邪馬台国畿内説 Part920最終更新 2024/09/15 07:151.日本@名無史さん 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。【骨 子】 ・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43) ・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6) ・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7) ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 前スレ http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1688722647/l50◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す ) 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか? それは桜井市纒向以外にありえない。出典 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/16888543182023/07/09 07:11:58175コメント欄へ移動すべて|最新の50件126.日本@名無史さんJEPd0遅れた可能性がある楽浪土器の終焉が238年の公孫淵の滅亡時だとするとその直後に現れる布留ゼロの年代は3世紀中ごろになる楽浪土器の終焉が313年楽浪が高句麗に滅ぼされた時だとするとその直後に現れる布留ゼロの年代は4世紀前半になる立場によって意見が分かれるところ2023/09/06 12:25:10127.名無しさんRhd8Z畿内説に反対する人は共立の女王の居住地は大きくて当たり前とか武器になる大きな鉄器がないといけないとか決めつけているところがおかしいあと纒向周辺の発展の遅れも東遷説なら説明できる2023/09/08 13:50:46128.名無しさんb6JHK畿内の土器編年で弥生時代後期の第Ⅴ様式からタタキやケズリの技法が現れて弥生末期の第Ⅵ様式→古墳時代初頭タタキ、ケズリが主流の庄内式→3世紀中事さらに薄くなる布留式と土器の技法が無理なく繋がる一方九州北部は西暦200年以降西新式と庄内式が並行する畿内の庄内式の技法が九州北部に伝わり九州北部の人は庄内式の技法で九州北部の型の土器を作った なで肩 底とんがり畿内の技法を受け入れた九州北部について東遷説だと説明できる2023/09/09 18:55:20129.名無しさんcANwv魏志倭人伝には6人以上が関わってる・陳寿・最初の帯方郡使、梯儁・二度目の帯方郡使、張政・裴松之の魏略からの注釈・239年皇帝直属の公式文書を書いた人・247年洛陽の中央政府の公式文書を書いた人上3人 陳寿 梯儁 張政こいつらの性格がわかるくらいには読め梯儁はまじめで仕事はできるが神経質張政はアピール上手異論は受け付けるこれについて違う見方を書けるくらい魏志倭人伝を読み込んでるならその資格があるそもそも1400里足りないと言っているやつは信用できない原文を読んでない女王國 → 卑弥呼が女王の30国連合国家自女王國 → 女王自らの国 邪馬台国個人の意見だが対馬海峡往復の渡航の生存は100%ではなく梯儁と張政は太守にとって失ってもかまわないどうでもいい人材だったと考えてるあと体格が小さい 船上で邪魔にならない2023/09/10 00:22:31130.名無しさんcANwvそもそも1400里足りないと言う人は原文じゃなくて和訳を読んだんだろう日本人は幸いである漢文を読める>世有王 皆統屬女王國世に王有り 皆統べ女王国に属している>女王之所都之は女王の都とする所>自女王國以北 其戸數道里可得略載女王自らの国より以って北 その戸数道里を得るも略載す>自郡至女王國 萬二千餘里自郡(帯方郡)より女王国に至る 1万2千里余り>自女王國以北 特置一大率檢察女王自らの国より以って北 特に一大率を置き檢察す陳寿はちゃんと「女王國」と「自女王國」を使い分けてる>(狗奴国は)不屬女王女王に属さず「自女王」「女王」が両方とも邪馬台国を示していると考えているならそれは間違いで読み分ける必要がある2023/09/10 00:44:27131.名無しさんcANwv纒向石塚古墳の西側周濠から庄内ゼロがでてる2世紀末期には庄内ゼロは既にありその作り方はそのころにはあったⅤ、Ⅵ箸墓の布留ゼロでintcal20で出るのは3世紀中ごろ と290年以降布留ゼロが290年以降だと90年間の庄内式の変化が常識はずれで小さいことになるこれは編年のあり方として不自然で纒向が4世紀の遺跡というには無理がある科学的に2023/09/10 01:06:19132.名無しさんEuQ1YIntCal20較正曲線https://www.rekihaku.ac.jp/outline/press/p200825/img/001_b.jpg5,730年±40の半減期により直線に近い緩やかなカーブになるはずがガタガタしている下側に大きくへこんでいるところは寒冷な気候が続いたと思われる14世紀半ばから19世紀半ばの小氷河期の影響が凹みから確認できるこれを踏まえて紀元前3世紀前半と3世紀後半に寒冷な気候が続いたと思われる食糧不足から大陸から日本に人が渡ってきたと考えてる紀元前3世紀前半の大陸からの渡来人は九州~近畿で土地争いを起こして3世紀後半の大陸からの渡来人は労働力兼兵士で一部だけ技術者箸墓のあぶみは寒冷化で日本に来た渡来人が持ってきたと考えてる4世紀以降日本は軍を持ち半島を攻める2023/09/12 12:56:47133.名無しさんEuQ1YIntCal20較正曲線は温暖になっても上に付きあがることは無い寒冷になった時に下に下がるだけ桃核は95.4%信頼曲線で計算されてる乱数を当てはめて確率を計算するが詳しい説明より結果だけ書こう桃核の220~260年 あるいは290~340年箸墓の布留0は240~260年 あるいは290~340年この範囲におさまる確率は95.4%以上だそして「あるいは」のほうになる可能性が低いことは土器の変化が示している「あるいは」の方だと土器の変化が小さすぎる2023/09/12 23:47:19134.名無しさんHrb8wまちがえた 95.4%信頼区間 だった一般的には面倒な乱数計算をして95%の範囲に収まれば「確実」となるこれの否定はかなり難しい桃核が何年に実ったかの指定は難しいただ40~50年の幅を持たせてその範囲におさまればいいだけなら統計的に「確実」に持っていくことはできるとりあえずこれはわかっといてintcal20はJcalに寄せた結果になってて間違っている可能性は低いと思うよintcal20の結果については それは違う なんて単純な否定では足りない説明が必要ってことね そして一般人には無理よほどの専門家がデータを示す必要があるてか桃核のような鬼道の痕跡は各主張者は探さないといけないからね桃核を馬鹿にしてる人は魏志倭人伝を読んでないんだろうか2023/09/13 00:06:02135.名無しさんHrb8w「あるいは」の方だと庄内式の変化が小さすぎるのと庄内式が使用された時期が拡大されるので出土数が多くなるはずなのと楽浪土器の消滅の直後におこる布留ゼロの出現が290年ごろになるが290~300年に楽浪土器が消滅するような出来事は起きてない高句麗が楽浪、帯方を制圧するのは313年2023/09/13 00:17:25136.名無しさんPpaUs>>130>世有王 皆統屬女王國「丗有王(これ、王有り)」 「丗」は、「此」の誤字だろう。 @阿波2023/09/14 21:21:33137.名無しさんPpaUs>>128>畿内の土器編年で弥生時代後期の第Ⅴ様式からタタキやケズリの技法が現れてそれがいわゆる「東阿波型土器」の出現というものだ。 @阿波2023/09/14 21:45:24138.名無しさんPpaUs>>130>世有王 皆統屬女王國「丗有王(これ、王有り)」 「丗」は、「此」の誤字だろう。 >自女王國以北 其戸數道里可得略載女王国より北をもって その戸数道里を得るも略載す。 @阿波2023/09/14 21:48:59139.名無しさんPpaUs>>128>畿内の土器編年で弥生時代後期の第Ⅴ様式からタタキやケズリの技法が現れてそれが「倭人(阿波勢力)」の畿内進出による、いわゆる「東阿波型土器」の出現というものだ。 @阿波2023/09/14 22:00:00140.名無しさんMIjZH間違えることを気にするな 恐れるなお前らにとって最重要は自身のプライドを保つことか?デあればクソクダラナイ最も重要なことは自説やプライドを保つなんてクソくだらないことではない真実 存在していいのはこれだけ あとカス2023/09/15 01:16:54141.名無しさんKZyvk深瀬遺跡(阿南市深瀬朝 縄文時代前期~晩期)の翡翠製丸玉、田井遺跡(美波町由岐 縄文時代前期~中期))のけつ状耳飾り、西原遺跡(東みよし町足代 弥生時代後期初頭)の翡翠製大珠 @阿波2023/09/15 16:32:04142.名無しさんKZyvk『徳川実紀』「常憲院殿御実紀」巻39元禄12年4月29日条に、どうして阿波国の麻植郡や三好郡・板野郡が、唐突に登場するのだろうか? 「古代天子葬之場所有之由の候… 」 この記述から、徳川幕府は阿波国に古代天皇陵が存在することを知っていたことになる。 ちなみに、淡路島も阿波国の島々の一つだから。 念のため。 @阿波2023/09/15 17:49:06143.名無しさんbqtc51~2世紀の鉄器加工については淡路島の五斗長垣内遺跡が最強発見されてる遺構の中ではなので暫定1位だが12の建物の中に複数の炉跡九州負けてる2023/09/16 01:10:38144.名無しさんbqtc5九州北部は紀元前1世紀から衰退が始まってる九州北部の紀元前3世紀の王の痕跡・早良 吉武高木遺跡 大型建物 柱の太さ1~1.5m・奴国 板付田端遺跡・末慮国 宇木汲田遺跡王が出現九州北部の紀元前2世紀の王の痕跡・伊都国 三雲遺跡・奴国 須玖岡本遺跡・佐賀 吉野ヶ里遺跡 首なし被葬者 骨に矢が刺さる被葬者・末慮国 宇木汲田遺跡・早良 吉武大石遺跡 使用痕がある剣、桶渡遺跡・嘉穂 鎌田原遺跡、立岩遺跡・筑紫野 隈・西小田遺跡・朝倉 峯遺跡王の乱立九州北部の紀元前1世紀の王の痕跡・伊都国 井原遺跡・奴国 須玖岡本遺跡・佐賀 吉野ヶ里遺跡、二塚山遺跡・末慮国 桜馬場遺跡王の減少九州北部の1世紀の王の痕跡・奴国 須玖岡本遺跡・佐賀 二塚山遺跡王のさらなる減少九州北部の2世紀の王の痕跡・伊都国 平原遺跡 銅鏡40枚 木棺墓・佐賀市 七ヶ瀬遺跡 鉄の大剣 鉄の斧 木棺墓に三種の神器流雲文縁方格規矩禽獣鏡(漢鏡5期) 素環頭鉄刀 ヒスイ勾玉 鉄剣文献<遺構 論より証拠2023/09/16 01:32:04145.名無しさん6Wxee>>143>1~2世紀の鉄器加工については淡路島の五斗長垣内遺跡が最強鉄器王国「阿波」の中では、新しい鍛冶炉遺構と言える。 @阿波2023/09/16 06:48:14146.名無しさん2f8V71~2世紀における鉄器加工は九州北部が最強ではない可能性がある最強は五斗長垣内遺跡桁が違う炉の数で九州北部負けてる2023/09/18 00:17:55147.名無しさん2f8V71~2世紀に埋葬される鉄器の数は九州北部で多いが威信財でしかなかったんじゃね五斗長垣内遺跡は淡路島ね10を超える竪穴式の建物に複数の炉跡があり当時の炉跡の数が国内で飛びぬけて多い3世紀の畿内辺りで鉄器が威信財ではなくただの効率のいい道具通常の3倍効率がいいただ同じことは石器でも可能たかが2~3倍、加工の時間がかかるだけだ多分鉄器ってそのていど2023/09/18 00:52:40148.名無しさんqWkNX>>147淡路島は、倭国(阿波)に数多ある島々の一つ。 @阿波2023/09/18 09:27:01149.名無しさんqWkNXオノコロ島は、忌部の郷 吉野川中流域に出来た、日本最大の「粟島」「舞中島」などの砂洲。 「こをろこをろとかき回し矛を持ち上げると、滴り落ちた潮が積もり重なって島となった」 吉野川の洪水で、川底が「こをろこをろ」とかき回され、砂が積もり重なって砂洲「粟島」「舞中島」などがオノコロ島となった。 海に浮かぶ博多湾の能古島や淡路島の沼島では、「積り重なって」が説明できないし、葦も生えない。 @阿波2023/09/18 10:12:27150.名無しさんqWkNX蛭子命を乗せた葦舟は、吉野川中州のオノゴロ島(粟島)の葦で作ってここから流したのだろう。 @阿波2023/09/18 15:44:04151.名無しさんqWkNX「高天原」は四国山地一帯。鮎喰川上流域の神山・穴吹川上流域の木屋平・貞光川上流域の一宇 これら、四国山地一帯を表す。 @阿波2023/09/18 21:49:18152.名無しさんqWkNX天孫族が降り下った最初の開拓地 高千穂(豊葦原中国)が、鮎喰川下流域・大河四国三郎吉野川流域一帯だったのだろう。 @阿波2023/09/18 21:51:24153.名無しさんqrjwX万人が望むのは確定される真実説?存在は認めるぞ 存在だけ2023/09/21 00:40:35154.名無しさん62kON>>153>万人が望むのは確定される真実確定された真実:「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」弥生時代に辰砂を採掘していたのは、全国唯一「若杉山辰砂採掘遺跡」だけ。 @阿波2023/09/21 06:26:39155.名無しさんqrjwX倭における国家形成と 古墳時代開始のプロセス - 国立歴史民俗博物館https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185012.pdf2014年のやつ国立歴史民俗博物館は纒向石塚古墳を2世紀中ごろと考えてるぽい2020年にでたintcal20で3世紀をやり直すと布留式の出現時期が238年公孫氏滅亡時期になりそうで土器編年の国内外の比較でも矛盾しない畿内説以外がかなりやばい楽浪土器の消滅は238年公孫氏滅亡か楽浪が313年高句麗に滅ぼされた時かのどちらかの可能性が高い昭和は後者が主流だった2023/09/21 09:19:47156.名無しさん62kON>>155>畿内説以外がかなりやばい王都遺跡でも見つけてから出直してこい! @阿波2023/09/21 10:54:57157.名無しさん62kON>>155>畿内説以外がかなりやばい「阿波」が造ったお墓しかないくせに、それこそ畿内説がやばいどころか死んでいる。 @阿波2023/09/21 10:57:14158.名無しさんO8i1u阿波って鳴門海峡を通る交易は困難だよね鳴門のうずしお いちいち説明しませんよランダムに発生する渦に当時の準構造船は対応できるだろうか2023/09/22 01:03:21159.名無しさんO8i1u自分は鳴門のうずしおの観光船に乗ったことがある大阪湾と瀬戸内海の水位のちがいにより渦潮は発生する水面が盛り上がって近くにへこんだ海水面があると渦になりやすいんだろうなあと小学生の自分は現地で想った手漕ぎボートで鳴門海峡を渡ることは可能だろうただかなり緻密な計算(凪の時間帯)と4時間漕ぎ続けれる体力が必要だと思う2023/09/22 01:38:17160.名無しさん704q5倭人(阿波勢力)の海人族にとって、鳴門海峡とて苦にならない。なんせ、朝鮮半島や関東・北陸まで進出しているんだから。 @阿波2023/09/22 06:34:57161.名無しさんUMQ2J>>144100国の王時代から倭国大乱後は僅か30国の王だからな衰退は文献通り2023/09/22 19:31:57162.名無しさん704q5>>161>100国の王時代から倭国大乱後は僅か30国の王だからなボタンの掛け違い。そもそも倭国大乱は、九州のことではないからww もちろん「阿波」での話。 @阿波2023/09/22 20:32:02163.名無しさんO8i1u布留式土器の出現時期と楽浪土器の消滅時期は同じころ遺構的にこれを否定する研究者はいないだろう先達は偉大問題は楽浪土器の消滅が238年か313年か またはそれ以外かただ楽浪土器の消滅が238年だと2020年の布留式土器の出現時期と楽浪土器の消滅時期は同じころ遺構的にこれを否定する研究者はいないだろう炭素年代測定が間違ってる?その可能性は否定しないが証明できるか?2023/09/22 23:54:15164.名無しさんULcMXごめん やりなおしただ楽浪土器の消滅が238年で同じころ布留式が出現したとすると箸墓の補強になる楽浪土器の消滅と布留式の出現が313年だと各地域で特色がある庄内式が140年続いたにしては変化が小さい河内 纒向 九州 北陸 東海 山陰 複数個所で見つかる庄内式の変化は全てが小さい2023/09/23 00:03:25165.名無しさんULcMX庄内式は地域ごとに微妙に違う庄内式が多く出る地域のほとんど変化が小さいそして庄内式からの布留式へは小変更作り方はほぼ同じ ただ布留式はさらに薄く軽い2023/09/23 00:09:39166.名無しさんjQPIc庄内式と、勝手に名付けられてしまった「東阿波型土器」。 かわいそう。 @阿波2023/09/23 06:31:42167.名無しさんjQPIc千葉県人:2015/02/22(日) 13:20:34.54 ID:.net 土器のことに関心があるようなので専門家の見解を少し書き込みます 東阿波式土器とは、厚さ2~3ミリと、他地域の土器と比べ極端に薄く材料の粘土には 細かくすり潰された阿波の青石(結晶片岩)が含まれている 桜井市埋蔵文化センター著「ヤマト王権はいかにして始まったか」(平成19年編の)の中で 「纏向では、近年阿波系の土器が調査が進むにつれ増加しておりその傾向が研究者の間で 脚光を浴びている」とされている 大阪府文化財センター技師の方が書かれた「大阪府出土の讃岐・阿波・播磨系土器」では 「淀川以北摂津東部の6遺跡で阿波系が17個、摂津中部11遺跡で阿波系16個、旧大和川 周辺沖積平野の41遺跡で阿波系208個、和泉市11遺跡で阿波系19個など」 阿波系土器が圧倒的に多いことが明かされている ってさ 補足。 その圧倒的に多い阿波系土器 以外の土器についても、「東阿波型土器」様式土器であることを付加えておく。 @阿波2023/09/23 06:34:49168.名無しさんjQPIc>旧説を覆すには、より強固な新説を構築して提示する以外の方法はない「阿波」の強固な特異遺跡が照明してくれている。説などという段階では最早ない。まぁ、総合的に状況証拠を積み重ねると、「阿波」でしかない。他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的特異遺跡群。 記紀神話を物語る、記紀登場の神名古神社群。魏志倭人伝の「行程」・「其山有丹」・「倭地の自然環境描写」等々。そのうち、「阿波」に取って代わるよ。旧説(畿内説や九州説)の御用学者やミーハー相手のマスコミが「阿波」に跪くのは、時間の問題。 @阿波2023/09/23 10:35:25169.名無しさんvCpTq>>168阿波説とは沖縄説と同程度の信頼性しかない。行程は合わないし、大和朝廷と邪馬台国は全く別の組織。と言うか、九州の大和朝廷の勢力は邪馬台国の勢力と倭国大乱で戦った関係である。九州大和朝廷の神功皇后(墓だけは畿内にある。しかし、あるのは墓だけ。他には畿内には一切何も無い。) が九州北岸の宗像で兵を集めて、邪馬台国を滅ぼしたのだ。その後、外国との交渉権を手中にするために、大倭=大和=ダイワをヤマトと改名して、邪馬台国を名乗ったのである。(大はヤともヤマとも読めないし、和もマトともトとも読めない。)邪馬台国が中国でも朝鮮でも有名になっていたから、そうする以外には交渉相手として認めてもらえなかったからである。これは真実です。阿波説ご愁傷様です。2023/11/16 16:11:54170.名無しさんqqPDqアイツラ向こうに戻ったのかw2023/12/08 09:53:56171.名無しさん4liMR纏向が大陸と交流してる時点で邪馬台国は纏向でしか有り得ないんだよな壱岐と対馬を支配下に置いた勢力以外、大陸に渡れないんだから2024/04/25 16:33:27172.名無しさん79Z0h箸墓の卑弥呼墓説はやっぱり年代合わないのでしょ?2024/05/05 11:06:12173.名無しさんyj5Cp三大極悪集団・医療・警察・宗教(学校教育)2024/05/09 20:11:16174.名無しさんimcQHやはとは平和な場所って意味~のやはと、と無数にあった卑弥呼は日尊か日命、音から尊、命を巫女と混同天照大御神を祭神とする天照国照彦の系統、同一かも天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊倭、倭奴、伊都などはすべて糸島を中心とした糸を表す北部九州を起源とする北部九州からスタートし、畿内入りまでの饒速日尊の足跡を表す魏志倭人伝や旧唐書など大陸と主に交流があったのはコチラ卑弥弓呼とは彦尊であり、磐余彦尊であり、神武天皇狗奴国とは日向国 九州南部台与と同一人物である饒速日尊の畿内入りを追いかけ、畿内入りする神武天皇コレが邪馬台国、卑弥呼の正体2024/06/01 17:42:07175.名無しさん2DrAaようやく機内厨死んだか2024/09/15 07:15:46
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1688722647/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。
楽浪土器の終焉が238年の公孫淵の滅亡時だとすると
その直後に現れる布留ゼロの年代は3世紀中ごろになる
楽浪土器の終焉が313年楽浪が高句麗に滅ぼされた時だとすると
その直後に現れる布留ゼロの年代は4世紀前半になる
立場によって意見が分かれるところ
大きくて当たり前とか武器になる大きな鉄器がないといけないとか
決めつけているところがおかしい
あと纒向周辺の発展の遅れも東遷説なら説明できる
弥生末期の第Ⅵ様式→古墳時代初頭タタキ、ケズリが主流の庄内式→
3世紀中事さらに薄くなる布留式と土器の技法が無理なく繋がる
一方九州北部は西暦200年以降西新式と庄内式が並行する
畿内の庄内式の技法が九州北部に伝わり
九州北部の人は庄内式の技法で九州北部の型の土器を作った なで肩 底とんがり
畿内の技法を受け入れた九州北部について
東遷説だと説明できる
・陳寿
・最初の帯方郡使、梯儁
・二度目の帯方郡使、張政
・裴松之の魏略からの注釈
・239年皇帝直属の公式文書を書いた人
・247年洛陽の中央政府の公式文書を書いた人
上3人 陳寿 梯儁 張政
こいつらの性格がわかるくらいには読め
梯儁はまじめで仕事はできるが神経質
張政はアピール上手
異論は受け付ける
これについて違う見方を書けるくらい魏志倭人伝を読み込んでるなら
その資格がある
そもそも1400里足りないと言っているやつは信用できない
原文を読んでない
女王國 → 卑弥呼が女王の30国連合国家
自女王國 → 女王自らの国 邪馬台国
個人の意見だが対馬海峡往復の渡航の生存は100%ではなく
梯儁と張政は太守にとって失ってもかまわないどうでもいい人材だったと考えてる
あと体格が小さい 船上で邪魔にならない
原文じゃなくて和訳を読んだんだろう
日本人は幸いである
漢文を読める
>世有王 皆統屬女王國
世に王有り 皆統べ女王国に属している
>女王之所都
之は女王の都とする所
>自女王國以北 其戸數道里可得略載
女王自らの国より以って北 その戸数道里を得るも略載す
>自郡至女王國 萬二千餘里
自郡(帯方郡)より女王国に至る 1万2千里余り
>自女王國以北 特置一大率檢察
女王自らの国より以って北 特に一大率を置き檢察す
陳寿はちゃんと「女王國」と「自女王國」を使い分けてる
>(狗奴国は)不屬女王
女王に属さず
「自女王」「女王」が両方とも邪馬台国を示していると考えているならそれは間違いで
読み分ける必要がある
2世紀末期には庄内ゼロは既にありその作り方はそのころにはあった
Ⅴ、Ⅵ
箸墓の布留ゼロでintcal20で出るのは3世紀中ごろ と290年以降
布留ゼロが290年以降だと90年間の庄内式の変化が常識はずれで小さいことになる
これは編年のあり方として不自然で纒向が4世紀の遺跡というには無理がある
科学的に
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/press/p200825/img/001_b.jpg
5,730年±40の半減期により直線に近い緩やかなカーブになるはずがガタガタしている
下側に大きくへこんでいるところは寒冷な気候が続いたと思われる
14世紀半ばから19世紀半ばの小氷河期の影響が凹みから確認できる
これを踏まえて紀元前3世紀前半と3世紀後半に寒冷な気候が続いたと思われる
食糧不足から大陸から日本に人が渡ってきたと考えてる
紀元前3世紀前半の大陸からの渡来人は九州~近畿で土地争いを起こして
3世紀後半の大陸からの渡来人は労働力兼兵士で一部だけ技術者
箸墓のあぶみは寒冷化で日本に来た渡来人が持ってきたと考えてる
4世紀以降日本は軍を持ち半島を攻める
寒冷になった時に下に下がるだけ
桃核は95.4%信頼曲線で計算されてる
乱数を当てはめて確率を計算するが詳しい説明より結果だけ書こう
桃核の220~260年 あるいは290~340年
箸墓の布留0は240~260年 あるいは290~340年
この範囲におさまる確率は95.4%以上だ
そして「あるいは」のほうになる可能性が低いことは土器の変化が示している
「あるいは」の方だと土器の変化が小さすぎる
一般的には面倒な乱数計算をして95%の範囲に収まれば「確実」となる
これの否定はかなり難しい
桃核が何年に実ったかの指定は難しい
ただ40~50年の幅を持たせてその範囲におさまればいいだけなら
統計的に「確実」に持っていくことはできる
とりあえずこれはわかっといて
intcal20はJcalに寄せた結果になってて
間違っている可能性は低いと思うよ
intcal20の結果については それは違う なんて単純な否定では足りない
説明が必要ってことね そして一般人には無理
よほどの専門家がデータを示す必要がある
てか桃核のような鬼道の痕跡は
各主張者は探さないといけないからね
桃核を馬鹿にしてる人は魏志倭人伝を読んでないんだろうか
庄内式が使用された時期が拡大されるので出土数が多くなるはずなのと
楽浪土器の消滅の直後におこる布留ゼロの出現が290年ごろになるが
290~300年に楽浪土器が消滅するような出来事は起きてない
高句麗が楽浪、帯方を制圧するのは313年
>世有王 皆統屬女王國
「丗有王(これ、王有り)」 「丗」は、「此」の誤字だろう。 @阿波
>畿内の土器編年で弥生時代後期の第Ⅴ様式からタタキやケズリの技法が現れて
それがいわゆる「東阿波型土器」の出現というものだ。 @阿波
>世有王 皆統屬女王國
「丗有王(これ、王有り)」 「丗」は、「此」の誤字だろう。
>自女王國以北 其戸數道里可得略載
女王国より北をもって その戸数道里を得るも略載す。 @阿波
>畿内の土器編年で弥生時代後期の第Ⅴ様式からタタキやケズリの技法が現れて
それが「倭人(阿波勢力)」の畿内進出による、いわゆる「東阿波型土器」の出現というものだ。 @阿波
お前らにとって最重要は自身のプライドを保つことか?
デあればクソクダラナイ
最も重要なことは自説やプライドを保つなんてクソくだらないことではない
真実 存在していいのはこれだけ あとカス
田井遺跡(美波町由岐 縄文時代前期~中期))のけつ状耳飾り、
西原遺跡(東みよし町足代 弥生時代後期初頭)の翡翠製大珠 @阿波
どうして阿波国の麻植郡や三好郡・板野郡が、唐突に登場するのだろうか?
「古代天子葬之場所有之由の候… 」
この記述から、徳川幕府は阿波国に古代天皇陵が存在することを知っていたことになる。
ちなみに、淡路島も阿波国の島々の一つだから。 念のため。 @阿波
発見されてる遺構の中ではなので暫定1位だが
12の建物の中に複数の炉跡
九州負けてる
九州北部の紀元前3世紀の王の痕跡
・早良 吉武高木遺跡 大型建物 柱の太さ1~1.5m
・奴国 板付田端遺跡
・末慮国 宇木汲田遺跡
王が出現
九州北部の紀元前2世紀の王の痕跡
・伊都国 三雲遺跡
・奴国 須玖岡本遺跡
・佐賀 吉野ヶ里遺跡 首なし被葬者 骨に矢が刺さる被葬者
・末慮国 宇木汲田遺跡
・早良 吉武大石遺跡 使用痕がある剣、桶渡遺跡
・嘉穂 鎌田原遺跡、立岩遺跡
・筑紫野 隈・西小田遺跡
・朝倉 峯遺跡
王の乱立
九州北部の紀元前1世紀の王の痕跡
・伊都国 井原遺跡
・奴国 須玖岡本遺跡
・佐賀 吉野ヶ里遺跡、二塚山遺跡
・末慮国 桜馬場遺跡
王の減少
九州北部の1世紀の王の痕跡
・奴国 須玖岡本遺跡
・佐賀 二塚山遺跡
王のさらなる減少
九州北部の2世紀の王の痕跡
・伊都国 平原遺跡 銅鏡40枚 木棺墓
・佐賀市 七ヶ瀬遺跡 鉄の大剣 鉄の斧 木棺墓に三種の神器
流雲文縁方格規矩禽獣鏡(漢鏡5期) 素環頭鉄刀 ヒスイ勾玉 鉄剣
文献<遺構 論より証拠
>1~2世紀の鉄器加工については淡路島の五斗長垣内遺跡が最強
鉄器王国「阿波」の中では、新しい鍛冶炉遺構と言える。 @阿波
最強は五斗長垣内遺跡
桁が違う炉の数で九州北部負けてる
威信財でしかなかったんじゃね
五斗長垣内遺跡は淡路島ね
10を超える竪穴式の建物に複数の炉跡があり
当時の炉跡の数が国内で飛びぬけて多い
3世紀の畿内辺りで鉄器が威信財ではなくただの効率のいい道具
通常の3倍効率がいい
ただ同じことは石器でも可能
たかが2~3倍、加工の時間がかかるだけだ
多分鉄器ってそのていど
淡路島は、倭国(阿波)に数多ある島々の一つ。 @阿波
「こをろこをろとかき回し矛を持ち上げると、滴り落ちた潮が積もり重なって島となった」
吉野川の洪水で、川底が「こをろこをろ」とかき回され、
砂が積もり重なって砂洲「粟島」「舞中島」などがオノコロ島となった。
海に浮かぶ博多湾の能古島や淡路島の沼島では、「積り重なって」が説明できないし、葦も生えない。 @阿波
ここから流したのだろう。 @阿波
鮎喰川上流域の神山・穴吹川上流域の木屋平・貞光川上流域の一宇
これら、四国山地一帯を表す。 @阿波
鮎喰川下流域・大河四国三郎吉野川流域一帯だったのだろう。 @阿波
説?存在は認めるぞ 存在だけ
>万人が望むのは確定される真実
確定された真実:「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」
弥生時代に辰砂を採掘していたのは、全国唯一「若杉山辰砂採掘遺跡」だけ。 @阿波
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185012.pdf
2014年のやつ
国立歴史民俗博物館は纒向石塚古墳を2世紀中ごろと考えてるぽい
2020年にでたintcal20で3世紀をやり直すと
布留式の出現時期が238年公孫氏滅亡時期になりそうで
土器編年の国内外の比較でも矛盾しない
畿内説以外がかなりやばい
楽浪土器の消滅は238年公孫氏滅亡か
楽浪が313年高句麗に滅ぼされた時かのどちらかの可能性が高い
昭和は後者が主流だった
>畿内説以外がかなりやばい
王都遺跡でも見つけてから出直してこい! @阿波
>畿内説以外がかなりやばい
「阿波」が造ったお墓しかないくせに、それこそ畿内説がやばいどころか死んでいる。 @阿波
鳴門のうずしお いちいち説明しませんよ
ランダムに発生する渦に当時の準構造船は対応できるだろうか
大阪湾と瀬戸内海の水位のちがいにより渦潮は発生する
水面が盛り上がって近くにへこんだ海水面があると渦になりやすい
んだろうなあと小学生の自分は現地で想った
手漕ぎボートで鳴門海峡を渡ることは可能だろう
ただかなり緻密な計算(凪の時間帯)と
4時間漕ぎ続けれる体力が必要だと思う
なんせ、朝鮮半島や関東・北陸まで進出しているんだから。 @阿波
100国の王時代から倭国大乱後は僅か30国の王だからな
衰退は文献通り
>100国の王時代から倭国大乱後は僅か30国の王だからな
ボタンの掛け違い。
そもそも倭国大乱は、九州のことではないからww もちろん「阿波」での話。 @阿波
遺構的にこれを否定する研究者はいないだろう
先達は偉大
問題は楽浪土器の消滅が238年か313年か またはそれ以外か
ただ楽浪土器の消滅が238年だと2020年の布留式土器の出現時期と楽浪土器の消滅時期は同じころ
遺構的にこれを否定する研究者はいないだろう
炭素年代測定が間違ってる?
その可能性は否定しないが証明できるか?
ただ楽浪土器の消滅が238年で同じころ布留式が出現したとすると
箸墓の補強になる
楽浪土器の消滅と布留式の出現が313年だと
各地域で特色がある庄内式が140年続いたにしては変化が小さい
河内 纒向 九州 北陸 東海 山陰 複数個所で見つかる庄内式の変化は全てが小さい
庄内式が多く出る地域のほとんど変化が小さい
そして庄内式からの布留式へは小変更
作り方はほぼ同じ ただ布留式はさらに薄く軽い
土器のことに関心があるようなので専門家の見解を少し書き込みます
東阿波式土器とは、厚さ2~3ミリと、他地域の土器と比べ極端に薄く材料の粘土には
細かくすり潰された阿波の青石(結晶片岩)が含まれている
桜井市埋蔵文化センター著「ヤマト王権はいかにして始まったか」(平成19年編の)の中で
「纏向では、近年阿波系の土器が調査が進むにつれ増加しておりその傾向が研究者の間で
脚光を浴びている」とされている
大阪府文化財センター技師の方が書かれた「大阪府出土の讃岐・阿波・播磨系土器」では
「淀川以北摂津東部の6遺跡で阿波系が17個、摂津中部11遺跡で阿波系16個、旧大和川
周辺沖積平野の41遺跡で阿波系208個、和泉市11遺跡で阿波系19個など」
阿波系土器が圧倒的に多いことが明かされている
ってさ
補足。
その圧倒的に多い阿波系土器 以外の土器についても、「東阿波型土器」様式土器であることを付加えておく。 @阿波
「阿波」の強固な特異遺跡が照明してくれている。
説などという段階では最早ない。
まぁ、総合的に状況証拠を積み重ねると、「阿波」でしかない。
他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的特異遺跡群。
記紀神話を物語る、記紀登場の神名古神社群。
魏志倭人伝の「行程」・「其山有丹」・「倭地の自然環境描写」等々。
そのうち、「阿波」に取って代わるよ。
旧説(畿内説や九州説)の御用学者やミーハー相手のマスコミが「阿波」に跪くのは、時間の問題。 @阿波
阿波説とは沖縄説と同程度の信頼性しかない。
行程は合わないし、
大和朝廷と邪馬台国は全く別の組織。
と言うか、
九州の大和朝廷の勢力は邪馬台国の勢力と倭国大乱で戦った関係である。
九州大和朝廷の神功皇后(墓だけは畿内にある。しかし、あるのは墓だけ。他には畿内には一切何も無い。) が九州北岸の宗像で兵を集めて、邪馬台国を滅ぼしたのだ。
その後、外国との交渉権を手中にするために、大倭=大和=ダイワをヤマトと改名して、邪馬台国を名乗ったのである。(大はヤともヤマとも読めないし、和もマトともトとも読めない。)
邪馬台国が中国でも朝鮮でも有名になっていたから、そうする以外には交渉相手として認めてもらえなかったからである。
これは真実です。
阿波説ご愁傷様です。
壱岐と対馬を支配下に置いた勢力以外、大陸に渡れないんだから
・医療
・警察
・宗教(学校教育)
~のやはと、と無数にあった
卑弥呼は日尊か日命、音から尊、命を巫女と混同
天照大御神を祭神とする天照国照彦の系統、同一かも
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
倭、倭奴、伊都などはすべて糸島を中心とした糸を表す
北部九州を起源とする
北部九州からスタートし、畿内入りまでの饒速日尊の足跡を表す
魏志倭人伝や旧唐書など大陸と主に交流があったのはコチラ
卑弥弓呼とは彦尊であり、磐余彦尊であり、神武天皇
狗奴国とは日向国 九州南部
台与と同一人物である
饒速日尊の畿内入りを追いかけ、畿内入りする神武天皇
コレが邪馬台国、卑弥呼の正体