横山やすし 破滅型芸人最終更新 2024/10/03 07:331.名無しさんAcQ6g語りましょう😃2024/06/23 05:38:4727コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.名無しさんmk5kZ横山 やすし(よこやま やすし、1944年〈昭和19年〉3月18日 - 1996年〈平成8年〉1月21日)は、かつて吉本興業大阪本社に所属していた漫才師、タレント。身長163cm(本人談)。愛称は「やっさん」。本名は木村 雄二(きむら ゆうじ)。2024/06/23 05:46:293.名無しさんmk5kZやすしと同じく高知県で生まれ、大阪府で育った西川きよしとの漫才は、漫才ブームの到来と共に爆発的な人気を博し、「やすきよ漫才」として20世紀を代表する天才漫才師と呼ばれるまでになった。そして、波乱万丈な人生から破天荒芸人との異名も持つ2024/06/23 05:57:124.名無しさんmk5kZ初妻(のちに離婚)との間に俳優の木村一八(長男)と長女をもうけた。再婚した妻とはやすしの事務所契約解除等を挟み、逝去まで連れ添った。エステティシャンで漫才師さゆみ・ひかりの木村ひかり(次女)は、後妻との子である。2024/06/23 05:59:265.名無しさんmk5kZ西川きよしと1966年に「やすしきよし」のコンビ名でデビューする。きっかけは歌謡浪曲師の中山礼子がきよしを紹介したことだった。やすしは京都花月の向かいにあった「水車」という喫茶店で、きよしにコンビを組むことを度々迫ったという。きよしは当時はまだ研究生扱いだった吉本新喜劇を辞めて、コンビを組むことを当時の社長や部長に相談すると「やすし君とだけはやめとけ、二度と芝居には戻ってこれんぞ」と言われ、また新喜劇の脚本家の檀上茂が「きよしを渡せるか!」とやすしに怒鳴り込んで来て喧嘩になるなど、コンビ結成は周囲から祝福されなかった。しかし、きよしの覚悟を見抜いたやすしは「きよしは化けるで」と確信していたという。2024/06/23 07:16:316.名無しさんmk5kZ二人は周りの漫才コンビを評価・採点して徹底的に分類・分析した。やすしは著書「人生一直線」で当時のきよしを「動きや喋りがどうしても芝居風になってしまう」と見ており、また、きよしがマイクを気にしてコチコチの漫才になっていたと評している。それならばと二人は動きが面白い「どつき漫才」を目指すようになり、そして当時他の漫才師がやっていない「動き」というスタイルを見つける。またデフォルメし、舞台の中央にあるマイクから離れて動き回るという革新的な漫才を編み出した。やすしがどつかれて飛んだメガネを探す有名なネタも、この流れで出来たものである。また、それまでのやすしは自身がリードしすぎる漫才スタイルであったが、漫才に不得手だったきよしをやすしが信じて自由にやらせるスタイルとなり、結果的にこれがボケ・ツッコミが激しく交互に入れ替わる独特な「型破り漫才の基礎となった。稽古嫌いだったやすしが、きよしの懇願で本格的にネタ合わせをするようになったのもこの頃からであった。2024/06/23 07:17:347.名無しさんmk5kZ「やすきよ」はこの流れから全国制覇を目指し、結成から1年足らずで第2回上方漫才大賞の新人賞を獲得。これを契機にテレビ出演も果たした。同じく動きで笑いをとるネタを主体とするコント55号とテレビ中継で同じ舞台を踏んだ時、やすしは「こいつらを倒さんかったら日本一には立てん」と思ったという。その後、また名古屋の大須演芸場で同じテレビ中継の舞台を踏んだが、コント55号が舞台を左右に動き回るのでテレビカメラが追いつけず、これを見たやすしが「チャンスや」ときよしに思いついた秘策を告げた。それは逆に動かないことであり、その違いを明確にすることで視聴者を味方につけたという。この流れをもって1970年(昭和45年)には、第5回上方漫才大賞の大賞を結成から僅か5年にして受賞した。そんな絶頂の最中、1969年(昭和44年)11月に養父・庄吉が南海高野線の中百舌鳥駅の踏切で通過した電車の風圧で転倒。頭部を強打し、7日後に意識が戻ること無く他界した。10日後に長男の一八が誕生。やすしは父に息子を見せたいと願っていたが、その願いが叶う事はなかった。2024/06/23 07:19:238.名無しさんmk5kZ1996年1月21日の夜、摂津市の自宅で寝たまま意識を失っているところを啓子夫人が発見、救急車で病院に運ばれたが、すでに心臓と呼吸が停止しており、意識が戻ることなく急逝した。51歳没(享年52)。死去前日の1月20日、大量にビールを飲んで吐き出し、啓子夫人が病院で診てもらおうと思った矢先の死だった。最後の言葉は夫人と娘に対して「水を欲しい」「ちょっと調子がおかしいから病院に行かんとあかんなぁ」「明日病院に行くわ」であった。病院の医師から自宅で亡くなったと診断されたため、遺体は高槻市にある大阪医科大学で行政解剖された。解剖の結果、死因は「アルコール性肝硬変」と判明、さらに血液からもアルコールが検出された。亡くなった翌日のスポーツ紙の見出しには、自宅の玄関前にビールの空き缶が多く入ったゴミ袋が写し出されており、亡くなる前日までビールを多量に飲んでいたことが、弱っていた肝機能を急激に低下させ、急死に至った原因であることが裏付けられた。やすしは前述の吐血の際、医師から「アルコール依存症による重度の慢性肝炎」との診断を受け、「このまま飲み続けたらいずれは『肝硬変』となり、あと10年で死にますよ」と酒を止めるよう警告されていたが一切無視して酒を飲み続け、死去2年ほど前の1994年頃から腹水が溜まるなど体調が徐々に悪化していった。奇しくも医師の「警告」通りに10年後の1996年にこの世を去る結果となり、関西のみならず全国にも衝撃を走らせ、翌日の早朝から多くの報道陣が自宅の前に駆けつけ、ビートたけしら多くの芸能人・芸能関係者が弔問に訪れた。2024/06/23 07:21:249.名無しさんTK7E2破天荒やなあ😆2024/06/24 05:31:4610.名無しさんbsJO2傍若無人やなあ2024/06/24 18:40:5511.名無しさんanrUa暴力トラブルは息子もか2024/06/25 13:00:5712.名無しさんVOCW4YouTubeで横山やすしの暴言集見たけどヤバすぎやろマジもんやんけ2024/06/26 14:22:4013.名無しさんVOCW4たかじんや上沼恵美子が東京進出しない理由の一つがこの人を見てきたから2024/06/26 14:26:3014.名無しさんVOCW4きよしぐう聖やけどやすしにだけは厳しかったらしいわ2024/06/26 15:12:0115.名無しさんUpYw9怒るでしかし2024/06/27 08:46:3616.名無しさんq5lhDやっさんが舞台に乱入したときヒロミ「オッサンそこ座っときな」やっさん「おもろいやんけ」2024/06/28 08:56:3417.名無しさんJb5fUメガネメガネ…2024/06/29 06:11:2518.名無しさんXjbYq破天荒遊戯2024/07/04 11:00:5319.名無しさんfazjCそりゃもうね2024/07/05 13:33:3620.名無しさんwnBPY暴れん坊ですなあ2024/07/16 13:00:1021.名無しさんPmPAbオレの地元に良く遊びに来てたらしい三国競艇圏内会いたかったな~2024/07/27 20:34:3122.名無しさんPmPAbやっさんのエピソードは一本気で笑えるものが多いがもし間近にこんな人がいたなら絶対避けてると思う2024/07/27 20:59:5823.名無しさん7Xc77今でもたまに見たら笑う2024/08/09 09:28:2124.名無しさんdNQD6芸能界は戦国時代で下剋上や謀反なんでもありの世界でしょみんなそうやって天下獲ってきた2024/08/28 09:42:4525.名無しさんbHft5老害にもムカつくけど、老害老害と騒ぐ連中にも同じくらいムカつく2024/08/29 10:19:3626.名無しさんPeMkyやっさん!!2024/09/28 13:36:2527.名無しさん3q0piやすしくんはい2024/10/03 07:33:18
【国民民主党】玉木代表 加熱する不倫報道に「家族の心理的負担は極めて大きい」「テレビや週刊誌やネットも見てしまって、その都度傷ついている」ニュース速報+821609.12024/11/21 19:44:28
身長163cm(本人談)。
愛称は「やっさん」。
本名は木村 雄二(きむら ゆうじ)。
「やすきよ漫才」として20世紀を代表する天才漫才師と呼ばれるまでになった。
そして、波乱万丈な人生から破天荒芸人との異名も持つ
再婚した妻とはやすしの事務所契約解除等を挟み、逝去まで連れ添った。
エステティシャンで漫才師さゆみ・ひかりの木村ひかり(次女)は、後妻との子である。
きっかけは歌謡浪曲師の中山礼子がきよしを紹介したことだった。
やすしは京都花月の向かいにあった「水車」という喫茶店で、きよしにコンビを組むことを度々迫ったという。
きよしは当時はまだ研究生扱いだった吉本新喜劇を辞めて、コンビを組むことを当時の社長や部長に相談すると「やすし君とだけはやめとけ、二度と芝居には戻ってこれんぞ」と言われ、
また新喜劇の脚本家の檀上茂が「きよしを渡せるか!」とやすしに怒鳴り込んで来て喧嘩になるなど、コンビ結成は周囲から祝福されなかった。
しかし、きよしの覚悟を見抜いたやすしは「きよしは化けるで」と確信していたという。
やすしは著書「人生一直線」で当時のきよしを「動きや喋りがどうしても芝居風になってしまう」と見ており、また、きよしがマイクを気にしてコチコチの漫才になっていたと評している。
それならばと二人は動きが面白い「どつき漫才」を目指すようになり、そして当時他の漫才師がやっていない「動き」というスタイルを見つける。
またデフォルメし、舞台の中央にあるマイクから離れて動き回るという革新的な漫才を編み出した。
やすしがどつかれて飛んだメガネを探す有名なネタも、この流れで出来たものである。
また、それまでのやすしは自身がリードしすぎる漫才スタイルであったが、漫才に不得手だったきよしをやすしが信じて自由にやらせるスタイルとなり、
結果的にこれがボケ・ツッコミが激しく交互に入れ替わる独特な「型破り漫才の基礎となった。
稽古嫌いだったやすしが、きよしの懇願で本格的にネタ合わせをするようになったのもこの頃からであった。
これを契機にテレビ出演も果たした。
同じく動きで笑いをとるネタを主体とするコント55号とテレビ中継で同じ舞台を踏んだ時、やすしは「こいつらを倒さんかったら日本一には立てん」と思ったという。
その後、また名古屋の大須演芸場で同じテレビ中継の舞台を踏んだが、コント55号が舞台を左右に動き回るのでテレビカメラが追いつけず、
これを見たやすしが「チャンスや」ときよしに思いついた秘策を告げた。
それは逆に動かないことであり、その違いを明確にすることで視聴者を味方につけたという。
この流れをもって1970年(昭和45年)には、第5回上方漫才大賞の大賞を結成から僅か5年にして受賞した。
そんな絶頂の最中、1969年(昭和44年)11月に養父・庄吉が南海高野線の中百舌鳥駅の踏切で通過した電車の風圧で転倒。
頭部を強打し、7日後に意識が戻ること無く他界した。
10日後に長男の一八が誕生。やすしは父に息子を見せたいと願っていたが、その願いが叶う事はなかった。
すでに心臓と呼吸が停止しており、意識が戻ることなく急逝した。
51歳没(享年52)。
死去前日の1月20日、大量にビールを飲んで吐き出し、啓子夫人が病院で診てもらおうと思った矢先の死だった。
最後の言葉は夫人と娘に対して「水を欲しい」「ちょっと調子がおかしいから病院に行かんとあかんなぁ」「明日病院に行くわ」であった。
病院の医師から自宅で亡くなったと診断されたため、遺体は高槻市にある大阪医科大学で行政解剖された。
解剖の結果、死因は「アルコール性肝硬変」と判明、さらに血液からもアルコールが検出された。
亡くなった翌日のスポーツ紙の見出しには、自宅の玄関前にビールの空き缶が多く入ったゴミ袋が写し出されており、
亡くなる前日までビールを多量に飲んでいたことが、弱っていた肝機能を急激に低下させ、急死に至った原因であることが裏付けられた。
やすしは前述の吐血の際、医師から「アルコール依存症による重度の慢性肝炎」との診断を受け、「このまま飲み続けたらいずれは『肝硬変』となり、
あと10年で死にますよ」と酒を止めるよう警告されていたが一切無視して酒を飲み続け、
死去2年ほど前の1994年頃から腹水が溜まるなど体調が徐々に悪化していった。
奇しくも医師の「警告」通りに10年後の1996年にこの世を去る結果となり、関西のみならず全国にも衝撃を走らせ、
翌日の早朝から多くの報道陣が自宅の前に駆けつけ、ビートたけしら多くの芸能人・芸能関係者が弔問に訪れた。
マジもんやんけ
ヒロミ「オッサンそこ座っときな」
やっさん「おもろいやんけ」
三国競艇圏内
会いたかったな~
もし間近にこんな人がいたなら絶対避けてると思う
みんなそうやって天下獲ってきた