邪馬台国畿内説 Part920

1.
ユーザー
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1688722647/l50

◆0【 要 旨 】  ( 
>>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
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130.
ユーザー
cANwv
そもそも1400里足りないと言う人は
原文じゃなくて和訳を読んだんだろう

日本人は幸いである
漢文を読める

>世有王 皆統屬女王國
世に王有り 皆統べ女王国に属している

>女王之所都
之は女王の都とする所

>自女王國以北 其戸數道里可得略載
女王自らの国より以って北 その戸数道里を得るも略載す

>自郡至女王國 萬二千餘里
自郡(帯方郡)より女王国に至る 1万2千里余り

>自女王國以北 特置一大率檢察
女王自らの国より以って北 特に一大率を置き檢察す

陳寿はちゃんと「女王國」と「自女王國」を使い分けてる


>(狗奴国は)不屬女王
女王に属さず

「自女王」「女王」が両方とも邪馬台国を示していると考えているならそれは間違いで
読み分ける必要がある
131.
ユーザー
cANwv
纒向石塚古墳の西側周濠から庄内ゼロがでてる
2世紀末期には庄内ゼロは既にありその作り方はそのころにはあった
Ⅴ、Ⅵ

箸墓の布留ゼロでintcal20で出るのは3世紀中ごろ と290年以降
布留ゼロが290年以降だと90年間の庄内式の変化が常識はずれで小さいことになる
これは編年のあり方として不自然で纒向が4世紀の遺跡というには無理がある
科学的に
132.
ユーザー
EuQ1Y
IntCal20較正曲線
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/press/p200825/img/001_b.jpg

5,730年±40の半減期により直線に近い緩やかなカーブになるはずがガタガタしている
下側に大きくへこんでいるところは寒冷な気候が続いたと思われる
14世紀半ばから19世紀半ばの小氷河期の影響が凹みから確認できる

これを踏まえて紀元前3世紀前半と3世紀後半に寒冷な気候が続いたと思われる
食糧不足から大陸から日本に人が渡ってきたと考えてる

紀元前3世紀前半の大陸からの渡来人は九州~近畿で土地争いを起こして
3世紀後半の大陸からの渡来人は労働力兼兵士で一部だけ技術者

箸墓のあぶみは寒冷化で日本に来た渡来人が持ってきたと考えてる

4世紀以降日本は軍を持ち半島を攻める
133.
ユーザー
EuQ1Y
IntCal20較正曲線は温暖になっても上に付きあがることは無い
寒冷になった時に下に下がるだけ

桃核は95.4%信頼曲線で計算されてる
乱数を当てはめて確率を計算するが詳しい説明より結果だけ書こう

桃核の220~260年 あるいは290~340年
箸墓の布留0は240~260年 あるいは290~340年
この範囲におさまる確率は95.4%以上だ

そして「あるいは」のほうになる可能性が低いことは土器の変化が示している
「あるいは」の方だと土器の変化が小さすぎる
134.
ユーザー
Hrb8w
まちがえた 95.4%信頼区間 だった
一般的には面倒な乱数計算をして95%の範囲に収まれば「確実」となる
これの否定はかなり難しい

桃核が何年に実ったかの指定は難しい
ただ40~50年の幅を持たせてその範囲におさまればいいだけなら
統計的に「確実」に持っていくことはできる

とりあえずこれはわかっといて

intcal20はJcalに寄せた結果になってて
間違っている可能性は低いと思うよ

intcal20の結果については それは違う なんて単純な否定では足りない
説明が必要ってことね そして一般人には無理
よほどの専門家がデータを示す必要がある

てか桃核のような鬼道の痕跡は
各主張者は探さないといけないからね
桃核を馬鹿にしてる人は魏志倭人伝を読んでないんだろうか
135.
ユーザー
Hrb8w
「あるいは」の方だと庄内式の変化が小さすぎるのと
庄内式が使用された時期が拡大されるので出土数が多くなるはずなのと
楽浪土器の消滅の直後におこる布留ゼロの出現が290年ごろになるが
290~300年に楽浪土器が消滅するような出来事は起きてない
高句麗が楽浪、帯方を制圧するのは313年
136.
ユーザー
PpaUs
>>130
>世有王 皆統屬女王國

「丗有王(これ、王有り)」 「丗」は、「此」の誤字だろう。   @阿波
137.
ユーザー
PpaUs
>>128
>畿内の土器編年で弥生時代後期の第Ⅴ様式からタタキやケズリの技法が現れて

それがいわゆる「東阿波型土器」の出現というものだ。   @阿波
138.
ユーザー
PpaUs
>>130
>世有王 皆統屬女王國
「丗有王(これ、王有り)」 「丗」は、「此」の誤字だろう。  

>自女王國以北 其戸數道里可得略載
女王国より北をもって その戸数道里を得るも略載す。   @阿波
139.
ユーザー
PpaUs
>>128
>畿内の土器編年で弥生時代後期の第Ⅴ様式からタタキやケズリの技法が現れて

それが「倭人(阿波勢力)」の畿内進出による、いわゆる「東阿波型土器」の出現というものだ。   @阿波
140.
ユーザー
MIjZH
間違えることを気にするな 恐れるな
お前らにとって最重要は自身のプライドを保つことか?
デあればクソクダラナイ

最も重要なことは自説やプライドを保つなんてクソくだらないことではない

真実 存在していいのはこれだけ あとカス
141.
ユーザー
KZyvk
深瀬遺跡(阿南市深瀬朝 縄文時代前期~晩期)の翡翠製丸玉、
田井遺跡(美波町由岐 縄文時代前期~中期))のけつ状耳飾り、
西原遺跡(東みよし町足代 弥生時代後期初頭)の翡翠製大珠   @阿波
142.
ユーザー
KZyvk
『徳川実紀』「常憲院殿御実紀」巻39元禄12年4月29日条に、
どうして阿波国の麻植郡や三好郡・板野郡が、唐突に登場するのだろうか?
「古代天子葬之場所有之由の候… 」 
この記述から、徳川幕府は阿波国に古代天皇陵が存在することを知っていたことになる。
ちなみに、淡路島も阿波国の島々の一つだから。 念のため。   @阿波
143.
ユーザー
bqtc5
1~2世紀の鉄器加工については淡路島の五斗長垣内遺跡が最強
発見されてる遺構の中ではなので暫定1位だが

12の建物の中に複数の炉跡
九州負けてる
144.
ユーザー
bqtc5
九州北部は紀元前1世紀から衰退が始まってる

九州北部の紀元前3世紀の王の痕跡
・早良 吉武高木遺跡 大型建物 柱の太さ1~1.5m
・奴国 板付田端遺跡
・末慮国 宇木汲田遺跡
王が出現

九州北部の紀元前2世紀の王の痕跡
・伊都国 三雲遺跡
・奴国 須玖岡本遺跡
・佐賀 吉野ヶ里遺跡 首なし被葬者 骨に矢が刺さる被葬者
・末慮国 宇木汲田遺跡
・早良 吉武大石遺跡 使用痕がある剣、桶渡遺跡
・嘉穂 鎌田原遺跡、立岩遺跡
・筑紫野 隈・西小田遺跡
・朝倉 峯遺跡
王の乱立

九州北部の紀元前1世紀の王の痕跡
・伊都国 井原遺跡
・奴国 須玖岡本遺跡
・佐賀 吉野ヶ里遺跡、二塚山遺跡
・末慮国 桜馬場遺跡
王の減少

九州北部の1世紀の王の痕跡
・奴国 須玖岡本遺跡
・佐賀 二塚山遺跡
王のさらなる減少

九州北部の2世紀の王の痕跡
・伊都国 平原遺跡 銅鏡40枚 木棺墓
・佐賀市 七ヶ瀬遺跡 鉄の大剣 鉄の斧 木棺墓に三種の神器
流雲文縁方格規矩禽獣鏡(漢鏡5期) 素環頭鉄刀 ヒスイ勾玉 鉄剣

文献<遺構 論より証拠
145.
ユーザー
6Wxee
>>143
>1~2世紀の鉄器加工については淡路島の五斗長垣内遺跡が最強

鉄器王国「阿波」の中では、新しい鍛冶炉遺構と言える。   @阿波
146.
ユーザー
2f8V7
1~2世紀における鉄器加工は九州北部が最強ではない可能性がある
最強は五斗長垣内遺跡
桁が違う炉の数で九州北部負けてる
147.
ユーザー
2f8V7
1~2世紀に埋葬される鉄器の数は九州北部で多いが
威信財でしかなかったんじゃね

五斗長垣内遺跡は淡路島ね
10を超える竪穴式の建物に複数の炉跡があり
当時の炉跡の数が国内で飛びぬけて多い

3世紀の畿内辺りで鉄器が威信財ではなくただの効率のいい道具
通常の3倍効率がいい
ただ同じことは石器でも可能

たかが2~3倍、加工の時間がかかるだけだ

多分鉄器ってそのていど
148.
ユーザー
qWkNX
>>147
淡路島は、倭国(阿波)に数多ある島々の一つ。   @阿波
149.
ユーザー
qWkNX
オノコロ島は、忌部の郷 吉野川中流域に出来た、日本最大の「粟島」「舞中島」などの砂洲。
「こをろこをろとかき回し矛を持ち上げると、滴り落ちた潮が積もり重なって島となった」
吉野川の洪水で、川底が「こをろこをろ」とかき回され、
砂が積もり重なって砂洲「粟島」「舞中島」などがオノコロ島となった。
海に浮かぶ博多湾の能古島や淡路島の沼島では、「積り重なって」が説明できないし、葦も生えない。   @阿波
150.
ユーザー
qWkNX
蛭子命を乗せた葦舟は、吉野川中州のオノゴロ島(粟島)の葦で作って
ここから流したのだろう。   @阿波
151.
ユーザー
qWkNX
「高天原」は四国山地一帯。
鮎喰川上流域の神山・穴吹川上流域の木屋平・貞光川上流域の一宇
これら、四国山地一帯を表す。   @阿波
152.
ユーザー
qWkNX
天孫族が降り下った最初の開拓地 高千穂(豊葦原中国)が、
鮎喰川下流域・大河四国三郎吉野川流域一帯だったのだろう。   @阿波
153.
ユーザー
qrjwX
万人が望むのは確定される真実

説?存在は認めるぞ 存在だけ
154.
ユーザー
62kON
>>153
>万人が望むのは確定される真実

確定された真実:「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」
弥生時代に辰砂を採掘していたのは、全国唯一「若杉山辰砂採掘遺跡」だけ。   @阿波
155.
ユーザー
qrjwX
倭における国家形成と 古墳時代開始のプロセス - 国立歴史民俗博物館
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185012.pdf

2014年のやつ
国立歴史民俗博物館は纒向石塚古墳を2世紀中ごろと考えてるぽい
2020年にでたintcal20で3世紀をやり直すと
布留式の出現時期が238年公孫氏滅亡時期になりそうで
土器編年の国内外の比較でも矛盾しない
畿内説以外がかなりやばい

楽浪土器の消滅は238年公孫氏滅亡か
楽浪が313年高句麗に滅ぼされた時かのどちらかの可能性が高い
昭和は後者が主流だった
156.
ユーザー
62kON
>>155
>畿内説以外がかなりやばい

王都遺跡でも見つけてから出直してこい!   @阿波
157.
ユーザー
62kON
>>155
>畿内説以外がかなりやばい

「阿波」が造ったお墓しかないくせに、それこそ畿内説がやばいどころか死んでいる。   @阿波
158.
ユーザー
O8i1u
阿波って鳴門海峡を通る交易は困難だよね
鳴門のうずしお いちいち説明しませんよ
ランダムに発生する渦に当時の準構造船は対応できるだろうか
159.
ユーザー
O8i1u
自分は鳴門のうずしおの観光船に乗ったことがある
大阪湾と瀬戸内海の水位のちがいにより渦潮は発生する

水面が盛り上がって近くにへこんだ海水面があると渦になりやすい
んだろうなあと小学生の自分は現地で想った

手漕ぎボートで鳴門海峡を渡ることは可能だろう
ただかなり緻密な計算(凪の時間帯)と
4時間漕ぎ続けれる体力が必要だと思う
160.
ユーザー
704q5
倭人(阿波勢力)の海人族にとって、鳴門海峡とて苦にならない。
なんせ、朝鮮半島や関東・北陸まで進出しているんだから。   @阿波
161.
ユーザー
UMQ2J
>>144
100国の王時代から倭国大乱後は僅か30国の王だからな
衰退は文献通り
162.
ユーザー
704q5
>>161
>100国の王時代から倭国大乱後は僅か30国の王だからな

ボタンの掛け違い。
そもそも倭国大乱は、九州のことではないからww  もちろん「阿波」での話。   @阿波
163.
ユーザー
O8i1u
布留式土器の出現時期と楽浪土器の消滅時期は同じころ
遺構的にこれを否定する研究者はいないだろう
先達は偉大

問題は楽浪土器の消滅が238年か313年か またはそれ以外か
ただ楽浪土器の消滅が238年だと2020年の布留式土器の出現時期と楽浪土器の消滅時期は同じころ
遺構的にこれを否定する研究者はいないだろう

炭素年代測定が間違ってる?
その可能性は否定しないが証明できるか?
164.
ユーザー
ULcMX
ごめん やりなおし

ただ楽浪土器の消滅が238年で同じころ布留式が出現したとすると
箸墓の補強になる

楽浪土器の消滅と布留式の出現が313年だと
各地域で特色がある庄内式が140年続いたにしては変化が小さい
河内 纒向 九州 北陸 東海 山陰 複数個所で見つかる庄内式の変化は全てが小さい
165.
ユーザー
ULcMX
庄内式は地域ごとに微妙に違う
庄内式が多く出る地域のほとんど変化が小さい
そして庄内式からの布留式へは小変更
作り方はほぼ同じ ただ布留式はさらに薄く軽い
166.
ユーザー
jQPIc
庄内式と、勝手に名付けられてしまった「東阿波型土器」。  かわいそう。   @阿波
167.
ユーザー
jQPIc
千葉県人:2015/02/22(日) 13:20:34.54 ID:.net
土器のことに関心があるようなので専門家の見解を少し書き込みます
東阿波式土器とは、厚さ2~3ミリと、他地域の土器と比べ極端に薄く材料の粘土には
細かくすり潰された阿波の青石(結晶片岩)が含まれている
桜井市埋蔵文化センター著「ヤマト王権はいかにして始まったか」(平成19年編の)の中で
「纏向では、近年阿波系の土器が調査が進むにつれ増加しておりその傾向が研究者の間で
脚光を浴びている」とされている
大阪府文化財センター技師の方が書かれた「大阪府出土の讃岐・阿波・播磨系土器」では
「淀川以北摂津東部の6遺跡で阿波系が17個、摂津中部11遺跡で阿波系16個、旧大和川
周辺沖積平野の41遺跡で阿波系208個、和泉市11遺跡で阿波系19個など」
阿波系土器が圧倒的に多いことが明かされている

ってさ  
補足。
その圧倒的に多い阿波系土器 以外の土器についても、「東阿波型土器」様式土器であることを付加えておく。   @阿波
168.
ユーザー
jQPIc
>旧説を覆すには、より強固な新説を構築して提示する以外の方法はない

「阿波」の強固な特異遺跡が照明してくれている。
説などという段階では最早ない。

まぁ、総合的に状況証拠を積み重ねると、「阿波」でしかない。
他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的特異遺跡群。   
記紀神話を物語る、記紀登場の神名古神社群。
魏志倭人伝の「行程」・「其山有丹」・「倭地の自然環境描写」等々。

そのうち、「阿波」に取って代わるよ。
旧説(畿内説や九州説)の御用学者やミーハー相手のマスコミが「阿波」に跪くのは、時間の問題。   @阿波
169.
ユーザー
vCpTq
>>168
阿波説とは沖縄説と同程度の信頼性しかない。
行程は合わないし、
大和朝廷と邪馬台国は全く別の組織。
と言うか、
九州の大和朝廷の勢力は邪馬台国の勢力と倭国大乱で戦った関係である。
九州大和朝廷の神功皇后(墓だけは畿内にある。しかし、あるのは墓だけ。他には畿内には一切何も無い。) が九州北岸の宗像で兵を集めて、邪馬台国を滅ぼしたのだ。
その後、外国との交渉権を手中にするために、大倭=大和=ダイワをヤマトと改名して、邪馬台国を名乗ったのである。(大はヤともヤマとも読めないし、和もマトともトとも読めない。)
邪馬台国が中国でも朝鮮でも有名になっていたから、そうする以外には交渉相手として認めてもらえなかったからである。

これは真実です。
阿波説ご愁傷様です。
170.
ユーザー
qqPDq
アイツラ向こうに戻ったのかw
171.
ユーザー
4liMR
纏向が大陸と交流してる時点で邪馬台国は纏向でしか有り得ないんだよな
壱岐と対馬を支配下に置いた勢力以外、大陸に渡れないんだから
172.
ユーザー
79Z0h
箸墓の卑弥呼墓説はやっぱり年代合わないのでしょ?
173.
ユーザー
yj5Cp
三大極悪集団
・医療
・警察
・宗教(学校教育)
174.
ユーザー
imcQH
やはとは平和な場所って意味
~のやはと、と無数にあった
卑弥呼は日尊か日命、音から尊、命を巫女と混同
天照大御神を祭神とする天照国照彦の系統、同一かも
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
倭、倭奴、伊都などはすべて糸島を中心とした糸を表す
北部九州を起源とする
北部九州からスタートし、畿内入りまでの饒速日尊の足跡を表す
魏志倭人伝や旧唐書など大陸と主に交流があったのはコチラ
卑弥弓呼とは彦尊であり、磐余彦尊であり、神武天皇
狗奴国とは日向国 九州南部
台与と同一人物である
饒速日尊の畿内入りを追いかけ、畿内入りする神武天皇
コレが邪馬台国、卑弥呼の正体
175.
ユーザー
2DrAa
ようやく機内厨死んだか
176.
ユーザー
tVmF7
畿内信者さん、でしたっけ?
非常に、しつこい
177.
ユーザー
3OX4z
舘野TR
中島挫折
松本TR
武田石井解雇
178.
ユーザー
RX81M
続きはここのようです 阿波よ 見つけられるかな
179.
ユーザー
bE6Fi
邪馬台国への行程探しは不弥国から南に水行して伊都国の南の女王国へ行くルートを探す簡単なお仕事です。

なお不弥国の位置は畿内説スレのテンプレの「不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む」と概ね同じである。

投馬国は遠賀川を南に水行した終点の田川からのちの豊国と言われた地域を考える、女王国への起点は近年壱岐の環濠集落と同様の環濠が見つかった唐原遺跡周辺からの山国川の水行を考える、唐原遺跡の対岸の中津平野は広大な天然の環濠集落でもあり弥生遺跡も多く考古学見地からも見逃してはいけない地域である

かつて遠賀川は古遠賀湾で奥の深い湾でした、神功皇后が遠賀川を遡って虫生津に上陸したとする伝承は、『筑前国続風土記』に 「神功皇后、新羅征伐の後、筑紫に帰還せり。蘆屋より船にて遠賀川を遡り、虫生津の浦に上陸す。そこより鞍手郡古門に至り、古物神社に輿を駐め、祭祀を行いたり。道筋は蘆屋より鞍手古門へ行、それより南の嶺を越えて…」とあり

更に「昔時淺木神社の周辺は岡湊よりの内海であった。日本武尊熊襲御征伐の帰途、臨幸神跡の霊地である。第三十七代齊明天皇が此の淺木山に御船を寄せ給う、この御代より鎮祭し奉る古社である。」
との淺木神社略記もある。それより古い時代の魏使が遠賀川を水行する事は不思議では無い

それから行程の里数が大きく水増しされている事を考えれば日数も水増しされていると考えられる、
理由は不弥国から女王国までは末盧国から奴国までの距離の2倍ほど(120キロ程)なので2ヶ月もかかるわけが無いからである

陳寿が会稽東冶の東に邪馬台国があるはずだと思ったのは邪馬台国までの距離が万2千里との記録を見て、中国が1万里四方の国という概念を考えての事だろう

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