やしきたかじん最終更新 2024/10/28 08:011.なんてったって名無しさんiQryaご冥福を祈ります2024/06/22 05:30:4652コメント欄へ移動すべて|最新の50件3.なんてったって名無しさんu9Tnw個人事務所パブリック・インフォメーション・スタイル(P.I.S)代表取締役、大阪を盛り上げるために創設された民間団体「OSAKAあかるクラブ」のキャプテン および理事長 などを歴任した。2024/06/22 05:36:074.なんてったって名無しさんu9Tnw大阪市西成区で男ばかり4人兄弟の次男として誕生。父親の権三郎は工場、パチンコ屋などを経営する裕福な家庭だったが、二度倒産を経験するなど浮き沈みも激しかった。小学生の頃は野球に熱中し、強豪チームに所属。地元公立中学の野球部では主将、捕手、四番打者となり複数の野球強豪高校からの誘いもあったが、才能が無いときっぱりあきらめる。一方、ラジオで聴いたコニー・フランシスの『ボーイ・ハント』で音楽に目覚め、ビートルズの『抱きしめたい』もレコードを購入。2歳上の兄に歌声を褒められ、音楽家を志すようになる。大阪市立成南中学校卒業。桃山学院高等学校在学中は新聞記者に憧れ新聞部に所属。朝日新聞社主催の全国新聞コンクールに入選も果たしている2024/06/22 05:56:235.なんてったって名無しさんu9Tnw大学受験に失敗し、系列の桃山学院大学経済学部に進学しながら別の大学を目指す仮面浪人となる。父に「将来は新聞記者か音楽家になりたい」と相談するが、会社を手伝わせるつもりだった父は激怒し、たかじんを勘当する。翌年、龍谷大学経済学部へ入学し、桃山学院大学を中退。京都に移り住む。三畳一間の下宿で高校の同級生で関西学院大学に進学した荒木十章らと曲作りに励む。大学は6年在籍したあと中退。祇園のハンバーガーショップ「ホリデーバーガー」で弾き語りで歌ったのを皮切りに、祇園のクラブやスナックでギターの弾き語りを始め、自分の曲以外に様々な曲のレパートリーを増やす。この時期のたかじんは自暴自棄になっており、弾き語りで態度の悪い客には、タバスコ、ママレモン(食器用洗剤)等をぶっかけたり、2階から放り出したりして暴れていたため、次々にクビになったという2024/06/22 05:58:276.なんてったって名無しさんu9Tnw1971年に京都レコード(2002年に日音に版権を売却し音楽事業から撤退)から『娼婦和子』でレコードデビューするが、刺激的且つ退廃的、「現在の日本国において、娼婦などという職業は存在しない」との理由で程なく発売禁止、廃盤となる。1973年5月15日には、京都文化芸術会館で初のコンサートを開催。1974年に東京・二子玉川に移住して地下鉄工事のアルバイトなどをしながら生活するが1年ほどで再び京都に戻る。その後の1976年に、キング・ベルウッドからシングル『ゆめいらんかね』、アルバム『TAKAJIN』で再デビュー。同年、FM東京が選ぶ最優秀新人賞のベスト5に入る。2024/06/22 05:59:487.なんてったって名無しさんu9Tnw1981年には、谷村新司が作詞・作曲し、たかじんが歌ったアニメ映画『機動戦士ガンダム』(劇場版3部作の第1作目)の主題歌『砂の十字架』が13万枚 のヒットとなるが、本人にとっては生涯最大の汚点だという。これには数々の事情があり、当時たかじんを担当していたディレクターがキングレコードの部長に涙ながらに土下座をして、長い間鳴かず飛ばずだったたかじんに「レコードを出させて下さい」と直訴。その結果キングレコードは条件として、たかじんにガンダムの主題歌を歌うように指示、たかじんも歌詞に「ガンダム」という固有名詞がないことを条件に、(土下座したディレクターのこともあり)渋々承諾する。しかし、歌詞になかなか納得できなかったことと、ジャケットに自分の写真でなく、(同作品の主人公の)「アムロ・レイ」のイラスト(安彦良和が作画)が描かれていた事にたかじんがクレームをつけて発売は延期となるが、結局そのまま発売されてしまったという経緯による。このように自分の意向が蔑ろにされ、全てが事後承諾で制作された経緯がある作品である上に、無理矢理歌わされた曲が結果的に大ヒットしたため、「これまた人生の汚点だ」として番組などで嘆いた。またその後長い間、『機動戦士ガンダム』を観る事すら拒んだ。しかし後年になり、橋下徹や岡田斗司夫から作品の内容・世界観などを聞かされ、「今、歌えば逆に新鮮かも」と提案された時には、少し色気を出していた。また、自身の公式ホームページでは生前から「その卓越した歌唱力故に起用され、ビッグヒットを放つ」と記述し、全面的に否定的な扱いとはしていなかった。2024/06/22 06:07:518.なんてったって名無しさんu9Tnw1982年、大阪駅前第二ビルの一角にマネージャーであった野田幸嗣とともに個人事務所「P.I.S(パブリック・インフォメーション・スタイル)」を設立。その後、1983年にビクターに移籍して『ラヴ・イズ・オーヴァー』をリリース、1984年にリリースされた『あんた』が上昇気流のきっかけとなる。1986年には『やっぱ好きやねん』が関西で注目を集めヒット。さらにこれが「大阪の歌手」として人気を得るきっかけとなり、1987年には『ICHIZU』が関西で大ヒットした。その後も、1989年には『大阪恋物語』、翌年には『なめとんか』がヒット、大阪色を前面に出したバラードシンガーとして根付いていくことになる(『やっぱ好きやねん』をきっかけに若き作家鹿紋太郎と出会って以降、ビクター在籍中二人三脚で楽曲を製作し現在の歌い手たかじんのスタイルを築くこととなった)。本人曰く「歌手一本で食えるようになるまで20年はかかった」という。この頃には、関西でのたかじんのコンサート・ディナーショーなどのチケットは入手困難となり、常に前売り即完売のプラチナチケットとなっていた。2024/06/22 06:10:579.なんてったって名無しさんu9Tnwたかじんのコンサートは演出や構成が一切なく、セットや照明も控えめで、あくまで歌とトークを重視したシンプルなスタイルである。3時間前後の内、大半(約6割)がトークに費やされる。歌はかつては15曲前後、晩年期では12、3曲歌う。歌の間に3回から4回ほど2、30分程度(大ネタになれば4、50分)のトークがある。トークでオチをつけないと次の曲の演奏が始まらないことも特徴である(予想外のオチにバックバンドが慌てて演奏に入ることも少なくない)。聴衆からも「曲はレコード、CDで聞くからそれよりも話をして」と言われるという。それ故、ほとんど歌えなかったこともあり、かつてコンサートやライブで歌ったのがたった2、3曲だけだったこともある(例えば、ゲストでたかじん同様にコンサートの大半をトークに費やす円広志を迎えた時などには漫才に熱が入り過ぎる(2時間近くやっていた)ため、たかじんが「緊急事態宣言」を行い、急遽バックバンドに目配せで当初予定していた曲数を大幅カットさせたため、スタッフは大慌てだったという)。2024/06/22 06:20:2210.なんてったって名無しさんu9Tnwコンサートになると、極度の重圧から自律神経失調症や重度の胃腸炎やノイローゼになり、かつてコンサートでアンコールの緞帳が下りた時に意識を失い、生死をさまよったことがある。客席をまともに見ることが怖いため、ステージに立つ時は必ずサングラスをかけている。トーク時にステージの端から端までウロウロするのはサービスや演出ではなく、精神的に落ち着かないからである。コンサートのトーク時間が日本一長いことで有名であるが、このようなスタイルになったきっかけは、まだヒット曲に恵まれず鳴かず飛ばずだった頃、どのようにすればコンサートホールが満員になるのかを試行錯誤した結果、このようなスタイルになったとのこと。同様にステージトークも期待されている稀有な存在としては、他にさだまさし、松山千春、根本要、武田鉄矢らがあげられる。2024/06/22 06:22:2711.なんてったって名無しさんu9Tnw2014年1月3日未明、東京都内の病院で心不全のため死去した。死去の事実は、たかじんが生前に関係者や遙洋子に対して「みんながめでたい気持ちで迎えている正月に、自分の訃報で(関係者およびファンに)悲しい思いをさせたくない」との意向を示していたことを踏まえて、5日に密葬を済ませた後、日本時間7日23時に所属事務所のP.I.Sから公表。また遙には、7日の午前中に、3人目の妻より伝えられた。3人目の妻が「やしきがお茶したい」と、自宅に呼び出し、そこで伝えられた。独身の遙が、ニュースで先に知ることにならないようにするための配慮から別途伝えられることになった。享年65歳。2024/06/22 06:28:2712.なんてったって名無しさんu9Tnw上岡龍太郎と同じく東京の放送メディアの組織・社員の体質を激しく嫌っていたため、在京局の番組での出演は非常に少なく、大阪発を含めても全国ネットの出演番組も多くなかった(なお、上岡は1987年から2000年の引退まで大阪発を含めて全国ネット番組への出演が増加していた)。かつて『たかじん胸いっぱい』(関西テレビ)の全国ネット化をキー局のフジテレビから打診され、また『たかじんのそこまで言って委員会』(読売テレビ)もキー局の日本テレビからゴールデンタイムでの全国ネット化を熱望されたが、たかじんが「関東には絶対流さない」「関東で放送されるくらいなら辞退する」と言い(同番組の出演者も宮崎哲弥などが多く反対している。)、在京キー局(関東)ではネットされなかった。1990年代以降、在阪局の制作であっても全国ネット番組では在京の制作プロダクションを起用して東京都内のスタジオで収録する事例が増加していたが、研ナオコと共に司会を務めた『たかじん・ナオコのシャベタリーノ!』に関してはスタッフ・出演者が東京の放送メディアでの仕事を避けていたたかじんの意向を尊重したことから、大阪での収録としていた。2024/06/22 06:31:0313.なんてったって名無しさんu9Tnw『紅白歌合戦』に関しては年末年始に番組内で特大パネルを用いての批評が定番と化していた(後に批判が減少し、援護するようなコメントが増加していた)。実際、NHK側が「たかじんの出演が紅白のイメージに合わない」と、たかじんの紅白出場の可能性を完全否定したことから、たかじんは生涯1度も紅白に出場することはなかった。それでも、2009年の『第60回NHK紅白歌合戦』の出場を最後に「後進に枠を譲りたい」との理由で紅白勇退を表明した布施明が、たかじんの紅白出場を推奨したが、実現はしなかった。持ち歌が紅白の舞台で披露されたのはたかじんの死後で、死去した2014年の『第65回NHK紅白歌合戦』にて、たかじんと親交の深い天童よしみが追悼の意味を込めて、「やっぱ好きやねん」を熱唱した。2024/06/22 06:33:0814.なんてったって名無しさんu9Tnwたかじんの死後、40年以上親交を続けると同時にライバルでもあった上沼恵美子(紅白で2回紅組司会を務めた)が、読売テレビ・中京テレビ『上沼・高田のクギズケ!』で「たかじんさん。東京嫌いやとか言うてたけど、紅白出たかったんと違う?本音の本音の本音は歌手ですからね。関西ローカルタレント同士で、来世は、彼が歌で紅白に、私が司会…そんなお付き合いをしたい…」と、涙ながらに語った。自身の出演は拒絶していたが、自身の持ち歌をNHKの歌謡番組で他の歌手がカバーすることや、『NHKのど自慢』出場者が選曲・歌唱すること、ラジオ番組でレコード演奏することまでは拒絶していなかった。2024/06/22 06:36:1115.なんてったって名無しさん4wXVM破天荒やなあ😃2024/06/23 04:27:2716.なんてったって名無しさんbBNqH暴れん坊なイメージ2024/06/23 10:32:0017.なんてったって名無しさんzZIU0東京嫌い😡⚡️2024/06/24 05:20:2318.なんてったって名無しさんmVomN傍若無人やなあ2024/06/24 15:21:4519.なんてったって名無しさんwgHk2関西の帝王2024/06/25 18:36:0020.なんてったって名無しさんqMzgF見た目や声で明らかにガラ悪いのわかるけど紳助ほどちゃうやろ2024/06/26 10:58:3521.なんてったって名無しさんqMzgF本業歌手なのにバラエティのMCが多いって似ても似つかないけど所ジョージみたいなポジションか2024/06/26 11:00:0022.なんてったって名無しさんqMzgFグループ魂が初めて紅白出た時にたかじんにめっちゃ叩かれてグループ魂がその後出したCDの中のコントでたかじんdisってたなぁ味の素ネタも入れてた2024/06/26 11:08:4023.なんてったって名無しさんqMzgF関西司会者の枠を電車の座席によく例えとったな自分がレギュラー取れたのは桂春蝶(先代)が死んだからやとよく言っとった2024/06/26 11:15:1624.なんてったって名無しさんPsVqjとんねるずやウンナン、タモリ、所が嫌いって言ってたな明らかに関東っぽい芸風の奴を一方的に2024/06/27 08:52:2125.なんてったって名無しさんjGW56関西の帝王😃2024/06/28 04:39:0626.なんてったって名無しさんKA0Sc関東の人間からすると政治厨製造装置くらいの印象しかない2024/06/28 08:48:1427.なんてったって名無しさんRTGA8関西のジジババには凄く人気なんやろ他の人たちには一切理解できんやろうけど2024/06/29 06:09:2628.なんてったって名無しさんFinCyそこまでいって委員会とかいう関東以外ではどこでも遭遇する番組2024/06/30 10:44:1429.なんてったって名無しさんEA7Vwたかじんが全盛期のみのもんたと爆笑問題の年収言うてて高額すぎてたまげた2024/07/01 07:14:1630.なんてったって名無しさんTVpbJ生放送中でも切れて帰りますよこの人2024/07/02 09:35:1131.なんてったって名無しさんvZ3q6暴れん坊😉2024/07/04 04:01:4332.なんてったって名無しさんKFxtdこれだから・・・2024/07/04 15:12:2933.なんてったって名無しさんrUrZu周囲の人間が言うほどおもしろくはないけど見た目に反してそんなに怖い人ではなかったイメージだな2024/07/05 09:33:0734.なんてったって名無しさんrRQBA関西らしさ😃2024/07/09 04:27:3835.なんてったって名無しさんQ0Rkdたかちゃん!!2024/07/09 16:04:4336.なんてったって名無しさんOPiuH暴れん坊やなあ😁2024/07/11 04:29:3337.なんてったって名無しさん6e1zjなんやこいつ2024/07/11 12:49:2038.なんてったって名無しさんwapjS暴れん坊やな😃2024/07/23 04:46:0639.なんてったって名無しさんqUDRQトラブルメーカーなのかな2024/07/23 11:27:0940.なんてったって名無しさんsth3e上岡龍太郎にしばかれてほしい2024/07/25 09:24:1641.なんてったって名無しさんfofSZたかじん大好き2024/08/06 19:40:5442.なんてったって名無しさんy7IaOうじきつよし2024/08/18 14:58:5043.なんてったって名無しさんqsCtVバラエティでは坂上忍を面白くしてさらにゲスにしたような存在だった2024/08/19 13:06:0644.なんてったって名無しさんUv0DZ晴れときどきたかじんや、新たかじんが来るぞの頃が一番よかった。それ以降は見なくなったなあ2024/08/20 12:29:5745.なんてったって名無しさん5B68oやしきたかじんも桂ざこばも死んだなんて信じられないわ元気なの宮根誠司だけになったじゃん関西2024/08/22 09:00:3246.なんてったって名無しさんmpwUZ意外にもナンシー関が評価してた2024/08/23 08:38:1947.なんてったって名無しさんRF6Tl人の悪口ばかり言ってる印象2024/08/25 11:56:1748.なんてったって名無しさんaoq8v関東人のワイやしきた かじんだとずっと思ってた2024/08/26 12:03:3849.なんてったって名無しさん8WYym東京行くと借りてきた猫のようにつまらなくなるが関西ではおもしろかったな2024/08/27 13:03:4150.なんてったって名無しさんEVf2L逆張りとか反抗期みたいないっつも批判ばっかりしてるイメージホリエモンとひろゆきを足して下品にした感じ2024/08/29 11:01:3051.なんてったって名無しさん7NhvC満を持して東京に出てみたが全く相手にされず逃げ帰ってくやしくてくやしくて大阪でひたすら東京ガー東京ガーやってたら大阪人の東京コンプレックスにぴたりマッチしてナニワの天皇に落ちぶれた人2024/09/01 13:18:5252.なんてったって名無しさん8LRi2たかじんおったらそこは大阪や!!2024/10/28 08:01:10
大阪を盛り上げるために創設された民間団体「OSAKAあかるクラブ」のキャプテン および理事長 などを歴任した。
父親の権三郎は工場、パチンコ屋などを経営する裕福な家庭だったが、二度倒産を経験するなど浮き沈みも激しかった。
小学生の頃は野球に熱中し、強豪チームに所属。地元公立中学の野球部では主将、捕手、四番打者となり複数の野球強豪高校からの誘いもあったが、才能が無いときっぱりあきらめる。
一方、ラジオで聴いたコニー・フランシスの『ボーイ・ハント』で音楽に目覚め、ビートルズの『抱きしめたい』もレコードを購入。
2歳上の兄に歌声を褒められ、音楽家を志すようになる。
大阪市立成南中学校卒業。
桃山学院高等学校在学中は新聞記者に憧れ新聞部に所属。
朝日新聞社主催の全国新聞コンクールに入選も果たしている
父に「将来は新聞記者か音楽家になりたい」と相談するが、会社を手伝わせるつもりだった父は激怒し、たかじんを勘当する。
翌年、龍谷大学経済学部へ入学し、桃山学院大学を中退。
京都に移り住む。
三畳一間の下宿で高校の同級生で関西学院大学に進学した荒木十章らと曲作りに励む。
大学は6年在籍したあと中退。
祇園のハンバーガーショップ「ホリデーバーガー」で弾き語りで歌ったのを皮切りに、祇園のクラブやスナックでギターの弾き語りを始め、
自分の曲以外に様々な曲のレパートリーを増やす。
この時期のたかじんは自暴自棄になっており、弾き語りで態度の悪い客には、タバスコ、ママレモン(食器用洗剤)等をぶっかけたり、
2階から放り出したりして暴れていたため、次々にクビになったという
刺激的且つ退廃的、「現在の日本国において、娼婦などという職業は存在しない」との理由で程なく発売禁止、廃盤となる。
1973年5月15日には、京都文化芸術会館で初のコンサートを開催。
1974年に東京・二子玉川に移住して地下鉄工事のアルバイトなどをしながら生活するが1年ほどで再び京都に戻る。
その後の1976年に、キング・ベルウッドからシングル『ゆめいらんかね』、アルバム『TAKAJIN』で再デビュー。
同年、FM東京が選ぶ最優秀新人賞のベスト5に入る。
これには数々の事情があり、当時たかじんを担当していたディレクターがキングレコードの部長に涙ながらに土下座をして、長い間鳴かず飛ばずだったたかじんに「レコードを出させて下さい」と直訴。
その結果キングレコードは条件として、たかじんにガンダムの主題歌を歌うように指示、たかじんも歌詞に「ガンダム」という固有名詞がないことを条件に、(土下座したディレクターのこともあり)渋々承諾する。
しかし、歌詞になかなか納得できなかったことと、ジャケットに自分の写真でなく、(同作品の主人公の)「アムロ・レイ」のイラスト(安彦良和が作画)が描かれていた事にたかじんがクレームをつけて発売は延期となるが、
結局そのまま発売されてしまったという経緯による。
このように自分の意向が蔑ろにされ、全てが事後承諾で制作された経緯がある作品である上に、無理矢理歌わされた曲が結果的に大ヒットしたため、「これまた人生の汚点だ」として番組などで嘆いた。
またその後長い間、『機動戦士ガンダム』を観る事すら拒んだ。
しかし後年になり、橋下徹や岡田斗司夫から作品の内容・世界観などを聞かされ、「今、歌えば逆に新鮮かも」と提案された時には、少し色気を出していた。
また、自身の公式ホームページでは生前から「その卓越した歌唱力故に起用され、ビッグヒットを放つ」と記述し、全面的に否定的な扱いとはしていなかった。
その後、1983年にビクターに移籍して『ラヴ・イズ・オーヴァー』をリリース、1984年にリリースされた『あんた』が上昇気流のきっかけとなる。
1986年には『やっぱ好きやねん』が関西で注目を集めヒット。
さらにこれが「大阪の歌手」として人気を得るきっかけとなり、1987年には『ICHIZU』が関西で大ヒットした。
その後も、1989年には『大阪恋物語』、翌年には『なめとんか』がヒット、
大阪色を前面に出したバラードシンガーとして根付いていくことになる(『やっぱ好きやねん』をきっかけに若き作家鹿紋太郎と出会って以降、
ビクター在籍中二人三脚で楽曲を製作し現在の歌い手たかじんのスタイルを築くこととなった)。
本人曰く「歌手一本で食えるようになるまで20年はかかった」という。
この頃には、関西でのたかじんのコンサート・ディナーショーなどのチケットは入手困難となり、常に前売り即完売のプラチナチケットとなっていた。
3時間前後の内、大半(約6割)がトークに費やされる。
歌はかつては15曲前後、晩年期では12、3曲歌う。歌の間に3回から4回ほど2、30分程度(大ネタになれば4、50分)のトークがある。
トークでオチをつけないと次の曲の演奏が始まらないことも特徴である(予想外のオチにバックバンドが慌てて演奏に入ることも少なくない)。
聴衆からも「曲はレコード、CDで聞くからそれよりも話をして」と言われるという。
それ故、ほとんど歌えなかったこともあり、かつてコンサートやライブで歌ったのがたった2、3曲だけだったこともある
(例えば、ゲストでたかじん同様にコンサートの大半をトークに費やす円広志を迎えた時などには漫才に熱が入り過ぎる(2時間近くやっていた)ため、
たかじんが「緊急事態宣言」を行い、急遽バックバンドに目配せで当初予定していた曲数を大幅カットさせたため、スタッフは大慌てだったという)。
客席をまともに見ることが怖いため、ステージに立つ時は必ずサングラスをかけている。
トーク時にステージの端から端までウロウロするのはサービスや演出ではなく、精神的に落ち着かないからである。
コンサートのトーク時間が日本一長いことで有名であるが、このようなスタイルになったきっかけは、まだヒット曲に恵まれず鳴かず飛ばずだった頃、
どのようにすればコンサートホールが満員になるのかを試行錯誤した結果、このようなスタイルになったとのこと。
同様にステージトークも期待されている稀有な存在としては、他にさだまさし、松山千春、根本要、武田鉄矢らがあげられる。
死去の事実は、たかじんが生前に関係者や遙洋子に対して「みんながめでたい気持ちで迎えている正月に、自分の訃報で(関係者およびファンに)悲しい思いをさせたくない」との意向を示していたことを踏まえて、
5日に密葬を済ませた後、日本時間7日23時に所属事務所のP.I.Sから公表。
また遙には、7日の午前中に、3人目の妻より伝えられた。
3人目の妻が「やしきがお茶したい」と、自宅に呼び出し、そこで伝えられた。
独身の遙が、ニュースで先に知ることにならないようにするための配慮から別途伝えられることになった。
享年65歳。
大阪発を含めても全国ネットの出演番組も多くなかった(なお、上岡は1987年から2000年の引退まで大阪発を含めて全国ネット番組への出演が増加していた)。
かつて『たかじん胸いっぱい』(関西テレビ)の全国ネット化をキー局のフジテレビから打診され、
また『たかじんのそこまで言って委員会』(読売テレビ)もキー局の日本テレビからゴールデンタイムでの全国ネット化を熱望されたが、
たかじんが「関東には絶対流さない」「関東で放送されるくらいなら辞退する」と言い(同番組の出演者も宮崎哲弥などが多く反対している。)、在京キー局(関東)ではネットされなかった。
1990年代以降、在阪局の制作であっても全国ネット番組では在京の制作プロダクションを起用して東京都内のスタジオで収録する事例が増加していたが、
研ナオコと共に司会を務めた『たかじん・ナオコのシャベタリーノ!』に関してはスタッフ・出演者が東京の放送メディアでの仕事を避けていたたかじんの意向を尊重したことから、大阪での収録としていた。
実際、NHK側が「たかじんの出演が紅白のイメージに合わない」と、たかじんの紅白出場の可能性を完全否定したことから、たかじんは生涯1度も紅白に出場することはなかった。
それでも、2009年の『第60回NHK紅白歌合戦』の出場を最後に「後進に枠を譲りたい」との理由で紅白勇退を表明した布施明が、たかじんの紅白出場を推奨したが、実現はしなかった。
持ち歌が紅白の舞台で披露されたのはたかじんの死後で、
死去した2014年の『第65回NHK紅白歌合戦』にて、たかじんと親交の深い天童よしみが追悼の意味を込めて、「やっぱ好きやねん」を熱唱した。
読売テレビ・中京テレビ『上沼・高田のクギズケ!』で「たかじんさん。東京嫌いやとか言うてたけど、紅白出たかったんと違う?本音の本音の本音は歌手ですからね。
関西ローカルタレント同士で、来世は、彼が歌で紅白に、私が司会…そんなお付き合いをしたい…」と、涙ながらに語った。
自身の出演は拒絶していたが、自身の持ち歌をNHKの歌謡番組で他の歌手がカバーすることや、
『NHKのど自慢』出場者が選曲・歌唱すること、ラジオ番組でレコード演奏することまでは拒絶していなかった。
グループ魂がその後出したCDの中のコントでたかじんdisってたなぁ
味の素ネタも入れてた
自分がレギュラー取れたのは桂春蝶(先代)が死んだからやとよく言っとった
明らかに関東っぽい芸風の奴を一方的に
他の人たちには一切理解できんやろうけど
元気なの宮根誠司だけになったじゃん関西
やしきた かじん
だとずっと思ってた
関西ではおもしろかったな
ホリエモンとひろゆきを足して下品にした感じ