50歳以上のおっさんが高校野球を語る Part32【ワッチョイあり】最終更新 2024/11/15 12:041.名無しさん@実況は実況板へVHV1r!extend:checked:vvvvvv:1000:512!extend:checked:vvvvvv:1000:512前スレ50歳以上のおっさんが高校野球を語る Part31【ワッチョイあり】https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/c/hsb/1661054641/l502023/07/11 08:27:5352コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.名無しさん@実況は実況板へVHV1r他所でやってくれ攻撃で書き込めないことが多いな。2023/07/11 08:49:593.名無しさん@実況は実況板へw1dNwテスト2023/07/11 14:45:594.名無しさん@実況は実況板へdDD4Xテスト2023/07/12 08:06:135.名無しさん@実況は実況板へrKgDjうんこ2023/07/13 10:17:056.名無しさん@実況は実況板へajoh0なんで2023/07/21 20:16:467.名無しさん@実況は実況板へtcJnt5chの高校野球が見られない。DDoS攻撃?2023/10/04 06:33:008.名無しさん@実況は実況板へQwdzD 最近の選手宣誓はオリジナルなのはいいけど長すぎる。オリジナルの原点の84年夏の福井商坪井の宣誓はもっと短かった。ネットで調べると坪井の勘違いでオリジナル選手宣誓が始まったんだって。以下引用「宣誓することが決まってチームメイトは皆、『よかったな』と言ってくれました。『控えの主将が目立つには宣誓するしかないな』って半分冗談で言い合っていたこともあって盛り上がりました。でも、その後の本抽選でも『1』を引いてしまって…。こっちは『それはあかんやろ~』と叱責を受けましたね(笑)」~『あゝ夏の甲子園』(2023年7月26日発売号)より-----本抽選での「1」は、開会式直後の開幕試合を意味する。つまり、坪井主将は偶然にも連続で「1」番クジを引いてしまい、気持ちが動転してしまったというのだ。-----選手宣誓と合わせ、これ以上ない緊張を同時に味わうことが決まって心もざわつく抽選会終了後、坪井は大会関係者から「どんな宣誓にするか、明日の予行演習の際に紙に書いて持ってきてください」と言われた。これこそが勘違いの始まりだった。「気持ちが昂りすぎていたんですかね。私が勝手に『書いて持ってきて』を『自分なりの言葉を盛り込め』と勘違いしたんです。後からいろんな人の話を聞く限り、毎年の通過儀礼なだけだったようなんですけど」~『あゝ夏の甲子園』(2023年7月26日発売号)より-----坪井主将は勘違いをしたまま宿舎に戻り、「自分なりの言葉を」と、福井商野球部のモットーである「炎」の文字を入れ込んだ選手宣誓文を考案した。-----「宣誓。我々、選手一同は第66回全国高等学校野球選手権大会に臨み、若人の夢を炎と燃やし、力強く、たくましく、甲子園から大いなる未来へ向かって、正々堂々、戦い抜くことを誓います」~『あゝ夏の甲子園』(2023年7月26日発売号)より-----現在の文量と比べれば、これでも十分に簡潔な内容だ。それでも、この文案を見た大会関係者の反応は「ちょっと長いかな。短くしてもらうかも」というものだった。だが、結果的には「問題なし」とされ、坪井主将は開会式でこの「独自選手宣誓」を披露したのだ。福井商は開会式直後の開幕試合で敗れ、甲子園に別れを告げた。だが、坪井主将は福井に戻ったあとも地元新聞や雑誌、ラジオなどから取材を受けるほど、この独創的選手宣誓は大きな反響を呼ぶことに。その結果、以降の開会式では「自分の言葉」を盛り込むことが定番となったわけだ。2024/03/18 18:58:469.名無しさん@実況は実況板へNXiUT これからはモイセエフみたいな素質のある選手しかホームランを打てなくなるのかな?木製バットで大会2ホームランを打った早実の王さんや銚子商の篠塚は本当に凄かったんですね。特に王さんの時代はラッキーゾーンがなかったはずなので、王さんは本当の怪物だったんですね。 82夏の池田の9番山口が二本塁打を打って恐怖の9番とか言われたけど、あのへんからバットがおかしくなってプロに縁がないような下位バッターでもホームランを打てるようになったのかも。2024/03/19 17:53:1510.名無しさん@実況は実況板へNXiUT 学法石川の佐々木監督は東北の選手時代は長身の横手投げ投手だったな。76夏に見たけど、東北高校自体が76春の日田林工とイメージがダブった。ランナーが一塁に出ると1アウトでも確実にバントで二塁に送って、恐ろしいくらいに高確率でタイムリーヒットがでて大量得点を取る攻撃が共通していて、また日田林工のエース喜見投手も横手投げだったのも共通していた。佐々木投手は翌年の選抜にも出たけど、夏は怪我でもしたのか宮城の決勝で仙台育英に負けたときは投げていなくて、二年の薄木が投げていた。早大時代の佐々木投手は見た記憶がない。今治西から来た三谷は見た記憶があるけど。2024/03/19 17:53:4511.名無しさん@実況は実況板へM9hkQ 選抜では話題になったランニングホームランが二本あって、 一本目は甲子園の名勝負を集めた本なんかに書いてあって有名ですが、1926年の選抜で松本商の矢島選手が夏春連覇を目指した高松商の宮武投手から打ったサヨナラランニング3ランです。本来なら最初のランナーが生還した時点でサヨナラですが、打った本人も含めて3人がいきよいよく帰ってきたのでホームランに認定されたそうです。この一打が戦前の選抜での最初で最後のサヨナラホームランです。 二本目は見た人も多いと思いますが1982年の選抜で黄金時代のPLの4番としては地味で有名な松田選手が決勝で打ったランニング満塁ホームランです。これが話題になったのは、史上初めて選抜で連覇した1930年の第一神港商の高瀬選手が決勝で満塁ホームランを打っており、神港に続く2回目の連覇を達成したPLも決勝で満塁ホームランを打ったことで不思議な縁だと話題になりました。当時は戦前の試合を実際に見た人も大勢生きていましたからね。高瀬選手のホームランもランニングホームランぽいですね。 3回目の選抜連覇を2018年に達成した大阪桐蔭は決勝でホームランは出ませんでしたね。この辺の空気の読まなさが大阪桐蔭がオールドファンから嫌われる原因かも。 夏の大会で話題になったランニングホームランってあまりないような気がする。強いて言えば2003年の夏の甲子園の開幕試合で桐生一の菊地選手が夏の甲子園の通算1000号をランニングホームランで打ったことくらいかな?2024/03/29 11:57:1112.名無しさん@実況は実況板へ6PiAu 選抜で珍しかったシーンは1988年の宇都宮学園の高島捕手の猛抗議。何試合目か忘れたけど、高島が怪我をして治療中に上野監督がさっさと選手交代を告げてしまった。治療を終えてグランドに戻った高島選手が自分の交代を知って激昂。監督に文句を言ったあと、審判に交代を取り消せと猛抗議していました。当然通らなかったけど。当時は事情を知らずに何やってんだこいつって思っていたけど、何年か後に報知高校野球の私の高校野球って手記で上野監督が忘れられない選手として高島のことを書いていました。高島のことを[抜身の刀」と評していました。頭にくると暴言を発した選手のようで静岡県での試合で審判の判定に不服があると審判を「お前のレベルでは栃木では通用しない。」と罵ったエピソードを挙げていました。トラブルメーカーだったようですが、力はあって夏は、優勝候補 近大付との対戦で試合を決めた2ランを打ったなぁ。オリックスに指名されたのであの武闘派張本が呆れるくらい喧嘩っ早かった喧嘩屋八郎こと山本八郎(張本の浪商の先輩)みたいになってくれるかと期待していましたが、そんなに一軍で活躍できなかったので暴れる機会も少なかったようです。 高島は今何やっているのかと思ってネットで調べると3年くらい前に病死していました。高校球児って早死する人が多いような?96年夏の早実戦でサヨナラ逆転2ランをうった海星の稲垣とか、97年夏の甲府工で好投した小沢投手とか、79-80年の前橋工の投の3本柱だった番場とか87年夏のPL戦で野村をKOした逆転打を打った中央の中島捕手等も病気で早死しましたね。南陽工の津田とか函館有斗の盛田のプロ組も病没しているな。2024/04/01 12:22:5713.名無しさん@実況は実況板へnn2Ou 東海大福岡って今回の選抜が3回目で夏の出場は0と意外と甲子園に出ていないです。85年選抜で広陵の大型投手川原への9連打とか2017選抜で清宮がいた注目校早実を破ったりとインパクトのある試合をしているからもっと甲子園に出ているイメージがあった。福岡自体が激戦区で甲子園が遠い地区。特に福岡が凄かったのは88年から92年かけての夏の甲子園。88-福岡第一が準優勝89-大濠がベスト890-西短がベスト491-柳川がベスト892-西短が優勝5年間で異なる4校が連続で上位進出ってなかなかないです。二校とかだと最近の大阪とか昔の千葉とかあったけど。近いのは76-79の大阪(大鉄、PL、浪商)くらいかも。2024/04/11 08:59:0614.名無しさん@実況は実況板へdC18c サッカーJ1の町田の監督さんが青森山田のサッカー部監督から転身したアマチュアの経歴しか無い黒田さんでチームも好調。高校野球だと広商の戦前の優勝監督だった石本監督が阪神や広島等6球団で監督を務めたことが有名だけど、法政二高の優勝監督だった田丸さんもロッテの前身の東京オリオンズで一年だけ監督をやっていたんですね。BSフジのプロ野球レジェン堂って番組で柴田がゲストで出た時にその話があった。桐生の名将稲川監督にもプロ野球の監督へのスカウトがあったらしいですね。高校野球の有名監督なら選手も従うのかもしれないけど、阪神の岸監督(神戸商の元監督)なんかは中央のアマチュア球界でもあまり知られていなかったようで藤村富美男らに反抗されてお家騒動になったそうですね。2024/04/30 07:36:1715.名無しさん@実況は実況板へ1gK6d 健大高崎がセンバツ優勝したことで現役の甲子園優勝監督の最多地区は群馬のようですね。健大高崎の青柳、桐生一時代に優勝経験のある利根商の福田監督、前橋育英の荒井監督。数年前は東京や愛知に優勝監督が3人いたけど、引退等で減っちゃいましたね。4人いた地区ってあるのだろうか?浪商の広瀬監督や興国の村井監督が1984年まで続けていたら大阪に4人いたことになります。残りはPL中村監督と大阪産大付の鶴岡監督。 90年に就職で茨城に引っ越した時、常総の木内監督の他に清真学園の監督さんが桜美林の優勝監督だった浜田さんでしたね。なにげに優勝監督が二人いました。清真学園は弱かったけど。優勝監督じゃないけど古河一の監督さんが小山の選抜準優勝投手だった初見だったのも懐かしかったです。2024/05/06 11:48:0416.名無しさん@実況は実況板へFJ5Ai 神奈川で武相が42年ぶりの優勝だそうですが、当時はパンチ佐藤がいた時ですね。夏は準々決勝で優勝した法政二高に延長で破れたそうです。法政二高も柴田投手で3期連続優勝を目指して尾崎の浪商に破れて以来の甲子園出場でした。42年前の春の関東大会は高崎商が優勝したけど、当時は準決勝と決勝を1日でやっており、高崎商の近藤投手は二試合とも完投しています。これは当時でも異常でした。三沢の太田幸司さんの時代だとダブルヘッダーの練習試合で二試合とも投げさせられたと述懐していましたが、80年代でも甲子園と関係ない春関でこんなに投げさせるアホな監督がいたということです。これが原因か知りませんが近藤投手は夏も好投しましたが、決勝では力尽きて8失点でした。近藤は前の年も決勝で西武のエースになった渡辺の前橋工に負けたけど2失点と良い投球だったのに…。 オリックス時代のパンチ佐藤ってめったに見ることはできませんでしたが、振りは鋭かったですね。イチロー並に野球に集中していたら大成したと思えるいい素質を持った選手でした2024/05/08 12:25:0017.名無しさん@実況は実況板へ8ENts 今週のBSフジのプロ野球レジェン堂のゲストは平松さんだった。高校時代の話も出て、選抜で優勝後の地区大会の夏の決勝であたった関西の森安投手について、ものすごかったって話していました。森安投手に関しては二宮清純さんが書いた最強のプロ野球論って本で二宮さんが現役やOBのプロ野球選手に最速の投手は誰だって聞き回るコーナーがあったのですが、最速候補の江夏と怪童尾崎の両投手が一番早かった投手として森安さんを挙げていました。西武の主力打者だった山崎さんも森安を一番早いと言っていましたね。ヤクルトの八重樫さんにいたってはスライダーで150km以上出ていたと言っています。森安はサイドハンドの速球投手でしたが、黒い霧事件で池永投手といっしょに1970年に野球界を永久追放になっています。自分はその4年後に野球を見始めたから、事件に巻き込まれなかったら年齢的に見られた投手だっただけに惜しいです。 平松さんはシュートを投げ始めたのはプロ3年目からだそうで社会人時代に慶応大学OBで藤田元司さんと同期の人にシュートの投げ方を教わっていたそうです。前に星野仙一さんが平松は高校時代からいいシュートを投げてたよってNumberのインタビューで答えていたけど、あんたの目は節穴か?平松さんはボールの縫い目に指をかけずに握って、左肩を開き気味にして右手を遅らさせてボールを滑らしてシュートを投げたそうですが、他の投手に教えても誰も投げられなかったそうです。野村克也さんが言っていましたが、巨人の西本のシュートなんかは内角に落ちながら曲がって来たそうですが、平松のシュートは内角に浮き上がりながら食い込んできたそうで、より打ちにくかったそうです。平松にしか投げられないボールを一般的にシュートって言っていいのか?なとも思いました。 平松さんは10数年ぶりに見たけど、すっかりハゲ頭になっていました。後頭部が頭頂部の後ろまで広がるタイプのハゲ頭でした。90年代にプロ野球ニュースがあったときはふさふさだったはずですが、カツラだったのかなぁ?2024/05/17 12:06:5018.名無しさん@実況は実況板へzJlMU ダルビッシュが日米通算200勝。甲子園出場選手で200勝以上は以下の通り。育英 鈴木啓示 317勝滝川中 別所毅彦 310勝箕島 東尾修 251勝中京商 野口二郎 237勝名電 工藤公康 224勝甲府商 堀内恒夫 203勝岡山東商 平松政次 201勝甲子園で優勝したのは野口と平松だけだけど、上位進出や名勝負等で活躍した投手も多い。ただ、鈴木は甲子園の名勝負とかで名前は残って無いですね。堀内は選手権に出たけど運悪く記念大会で西宮ゾーンに入ったため甲子園では投げてないです。 ダルビッシュは自分が見てきた中では頭から下だけで評価するとNo.1かな。現在でも9種類の球を投げられて球速も150km台とこんなに器用さと球威を兼ね備えた投手は知りません。惜しむらくはコントロールかな。制球はまとまっているけどボール1個の出し入れができる桑田やメジャーのマダックスとかと比べるとだいぶ落ちます。あれでコントロールまでよかったら軽く300勝はいっているでしょう。大谷もそうだけどダルはいい時代に生まれましたね。東北高校時代は成長痛に苦しんだそうで、故障しないようにプールで体力作りをしているシーンを野球雑誌で見ましたが、70年代以前に高校生になっていたら、ダルも大谷も練習中の疲労骨折等で大成しなかった思います。当時は入部時にレントゲン検査をして肘に骨端線(成長線)があるかなんて確認しませんもの。 ここに来て急ブレーキがかかっているけど田中マー君も今シーズン中に200勝に行きそうですね。桑田と松坂は怪我さえなければ余裕で200勝以上で来たと思うだけに惜しいです。ダルやオオタニなんかトミー・ジョン手術を受けても球威は落ちなかったのに桑田と松坂は、思い切り落ちましたね。甲子園で投げすぎて手術で修復できないほど靭帯が傷んでいたのでしょうか?2024/05/21 11:55:2019.名無しさん@実況は実況板へSAoQn 6月になると沖縄や北海道で夏の甲子園の予選が始まるけど、公立高が最後に出てから最も長い時間が立っているのは西東京ですかね。80年に国立が出てから私立ばかりですね。逆に東東京は平成になってから城東が2回、雪谷が1回、夏の甲子園に出ていますね。早実が東から西に移ったり、小倉監督が日大三の監督になるまでは東東京より西東京のほうがレベルが低い印象があり、都立が出やすいのかなって思っていました。実際、西東京の東大和なんかは都立の星って言われて78年と85年は西東京で準優勝しています。78年は決勝で日大二高の全国レベルの小林投手と二瓶投手を打って10得点したけど、投手陣が崩壊して15失点して敗退。でも強い印象を受けました。 当初は愛知も80年の大府以来、公立高が出てないな~って思っていたら、2008年の記念大会に分割された愛知の片方から甲子園に出てたんですね。全然、記憶にない。調べると大府は選抜は93~95まで三年連続で出ていたり愛知の公立の雄ですね。2024/06/04 11:43:2820.名無しさん@実況は実況板へBkJThヤクルトの奥川が久方ぶりに復活したけど、高校時代が少し下関商と池永とにているかと思った事もあった。池永は1963年に選抜で大阪の明星を完封したけど、夏は決勝でその明星にお返しを食らった。奥川も星稜時代に2019年の選抜で大阪の履正社を17三振を奪って完封。でも夏は決勝で履正社に敗戦。春に軽くひねった相手に決勝で敗れる例ってあまりないです。軽くひねらないで勝って夏に仕返しを食らう例はそこそこありますがぁ。2024/06/17 11:56:5021.名無しさん@実況は実況板へBkJTh 大学選手権で青学が二連覇。青学の附属高校は野球が強いとは聞いたことがないですね。東京の大手の私立で附属高校が甲子園に出たことがないのは、中央大学、上智、順天堂、大東文化大、亜細亜大、東京理科大とかありますね。亜細亜大はそもそも附属高校がないそうです。理科大の附属高校も気いたいことない。理科大って文系の学部がないから大手大学とは言えないかも。 天理大のユニフォームが新聞に出ていたけど、ローマ字でTENRIって表記で高校とは違いますね。近大付みたいに天理高校のユニを大学のユニフォームに合わせようとしたら苦情が殺到する気がする。2024/06/17 12:10:1822.名無しさん@実況は実況板へjFWeG長文ばかりで草2024/06/24 11:04:4223.名無しさん@実況は実況板へPVUFD 先週のプロ野球レジェン堂はヤクルトの大エースだった松岡弘さんでした。同時期の大投手と比べて松岡さんの若い時の話は聞いたことがなかったので新鮮でした。高校時代の話では倉敷商に入学したら1年上に変な人がいたことから話が始まりました。星野さんは当時から県内で野球の実力はない方で有名で監督や部長も困っていたそうです。当時からあのラインだったって話に笑いました。松岡さん自体は二年の秋から投手を始めたそうで、それも本来のエースが利き手を故障したことが原因だそうです。高3の夏は県大会の準決勝(東中国大会の代表決定戦)で選抜優勝校の岡山東商の平松投手と投げ合って3-3で日没引き分け再試合となり、再試合で2-5で負けたそうです。 話の中でMCの徳光さんによると、長嶋茂雄さんが対戦した投手の中でヤクルト時代の松岡投手が一番速いと言っていたそうです。確かに昔の投手って球速の全盛期の長さが今の投手と比較して短く、当時、見たカープの外木場、大洋の平松、巨人の堀内なんか、本当に大投手かって思うくらい球が遅かったですが、78年の日本シリーズで阪急を完封した松岡さんはこれらの投手と比較してストレートは別格に速かったですね。 岡山東時代の平松って、地区大会で長嶋さんが一番速いって言っていた松岡に投げ勝ち、決勝では怪童尾崎や天才江夏が一番速いって言っていた関西の森安に投げ勝つって、本当にすごい投手だったんですね。平松さんに関してはやはり同番組で阪神の田淵が一軍で初めて対戦した投手が平松さんだそうですが、球が見えなく3球三振したそうです。 松岡さん自体は甲子園に縁がなかったけど、甥っ子の松岡大吾が87年夏の甲子園で活躍しましたね。初戦でプロで活躍した静岡の赤堀に投げ勝つなど、準々決勝まで行きました。準々決勝の帝京戦では本来のエース凪が監督にしつこく俺に投げさせろと訴え続けていたそうで、それに根負けした監督が凪を先発させたら5失点。救援した松岡が帝京打線を抑え込んだだけにもったいない試合でした。凪は試合後に悔いはないと言っていましたが、松岡が先発していたら勝機があっただけに、他の野手はたまったもんじゃなかったでしょう。松岡は中京の野中タイプのズングリした体系から重い球を投げるタイプの投手でした。2024/06/27 09:22:3924.名無しさん@実況は実況板へoNV1f 自分が生まれた群馬で一番プロ野球に進んだ投手が投手が多かった大会は知る限りでは1982年夏の大会かな。学年は違うけど、4人がプロ入りしている。農大二高の阿井(ヤクルト)、前橋育英の松原(巨人)、前橋工の2年生エースだった渡辺(西武、今の監督さん)、佐波農の1年生エースだった笠原(ロッテ)。渡辺と笠原がドラフト1位でした。この4人のうち3人が激突して、阿井が松原と渡辺にともに3-0で投げ勝ちました。特に渡辺の前橋工との試合がすごくて、渡辺のバント安打1本に抑えました。 松原は県大会終了後、農大二高の甲子園出場に同行して(ずーと一緒にいたか宿が同じかは不明)、農大二の大阪での練習でバッティング投手を務めるなど、練習のお手伝いをしたようで美談として朝日の群馬版に出ていました。進学や転勤で関東地区の栃木と埼玉を除く5都県で暮らしてきましたが、こういった話は他で聞いたことはありませんでした。似たような話では、2年後に太田工が夏の甲子園に出た時、太田の監督が前橋高校時代の先輩とかで当時、筑波大の大学院生だった完全試合投手の松本さんも、バッティング投手として太田工の練習を手伝ったそうです。松原は育英卒業後、高崎信用金庫で軟式野球をやった後、テスト入団で巨人に行って3勝しました。2024/07/01 12:19:5025.名無しさん@実況は実況板へfs6zw前橋工業といえば、向田投手。2024/07/02 17:05:2726.名無しさん@実況は実況板へkBmSf 一昨日、NHKで祝!甲子園100祭 みんなで選ぶ名場面100とか言う番組があったけど、ゲストが選ぶ名場面で藤川球児がボケたのかかち割り氷をあげていた。同じくゲストの荒木大輔なんか自分が池田に滅多打ちにあった試合をあげていたのに。できれば藤川にはあやつが出場した1997年夏の名場面、報徳学園前田投手の究極のマッチポンプをあげてほしかった。楽勝とみられた日大東北戦でノーアウトランナーなしから3連続四球で満塁にした後、3連続三振と、長年高校野球を見てきてけど、こんなの見たことなかった。当時、初戦は出場校のゲストが放送席にいましたが、報徳のゲストがこのシーンで「どんな性格してんでしょう。これは二度とやらないでほしい」と嘆いていたのが面白かったです。前田は左腕投手のカーブとしては名電の工藤に近いレベルの鋭く落ちる球を投げていましたが、いかんせんコントロールが悪かったですね。報徳は優勝候補だったけど、次の試合で実力校だった浜松工業に負けました。2024/07/05 12:06:1327.名無しさん@実況は実況板へfyMso報徳学園といえば金村投手2024/07/09 09:31:3028.名無しさん@実況は実況板へgIr9s いま広島カープでトップバッターを務めている秋山がアメリカ時代に所属していた3Aのチームがエルパソ・チワワズ。野球に限らずサッカーやバスケ等でいろんなチーム名を聞いてきましたが、こんな弱そうなチーム名は初めてでした。オーナーは真面目に考えてチーム名をつけたのでしょうか?高校野球で弱そうな校名っていてうと、個人的には奈良女子大学附属高校。女性差別をしているつもりはありませんが、なんか弱そうな校名と前から思っていました。奈良女子大はお茶の水女子大学と並ぶ国立の名門女子大学で東のお茶の水、西の奈良と並び称させる日本の女子大のトップツーです。野球部の実力は国立高校の中では全国一かな?去年は春の奈良大会でベスト8に入ったことから朝日新聞の奈良大会の展望でもダークホースにあげられていました。今年のチームも報知高校野球の奈良大会の展望ではダークホース扱いなのか名前が書いてありました(結果は初戦でボロ負け)。今年の報知高校野球の予想では高専を含む国立高校でダークホースにあげられていたのは奈良女子大学付属だけでした。 戦前は国立の師範学校があちこちの地方で甲子園に出ていますが学制改革後は、国立の高校の甲子園はなさそうです。1980年に西東京の都立国立高校が甲子園にでたときは校名から国立の高校が出てきたと勘違いしたアホがいっぱいいたとか。甲子園が近かった国立は徳島の阿南高専かな。1961~1980の期間では夏の徳島大会でベスト4が2回、ベスト8が3回となかなかの成績です。愛媛の新居浜高専も83年の秋の四国大会に出場しており(初戦で池田にボロ負け)、今の時代なら21世紀枠で甲子園に出られたかも。 感性の問題なのか、池田、吉田、中村とか身の回りにいるひ弱な同級生と同じ名前の校名もひ弱なそいつ等を思い出して、なんか弱そうな校名だなと当初は思いました。猪木高校や馬場高校、力道山高校、最近だと井上高校なんてのがあれば弱そうとは思いませんがぁ。 チワワズのことを書きましたが、日本ハムファイターズって名前もアメリカ人にはインパクトのある名前のようです。ハムってアメリカの俗語では大根役者、演技が過剰な人とかの悪口で使われる場合もあって、80年代に野球雑誌を読んでいたら、日ハムに入団する助っ人外国人が、なんでチーム名にハムが入っているんだと驚いたと言う記事がありました。チキンとかハムとか食肉系は悪口になるのでしょうか。2024/07/12 12:29:0229.名無しさん@実況は実況板へmP5zh 地区予選の結果を新聞で見ていると、茨城東や新宮と言った甲子園出場校が連合チームになっていました。昔は野球部員が9人に満たないとサッカー部やバスケ部から助っ人を呼んで他校の協力は得なくても大丈夫だったのですが。96年にたまたま実家に帰っていて群テレで高校野球をみていると大泉高校がバッテリーだけが野球部員で野手の7人はサッカーとバスケ部の助っ人でした。90年代ころまでは野球部以外の生徒でも草野球レベルの経験はもっていて野球部の助っ人になれる人も多かったと思います。今は公園でキャッチボールもできないから草野球レベルの経験もない他競技のスポーツマンが多いのかも。上記の大泉高校が記憶に残っているのは大泉って、松井田や板倉と言った初戦でいつもコールド負けするようなチームの一つだったのですが、96年の投手は甲子園レベルと言ってもいい投手だったからです。基本的に打球が飛ぶと素人の野手ではうまく対応できずやっぱりのコールド負けでしたがぁ。今年の千葉大会の開会式をみていると選手の行進で2.3人デブチンがいました。デブチンと言っても柔道部や相撲部の引き締まったデブチンではなく、秋葉原にいそうな脂肪分の多いデブチンでした。漫研とか文芸部からの人数合わせの助っ人だったのでしょうか? 茨城東は83年には速球投手加茂川を擁して決勝では2年生のスラッガーデーブ大久保を擁した水戸商をやぶり、97年は後の阪神のエースになった井川投手の水戸商を決勝で破ったことが印象深いです。新宮は1954年の夏に甲子園ベスト4、55年の夏にベスト8でともに中京商に敗れたけど、前岡投手の活躍がありました。当時の中京商監督の滝さんは選手でも監督でも甲子園で優勝しており、後に野球殿堂入りした人ですが2008年刊行の週刊甲子園で新宮の前岡投手を戦後No.1左腕と評価していました。新宮の55年の初戦の浪商が木製バット時代の戦後最強チームの候補になるような強力チームでそこを3-2で破った試合は甲子園の名勝負に数えられています。準々決勝の中京戦でバント攻撃にあって攻略されたようです。Numberの高校野球特集で戦後の甲子園で一番球が速かった投手として前岡投手をあげる古参のスカウトもいたそうです。2024/07/18 12:18:2730.名無しさん@実況は実況板へ3pEvd 昨日、秋田代表が金足農の決まりましたがエースは6年前に活躍した吉田投手の弟。兄弟で投手で甲子園に出た選手たちってあまりいない気がします。記憶にあるのは、以下の通り。仁村兄弟--兄が上尾で1979夏、弟が同じ高校で1980春に出た。兄が下手で弟は上手の好投手でした。長兄は川越商、早大で投手で巨人で野手転向。3男だけプロに行っていないんですね。杉本兄弟--東海大一の双子投手。1983年に春夏出場。兄が変化球投手で、弟は速球投手だった。山本兄弟--兄が法政二高で1984春に出場。弟が東海大甲府で1987年に初夏出場。兄は左の速球投手で弟は右腕のまとまった好投手タイプでした。樋渡兄弟--兄が市川で1991春夏出場。弟が同校で1994夏に出場。ともに右上手の好投手でした。惜しかったのが1978春に完全試合をした松本投手の弟で、伊勢崎商のエースで1981夏に群馬県大会の準決勝まで行きましたが、前橋工に0-3で完封負け。兄は小柄だったけど弟は180cm台の巨漢で、これだけ似てない兄弟も珍しかったです。PLの桑田真澄の弟の泉は少年野球の実績は兄以上と聞きましたが、87年のPLは投手が豊富すぎましたね。投げているのをみたかった気もしますが。2024/07/22 12:09:5631.名無しさん@実況は実況板へxB32m 宮城代表は仙台育英か東北の占有率が高いですが、今年は新顔の聖和学園。自分が初めてみた仙台育英と東北以外の高校は83年の仙台商業でした。巨人に行った速球派の左腕投手だった萩原投手がいて、初戦で大型バッターの順風(ロッテ)を擁する比叡山を破って、次の試合でこの大会で最速を記録した秋村投手の宇部商に完封負けしましたが、なかなかの実力校でした。他に宮城からは東陵、利府、仙台西、古川工等も出ていますが、印象的だったのはこの仙台商と3年前に出た東北学院ですね。東北学院は面白い野球をしてて、初戦の優勝候補愛工大名電相手に、軽打というか相手投手のボールを強振しないでかる~くバットを当てる感じで外野手前にゆる~いヒットを打つ打法で勝ちましたからね。あーゆー野球は初めてみました。大型投手の伊東投手も好投手でベスト8以上の力はあるとみていましたが、次の試合はコロナ感染者が出てしまい、試合を辞退したのは残念でした。聖和学院も力がありそうで楽しみです。2024/08/02 12:23:4332.名無しさん@実況は実況板へx9yw0 今日の二試合目 健大対英明戦を見て、春夏連覇を狙う高校が香川勢に大苦戦って92年の帝京と尽誠学園の試合を思い出した。帝京は好投手三沢と4割打線で優勝候補筆頭だったけど、尽誠の渡辺投手に完封負け。渡辺投手はスライダーが良かったです。尽誠はベスト4で複数投手制の拓大紅陵に負けましたが、渡辺投手は西短の森尾と同格の投手でした。渡辺は難関校とは言えないけど野球に力を入れている高校の野球部からは入りにくい大阪府立大に現役合格。文武両道の投手だったのも素晴らしかったです。2024/08/07 22:28:0833.名無しさん@実況は実況板へrgEDh メディアによっては優勝候補にあげられていた花咲徳栄が新潟産大付に負けました。試合内容は違いましたが、94年の優勝候補浦和学院が中越に0-1で2安打完封負けをした試合を思い出しました。中越には穐谷(あきや)って好投手がいました。少年野球時代に全国大会でチームを3位(だっけ?)に進出させた投手でした。正直、球が速いとか変化球が切れるとかの印象はなかったのですが、コントロールや投球術が優れていたのでしょう。新潟の初出場チームでは08年の新潟県央工業が初戦負けだったけど、近田投手の報徳と互角の試合をしたことが記憶に残っています。最近の新潟は侮れませんな。75年に見た新潟商業も糸数投手のいた石川と互角の試合をして、新潟は弱いチームばかりではなかったのですがぁ。2024/08/09 19:41:0734.名無しさん@実況は実況板へ9hHwb 箕島の尾藤元監督が目指すチームとして、中京商の機動力と広島商の技と高知商のパワーを併せ持つチームと言っていました。77年と79年はまさにそんな感じのチームでした。ただ、中京商の機動力に昔の私は引っかかりました。広商は75年や82年、88年はたしかに技のチームだったし、78年に初めてみた高知商はパワフルだったけど、中京が機動力野球だったのを見たことないなと。78年や09年に優勝戦線に絡んだときはパワフルな猛打線だったし。だけど、今日の中京は確かに機動力を活かしていたなと思いました。木製バットに近い飛ばないバットになったので、木製時代の野球を復活させたのかな。 中京が戦前からの伝統校で初めて髪型を自由化したのですね。去年の慶應もインパクトあったけど、日本一の伝統校である中京が自由化した影響はそれ以上かも。さらに大阪桐蔭が自由化すれば、もっと自由化が各校に進むかと思うけど、西谷監督は報徳出身の監督さんだからずーっと坊主のままかも。ジャンクスポーツを見ていたら報徳は2011年ころまで体罰が残っていたと報徳出身のラグビー選手が言っていましたからね。そういう気風の学校で育った監督さんだから髪型自由化は無理そう。2024/08/10 22:34:4235.名無しさん@実況は実況板へvV0Rm 早実の宇野選手はもう少しで木製バットで満塁本塁打を打てそうだったのに残念。ラッキーゾーンがあれば余裕で入っていました。木製バットで甲子園で最後に本塁打を打った高校生は多分、1974年の銚子商業の篠塚でしょう。各地の予選を見てると結構、本塁打が出ていたのに、1回戦が終わった段階で本塁打は0。選抜みたいになってきました。 朝日新聞認定の優勝候補報徳学園が、朝日評価で最低ランクだった大社に完敗。馬庭投手は98年の浜田の和田投手以来の好左腕ですね。その前になると89年の松江東の大淀投手が好左腕でした。03年の江の川の木野下投手は確か大阪出身で、好左腕いうよりインステップの変則左腕だった。 報徳の今朝丸・間木は88-89の東邦キク山田みたいになってしまいましたね。山田投手は88年に選抜準優勝(夏は出られず)で翌年の選抜で優勝。でもその夏は倉敷商に初戦敗退。今朝丸・間木コンビもすっかり春男になってしまいましたね。2024/08/11 19:16:3936.名無しさん@実況は実況板へyFSk9 今夏、広陵が仲間入りした帽子、ユニフォーム、アンダーシャツが白系統の学校はすぐ思いつくのが以下の通り。広陵は選抜に出るときは元に戻すんでしょうね。優勝経験校--済々黌、早実、観音寺中央準優勝経験校--土佐、拓大紅陵、小山今年出た--耐久、田辺たまに出る高校--東筑、倉敷工業、米子東めったに出ない高校--愛知、前橋、高崎なんか他にもあった気がするけど、倉吉東や和歌山の桐蔭とかも白系統のユニだったおぼろげな記憶があるようなないような。 広陵中井監督の勝利インタビューで、「白にして負けると何言われるかわからなかったので、白で勝ててよかったです」みたいなことを言っていたのは面白かった。2024/08/12 17:19:0437.名無しさん@実況は実況板へwOGQ6 昨日は長野日大の山田投手と花巻東の葛西投手と二人の左のサイドハンド投手が登板しました。結構、珍しい。左のサイドハンドでいちばん有名なのは07年に佐賀北を優勝に導いた馬場投手だと思います。ただ、一番、実力があったのは88年夏に甲子園に出た拓大紅陵の高橋投手です。ストレートはかなり速く、社会人経由で日ハムに行っています。ある意味ハンカチ王子の先輩で、群馬の高校に進学せず県外の強豪校でエースをはった人でした。戦力的には優勝した広商より強かった思いましたが、初戦で有力校(優勝候補だったような?)の松山商を一蹴した後、浜松商に粘り負け。 帽子、ユニフォーム、アンダーシャツの3点が白系の高校ってめったに出ないところは結構、ありますね。岩国とか盛岡一、福岡(欠端投手がいたな)、東奥義塾の東北勢とか。進学校が多く採用しているユニフォームのイメージがあります。だからか縦縞のユニフォームと比較して弱っちく見えます。 朝日新聞認定の優勝候補は青森山田を除いて2回戦までで4校が負けてしまいましたね。建大以外はランクが最低か下から二番目のランクとかの前評判が低いところに負けています。これも飛ばないバットの効果かな?木製バットに時代だと71年は東西の横綱だった日大一高とPL学園がそれぞれ磐城と郡山に初戦敗退。72年は東日本が優勢と見られたようですが、春夏連覇を目指した日大桜丘、掛布がいた習志野、大型打線の相模といった優勝候補が初戦敗退。足利工業も2戦目で敗退。55年とかも東西の横綱だった浪商が初戦敗退、桐生が2戦目で敗退と早々と負けています。今後、ジャイアントキリングが起きやすくなるのかも。2024/08/14 18:54:1938.名無しさん@実況は実況板へq78A2 広陵の高尾投手って出場回数は早実の荒木より1回少ないけど、最後の試合で打ち込まれてチームも大敗した点が荒木に似ている。荒木は優勝チーム(横浜、報徳、池田)に3回負けているけど、高尾は今日負けた相手の相模が優勝すれば荒木に並ぶ。荒木の他に優勝チームに3回負けた投手は横浜商の三浦(82春PL、83春池田、83夏PL)PLの桑田(84春岩倉、84夏取手二、85春伊野商)くらいかな?高校野球的には結構、ビッグネーム。2回負けた投手はビッグネームをあげると、春は1回も優勝できず、選抜決勝で2年連続で負けた戦前の中京商の吉田投手や柴田の法政二高に二連敗した浪商の尾崎等がいます。他にもPLに二連敗した帝京の芝草とか初戦で春と夏の優勝校に対戦した比叡山の村西、なんか小者感が漂うけど松坂の横浜に二連敗したPL上重等がいますね。2024/08/16 22:58:4839.名無しさん@実況は実況板へHFpam 青森山田が負けて朝日新聞のあげた5校の優勝候補は全滅したけど、5校は弱くはなく実力校でした。これまでの朝日推薦の優勝候補はほとんどが実力校だけど1校だけ???と思ったのは1999年の北陽。甲府工業に初戦負け。甲府工も静岡と競り合ったくらいだから弱いチームじゃなかったけど、試合を見て北陽は投手力、守備、打撃も並でどこの部分が優勝候補かと思った。多分、大阪大会の準決勝で選抜ベスト4のPLを4-3で破ったのが評価されたと思うけど、優勝候補の実力はなかったと思いました。2024/08/22 12:38:3540.名無しさん@実況は実況板へ9oQ6P 正直、タイブレークの優勝はやめてほしかった。数年前のタイブレーク採用時は決勝だけはタイブレークが始まる回がもっと遅かったような(記憶違いか?)。なんかサッカーのPKみたいで好きではない。京都国際みたいなこじんまりとしたチームも好きだが、木製バット時代の戦前の和歌山中(予選から甲子園決勝まで全て10点差以上で優勝)や全試合スクイズ無しで優勝した70年の相模みたいな型破りの優勝も見てみたいです。2024/08/23 18:10:2741.名無しさん@実況は実況板へCFinc 京都国際は68年ぶりの京都勢の優勝ですが、自分が野球を見始めた70年代中頃から90年代中頃までは、京都のチームは近畿勢とは思えないほど弱いチームが多かったですね。力があったのは余田と清川の2投手がいた78年の京都商や81年の井口の京都商、三原監督の京都西くらいかな(前川投手の北嵯峨も好チームだったけど)?準優勝した井口の京都商は打線が弱く強力チームとは言えなかったですね。この時期、甲子園で優勝候補になったのは87年春の京都西や岡島投手がいた93年春の東山くらいかも。ただ97年に川口投手の平安が出てから京都のレベルが上った気がします。この時期以降の平安は服部とか高塚とか好投手がいて、しかも打線も強力で甲子園に出場すれば強かったですね。93年に赴任した原田監督のおかげなんでしょう。打倒平安で京都のレベルが上ったのかな?2024/08/26 12:36:3542.名無しさん@実況は実況板へ9IAuC 今年から二段モーションが解禁されて、一番モヤモヤしているのは80年の春夏に広陵のエースで甲子園に出た渡辺投手?審判から色々言われたそうですから。二段モーションが解禁されてバッターもタイミングを取りにくくなったことも投高打低の一因とされていますね。相模の藤田なんかあの長い脚を二回も上下させて疲れないのか思います。体力的にはドジャースの山本投手みたいなすり足投法が一番楽なのかな。相模の藤田は顔も面白かったです。終始しかめっ面で投げている投手は初めてかも。2024/08/30 12:17:5243.名無しさん@実況は実況板へHwuGO 今年の夏のNHKの放送ではPLの中村元監督が2試合解説をしていましたが、99年に解説をしていた時と違って、声がおじいちゃん声になっていて、超聞きづらかった。最近のビートたけしみたい。中身も広陵の打者が構えているときに人差し指等を立てていたことを気にして度々指摘してましたが、単に立てないとバットを強く握りすぎてスイングが遅くなるのを避けているだけではと思いました。プロでも指を立てている人もいますし、超天才の内川なんかも左手の人差し指を立てていました。インパクトの瞬間だけ、ちゃんとバットを握っていればいいじゃんとも思いました。99年の夏の中村解説はマニアックで面白かったですが、今年はいまいちでした。2024/09/02 12:35:4844.名無しさん@実況は実況板へ5ofqv 名字由来netってサイトで今年の夏の甲子園のレア名字ランキングって特集があって、1位 南陽工業 阿砂(あすな)、2位 南陽工業 齊郷(さいごう 漢字が珍しいだけ?)、3位 霞ヶ浦 眞仲(まなか 漢字が珍しいだけ?)で全国にそれぞれ10人程度しかいないそうです。レアかもしれないけど面白みにかける名字です。むしろ下位の方に珍名さんがいます。個人的に今年の珍名No.1は広陵の白髪です。どう見ても小学校とかで馬鹿な男子生徒にからかわれる名前です。白髪ってテレビを見てると絶対、毎日画面に映りますし、ありふれた言葉ですがなんで名字にしたんでしょうか?三国志演義の蜀の五虎大将の黄忠みたいにやたらと強い白髪頭の爺さん武将が先祖にいたのでしょうか?それとも自分や子孫が白髪頭になるまで長生きできるようにと願いを込めて明治時代につけた名字でしょうか?名前名字netでは白髪の由来を「雪をかぶった山や野が語源」とありますが、家系図で由来がわかっている自分の名字の由来をこのサイトで調べると、先祖は桓武平氏系の三浦一族のはずなのに源氏系の由来しか出てきませんので、このサイトの由来は調査不十分です。2024/09/06 12:25:2745.名無しさん@実況は実況板へbAsa8 大谷があっさり50-50を達成したけど、NPBも含めた日本人のホームランバッターって観点で見ると掃き溜めの鶴状態ですね。NPBで30本以上ホームランを打っているのは現状、ソフトバンクの山川のみでヤクルトの村上が28本で30本を超えそう。全体的に選手の質が落ちていますね。選手の質を見るには指導法が存在しない項目で見ればいいと思いますけど、投手ならコントロール。打者なら打率とかホームランかな。これも指導法はないでしょう。いくら練習しても素質がないと向上しないでしょう。昭和の頃は巨人の王さんと長嶋さん。それ以降でも原と怪我する前の吉村。西武には秋山と清原。大洋だと松原と田代とか本塁打を30本以上を狙える日本人打者が各チーム最低2人はいた気がします。少子化と他のスポーツとの選手の奪い合いでこれからも選手の質の低下は続いていくんでしょうね。高校野球的には大谷は甲子園で1勝もしていないし藤浪から打ったホームランくらいしか記憶にないので話題にしづらいですね。ストレートも球速は出たけど球質は良くなかったですし。2024/09/20 11:43:1246.名無しさん@実況は実況板へTRzTp 先月の甲子園の準決勝で関東一が9回裏のホームでのタッチアウトで決勝進出を決める劇的な幕切れでしたけど、92年選抜の決勝帝京対相模の9回裏のホームタッチアウトでの帝京の優勝のほうが、決勝だけに感動的だった。決勝での珍しいサヨナラ勝ちだと80年の選抜での高知商が帝京戦でサヨナラ犠牲フライで勝ったのが挙げられるな~とか考えていたら、夏の大会って最近、決勝でのサヨナラ勝ちってないよな~って思いました。記録を見ると85年夏のPL対宇部商戦が最後なんですね。平成以降はないんですね。選抜だと、最近でも相模が明豊に3年前にサヨナラ勝ちしていますし、2016年の決勝でも阪神の村上投手がいた智弁が高松商にサヨナラ勝ちしていますし、91年の決勝でも松商の上田の下手な外野守備で広陵がサヨナラ勝ちとか東邦と上宮の試合とか結構ありますね。夏は、春より打力が向上して、点差が開く決勝も多いからサヨナラ勝ちは少ないのかな。んでも、今後は今年の夏の決勝みたく新バットで僅差の試合が多くなるからサヨナラ勝ちが増えるかも。75年から4年連続で夏の決勝でサヨナラ勝ちが続いたの本当に奇跡でしたね。2024/09/30 11:54:0347.名無しさん@実況は実況板へXQ98o 2週間前のBSフジのプロ野球レジェン堂のゲストは西武の東尾投手でした。話題が下関商出身の池永投手になったとき、MCの徳光アナが池永は黒い霧事件がなければ300勝はできたでしょうと振ったら、東尾はうーんと唸って、池永投手は東尾が入団したときには肩がボロボロだった言いました。投手陣の練習にも出ずに肩にお灸をしていたそうです。すでに引退間近だったのでしょうか。 あの頃はそういう投手が多かったですね。浪商の尾崎も100勝を超えたところで引退していますし。池永も下関商時代は練習時代のダブルヘッダーは二試合とも投げさせられるとかあって西鉄入団時に登板過多ですでに故障がちだったのでしょうか。尾崎なんか1984年のみゆき野球教室で草野球をしている姿を見ましたが、まだ若いのにストレートは100km前後で今年の甲子園での開幕試合の始球式の江川のヘロヘロ球といい勝負でした。2024/10/09 11:54:2348.名無しさん@実況は実況板へ6DTcX 7月の朝日新聞に池田高校の現状を伝える記事が出ていました。7月時点で部員63人中38人が県外出身者だったそうです。なんでも2016年に徳島の県教育委員会が少子化を理由に保護者の引っ越しを不要にして生徒本人だけの転居を認めたそうです。徳島県の公立32校のうち20校が県外生を受け入れたとのことです。今夏、甲子園に出た鳴門渦潮もベンチ入り20人中4人が兵庫、1人が京都出身でした。徳島県は日本で唯一私立校が甲子園に出たことが無い県だったと思いますが、母屋のほうが県外民に乗っ取られる感じ。昔は蔦監督が「山あいの子供たちに一度でいいから大海(甲子園)を見せてやりたかったんじゃ」って言っていましたが、山の子が少なくなっちゃった。山の子が多かったのはイレブンの時代までですかね?80年頃から徳島中から池田に有力球児が集まって他校からやっかみ半分でオール徳島みたいなチームって言われていたそうですから。その副作用かどうか、たちの悪い球児も紛れ込むのようで83-84年は不祥事(飲酒や無免許運転だっけ?)が起きて赤城国体の出場辞退や84年の選抜の推薦校辞退とかありましたね。 こうした県外生の受け入れは、他県でも特に山間部の公立高校で増えていきそうです。今年の三重代表の菰野なんか半数は愛知出身者でしたね。西短との試合では西短のほうが7割は地元民で、90年の西短は県外出身者の方が多く週刊新潮に叩かれていたのに、時代はかわったなぁと感慨深かったです。自分の出身県の群馬の利根商も公立校なのに県外出身者を増やしていますね。寮も個室で私立顔負けのトレーニング施設を整えたり、監督も近大付の甲子園経験監督の豊田さんを引っ張ってきたり、現在は桐生一の甲子園優勝監督の福田さんが監督をしていて、県内ではコンスタントに上位進出を果たしていますね。甲子園出場は近そうです。ただ、池田もそうだけど、県外出身者を増やして地元に愛される野球部になるのか疑問です。93年にJリーグブームにプロ野球が押されていたときに巨人の長嶋監督が、日本の野球は高校野球があるから大丈夫と言っていましたが、選手の地域性がなくなると高校野球の人気も落ちちゃうんじゃないかと心配しております。80-90年代の広島県みたいにベンチ入りメンバーの県外出身者の人数制限が必要な時期に来ていると思います。2024/10/17 12:02:4149.名無しさん@実況は実況板へtIqgu 巨人て自分が野球を見始めた70年代中盤は王、柴田、高田と甲子園優勝経験者がいました。甲子園準優勝投手だと尾道商の小川、静岡商の新浦がいました。ドラフトでも鹿実の定岡、東邦の山倉、銚子商の篠塚、大分商の岡崎ら甲子園で活躍した選手を多く指名していました。阪神経由の江川もいたな。80年代もPLの吉村、桑田、橋本、大府の槇原、大学経由だけど相模の原、熊工の緒方、浪人したけど上宮の元木、池田の水野等の甲子園の有名球児の指名がありました。90年代になると星稜の松井や大学経由だけど桐蔭学園の高橋を除くと、大学生や社会人の即戦力の選手の指名が増えて、甲子園球児の指名が少なくなりましたね。巨人戦の視聴率も減って、地上波で放送されることも少なくなり、巨人の人気は甲子園のヒーローで成り立っていたなと2010年代に気づいたのか、この辺りから甲子園球児の指名が復活した気がします。智弁の岡本とか、くじで負けたけど星稜の奥川なんかを積極的に指名していました。20年代になっても甲子園で活躍した相模の石田、明徳義塾の代木両投手や一昨年の甲子園のヒーローだった高松商の浅野を獲得していますし、今年は相模の藤田投手を指名してくれないかと願っています。2024/10/22 11:54:1650.名無しさん@実況は実況板へgSxt5 プロ野球レジェン堂で西武の大エースだった東尾が67年の秋の近畿大会の一回戦と準々決勝でノーヒットノーランをやったと紹介されていましたが、これって二試合連続ノーヒットノーランだったんですね。調べると東山と甲賀戦で連続ノーヒットノーランをやっていたんですね。甲子園とレベルが変わらない大きな大会で連続はすごいですね。作新の江川でも栃木大会ではバカスカ、ノーノーをやっていますが関東大会では7回参考記録で前橋育英戦のみです。PL桑田は近畿大会では参考記録で完全試合を一試合。85年の春の近畿では決勝で天理相手にノーノーをやっています。近畿大会での9回投げてのノーノーはこれが最後のようです。高校時代の東尾ってどんな投手だったのでしょう。球は速くなかったそうですが。2024/10/30 08:02:3951.名無しさん@実況は実況板へ9yra5 秋季関東大会準々決勝佐野日大戦で健大高崎の石垣投手が2年生投手としては史上最速の158kmを出しました。その瞬間をスポーツナビの毎日新聞社の動画配信で見ていましたが、そこまで速いとも感じませんでした。石垣投手は結構、点を取られるしバッターボックスの体感速度はそれほどでもないのかな?群馬の投手であいつのストレートは高校生では打てないと言われたのは1983年の前橋工渡辺久信投手だけですね。二人の監督に言われました。一人目は春の関東大会で前工に7回コールド完封負けでしたが二桁三振を取れらた横浜商の古屋監督と、その夏の群馬大会準決勝で完封負けした東農大二の齋藤監督です。農二は三振14個くらい取られたと思います。ストレートが高校生には打たれないと評された投手は私は前工の渡辺しか知りません。渡辺も全国大会で言われたわけではないので、地方ではそのように称えられた投手はいるかも知れません。渡辺は西武時代に最多勝3回。日本シリーズでの6連勝(今でも最高記録とか)とか群馬産の投手としては別格の活躍でした。83年に甲子園に出ていれば甲子園の歴史は変わっていたとかいう評論家さんもいますし。2024/11/08 12:11:4352.名無しさん@実況は実況板へDUg0A 今週のスポーツレジェン堂のゲストは堀内恒夫さんでした。貴重な西宮球児です。4歳で右手の人差し指の先端を製麺機で切断したことで大きなカーブを投げられるようになったことは知っていましたが、ストレートも意図せずカットボールになってしまったそうです。これは初耳でした。本人曰く、巨人でのルーキーイヤーが一番球が速く、155kmだったと(補足するとホームベース上で光電管を使った測定で155.5km)。巨人の歴代の投手で一番球が速いとのたまっていましたが、左のエースだった高橋一三投手は同じ測定で156.46kmでまさっています。前に雑誌NUMBERのインタビューで堀内について聞かれ、速いと聞いていたけど大した事ない。俺の方が速かったとのたまっていました。 堀内は一年のとき選手権に出ましたが、記念大会で出場校が多く西宮ゾーンに入ってしまい3勝すれば甲子園で試合ができたそうですが3戦目で優勝した明星に大敗してジエンド。調べると2年の秋の関東大会でも準優勝していますが当時の関東東京の出場枠はたったの3校で東京の2位校が甲府商より実力上位と見られて選抜に出られなかったようです。つくづく甲子園と縁がない人だったのですね。19歳で終速155kmだったら高3の春でも終速150㎞位で選抜でも大活躍できたのでは?2024/11/15 12:04:56
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前スレ
50歳以上のおっさんが高校野球を語る Part31【ワッチョイあり】
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/c/hsb/1661054641/l50
もっと短かった。ネットで調べると坪井の勘違いでオリジナル選手宣誓が始まったんだって。
以下引用
「宣誓することが決まってチームメイトは皆、『よかったな』と言ってくれました。『控えの主将が目立つ
には宣誓するしかないな』って半分冗談で言い合っていたこともあって盛り上がりました。でも、その後の
本抽選でも『1』を引いてしまって…。こっちは『それはあかんやろ~』と叱責を受けましたね(笑)」
~『あゝ夏の甲子園』(2023年7月26日発売号)より
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本抽選での「1」は、開会式直後の開幕試合を意味する。つまり、坪井主将は偶然にも連続で「1」番クジを引
いてしまい、気持ちが動転してしまったというのだ。
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選手宣誓と合わせ、これ以上ない緊張を同時に味わうことが決まって心もざわつく抽選会終了後、坪井は大会関
係者から「どんな宣誓にするか、明日の予行演習の際に紙に書いて持ってきてください」と言われた。これこそが
勘違いの始まりだった。
「気持ちが昂りすぎていたんですかね。私が勝手に『書いて持ってきて』を『自分なりの言葉を盛り込め』と勘
違いしたんです。後からいろんな人の話を聞く限り、毎年の通過儀礼なだけだったようなんですけど」
~『あゝ夏の甲子園』(2023年7月26日発売号)より
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坪井主将は勘違いをしたまま宿舎に戻り、「自分なりの言葉を」と、福井商野球部のモットーである「炎」の文字
を入れ込んだ選手宣誓文を考案した。
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「宣誓。我々、選手一同は第66回全国高等学校野球選手権大会に臨み、若人の夢を炎と燃やし、力強く、たくまし
く、甲子園から大いなる未来へ向かって、正々堂々、戦い抜くことを誓います」
~『あゝ夏の甲子園』(2023年7月26日発売号)より
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現在の文量と比べれば、これでも十分に簡潔な内容だ。それでも、この文案を見た大会関係者の反応は「ちょっ
と長いかな。短くしてもらうかも」というものだった。だが、結果的には「問題なし」とされ、坪井主将は開会式
でこの「独自選手宣誓」を披露したのだ。
福井商は開会式直後の開幕試合で敗れ、甲子園に別れを告げた。だが、坪井主将は福井に戻ったあとも地元新聞や
雑誌、ラジオなどから取材を受けるほど、この独創的選手宣誓は大きな反響を呼ぶことに。その結果、以降の開会
式では「自分の言葉」を盛り込むことが定番となったわけだ。
大会2ホームランを打った早実の王さんや銚子商の篠塚は本当に凄かったんですね。特に王さんの時代はラッキーゾーンがなかったはずなので、王さんは本当の怪物だったんですね。
82夏の池田の9番山口が二本塁打を打って恐怖の9番とか言われたけど、あのへんからバットがおかしくなってプロに縁がないような下位バッターでもホームランを打てるようになったのかも。
一本目は甲子園の名勝負を集めた本なんかに書いてあって有名ですが、1926年の選抜で松本商の矢島選手が夏春連覇を目指した高松商の宮武投手から打ったサヨナラランニング3ランです。本来なら最初のランナーが生還した時点でサヨナラですが、打った本人も含めて3人がいきよいよく帰ってきたのでホームランに認定されたそうです。この一打が戦前の選抜での最初で最後のサヨナラホームランです。
二本目は見た人も多いと思いますが1982年の選抜で黄金時代のPLの4番としては地味で有名な松田選手が決勝で打ったランニング満塁ホームランです。これが話題になったのは、史上初めて選抜で連覇した1930年の第一神港商の高瀬選手が決勝で満塁ホームランを打っており、神港に続く2回目の連覇を達成したPLも決勝で満塁
ホームランを打ったことで不思議な縁だと話題になりました。当時は戦前の試合を実際に見た人も大勢生きていましたからね。高瀬選手のホームランもランニングホームランぽいですね。
3回目の選抜連覇を2018年に達成した大阪桐蔭は決勝でホームランは出ませんでしたね。この辺の空気の読まなさが大阪桐蔭がオールドファンから嫌われる原因かも。
夏の大会で話題になったランニングホームランってあまりないような気がする。強いて言えば2003年の夏の甲子園の開幕試合で桐生一の菊地選手が夏の甲子園の通算1000号をランニングホームランで打ったことくらいかな?
高島は今何やっているのかと思ってネットで調べると3年くらい前に病死していました。高校球児って早死する人が多いような?96年夏の早実戦でサヨナラ逆転2ランをうった海星の稲垣とか、97年夏の甲府工で好投した小沢投手とか、79-80年の前橋工の投の3本柱だった番場とか87年夏のPL戦で野村をKOした逆転打を打った中央の中島捕手等も病気で早死しましたね。南陽工の津田とか函館有斗の盛田のプロ組も病没しているな。
88年から92年かけての夏の甲子園。
88-福岡第一が準優勝
89-大濠がベスト8
90-西短がベスト4
91-柳川がベスト8
92-西短が優勝
5年間で異なる4校が連続で上位進出ってなかなかないです。二校とかだと最近の大阪とか昔の千葉とかあったけど。近いのは76-79の大阪(大鉄、PL、浪商)くらいかも。
90年に就職で茨城に引っ越した時、常総の木内監督の他に清真学園の監督さんが桜美林の優勝監督だった浜田さんでしたね。なにげに優勝監督が二人いました。清真学園は弱かったけど。優勝監督じゃないけど古河一の監督さんが小山の選抜準優勝投手だった初見だったのも懐かしかったです。
オリックス時代のパンチ佐藤ってめったに見ることはできませんでしたが、振りは鋭かったですね。イチロー並に野球に集中していたら大成したと思えるいい素質を持った選手でした
て聞き回るコーナーがあったのですが、最速候補の江夏と怪童尾崎の両投手が一番早かった投手として森安さんを挙げていました。西武の主力打者だった山崎さんも森安を一番早いと言っていましたね。ヤクルトの八重樫さんにいたってはスライダーで150km以上出ていたと言っています。森安はサイドハンドの速球投手でしたが、黒い霧事件で池永投手といっしょに1970年に野球界を永久追放になっています。自分はその4年後に野球を見始めたから、事件に巻き込まれなかったら年齢的に見られた投手だっただけに惜しいです。
平松さんはシュートを投げ始めたのはプロ3年目からだそうで社会人時代に慶応大学OBで藤田元司さんと同期の人にシュートの投げ方を教わっていたそうです。前に星野仙一さんが平松は高校時代からいいシュートを投げてたよってNumberのインタビューで答えていたけど、あんたの目は節穴か?平松さんはボールの縫い目に指をかけずに握って、左肩を開き気味にして右手を遅らさせてボールを滑らしてシュートを投げたそうですが、他の投手に教えても誰も投げられなかったそうです。野村克也さんが言っていましたが、巨人の西本のシュートなんかは内角に
落ちながら曲がって来たそうですが、平松のシュートは内角に浮き上がりながら食い込んできたそうで、より打ちにくかったそうです。平松にしか投げられないボールを一般的にシュートって言っていいのか?なとも思いました。
平松さんは10数年ぶりに見たけど、すっかりハゲ頭になっていました。後頭部が頭頂部の後ろまで広がるタイプのハゲ頭でした。90年代にプロ野球ニュースがあったときはふさふさだったはずですが、カツラだったのかなぁ?
育英 鈴木啓示 317勝
滝川中 別所毅彦 310勝
箕島 東尾修 251勝
中京商 野口二郎 237勝
名電 工藤公康 224勝
甲府商 堀内恒夫 203勝
岡山東商 平松政次 201勝
甲子園で優勝したのは野口と平松だけだけど、上位進出や名勝負等で活躍した投手も多い。ただ、鈴木は甲子園の名勝負とかで名前は残って無いですね。堀内は選手権に出たけど運悪く記念大会で西宮ゾーンに入ったため甲子園では投げてないです。
ダルビッシュは自分が見てきた中では頭から下だけで評価するとNo.1かな。現在でも9種類の球を投げられて球速も150km台とこんなに器用さと球威を兼ね備えた投手は知りません。惜しむらくはコントロールかな。制球はまとまっているけどボール1個の出し入れができる桑田やメジャーのマダックスとかと比べるとだいぶ落ちます。あれでコントロールまでよかったら軽く300勝はいっているでしょう。大谷もそうだけどダルはいい時代に生まれましたね。東北高校時代は成長痛に苦しんだそうで、故障しないようにプールで体力作りをしているシーンを野球雑誌で見ましたが、70年代以前に高校生になっていたら、ダルも大谷も練習中の疲労骨折等で大成しなかった思います。当時は入部時にレントゲン検査をして肘に骨端線(成長線)があるかなんて確認しませんもの。
ここに来て急ブレーキがかかっているけど田中マー君も今シーズン中に200勝に行きそうですね。桑田と松坂は怪我さえなければ余裕で200勝以上で来たと思うだけに惜しいです。ダルやオオタニなんかトミー・ジョン手術を受けても球威は落ちなかったのに桑田と松坂は、思い切り落ちましたね。甲子園で投げすぎて手術で修復できないほど靭帯が傷んでいたのでしょうか?
当初は愛知も80年の大府以来、公立高が出てないな~って思っていたら、2008年の記念大会に分割された愛知の片方から甲子園に出てたんですね。全然、記憶にない。調べると大府は選抜は93~95まで三年連続で出ていたり愛知の公立の雄ですね。
天理大のユニフォームが新聞に出ていたけど、ローマ字でTENRIって表記で高校とは違いますね。近大付みたいに天理高校のユニを大学のユニフォームに合わせようとしたら苦情が殺到する気がする。
ことから話が始まりました。星野さんは当時から県内で野球の実力はない方で有名で監督や部長も困っていたそうです。当時からあのラインだったって話に笑いました。松岡さん自体は二年の秋から投手を始めたそうで、それも本来のエースが利き手を故障したことが原因だそうです。高3の夏は県大会の準決勝(東中国大会の代表決定戦)で選抜優勝校の岡山東商の平松投手と投げ合って3-3で日没引き分け再試合となり、再試合で2-5で負けたそうです。
話の中でMCの徳光さんによると、長嶋茂雄さんが対戦した投手の中でヤクルト時代の松岡投手が一番速いと言っていたそうです。確かに昔の投手って球速の全盛期の長さが今の投手と比較して短く、当時、見たカープの外木場、大洋の平松、巨人の堀内なんか、本当に大投手かって思うくらい球が遅かったですが、78年の日本シリーズで阪急を完封した松岡さんはこれらの投手と比較してストレートは別格に速かったですね。
岡山東時代の平松って、地区大会で長嶋さんが一番速いって言っていた松岡に投げ勝ち、決勝では怪童尾崎や天才江夏が一番速いって言っていた関西の森安に投げ勝つって、本当にすごい投手だったんですね。平松さんに関してはやはり同番組で阪神の田淵が一軍で初めて対戦した投手が平松さんだそうですが、球が見えなく3球三振したそうです。
松岡さん自体は甲子園に縁がなかったけど、甥っ子の松岡大吾が87年夏の甲子園で活躍しましたね。初戦でプロで活躍した静岡の赤堀に投げ勝つなど、準々決勝まで行きました。準々決勝の帝京戦では本来のエース凪が監督にしつこく俺に投げさせろと訴え続けていたそうで、それに根負けした監督が凪を先発させたら5失点。救援した松岡が帝京打線を抑え込んだだけにもったいない試合でした。凪は試合後に悔いはないと言っていましたが、松岡が先発していたら勝機があっただけに、他の野手はたまったもんじゃなかったでしょう。松岡は中京の野中タイプのズングリした体系から重い球を投げるタイプの投手でした。
がドラフト1位でした。この4人のうち3人が激突して、阿井が松原と渡辺にともに3-0で投げ勝ちました。特に渡辺の前橋工との試合がすごくて、渡辺のバント安打1本に抑えました。
松原は県大会終了後、農大二高の甲子園出場に同行して(ずーと一緒にいたか宿が同じかは不明)、農大二の大阪での練習でバッティング投手を務めるなど、練習のお手伝いをしたようで美談として朝日の群馬版に出ていました。進学や転勤で関東地区の栃木と埼玉を除く5都県で暮らしてきましたが、こういった話は他で聞いたことはありませんでした。似たような話では、2年後に太田工が夏の甲子園に出た時、太田の監督が前橋高校時代の先輩とかで当時、筑波大の大学院生だった完全試合投手の松本さんも、バッティング投手として太田工の練習を手伝ったそうです。松原は育英卒業後、高崎信用金庫で軟式野球をやった後、テスト入団で巨人に行って3勝しました。
いましたが、報徳のゲストがこのシーンで「どんな性格してんでしょう。これは二度とやらないでほしい」と嘆いていたのが面白かったです。前田は左腕投手のカーブとしては名電の工藤に近いレベルの鋭く落ちる球を投げていましたが、いかんせんコントロールが悪かったですね。報徳は優勝候補だったけど、次の試合で実力校だった浜松工業に負けました。
戦前は国立の師範学校があちこちの地方で甲子園に出ていますが学制改革後は、国立の高校の甲子園はなさそうです。1980年に西東京の都立国立高校が甲子園にでたときは校名から国立の高校が出てきたと勘違いしたアホがいっぱいいたとか。甲子園が近かった国立は徳島の阿南高専かな。1961~1980の期間では夏の徳島大会でベスト4が2回、ベスト8が3回となかなかの成績です。愛媛の新居浜高専も83年の秋の四国大会に出場しており(初戦で池田にボロ負け)、今の時代なら21世紀枠で甲子園に出られたかも。
感性の問題なのか、池田、吉田、中村とか身の回りにいるひ弱な同級生と同じ名前の校名もひ弱なそいつ等を思い出して、なんか弱そうな校名だなと当初は思いました。猪木高校や馬場高校、力道山高校、最近だと井上高校なんてのがあれば弱そうとは思いませんがぁ。
チワワズのことを書きましたが、日本ハムファイターズって名前もアメリカ人にはインパクトのある名前のようです。ハムってアメリカの俗語では大根役者、演技が過剰な人とかの悪口で使われる場合もあって、80年代に野球雑誌を読んでいたら、日ハムに入団する助っ人外国人が、なんでチーム名にハムが入っているんだと驚いたと言う記事がありました。チキンとかハムとか食肉系は悪口になるのでしょうか。
茨城東は83年には速球投手加茂川を擁して決勝では2年生のスラッガーデーブ大久保を擁した水戸商をやぶり、97年は後の阪神のエースになった井川投手の水戸商を決勝で破ったことが印象深いです。新宮は1954年の夏に甲子園ベスト4、55年の夏にベスト8でともに中京商に敗れたけど、前岡投手の活躍がありました。当時の中京商監督の滝さんは選手でも監督でも甲子園で優勝しており、後に野球殿堂入りした人ですが2008年刊行の週刊甲子園で新宮の前岡投手を戦後No.1左腕と評価していました。新宮の55年の初戦の浪商が木製バット時代の戦後最強チームの候補になるような強力チームでそこを3-2で破った試合は甲子園の名勝負に数えられています。準々決勝の中京戦でバント攻撃にあって攻略されたようです。Numberの高校野球特集で戦後の甲子園で一番球が速かった投手として前岡投手をあげる古参のスカウトもいたそうです。
仁村兄弟--兄が上尾で1979夏、弟が同じ高校で1980春に出た。兄が下手で弟は上手の好投手でした。長兄は川越商、早大で投手で巨人で野手転向。3男だけプロに行っていないんですね。
杉本兄弟--東海大一の双子投手。1983年に春夏出場。兄が変化球投手で、弟は速球投手だった。
山本兄弟--兄が法政二高で1984春に出場。弟が東海大甲府で1987年に初夏出場。兄は左の速球投手で弟は右腕のまとまった好投手タイプでした。
樋渡兄弟--兄が市川で1991春夏出場。弟が同校で1994夏に出場。ともに右上手の好投手でした。
惜しかったのが1978春に完全試合をした松本投手の弟で、伊勢崎商のエースで1981夏に群馬県大会の準決勝まで行きましたが、前橋工に0-3で完封負け。兄は小柄だったけど弟は180cm台の巨漢で、これだけ似てない兄弟も珍しかったです。PLの桑田真澄の弟の泉は少年野球の実績は兄以上と聞きましたが、87年のPLは投手が豊富すぎましたね。投げているのをみたかった気もしますが。
中京が戦前からの伝統校で初めて髪型を自由化したのですね。去年の慶應もインパクトあったけど、日本一の伝統校である中京が自由化した影響はそれ以上かも。さらに大阪桐蔭が自由化すれば、もっと自由化が各校に進むかと思うけど、西谷監督は報徳出身の監督さんだからずーっと坊主のままかも。ジャンクスポーツを見ていたら報徳は2011年ころまで体罰が残っていたと報徳出身のラグビー選手が言っていましたからね。そういう気風の学校で育った監督さんだから髪型自由化は無理そう。
朝日新聞認定の優勝候補報徳学園が、朝日評価で最低ランクだった大社に完敗。馬庭投手は98年の浜田の和田投手以来の好左腕ですね。その前になると89年の松江東の大淀投手が好左腕でした。03年の江の川の木野下投手は確か大阪出身で、好左腕いうよりインステップの変則左腕だった。
報徳の今朝丸・間木は88-89の東邦キク山田みたいになってしまいましたね。山田投手は88年に選抜準優勝(夏は出られず)で翌年の選抜で優勝。でもその夏は倉敷商に初戦敗退。今朝丸・間木コンビもすっかり春男になってしまいましたね。
優勝経験校--済々黌、早実、観音寺中央
準優勝経験校--土佐、拓大紅陵、小山
今年出た--耐久、田辺
たまに出る高校--東筑、倉敷工業、米子東
めったに出ない高校--愛知、前橋、高崎
なんか他にもあった気がするけど、倉吉東や和歌山の桐蔭とかも白系統のユニだったおぼろげな記憶があるようなないような。
広陵中井監督の勝利インタビューで、「白にして負けると何言われるかわからなかったので、白で勝ててよかったです」みたいなことを言っていたのは面白かった。
帽子、ユニフォーム、アンダーシャツの3点が白系の高校ってめったに出ないところは結構、ありますね。岩国とか盛岡一、福岡(欠端投手がいたな)、東奥義塾の東北勢とか。進学校が多く採用しているユニフォームのイメージがあります。だからか縦縞のユニフォームと比較して弱っちく見えます。
朝日新聞認定の優勝候補は青森山田を除いて2回戦までで4校が負けてしまいましたね。建大以外はランクが最低か下から二番目のランクとかの前評判が低いところに負けています。これも飛ばないバットの効果かな?木製バットに時代だと71年は東西の横綱だった日大一高とPL学園がそれぞれ磐城と郡山に初戦敗退。72年は東日本が優勢と見られたようですが、春夏連覇を目指した日大桜丘、掛布がいた習志野、大型打線の相模といった優勝候補が初戦敗退。足利工業も2戦目で敗退。55年とかも東西の横綱だった浪商が初戦敗退、桐生が2戦目で敗退と早々と負けています。今後、ジャイアントキリングが起きやすくなるのかも。
横浜商の三浦(82春PL、83春池田、83夏PL)
PLの桑田(84春岩倉、84夏取手二、85春伊野商)
くらいかな?高校野球的には結構、ビッグネーム。
2回負けた投手はビッグネームをあげると、春は1回も優勝できず、選抜決勝で2年連続で負けた戦前の中京商の吉田投手や柴田の法政二高に二連敗した浪商の尾崎等がいます。他にもPLに二連敗した帝京の芝草とか初戦で春と夏の優勝校に対戦した比叡山の村西、なんか小者感が漂うけど松坂の横浜に二連敗したPL上重等がいますね。
1位 南陽工業 阿砂(あすな)、2位 南陽工業 齊郷(さいごう 漢字が珍しいだけ?)、3位 霞ヶ浦 眞仲(まなか 漢字が珍しいだけ?)で全国にそれぞれ10人程度しかいないそうです。レアかもしれないけど面白みにかける名字です。むしろ下位の方に珍名さんがいます。個人的に今年の珍名No.1は広陵の白髪です。どう見ても小学校とかで馬鹿な男子生徒にからかわれる名前です。白髪ってテレビを見てると絶対、毎日画面に映りますし、ありふれた言葉ですがなんで名字にしたんでしょうか?三国志演義の蜀の五虎大将の黄忠みたいにやたらと強い白髪頭の爺さん武将が先祖にいたのでしょうか?それとも自分や子孫が白髪頭になるまで長生きできるようにと願いを込めて明治時代につけた名字でしょうか?名前名字netでは白髪の由来を「雪をかぶった山や野が語源」とありますが、家系図で由来がわかっている自分の名字の由来をこのサイトで調べると、先祖は桓武平氏系の三浦一族のはずなのに源氏系の由来しか出てきませんので、このサイトの由来は調査不十分です。
しないでしょう。昭和の頃は巨人の王さんと長嶋さん。それ以降でも原と怪我する前の吉村。西武には秋山と清原。大洋だと松原と田代とか本塁打を30本以上を狙える日本人打者が各チーム最低2人はいた気がします。少子化と他のスポーツとの選手の奪い合いでこれからも選手の質の低下は続いていくんでしょうね。高校野球的には大谷は甲子園で1勝もしていないし藤浪から打ったホームランくらいしか記憶にないので話題にしづらいですね。ストレートも球速は出たけど球質は良くなかったですし。
あの頃はそういう投手が多かったですね。浪商の尾崎も100勝を超えたところで引退していますし。池永も下関商時代は練習時代のダブルヘッダーは二試合とも投げさせられるとかあって西鉄入団時に登板過多ですでに故障がちだったのでしょうか。尾崎なんか1984年のみゆき野球教室で草野球をしている姿を見ましたが、まだ若いのにストレートは100km前後で今年の甲子園での開幕試合の始球式の江川のヘロヘロ球といい勝負でした。
こうした県外生の受け入れは、他県でも特に山間部の公立高校で増えていきそうです。今年の三重代表の菰野なんか半数は愛知出身者でしたね。西短との試合では西短のほうが7割は地元民で、90年の西短は県外出身者の方が多く週刊新潮に叩かれていたのに、時代はかわったなぁと感慨深かったです。自分の出身県の群馬の利根商も公立校なのに県外出身者を増やしていますね。寮も個室で私立顔負けのトレーニング施設を整えたり、監督も近大付の甲子園経験監督の豊田さんを引っ張ってきたり、現在は桐生一の甲子園優勝監督の福田さんが監督をしていて、県内ではコンスタントに上位進出を果たしていますね。甲子園出場は近そうです。ただ、池田もそうだけど、県外出身者を増やして地元に愛される野球部になるのか疑問です。93年にJリーグブームにプロ野球が押されていたときに巨人の長嶋監督が、日本の野球は高校野球があるから大丈夫と言っていましたが、選手の地域性がなくなると高校野球の人気も落ちちゃうんじゃないかと心配しております。80-90年代の広島県みたいにベンチ入りメンバーの県外出身者の人数制限が必要な時期に来ていると思います。
堀内は一年のとき選手権に出ましたが、記念大会で出場校が多く西宮ゾーンに入ってしまい3勝すれば甲子園で試合ができたそうですが3戦目で優勝した明星に大敗してジエンド。調べると2年の秋の関東大会でも準優勝していますが当時の関東東京の出場枠はたったの3校で東京の2位校が甲府商より実力上位と見られて選抜に出られなかったようです。つくづく甲子園と縁がない人だったのですね。19歳で終速155kmだったら高3の春でも終速150㎞位で選抜でも大活躍できたのでは?