHBI011M.html#:~:text=%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6
インパール作戦から80年 日本兵約3万人死亡 インドに慰霊碑
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240509/k10014443811000.html#:~:text=%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6
一番乗り気だったのは東條英機
チャンドラ・ボースの関心を引く目的の作戦だから
アホにマジレスしとくと、好戦的な記事の新聞が売れた結末がそれ
結局民度次第なのは、この高度情報化社会でもアホに扇動されるやつだらけなことを見ても自明
結局見たい記事が人気になるのは現代と変わらない
日露戦争は日本が勝利した戦争だ。
現地に遊郭のチェーン店を建てた話もなんとも日本的だよなあ
アホというかどこまでも戦争なんて出来ない民族というか・・・
血を流して護ってやらないと成らないニダとか主張する自称右翼団体にまんまと騙されて始めた戦争だけどな。
この頃から日本人は簡単におれおれ詐欺に騙されてた。
援蒋介石ルートの遮断が目的でしたが、補給ゼロで重火器を担いで2千メートル級ヒンズークシ山脈3連邦を三回登り下る難作戦。
其れでも踏破して戦闘をしての帰途に食料が尽き、シャム王国に向かう街道で自決して果て、街道を白骨で埋めて白骨街道を造りました。
日本軍ww2戦争敗退後の、インド独立軍チャンドラボースを、生死に関わらず逮捕捕獲命令を出したのが英国政府。
これに対して信じられない事が起こり、何とインド人は一致団結して独立に邁進して戦い独立をはたしました。
信じられない事?
何とチャンドラボース殺害を手配した英国に対して、非武装無抵抗主義者のガンジーさんが激怒。
インド全土に檄文を飛ばしたのですね。
其の非武装無抵抗主義者のガンジーさんが発令した檄文の内容はなんと、
すべてのインド人よ銃を取りなさい、英国人を皆殺しにしなさい!!!と言う檄文だったんですね!w
非武装無抵抗はどうするの?何て言うインド人は一人も居ませんDした、全インド人が、
エイエイオー!
と、鬨の声を上げて英国人殺害に全力投入の寸前に、英国が諦めてインド独立が成就したんですね。
インパール作戦で無念の戦死を遂げた日本兵の皆さん方は、決して無駄死にではなかったんですね・・・・
戦後処理を考慮して情報を流し
形の上で容疑者に成るも無罪放免
孫子の代まで政治屋に
何万人もの兵士をインポールで戦死させるように言われていた。兵士が日本に負けて帰って来ても賞与払えないし権利も主張されて面倒になるから勝てばラッキー負ければその場で全員亡き者にするようにとひたすら特攻を命じた
もちろん国内世論を盛り上げて撤退し難くさせていた大手マスコミの責任も大きいよ
https://i.imgur.com/s8J7PmO.jpeg
東條政権下では政府の検閲通った記事しか発表できなかったからしゃーない
邪悪な政府の出先機関でしかない
それから7月4日のインパール作戦中止までの迷いが良くなかった。
しかし大東亜会議を経て東條の意向で決行することになる
牟田口の迷演説はこの後行われるんだけど
決まったもんはしゃあないし兵を鼓舞するために言っただけで
本人も成功するとは思わなかったんじゃねえかな
牟田口は比較的にそうでもない。
4562フィート(Scraggy Hill)や、前島山(Nippon Hill)の位置を表示
https://i.imgur.com/whxg7Ih.jpeg
4562フィート(Scraggy Hill)の当時の写真、ハゲ山(出典、英国立陸軍博物館 NAM. 1998-01-154-2、NAM. 1998-01-154-5)
https://i.imgur.com/CDeNhBm.jpeg
https://i.imgur.com/myeIuqL.jpeg
前島山(Nippon Hill)の当時の写真、ここで日本軍の中隊が玉砕(出典、英帝国戦争博物館 IWM_IND3375、IWM_IND3378)
https://i.imgur.com/LWAKFSA.jpeg
https://i.imgur.com/RxTzxRq.jpeg
[位置関係]
コヒマ
↓
インパール ← テグノパール
戦史叢書015巻、付図第四、インパール作戦進攻経過概見図(コヒマ、テグノパール、インパールの文字を追加)
https://i.imgur.com/H1EbWUt.jpeg
ジャはその辺の草でも喰ってろ
https://i.imgur.com/EjYfKs9.jpeg
(『機密戦争日誌』其7、其8の各日付の記事より抜粋、アジア歴史資料センター、レファレンスコード C12120323800, C12120324800)
1944.03.09. 「ウ」号作戦 昨8日予定のごとく開始
1944.03.25. 「インパール」作戦はきわめて順調に進展しつつありて、先頭部隊は「インパール」より30km‐40kmの線に進出しあり
1944.03.31. 28日「ウ」号作戦においては わが挺身部隊「インパール」「コヒマ」道を遮断す 順調なり
1944.04.01. 「インパール」主作戦方面は順調なり
1944.04.02. 「インパール」作戦進捗に伴い 自由インド仮政府を発展改組し自由インド政府の樹立を容認するの件に関し、関係各省間に協議す 海軍および大東亜省は現状を可とする意見なるも、更に慎重に研究することとせり
1944.04.06. 「インパール」作戦、「コヒマ」南方を遮断す
1944.04.08. 5日「コヒマ」を攻略せり (*1)
(*1) ただし英軍・英印軍は町ではなく駐屯地に陣地を築いていた
1944.04.13. 「インパール」敵複郭陣地は半ヶ年の日子をついやし相当堅固なり
1944.04.18. 今後のインド作戦は軍事的には「アッサム」へ、政略的には「チッタゴン」へ侵攻するを可とす
1944.04.19. 「インパール」の敵の抵抗は極めて頑強なり
1944.04.22. 「インパール」正面の敵は4ヶ師団なるも 2‐300機の輸送機を有しあるをもって 空中補給のみにても作戦を継続し得
「インパール」作戦の結果 最近米空軍の入支機数は減少しつつあり
1944.04.25. 「インパール」東方地区において1中隊玉砕せり 近接戦闘地上火器の不足によるものなり
1944.05.15. 「インパール」成功の公算は逐次低下しつつあり(*2)
(*2)『機密戦争日誌』其7、昭和19年5月15日
https://i.imgur.com/Cqu2Cu4.jpeg
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C12120324700
英軍・英印軍スリム将軍も5月中旬には、最も心配された時期を脱して、
コヒマでは日本軍は守勢に転じ、インパール周辺では日本軍の追加兵力の大量投入がなければ
北と東からの脅威の可能性はなく、南と西では日本軍の最後の試みが予期されるものの、
航空優勢はゆるぎなく、日本軍の補給は混乱し、雨季が近づいているという情勢判断だったようだ。
Slim, William, Defeat into Victory, Cassell and Company Ltd : London, 1956, pp. 332.
https://i.imgur.com/XqX2Duv.jpeg
1944.05.16. 第15軍司令官(牟田口中将)-(参謀長より) 第15軍が戦闘司令所の推進を遅くしたる理由は 司令官の性格が過早に第一線に進出せんとし ために各師団の統帥に影響あらんことを憂慮し 故意に控制せしものなり(以上第15軍参謀長の説明)
1944.06.03. コヒマ北方の31Dは「インパール」―「コヒマ」道確保のため おおむね分水嶺の線に撤退す
「インパール」における敵の補給は逐次困難化しつつあり 従来空輸100機なりしも 最近40機日量100トン程度に低下 (*3)
1944.07.04. 「ビルマ」ウ号作戦中止せらる
(*3) 雨季の到来による
国民向けには、内閣情報局が「皇軍勇戦、インパールの包囲圧縮」と宣伝している。
戦時の情報リテラシーのためには、この辺のズレを頭のどこかに置いていておくべきかも。
>>105
> 陸軍参謀本部…
> 1944.05.15. 「インパール」成功の公算は逐次低下しつつあり(*2)
>>78
> 当時国民が知らされていた情報。
> (中略)
> 皇軍勇戦、インパールの包囲圧縮
>
> 内閣情報局『写真週報』第323号、1944.05.31
> https://i.imgur.com/6gBMdLu.jpeg
ですよね マスコミがまともな頭だったら真珠湾攻撃はなかったもんな
山本五十六が空母で爆撃訓練して準備してたの知ってたのにな
事実をそのまま報道して国民に判断を委ねたら死にたくないから戦争はできないよ
人間として吐気がするほど下衆
牟田口も米軍の訴追を免れたが
731の石井四郎も米国におもねって実質無罪放免
悪いやつほど生き残る
昔から補給ありきで進軍しない軍は略奪と虐殺前提
中国大陸で戦争している最中の軍訓練で真珠湾攻撃なんてわからないと思いますが
もしかして…真珠湾攻撃が日本の戦争の始まりだと思ってます?w
孤立したインパールには未曾有の規模の空輸作戦が行われた。
インパール作戦当時の英軍・英印軍側のおもな航空輸送ルートの地図
Air Supply of Imphal, 18 April - 30 June 1944
https://i.imgur.com/1tuGzum.jpeg
おもにベンガルやアッサムから飛んできてたらしい。
テグノパールの戦闘に参加した戦車部隊の、戦後の1946年にまとめられた部隊史
緬甸部隊史実資料 3分冊の1/14 戦史資料調査表 戦車第14連隊
(アジア歴史資料センター、レファレンスコード C14060246600)
https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F2014070214375661217&ID=M2014070214375761233&REFCODE=C14060246600
[解読] 地名以外のカタカナは平仮名に、漢数字はアラビア数字に置換、適宜読点を追加
インパール作戦
19年3月10日より連隊主力は33D(第33師団)歩兵団長(山本少将)の指揮に入り
「カポー」谷地を前進、3月11日より上田部隊(14TK(戦車第14連隊)を主体とし
歩(兵)2中(隊)、工(兵)1中(隊)、独立速(射砲)1大(隊)(2中(隊を)欠(く))を以て
「ウィトック」攻撃せるも意の如く進捗せざりしも、3月15日敵退却せり、
爾後マンモウ付近に於て一部の対戦車戦闘を実施と(し)つつ北上、3月23日夜「タム」攻撃、
24日早朝該敵は退却せり、4月1日「モーレ」の敵退却たるも山地のため14TKは
「モーレ」付近に待機す、
歩兵部隊の「テグノパール」付近の攻撃は進捗せず、依(っ)て戦車■隊を之に投入、
4月20日頃テグノパール一帯陣地を奪取占領せり、爾後対陣状態となる、
5月10日軍重点正面の変更…(以下略)
死傷 損耗/戦(病)死 469、負傷 80(損害は「イラワヂ」会戦以降をも含む)
給養/五月頃より著しく低下し 主食一日約100瓦(グラム)程度にして 副食、芋にも苦労せり 米■(缺?)■言語に絶するものあり
衛生/マラリア、アメーバ、赤痢、栄養失調にて死亡するもの甚だしく言語に絶す
https://i.imgur.com/CQHFjox.jpeg
> 日本軍の戦車部隊の主力の進攻が阻止された、タムーパレル道のテグノパール周辺の現在の写真
> 4562フィート(Scraggy Hill)や、前島山(Nippon Hill)の位置を表示
> https://i.imgur.com/whxg7Ih.jpeg
この地図のライマトルヒル(Gibraltar)は、現在はトレッキングコースになってる。名前はTheose Molに変わってる
The beautiful view from Theose Mol (Hill) ||Tengnoupal || Manipur, 2021.09.23
https://youtu.be/dtHQOqUboD0
THEOSE MOL @ THEOSE PEAK | Trekking to One of the Highest point in Manipur | TENGNOUPAL DISTRICT, 2023.04.15
https://youtu.be/PeZ6LhGIFOo
タムーパレル道で山本支隊が最も西に到達した地点であるライマトルヒル(インパールの南南東約40km)
の戦史は、
> …5月11日の軍命令をもって山本支隊から野戦重砲兵第18連隊第2大隊及び戦車第14連隊を抽出した。
> …支隊長は残存兵力をもってなおも攻撃続行に努めた。
> (中略)
> …ライマトルヒルは本陣地(*1)の前方に屹立する要衝であった。
> 支隊長は…吉岡大隊をもってライマトルヒルを攻撃させ、また新たに支隊に増強された武村大隊をニ子山
> (屋島山)(*2)の攻略に充てることにした。 (中略)
> …吉岡大隊は…5月19日更にライマトルヒル北側に前進、爾後数日にわたり周密な準備を行ったのち、
> 24日未明同高地に突入これを占領した。しかし、陣地奪取後間もなく天明を迎え、敵は優秀な砲火を
> 集中して反撃を開始した。わが山砲も応戦したが、彼我火力の懸隔はいかんともできず、やがて突入して
> 来た敵と手榴弾戦や白兵戦を交えた。激戦は夕刻まで続き、大隊長以下死傷者続出し陣地の保持は困難に
> なった。この戦闘で大隊長以下218名が死傷し、わずか50名が残った。大隊は涙を?んで同夕刻高地
> から撤退した。
防衛庁防衛研修所『インパール作戦―ビルマの防衛―』(戦史叢書 第15冊)、朝雲新聞社、1968年、pp.545f.
https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=015
*1 英軍・英印軍側のおそらくRecce Hill
*2 双子山。英語圏では日本語名をYashimaでなくYajima Hillとしている。Futago という呼称への言及は多くない
> 涙を?んで → 涙をのんで
[翻訳]
…日本軍はもっと野心的な目標すらめざした――この鞍部でもっとも急峻な丘であるGibraltar(ライマトルヒル)
である。それに参加した主な部隊は、山本支隊の隷下となった第15師団の2つの大隊(第60連隊第1大隊(*1)、
第51連隊第2大隊(*2))から成っていた。日本軍による初めの複数の攻撃は撃退されたが、5月23日夜の攻撃
は成功し、日本軍はライマトルヒルの頂上を占拠した。
(それにより)英印軍第14軍(*3)のMalta(双子山)とScraggy(4562フィート)の部隊は孤立させられてしまったので、
このShenam鞍部(*4)の全体の運命はどちらに転ぶか分からなくなった。
しかしまさに翌日に、第6ラージプート・ライフル連隊第5大隊(*5)や第10グルカ・ライフル連隊第3大隊(*6)
の反撃によって奪還されたのである。
Hemant Singh Katoch, Imphal 1944 - The Japanese Invasion of India, Osprey Publishing Ltd, 2018, p.59
https://books.google.co.jp/books?id=Ds1FDwAAQBAJ&pg=PA59&lpg=PA59&dq=Imphal+1944+%22gibraltar,+the+most+precipitous+of+the+hills%22&source=bl&ots=2Om8Ea6MCv&sig=ACfU3U3oRolA3jvCLOaC4sUKdqGyxE26pw&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwi8ptepsIeGAxWLdfUHHQMwBcAQ6AF6BAgLEAM#v=onepage&q=Imphal%201944%20%22gibraltar%2C%20the%20most%20precipitous%20of%20the%20hills%22&f=false
*1 吉岡大隊
*2 武村大隊
*3 英印軍第14軍はスリム将軍が指揮
*4 テグノパールの西にShenamという集落があるので、この辺一帯をShenam鞍部と呼んでる
*5 第49インド旅団、第6ラージプート・ライフル連隊第5大隊
*6 第37インド旅団、第10グルカ・ライフル連隊第3大隊
ネパールのグルカは有名だが、インド西部ラージャスターン州のラージプートの軍功も名高い。
7月初にパレル付近に斬り込みを敢行した。もしタム―パレル道を通っていけば10数kmくらいの距離である。
そしてパレルからインパールまではあと30数kmくらい。
山本支隊のインパール戦はそこで終わった。
決まったもんはしゃあないし役割をまっとうするしかない
今の日本もこういうの普通にあるよな
つまり牟田口は戦略目標の立案能力はあっても行動計画の立案能力が無かったという事だな
いや、だから言ったじゃん、無理だって
こんな感じだった可能性は十分有る
「あの山を越えて松本まで行け。食糧は山のあちこちにあるから心配するな」
と剱岳を指差すようなものか
インパラ?
統一教会信者さんですね
カルトは世間の常識から逸脱しているからまず「学校教育、マスコミはでたらめ」だと教えこむことからマインドコントロールしていく
戦時中は新聞社は免許制になっていて政府が管理していたわけで気に入らない記事を書いたら発行停止
新聞社じたいもたくさんあったけど全国紙数紙と都道府県1紙に減らされて政府の御用報道のみしか許されない体制だった
画家とか映画監督までも戦争賛美の作品を作るように強制されていたわけでそうしないと生活できないのが国家主義体制の大日本帝国
わかったかね?統一教会信者さん
基地外の言い分って強いぞ、どんな組織にも声の大きいマイノリティが威張ってるだろ、そいつの言いなりに組織がおかしい方向になってたりするだろ