★★ 邪馬台国は【葛城】である【6】 ★★アーカイブ最終更新 2019/11/30 19:391.日本@名無史さん邪馬台国は葛城である。 葛城に住んでいたヒミコが判明したからである。 10代崇神天皇がいつごろの人物なのか。 これで邪馬台国論争は終了する。 崇神陵=行燈山古墳=布留1式=4世紀初頭から前半。 2015年久住編年でもこれが最有力。 そして卑弥呼擁立の時代=庄内0式(2世紀末)まで文化断絶がない。 という事は崇神から卑弥呼の時代までを普通に遡れるのだ。 にもかかわらず古代史家、考古学者の誰一人としてヒミコを探そうとしない。 ヒミコは記紀に登場しないという固定観念があるからであろう。 わしは探した。 ほらヒミコもトヨもいた。 ⑩崇神(310年頃 318年没) ⑨開化 ⑧孝元 ⑦孝霊 トヨ津 ⑥孝安 ⑤孝昭 トヨ津 (250年頃)④懿徳 ヒメ踏鞴 ③安寧 ヒメ踏鞴 ②綏靖 ヒメ踏鞴 (200年頃) ①神武 神武から6代孝安まで宮は葛城である。 また神武から孝安まで不自然な事に正后はいても「妃」がいない。 彼らは複数の妃を持つ大王ではなかったのである。 つまり魏志に書かれた女王国とは神武~孝安時代の事であり、 それは葛城王朝であった。 ※考古学的根拠「国宝」中平銘鉄刀・和邇氏の系図は>>2出典 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/15751103912019/11/30 19:39:511すべて|最新の50件
葛城に住んでいたヒミコが判明したからである。
10代崇神天皇がいつごろの人物なのか。
これで邪馬台国論争は終了する。
崇神陵=行燈山古墳=布留1式=4世紀初頭から前半。
2015年久住編年でもこれが最有力。
そして卑弥呼擁立の時代=庄内0式(2世紀末)まで文化断絶がない。
という事は崇神から卑弥呼の時代までを普通に遡れるのだ。
にもかかわらず古代史家、考古学者の誰一人としてヒミコを探そうとしない。
ヒミコは記紀に登場しないという固定観念があるからであろう。
わしは探した。 ほらヒミコもトヨもいた。
⑩崇神(310年頃 318年没)
⑨開化
⑧孝元
⑦孝霊
トヨ津 ⑥孝安 ⑤孝昭
トヨ津 (250年頃)④懿徳
ヒメ踏鞴 ③安寧
ヒメ踏鞴 ②綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) ①神武
神武から6代孝安まで宮は葛城である。
また神武から孝安まで不自然な事に正后はいても「妃」がいない。
彼らは複数の妃を持つ大王ではなかったのである。
つまり魏志に書かれた女王国とは神武~孝安時代の事であり、 それは葛城王朝であった。
※考古学的根拠「国宝」中平銘鉄刀・和邇氏の系図は>>2