千葉雅也72最終更新 2024/10/20 13:361.考える名無しさん前スレ千葉雅也67https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1622440863/千葉雅也68https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1628871327/千葉雅也69https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1636389367/千葉雅也70https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1640956373/千葉雅也71 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1649919731/出典 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/16594647012022/08/03 03:25:0156コメント欄へ移動すべて|最新の50件7.名無しさんVArc4いいね2023/09/17 02:53:048.名無しさんY6jtF1 彷徨する〈叙情〉最近、僕が気にかけている言葉のひとつに、〈叙情的〉というものがある。はっきりと定義できる言葉ではないが、敢えてその意味を説明するなら、「寂しいような、寂しくないような、うきうきするような、しないような、曖昧な心のふるえを誘う感じ」とでも言えるだろうか。さて、冒頭からいい加減な主観を云々しているとお叱りを受けるだろうから、さっそく弁明しておこう。僕の言う〈叙情的〉は、以上のように「積極的に」定義しようとすると、甚だ曖昧な、ほとんど何も言っていないに等しい、擬似的な説明に終始してしまう。けれども「消極的に」定義するならば、ある程度は正当な、議論するに足る批評概念として認められるかもしれない——ここで提案している〈叙情的〉とは、「寂しさ」でもなければ「嬉しさ」でもない、特定の感情形容詞には属さないような、心の動きを誘発するものである。特定できる内容を持たず、いつでも様々な感情形容詞たちの境界線上を漂い、周回し続けるようなエモーションの在り方。感情それ自体が放浪しているのだ。放浪の旅人が抱くような、いわゆる「孤独」という特定の感情形容詞とは区別せねばならない。ここでは感情それ自体の旅程に注目しているのであり、感情それ自体の「寄る辺なさ」が、〈叙情〉という現象の核である。〈叙情〉は寄る辺なく彷徨するのだ。とはいえ、このような弁明をしたところで、〈叙情的〉なる概念の手前勝手な主観性を拭い去ることはできないだろう。僕がのっけから危険な賭けに挑んでいるのは、もちろんそれ相応の理由があるからなのであって、「あの絵画は〈叙情的〉だ、このメロディーの〈叙情性〉を聴け」などと、僕個人の独善的な「感想」を押しつけようとしているのでは決してない。今日の芸術批評がかかえる袋小路を打破するための、ひとつの危うい試み、それが〈叙情〉問題という賭けである。〈叙情的〉、あるいは〈叙情〉という言葉はもちろん僕の造語ではない。手近な辞書を引いてみると、「叙情:直接相手の心に訴えるように表すこと」とある。この文面では明言されていないが、やはり〈叙情〉それ自体では、特定の感情形容詞を意味することはないようだ。ただ「直接相手の心に訴える」というだけのことで、その具体的な内容・性格は、時に応じて「寂しさ」とか「嬉しさ」とか色々なヴァリエーションがありうる、と解釈できるだろう。だが、僕が特に強調しているのは、〈叙情〉が様々な感情のヴァリエーションへと移ろっていく能力、つまり「分化可能性」そのもの、裏返して言えば、曖昧な「非決定性」の潜在能力そのものである。区別され、言語化される感情形容詞のヴァリエーションを可能態として保持している、首の座っていない〈叙情〉の幼児期、そこに問題提起を突きつけてみよう。2023/09/18 17:21:289.名無しさんIkRytいいね2023/09/23 07:25:3910.名無しさんXmvAFワロタ2023/09/24 07:45:2711.名無しさんuwuPfドラフトの書き方は、ひと通りではない。手打ちでざーっと書くなら、Ulyssesを使う。連ツイをWorkFlowyに溜めておいたやつが、そのままドラフトになることもある。音声入力もよく使う。iPhone版のWordでディクテーションをオンにし、ざーっとしゃべる。うまく行くと、1500字くらいの小咄ができる。iPhoneを片手に持って、部屋をぶらつきながらしゃべることもある。このスタイルは、昔テレビで観た志茂田景樹のやり方である。テープレコーダーを持ち、立って口述している志茂田景樹の横顔が、なんとも印象深くて、記憶に残っている。それで先日、仕上がり字数から逆算して、ドラフトの段階でどのくらい「量を出しておけばなんとかなる」のか、というのを考えた。小説の場合、文芸誌には枚数が表示してあるが、あの数え方がどういうものかは、実際に文芸誌で仕事をするようになって初めて知った。あれは「400字詰め原稿用紙の枚数」なのだが、今日ではワープロで書くわけで、その字数、それを僕は「純粋字数」と呼んでいるが、それとは異なっている。あれは、入稿されたデータを原稿用紙のフォーマットに流し込んだときの、空白部分まで含めての「ページ数=枚数」なのである。だから、文芸誌等で表示される枚数に400をかけた字数は、純粋字数より多くなる。2023/09/26 17:43:5512.名無しさん6HsPaいいね2023/10/28 13:58:3013.名無しさんFyaWI新しいフレームにそろそろ変えてみるかと、暇つぶし半分に眼鏡屋に行って計測したら、手元が見えにくくないですか、と指摘を受けた。正直ちょっとムッとした。度数を微調整するくらいのつもりだったので、「手元」という指摘は意外だった。それで、特別なレンズを足した状態でスマホの画面を見てみると、なるほどくっきりと見えるのである。つまり、くっきりと見えていなかったのである。レンズの下部の度が弱く、上へと度がグラデーションで強くなっていく中近レンズというもので新たな眼鏡をつくることになった。コンタクトレンズのことも考えなければならない。その眼鏡ができてから、コンタクトをつけて比較すると、近くの文字がなるほど滲んだようになっている。それでお店に行って相談すると、遠近両用か乱視用かどちらかしかないという。僕は乱視が強いので、今までと同じ乱視のレンズで、老眼鏡をかけるしかないという結論になった。そういうわけで、二週間ほどのうちに眼鏡屋とコンタクト屋を行き来し、ずいぶんと暇つぶしをすることになった。老眼鏡は、調べてみると英語ではリーディンググラスと言うらしく、その方が気持ちのいい名前だ。せっかくなので、フレームを選ぶのにわざとあれこれ迷ってみたりした。それはそれで楽しみであり、体や環境でメンテナンスしなければならないことが増えるのは一概に悪いことではない。30代のときには、最も効率的に仕事をしたい、心身の面倒を皆無にしたい、という意識が強かった。40代になると、何かと不調も出てきて、そう急いた生き方はできなくなってくる。以前は、物をあまり持たない方針が強かった。だが最近僕は、物を持つのも悪くないなと思うようになった。それは、言ってみれば自分自身のあちこちがお荷物になってきたからではないか。若いときの意識は高速で、体はあたかも透明であるかのようだった。加齢すると、より時間が意識されてくる。さっさと考えるよりも時間を置いて「考えを寝かせる」ようになり、体は不透明化してその重さを徐々に主張し始める。そんなふうに、いわば「自分自身の物質性」が前景化してきて、そうなると、あまり生活を効率化しなくてもいいように思うのである。若いときは何を見ても新鮮で、世界は刺激だらけで不安に満ちたものだったが、中年になり、「こんなものか」という見積りができてくると、かつてのような時を忘れる興奮はなかなか訪れなくなる。暇になる。いや、仕事は増えたのだが、時が停滞したような感じがじわっと、肌のシミのように生活に漂うようになる。だから人生はうまくできていて、そうなった段階で、身体や環境のメンテナンスをいろいろやらねばならなくなり、適度に気が紛れるわけだ。面倒ごとはなければいいと基本的には思うわけだが、人間はだんだん自分自身が面倒ごとになっていく。その面倒は意外に、面白いものではないか。2023/10/29 06:05:3814.名無しさんMqJt0千葉雅也さんとの出会いから30年...ついに小説家デビュー 宇都宮高卒の池谷さん 「ことばと新人賞」受賞、来年には単行本も 【宇都宮】宇都宮高出身の会社役員池谷和浩(いけたにかずひろ)さん(44)=さくら市出身、東京都内在住=の小説「フルトラッキング・プリンセサイザ」がこのほど、「第5回ことばと新人賞」を受賞した。今月発売の文芸誌「ことばと」に掲載され、来年には単行本も刊行となる。高校時代から挑戦を続けて30年、ついに実現したデビュー。池谷さんは「面白いと感じるものを書き続けていく」と意欲を語った。 出版社「書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)」(福岡市)が主催する文学賞で、今回は339点の応募があった。審査員は作家江國香織(えくにかおり)さんらが務めた。 受賞作は、映像やCGの専門家として制作プロダクションに所属する「うつヰ(い)」が主人公。多岐にわたるプロジェクトを手がける傍ら、仕事の後には複数の仮想空間を行き来できるテクノロジーを使い、仮想空間内の鉄道各駅にいる「王女」たちと交流するという物語だ。 池谷さんが本格的な執筆活動を始めたのは高校1年の時。1学年先輩で現在は立命館大教授、哲学者の千葉雅也(ちばまさや)さん(44)との出会いがきっかけだった。読書感想文の校内コンクールで、千葉さんの作品に「素晴らしい文章を書く人がいる」と感銘を受け、お薦めの本やアニメを教えてもらった。2023/11/11 06:40:3215.名無しさん8Sqejたとえば、トマトが真っ赤だ。というイメージというか文があるとする。非常に些細なものでいいので、自分にとって、ちょっと気になるイメージを適当に思い浮かべる練習をしてみてほしい。それを種として、合理的に物語になるように設計する、というふうには考えない。そのことが惹起する何かを、周囲にクラウドのように漂わせる。トマトが真っ赤だ。強い色。色の強さを、とりあえず言ってみた。ここでのポイントは、こんなことをいちいち言う必要があるの? ということにこだわってみることである。一般的には気にならないことを気にする、というのが文学のひとつの方法だ。で、「強い色。」からどうするか。強い色を見ると、僕などは、疲れを感じたりする。これも神経質な話ではある。だが、それがその先につながりそうだ。トマトが真っ赤だ。強い色。疲れる。強い色を見ていると疲れることがある。こんなふうに続けてみる。冗長に書いている。冗長にすることがポイント。なぜなら、「作品」とは、まず、「一定量があるもの」だからだ。こう言うと身も蓋もないが、「かさをかせぐ」ことが重要で、かさをかせごうとするうちに内容ができてくる。さて、上の流れをその後どうするか。「疲れる」というのが出てきたので、そこを新たな起点として、展開してみよう。トマトの話は、ここで、いきなりぶった切る。それでいいのである。改行する。 トマトが真っ赤だ。強い色。疲れる。強い色を見ていると疲れることがある。 先週、僕はずいぶん遠くの倉庫まで連れていかれ、その移動だけでも疲れたのだが、そこで行われた荷物整理の作業は、もうただ疲れさせるだけみたいな、いつ終わるのかわからない作業だった。これは、「疲れる」から連想したことである。ずっと昔に派遣のバイトをしたことがあり、なんとなくそれを思い出した。だが、具体的にリアルな記憶を書いているのではない。まあ、倉庫整理、なんか遠いところ……みたいな連想が、「疲れる」から出てきたので、「ほどほどの具体性&抽象性」で書いている。そして、愚痴っぽくすることで、長さをかせいでいる。2023/11/19 10:38:2516.名無しさんEWY5w1995年、雷都・宇都宮。高2の達也は東京に憧れ、広告業の父はアンプの製作に奮闘する。父の指示で黎明期のインターネットに初めて接続した達也は、ゲイのコミュニティを知り、おずおずと接触を試みる。轟く雷、アンプを流れる電流、身体から世界、宇宙へとつながってゆくエレクトリック。新境地を拓く待望の最新作!2023/11/25 11:30:2817.名無しさんhbgToいやはや、今年はいろいろ多かった。文学賞のノミネートが二つあり、小説は三部作のような形でひと区切り。そのあとは、芸術論がおもな仕事。途中、いろいろと仕事が入ったし、なにかと大変だった。関西に移ってから11年目のサバティカルということで、今後、どうしていくかなあと考えている年だが、年度末もそう遠くない。まあ、しかし、なるようになる、ということだなあ、と思う。このあたりで区切りを、と思ったわけだが、それも自分に対する管理意識であって、そうじゃなく、管理をゆるめる方向だなあ、と。小説に関しては、長編を予定していて、話はある程度構成したのだが、どうも、それでそのまま書くというのがあまり……うーん、どうもなあ、なんかなあ、と思っている。構成があって書くのか、即興で書くのかというので、小説に対する向き合い方が変わろうとしている感覚がある。実際には、構成通りにもならないし、純粋な即興もないので、両方なのだが。それに、一方で芸術論があって、同時進行で小説というのはやはり難しい。結果的に、一個一個になるだろうし、その過程で、なにか新たな姿勢ができてくるんじゃないかと思う。宇都宮高校文芸部からの依頼で、短編を書いた。それは、年明けに、文芸誌に掲載される予定。その短編は、かなり即興的に書いたもので、その流れで、『ことばと』に掲載された掌編を書いた。この二つに、今後の書き方の何かがある。そして今年、ツイッターがイーロン・マスクに買収されたわけだが、それがあってもなくても、ツイッターと生活の関係は考え直すタイミングだなあ、と思っている。やっぱり、ストレスが増えた。ネットが全体的に2ちゃんねる化した、というのもある。YouTubeも含めて。個人としてではなく、なんやかんや言っていい「キャラ」のように扱われることが増えた、というのもある。だから、いろんな反応を、個人として受け取る必要はないわけだが、それもなかなか難しい。僕は、ツイッターを「居場所」として使い続けてきた。しかし、SNSも含めて、この間、ネットのあり方が大きく変わった。OpenAIは、「検索」というネット使用のモデルに対して挑戦している。ChatGPTは、(サブスクに加入すれば)検索もしてくれるので、間違ったことも言うが、こちらに知識があってチェックできるなら、ちょっとしたアシスタントとして役に立つ。SNSはどうなるのだろう。結局、SNSによって、「全人類、広告屋」になったわけだ。システムを考えた人々は、それを見越していたのだろうか。僕は、若かったし、そんなふうには思っていなかった。当初のSNSは、居場所だった。リアルではそう会えない人とも、ヴァーチャルに茶の間を共有できるような場所だった。今でも僕はそういうつもりで使っているが、それも難しくなってきた。インターネットとは、リアルから一時離れられる場所だった。そのことを思い出す。90年代後半、25年前の話である。ネットはこれからどうなっていくのだろう。だがそれより、抽象的な問いとして、「居場所」のあり方がどうなっていくのか、ということの方が、たぶん、自分にとっては重要なのだと思う。インターネットとは、なにより、もうひとつの居場所だった。あるいは、空間の問題である。住まい、建築、アウトドア、旅行や宿泊。空間について考えたいのかもしれない。この間、書いてきた小説はどれも、空間の変化に関するものだったとも言えるだろう。2023/11/26 00:54:0818.名無しさんwShtl文章の修正は、大きな目的が優先。細かく書くと議論がややこしくなるなら、たんに、書かないという選択肢もある。万事について立場を明確にするのが誠実さなのではない。読者にいろんな立場があるだろうと想定される事柄に関しては、大まかにしておくことが誠実さであるとも言える。書いているうちに、一種の自動運動のように話が細かくなることもある。それは意志によってやっていることではなく、気がついたら夢中でゲームをやりこんでいる、みたいなことと同じなので、自分に対して退いた視点をとれるようにする。これをこんなに説明する必要があるだろうか、とクールに考えると、意外に、ま、いいか、ということだったりする。直すときには、Wordの校正機能を使っている。いったん固定された原稿に、上書きしているというのが視覚化されると(直しは赤字になる)、あまりやりすぎないで済む。場合によって、それを何段階かに分ける。たとえば、「キーワードの処理」だけに集中して校正機能で作業し、できたら、いったんそれで確定。ファイルを複製して、次の作業を行う。そのように、画像処理においてレイヤーを分けるようなアプローチをとる。ところでこの説明だが、「いったん固定したものに、赤字」というのは、まさしく出版における「校正」である。データを出版社に送ったら「初校」が出て、実際の校正が始まるわけだが、データ=原稿を自分でつくる過程においても、「校正的な発想」を取り入れるのがポイントだと思う。レイヤーを分けて推敲するというのは、「校正の意識で推敲する」ということである。昔は原稿用紙だったので、いったん書いたものに上書きするのが推敲だった。しかしパソコンになって、前のものを跡形もなく消し去って修正することができるようになった。この違いは大きい。デジタル環境でも、何らかの方法で「上書きとして推敲する」ようにした方が、制約が働くために、先に進みやすくなる。と、書いているうちに「校正論」になってきた。なお、通常、校正は二回だということも、基準にしている。初校、再校である。さらにもう一回、三校まで直すこともあるが、再校までが基本。ある作家は、校正をもっと何回も行うというのを聞いたことがあるが(つまり出版社にデータを送ってからの校正段階が、執筆の一部になっているのだろう)、それは例外的だと思う。2023/11/29 22:21:3319.名無しさん944Bnいいね2023/12/05 09:28:4520.名無しさんJh7Zkワロタ2023/12/06 06:53:0821.名無しさんRtCgd保守2023/12/12 06:10:5122.名無しさんYHpk9運用2023/12/18 09:47:3823.名無しさんguqiM今年は大学がいわゆるサバティカルで、授業等を免除されているが、前回のサバティカルは2017年で、そのときにはボストンに滞在した。その2017年の12月に、執筆に行き詰まりを感じ、もっと自由に書けるようになるために、書き方を振り返って改革するという試みをした。そのとき「書かないで書く」というフレーズを思いついた。自分がこだわっていた完成度の意識を捨てて、自分としては「書いているうちに入らない」ような雑な書き方で出てくるままに書いてしまい、あとで編集すればいい、という考え方である。それによって書けることの幅が大きく広がった。従来は排除していた雑念みたいなもの、ちょっとした記憶や知覚も文章の俎上に載せられるようになり、そうしてエッセイも論考もより多面的になり、さらには小説世界を作り出すことにつながった。哲学研究においても、枝葉が伸びるに任せるようにアイデアを展開する方法になってきて、様々な論点の潜在的な連関が見えるようになってきた。この5年で書いた小説は、ひとまとまりの三部作として捉えられると思う。それが成立した今年が2回目のサバティカルであり、そろそろまた書き方の意識をリセットする時期だろうと思っている。また改めて引き算をすることになるだろう。「書かないで書く」というフレーズはいまでも有効だと思うのだが、それをもう一段深く捉え直す必要があるのだと思う。うまく書かないでいいと2017年にいったん思って以来、生産性が上がったことで、またうまく書こうとしてしまっているはずだ。この間に堆積した、ある種の規範意識の水垢みたいなもの、カルシウムの層みたいなものを砕いて、柔らかさを取り戻す必要がある。もう一度ヘタになる必要がある。だが、うまくありたいという気持ちを否定するのも不自然である。規範意識から完全に解放されたいというのも、一種の囚われではないか。ヘタでもいいというのと、うまくありたいというのが自然にぶつかるに任せる。自然に書く、それが難しい。2023/12/21 10:15:4524.名無しさん0JfRy昨年もそうだったのかもしれないけれど、世の中が急速に変わっていく激動の一年で、そのなかで僕の心身も揉みに揉まれたという感じ。疲労を感じている年末。時間をとって、これからの仕事と生き方を考える年にしようと思っていたけれど、実際、「時間」ということが大きなテーマになった。それはやや不本意な形でというか、今年起きたことの多くは、タイムパフォーマンスを高める方向への変化だった。あるいは、より比喩的に言って、物事の是非を仕分けしようとする傾向。それは、別のことではないと思う。時間的幅をとってものを見ることがなくなっていく時代。それはデジタルテクノロジーによって後押しされていると思う。業務、倫理、アイデンティティ、すべてにわたる効率化。すぐに結果が出る、答えが決まる。時間をかけて細かな差異を捉え、奥行きのなかで行き来するような思考がだんだん失われていく。そのことがテクノロジーおよび資本制との関係において展開している。そうした意味において今年展開した諸々の変化は、時間という概念と結びついていた。要するに、時間をなしにする、かのような方向へと物事が進んでいるように見える。個人的には、もっとゆっくりとものを考えたかったところ、時間の圧縮、縮減に関わるような諸現象について考えざるをえないという状況だった。それでは、皆様、よいお年を。2023/12/31 08:49:3725.名無しさん2TVIPいいね2024/01/06 05:59:1726.名無しさんQsufYワロタ2024/01/21 14:20:2127.名無しさんQJch2何かを変換するのである。それが作品をつくるということだ。では変換とはどういうことだろうか。何かきっかけがある。元になるものがある。それが、というかその一部が、いやもっと細かく言えば、その元になるものに飛び飛びに分布するいくつかの点・線・面が、変換される。変換とは、抽象化が働くということだと思う。抽象化というのは、ある種の「形」を取り出すことである。様々なパラメータがある——感情であったり、イメージであったり、色彩であったり、そこになんとなく伴う音響的なものであったり、空気感、触覚的なものであったり。 それらが形成する様々な形。そこには、人間にとって切実な意味(利害とか、愛とか、正義とか)があるものもあれば、それに直接は結びつかないフリンジ的なものもある。そういうものの一部がとくに面白く感じられ、そこから雪だるま式に何か別のものが派生してくることもある。 そうなったら、その流れに任せて、出発点など忘れてしまってもかまわない。変換とは、おそらく「隠喩」だとも言える。ここでは隠喩という概念を、だいぶ広い意味で使おうとしている。シンプルに言えば、それは「何かを置き換えたもの」である。元のものを構成している諸関係をある程度引き継いで、そこに別の諸関係を付け加え、合成するようなものだ。曇り空を、アスファルトに喩えるとする。なんとなく僕にとって自然に思いつく表現だ。アスファルト、道路、そこに伴っているかつて経験した街で見聞きしたことや、その後どこかの店に入って話したこと、などが引き出されてくる。それは素材となるが、その一部がまた何かのパラメーターにおいて抽象化され、そこから枝葉が伸びてくる。枝葉の展開は、そのうちに、曇り空からもアスファルトからも遠くなるだろう。ある事柄を別の表現で表すという普通の意味の隠喩ではなく、ここでは、何か出発点に対し、そこから発生してくる構造全体のことを隠喩的と捉えている。隠喩的構造を成立させること、それが変換である。隠喩というと、「それは何を意味しているのか」、「その心は?」という謎解きが始まるのが通例だが、ここで重要なのは、ひとつの絡まった塊をつくることである。自立した構造としての隠喩。このことが最も明確に現れているのは、現代詩だと思う。非常に複雑な隠喩的表現を駆使する現代詩において、それが何を意味するかの答えは基本的にない。解釈は多様に可能だが、多様な解釈すら重要ではない。隠喩をそれ自体として、オブジェクトのように鑑賞することになる。形を、離陸させる。自立させる。それが変換である。2024/01/22 23:40:4828.名無しさんkb47N二段階になるのは『勉強の哲学』のときと同じで、あのときは半分ずつだったから、もっと大変だった。とにかく第2章の「アイロニー・ユーモア・享楽」の話に力が入っていて、そこから第3章にどうつなぐかも難しかったし、より実践的な第4章をどうするかも迷った。第4章は、著者としてはまだ粗いと思っていたが、意外と好評だったりする。その反応を見て、完成度に神経質になっていないほうが、届くのかもと思った。こだわりすぎると開放性が低くなる。人々を招き入れる空間が必要なのだと思う。『現代思想入門』も、「現代思想の読み方」という付録は、遅れて入稿した。メインの入稿が終わってから気分を切り換えて書けたので、ノリがいいと思う。さて、最終段階というのは、モードが変わる。それまで、仕上げの作業として、一日、二日に一章ずつと進めていたとして、そのペースのまま最後に至る、ということにはどうもならない。なんというか、最後の手前あたりで、気詰まりになって、そのまま普通に進むことができなくなる。革命が必要になる。急に鳴り物が鳴り出し、ピーヒャラピーヒャラいうなかで、「わじゃじゃじゃじゃー」みたいになる。意味不明で申し訳ないのだが。たいがい、何かを削ることになる。引き算をして、ラストを締める。そして本質的なことだけを、ある種、強調的に書くことになるのだが、その覚悟が要る。僕は小説でも序破急が好きなのだが、仕事の仕方自体がそうで、「破」が起きて「急」でガーッとラストを書くことになる。『現代思想入門』は有限性と生き方の話で終わるが、そこもそういう勢いで書いた。昔の話だが、ネットでさんざん茶化された「アンチ・エビデンス」のラストも同様である。で、今回はまだ最後の最後までは進んでいないが、その手前のところもワーッと終わすしかなかった。もうちょっと練り上げたい、つながりが十分かどうか確認したい……という執着は、きりがない。この日で入稿です、というのは先方が決めることで、それが決まったなら、こちらは自分を捨てるしかないというか、そのおかげで捨てることができるのだから、救済である。締め切りとはまるで阿弥陀様じゃないか、と言えば真宗の方々に怒られてしまうが、案外、それは仏教の本質に触れているのかもしれない。「もっとこうなんじゃないか、ああしたらいいのでは」といった迷い、すなわち我執を断ち切るのは、時間的限界であり、そこに仏性があるのではないか、と。仏性とは、時間性の問題ではないか、と。あるいは、精神分析ならば、そこに「去勢」という言葉を当てはめるだろう。時間の他者性が、我執から身体を引きずり出す——とでも言えようか。「なに悶々と考えてるんだ、ほら、外を見なさい。時間が経っている。先に歩きなさい」それが去勢である。森田正馬は、「迷いのなかの是非は是も非も非」とよく言ったそうだ。迷っている状態では、どんな結論でもダメである。しかし、結論を出すには普通迷うものではないのか。捉え方を変える必要がある。そもそも、結論を出そうとすること自体が迷いだ、ということなのだろう。じゃあ、結論を出さないで、どう歩めばいいというのか。ただ歩む、ということなのだろう。そのときに、考えるには考えるのだろう。だが、ともかくやるにはやる。結論を出してから、あるいは出そうとしてやるのではなく、やりながら考えて、考えが不十分に思われてもそれでもやるしかない。万全にすることはできない。未来はつねに不確定であり、時間がもたらす世界の新規性をあらかじめ手懐けておくことはできない。未来とは獣であり、時間とは偶然性の荒地だ。獣のように身体を進める。諦めと勇気が一致する。頭でっかちではダメだというのはそういうことなのだろう。と、話が盛り上がってしまったが、まあ、こんなふうに最終段階では盛り上がるものなのである。僕はそれを毎回楽しみにしている。仕事のやりがいである。2024/01/31 07:44:1929.名無しさんR5zMMいいね2024/02/03 13:58:2230.名無しさんoaGD2ワロタ2024/02/14 07:16:0231.名無しさん1bB23ワロタ2024/02/22 11:55:2932.名無しさんEXzsFChatGPTにおける、特徴量の非常に多くの次元とは、非人間的に超越論的なものである。この話は、ドゥルーズによるカント批判を想起させるな、と思った。カントは『 純粋理性批判』 において、人間は、感性と悟性と理性でできているとか、悟性にはこういうカテゴリーがあって、それによって感性的にインプットされたデータが仕分けされて認識の意味構造が成り立つとか……そういう言ってみれば人間認識のOSレベルの記述を行った。で、省略して言うと、ドゥルーズによれば、カントのその記述は純粋なものになっていない、というのである。カントは、経験を可能にするOSを記述したいわけだが、そのOSが経験世界のある種の引き写しになっていて、「OSレベルにはぜんぜん想像もつかない仕組みがあり、そこから「わかる」経験が出てくる」というような見方にはなっておらず、でもOSレベルがどうなってるかって、そうかもしれないでしょ、いわば、「経験的なわかりから推測してわかる部分」なんてないかもしれないよ? というわけである。僕は以前、この話がピンとこなかった。でも、機械学習のプロセスにおいて意味を量的に成り立たせる「括り」が学習過程で自動的に作り出され、しかもそれは本質的、普遍的なものではなく、おそらくデータを増減したり改変したりしたら括り方は変わるわけで、つまりそれはつねに作業仮説であって、いわば「生成変化する非意味的な作業仮説としての多数の括り」によって意味が生成される——おおよそこのようなことが、経験世界を引き写したものではない超越論的なもの、という話ではないかと思ったのである。ドゥルーズは、コンピュータを論じていたのではない。まず素朴には、おそらく人間の精神、それは脳の働きだとすると、それは、経験的にわかるものではない動的なカテゴリー編成によって作動しているのだろう、ということ。加えて、宇宙論的な含意もあるのではないかと思う。そもそも、世界を端的に自然科学で捉えることは、人間的意味理解とは関係ない、いわば「冷ややか」であるような数理として世界を捉えることなわけだが、しかしそこにまだ人間主義が残っている可能性もあるのかもしれない。自然法則に質的意味がないとしても、人はその合理性を理解しようとする。さらにそれ以前の、「合理的自然以前の自然」みたいなものがあるとしたら、どうか——と考えていくと、メイヤスーによる、自然法則全体におよぶサイコロの振り直し、という話に近づいていく。これは、自然法則の背後にある「世界生成プロセス」みたいな話になるのかもしれない(それが自然法則の恒常性とどう関係するのかは今は措くとするが)。人間が「世界認識」をどう組み立てるか。そのときに、背後にあるのは意味以前の生成プロセスである。とりあえずそうだとして、「世界自体の生成」を考えてみたくなる。Unreal Engineのようなゲームエンジンがある現代においては、とくに考えたくなる気がする。ゲーム世界を丸ごとプロンプトから作り出す実験も行われているが、その場合、もとになるのは世界の素材となるさまざまな断片の膨大な集積ということなのだろうか。「世界それ自体の無数のゴミ」みたいなものから、いろいろなことを考え直したい感じがしている。2024/02/23 18:38:3433.名無しさん2nXuW自然科学と社会科学が、思弁的な人間学を時代遅れにしたわけだ。しかし、時代が新たになり、いまあらためて、自然科学と社会科学を参照しながら、ある程度の思弁性で人間を考えるような書き方をもう一度作ることができるのではないかと思っている。その際、精神分析の現代的な捉え直しも試みることになる。という大きな視野において、「性の理論」と「ただの生活」はつながっているとも言える。別個の仕事になるのか、それとも書いているうちにひとつの何かになるかは、始めてみないとわからない。さて、それとは別系統で、長編小説という課題もあり、それは昨年、アイデアをいったんまとめて、休止状態にしている。小説の方も、人間をどう捉えるかという上の話と関係している。ただいずれにせよ、大学に復帰するというのは、時間の流れが変わるわけで、それにはエネルギーがかかるし、まずは無理せずに、ということだろう。新たな状況のなかで、何が先に来るのかはおのずと限定されると思う。意識的に予想しても、未来の決定はわからない。想像できるよりずっと多く複雑な関係性のなかで、仕事の展開は限定されてくる。2024/02/27 17:36:1234.名無しさんiCQFBいいね2024/03/06 09:13:5435.名無しさん2deMV哲学的あるいは人文的な考察を書くにしても、まず思いつくことを具体的なイメージ込みで、抽象理論だけに限定しようとせずに、実感を伴った言葉でどんどん書いてしまう。その際に十分な説明をしようとがんばらなくてよい。先ほど言ったように、第1節から第4節に飛ぶようなやり方でどんどん書いてしまう。むろん、後から論理的な整序が必要であり、その段階では大きく書き換えることになるかもしれないが、まずraw dataを出してしまう。「言いたいことオリエンテッド」で書く。その上で、さらに考察を深めた結果として、最初に出てきたことは部分的にしか残らないかもしれないし、全部放棄することになるかもしれない。ジャンルに限らず、こうした書き出しは一挙にやってしまうのがいいと思う。1時間以内、あるいは30分前後。ざっと書き出したら、その日の仕事はもうそれでOKだとする。それ以上やらなくてよい。後日さらに続きを書こうとしなくてよい。この最初のレイヤーは、最初に書き出せただけの量で、それで仮固定。そこから、次のレイヤーに行く。簡単な方法としては、そのように書き出したものをそのままエディタに持っていき、それを膨らませるようにして、ブロックの間に書き込みをしていく。そのときに、最初に書き出したものの言葉尻を整えるようなことは控える。とにかく膨らませる。説明が前に必要だなとか、ここに伏線を置くおくべきだなとか思っても、そういう構築的意識よりも連想的感覚の方を優先してまず膨らませる。最初に書いた第1段階の分量があって、膨らませて生じる第2段階の分量がある。まだこの段階でも整理は行わない。おそらく次の第3段階ぐらいから整理する発想が出てくる。補足説明を加え、あるいは係り結びみたいな感じで、後に来る補足説明に対し、前に置いておくべきことを差し挟んだりする。ここから先は、まあ普通の意味でちゃんとした文章を仕上げるという意識になっていくだろう。最初にごろっと出していく直観的な断片は、非常に栄養豊富なものであって、そこには、後からの分析では自分でも捉えられないような思考の絡み合いがある。最終的に論理やプロットを調整するわけだが、それによって最初にあった栄養の複雑さを損じないように注意しなければならない。だから、整理しすぎてはいけない。とはいえ、整理はする。その塩梅である。2024/03/19 09:35:4136.名無しさんxPH8Yいいね2024/03/20 12:46:3737.名無しさんRScVE少しばかり、いま思うことを書く。ほんの少し、仕事に戻っていくために体を動かすこととして。駆けつけて、その日に亡くなってから、すぐに様々な手続きが始まった。その夜は、母のそばには妹と叔母がいてくれて、僕は従弟とホテルに泊まった。翌日、担当者が家に来て、僕が中心となって段取りを決めた。よく言われることだが、急に慌ただしくなるその状況が、喪失に対する治療の始まりである。その夜は、実家に泊まった。葬儀が終わり、その日のうちに大阪に帰るつもりだったが、まず実家に戻り、一応の「ほっと一息」の状態となって、母と叔母と話しているうちに、話す楽しさも湧いてきて、もう一泊することにした。その流れで、今後の手続きについて相談することにもなったから、やはりそうしてよかったと思う。大阪に帰ってから諸々の問い合わせなどを行っていたが、思っている以上に疲労しているはずで、こういうときには妙にテンションが上がって、やたらテキパキと事を進めたがる意識が出てるな、と思う。というのは、不慮の状況に巻き込まれた後で、対処をやってのける「主体性」を立てることで、偶然性への埋め合わせをしたいのだと思う。まあでも、いくつか決めるべきことを決め、一週間目の今日になって、あらためて、素朴な悲しみがまた湧いてきた。そういう気持ちになり、気負っていた体がいくらかほぐれた。あの土曜日に組み立てるはずだったプリンターラックを、組み立てることにした。ネジ、ワッシャー、レンチ。スプリングワッシャーを「間に噛ませる」ことの意味を、ずっと昔に教わったことを思い出す。そして、ネジを締めるときには、一個ずつしっかり締めてはいけない。軽く、緩く締めておいて、全体が組み上がってきてから、力が分散するように締めていき、最後に全部を締める。そのことを思い出した。数年前、文章を書くときにも同じだなと思った。あるいは生活でもそうだ。一個一個のことをしっかりやるのがベストなのではない。緩く締めておいて、時間が経ってからバランスが調整されていく。実際、ラックの説明書にも、緩く締めて、最後に全部締めると書いてあった。そうなんだよなあ、と思う。2024/03/30 18:28:4638.名無しさんESBrkいいね2024/04/07 12:59:1039.名無しさん5pDkl最近、昔書いた授業のレポートを読み返していたのだが、大学3年くらいまで僕は、批評とは何かを考えようとしていた。批評について原理的に考えること、それを「メタ批評論」と呼んでいた。そのレポートは力がこもったものだったが、当時はどの先生も放任主義だったので、それを研究に育てていくサポートは得られなかった。結果として、哲学の訓練をすることになり、ジル・ドゥルーズが専門になった。そうして大学院の年月を過ごした後、30歳くらいに、あらためて芸術作品の批評を書くようになった。そのときには、批評とは何かという当初の問いは、ある程度解決していた。というか、解消されていた。ここで言う批評とは、学術論文とは違って、証拠を固めるよりも書き手の思考を優先し、何かの対象について主体的に解釈を示す、といったものである。そうしたタイプの文章は、高校時代に、読書感想文という課題で書くようになっており、たとえば、その頃私淑していた稲垣足穂について、自分なりにその魅力を論じていた。けれども同時に、他人が作ったものについて、ああだこうだと批評するのは勝手なことであって、そんな権利などあるのか、という疑問が大きくなっていった。それで大学に入ってから、客観性が必要な学術研究に対し、批評というジャンルがどのような立ち位置にあるのかを考えようとした。しかし、それが専門にはならなかった。そうではなく、客観性の保証を与えてくれるように思えた哲学の方へと向かった。だが、過去の哲学者の文章について、何か新しいことを言うのが研究であり、つまり自分なりに解釈を出すということで、最終的にはそれも自己責任だ、ということを受け入れるしかなくなる。先行研究を考慮した上で、という条件はつくが、最後の最後では、学術研究というのも、つまるところ批評的判断に帰着するのであった。そして30歳になり、芸術なり文芸なりについて批評を書くことを、なんとなく自分に許してしまうようになった。おそらく、学術論文における批評的判断の引き受けによって、批評というのは権利の問題じゃないと、いわば体でわかったのだと思う。先に「批評的判断」という言い方をしたが、結局これは、判断ということ一般の問題である。判断する責任。それを、若い頃には引き受けきれなかったのだと思う。かつて批評の権利を問題にしたのは、若かったからだ。何についてであれ、判断は、最終的には自分で引き受けなければならないということを、まだ十分に飲み込めなかったのだと思う。20代を通して、研究だけでなく、様々な場面での判断を積み重ねることで、判断とはやむを得ない暫定的なものであるということを、いつの間にか受け入れていた。そして、より広く言って、問題への対処というのは必ずしも、理を通して解決することではないということも、徐々にわかるようになっていく。問題は、解決ではなく、解消されることがある。2024/04/19 14:36:2240.名無しさん7utgg今回、芸術論を『センスの哲学』と題するにあたって、また何々の哲学かあ、と自分でも思ったのだが、それでよしとした。『勉強の哲学』の際にも、何々の哲学という手垢のついたタイトルでいいのか迷ったのだった。 まず「勉強論」として構想されていた本だが、書いているうちにかなり構造的な話になり、段階を経て変身するという精神現象学的な展開(東洋的でもあり、キルケゴール的でもあるような) や、継続的に興味を持っていた精神分析と自閉症の関係から見た言語論なども組み込まれることになって、実践的な本であると同時に、これならば理論的な著作として自負していいだろうと思った。書いていくうちに結果的にそうなり、自分なりの哲学書のあり方を模索したと言えるのだろう。『現代思想入門』は、人物を紹介するものでありながら、最終的に、フランス現代思想に対するひとつの見方を提示している。有限性と偶然性というキーワードによってそれが語られるわけだが、もちろん別の解釈もできるだろうし、またあの本で扱ったのは、「ある時期に現代と呼ばれた範囲」であって、過去についての本である。その過去の言説が、現在そして未来にも意義を持つものだという提示の仕方も、一種の思想史的視点だと言える。もっとリアルタイムで、いまフランスで展開されていることを対象とする研究は、もちろんそれとは別に必要である。『センスの哲学』が出るときに、出版社のやりとりでいろいろが流れで決まっていくなかで、「哲学三部作」という言い方がされ、それは僕の発案ではなく、何々三部作と哲学について言うなら、もうちょっと何か考えたかったなという気持ちもあったが、流れに任せることになった。2024/04/25 20:04:0541.名無しさんDy5y4ちょっと書いてみる練習。思いつくように書く。飾りは、出てくるなら書くが、飾ろうとしなくてよい。たとえば、「灰色」というイメージから書いてみる。 この町は、全体的に灰色だ。というのは、どこでもそうかもしれない。どこの町でもコンクリートの灰色ばかり目に入る。そういうところに引っ越してきたから、引っ越してきた気がしない。奈津子は、この町で、印刷工場で働き始めた。 紙ばっかり見ているから、町と区別がつかない。工場の中にも住宅街が続いているみたいだし、住宅街も全部、これから本になろうとする紙の束みたいだ。 だから、奈津子は、そこに挟まれた「しおり」になったような気がしていた。というふうにやってみて、この連想的な展開にも、いろいろあるな、と思う。連想に関して言えば、ともかく、言い訳がましくなく、ただ書けば、フィクションとして成立する。それは文章の場数を踏むことで徐々にできるようになったと思うが、生成AIによって後押しされた感じもある。場数を踏むというのは、「文章仕事の任意性を高めること」につながる。たくさん書くうちに、この一本に必然性を賭ける、みたいではなくなる。チャンスオペレーション的な面が出てくるし、それによってむしろ、動きがより自由になって、言うべきことが書けるようにもなってくる。 コンビニのパン売り場でクリームパンを見ていて、賞味期限がすぐ翌日なので、これじゃ困るなと思って、その奥にあるやつを取って見ると、数日先だった。手前から取ってくださいと、店のどこかに張り紙があったと思う。でも明日までじゃ困るから、ちょっと気まずいけれど、奥のやつを取ってレジに行った。 無人レジもあって、クリームパンだけなら無人でもいいと思う。だからそれもちょっと気まずいと思ったが、やっぱり人に会計してもらうことにした。これは、細かいことを書いてみるというパターン。この先で、直接関係がない展開になるとして、それがここで出ているいくつかのテーマ、「期限」、「前後」、「無人/有人」とかに関わってきたり、などが考えられる。2024/04/29 11:04:2542.名無しさんq6H4Wいいね2024/05/16 08:53:4743.名無しさんoEewlここで言う批評とは、学術論文とは違って、証拠を固めるよりも書き手の思考を優先し、何かの対象について主体的に解釈を示す、といったものである。そうしたタイプの文章は、高校時代に、読書感想文という課題で書くようになっており、たとえば、その頃私淑していた稲垣足穂について、自分なりにその魅力を論じていた。けれども同時に、他人が作ったものについて、ああだこうだと批評するのは勝手なことであって、そんな権利などあるのか、という疑問が大きくなっていった。それで大学に入ってから、客観性が必要な学術研究に対し、批評というジャンルがどのような立ち位置にあるのかを考えようとした。しかし、それが専門にはならなかった。そうではなく、客観性の保証を与えてくれるように思えた哲学の方へと向かった。だが、過去の哲学者の文章について、何か新しいことを言うのが研究であり、つまり自分なりに解釈を出すということで、最終的にはそれも自己責任だ、ということを受け入れるしかなくなる。先行研究を考慮した上で、という条件はつくが、最後の最後では、学術研究というのも、つまるところ批評的判断に帰着するのであった。そして30歳になり、芸術なり文芸なりについて批評を書くことを、なんとなく自分に許してしまうようになった。おそらく、学術論文における批評的判断の引き受けによって、批評というのは権利の問題じゃないと、いわば体でわかったのだと思う。先に「批評的判断」という言い方をしたが、結局これは、判断ということ一般の問題である。判断する責任。それを、若い頃には引き受けきれなかったのだと思う。かつて批評の権利を問題にしたのは、若かったからだ。何についてであれ、判断は、最終的には自分で引き受けなければならないということを、まだ十分に飲み込めなかったのだと思う。20代を通して、研究だけでなく、様々な場面での判断を積み重ねることで、判断とはやむを得ない暫定的なものであるということを、いつの間にか受け入れていた。そして、より広く言って、問題への対処というのは必ずしも、理を通して解決することではないということも、徐々にわかるようになっていく。問題は、解決ではなく、解消されることがある。2024/05/17 06:46:5144.名無しさん8I58f洗面台の脇に、先日コンビニで買ったティッシュペーパーの箱がある。五つくらい積み上がっている。というか、標準のセットがたぶん五つである。四つでは変だ。明らかに変だと思うので、理由を考えてみたい。2+2でパキッと割れてしまう感じがおかしいのだと思う。奇数だとそうはならない。二つに割れないということは、ちゃんとワンセットになってる感じがする。三つでは足りない。だとすると、五つだということになる。そこまで考えて、「よくできてるよなあ」 と、僕は洗面台の鏡を見ながらつい口に出してしまった。「五つ以外、ありえないもんな」 鏡を見たのは一瞬で、自分の顔だ、と思ってそれだけだった。トイレに行ってから手を洗って、その際に、前に鏡があるのだから見ることになる。 そして視線を落とすと、五つ積み上がっているティッシュの箱は、白っぽい建物に見えた。五つだから、五階建てである。 アパートみたいな建物が足元にあり、それを見下ろしている。 僕はいま、街の上空にぽっかりと浮かんでいて、白いアパートを見下ろしている。どこかにあるはずの体から抜けて、湯気のように昇っていって、上空に浮かぶ魂となっている。そんな、ふわふわするような感じがした。2024/06/10 11:10:0545.名無しさんgFR5w2023年はAI元年として記憶されるだろう、と僕は何度かエッセイなどで書いた。ChatGPTが世を騒がし始めたのは、2023年の3月である。春に、まさしく春らしく、物事が変わり始めたというのは、コロナ禍のスタートを思い起こさせる。それは2020年の2月のことだった。緊急事態宣言が出されたのは4月に入ってすぐ。前年に元号が令和となって、その新たな時代区分が本格始動するとでも言えるだろう新年度は、街から人がいなくなる年だった。コロナによって世の中が変わるときに何が動いたかと言えば、テクノロジーだった。と、ここではその角度から振り返ってみたい。ソーシャルディスタンスというかけ声によって、対面接触なしのサービスの提供が追求され、テレコミュニケーションが以前の制約を振り切って、一線を越えて(技術的には以前でもできないことはなかったが)さらに追求された。絞って言うなら、コロナ以前以後とは、オンライン会議以前以後だと思う。それは、世界の無人化の新たな段階だった。それから3年。感染者数の増減を確認することは減ったわけだが(新たな世界の状態を受け入れるしかなくなったわけで)、それと同時にAIの革命が始まった。この「革命」というのはレトリックなのだろうか。わからない。革命というのもずいぶん古い概念であって、現下進行している変化の「変化性」を捉える言葉を我々はまだ手にしていないのかもしれない。今さらではあるが、雑ぱくに言って、2020年代に入り、もはや旧世界ではないという決定的な展開が起きたと感じている。ウクライナ戦争がコロナ禍の最中、2022年に口火を切られ、世界史のパワーバランスも急激に様相を変え始めた。トランプという信じられない大統領が誕生したあたりから、様々な領域で「一線を越える」事象が目立ち始めたと思うが(その時期、2017-18年に僕はボストンに行き、戻ってから『アメリカ紀行』を書いた)、政治上の新たな脱-均衡、テクノロジーによる資本主義のさらなるブースト、それに対抗する人新世言説、日々細分化が進む倫理のナラティブとそれによる歴史の再-意味づけあるいは脱-意味づけ……といったことの絡み合いは、総体として「革命的」何かが多面的に動き始めたかのように感じている。ともかく、技術の話だけに限定してみる。ごく唯物論的に。2024/06/16 20:36:3646.名無しさん54qT6いいね2024/07/07 12:39:5247.名無しさんmzT14AIが便利だとかまだ不十分だとか問題があるといったことより、最近、自分自身をAI的に捉える感覚が芽生えていて、それを興味深く思っている。現在、AIなるものがやっていることは、確率の計算である。文章や画像の大規模なデータから特徴を学習した数値の束があり、それに対してプロンプトと呼ばれる言葉での指示を与える。すると、膨大なデータ=過去の事例のなかで、プロンプトに含まれる単語と高確率で近い関係にあるものを呼び出す、という計算を繰り返して生成物ができていく。きっかけとなる入力に「近い」ものを並べていくと、それらしい出力になるというわけだ。これは、本当の思考ではないのだろうか。だが、人間にそれ以上の、つまり過去から確率的に近いものを呼び出す以上の思考や意味理解があるのだろうか。哲学の歴史においては、人間には思考の抽象的な枠組みが備わっているのか、それとも、経験から得られたデータの離合集散で動いているだけなのか、という対立があった。前者が、カントに代表される大陸合理論であり、後者はヒュームに代表されるイギリス経験論である。大量のデータを計算するチップは徐々に高速化されていった。計算手法の洗練も研究された。結果として、技術的力業によって、経験論的な物量作戦で行けるじゃないかということになったのが今日である。生身の人間も大量のデータを学習し、見聞きしたものをそのままではなく特徴抽出して記憶している。だが人間は生き物であり、生きる欲望によってデータからの生成が方向づけられる。コンピュータでの生成ならば、どの結果も対等だ。その結果のひとつを選ぶのは、人間の生きる欲望である。それでも、AIを使ってみることを通して僕は、自分から生成される諸々をより確率的に、いわば「脱運命化」して捉えるようになった。何かを考え始めたり、行動の準備をするときには、頭の中で、言葉になるようなならないような「始動状態」が生じる。それを今、プロンプトのように感じる。自分に対してプロンプトを与えて、それから自分が何を生成するかという二段階の感覚が少しある。その良し悪しはよくわからない。どちらもある気がする。何か考え始めて、その後に続く連想や行動を、以前より「そうじゃなくてもいい」と思えるようになった。具体的には、自分を責めるようなネガティブなことが思いつき、連鎖的に悪い方向へ考えたりしてしまうことがある。それは、プロンプトに対する生成が悪循環になっただけだと思えば、再度生成して結果を相対化したり、プロンプトを変更してもいいわけだ。自分自身の意識において、確率的任意性を少し上げる。そうするとラクになる面がある。だが人間には、その生成結果を引き受けること、責任を持つことが求められる。とすれば、人の営みにおける確率と責任の関係はどうなっているのか、という問題が浮上してくる。2024/07/17 09:13:0448.名無しさんDYGv47月の後半は、学位論文の構想発表会というものがある。学生のプレゼンと質疑応答を一日かけて行う。それが二日か三日あって、そのときには京都に泊まる。学生が特定のテーマに狙いを定め、調べ、考察し、論文を書く。それは以前と同じことをしているように見えるが、当然ある時期から調べ物にはネット検索が入っているし、電子化された資料を扱うことも増えている。そして今後は、AIによる生成や分析が部分的に入ってくることになるだろう。状況を見ていて思うのだが、学習の元データと生成モデルは概念的に区別されるわけで、あくまでも抽象化された数値列としてのモデルを自由に運用できるようにしていきたいというのが、おそらくもう人類史的な意思なのではないかという流れを感じる。著作物とは何なのかということ自体が揺れている。著作権を固め確保するというのは近代化において重要な一面であり、それが近代的主体性とも結びついていたわけだが。2024/07/27 12:49:5049.名無しさんcxTtVある時期から、Scrivenerのバージョン3で、垂直レイアウトという機能が搭載された。これはエディタを縦書きにするモードで、歓迎の声が聞かれたが、活用しているという話はあまり見ない。機能が追加された当初、僕は歓喜して試してみたが、ちょっと奇妙な挙動をするので使わなくなった。表示 > テキスト編集 > 垂直レイアウトを使用このようにメニューの深いところにあるのだが、こうして垂直レイアウトにすると、エディタでも、フォーカス状態のいわゆる構成モードでも、全部が縦書きになる。画面分割して、片方だけを横書きにするといったことはできない。(リサーチのところだけを横書きできたらいいなと思うのだが、それもできない。)Scrivenerでは、ドキュメントという単位をつないで大きな文章を構成していくのだが、ひとつのドキュメントAを選択し、縦書き表示して、その中で作業をして、別のドキュメントBをクリックしてそこに移り、そしてまたドキュメントAをクリックして戻るとする。そうすると、横書きのときならば、ドキュメントAにおいて最後に編集していた位置がセーブされていて、そこが表示されるのだが、なぜか垂直レイアウトだと、そのドキュメントの一番後ろ、最終行を含む画面へと強制的に飛ばされてしまう。これが問題で、これでは使えないと僕は判断したのだった。この件について調べてみたが、情報は少ない。おそらくバグだと思われる。だいぶ前に開発元に(もちろん英語で)事情を説明したが、今に至るまで改善されていない。もし、この記事を読んで、同様の報告を上げようとされる方がいましたら、よろしくお願いします。しかし、Scrivenerはやはり便利で、切り貼りしたり、メモを途中に挟んだりなど、構造を考えながら作業する環境として自由度が高いので、それが縦書きでできたらやはりいいなと思い、ちょっと自分の姿勢を変えてみることにした。2024/07/28 09:24:2650.名無しさんEtRQ8いいね2024/08/02 09:48:5051.名無しさんjlV8L水がこぼれて平らになっている。水たまりになっている。灰色の床に、鏡のように広がっている。コンクリートの床だと思う。そこに光が映って、真っ白に輝いて見える。空がそこに映っている。だんだんと、その輝きが生々しく感じられてくる。本当にその場面を見たことがあるみたいに。 昨日、駅の改札に人がたくさんいた。それは、実際に経験したことである。 それはそうなのだが、その駅に行ったのは、昨日が始めてだった。 だいたい岡山県に降り立つのも初めてで、そのYという駅は初めて聞く名前で、関東人の自分にとって、いくらか西日本を感じさせる漢字の並びだった。大阪や京都に来ると、有名な場所はともかく、マイナーな「地元の地名」には、東の世界では漢字をこう並べることはないな、と思うものがある。 小さな駅だが、意外にたくさんの人が降りた。 二つのものの組み合わせには、ああわかるなというものと、あれっというものがある。まあ、何であれ、見方次第でどっちとも言えるのかもしれないが。 そんなことを電車の中で思っていて、ドアが開いた瞬間、その思念はどこかへ消えたようだった。改札を人の群れが攻め込むようにどんどん通過し、そこに自分も巻き込まれ、汗の臭いを不快に思ったりしながら向こう側に抜けた。それから壁際へと逃げて、立ち止まってケータイを見ながら全員が通過するまで待っていた。 それで足元を見ると、水たまりがあった。何か地図のような形をしている。2024/08/24 17:07:5552.名無しさんDu13U辞書データ、ランダム選択というだけなので、「推論」みたいなことは行っていない。マルコフ連鎖も使っていない。ただのくじ引きである。それでも、このアウトプットには、なにか触発されるものがあった。この実験をやってみることで、「自分の意志によって物語をひねり出さなければならないという義務感」が薄らいだと思う。なお、現在であれば、こういうプログラムを作りたいとChatGPTにオーダーしたら、辞書データの準備方法も、メインのプログラムも、適切に教えてくれると思う。2024/08/31 09:11:0053.名無しさん5OzrY関西の味というものがわかってきた。などと、どれほど長く住んでも栃木出身の僕が言ってはいけない気もするが、一応10年以上住んで、多少の感覚を持つようになった。というより逆に、そう書き始めてみて思うのだが、関東の味とは何たるかをこの間忘れていっているのかもしれない。と思うと、少しヒヤッとさせられるものがある。かつて、ラーメンはとにかく東京なのだと、大阪のラーメンへの不満をエッセイとして書いたことがある。大阪の方々には申し訳ないが、僕の感覚からして、大阪のラーメンは甘すぎると当時思った。一方、京都のラーメンはそうではなく、その違いも興味深い。東京あるいは関東は塩味がきついと言われるわけだが、まさしく塩味の芸術として東京のソウルフードたる醤油ラーメンはある。それは直線的で硬質。ラーメンのしょっぱさは、殺伐たる相対(あいたい)を求めるものでなければならない。以前、大阪のカレーの店に、甘くておいしいと書かれてあり、甘いことがおいしさになるという価値観を当然視していることに衝撃を受けた。関西の味は、直接的塩気よりも出汁にあると言われたりするが、それでも意外と塩分が強いとも聞くし、ここでその実際を詮索したいわけではないが、ある程度暮らしてみて、これが関西なのかという「味の広がり」を感じるようになった。和食はやはり関西が本場なのだろう。季節の多様な食材が繊細に取り扱われる小料理を比較的リーズナブルに提供する店は、関西の方がずっと多いと思う。関東的しょっぱさに比べて、関西の味には「空間」があると感じる。それは洋食でもそうで、京都では、和はもちろんとして、加えてイタリア料理の豊かさも知ったが、そこにもなにか一皿の存在に不可思議な広がりがあると感じる。空間を食べる。関東の方は、一皿の料理に求心性が強いとでも言えるのだろうか。特徴がはっきりしているといった言い方もできそうだが、他方、関西の料理は、一個のオブジェクトとして完結しているというより、その周囲へと広がり出していく。あるいは、空気を伴っている。久しぶりに仕事で東京に行って、西に戻ってきて食事をすると、さすがに10年も住んでいるから安心を覚えるようになった。だが、東京のものを食べれば、かつての日常が思い出される。居所がないような感じ。まあ、どちらでもよくなったと気楽に思えばいいのかもしれない。東京とは、誰もがパチンコ玉のように匿名の粒々になり、無関係の空隙をすれ違っていく茫漠たる空間だ。その寒々しさにこそ東京の美学があり、哀楽がある。僕はそれを愛した。だが、気づいたらその身体感覚も薄らいできている。東京の食は、個人が個にしがみついて生き延びようとする切実さの味なのかもしれない。やはり東京とはそういう切迫感の場所だと思う。大げさな話だが、関西の味に空間性を見出すとき、僕は、個を我執から解放するようなものを感じているのだろうか。2024/09/15 09:41:2454.名無しさん8z5Jy次は小説の書き出しです。結果を出す男——は、出す前から出ている。朝起きて、部屋をよろよろと歩くときもそうだし、それからションベンをして手を洗って手を拭いたとき、その拭き終わりからしてそうだ。打ち合わせで喫茶店に来た彼が、僕の前に座ろうと体を席に沈めるときに、すでに結果は出ていた。この続きを、この淡々とした文体を真似ながら、ややカフカ的とも言えるナンセンスな展開で書いてみてください。意味や目的は明確じゃなくていいです。2024/09/27 11:26:4855.名無しさんNPtP2服:黒・ピンク半袖T(クロムハーツ)、黒カモフラのアームカバー(自重堂)、黒の手甲(アンダーアーマー)、ネックウォーマーとして黒のバラクラバ(バートル)、黒のイージーパンツ(レギュレーション・ヨージヤマモト)、黒のウインドブレーカー(ノースフェイス)、白のエアフォース12024/10/20 12:47:2056.名無しさんSOq7V最近やってみてる服の拡張?の一環なのだけれど、後ほどこれについても含めて、いま服の合わせをどう考えているかについて書いてみたいと思っています。2024/10/20 13:36:59
千葉雅也67
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1622440863/
千葉雅也68
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1628871327/
千葉雅也69
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1636389367/
千葉雅也70
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1640956373/
千葉雅也71
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1649919731/
最近、僕が気にかけている言葉のひとつに、〈叙情的〉というものがある。はっきりと定義できる言葉ではないが、敢えてその意味を説明するなら、「寂しいような、寂しくないような、うきうきするような、しないような、曖昧な心のふるえを誘う感じ」とでも言えるだろうか。さて、冒頭からいい加減な主観を云々しているとお叱りを受けるだろうから、さっそく弁明しておこう。僕の言う〈叙情的〉は、以上のように「積極的に」定義しようとすると、甚だ曖昧な、ほとんど何も言っていないに等しい、擬似的な説明に終始してしまう。けれども「消極的に」定義するならば、ある程度は正当な、議論するに足る批評概念として認められるかもしれない——ここで提案している〈叙情的〉とは、「寂しさ」でもなければ「嬉しさ」でもない、特定の感情形容詞には属さないような、心の動きを誘発するものである。特定できる内容を持たず、いつでも様々な感情形容詞たちの境界線上を漂い、周回し続けるようなエモーションの在り方。感情それ自体が放浪しているのだ。放浪の旅人が抱くような、いわゆる「孤独」という特定の感情形容詞とは区別せねばならない。ここでは感情それ自体の旅程に注目しているのであり、感情それ自体の「寄る辺なさ」が、〈叙情〉という現象の核である。〈叙情〉は寄る辺なく彷徨するのだ。
とはいえ、このような弁明をしたところで、〈叙情的〉なる概念の手前勝手な主観性を拭い去ることはできないだろう。僕がのっけから危険な賭けに挑んでいるのは、もちろんそれ相応の理由があるからなのであって、「あの絵画は〈叙情的〉だ、このメロディーの〈叙情性〉を聴け」などと、僕個人の独善的な「感想」を押しつけようとしているのでは決してない。今日の芸術批評がかかえる袋小路を打破するための、ひとつの危うい試み、それが〈叙情〉問題という賭けである。
〈叙情的〉、あるいは〈叙情〉という言葉はもちろん僕の造語ではない。手近な辞書を引いてみると、「叙情:直接相手の心に訴えるように表すこと」とある。この文面では明言されていないが、やはり〈叙情〉それ自体では、特定の感情形容詞を意味することはないようだ。ただ「直接相手の心に訴える」というだけのことで、その具体的な内容・性格は、時に応じて「寂しさ」とか「嬉しさ」とか色々なヴァリエーションがありうる、と解釈できるだろう。だが、僕が特に強調しているのは、〈叙情〉が様々な感情のヴァリエーションへと移ろっていく能力、つまり「分化可能性」そのもの、裏返して言えば、曖昧な「非決定性」の潜在能力そのものである。区別され、言語化される感情形容詞のヴァリエーションを可能態として保持している、首の座っていない〈叙情〉の幼児期、そこに問題提起を突きつけてみよう。
音声入力もよく使う。iPhone版のWordでディクテーションをオンにし、ざーっとしゃべる。うまく行くと、1500字くらいの小咄ができる。iPhoneを片手に持って、部屋をぶらつきながらしゃべることもある。このスタイルは、昔テレビで観た志茂田景樹のやり方である。テープレコーダーを持ち、立って口述している志茂田景樹の横顔が、なんとも印象深くて、記憶に残っている。
それで先日、仕上がり字数から逆算して、ドラフトの段階でどのくらい「量を出しておけばなんとかなる」のか、というのを考えた。
小説の場合、文芸誌には枚数が表示してあるが、あの数え方がどういうものかは、実際に文芸誌で仕事をするようになって初めて知った。あれは「400字詰め原稿用紙の枚数」なのだが、今日ではワープロで書くわけで、その字数、それを僕は「純粋字数」と呼んでいるが、それとは異なっている。あれは、入稿されたデータを原稿用紙のフォーマットに流し込んだときの、空白部分まで含めての「ページ数=枚数」なのである。だから、文芸誌等で表示される枚数に400をかけた字数は、純粋字数より多くなる。
レンズの下部の度が弱く、上へと度がグラデーションで強くなっていく中近レンズというもので新たな眼鏡をつくることになった。
コンタクトレンズのことも考えなければならない。その眼鏡ができてから、コンタクトをつけて比較すると、近くの文字がなるほど滲んだようになっている。それでお店に行って相談すると、遠近両用か乱視用かどちらかしかないという。僕は乱視が強いので、今までと同じ乱視のレンズで、老眼鏡をかけるしかないという結論になった。
そういうわけで、二週間ほどのうちに眼鏡屋とコンタクト屋を行き来し、ずいぶんと暇つぶしをすることになった。
老眼鏡は、調べてみると英語ではリーディンググラスと言うらしく、その方が気持ちのいい名前だ。せっかくなので、フレームを選ぶのにわざとあれこれ迷ってみたりした。それはそれで楽しみであり、体や環境でメンテナンスしなければならないことが増えるのは一概に悪いことではない。
30代のときには、最も効率的に仕事をしたい、心身の面倒を皆無にしたい、という意識が強かった。40代になると、何かと不調も出てきて、そう急いた生き方はできなくなってくる。以前は、物をあまり持たない方針が強かった。だが最近僕は、物を持つのも悪くないなと思うようになった。それは、言ってみれば自分自身のあちこちがお荷物になってきたからではないか。若いときの意識は高速で、体はあたかも透明であるかのようだった。加齢すると、より時間が意識されてくる。さっさと考えるよりも時間を置いて「考えを寝かせる」ようになり、体は不透明化してその重さを徐々に主張し始める。
そんなふうに、いわば「自分自身の物質性」が前景化してきて、そうなると、あまり生活を効率化しなくてもいいように思うのである。若いときは何を見ても新鮮で、世界は刺激だらけで不安に満ちたものだったが、中年になり、「こんなものか」という見積りができてくると、かつてのような時を忘れる興奮はなかなか訪れなくなる。暇になる。いや、仕事は増えたのだが、時が停滞したような感じがじわっと、肌のシミのように生活に漂うようになる。だから人生はうまくできていて、そうなった段階で、身体や環境のメンテナンスをいろいろやらねばならなくなり、適度に気が紛れるわけだ。
面倒ごとはなければいいと基本的には思うわけだが、人間はだんだん自分自身が面倒ごとになっていく。その面倒は意外に、面白いものではないか。
【宇都宮】宇都宮高出身の会社役員池谷和浩(いけたにかずひろ)さん(44)=さくら市出身、東京都内在住=の小説「フルトラッキング・プリンセサイザ」がこのほど、「第5回ことばと新人賞」を受賞した。今月発売の文芸誌「ことばと」に掲載され、来年には単行本も刊行となる。高校時代から挑戦を続けて30年、ついに実現したデビュー。池谷さんは「面白いと感じるものを書き続けていく」と意欲を語った。
出版社「書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)」(福岡市)が主催する文学賞で、今回は339点の応募があった。審査員は作家江國香織(えくにかおり)さんらが務めた。
受賞作は、映像やCGの専門家として制作プロダクションに所属する「うつヰ(い)」が主人公。多岐にわたるプロジェクトを手がける傍ら、仕事の後には複数の仮想空間を行き来できるテクノロジーを使い、仮想空間内の鉄道各駅にいる「王女」たちと交流するという物語だ。
池谷さんが本格的な執筆活動を始めたのは高校1年の時。1学年先輩で現在は立命館大教授、哲学者の千葉雅也(ちばまさや)さん(44)との出会いがきっかけだった。読書感想文の校内コンクールで、千葉さんの作品に「素晴らしい文章を書く人がいる」と感銘を受け、お薦めの本やアニメを教えてもらった。
それを種として、合理的に物語になるように設計する、というふうには考えない。そのことが惹起する何かを、周囲にクラウドのように漂わせる。
トマトが真っ赤だ。
強い色。
色の強さを、とりあえず言ってみた。ここでのポイントは、こんなことをいちいち言う必要があるの? ということにこだわってみることである。一般的には気にならないことを気にする、というのが文学のひとつの方法だ。
で、「強い色。」からどうするか。強い色を見ると、僕などは、疲れを感じたりする。これも神経質な話ではある。だが、それがその先につながりそうだ。
トマトが真っ赤だ。強い色。疲れる。強い色を見ていると疲れることがある。
こんなふうに続けてみる。冗長に書いている。冗長にすることがポイント。なぜなら、「作品」とは、まず、「一定量があるもの」だからだ。こう言うと身も蓋もないが、「かさをかせぐ」ことが重要で、かさをかせごうとするうちに内容ができてくる。
さて、上の流れをその後どうするか。「疲れる」というのが出てきたので、そこを新たな起点として、展開してみよう。トマトの話は、ここで、いきなりぶった切る。それでいいのである。改行する。
トマトが真っ赤だ。強い色。疲れる。強い色を見ていると疲れることがある。
先週、僕はずいぶん遠くの倉庫まで連れていかれ、その移動だけでも疲れたのだが、そこで行われた荷物整理の作業は、もうただ疲れさせるだけみたいな、いつ終わるのかわからない作業だった。
これは、「疲れる」から連想したことである。ずっと昔に派遣のバイトをしたことがあり、なんとなくそれを思い出した。だが、具体的にリアルな記憶を書いているのではない。まあ、倉庫整理、なんか遠いところ……みたいな連想が、「疲れる」から出てきたので、「ほどほどの具体性&抽象性」で書いている。
そして、愚痴っぽくすることで、長さをかせいでいる。
関西に移ってから11年目のサバティカルということで、今後、どうしていくかなあと考えている年だが、年度末もそう遠くない。まあ、しかし、なるようになる、ということだなあ、と思う。このあたりで区切りを、と思ったわけだが、それも自分に対する管理意識であって、そうじゃなく、管理をゆるめる方向だなあ、と。
小説に関しては、長編を予定していて、話はある程度構成したのだが、どうも、それでそのまま書くというのがあまり……うーん、どうもなあ、なんかなあ、と思っている。構成があって書くのか、即興で書くのかというので、小説に対する向き合い方が変わろうとしている感覚がある。実際には、構成通りにもならないし、純粋な即興もないので、両方なのだが。それに、一方で芸術論があって、同時進行で小説というのはやはり難しい。結果的に、一個一個になるだろうし、その過程で、なにか新たな姿勢ができてくるんじゃないかと思う。
宇都宮高校文芸部からの依頼で、短編を書いた。それは、年明けに、文芸誌に掲載される予定。その短編は、かなり即興的に書いたもので、その流れで、『ことばと』に掲載された掌編を書いた。この二つに、今後の書き方の何かがある。
そして今年、ツイッターがイーロン・マスクに買収されたわけだが、それがあってもなくても、ツイッターと生活の関係は考え直すタイミングだなあ、と思っている。やっぱり、ストレスが増えた。ネットが全体的に2ちゃんねる化した、というのもある。YouTubeも含めて。
個人としてではなく、なんやかんや言っていい「キャラ」のように扱われることが増えた、というのもある。だから、いろんな反応を、個人として受け取る必要はないわけだが、それもなかなか難しい。
僕は、ツイッターを「居場所」として使い続けてきた。しかし、SNSも含めて、この間、ネットのあり方が大きく変わった。
OpenAIは、「検索」というネット使用のモデルに対して挑戦している。ChatGPTは、(サブスクに加入すれば)検索もしてくれるので、間違ったことも言うが、こちらに知識があってチェックできるなら、ちょっとしたアシスタントとして役に立つ。
SNSはどうなるのだろう。結局、SNSによって、「全人類、広告屋」になったわけだ。システムを考えた人々は、それを見越していたのだろうか。僕は、若かったし、そんなふうには思っていなかった。当初のSNSは、居場所だった。リアルではそう会えない人とも、ヴァーチャルに茶の間を共有できるような場所だった。今でも僕はそういうつもりで使っているが、それも難しくなってきた。
インターネットとは、リアルから一時離れられる場所だった。そのことを思い出す。90年代後半、25年前の話である。
ネットはこれからどうなっていくのだろう。だがそれより、抽象的な問いとして、「居場所」のあり方がどうなっていくのか、ということの方が、たぶん、自分にとっては重要なのだと思う。インターネットとは、なにより、もうひとつの居場所だった。あるいは、空間の問題である。住まい、建築、アウトドア、旅行や宿泊。
空間について考えたいのかもしれない。この間、書いてきた小説はどれも、空間の変化に関するものだったとも言えるだろう。
書いているうちに、一種の自動運動のように話が細かくなることもある。それは意志によってやっていることではなく、気がついたら夢中でゲームをやりこんでいる、みたいなことと同じなので、自分に対して退いた視点をとれるようにする。これをこんなに説明する必要があるだろうか、とクールに考えると、意外に、ま、いいか、ということだったりする。
直すときには、Wordの校正機能を使っている。いったん固定された原稿に、上書きしているというのが視覚化されると(直しは赤字になる)、あまりやりすぎないで済む。場合によって、それを何段階かに分ける。たとえば、「キーワードの処理」だけに集中して校正機能で作業し、できたら、いったんそれで確定。ファイルを複製して、次の作業を行う。そのように、画像処理においてレイヤーを分けるようなアプローチをとる。
ところでこの説明だが、「いったん固定したものに、赤字」というのは、まさしく出版における「校正」である。データを出版社に送ったら「初校」が出て、実際の校正が始まるわけだが、データ=原稿を自分でつくる過程においても、「校正的な発想」を取り入れるのがポイントだと思う。レイヤーを分けて推敲するというのは、「校正の意識で推敲する」ということである。
昔は原稿用紙だったので、いったん書いたものに上書きするのが推敲だった。しかしパソコンになって、前のものを跡形もなく消し去って修正することができるようになった。この違いは大きい。デジタル環境でも、何らかの方法で「上書きとして推敲する」ようにした方が、制約が働くために、先に進みやすくなる。
と、書いているうちに「校正論」になってきた。
なお、通常、校正は二回だということも、基準にしている。初校、再校である。さらにもう一回、三校まで直すこともあるが、再校までが基本。
ある作家は、校正をもっと何回も行うというのを聞いたことがあるが(つまり出版社にデータを送ってからの校正段階が、執筆の一部になっているのだろう)、それは例外的だと思う。
それによって書けることの幅が大きく広がった。従来は排除していた雑念みたいなもの、ちょっとした記憶や知覚も文章の俎上に載せられるようになり、そうしてエッセイも論考もより多面的になり、さらには小説世界を作り出すことにつながった。哲学研究においても、枝葉が伸びるに任せるようにアイデアを展開する方法になってきて、様々な論点の潜在的な連関が見えるようになってきた。
この5年で書いた小説は、ひとまとまりの三部作として捉えられると思う。それが成立した今年が2回目のサバティカルであり、そろそろまた書き方の意識をリセットする時期だろうと思っている。また改めて引き算をすることになるだろう。「書かないで書く」というフレーズはいまでも有効だと思うのだが、それをもう一段深く捉え直す必要があるのだと思う。
うまく書かないでいいと2017年にいったん思って以来、生産性が上がったことで、またうまく書こうとしてしまっているはずだ。この間に堆積した、ある種の規範意識の水垢みたいなもの、カルシウムの層みたいなものを砕いて、柔らかさを取り戻す必要がある。もう一度ヘタになる必要がある。
だが、うまくありたいという気持ちを否定するのも不自然である。規範意識から完全に解放されたいというのも、一種の囚われではないか。ヘタでもいいというのと、うまくありたいというのが自然にぶつかるに任せる。自然に書く、それが難しい。
時間をとって、これからの仕事と生き方を考える年にしようと思っていたけれど、実際、「時間」ということが大きなテーマになった。
それはやや不本意な形でというか、今年起きたことの多くは、タイムパフォーマンスを高める方向への変化だった。あるいは、より比喩的に言って、物事の是非を仕分けしようとする傾向。それは、別のことではないと思う。時間的幅をとってものを見ることがなくなっていく時代。それはデジタルテクノロジーによって後押しされていると思う。
業務、倫理、アイデンティティ、すべてにわたる効率化。すぐに結果が出る、答えが決まる。時間をかけて細かな差異を捉え、奥行きのなかで行き来するような思考がだんだん失われていく。そのことがテクノロジーおよび資本制との関係において展開している。そうした意味において今年展開した諸々の変化は、時間という概念と結びついていた。要するに、時間をなしにする、かのような方向へと物事が進んでいるように見える。
個人的には、もっとゆっくりとものを考えたかったところ、時間の圧縮、縮減に関わるような諸現象について考えざるをえないという状況だった。
それでは、皆様、よいお年を。
抽象化というのは、ある種の「形」を取り出すことである。様々なパラメータがある——感情であったり、イメージであったり、色彩であったり、そこになんとなく伴う音響的なものであったり、空気感、触覚的なものであったり。 それらが形成する様々な形。そこには、人間にとって切実な意味(利害とか、愛とか、正義とか)があるものもあれば、それに直接は結びつかないフリンジ的なものもある。
そういうものの一部がとくに面白く感じられ、そこから雪だるま式に何か別のものが派生してくることもある。 そうなったら、その流れに任せて、出発点など忘れてしまってもかまわない。
変換とは、おそらく「隠喩」だとも言える。
ここでは隠喩という概念を、だいぶ広い意味で使おうとしている。シンプルに言えば、それは「何かを置き換えたもの」である。元のものを構成している諸関係をある程度引き継いで、そこに別の諸関係を付け加え、合成するようなものだ。
曇り空を、アスファルトに喩えるとする。なんとなく僕にとって自然に思いつく表現だ。アスファルト、道路、そこに伴っているかつて経験した街で見聞きしたことや、その後どこかの店に入って話したこと、などが引き出されてくる。それは素材となるが、その一部がまた何かのパラメーターにおいて抽象化され、そこから枝葉が伸びてくる。枝葉の展開は、そのうちに、曇り空からもアスファルトからも遠くなるだろう。
ある事柄を別の表現で表すという普通の意味の隠喩ではなく、ここでは、何か出発点に対し、そこから発生してくる構造全体のことを隠喩的と捉えている。隠喩的構造を成立させること、それが変換である。
隠喩というと、「それは何を意味しているのか」、「その心は?」という謎解きが始まるのが通例だが、ここで重要なのは、ひとつの絡まった塊をつくることである。自立した構造としての隠喩。
このことが最も明確に現れているのは、現代詩だと思う。非常に複雑な隠喩的表現を駆使する現代詩において、それが何を意味するかの答えは基本的にない。解釈は多様に可能だが、多様な解釈すら重要ではない。隠喩をそれ自体として、オブジェクトのように鑑賞することになる。
形を、離陸させる。自立させる。それが変換である。
こだわりすぎると開放性が低くなる。人々を招き入れる空間が必要なのだと思う。
『現代思想入門』も、「現代思想の読み方」という付録は、遅れて入稿した。メインの入稿が終わってから気分を切り換えて書けたので、ノリがいいと思う。
さて、最終段階というのは、モードが変わる。
それまで、仕上げの作業として、一日、二日に一章ずつと進めていたとして、そのペースのまま最後に至る、ということにはどうもならない。なんというか、最後の手前あたりで、気詰まりになって、そのまま普通に進むことができなくなる。革命が必要になる。
急に鳴り物が鳴り出し、ピーヒャラピーヒャラいうなかで、「わじゃじゃじゃじゃー」みたいになる。意味不明で申し訳ないのだが。
たいがい、何かを削ることになる。引き算をして、ラストを締める。そして本質的なことだけを、ある種、強調的に書くことになるのだが、その覚悟が要る。僕は小説でも序破急が好きなのだが、仕事の仕方自体がそうで、「破」が起きて「急」でガーッとラストを書くことになる。『現代思想入門』は有限性と生き方の話で終わるが、そこもそういう勢いで書いた。昔の話だが、ネットでさんざん茶化された「アンチ・エビデンス」のラストも同様である。
で、今回はまだ最後の最後までは進んでいないが、その手前のところもワーッと終わすしかなかった。もうちょっと練り上げたい、つながりが十分かどうか確認したい……という執着は、きりがない。この日で入稿です、というのは先方が決めることで、それが決まったなら、こちらは自分を捨てるしかないというか、そのおかげで捨てることができるのだから、救済である。
締め切りとはまるで阿弥陀様じゃないか、と言えば真宗の方々に怒られてしまうが、案外、それは仏教の本質に触れているのかもしれない。「もっとこうなんじゃないか、ああしたらいいのでは」といった迷い、すなわち我執を断ち切るのは、時間的限界であり、そこに仏性があるのではないか、と。仏性とは、時間性の問題ではないか、と。あるいは、精神分析ならば、そこに「去勢」という言葉を当てはめるだろう。
時間の他者性が、我執から身体を引きずり出す——とでも言えようか。
「なに悶々と考えてるんだ、ほら、外を見なさい。時間が経っている。先に歩きなさい」
それが去勢である。
森田正馬は、「迷いのなかの是非は是も非も非」とよく言ったそうだ。迷っている状態では、どんな結論でもダメである。しかし、結論を出すには普通迷うものではないのか。捉え方を変える必要がある。そもそも、結論を出そうとすること自体が迷いだ、ということなのだろう。
じゃあ、結論を出さないで、どう歩めばいいというのか。ただ歩む、ということなのだろう。そのときに、考えるには考えるのだろう。だが、ともかくやるにはやる。結論を出してから、あるいは出そうとしてやるのではなく、やりながら考えて、考えが不十分に思われてもそれでもやるしかない。万全にすることはできない。未来はつねに不確定であり、時間がもたらす世界の新規性をあらかじめ手懐けておくことはできない。
未来とは獣であり、時間とは偶然性の荒地だ。獣のように身体を進める。諦めと勇気が一致する。頭でっかちではダメだというのはそういうことなのだろう。
と、話が盛り上がってしまったが、まあ、こんなふうに最終段階では盛り上がるものなのである。僕はそれを毎回楽しみにしている。仕事のやりがいである。
この話は、ドゥルーズによるカント批判を想起させるな、と思った。
カントは『 純粋理性批判』 において、人間は、感性と悟性と理性でできているとか、悟性にはこういうカテゴリーがあって、それによって感性的にインプットされたデータが仕分けされて認識の意味構造が成り立つとか……そういう言ってみれば人間認識のOSレベルの記述を行った。
で、省略して言うと、ドゥルーズによれば、カントのその記述は純粋なものになっていない、というのである。カントは、経験を可能にするOSを記述したいわけだが、そのOSが経験世界のある種の引き写しになっていて、「OSレベルにはぜんぜん想像もつかない仕組みがあり、そこから「わかる」経験が出てくる」というような見方にはなっておらず、でもOSレベルがどうなってるかって、そうかもしれないでしょ、いわば、「経験的なわかりから推測してわかる部分」なんてないかもしれないよ? というわけである。
僕は以前、この話がピンとこなかった。でも、機械学習のプロセスにおいて意味を量的に成り立たせる「括り」が学習過程で自動的に作り出され、しかもそれは本質的、普遍的なものではなく、おそらくデータを増減したり改変したりしたら括り方は変わるわけで、つまりそれはつねに作業仮説であって、いわば「生成変化する非意味的な作業仮説としての多数の括り」によって意味が生成される——おおよそこのようなことが、経験世界を引き写したものではない超越論的なもの、という話ではないかと思ったのである。
ドゥルーズは、コンピュータを論じていたのではない。まず素朴には、おそらく人間の精神、それは脳の働きだとすると、それは、経験的にわかるものではない動的なカテゴリー編成によって作動しているのだろう、ということ。
加えて、宇宙論的な含意もあるのではないかと思う。そもそも、世界を端的に自然科学で捉えることは、人間的意味理解とは関係ない、いわば「冷ややか」であるような数理として世界を捉えることなわけだが、しかしそこにまだ人間主義が残っている可能性もあるのかもしれない。自然法則に質的意味がないとしても、人はその合理性を理解しようとする。さらにそれ以前の、「合理的自然以前の自然」みたいなものがあるとしたら、どうか——と考えていくと、メイヤスーによる、自然法則全体におよぶサイコロの振り直し、という話に近づいていく。
これは、自然法則の背後にある「世界生成プロセス」みたいな話になるのかもしれない(それが自然法則の恒常性とどう関係するのかは今は措くとするが)。
人間が「世界認識」をどう組み立てるか。そのときに、背後にあるのは意味以前の生成プロセスである。とりあえずそうだとして、「世界自体の生成」を考えてみたくなる。Unreal Engineのようなゲームエンジンがある現代においては、とくに考えたくなる気がする。ゲーム世界を丸ごとプロンプトから作り出す実験も行われているが、その場合、もとになるのは世界の素材となるさまざまな断片の膨大な集積ということなのだろうか。
「世界それ自体の無数のゴミ」みたいなものから、いろいろなことを考え直したい感じがしている。
という大きな視野において、「性の理論」と「ただの生活」はつながっているとも言える。別個の仕事になるのか、それとも書いているうちにひとつの何かになるかは、始めてみないとわからない。
さて、それとは別系統で、長編小説という課題もあり、それは昨年、アイデアをいったんまとめて、休止状態にしている。小説の方も、人間をどう捉えるかという上の話と関係している。
ただいずれにせよ、大学に復帰するというのは、時間の流れが変わるわけで、それにはエネルギーがかかるし、まずは無理せずに、ということだろう。
新たな状況のなかで、何が先に来るのかはおのずと限定されると思う。意識的に予想しても、未来の決定はわからない。想像できるよりずっと多く複雑な関係性のなかで、仕事の展開は限定されてくる。
ジャンルに限らず、こうした書き出しは一挙にやってしまうのがいいと思う。1時間以内、あるいは30分前後。ざっと書き出したら、その日の仕事はもうそれでOKだとする。それ以上やらなくてよい。後日さらに続きを書こうとしなくてよい。この最初のレイヤーは、最初に書き出せただけの量で、それで仮固定。
そこから、次のレイヤーに行く。簡単な方法としては、そのように書き出したものをそのままエディタに持っていき、それを膨らませるようにして、ブロックの間に書き込みをしていく。そのときに、最初に書き出したものの言葉尻を整えるようなことは控える。とにかく膨らませる。説明が前に必要だなとか、ここに伏線を置くおくべきだなとか思っても、そういう構築的意識よりも連想的感覚の方を優先してまず膨らませる。
最初に書いた第1段階の分量があって、膨らませて生じる第2段階の分量がある。まだこの段階でも整理は行わない。おそらく次の第3段階ぐらいから整理する発想が出てくる。補足説明を加え、あるいは係り結びみたいな感じで、後に来る補足説明に対し、前に置いておくべきことを差し挟んだりする。ここから先は、まあ普通の意味でちゃんとした文章を仕上げるという意識になっていくだろう。
最初にごろっと出していく直観的な断片は、非常に栄養豊富なものであって、そこには、後からの分析では自分でも捉えられないような思考の絡み合いがある。最終的に論理やプロットを調整するわけだが、それによって最初にあった栄養の複雑さを損じないように注意しなければならない。だから、整理しすぎてはいけない。とはいえ、整理はする。その塩梅である。
駆けつけて、その日に亡くなってから、すぐに様々な手続きが始まった。その夜は、母のそばには妹と叔母がいてくれて、僕は従弟とホテルに泊まった。翌日、担当者が家に来て、僕が中心となって段取りを決めた。よく言われることだが、急に慌ただしくなるその状況が、喪失に対する治療の始まりである。その夜は、実家に泊まった。
葬儀が終わり、その日のうちに大阪に帰るつもりだったが、まず実家に戻り、一応の「ほっと一息」の状態となって、母と叔母と話しているうちに、話す楽しさも湧いてきて、もう一泊することにした。その流れで、今後の手続きについて相談することにもなったから、やはりそうしてよかったと思う。
大阪に帰ってから諸々の問い合わせなどを行っていたが、思っている以上に疲労しているはずで、こういうときには妙にテンションが上がって、やたらテキパキと事を進めたがる意識が出てるな、と思う。というのは、不慮の状況に巻き込まれた後で、対処をやってのける「主体性」を立てることで、偶然性への埋め合わせをしたいのだと思う。
まあでも、いくつか決めるべきことを決め、一週間目の今日になって、あらためて、素朴な悲しみがまた湧いてきた。そういう気持ちになり、気負っていた体がいくらかほぐれた。
あの土曜日に組み立てるはずだったプリンターラックを、組み立てることにした。
ネジ、ワッシャー、レンチ。
スプリングワッシャーを「間に噛ませる」ことの意味を、ずっと昔に教わったことを思い出す。そして、ネジを締めるときには、一個ずつしっかり締めてはいけない。軽く、緩く締めておいて、全体が組み上がってきてから、力が分散するように締めていき、最後に全部を締める。そのことを思い出した。数年前、文章を書くときにも同じだなと思った。あるいは生活でもそうだ。一個一個のことをしっかりやるのがベストなのではない。緩く締めておいて、時間が経ってからバランスが調整されていく。
実際、ラックの説明書にも、緩く締めて、最後に全部締めると書いてあった。そうなんだよなあ、と思う。
結果として、哲学の訓練をすることになり、ジル・ドゥルーズが専門になった。そうして大学院の年月を過ごした後、30歳くらいに、あらためて芸術作品の批評を書くようになった。そのときには、批評とは何かという当初の問いは、ある程度解決していた。というか、解消されていた。
ここで言う批評とは、学術論文とは違って、証拠を固めるよりも書き手の思考を優先し、何かの対象について主体的に解釈を示す、といったものである。そうしたタイプの文章は、高校時代に、読書感想文という課題で書くようになっており、たとえば、その頃私淑していた稲垣足穂について、自分なりにその魅力を論じていた。けれども同時に、他人が作ったものについて、ああだこうだと批評するのは勝手なことであって、そんな権利などあるのか、という疑問が大きくなっていった。
それで大学に入ってから、客観性が必要な学術研究に対し、批評というジャンルがどのような立ち位置にあるのかを考えようとした。
しかし、それが専門にはならなかった。そうではなく、客観性の保証を与えてくれるように思えた哲学の方へと向かった。だが、過去の哲学者の文章について、何か新しいことを言うのが研究であり、つまり自分なりに解釈を出すということで、最終的にはそれも自己責任だ、ということを受け入れるしかなくなる。先行研究を考慮した上で、という条件はつくが、最後の最後では、学術研究というのも、つまるところ批評的判断に帰着するのであった。
そして30歳になり、芸術なり文芸なりについて批評を書くことを、なんとなく自分に許してしまうようになった。おそらく、学術論文における批評的判断の引き受けによって、批評というのは権利の問題じゃないと、いわば体でわかったのだと思う。先に「批評的判断」という言い方をしたが、結局これは、判断ということ一般の問題である。判断する責任。それを、若い頃には引き受けきれなかったのだと思う。
かつて批評の権利を問題にしたのは、若かったからだ。
何についてであれ、判断は、最終的には自分で引き受けなければならないということを、まだ十分に飲み込めなかったのだと思う。
20代を通して、研究だけでなく、様々な場面での判断を積み重ねることで、判断とはやむを得ない暫定的なものであるということを、いつの間にか受け入れていた。
そして、より広く言って、問題への対処というのは必ずしも、理を通して解決することではないということも、徐々にわかるようになっていく。問題は、解決ではなく、解消されることがある。
『現代思想入門』は、人物を紹介するものでありながら、最終的に、フランス現代思想に対するひとつの見方を提示している。有限性と偶然性というキーワードによってそれが語られるわけだが、もちろん別の解釈もできるだろうし、またあの本で扱ったのは、「ある時期に現代と呼ばれた範囲」であって、過去についての本である。その過去の言説が、現在そして未来にも意義を持つものだという提示の仕方も、一種の思想史的視点だと言える。もっとリアルタイムで、いまフランスで展開されていることを対象とする研究は、もちろんそれとは別に必要である。
『センスの哲学』が出るときに、出版社のやりとりでいろいろが流れで決まっていくなかで、「哲学三部作」という言い方がされ、それは僕の発案ではなく、何々三部作と哲学について言うなら、もうちょっと何か考えたかったなという気持ちもあったが、流れに任せることになった。
思いつくように書く。飾りは、出てくるなら書くが、飾ろうとしなくてよい。
たとえば、「灰色」というイメージから書いてみる。
この町は、全体的に灰色だ。というのは、どこでもそうかもしれない。どこの町でもコンクリートの灰色ばかり目に入る。そういうところに引っ越してきたから、引っ越してきた気がしない。奈津子は、この町で、印刷工場で働き始めた。
紙ばっかり見ているから、町と区別がつかない。工場の中にも住宅街が続いているみたいだし、住宅街も全部、これから本になろうとする紙の束みたいだ。
だから、奈津子は、そこに挟まれた「しおり」になったような気がしていた。
というふうにやってみて、この連想的な展開にも、いろいろあるな、と思う。連想に関して言えば、ともかく、言い訳がましくなく、ただ書けば、フィクションとして成立する。それは文章の場数を踏むことで徐々にできるようになったと思うが、生成AIによって後押しされた感じもある。
場数を踏むというのは、「文章仕事の任意性を高めること」につながる。たくさん書くうちに、この一本に必然性を賭ける、みたいではなくなる。チャンスオペレーション的な面が出てくるし、それによってむしろ、動きがより自由になって、言うべきことが書けるようにもなってくる。
コンビニのパン売り場でクリームパンを見ていて、賞味期限がすぐ翌日なので、これじゃ困るなと思って、その奥にあるやつを取って見ると、数日先だった。手前から取ってくださいと、店のどこかに張り紙があったと思う。でも明日までじゃ困るから、ちょっと気まずいけれど、奥のやつを取ってレジに行った。
無人レジもあって、クリームパンだけなら無人でもいいと思う。だからそれもちょっと気まずいと思ったが、やっぱり人に会計してもらうことにした。
これは、細かいことを書いてみるというパターン。この先で、直接関係がない展開になるとして、それがここで出ているいくつかのテーマ、「期限」、「前後」、「無人/有人」とかに関わってきたり、などが考えられる。
それで大学に入ってから、客観性が必要な学術研究に対し、批評というジャンルがどのような立ち位置にあるのかを考えようとした。
しかし、それが専門にはならなかった。そうではなく、客観性の保証を与えてくれるように思えた哲学の方へと向かった。だが、過去の哲学者の文章について、何か新しいことを言うのが研究であり、つまり自分なりに解釈を出すということで、最終的にはそれも自己責任だ、ということを受け入れるしかなくなる。先行研究を考慮した上で、という条件はつくが、最後の最後では、学術研究というのも、つまるところ批評的判断に帰着するのであった。
そして30歳になり、芸術なり文芸なりについて批評を書くことを、なんとなく自分に許してしまうようになった。おそらく、学術論文における批評的判断の引き受けによって、批評というのは権利の問題じゃないと、いわば体でわかったのだと思う。先に「批評的判断」という言い方をしたが、結局これは、判断ということ一般の問題である。判断する責任。それを、若い頃には引き受けきれなかったのだと思う。
かつて批評の権利を問題にしたのは、若かったからだ。
何についてであれ、判断は、最終的には自分で引き受けなければならないということを、まだ十分に飲み込めなかったのだと思う。
20代を通して、研究だけでなく、様々な場面での判断を積み重ねることで、判断とはやむを得ない暫定的なものであるということを、いつの間にか受け入れていた。
そして、より広く言って、問題への対処というのは必ずしも、理を通して解決することではないということも、徐々にわかるようになっていく。問題は、解決ではなく、解消されることがある。
「よくできてるよなあ」
と、僕は洗面台の鏡を見ながらつい口に出してしまった。
「五つ以外、ありえないもんな」
鏡を見たのは一瞬で、自分の顔だ、と思ってそれだけだった。トイレに行ってから手を洗って、その際に、前に鏡があるのだから見ることになる。
そして視線を落とすと、五つ積み上がっているティッシュの箱は、白っぽい建物に見えた。五つだから、五階建てである。
アパートみたいな建物が足元にあり、それを見下ろしている。
僕はいま、街の上空にぽっかりと浮かんでいて、白いアパートを見下ろしている。どこかにあるはずの体から抜けて、湯気のように昇っていって、上空に浮かぶ魂となっている。そんな、ふわふわするような感じがした。
コロナによって世の中が変わるときに何が動いたかと言えば、テクノロジーだった。と、ここではその角度から振り返ってみたい。ソーシャルディスタンスというかけ声によって、対面接触なしのサービスの提供が追求され、テレコミュニケーションが以前の制約を振り切って、一線を越えて(技術的には以前でもできないことはなかったが)さらに追求された。絞って言うなら、コロナ以前以後とは、オンライン会議以前以後だと思う。それは、世界の無人化の新たな段階だった。
それから3年。感染者数の増減を確認することは減ったわけだが(新たな世界の状態を受け入れるしかなくなったわけで)、それと同時にAIの革命が始まった。
この「革命」というのはレトリックなのだろうか。わからない。革命というのもずいぶん古い概念であって、現下進行している変化の「変化性」を捉える言葉を我々はまだ手にしていないのかもしれない。
今さらではあるが、雑ぱくに言って、2020年代に入り、もはや旧世界ではないという決定的な展開が起きたと感じている。
ウクライナ戦争がコロナ禍の最中、2022年に口火を切られ、世界史のパワーバランスも急激に様相を変え始めた。トランプという信じられない大統領が誕生したあたりから、様々な領域で「一線を越える」事象が目立ち始めたと思うが(その時期、2017-18年に僕はボストンに行き、戻ってから『アメリカ紀行』を書いた)、政治上の新たな脱-均衡、テクノロジーによる資本主義のさらなるブースト、それに対抗する人新世言説、日々細分化が進む倫理のナラティブとそれによる歴史の再-意味づけあるいは脱-意味づけ……といったことの絡み合いは、総体として「革命的」何かが多面的に動き始めたかのように感じている。
ともかく、技術の話だけに限定してみる。ごく唯物論的に。
現在、AIなるものがやっていることは、確率の計算である。文章や画像の大規模なデータから特徴を学習した数値の束があり、それに対してプロンプトと呼ばれる言葉での指示を与える。すると、膨大なデータ=過去の事例のなかで、プロンプトに含まれる単語と高確率で近い関係にあるものを呼び出す、という計算を繰り返して生成物ができていく。
きっかけとなる入力に「近い」ものを並べていくと、それらしい出力になるというわけだ。これは、本当の思考ではないのだろうか。だが、人間にそれ以上の、つまり過去から確率的に近いものを呼び出す以上の思考や意味理解があるのだろうか。
哲学の歴史においては、人間には思考の抽象的な枠組みが備わっているのか、それとも、経験から得られたデータの離合集散で動いているだけなのか、という対立があった。前者が、カントに代表される大陸合理論であり、後者はヒュームに代表されるイギリス経験論である。
大量のデータを計算するチップは徐々に高速化されていった。計算手法の洗練も研究された。結果として、技術的力業によって、経験論的な物量作戦で行けるじゃないかということになったのが今日である。
生身の人間も大量のデータを学習し、見聞きしたものをそのままではなく特徴抽出して記憶している。だが人間は生き物であり、生きる欲望によってデータからの生成が方向づけられる。コンピュータでの生成ならば、どの結果も対等だ。その結果のひとつを選ぶのは、人間の生きる欲望である。
それでも、AIを使ってみることを通して僕は、自分から生成される諸々をより確率的に、いわば「脱運命化」して捉えるようになった。何かを考え始めたり、行動の準備をするときには、頭の中で、言葉になるようなならないような「始動状態」が生じる。それを今、プロンプトのように感じる。自分に対してプロンプトを与えて、それから自分が何を生成するかという二段階の感覚が少しある。
その良し悪しはよくわからない。どちらもある気がする。何か考え始めて、その後に続く連想や行動を、以前より「そうじゃなくてもいい」と思えるようになった。具体的には、自分を責めるようなネガティブなことが思いつき、連鎖的に悪い方向へ考えたりしてしまうことがある。それは、プロンプトに対する生成が悪循環になっただけだと思えば、再度生成して結果を相対化したり、プロンプトを変更してもいいわけだ。
自分自身の意識において、確率的任意性を少し上げる。そうするとラクになる面がある。だが人間には、その生成結果を引き受けること、責任を持つことが求められる。とすれば、人の営みにおける確率と責任の関係はどうなっているのか、という問題が浮上してくる。
学生が特定のテーマに狙いを定め、調べ、考察し、論文を書く。それは以前と同じことをしているように見えるが、当然ある時期から調べ物にはネット検索が入っているし、電子化された資料を扱うことも増えている。そして今後は、AIによる生成や分析が部分的に入ってくることになるだろう。
状況を見ていて思うのだが、学習の元データと生成モデルは概念的に区別されるわけで、あくまでも抽象化された数値列としてのモデルを自由に運用できるようにしていきたいというのが、おそらくもう人類史的な意思なのではないかという流れを感じる。著作物とは何なのかということ自体が揺れている。著作権を固め確保するというのは近代化において重要な一面であり、それが近代的主体性とも結びついていたわけだが。
表示 > テキスト編集 > 垂直レイアウトを使用
このようにメニューの深いところにあるのだが、こうして垂直レイアウトにすると、エディタでも、フォーカス状態のいわゆる構成モードでも、全部が縦書きになる。画面分割して、片方だけを横書きにするといったことはできない。(リサーチのところだけを横書きできたらいいなと思うのだが、それもできない。)
Scrivenerでは、ドキュメントという単位をつないで大きな文章を構成していくのだが、ひとつのドキュメントAを選択し、縦書き表示して、その中で作業をして、別のドキュメントBをクリックしてそこに移り、そしてまたドキュメントAをクリックして戻るとする。そうすると、横書きのときならば、ドキュメントAにおいて最後に編集していた位置がセーブされていて、そこが表示されるのだが、なぜか垂直レイアウトだと、そのドキュメントの一番後ろ、最終行を含む画面へと強制的に飛ばされてしまう。これが問題で、これでは使えないと僕は判断したのだった。
この件について調べてみたが、情報は少ない。おそらくバグだと思われる。だいぶ前に開発元に(もちろん英語で)事情を説明したが、今に至るまで改善されていない。もし、この記事を読んで、同様の報告を上げようとされる方がいましたら、よろしくお願いします。
しかし、Scrivenerはやはり便利で、切り貼りしたり、メモを途中に挟んだりなど、構造を考えながら作業する環境として自由度が高いので、それが縦書きでできたらやはりいいなと思い、ちょっと自分の姿勢を変えてみることにした。
昨日、駅の改札に人がたくさんいた。それは、実際に経験したことである。
それはそうなのだが、その駅に行ったのは、昨日が始めてだった。
だいたい岡山県に降り立つのも初めてで、そのYという駅は初めて聞く名前で、関東人の自分にとって、いくらか西日本を感じさせる漢字の並びだった。大阪や京都に来ると、有名な場所はともかく、マイナーな「地元の地名」には、東の世界では漢字をこう並べることはないな、と思うものがある。
小さな駅だが、意外にたくさんの人が降りた。
二つのものの組み合わせには、ああわかるなというものと、あれっというものがある。まあ、何であれ、見方次第でどっちとも言えるのかもしれないが。
そんなことを電車の中で思っていて、ドアが開いた瞬間、その思念はどこかへ消えたようだった。改札を人の群れが攻め込むようにどんどん通過し、そこに自分も巻き込まれ、汗の臭いを不快に思ったりしながら向こう側に抜けた。それから壁際へと逃げて、立ち止まってケータイを見ながら全員が通過するまで待っていた。
それで足元を見ると、水たまりがあった。何か地図のような形をしている。
それでも、このアウトプットには、なにか触発されるものがあった。この実験をやってみることで、「自分の意志によって物語をひねり出さなければならないという義務感」が薄らいだと思う。
なお、現在であれば、こういうプログラムを作りたいとChatGPTにオーダーしたら、辞書データの準備方法も、メインのプログラムも、適切に教えてくれると思う。
かつて、ラーメンはとにかく東京なのだと、大阪のラーメンへの不満をエッセイとして書いたことがある。大阪の方々には申し訳ないが、僕の感覚からして、大阪のラーメンは甘すぎると当時思った。一方、京都のラーメンはそうではなく、その違いも興味深い。東京あるいは関東は塩味がきついと言われるわけだが、まさしく塩味の芸術として東京のソウルフードたる醤油ラーメンはある。それは直線的で硬質。ラーメンのしょっぱさは、殺伐たる相対(あいたい)を求めるものでなければならない。
以前、大阪のカレーの店に、甘くておいしいと書かれてあり、甘いことがおいしさになるという価値観を当然視していることに衝撃を受けた。
関西の味は、直接的塩気よりも出汁にあると言われたりするが、それでも意外と塩分が強いとも聞くし、ここでその実際を詮索したいわけではないが、ある程度暮らしてみて、これが関西なのかという「味の広がり」を感じるようになった。
和食はやはり関西が本場なのだろう。季節の多様な食材が繊細に取り扱われる小料理を比較的リーズナブルに提供する店は、関西の方がずっと多いと思う。
関東的しょっぱさに比べて、関西の味には「空間」があると感じる。それは洋食でもそうで、京都では、和はもちろんとして、加えてイタリア料理の豊かさも知ったが、そこにもなにか一皿の存在に不可思議な広がりがあると感じる。
空間を食べる。関東の方は、一皿の料理に求心性が強いとでも言えるのだろうか。特徴がはっきりしているといった言い方もできそうだが、他方、関西の料理は、一個のオブジェクトとして完結しているというより、その周囲へと広がり出していく。あるいは、空気を伴っている。
久しぶりに仕事で東京に行って、西に戻ってきて食事をすると、さすがに10年も住んでいるから安心を覚えるようになった。だが、東京のものを食べれば、かつての日常が思い出される。居所がないような感じ。まあ、どちらでもよくなったと気楽に思えばいいのかもしれない。
東京とは、誰もがパチンコ玉のように匿名の粒々になり、無関係の空隙をすれ違っていく茫漠たる空間だ。その寒々しさにこそ東京の美学があり、哀楽がある。僕はそれを愛した。だが、気づいたらその身体感覚も薄らいできている。
東京の食は、個人が個にしがみついて生き延びようとする切実さの味なのかもしれない。やはり東京とはそういう切迫感の場所だと思う。大げさな話だが、関西の味に空間性を見出すとき、僕は、個を我執から解放するようなものを感じているのだろうか。
結果を出す男——は、出す前から出ている。朝起きて、部屋をよろよろと歩くときもそうだし、それからションベンをして手を洗って手を拭いたとき、その拭き終わりからしてそうだ。打ち合わせで喫茶店に来た彼が、僕の前に座ろうと体を席に沈めるときに、すでに結果は出ていた。
この続きを、この淡々とした文体を真似ながら、ややカフカ的とも言えるナンセンスな展開で書いてみてください。意味や目的は明確じゃなくていいです。